やってみて分かったこと
「ホンの出来心」から「本家」のマネをこんな何の資格もない人間がやってみようとして… それでも随分長いことかけて、作品数だけはちょこちょこ増えてきた… と思う…
そして、実際にこういう営みを続けてきて、その中で分かったこともある… ので、それをちょっとまとめてみようと思う…
(このコラムの中で何かを評するということはないと思うが「一人称」は「本文」と同じく「評者・私」(つまり、今これを書いている人間のこと)としておく)
目次
このような営みをしてきて一番よく分かったのが、他ならぬこのことである…
だったら、このサイトからこのコーナーを消してしまえばいいではないか… そう言われるのはごもっともである…
(実際、この「電脳機械通信」というまさに「拙」ウェブサイトも随分長いことダラダラとやってきたけど… 消えたコーナーや内容というのはいくつかある…(それが具体的に何かということはここで触れる必要はないと思う…))
しかし、今すぐにそうしないことには、ちょっと理由があって… それは後で触れる…
(私自身に分かる自分自身の行動パターンとしては… この営みに興味がなくなって更新が長期に渡って滞り、何かのきっかけでなくなる…(それはこのコーナーの消滅かもしれないし、サイトそのものの消滅かもしれない(今御厄介になってるtripodサンにしてもいつまでこんなことさせて下さるものか分かったものではない…)))
相変わらず、前置きが長い… 本題!
取り上げる作品が増えるに従って、評者・私自身もある破綻を認めざるを得なくなってきた…
その破綻には二種類あって… 一つには評価そのものの破綻、もう一つは評価同士のの間の破綻である…
つまり、段々大きくなっていくコーナー、なかんずく百点満点評価を並べたランキングを眺めて、他ならぬ評者・私自身が「この作品がこんな評価なわけがない!」「何でこの作品があれよりも上なのか?(下なのか?)」と思うことが多々出てきたわけである…
(さらに身も蓋もないことを言えば… 「何でこの作品にこんな点数を付けたのだろう?」もっと言えば「これがどんな作品だったか全く思い出せない…」ということも多々ある…)
率直に認めよう… これは紛れもない破綻であり、私の敗北であり、私にこのような営みをする資格がないことの証左である…
では、このような営みをする場合に要求される「資格」とは何か?
「本家」は、もちろんその資格があると世間でも認められている方によるものであるから、そんなことは問題にならないわけである…
(福田和也サンはともかく、小川栄太郎サンという方については評者・私は恥ずかしながら実はどういう方なのかよく知らないのであるが…)
(このコラムに関しては全くの余談であるが… 昨今の文学賞受賞作品には読むに堪えない質の悪い作品があふれているという小川氏の憤りは全く同感する所である…)
そこで、何の資格もないこの評者・私が無謀にもこんな営みを続けてみて分かったことを挙げてみる…
思うに、「このような営み」をするには…
@もちろん、内外の小説、いやもっと、文学作品全般に精通しており
A自身の小説観が既にある程度定まっており
B対象とする全作品を比較的短期間中に読み通せる力量がある
ことが必要である…
何を当たり前のことを?! と言われるかもしれない… 全くその通りである… しかしされど…である…
評者・私は、こう言っては何であるが、そこそこ良い大学の文学部を卒業しており、専攻は哲学であったが、そこそこ文学の授業も受け、特に専門分野の関連から西洋古典文学に関してはそこそこ読んでおり、一般人と比べれば十分能力は優れているはずである…
(このサイトの別のコーナーで所々全く恥ずかしい限りの恥を晒していることに関しては… ここでは目をつぶって頂きたい…(翻訳が「信頼できる」ものではないとかいうレベルではなく例えば音楽評論家が「シューベルト」と「シューマン」を間違える級の「恥」のことである…))
なので… 「本家」のように一冊の書物にまとめて売れるというレベルの完成度まではいかなくても、正直そこそこ「できる」と思っていた…
しかし… 予想外であった…
実際、作品を次々に読んでいき、内容が増えていく過程は楽しかった… そして、多くのウェブ製作者やブロガーに共通する喜びだと思うが… そうしてこのコーナーが充実していくのを見るのは嬉しかった…
