私家版「作家の値うち」



#要するに「あれ」のマネです。

#百点満点は個人的には細かすぎると思っていたものの作品が増えてくるうちに「中の上」「上の中」ばっかりになってしまうことがわかったのでやっぱり百点評価に変えていきます。

#物故者も構わずやります(「あれ」は同時代評という側面が強いんだろうけど、現在を歴史の積み重ねの延長の中に据えるということも必要だと思うので)。

#絶版等も構わずやります。

#見れば分る通り、例によって、出てくるものはまるで無秩序です。

#個人的に反発したり笑い者にしたりするのは結構ですが、御自分の評価と違うからといってとやかくいわれましても困ります(「お前の読み方はおかしい」「あの作家ならアレを読んでくれよ!」といったメイルは歓迎しますが、特定の作家のファンの方は「キーッ!」となって「お前はおかしい!」「○○を認めないお前なんかに文学を語る資格はない!」とか言うくらいならその作家の魅力や楽しみ方を教えてくださいよ…)。
なんでも、「ものすごく上から目線」なんだってさ…ふーん…別に否定はせんけど…まぁ好きなように言ってて下さい その程度の「感想」の御相手している暇は幸か不幸か全くないので

#作家−作品の五十音順です。娯楽/純文学の区別はしないつもりです。

#しないつもりでしたが、あまりにもページが重くなりそうなので、やむを得ず、作家に分けたページを作ることにしました。

#訳あって三浦朱門及び曽野綾子の作品は取り上げません。

#暫定ランクはこちら

別ページの作家
芥川龍之介
石原慎太郎
江國香織
大江健三郎
川端康成
倉橋由美子
小林多喜二
佐伯一麦
鷺沢萠
高橋源一郎
田中康夫
谷崎潤一郎
永井荷風
花村萬月
樋口一葉
松浦理英子
水上勉
村上龍

コラム「やってみて分かったこと」

青野聰 (1943-)

愚者の夜 (1979)

世界中をフラフラした挙句に浮気性のオランダ女と帰国したダメ男の情けない日々
が、内容を反映しているかのような下品な文体で延々続く。表現としては大いに文句がある。作者は明らかに自分の文体に酔っており、一番の愚者はそんな作者だろとツッコミを入れたくなる。文章が下手(特に無神経な長い修飾句・読みにくいだけの平仮名化などがイライラする)なのに下手に文体に凝ると酷いものになるという見本だ。時折入る横文字も意味不明だし、擬音語の使い方もうまくない。 独白があまりにも芝居がかっていて不自然きわまりないし(「性愛する」ってなんだよ。「性愛してみようか」に至ってはアホかと思わず声を上げてしまったほどだ)、頻繁に使われる『』の使いわけが不明など、何なんだと言いたくなる。詩的な魅力のある表現も多くその辺は読めるが、緊張感がなくなるとわざとらしい陳腐な表現がそれ以上に連発して白けることこの上ない。比喩の多くが死んでしまっているのは、面白い表現もあるだけに残念。内容的には池田満寿夫+村上龍の失敗作という感じで、特に性に関する表現は池田満寿夫並に陳腐で失笑する。多分意図的に挟まれる下品な表現が不快。効果も全然ない。特に小学生レベルのスカトロ趣味が場違いで不快。壮大な失敗作。評者が編集者ならば書き直しを要求するだろう。日本人としてのアイデンティティーを何か追求したかったというところだろうが、こんなまずい表現では訴えられるものも訴えられなくなるということの見本でもある。

誰も指摘してやらなかったのだろうか? 才能はあるアマチュアの習作レベルの作品(46)


安部公房 (1924-1993)

壁:S・カルマ氏の犯罪 (1951)

