姉妹が同一人物に恋し、妹に「譲った」姉が久々に妹夫婦、つまりかつての恋愛対象とその恋人に会う
というただそれだけではあるが、それがまるで映画のように劇的に描かれている(なるほど実際ドラマ化されたことがあるらしい(残念ながら未見))
こじんまりした佳作でとても面白く読め満足感が得られるが…
どうしても…これを書いたのが芥川龍之介ということで、初期の大傑作と比べると… となってしまうのは…やはり芥川は悲劇的な作家だったと言わざるをえないのかもしれない…
繰り返すが…決して悪い作品ではない… むしろ、作家志望者がこんなのをいきなり書いてきたら褒めなければならないだろう… だが… だが… 難しいものである…
どうやら芥川龍之介という作家の作風の転換点ともなった作品のようである(本人も出来には満足していたようである)… しかしこの箱庭というか懐石料理のような佳作が晩年の「文学的」でない作品群、そして自死への転換点でもあったのでは… と考えると… 何とも言えない…(56)
芥川自身らしき人物の半生を綴った一連のスケッチ
がパラパラと並んでいるが、スケッチや着想のようなものにどれも留まっており、それがかえって紙芝居か何かのようで、これはこれで案外楽しめる。しかし、やっぱりこの期に及んでの気取りや、堕落していく自分を自分で哀れんで喜んでいるようなナルシズム、そしてふしだらな衒学趣味や、個人的な当て擦り(まさか、どうせ自分は死ぬから、などと思っていたのじゃないだろうか)満載で、やはり天才作家の哀れな末路を嘆かずにはいられない……
これを煮詰め、書き換えてまともな作品にする力があれば……と思わざるを得ない……(44)
「討ち入り」後細川家に「預かられ」た状態の大石内蔵助が、討ち入りの影響や「外野」からの評判を聞いて物思いにふける
のが、内蔵助の実の思いをはっきりとは表さないで、それこそ映画の一シーンのように描かれる
芥川中期の作品にはこのようにまるで映画の一シーン、あるいはもっと一カットを取り出してそのまま作品にしたようなものが見られるが、この作品は「戯作三昧」と同じ年の、つまりは「初期」の作品である
しかし、大石内蔵助を題材としながら敢えて討ち入り後・切腹前を描き、しかも主人公の内面ははっきりと描き表さない…など、いかにも芥川龍之介らしいヒネクレ具合と思わされる
結局「放り出される」ので読後感は何ともモヤモヤするが… 芥川のひねくれた手腕を味わうには十分であり、大河ドラマの一エピソードのように楽しむこともできる…
が… 正直「もっとさらにどうにかなったんではないか?」と思わないでもないのが… やっぱり初期の傑作群が良すぎるのである… 何となく芥川の苦悩が推し量られるような気がしないでもない(55)
謎の声と芥川自身との対話
が対話篇形式で綴られる。有名な「蝿を飲んで自殺しようとした」エピソードが書かれていたり、作風を「盗んだ」こと(盗作という意味じゃないだろう)が告白されていたりして、史料的な価値はあるが、かつてプラトンばかり読んでいた評者には対話篇としての価値は全然ない。芥川自身の苦悩は分るのだが、それすらも何かポーズのようなものに包まれているようで、今一つ伝わってこない。三島同様、心底からの理解者に恵まれなかったのが悲劇だったのだろうな、ということは何となく分るのだが……例によってニーチェ等々借り物が多くて安っぽいのはたまらなく興醒め。
必死に書く意欲を鼓舞しているのは分るのだが……という哀れな作品……(46)
たまたま河童国に落ち込んで見聞し戻って来たと称する狂人の旅行譚
が、コミカルな調子で綴られ、結構笑える。「河童語」も面白い。しかし、芥川だから読めるんであって、素人が同じものを書いただけじゃ誰も読まないだろう。大体、個々のエピソードがバラバラに並んでいるだけにしか見えない。少なくとも何か一貫したものがあるようには見えない。哲学臭さは今となっては失笑するくらい浅い(ただ、聖書のパロディは面白いが)。文明批評としても気取りやカッコつけばかりが目についてやはり浅い。もっと面白いかと思っていたので、結構がっかりした。
