CM2S私家版「作家の値打ち」
高橋源一郎

さようなら、ギャングたち

この作家のデビュー作にして最高傑作の誉れ高い作品で、なるほど奇跡的な傑作である。そのことを認めるのにやぶさかではない。

「才能だけ」で書かれた、「勢いだけ」で書かれた等々色々と評されてはいるが、日本文学史に残る「怪作」であることは間違いないだろう(そして恐らくこの作品の価値を見出せない者はこの作家にそもそも価値を認めないのであろう…)

しかし、である…

何が悲しいかと言うと、この作家の頂点がこの作品であり、恐らく今後この作家は手を変え品を変えこの作品の自己模倣・縮小再生産をするしかないのであろう、ということを窺わせる作品でもある…

要するに、この作家はこの作品だけである

「この作品がなぜ成立しえたのか」ということ自体がおそらく研究対象として成立しうるであろう

(ただし、それはこの作品はおろか作家高橋源一郎を徹底的に「解体」することにつながる、いやそうせざるを得なくなるのかもしれず、それはこの作家にとって恐らく喜ばしいことではないであろうし、苦痛ですらあるのかもしれない…(丁度、あるSFアニメにおいて人類史上初の「超能力者」が遺伝子レベルまで解体・解析されて存在しているように…))

そしてこれは評者の考えだが、そのプロセスは必然的に、この作品が内包する「滅び」の予兆をもえぐり出すことにつながるとも思われる

これは評者の感覚なのだが(もちろん「この営み」全体が評者(「私」)の感覚なのではあるが…)、この作品において作者は物語・小説、ひいては文学そのものの成立についてそのギリギリの線を追求していると思われる。

そしてそれは言葉そのもののが成立するギリギリの線の追及にも繋がっていると思われる。

この作品の冒頭部分など典型的だと思われるが、作者は言葉というものが成立する場面を手探りで突き止めようとしているように見える。言葉というものをどうにかして自らに繋ぎ止めようとしているように見えるのだ。

つまりそのようにして言葉を「大切に」扱っている

ところが、その同じ作家は固有名に対してはこれを徹底的にそれこそ「ゴミのように」扱う

中島みゆきが、ホラティウスが、ヴェルギリウスが… 我々の知っているそれとは全く無関係であるかのように単なる音・「コトバ」として「おもちゃ」にされる

評者にはそれが「粗末な扱い」としか思えない

この二つの事象がどうしてこの一つの作品の中で、いや一人の同一作家の内で、共存成立しうるのか? 「高橋源一郎における意味論」という研究でもできそうである(繰り返すが、しかしそれは恐らく高橋源一郎本人にとってはあまり愉快ではない営みになる可能性がある)

そして、この作品においてはかろうじてバランスを保っている(つまり「作品」になっている)この二面性のバランスが一旦崩れたら… それが、この作品以降の高橋源一郎に他ならないと思われるのだ…


色々な意味で奇跡的な傑作である デビュー作であるだけに「瑕」には事欠かないが、不幸にして高橋源一郎はまるで自傷行為をやめられない女子のようにこの作品の瑕ばかりを追求する羽目になっているように思われてならない…(70)

どうでもいいことだが、文庫版の解説は全く読む価値がない


ジョン・レノン対火星人

そして、まるでフェチAVメーカーがひたすら少女が自傷行為をしている様子を収録した「作品」をリリースしたかのような有様なのがこの作品である

世の中には奇妙奇天烈な学者もいたもので、自分が由とする哲学的立場が哲学史上ある時期、ある一人の哲学者においてのみ成立し、成立するや否やただちに崩壊する、などという「面白い」哲学史観を説く先生もいらっしゃるのだが、

一人の作家が紛れもない傑作をものした直後にその作家生命を終える、ということもあるのだ、ということを実感させてもらえる決定的な駄作だと思われる

(巷では「高橋源一郎は「ギャング」と「ジョンレノン」だけ」という意見も結構流布しているようなのだが… 評者はこの作品を肯定的に捉えることが全くできない)