名前を盗まれた男が目から砂漠を吸い込んだり、それで裁判にかけられたり、日用品の反乱を受けたりとそういう不条理な目に遭うあれやこれや
がユーモア漂うですます体でズラズラ続く。活字アレルギーだった高校時代の評者を一転本の虫に変えてしまった懐かしい作品で、あの当時はとにかくあまりの突拍子のなさにシビれたものだったのを思い出す。その後、カフカを知って「何だ安部公房って結局カフカのパクりじゃんか」とか生意気なことを言っていたものだが、今になって読返してみると、この寒いユーモア感やコミカルな軽快さはカフカにはないものだと思う。我が国の文学史上で唯一無比の存在として異彩を放ち続けた存在の醍醐味は既に十二分に出ている。安部作品に共通する嫌ーな後味の悪さも具わっている。

芥川賞全集で「あ、何だこのイラスト」と思って読んでみてハマり、そのまま堀田善衛に読み進んで「なんだこれ? フツーの小説じゃないか。つまらん」とがっかりしたのも今は昔の話であるな……(74)


有島武郎

或る女

徹頭徹尾「自分本位」に生きる女の半生、が徹底的に描写される

この作品は主人公葉子の内面・心情描写でほとんど成り立っているのだが、それがもはやカタギの人間であれば正気を疑うような域まで徹底的に露悪的に描き切られる。

その執拗さには感心せざるを得ないが、要するに主人公の我がまま・贅沢趣味・猜疑心・意地の悪さ、その上に男性嫌悪や怨恨、さらには常人には恐らく理解に苦しむ思考傾向など、これ以上嫌な女がいるのであろうか?という人物造形に仕上がっており、これを楽しく読める人がいたら人格を疑っていいのではないかと評者・私は思う…(事実、評者・私が使用したアプリにおけるこの作品の感想には読者の不快感が連ねられている)

(どうやら主要登場人物には「モデル」がそれぞれ存在しているようである。主人公葉子のモデルが本当にこんなどうしようもない(と言わざるをえない)女なのかどうか、誇張があるとすればどのくらいなのか、今現在評者・私には分からない。ともかくこの作品における人物造形がすさまじいことは事実である)

とどめに、この無茶苦茶な主人公は結局周囲を振り回しに振り回した挙句(特に「成田離婚」どころではない盛大な「(実質的)婚約破棄」には呆れる)、関係した男性ほぼ全員に去られ、狂気の妄想の域に達した猜疑心に苛まれ病苦に沈むのであるが、その結末は最悪である

一言で言えば、非常に不愉快な作品で、現代の一般人が楽しく読めるものではない、が文学的な価値を認めるのにやぶさかではない… 「純文学」というものの一つの性格をここに見ることができると思う…

この文豪の比較的後期の作品のひとつで、文体的にも色々と工夫はしているつもりなのであろうが、「insolent」だの「diabolic」だのがそのまま書いてある文章ははっきり言って読みにくいことこの上ない(しかも今回評者・私が読んだ版(青空文庫)では全角で刷られており見た目も非常に悪い)。また、前編末尾で突然前衛的な表現が試みられるなど、寿司屋でおまかせ頼んだら最後にケーキが出てきたような不自然さには思わず失笑させられる。文章は比較的読みやすいだけにどうにも「障る」のが全く持って残念


この文豪の代表作にして明治文学を代表する作品の一つであるが、そしてその資格の十分ある 作品であるが、読むことは全くお勧めしません!(60)


カインの末裔

激寒の北海道にたどり着いた小作農夫婦が過酷な環境に翻弄され自業自得な目にも遭って追い出されるまで

がプロレタリアート文学の先駆け的なものを思わせる骨太で冷徹な筆致で描かれる

ものの、先述した通り自業自得な展開や、裏切られる甘い損得勘定など「ネガティブ」な側面も割と執拗に描かれるため、プロレタリアート文学にはなれないでいる…

(それが有島武郎なりの「リアリズム」ということなのであろうが、どうも描写が意図的に悪趣味な方向に傾いているようにも評者・私には思えてならない…)

