CM2S私家版「作家の値うち」
大江健三郎
(1935-)

評者も高校時代からシビレていた作家で、常にというわけではないが読み続けてきた。敬意は変わることがないと思う。ただ、それは初期作品に限った話で、『新しい人』以降はほとんど読んだことがないから、今後それ以降の作品を読んでどうその感覚が変わっていくだろうか…

奇妙な仕事

犬を撲殺するバイトをすることになった大学生達の話。
内容的にも悪趣味さから言っても「死者の奢り」予告編というものだろう。大江が詩的な表現に傾倒する予感は既にこの作品に漂っていて、所々まるで詩のようになってしまっている。自覚的に凝り過ぎた文体が追求される以前なので読みやすい上に、構成もよくできていてさすがと思わされる。
大江には何の関係もないが、短編をどういう風にここで取り扱ったものだろうか?その他にも多少思うことがあるので、いずれ別にページ設けて論じてみよう。ますます「あれ」に近付いていくなぁ……

才能を予感させる作品(さらにその後の不様な成れの果てまでは予感できないが……(67)


飼育(1958)

「ブラク」(らしい)に墜落した米軍機(らしい)の生き残りが村に「飼育」され、村の少年は「捕虜」にシビれる。
やはり初期大江は子供や大人未満の若者の視点を書かせるとうまい。当時の若者に大江が絶大に支持されたのが分る(みんなシビれた。遅ればせながら評者もシビれた(高橋源一郎かよ!(笑)))。この後加速度的に文章の「いじくり度」が増えていくものの、この時点ではそんなに読みにくくはない(が、既に片鱗は窺えていて、時折奇妙な文章が出てくる)。数カ所に挟まれるあまりに悪趣味な展開は、それで作品全体の無気味な雰囲気を増幅させようとしたのかもしれないが、かえって安っぽい雰囲気を醸し出しているだけだと思う。「他人の足」なんかにも言えるが、むしろ変態趣味を隠した方が無気味さは際立ったのではないか?

やはり初期大江を読むとまるでポジパンや暗めのニューウェーブを聴いている気分になるなぁ(76)


セヴンティーン (1961)

タイトル通り十七歳のダメ少年が右翼に目覚め革新派政党の委員長を刺殺し自殺するまで。
まず触れなければならないことだが、上のあらすじから分かるように、評者はいわゆる「第二部」を読んでいる。現在公開されているのは「第一部」だけだが、これだけではただのダメ男がカタギの世界に見切りをつけて右翼になるだけの話で、大して面白くない上に唐突に終わって全く物足りない。それに引き換え「第二部」は無茶苦茶面白い上に何よりも文体がカッコいい! 初期大江の魅力が詰まっている。色々とそれこそ「政治的な」問題はあったらしいがこれがまるで「ウルトラセブン第十二話」のような「幻の作品」になっているのはあまりにも惜しい! 大江は自分の気に入らない(都合の悪い?)作品を自らの歴史から消そうと(まるでどこかのブンゴウのようなことを)しているらしいので、「セブンティーン」まるごと「なかったこと」にされてしまう可能性があるが(『大江健三郎小説』の正確なラインナップを評者は知らないが、いくつかの作品を「なかったこと」にし、これ以上の全集を作らせないつもりらしいという話は聞く。虫がよすぎると言うしかない。本当にそうしたかったら全作品凍結の上引退以外に方法はないんじゃないのか? これじゃ本田勝一とかに突っ込まれて続けても仕方ないな……)、それじゃあんまりだ!
第二部まで含めた上で言うが、「もてない男」「しらけ」「ひきこもり」「文化人知識人の不誠実と無責任」といった現代の問題を先取りした上で描き切っている上に、政治的な熱狂者のグロテスクさと大江らしい異様ながらも詩情に満ちた美しい表現が同居していて、圧倒的な世界を構成している。敢えてケチをつければ、第一部は割と普通の心境小説なのに第二部に入ると叙述のスタイルが急に前衛的になるのでそれがチグハグと言えば言える。第二部のスタイルで全体を書き直せばいいのではないかと思いたくなる。時折読みにくいが、圧倒的な説得力に疑問を持つ暇もない。今ならワイドショー的に一時的に騒がれるだけで終わるであろうに(島田雅彦の皇室モデル小説よりも某元芸能人作家の身内小説の方が取り上げられるくらいだし……)、過剰な反応で作品自体が抹殺されたとは、文学が社会的な重みを持っていた時代だったと言うべきか、社会がナイーブだったと言うべきか……
文体上気になったのは「。」の機能が非常にしばしば無視されていることで(「太陽が出てきた、気温が上がらない、どうしたんだろう、皆騒いでいる」こんな感じ)、文章を終わらせないでつなげようとでも思ったのかもしれないが、どの程度の効果があるのだろうか? 句読点の意味を考える際の参考にはなるかもしれない
(「第二部」はモラル上配布はできませんが御希望の方には個人的に入手方法をお教えします)(←めでたく(?)「幻の作品」ではなくなりました)

第二部含めての評価として(81) 第一部だけなら大分下がる(68)くらいか


僕が本当に若かった頃(1992)

簡単に言えばタイトル通りの内容が綴られた(一部微妙なものもあるか?)短編集

であるが…内容云々よりもその信じがたいつまらなさの方が圧倒的である…

そしてついに「この時」が来てしまったという感覚に、正直絶望している… 噂には聞いていたが、ここまで酷いとは…

とにかく何一つ面白くない… 気の毒だから名は挙げないが他にも「こんな感じ」に陥っている老文豪がいらっしゃって、彼等の特徴はまるでボケ老人が垂れ流すうわごとのような「文学作品」を作るということなのだが、見事にその典型に収まっている。

今回評者が読んだ文庫版の解説をはじめ大層な「ごたく」が塗りたくられているが、冗談でも嫌味でも皮肉でもなく、これのどこが面白く、どこにどんな文学的意義があるのか、是非教えてほしいものだ(え?「お前には分からんよ」?はいそうですか…)… ノーベル文学賞受賞者の作品がこんな有様という事実に「文学とは何だ」と問わずにはいられないではないか…

いや…面白くなりそうな予感は時々するのだが…まるで大江自身が面白くしてはいけないという自己規制でもかけているかのようにたちまち死ぬほどつまらない展開に持っていかれる… しかもその「面白くなりそう」な雰囲気が何に由来するかと言えば「初期作品っぽさ」なのである… (あと「おっ…SFか?」と思う作品もあったがこれは本当にぬか喜びの期待だけ…)

「おっと書き忘れそうになりましたが入れておきますよ」という感じで御丁寧にねじ込まれる「エロ」的事柄には本当に白ける…


とにかく信じられないつまらなさに呆れている… しかし…見ようによってはこれこそ…これを踏まえた上で、初期作品群も含め大江健三郎という作家の作品をどう読むかという、私なりの課題の始まりなのかもしれない(その課題に何か意味があるのかどうか…それは分からないが…) (20)


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