「ギャング」をフィルターにでもかけて、その「ゴミ」の部分を取り出したかのような作品である

「ネタバレ」は慎みたい気持ちは評者も持っているが、あまりにも酷いのでこれは明らかにしても構わないであろう

タイトルと中身はほぼ何の関係もない(つまりジョン・レノンと火星人は戦わない)

(例えばジョン・レノンのファンがこの小説を読んだとしても恐らく落胆や怒りといったネガティブな感情以外のものを得ることは恐らくないだろう(意地悪い外野的興味だが小野洋子がこの作品についてどういう感想を抱くかちょっと知りたいところである))


恐らく「普通の」人は精神病院の中や狂人の頭の中のことをそれほど熱心には知りたいとは思わないであろうが、どうしてこういう「作品」は次々に生み出されるのであろうか?ということを追求してみたくなるくらい惨い残骸のような作品である…真面目に付き合うと馬鹿を見る(19)


惑星P-13の秘密

偽書目録、ということにしておけば詐欺的行為にも度が過ぎた悪ふざけにも免罪符になりうる、と思ったのか何か知らないが… とにかく好き勝手を繰り広げている

のだが、ある意味ではまた奇跡的にその奔放さが詐欺的文章(どういうことなのか気になる向きは各自読んで確かめられたい)や悪ふざけを上手く機能させており、「時々は」面白いと思わせてもらえる

とはいえ、はっきり言って「民明書房」レベルである

(作品発表が平成2年・1991年ということは高橋源一郎は「民明書房」を知っているはずである(知らなかったという言い訳は彼の場合成立しえない(実は「民明書房」以前から書いてきた素材の流用なのだとでも言い逃れない限りは…))。「民明書房」と違ってあまり笑えないという点でより劣る。そこが恐らく作家としての限界なのであろう)

実在固有名をゴミのように扱う不遜な執筆スタイルはこの作品でも発揮されているが、例えばその実在名を仮に全て新造架空名にするとどれだけつまらなくなるか、容易に想像がつくと思う。「詐欺的文章」というのはそういう意味も含んでいる…(つまり、実在名であることを「利用」しそれに「依存」しているわけである)

そしてこの点はやや理解に苦しむ、どころか時には怒りを禁じえないのであるが、これら「ゴミのように」扱われる固有実在名についてある程度は「本当のこと」を語ったりもする…(まるでいわゆる「トンデモ」な偽史文書のように)

どこまでが本当で、どこからがデタラメか、ということの追求には恐らくあまり意味がないと思われるが、特にたまたま評者が専門家として携わっていた分野など、正直苛立たずには読めない。こんなことをして一体高橋は何がしたいのであろうか?

「ギャング」から続けられている(そして後続作家(例えば舞城王太郎など)にも受け継がれさえしている)「高橋源一郎的スタイル」はSFと相性がよさそうに一見思われるものの、こうして見るとそうでもないのが不思議である

また、文学カタログ的な内容は何がしたいのかちょっとよく分からない…

大学の名誉教授などにもなり文学を論じることに関しては一つの権威と化している高橋であるが、ちょっとは文学部教授らしいところでも見せたいと思ったのか、「普通の小説」も書けるぞとでも言いたくなったのか、それは分からないが、見事につまらない

(どれだけ華麗に文体を変えようが結局高橋源一郎ワールド的なナンセンスになってしまう…とでもすればまだ面白かったのかもしれない…(でもそれじゃまるで筒井康隆だ…))

とどめにエロ小説的内容はエロマンガの剽窃レベルである…

さらに、いくら所詮詐欺的作品とはいえ、「ボロ」を出しているのは興覚めである…(一例を挙げれば、ハープシコードというものは大抵そんなに重いものではなく何人もがかりでないと持ち上がらないものではない)


結局、この作家の作家としての資質はこの程度のものであった、ということなのかもしれない…(35)


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