さて…この作品に触れるからにはどうしても気になるのはタイトルとの関連であるが(作中にそれを匂わせる要素は恐らく全くないと思う)… 評者・私はこの作品の主人公を創世記のカインになぞらえるのは不当ではないか?という意見に今の所与する者である… オリジナルのカインはもっと理不尽に神に見放され、そしてその故に「復讐」する羽目に至る、と思うのだが、この作品の主人公は言うならば自業自得でありしかも特に「復讐」はしない


これまた何とも嫌な雰囲気に叩き込まれる作品であるが、こちらは「或る女」とは違って読み応えがしっかりあるので「読んでみようか」という向きにもお勧めできる(62)


池沢夏樹 (1945-)

どうでもいいことだが、今現在(2003年度)NHKフランス語講座のアシスタントをしている池沢春菜さんって、ひょっとして娘さん?(結構かわいいよな……あの怪しいロンパリオヤジからこんなかわいいコが……)

スティル=ライフ (1988)

突然現れた友人から証券取引に誘われた青年が言われた通りにやったら成功し、友人が過去を明かして去っていくまで。
全編が詩のような独特のクサい文体で綴られていて、それを余裕を持って楽しめる向きにはたまらないのだろうが、受け付けない人にとっては読むに耐えないものだろう。個人的には中途半端に挟み込まれた衒学的な無駄話が興醒め。初期の作品だけあってか「おいおい正気か?」と言わざるを得ない鼻白む表現が所々にある。単行本・文庫版とも「ヤー・チャイカ」が加えられているが、そういう表現が減っている分こっちの方が面白い。
ファンは多いんだろうけど、個人的にはあまり好きになれないタイプの作風だなぁ……どうでもいいがタイトルはJAPANをどうしても思い出してしまうもーばいるほーむ…… 「スティル・ライフ」(40) 「ヤー・チャイカ」(61)


池田満寿夫 (1934-1997)

エーゲ海に捧ぐ (1976)

サンフランシスコ滞在中の彫刻家が国際電話で浮気をなじられている様子
が延々と続くだけ。小説というよりは散文詩に近い。いかにも「芸術的」という文章がわざとらしくて鼻白むが、ジョイスとかあの辺みたいな思念垂れ流しの感覚をそれなりに楽しめる。さすがに色々とセンスはいいので割と面白く読めるが、もちろん「訳分らん」の一言で片付けられても文句を言えない類の作品。何と芥川賞受賞作品だが、この手の前衛的な作品は受賞作にあまりないような気もするので、貴重かもしれない。でも一回読めばもう十分。一つだけ言えば、「ハードコア」な表現を無理矢理芸術的にしているのはもう今となってはギャグにもならない。

これを書いたのが池田満寿夫だったから受け入れられたという面もあるのではないか? 要するに絵と同じことが起ったわけで、何となく彼の苦悩を推し量りたくなってくる気もする……(52)


石川淳 (1899-1987)

普賢(1936)

うだつの上がらない文士のだらけた日常
が延々と綴られる。講談のような息の長い文章がうねうねと続くので、慣れないと読みにくいものの、こういうのは一旦ハマるとたまらない。逆に受け付けなければただの饒舌としか思えないかもしれない。ストーリーはあるんだかないんだか一回読んだだけではよく分らないものの、繰返して読むには体力を要する。個人的にはもうちょっと全体像が見えやすいようにしてもらえないものかと思った。

文体が受け付けられれば読物としては面白い、と思うが、読みやすいものではないので、(69)


石川達三 (1905-1985)

僕たちの失敗 (1961)

