哲学屑
ーセブンー
比較的長めの「半」哲学的覚え書き
目次
大学サーバー時代にやっていた半熟哲学雑考をまた始めることになりました。よろしくお願いします。
というと、「どうして以前のはやめたのか」「なぜまた始めるのか」と当然疑問に思われましょうから、ちょっとだけ御説明いたしましょう。
以前の初代「哲学屑」は都合五六個ほど記事があったでしょうか、まぁこの私がやっていることだから煮え切らないものではありましたが、自分ではそれなりに愛着のあるものでもありました。そのいくつかは今でも自分の意見が変わっていなかったりするんですが、自分としてはまぁまぁかななどと思っております。
ところが、これはこれも以前やっていた哲学的SFレビューも同様だったのですけど(こっちの方は復活させる予定は全くないです)、いくつかの記事が私の知らない所で槍玉に挙げられてコケにされるということがどうもあったらしくて、それ自体は「まぁネタになったから、何か貢献したってことかな」と思っていたのですが、そのコケにされていることを暗にコケにするようなよく分らないメイルが来たりして、当時は私もまだ若くてナイーブでしたから、嫌になっちゃいました。で、やめちゃいました。そういう次第です。
なぜ再開するのかという方は「そういう気分だから」と言うしかないです。初代の記事も復活させるべきはさせたいと思っております。
タイトルとして、「哲学屑二号」「哲学屑G」「グレート哲学屑」等も考えましたが、やっぱり愛着のもてるタイトルがいいかということで、こうなりました(週刊誌的な記事を載せるという意味ではありませんので)。十二本目がどうなるかは、乞う御期待。
この項だけ、ごあいさつということでですます体にしました。
初代哲学屑の「テロリストのロジック」でも書いたが、「論理」とすると、自分達くらいの世代は反射的にあるジャーナリストを連想してしまうので、何の影響も受けていないという意味であえて「ロジック」。
も一つ先に、これからマスコミ批判をしようというわけでもないということを断っておく。今どきそんなことを言うほど自分は威勢がよくはない。
まぁとりあえずこれを見てほしい。「…」は引用者による省略。
「紅一点」は美人と、昔から相場が決まっている。…(巴御前、ゴレンジャーなどの実例)
…「Re:Japan」の中で、山田花子はたった一人の女性メンバーである。
つまり、この論理的には全く破綻のない三段論法の結論は、「山田花子は美人である」となる。
読売新聞土曜版2001年5月12日
誤解なきよう先に言っておくが、筆者はこれが冗談であることぐらい百も承知である。冗談に真剣になるのは興醒めなこともあるが、それを分った上で敢て、真面目に検討してみよう。
まず、これが本当に「論理的には全く破綻のない」のかどうか。まさか本当に破綻がないと思っている人はいないだろうが(思っているとしたら、論理的な思考にかなり問題があるか、あるいは本気で山田花子を美人と思っているファンかどちらかであろう。後者はそう問題ないかもしれないが、前者は問題だ)、「どっかおかしいとは思うが、何となく筋は通っているような気もする」という人は案外多いかもしれない。
というわけで、典型的な三段論法というものをちょっと挙げてみよう。比べてみてほしい。
全ての人間は死ぬ。
ソクラテスは人間である。
故に、ソクラテスは死ぬ。
明らかな違いはもちろん大前提にある。「ソクラテス」の方は「全ての○○は××である」と全称命題になっているが、「山田花子」の方はそうはなっていない。三段論法というのは三段になっていればよいというものではなく(「三段論法」というのは語弊が多い表現だから使わない方がよいという議論が実際ある)、大前提では何か「全ての○○は××である」という普遍的な判断が来て、小前提では何かある個別の物事を大前提の普遍的な事態に結び付ける命題が来る。三段論法の性質については色々とややこしい議論があるが、とにかくこれが基本点だというのは確かである。
問題の「山田花子」は大前提の「昔から相場が決まっている」の取扱いがもちろん問題だが、これが「全ての紅一点は美人である」という意味でしかありえないということはない。(しかも、この大前提は色々な実例から導き出されているので、「帰納法」の正当化という別の問題も含んでいる)よって、「論理的には全く破綻のない」とは見当違いも甚だしい。
ちなみに、「ソクラテス」の方も正しいとは言えないという議論がある。これには驚かれる方も多いかもしれないが、「今現在全ての人が死んでいるわけではないから「全ての人間が死ぬ」とは言えないではないか」という見解である。これを突っ込むと色々とややこしい問題がわんさか出てくる。哲学というのはそういう側面ももっている。厳密に考えようとする人はそんなところまで考えてしまうのだ。