どうでもいいことだが、今回評者が読んだ版(青空文庫――デジタル化の底本は旺文社文庫)は「全集」版とは細かい所が案外違う!(とは言っても漢字か平仮名かの違いや、ルビの有無程度のことだが……)色々な文学全集を見ると、どれもこれも底本を明らかにしていないばかりか、ひどいものになると勝手に色々変えていたりする(某S社のものなどは愕然として呆れたことがある)。こんなぞんざいなことで今までよかったのだな……いや凄い世界だ……
晩年の作品ではいい方だと思うが、それでこれだ……落胆を通り越して哀れになる(55)
倫理学者が訪問者から衝撃的な告白をされる
とにかく、この謎の訪問者の告白内容が衝撃的である… この作品はほぼそれで持っている…
芥川の小説を評して「人生を弄んでいる」と言ったのは確か菊池寛だったと思うが… まさにそうした芥川の本領が発揮された作品だと思う
小説としては(後で述べるようなあからさまな「作為」は別として)それほどの劇的な工夫はなく、その辺はやはり「羅生門」等に比べると…と思わされるものの… 内容の衝撃度ではそうした代表作に匹敵するものを持っている
大学の哲学講座で読ませるべきものかもしれない… 哲学科出身の評者・私が芥川にこのような作品があることを今まで知らなかったのが不覚であり残念である…
哲学科出身者の贔屓かもしれないが、芥川の隠れた傑作と言いうるかもしれない(70)
さて…余談であるが… この作品については、読んだ誰もが抱くはずの疑問点がある… つまり作品中盤にある「省略」箇所であるが、これは作者芥川自身が始めからそう書いたものらしい(検閲などで後から省略されたものではないらしい…)… その箇所には始めから何も書かれていない…ということである… 芥川の諸作品には「敢えて書かない」「読者に想像させる」という手法が冴えているものが散見されるが、その最たるものと言えるかもしれない… いわゆる「ネタバレ」はこれでも用心して慎んでいるつもりであるが… モヤモヤしてわざわざ調べてしまう人が出るかもしれない(しかしネットで検索する程度ですぐ分かるのではあるが…)と思い、敢えて記す次第である…
童話的な体裁を取った作品をまとめたもの。短編集をどう取り扱ったものか、それはまだ検討中で正直どうしていいのか分からない所もあるのだが、差し当たり今は「一冊は一冊」という扱いにしておく(作家本人が一まとめにしたものか否かに関わらず)。
さて、私の芥川評が「ひどい上から目線」だという意見をふと目にしたので(しかし私は面白くないものを面白くないと言っているだけなので(しかもなぜ面白くないかもできるだけ説明しつつ)、それを「上から目線」などと言われては、では面白くないものを「いや他ならぬ芥川龍之介サマの作品なのだから面白いはずだ!面白いと思えない私が悪いんだ」とでも思わねばならないのか?という話になってくる。まぁ好きなように言っててください)、何か認識が変わるかもしれないと思って読み返してみた次第。
結論から言うと、ちょっと評者私の芥川に対する印象は回復した。表向きは子供向きの童話という体裁を取りながら、絶妙にひねくれた「黒さ」が効いていて、何とも言えないモヤモヤした気分に読者を叩きこむ力がある。今風に言えば「胸糞」な内容もあるものの、単なる不愉快さに堕さないギリギリの線が保たれていて何というか屈折した心地よさを味わえる。
これは多分芥川がまだ「借り物」(ニーチェとか)に頼らずに自分の世界を展開できたからではなかろうかと、思ってはみたが…いくつかの作品は評者が明らかな駄作とみなす作品と全く同時期に書かれているので、だったらこの違いは何だ?と思うと、そこもまたモヤモヤする… しかし、私は芥川研究者ではないので、面白いものは面白い、つまらないものはつまらないと思って喜んだり腹を立てたりしてばかりいても許されよう。
例によって;◎「猿蟹合戦」、◯「蜘蛛の糸」「仙人」「白」、◯かつ×「魔術」、「モヤモヤする」という意味の印「犬と笛」「トロッコ」、×「蜜柑」残りは無印;「魔術」の「オチ」は「ない」!