おなじみフジテレビ系平日午後一時半の東海テレビイカレポンチドラマ『契約結婚』の原作で、その通り「契約結婚」なる新しい結婚形態を試みた工員のすったもんだ
がこの文豪ならではの強靱でどっしりした、それでいて軽やかな文体で綴られる。読みやすくて深い。娯楽寄りの純文学としては理想的なものと言ってよいだろう。内容的に容易に予想が付く通り、鋭い社会時評にもなっており、哲学的な内容も盛り込まれていて、プロレタリア作家として出発した小説家の面目躍如を感じる。本当はもっとこれほどわざとらしくない形で思想的な内容を表現できればさらによかったのだろうが、それは贅沢というものか。惜しむらくは、時代設定などから「時代やのー」な内容が多過ぎて、今は「もっと読まれるべきだ」と言っても空しく響くだけだろう。
その点、原作というどころか「原案」に過ぎないくらいの『契約結婚』の、徹底的に現代に置き換えるという改作は、選択としては正しいと思う。もうドラマも終わったので言ってもよかろうが、原作は主人公と真砂子が離婚するあたりで終わってしまっていて、後は全部創作。若林は全く出てこない。他の登場人物も、ほとんど何から何まで設定が変えられている。要するに全く別物と思った方がいい。

「好きな作家は石川達三です」なんて人にお目にかかったことはないが、こんな作品を量産していたのだから、やはり偉大な文豪であるな……(65)


石川利光 (1914-2001)

春の草 (1951)

則私去天型の我侭女に翻弄されるダメ男の話
というんだが、キワモノを使っている割にはインパクトが薄く、実を言うと今こうして評を書いていて評者自身内容がよく思い出せない。そのくらい印象の薄い作品。メリハリがなさ過ぎる。芥川賞全集で行くと、前後にインパクトのあり過ぎる作品が来ているせいかもしれない。

評者個人的には何の意味もない作品(50)


石塚喜久三 (1904-)

纏足の頃 (1943)

満州で今風に言えば負け組になってしまったモンゴル人一家の苦労話
取材の珍奇さもそれはそれで貴重なのだが、全編に漂う何とも言えないドン底の絶望感がえもいわれず重苦しく、嫌になりながらもどこか惹き付けられるものがある。純文学というのはこういうものだという見本のような作品といえよう。惜しむらくは、色々なものが詰め込まれてしまっているのでかなりゴチャゴチャしており、しかもそれをうまく収束させずに無理矢理終わらせてしまっている。内容から言って、中国語などをふんだんに盛り込んだ文体は仕方ないのかもしれないが、どれほどの効果があるのかは個人的には疑問。どう考えても「――」が使われすぎているのはどうかと思う。

もうちょっと整理したらさらによくなったと思うがそれでも貴重な作品(57)


伊藤整 (1905-1969)

鳴海仙吉 (1950)

タイトル通りの名前の詩人兼文芸評論家大学教授のほどほど華々しくも鬱屈した日常

が「かつての『ブンガク』とはこんなだったなぁ…」と思わず遠くを眺めたくなる文体・構成・内容で綴られていく。

スタンダールの「恋愛論」と「赤と黒」との関係になぞらえるのは適切かどうか分からないが…著者自身による「小説の方法」の実践編と言って良いものなのかもしれない…けど…残念ながら「方法」の方がずっと面白い。

要するにこんな何時代も前の「ブンシ」の爛れた日常をいまさら垂れ流されても…って気しかない…特に大学教授間のイザコザは、まさかいまだに「こんな」ではなかろうが、中にいた人間としては「ウンザリ」以外の感想は特にない…少々「楽屋落ち」みたいな悪ふざけが入っているのは悪趣味とすら思う。

多分小説と批評の融合みたいな試みもなされているんだとは思うが…あまりうまくいっているとは思えない。

当時の社会情勢や風俗などをうかがうにも、もっと適したものがあるであろうから、その意味でもあまり存在意義は見いだせない。

直接関係ないが「いとうせい」で予測変換が出てこないのは結構驚いた(「いとうひとし」ではなおさら出てこない)…これだけ作品を貶しておいて言うのも何だが、もはや「過去の人」なのか…