その反面… 自分に足りないものが次々と、しかも突きつけられるような形で浮き彫りになってきたのもまた事実である…
つまり…
「このような営み」には、迷いやブレがあってはならないのである…
読んだことのないタイプの作品に一々うろたえていてはいけないし…
(つまり、ありとあらゆる作品を読んだことがなければならない…
ここで、評者・私はある韓流ドラマで放送作家志望者が数日で世界文学全集的なものを読破することを課題とされていたのを思い出す…)
何とも評価しようのない作品を読んでどうしたものか困っているようでもいけないし…
もちろん、評価内部に齟齬や矛盾・ズレがあってはならない
(世評とのズレはあまり気にする必要はないと思うが… 実際両「本家」ともそれはあまり気にしてないように思う)
そしてそのために恐らく「この営み」を比較的短期間になさねばならないと思われる
(「本家」のように一冊の書物にして売るということになれば、当然量的制限と「締め切り」がどうしても出てくるから必然的に制限がかかるはずではあるが…)
というわけで…
どれをとっても評者・私は失格である…
一々うろたえ…困り…苦し紛れの点数を付けてはそれが後に齟齬をきたし…そして、素人が長い期間かけてやっているので評者自身の文学観・小説観も変わっているし、個別の作家・作品に対する見方・評価も変化してしまっている…つまりブレている…
評者・私に「このような営み」をものす「資格」がないことは、自分でも認めざるをえない…
「このような営み」をするにはとんでもない文学的素養・能力と蓄積、恐らくそして既に確立されてもはや揺るぎない文学観・小説観が不可欠である
つまり、とんでもない文学的才能と労力がある人にして初めて「まともに」やりうることなのである…
ではそんな「有資格者」はどのくらいいるものであろうか? と考えると… 少し希望が湧いてくる気がする…
完璧な有資格者なんてほとんど存在しないだろう!と思われるからである…
完璧な有資格者が存在するとしたら… それは文学に関してはほとんど「全知全能」と言って間違いではない存在だと思われる…
そのような人物が現実にいるとすれば、その方の評価を聞けばそれで十分であろう…が、
言うまでもなく、そのような人物は現実にはいないと言わざるを得ない…
(仮にいたとしても、そのような人物には是非もっと「なすべき」仕事をして頂きたいと評者・私も思う)
そこで…
どうせ、「完璧」が(事実上)あり得ないのであり、もちろん程度の差は多々あれども、不完全な者が不完全な事をせざるを得ない、ということなのであれば、こうも言えるのではないか?と…
つまり、たとえその資格のない者でも「このような営み」をすることには何らかの意味があるのではないか、と…
現に、評者・私も、否定しようもない事実に打ちひしがれながらも、いまだにこのコーナーを閉鎖せずちょこちょこ続けているわけである… それもそう思ってのことである…
いやそれどころか、小説など全く読んだこともないという人が「このような営み」をする、ということがむしろあってほしい、是非それを読みたい、とすら思うのである…
(「今風」軽薄な表現だが)逆に言えば、例えば「本家」の方は既に文学観・小説観が固まった専門家、(厳密に言えば完璧とは言えないのかもしれないが…)有資格者による、それこそ「上から」の評価・評定であって、そこには「動き」が無いとも言えるが、
素人がやれば、そこに発展というか成長というか、とにかく何か「動き」が出てくると思われ、それはそれで面白いのではないかとも思う
(「そんなものはあってはならない」「そんなものを読みたいわけではない」という意見ももっともであろう… 特に「本家」のように一冊の書物にまとめて売ろうという場合には、まして「本家」は「ブックガイド」をうたっているのであるから、なおさらであろう)
それに、これは「この営み」を始めた時に評者・私が是非やってみたかったことであるが、この「私家版」は取り上げる作家に限定をかけずに、平たく言えば、評者・私が読んだ小説は片っ端から全部俎上に載せている
(これは「本家」ではできまい…)