評者の芥川観を多少回復させることにはなったが…「この程度か」って印象はまだ拭い去れないなぁ…(60)
死に瀕して慌てる画家兼実業家にまつわる人間模様
が初期の芥川を思わせる悪意満点の設定とネチネチした心理描写、おまけにいかにも芥川なわざとらしい仕掛けとともに描かれて、何とか芥川の面目を保っている。しかし、初期の鬼気迫る作品と比べるとやはり迫力不足は否めない。妾絡みのゴタゴタや、意図的に家庭に波風を起こして楽しむ手伝い女といった展開もどこか取ってつけたような浮いたものになってしまっている。ただ、主人公が死を恐怖しつつ待ちわびる心境は上手く出ていて、当時の芥川の精神状態を考えると何ともいえない……
何とか芥川、というか小説になっている作品(51)
芥川自身(らしい)の中国旅行記。
一体何が言いたい作品なのかさっぱり分らない(大体これは小説なのか? 何なのだ?)。これのどこがよくて何が面白いのか分る人がいたら是非教えてほしい。残酷さが滲むエピソード等も、彼自身の初期作品のような鬼気迫るものはなく、芥川ともあろう者がおかしな抑制の中でウロウロしているだけ。面白いとは一つも思えなかった。ただし欠点もない。洗剤の嵩増し剤のような作品に過ぎない。
何の意味があるのだろう? 素人が堀田善衛の真似をした作品だと言えば、知らない人なら信じるだろう(20)
維新史の研究者が「西郷隆盛は生きている」と主張する人物に出会い「西郷隆盛」とされる人物にも会う
という、何と大正時代に書かれた今風に言えば「トンデモ小説」である
「戯作三昧」と同年、つまりは初期の作品であるが、なるほど芥川らしい意表を突く人を食った 内容と展開で、短編映画のような趣がある(映像化の情報は評者・私は寡聞にして知らないが…NHKの深夜ショートドラマ枠で流されても面白そうだと思わせてもらえる…)
「敢えて書かない」という何とも意地悪いテクニックも冴えていて、心地よくモヤモヤさせてもらえる(何だか妙な感覚だが…それも純文学の一つの醍醐味でもあろう…)
学者みたいなことを言うのも興ざめだが… 歴史学における「史料」の価値ということをちょっと考えさせられるよすがにもなって面白い(たとえば、今日でも「歴史的人物の声を直接代弁できる」と称する人々が後を絶たないが、そういう方々をどうやって否定すればいいものなのであろうか?(あるいは実はできないのかもしれない!))
芥川の隠れた名作にして「トンデモ文学」の源流としても貴重な作品(66)
芥川自身(だろう)がタイトル通り蜃気楼(らしきもの)の見える浜辺を歩きながら色々思う
のが例によって半分随筆みたいな筆致で中途半端に描かれるだけ。何とか小説になっているが、いかにも小説らしく作ってみましたというのが見え見えで、やっぱり「これが芥川か……」と思わざるを得ない。どことなく無気味な雰囲気が漂っているので期待させられるだけに残念。途中、明らかにふざけた(としか取れない)箇所があって腹が立つ。
もう晩年の芥川を読むのはつらい……(45)
生家の貧乏の為にひねくれまくった嫌な小狡賢いガキの半生(未完)。
主人公の鬱屈はよく描けている。特に「牛乳」の章はいい。しかし、表現が固い。いかにも作ったという文体で楽しめない。梶井基次郎の下手なコピーという雰囲気だ。ニーチェの影響は今となっては陳腐で笑止。文学があれこれ引かれるのも白けるだけ。挙句の果てにそれほど盛上がることもなく中断。この調子で続けるとか書かれているが、やめてほしいものだ。主人公がひねくれた秀才になったあたりからはたまらなく退屈。
芥川もずいぶん久しぶりに読む。晩年の作品がひどいとは聞いていたが、これほど悲惨だとは思わなかった……(42)
芥川らしき主人公が死んだ家族について色々思う
だけの例によって小説だか随筆だか感想文だか覚書だかわからない代物。書き出しが強烈なのでちょっと期待するのだが、またしても裏切られる。誰かこの作品がどのような文学的価値を持つのか教えてくれ(もしあるのならば)!
芥川の伝記的な関わり以外のどんな意味があるのか(12)
芥川本人らしき男が漱石の墓を訪ね、何かちょっと色々ある
それだけの話。小説どころか随筆にすらなっていない。特に、主人公と一緒に墓参することになる「K君」(しかも漱石の愛読者という設定)は「こころ」を連想するなという方が無理。何でこんな安易な設定をして、しかもそれを全然生かそうとしなかったのか分らない。一体何なんだ。どういう文学的意味があるのか誰か教えてほしいものだ。勘違いしてこれを見本に掌編小説を書いたりする素人が出たりしたら有害であろう。
小説だかエッセイだか独り言だか分らないものを垂れ流す作家は今も昔も多いが、その元祖がまさか芥川?! 信じたくない! 若かった頃の俺を痺れさせた天才作家芥川竜之介を返してくれ! と言いたくなるほど酷い代物。気に入らないものをけなすというのはやめたいものだと自分でも思っているが、こんなものを「昭和文学全集」に収録するのはどうかと思う。編集委員(中村光夫まで入っているのに!)は何を考えていたのだろう……(16)
死にとらわれ被害妄想に陥った芥川自身の妄想ないまぜになった最後の心境