21世紀の現在にこれを読む意義というものを考えねばならなくなる作品で、ここでも何度も言ってきたフレーズだが「もっと古くなって「古典」になるのを待たねばならない作品」だろう(49)


井上靖 (1907-1991)

闘牛 (1949)

タイトル通り闘牛を企画した小新聞社スタッフの苦労話
なのだが、まずこの文豪の事実上のデビュー作にもかかわらず文章がヘタクソなのに驚く。新聞記者が書いたしかも芥川賞受賞作がこれか? と思わざるを得ない。特に前半には、こなれていないくせに修飾が入り組んだ長い文章が散見されて時折読みにくく、イライラする。ストーリー的にも「社会派」と行きたい所なのだろうが、踏み込みが足りない問題がいくつも寄せ集められているという感じしかしない。特に主人公とその妻の問題は余計だろう。読み物としてはそこそこだが、これで井上靖を判断されては困るだろうというレベルの作品。

井上靖は本当に久しぶりに読んだが「これが井上靖か?!」と愕然とした(48)


宇野鴻一郎 (1934-2024)

(2024/08/28亡くなられました 御冥福をお祈りします)

鯨神 (1961)

鯨取りの漁村で巨大鯨と闘う男の半生という言わば日本版「白鯨」
特に好んで猟師や狩人の小説を読んでいる憶えは全くないのだが、何故かこういう作風は好きだ。大エンターテイメント作家の事実上のデビュー作だけあって、ストーリーの組み立て方、描写ともにスリルがあり満足感が得られる。ただ、それだけに、欠点が目立つのが惜しい。まず、文章が荒く、時折折角の雰囲気が白けてしまう。最初は語りの人称がふらふらしていて、最後に来ると叙述の人称が変わってしまうのは効果があるどころかかえってブチ壊し。人称を変えて語られる内容も単なる浪花節で、実に残念な結末になってしまった。きちんとひねりが効いたラストになっているだけに惜しい。

満足感と残念な感じを両方味わう妙な作品(66)


遠藤周作 (1923-1996)

白い人

コンプレックスを抱えた斜視の神学生がナチに協力し自分の「裏」的な同期生に復讐する。
何となくニーチェ臭いのが軽薄で嫌だし、気取った文体や書き方が鼻に付くが、著者の問題意識はうまく表現されていると思う。無理矢理に宗教的な問題を持ち込んで不自然ないかにも作り物の小説を作っているだけの某宗教系作家とは格が違うのが分かる。結局問題の掘りさげ方、思考の徹底度が違うのだろう。その割には結構文章が軽い(それはそれでいいのかもしれないが…)上に、特に前半は下手な表現が案外見られる。継ぎはぎのように唐突に文章を繋いだ箇所が所々あるが、効果を上げており、意識的なものだとすればさすがだ。結末はやや唐突に終わり過ぎている気がする。

昭和を代表する偉大な作家の出発点らしい、こじんまりした作品(65)


大城立裕 (1925-)

カクテル・パーティー (1967)

娘を米兵に強姦された沖縄人がアメリカ人や中国人との付き合いを反省する
過程がやや前衛的な臭いの漂う筆致で綴られていく。存分に書き込まれているとは思えないが、主人公の心理の揺れは中々巧く書かれていて読める。しかし、どうも御都合主義的な展開が興醒めな上に、色々な工夫や仕掛けもどれだけ効果を上げているのかよく分からず、単に邪魔なだけ。特に後半が突然二人称小説になっているのは意味がないと思う(色々な作家が二人称に挑戦してはいるがことごとく失敗しているのは、やはりこのスタイルが難しいからだろう)。西洋人の身勝手、東洋人の卑屈、沖縄人のひねくれたコンプレックスといったものは嫌になるくらいうまく出ていて嫌になる。国際理解は今となっては薄っぺらで笑えてくるくらいだが、本土復帰前の沖縄でこんな作品が発表されたというのは十分驚いていいことだろう。

時代背景などを入れてようやく受け入れられる作品(57)