(そんな節操ないことをしていていいのか?という疑問・お叱りを受けることは、もちろん覚悟のうえである… 評者・私としても、もうちょっとテーマにそった充実をさせても…と思う所はないわけではないが…色々と難しいのか現実である…)
「本家」は同時代文学評という性格が強く、そのせいもあって、取り上げられる作家・作品があれでも割と厳しく制限されてしまっているが、それを日本文学全体、いやあわよくば世界文学全体に位置付けてみたいとも思ったわけである
(もちろん、それが評者・私などという一素人にできることか… という問題はいつまでも残るとしても…)
というわけで…
評者・私に「このような営み」をものす資格はない、ということは誠に遺憾ながら自分自身認めないわけにはいかないものの、しかしながら、非資格者が「このような営み」をものす意味は何かある可能性もある… と言いたいわけである…
(「ぶっちゃけた話」… どこかが「この営み」をやめるように圧力をかけてくる、ということは、あまりありそうではないが(「本家」の出版社とか… 「作家の値打ち」というタイトルは外せ、くらいは言ってくるかもしれないが… 何にせよあまりあってほしくはないものである…)… どこかでこっ酷く「ディスられ」てあっさりやめてしまう、ってことの方が意外とあったりしてな…)
そもそも、小説の評価というのをどうやったらいいものか、そんなことを明確に学んだことのある人というのはかなり稀有ではないかと思われる…
(音楽大学の学理科にあたる学部・学科が文学部にあれば文芸評論家を養成する目的でそんなことを教える、ということがあるかもしれない…(それが良いことか悪いことか…意味があるのかないのか…は別として…))
まして、それを百点満点で行い、それを小説全体に遍く(「すべからく」ではなく)適応するということに至っては、自分でもどうやってきたのか?いや今現在もどうやっているのか実はよく分かっていない…
要するに「カン」である…
もっとも、さすがにやっていくうちに、「上中下」に分け(まぁ「良い」「普通」「悪い」に対応するか…)、それをそれぞれさらに「上中下」に分ける… これで都合3×3=9になる… それを十点ずつに割り当てて… まぁさすがに10点以下という作品はそうそうないと思われるから(あったのにはさすがに驚いた…)それを付け足し的に足して、全部で百点… というくらいの「方法論」的なものはできてきた…
そして、そこに面白いもの、つまらないもの、どっちでもないものを、たとえばすごく面白いものとか、そこそこだけど結構面白いもの、とかに分けて割り振る… そして、ある程度作品がたまってきたら「これはあれよりはいいけれど、あれほどではないな」等と順位を付ける… そんな風にもなってきた…
多分これはそんなに難しいことではないと思う…
さてしかし… ここで疑問がわいてきた… この営みは100点評価というのが一つの特徴なのであるが、作品が100段階に分けて評価されるということと同時に、0点、つまり全く無価値な作品から100点、つまり恐らく完璧な作品の間に位置付けられるということをも意味する…
では、完璧な小説とは何か? たとえばこの作品である、などと即座に挙げられる人はそうそういないと思われる。たとえば「今まで読んだ中で最良の小説」「自分が一番好きな小説」であれば、まだ容易であろう。「人類がものした中で最良の小説」ならまだ分かる気がしないでもない(評者・私はその際に挙げられるであろう作品のいくつかを予想できる気もするが、それを自信をもって公表する勇気はない…)
「0点」の小説の方はまだ想像が容易かもしれない…
(が、これも冷静に考えてみると、内容の無意味さやそのようなことを考える虚しさとは裏腹に、結構難しいのかもしれない… 何も書かれていない小説(文学史上そんな「4'33"」小説版のような作品があるのかどうか評者・私は知らないが…)があったとしてそれは「0点」なのか? どのようなくだらないことでもともかく何か書いてあれば「0点」ということはないのではないか? では、どうなれば「0点」なのか? なんだか、大学の文学概論講座の授業ネタにでも使えそうである…)
(小川版「本家」が「0点」を割と簡単に出していることに評者・私は少々疑義を呈したくなる…)
では中間をとってみて、たとえば「50点」の小説とはたとえばどういうものなのであろうか? 「半分」とは何が半分なのか?
