CM2S私家版「作家の値うち」
松浦理英子
(1958-)

「独特の感性で性意識や官能性を描く作家」という捕え方をされているようではあるが、評者が読んだ限りでは、自意識や思想・感覚を表現する方法が見出せなくてもがき続けているようにしか思えない。現実世界とバランスがとれないのを「感性」の一言で強引に押し通しているように見える姿勢はどうも独り善がりに思えてしょうがない。極端に寡作である理由もその辺にあるのではないか(これで多作だとさすがにうんざりなので、その点は小説家としては誠実なのかもしれないが…)。単純に表現の出来として見ると「葬儀」以外は全て失敗している、というのが今の所評者が抱く感想。

セバスチャン(1981)

徹底的にヒネクレた精神のお嬢様女子大生に「精神的に」いたぶられる大学中退のイラストレーターのヒネクレた悲恋物語
この作品ではなかったかもしれないが確かどこかで「天才少女ごっこ」はもうやめなさいという主旨のことを言われていたはずで、それに思わず賛成したくなるほどとにかく一々「もういいよ!」というくらいにヒネクレている。作者の世界観はうまく表現されているのかもしれないが、読む側にしてみれば常に「お前は俗人だ」と上から言われているようで、文学的価値が高いということはこういうことなのかと根本的な疑問を抱かずにはいられない。性という関係のあり方を表現するにしてもこれでは自らが権威になって権力批判をしているという構図から抜け出られないのではないか。福田和也はジュネになぞらえていたが、ジュネの方が少なくとも出し方はスマートだと思う。不具者やバンドは描き方が中途半端で、特に後者は失笑ものだ。反撃されない場所で外野が「下界」をコケにするという、斉藤美奈子とかその一派がよくやる構図が見える。
「葬儀」はまるっきり異質な世界を登場させたのでアレはアレで読めたが、これは下手に現実の世界とバランスを取ろうとして結局取れなかった雰囲気で、どうも態度が「女々しい」。突き抜けた箇所では部分的にスリルを感じるが、即座に下野してしまうので余計に白ける。文庫版付録の対談は聞き手のトンチンカンな問いに松浦女史が苛立ちウンザリしているのが分かってその点では面白い。

感情が先走っているのは御本人も認める所らしいが、そんな感じの(59)


葬儀の日

葬儀に呼ばれる「泣き屋」なる職業の主人公が「笑い屋」なる仲間に出会って別れるまで、
というのが表向きのストーリーだが何から何まで全て比喩なので結局何が何だかよく分らないというのが正直な所(したがって、解説とかカバーとかに「表向き」のストーリーだけ書いてあるのは書いた人間が読んでない証拠。まぁよくあることだが)。結局何が言いたいのかは読者が「表向き」のストーリーの背後に読み取るしかない。どのくらいかけて書いたのかは知らないが、自然に書けたというのでなければさぞかし疲れたろうと思ってしまうほどイメージだけが強烈に迫ってくる作品。訳の分らない所はいくつもあるし、日本語としてどうかという箇所もあるが、皆吹っ飛ばせるほどの勢いがある。
福田和也が「絶望を感じるはず」と言っているのも納得(「俺こんなの絶対書けねぇ!」という意味では確かに絶望したが。「絶望とはある意味じゃ希望じゃないか?」と妙な勇気が出てきたので、俺はやっぱり才能も読解力も怪しいか?)

島本理生とかは見習ってほしいもんだわ。限りなく一団上に近い中の上というわけで(66)


ナチュラル・ウーマン (1987)

同性愛者の女流漫画家の恋愛遍歴を描いた連作短編三篇
「葬儀の日」を読んだ時に感じた期待感は錯覚だったのか。『セバスチャン』を読んだ時に感じた嫌な予感は適中してしまった。一体「エロス」ってのはこんなにややこしいものなのか、という不快感が終始付きまとう。どの登場人物にしても、一々ひねくれた反応をし返すことによって自我の肝心な部分が揺さぶられないように身構えているという風にしか見えない。もっと言えば、ダダっ子がそのままでっかくなった女がギャーギャーいがみ合っているのを横で強制的に見物させられているようにしか思えない。本物のレズは男が妄想するような面白いものではないというのは自分で見知っているのだが、それにしてもレズの方々というのは一々こんな主導権争いの政治交渉のようなややこしいやりとりをしなければ満足できないのかと思ってしまう。
それ以前に、小説として面白くない。何でこんな三流似而非哲学書の朗読のような会話を恋人が交さなければならないのか。取ってつけたような交情の場面は、女性同性愛に外野的な興味を抱く向きには面白いのかもしれないが、はっきり言って陳腐以外の何物でもない。免疫のない人々には「アナルだ!」とかってキャーキャー言う対象になるのかもしれないが、薄っぺらすぎる。ヘッドホンを使う場面などは一時的にスリルがあるが、その折角の雰囲気は即座にブチ壊される。サドマゾにしても例によって切り込み方が一面的で、多分松浦女史は実体験がないのだろうとしか思えない(体験があってこれならなおさらひどい)。部分的にスリルを感じることはあっても全体を覆う興醒めな雰囲気がすぐに飲み込んでしまう。『セバスチャン』と同じ構図がある、どころかもっとひどくなっているとも思える。こんなので満足できるのか? 分からん……
例によって文庫版の解説は「ポストモダン」だが、作者がそんな連中を引き寄せてしまっている側面もあるのかもしれない。

結構評判のよい作品ではあるが、そうか? という感想しかない。つまらなくて腹が立った。皮肉じゃなくて真面目に、どこが面白いのか教えてほしい。『親指P』は未読だが読む気がなくなった。そんなに俺は暇じゃない(35)


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