なのだが、あぁこれはもう本当にダメになっていたんだな……という心境にさせられる。さすがに鬼気迫る雰囲気が伝わってきて、残念ながら(不本意ながら、である!)ここで「昭和文学全集」に収録されたほとんどの作品をボロクソに言ってきた評者もそれは認めるのにやぶさかではないが、それでも今一つだと言わざるを得ない。大体、「歯車」が生かし切れていない。もうちょっとだけでも上手く使えれば……と思いながら読み終えた。最後は全く書き足らなく、本当にこれ以上書けなかったのかもしれないと思うと何とも言えない……被害妄想丸出しなのは評者も被害妄想体質の人間なので別に「お前もか……」と思うだけだが、文章にも悪い影響を与えているように思えてそれは哀れになる。芥川にしては文章もボロボロな所が散見されてがっかりする。
「もうちょっと……」と思うのもやりきれない残念な作品(48)
芥川自身らしき人物が汽車の二等客室で汚い田舎者の女子に出会う
一幕がそれこそ映画の一カットのように描かれる
ネタバレはこれでも一応慎んでるつもりなので「結末」は伏せておくが…起承転結の効いたまるで四コマ漫画のような掌編である
ただそれだけである…
しかしただそれだけをこうして後世に残る作品にできる手腕はさすがと言うべきかもしれない
本当にどうでもいいことだが… 芥川はよほど「二等客室」に何かこだわりがあるようだ(他の作品でも汽車に乗ると大概「二等客室」である…)
芥川中期に散見される「ただそれだけ」の作品群の一つである 割と「なんでもないこと」をここまでの形にできるのは、やはり才能はあった方だったのであろう… 「自滅」がやはり何とも残念である…(50)
さて… 「この問題」を考える時になってしまった… この「蜜柑」という作品はここでも一度短編集の中の一作品として評したことがあるはずで、再読したからといって、はてさてどうしたものか?と迷ってしまったのであるが… 差し当たりは「一冊は一冊」「一作品は一作品」としておこうかと思う…(というわけで、同じ作品が複数の個所で評されているという現象がこれからも起こるかもしれない(すると…その評価が矛盾しているということも起こり得るわけで… これはいつかどこかで検討しよう…))
もう一つ蛇足 このくらい古い作品になるともう「本文批判」の問題が出てくるということに気付いて「ふむ…」と思った… つまり、主に漢字のルビなのであるが、出展によって微妙に違うのである… 幸い内容の理解に影響のあるレベルではないが… 面倒だな…と思った…
「なぜファウストは悪魔に出会ったか?」「なぜソロモンはシバの女王とたった一度しか会わなかったか?」「なぜロビンソンは猿を飼ったか?」の三つの問いが掌編小説とも童話ともつかない筆致で論じられる
のだが、中途半端。最初二つは何とか作品になっているが、最後はまるで意味不明。元天才が必死でもがいているのが分ってその点だけは面白いが、作品としては「つまらん」の一言。
独り善がりの訳の分らない謎めいたことを書きなぐって「天才ごっこ」に浸る作家も今なお少なからずいるが(例えば栗本薫/中島梓。ごく最近の例を挙げると桐野夏生や平野啓一郎にもそんな所があると思う)、この系譜の最初も芥川か?! 信じたくない……
それにしてもこの作品に一体何の意味があるのか?(21)
「さん・せばすちあん」なる天主教徒を一応中心とする様々なイメージの垂れ流し
が副題の通りシナリオ風に綴られる。唐突なイメージ転換や何の脈絡もない変身が頻繁に捩り込まれ、正直言って何が何だか訳が分らないが(ストーリーなんかあってないようなもの)、前衛的なビデオアートを見ているような雰囲気で個人的にはこれはこれで結構楽しめる。横光利一の「蝿」を連想させるが、こっちの方がイメージの奔放さや表現の過激度では全然勝っており、さすがは芥川だと思わせてもらえる。「蝿」も読む度に常々そう思うが、これをそのまま映像化したら結構面白いのではないかと思う。ただ、「あぁこれはニーチェだな……」という表現がやっぱり散見され、その点は折角の雰囲気が台無しになって面白くない。精一杯頑張ってこれだったのかと思うと、天才作家の末路を見るようでつらい。
『昭和文学全集』だと「河童」の次にようやく「ああこれは芥川だ!」と思わせてもらえる(57)
遺構としてして残された数々の箴言
またニーチェかよ! 衒学的なハッタリも興醒めだし、過剰な漢語がいやらしい。妙に身近なものを引き合いに出した所はちょっと面白いが、全体に大したことなく、哲学的に面白い所もあるだけに残念。とはいえ、哲学に「こういうものだ」という印章を植え付けた罪は重い(「哲学をすると自殺する」というアホな迷信を日本人に植え付けた張本人の一端を彼とこの作品が担うのは間違いない)。死を決意した人間の鬼気迫る洞察か何か拝ませてもらえるかと思うと、天才作家の燃えカスと倦怠感とゴマカシが並んでいるだけ。しょうもない。おまけに昭和文学全集は誤植がひどい(数的には少ないが内容的にあまりにもお粗末でこれは間違いなく恥だ)
ひどいなぁ……最期がこれじゃ浮かばれまい……(40)