あるいは視点を逆にとってみて、小説ということで誰もが思い描く作品や、たとえば教科書などに載せられていたりして誰でも知っている作品は何点なのか?(そのような作品は大抵もう亡くなった作家の作品なので「本家」の方には登場しないことが多いとは思う(が、最近は現役作家の小説が国語の教科書に採用されることもなくはない…))
(教科書等に載せられるということは、恐らく相当「高得点」の作品でなければならない、という予想は立つけれども…)
(念のためお断りしておくが、たとえば「羅生門」「こころ」「人間失格」といった作品がここでまだ取り上げられていないのは、単なる偶然である… こういった作品をこのような形で評価するということに躊躇があるのではないか、と言われれば、正直に言えばそれはもちろんあるが…(特に「羅生門」はやらねばと思いつつできないでいる…))
と、いわば「絶対的評価」の点で難しさを感じるようになってきた…
とともに、評者・私を悩ますようになってきたのは「文学性」というものである…
徹底的に評者・私にとって面白いか否かだけを評価基準とする、というのであればまだ話は簡単なのかもしれない…(いっそのこと今からでもそのような方針で行くということにしたいくらいである)
それに、読んでいただければ分かるとも思われるが、この営みは評者・私にとって面白いかどうかということを評定・評価の基準の根幹においている(ので、評者・私にとって面白くない作品は低く評価され、時に悪罵されさえする… が、それも当然の事かと思う…)
ところが、それだけでは済まないのが文学というものであろう…
他の芸術と同様に、娯楽性だけでは測れない面があるのが文学というもので…(そこは「芸能」やそれこそ娯楽とは違う) 全く面白くないが文学的価値は高い作品、あるいは逆に、最高に面白いが文学的価値は全くない作品、というものもありうる…
もちろん、問題になるのは主に前者の場合である… そのような作品を「しかし面白くないのだからしょうがない」と低い得点とともに低評価に貶めてよいものなのか?…
一つの方法として、ある種の採点型スポーツのように「娯楽点何点;文学点何点」という風に評価を分ければよいのかもしれないが、それは全ての作品を百点満点で評価するという「爽快さ」のかなりの部分を損なうことになるであろう…
「その文学性とやらは、では一体何なのか」という大問題を今は問わないことにしても、頭の痛い問題である…
というようなことが難問として評者・私を悩ませることとなったわけである…
もちろん、これらは文学論上の問題としてそれ自体として論じられる価値が十分あるものでもあるとも思われるが…(つまり、評者・私の悩みは意味があるものだとも思われる…)
それは、遺憾ながら分かってきたことと言わねばならないことかもしれない…
一つには、古今東西「名作」と称される作品が実際読んでみるとそうでもない、ということの多さである…
いや、もちろんそのように称賛されている作品が確かにそういう資格のある作品であるということを確認するということもそれ以上に多いのではあるけれども…
評者・私が理解できない作品については、多くを語りたくもないし、その資格もないであろう… 「ああこいつには分からないのか…」そう思っていただいて大いに結構である…
しかし、明らかにそんなレベルではない作品や、もっと言えば作家が名作・大家、あるいは文豪などと呼ばれていて呆れる、という体験をした、と言わざるを得ない…、ということがまあ多いのである…
そして、それがこと日本文学において多いように思えてならないのである…
つまり、日本文学のレベルは世界文学に及ばない、こう言ってよければ、遠く及ばない、と言わざるを得ない…
いや、日本文学においても、日本文学史上の名作と呼ばれるものは確かにその名に値するものだと実感させてもらえる、という経験はここで多々してきた…
(しかし、日本文学史において名作と呼ばれるものがその実読んでみるとガッカリする内容や完成度である、という経験はやはり世界文学におけるそれの比ではない、と思う…
(まあこれは、読んだ絶対量の違いとか、世界文学へのアクセスの問題とか(我々が翻訳で読めるという時点でかなり「ふるい」にかけられているはずである)、そういう問題も絡んでくるはずでもあるけれど…))
だが…日本文学において明らかにある時点から(それがいつなのかということは今は措いておくとして…)全体的な質は落ちているとみなさざるを得ない、という経験をする羽目になった、全く遺憾ながら…
(ここで評者・私は小川版「本家」の憤りを再び共有することになるのかもしれない)
駄作もあるというレベルではなく、何故こんな作品が日本文学史にその名を挙げられているのか(実は誰もまともに読んでいないということに過ぎないのではないか、と言いたくなる)、いや、こんな作品しかものせない人間が作家を名乗ってよいのか、そもそもこんな作品が商品として流通していてよいのか(その反面、明らかな名作が入手不能になっていたりする)、という落胆というか憤りというかを感じることが多々あった…
(ここで評者・私は福田版「本家」の危惧、つまり今後日本文学はその大きな曲がり角を迎えるであろうというそれ、を共有することになるのかもしれない…)
つまり、いまだ世界文学たり得ない日本文学というもの、そして、日本文学のいわば「地盤沈下」、というこの二つの事柄にも評者・私は気付かざるを得なかったのである…
もちろん、今現在、「コンテンポラリー」なレベルでも読み応えのある名作は生み出されていて、また言うならば「文学的良心」に満ちた誠実な作家もいるので、そこに希望を託すことはできるはずなのではあるけれども…