大庭みな子

三匹の蟹

海外生活をする日本人のヨタ話
に過ぎない。三島由紀夫が誉めたのも納得の、安っぽい作品(と言うと三島をけなしているみたいだが、そうではない。それが三島の魅力の一つなのだから。ただこの作品は三島の作品とは違う悪質な安っぽさが漂っている)。海外がまだまだ遠い世界で、舞台がそういう場所というだけでファンタジー的な雰囲気が生じた頃にはこれでよかったのかもしれないが、村上春樹以降はこれじゃ成り立たないだろう。大体最初でもう躓く。予備知識がないと、まず舞台が海外だとは思わないだろう。数ページしてようやくそれが分かり、さらに進んで、登場人物が日本人ではないと分ったりする。そしてその瞬間に、今までの文章が全て安っぽい西洋趣味に染まってしまう。その後のストーリーも特にどういうこともない。単なるヨタ話に、松浦理英子ばりの浅い文化論だのお説教だのが挟み込まれる。はっきり言ってものすごくつまらない。どころか、それでも真剣に書いているというのではなく、気取りや奢りのようなもの、もっと言えば読者を見下す感覚が垣間見えて興醒め。下らん。

何が面白いのかさっぱり分からない(39)


岡松和夫 (1931-)

志賀島 (1975)

大戦末期、タイトル通り九州は玄界灘の港町で、前途有望ながらも不幸に見舞われまくる友人やその家族との終戦体験
が、骨太な描写で、当時の風俗をふんだんに盛り込みながら綴られる。特に相撲絡み(というか双葉山)の内容が珍しくて面白い。描写が適格で悲惨さや苦難、それに堪えつつ諦めつつ生きていく仕方なさがよく伝わる。色々なことが起る前半はスリルがあるが、後半に入ると展開が流れる所が出てくる。出さねばならないものを全部出そうとしている感じでかなり乱雑に見える。しかも、前半の張詰めた雰囲気が持続せず、終戦して落ち着いてからはトーンが落ちる(それも空疎間が出ていていいのかもしれないが……)。ラスト付近は何とも言えない無力感がただよっていてなかなかいい。

多少乱雑だがよくできている。面白い。特に自分でも意識しているわけでないが、どうも海絡みの作品になるとのめり込めるみたいだ……何だろうか……(62)


尾崎一雄 (1899-1983)

暢気眼鏡

碌でなし小説家と、苦労しながらもついていく妻との生活風景。
のほほんとしたタイトルとは裏腹に、これじゃあんまりだろうというくらいどうしようもない主人公や、よく耐えてるねという婦人、子供や知人までにこれでもかというくらい襲いかかる不運な日常が素っ気無いどこかスカした所もある文章で淡々と綴られる(確か丸谷才一が「気取ってないことを気取っている」とか評していたな。納得……)。ドライな文体が鬼畜な雰囲気をさらに引き立てていて、独特のどん底感を醸し出している。そうかと思うと構成が意外と凝っていたりして中々手がこんでいる。内容的に重いが、高度に完成された世界が築き上げられている。さすがだ。

今となってはあまり顧みられない作家だが、やはり巧い。(83)


尾崎紅葉 (1867-1903)

金色夜叉 (1897)

