CM2S私家版「作家の値うち」
樋口一葉
(1872-1896)

紙幣になるほどで、言うまでもなく明治だけでなく、近代化以降の我が国の女流作家全体の中でも偉大な存在であると共に(作家としてはともかく女としては個人的には与謝野晶子の方が偉大だと思うが、お札にするには反戦詩人よりもやはり彼女の方がよかったのであろう……後は清少納言しか残っていないだろう……平塚雷鳥? 市川房枝? 寝言は寝て言いなさいってば!)最も不可解な存在でもある。評者も常に愛読しながらとまどい続けてきた。もう少しだけでいいから長く書き続けてくれていたら多少は謎も解けたのではないかと思っているのだが……

うつせみ

借り手のない家に突然やってきた、心を病んだ女の日常
ただ、それだけ。意外といい作品だが、明らかに尻切れ蜻蛉で、これではスケッチ程度でしかない。もっと膨らませてほしい、いやそうじゃないと楽しめないというのが正直な感想だ……

一葉の中では一番いただけないものだが……(56)


大つごもり

貧乏一家から奉公に出た娘が帰省して実家の苦境を知り、大晦日に奉公先の金に手を付ける。
そんな心的葛藤がきっちり書き込まれている。コンパクトにまとまってはいるとは思うものの、やっぱり書き足りない気がしてしまうのだが……結末はいかにも御都合主義的でそれも物足りなさを煽ってしまう……

いいんだけれど……一葉に感じる物足りなさを一番感じてしまう作品……(62)


十三夜 (1895)

冷たいダンナに嫌気がさした女が離婚を決意して実家に戻ってきたものの説得されてとぼとぼ帰ると偶然に初恋の人に会ってしまった
というこれもそれだけの話と言ってしまうと身も蓋もないが、主人公の心理がやはりヌメヌメとしたそれでいて女気と言うか男気と言うかに満ちた(文体による「ジェンダーベンダー」という感じがして非常に快感なのだな…)気風のいい文章でユラユラと綴られていてこれはこれで見事だ。で、これから何か起るのかと思うと終わってしまう…ここから物語は始まるのではないかと思ってしまうのだが、それは一葉に対応できていないということなのか、あるいは一葉の世界と相容れない小説観を持って臨んでいるということなのか…

どうもやはり書き足りない感じがしてしまうのだけれども…(67)


たけくらべ (1895)

色街で生きる人々の日常とこれから
一葉の作品の中では長い方に入るが、やはりこのくらい書き込んでもらわないと個人的には満足できない。文章はもう名文としか言いようのないもので、思わず声に出して読みたくなってしまうこともしばしばだ。ストーリーもきちんと起承転結が付いているので、読み足りなさを感じることもない。ラストで、従わざるを得ない運命に腐るでもなく反抗するでも、もちろん嬉々と従うでもなく淡々と踏み込んでいく様が描かれるのは泣けてくる。この雰囲気は他ではなかなか味わえない。天才作家とはこういうものを言うのだと改めて実感した。

やはり一葉はこれだとやっぱりそう思うとともに、この調子で大長編を書いていてくれたら……と思ってしまう……(90)


たま欅 (1892)

士族の末裔の令嬢が隣屋の美少年に恋心を抱くが育ての親に恋路を破壊され遺書を書くに至るまで
ちなみに「たまけやき」と読む(内容とどう関係があるのかはよく分らない)。一葉の初期作品は一般的には割と評判が悪いが、改めて読んでみると個人的にはこっちの方が好きだ。この作品も短篇としてはまとまっていて、余計なものがない分、晩年の作品に感じる書き足らなさがない。前半は螢に導かれて恋に落ちる描写が美しく、後半は恩を盾に勝手に自ら結婚を申込む育ての親の強引さに感情を揺さぶられる。文体や雰囲気はもちろん一葉以外の何ものでもない。敢えて言えば、前半はやや説明臭く、後半は義理・恩と恋心との間で揺れ動く主人公の心情がやや書き足りないかもしれない。美しい恋物語が一転どん底になる感覚は、こう言っては失礼だが明治の鷺沢萠とでも言いたくなる(あくまでも譬えで、もちろん一葉の方が作家としてはずっと格上だが)。

「闇桜」ほどではないが「一葉は最初から一葉だった」ことを知らせてくれる作品(68)


にごりえ (1895)

今風に言えば風俗嬢がトチ狂った客に勝手に惚れられて刺し殺されるというだけの話
と言ってしまうと身も蓋もないがストーリーとしては本当にそれだけに、まぁ主人公の内面描写が綿々と加わるというくらいのこと。個人的には一葉はこのヌメヌメとしたそれでいて歯切れのいい文体を楽しむものだと思っているので、これはこれで好きなのだが、ストーリーの組み立て方としては何度読んでも書き足りないという印象を抱いてしまう。結末がこう急転直下的になるにしてももうちょっと引っ張った方がよかったのではないかと思わざるを得ない。専門家の先生方などはどう思っておられるのだろうか?