それにしても、こういう似而非三段論法はなぜ一件もっともらしく見えるのであろうか。新聞というまぁ大抵の人は大抵の部分を信じるであろうものに載っていたということを別としても。そして、論理派というか屁理屈屋というかはどうして三段構えの理屈をこねるのであろうか。
とりあえずまずこれを御覧下さい。
議論をするとおっしゃっておりますが、これは、できません。できると言うのなら、どのようにしてできるというのか…
[答弁後小泉総理に詰め寄ると]ちょっと、おびえておられたようですよ
議論をなさるというのであれば、私の意見も聞いて下さいよと
辻本清美議院:2001年通常国会衆議院予算委員会
最初に、社民党、つまり旧社会党というのは、自分達が見放されているということにまだ全然気が付いていないようであるし、その理由も分っていないらしい。党首初め、こういう御時世だというのに未だに憲法九条やいわゆる防衛権の問題、首相の発言が女性蔑視だとかそういう問題、そういうことが最重要の問題と言って相変わらず「ダメなものはダメ」と譲らない。支持層はあるもののそれが一昔前と比べて見るも無惨なのに「我々は支持されている」。これでは、イメージ戦略とか人気優先とか言われはしているが、庶民感覚を押し出す小泉政権に太刀打ちはできまい(大坂弁を使えば庶民感覚になるという、まるで大坂弁さえ使えば「本物の笑い」になると思っている場末のお笑い芸人同然の神経よりはよほどましだろう)。かつてのように自民党が国民の怒りを買うことをするのを待つだけだろう。そして一時的には批判票を集めるがまたすぐに自民党に圧倒されるのだろう。
さて、野党的といえば典型的なのだが、この議院の態度は一件筋が通っているようで実は全然そうではない、そしてそれを何か別の力によって押し通してしまっている。要するに「テロリストのロジック」に他ならない。
要するにこの議院の態度は
民主主義なのだから議論をしろ。
議論をするからには私の意見も聞け。
しかし、あなた方の言い分は聞かない。
なぜなら、あなた方の言い分は間違っているから聞く必要はないからだ。
(というのも、小泉首相は集団的自衛権の問題について考えていない(ように見える)から、彼の見解が正しいということはありえない)
よって、私の意見が通る以外に正しい議論はありえない。
というふうに図式化することができると思う。
この議院を応援している人々は何をもって彼女の見解を正しいとしているのか分らないが、少なくともこの図式においては「何が議論であるのか」「(この場合集団的自衛権や安全保障・憲法第九条などの問題について)何が正しいのか」という問題が未決定のまま前提されていて、その曖昧な事柄についてそれが曖昧なまま議論がなされている、ということは分ると思う。つまり、一定の観点(恐らくはこの議院の思想)を前提としないと、正しいとはいえない。そしてそれを色々な手段でごまかしているのだ。
もう一つの問題点は、議論をしろと言いつつ、相手には自分達の意見を聞き入れるように要求してそれを議論と言い、自分達には相手の意見を聞入れなくてもそれが議論であると言っている点である。もちろんこれは公平ではない。そしてそれを正当化するために「少なくとも自分達は問題について考えているが、相手側は考えていない」という内容を盛り込んでいるのだ(とにかく考えていさえすればそれが正しいということにはならない、ということは隠しつつ)。要するに、「俺達はお前達よりも上だから、俺達の言うことを聞け。お前達の言い分を聞く必要はない」というわけである。
そして最大の問題点は、自分達のからくりが通じないと見るや示威行為に及んだということである。さすが、支持層が労働団体だというだけあって、デモ行為は得意らしい。欧米礼讃のつもりは全くないが、この議院は英国議会について勉強したことがあるのだろうか。
「一応聞くだけ聞きましょうか」ということはよくあるしそれが致し方ないこともあるが、「議論をしよう。しかしお前達の言い分は聞かない」というのは自己論駁的ですらある。一方的な決着を「示談」と呼ぶようなものである。
このように、言葉の意味以外のものの力によって発言を封じる、もしくは意味の定まらない要素を制御する働きのことを自分は「893効果」と呼んでいる(読み方はまぁお好みでお呼び下さい)。
それにしても何が「おびえておられたようですよ」だか。「いや、脅かしたんではなくて、意見を伝えただけです」とでも言うのであろうか。以前「殴ったんではなく、どついたんです」と言ってのけた拳闘家がいたが、関西というのはこういう体質があるのか、という印象を植え付けても仕方あるまい。
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