御存知貫一お宮の悲恋物語(未完)
有名な熱海海岸のシーンはごく早い段階で出てきて、残りは皆後日談が延々と続く。簡単に言えば、金の問題で恋破れた男が守銭奴となりつつもわずかに人情は保ちながら生活していくという物語で、脱線を挟みながらも一貫している筋といい、本筋と付かず離れずで色々と生起する数々のエピソードといい、因果応報・怨念といったテーマといい、どことなく源氏物語を連想してしまうところが多いように、重層的な大物語となっている。しかし、生起したまま忘れられるエピソードやいつの間にか消える登場人物が少なからずある所まで源氏と似ているばかりか、物理的な動きが激しい場面では途端にドタバタになってしまうのは安っぽくて惜しいと思う。とはいえ、重厚長大かつ軽やかな娯楽作品という雰囲気を作り上げられているのは見事だろう。文体や叙述に関してはまだ模索の段階にあるらしく、色々な試みが伺えるのは個人的には楽しいが、うるさく思う向きもあるかもしれない。文章は講談のようなリズムがあって楽しく読めるが、さすがに古臭いので内容に付いていくのは慣れないうちはきつい(朗読向きだろう)。「彼女」という表現がなかったというのには驚いた(宮が「彼」と呼ばれているので最初は誰のことかと混乱した)。当時の風俗を保存した作品としても一級品であろう。続編までで物語は一区切りついているので(逆に正編だけだと物語がきちんと終わっていないので続編まで読まないと無意味)未完であることはそれほど気にならないが、尻切れとんぼに中断しているのはやはり惜しい。

決して読みやすいものではないが、今なお読む価値が充分ある作品だ(76)


小田嶽夫(1900-1979)

城外

中国駐在員と中国人ホステスとの惚れたはれた切った切れた物語。ただそれだけの話で、よくも悪くも普通。題材からして仕方がないのだろうが、漢字やルビが難しくてそれが読みにくい、というか書き手の奢りを感じずにはいられない。

「コシャマイン」や「地中海」が文学全集の「名作集」に必ず収められているのに比べ、これは時折無視されているのも納得な普通さで(55)


尾辻克彦 (1937-)

父が消えた (1980)

死んだ父の遺骨を入れに八王子の墓地へ行く
というただそれだけの、小説ともエッセイともつかない実に中途半端でいいかげんな作品。いきなり馬糞云々、そして次は夜尿と、まるで下品なのが芸術的な鋭さだと勘違いしているような悪趣味な展開に、中身も何もないペラペラの紀行文と、三流雑誌とかによくあるページを埋めるだけの水増し対談(「わははは」とか「なんだよそれ」「しらねえよほっとけ」とかがわざわざ書いてあるようなの)のような、しかも延々と続く会話と、作者の自己満足と自惚れ意外に何の意味もないとしか思えない、そもそも存在意義のない作品だ。天文だの何だの無理して衒学的な内容を盛り込んでいるが、やればやるほど白けるだけ。学生作家が義務教育程度の内容を喜々として盛り込むようなものだ。一体どういう人間がこんな下らないものを書いたのかと思って経歴を見ると、一応実績のある芸術家が四十過ぎて書いた作品と知って愕然とした(というか赤瀬川源平だ。嗚呼八十年代って雰囲気だな……あの時代の悪い所が集約されている)。芥川賞はここで死んだと言ってもいい。昭和末期・八十年代の文化的荒廃を象徴するような不様な似而非文学的ゴミにすぎない。

こんな作品が芥川賞になるという事態がもう信じられない。まだ全受賞作は読んでいないから分らないが多分芥川賞受賞作で最低の作品だろう(15)


小尾十三 (1909-1979)

登攀 (1943)

日本占領下での日本人教師と朝鮮人生徒との交流
時節柄仕方ないのかもしれないが、この時期の芥川賞(全集で言うと第三巻)はこんなのばっかりでいいかげんうんざりする。この作品も設定は魅力的なのだが、ごちゃごちゃした構成のせいでまるで台無しになっている。もっと整理して分かりやすくしたらかなりまし、どころか名作になりえたであろうに惜しい。タイトルの「登攀」が全体にどういう意味を持っているのかもよく分からない。寡作に属するこの作家の処女作だけあってか、とにかく何でもかんでも思い付くままに放り込んでしまったという感覚が残る。

状況がそれを許さなかったのかもしれないが時間をもうちょっとかければよかったのでは……(51)


開高健 (1930-1989)