多分彼女の作品では一番読んでいるが(単に「樋口一葉集」の最初に来ることが多いだけという話もある)、常に満足感と物足りなさを同時に突き付けられる気がしている…(65)


闇桜 (1892)

幼馴染みに恋心を寄せ過ぎたあげく恋患いで死んでしまう少女
の心情が一葉ならではのするすると流れるような文体で綴られる。恋しつつも打ち明けられない辛さや、近寄りたいのに相手のことを考え無理しても遠ざけてしまう心情がよく描かれていて、あまりにモラル精神の強い恋心には美学さえ感じられ、今流行りの「純愛」とやらがバカにしか見えないほどだ(しかし、恋患いで死んだり破滅したりするという小説がリアリティーを持ちうる時代だったのか……)。戯作的な単なる娯楽作品などと、一葉の作品では評価の低いものだが(新潮文庫の解説にもそんなことが堂々と書かれている)とんでもない。この時点で一葉はもう一葉になっている。後の作品のような鬼気迫るものがない分ほのぼのとしていて(それでもラストは重いが……)個人的にはかえって楽しめる。一葉作品に常に感じる書き足りなさも、このくらいの短さの作品なら気にならない。
それにしても、一葉を読むと、句読点というのは一体何なのだろうと毎度考えさせられる……

個人的には一葉の中でも好きな作品だ(69)


ゆく雲

無理矢理実家に呼び戻された養子と、下宿先の女との淡い恋物語
一葉の文体にはいかにも女性らしいスルスルヌメヌメとした流れるような小気味よさと、骨太な迫力の両方が籠っていて何とも言えない魅力があるが、こうした文体的魅力が内容とも相俟って如何なく発揮されている作品。男心が十全に表現されていて、しかも情緒も溢れていて、いい雰囲気が出ている。寂しいラストもよい。

一様らしい傑作だと思う(70)


別れ霜 (1892)

許嫁の家を親の謀略で没落させてしまった令嬢が心中にも失敗して生き残り諦めたふりをして結局後追い自殺するまで
初期一葉は手垢のついた紋切り型の常套句を用いるのを厭わず戯作的な雰囲気があるので玄人には評判が悪いのかもしれない、などと勝手に思っているのだが、そろそろそんな雰囲気も薄れつつあるのか、一葉の本領発揮と言うべき小気味のよい文章にどん底のストーリーで、気持いいんだか悪いんだかよく分らない独特の読後感が味わえて快感である。一葉にしては長めの作品だが、やはりこのくらい書いてくれた方が読みごたえはある。やはりどう考えても「奇跡の一年」期のものよりもそれ以前の方がよいような気がしてしまうのだが、評者が浅いのか……(そうかもしれない……)。ただ、恨みに凝り固まっていたフィアンセが突然心中に同意してしまうのはストーリーに飛躍があり、そこさえ何とかなっていればかなりの傑作になったのではないかと惜しまれる。

悲しい恋心を描かせたらやはり一葉はいいということが確認できる(71)


わかれ道

惨めな境遇の小男と冴えない針子の恋物語
この作品もほのぼのとしていてよい。中々泣ける作品となっている。しかし、この作品も結末が書き足りないようにしか思えない上に物足りない。どうしてこんな終わらせ方をするのだろうか? 「奇跡の一年」期の作品を評者があまり好きになれないのはそこに理由の一端がある……

一葉らしさと、常に感じさせられるもの足りなさとをやっぱり突き付ける作品(66)


われから (1895)

恋に恋した挙句家を出て行った母の娘である主人公がやはり要らぬ恋に恋して今度は旦那に追い出されるまで
と書くとバカみたいだが、バカどころか恐ろしく芸術性の高い緻密な文体で、一葉にしては硬質に描かれていく。心理や風俗の描写はやはり彼女ならではのものがあり他では味わえない。一葉にしては構成が複雑な作品だが、意味はあるのだろうか……かえって取っ付きにくくしているだけのようにも思えるのだが(ただでさえ取っ付きにくい作風なのに……そう言えば一番最初に読んだ時には全く何が何だか分らなかった覚えがある)……恋心で身を破滅させるというストーリーはやはり心底から理解するのは難しい(金に泣かされ続けた彼女がこういう作品を書くというのは面白い。このような世界が彼女の憧れだったのだろうか?)。こういう心情が「リアル」でありえた時代なのか……一葉得意のリアリズムは如何無く発揮されているので、それと裏腹に、訴えてくるものがありながら付いていけず、面白いのにさっぱり分らないという矛盾した気分を叩き付けてくれる作品……やっぱり一葉は謎が多い……
惜しむらくはラスト付近で急いで結末をつけ、しかも唐突に終わっている気がやはりする……短篇掌篇ならこれでもいいかもしれないが、この長さだと物足りなさがつのる……

もうちょっと書き込んだら……とやっぱり思うが後半に至るまではスリルがある(68)


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