裸の王様

真の絵画教育を追求する絵画教師が、情操のかけらもない金持ちの息子を引き受けて育てていく過程での痛快な事件。
全体を社会批判が貫いていて中々痛快に読めるものの、構成は多少ごちゃごちゃし過ぎていて、最初は全体像が中々つかめないかもしれない。だが二度目は結末が分かってしまっているので結末の痛快さという面白味はやや減ってしまう。難しいものだな。文章や表現はさすがに巧く、スルスルと読んでいける。大江健三郎を余裕で押さえて芥川賞になったのも納得(内容はともかく読みやすさという点では大江(特に初期の)に期待はできない)。多分意図的に平仮名が多い言葉遣いが採用されていて、どことなく山本有三を連想した。
多分そんな意図はなかったと思うが、絵画を文学に置き換えて読むと何か強烈な皮肉になりそうな気がしてきた。

昔はこういうのを「普通でつまんねー」とか言っていたものだが(もちろん当時の「アイドル」は大江健三郎であり安部公房であった……)、今となってはこういうのを書ければいいなぁと思ってしまうのだから、人間って変わるものだな…(78)


加賀乙彦

帰らざる夏

大戦末期幼年学校で青春を過ごした少年の、終戦後まさに二度と「帰らざる」夏までの体験記

がリアルな筆致と数々の伏線や仕掛けと共に延々と続く。当時をうかがう「資料」(作者の体験を基にしているとはいえフィクションなので歴史的な資料にはなりえないが…)としては面白い

が…率直に言って仕掛けの数だけ瑕にも事欠かない(要するにケチを付けようと思えばいくらでも付く類の作品だと思う…)…

評者が個人的に気に入らなかったのは序盤で言い訳ばかり書いてることと、その後に取って付けたように出てくるBL的展開で、どちらも作者は書きたかった内容なのだろうけど…読む側のことをちょっとは考えてくれてもよさそうなものだと言いたくなる(言っておくけどBL的展開と聞いて興味を持った向きがあるとすれば…あまりお勧めはしない…そう…あまり質は良くない…)。

終戦時の玉音放送を巡るゴタゴタがクライマックス序章となっているのだが、大日本帝国軍部のしょうもなさが覗えてその点では屈折した意味で面白い(いわゆるネタバレになるので伏せるがここから本当のクライマックスに至る展開はこれもまた取って付けたようであまり感心しない…(色んな意味で三島由紀夫の粗悪なモノマネって感じだ…))。


単純に読み物としては案外読めるが(個人的には「雑音」が多くて今一つ楽しめなかったけど)…根本的に何かが足りない…(48)


梶井基次郎

檸檬・冬の日

岩波文庫版の短編集(といっても基次郎の場合短編しか存在しないのではあるが)
文学というものに興味を持ち始めた頃、学校でもらった文学案内のようなものを手掛かりに「名作」と呼ばれるものを手当たり次第に読んでいて、割とすぐに体験するのではあるが、正直「これのどこがいいのかさっぱり分からない」作家ならびに作品の最たるものが基次郎、なかんずく「檸檬」であった。時間が経ち、評者も人が大分変わり(苦笑)、自分でもつまらない小説だの何だの書くようにもなって改めて読んでみると、確かにこれはすばらしいものだと実感する。年はとってみるものだ。詩の感覚をそのまま小説につぎ込んでいるようなもので、どこを取ってみても世界のとらえ方、表現法とも研ぎ澄まされている。詩人出身の小説家で評者は唾棄している者が数人いるが、この文庫本の黒焼きでも飲ませてやりたいくらいだ。特に、自己の内面と外界とのズレや違和感がうまく表現されていて、哲学的にも結構面白い。表現法には実験的なところも多々あり、何も活字をさかさまにしたり記号を使ってみたりするだけが前衛ではないのだということも思い知らされる。このような作家が存在し、しかも単なる同人誌作家であったということに驚き感心するとともに(そして作家本人の外見とのギャップにはいまだにショックを受けるとともに)、あまりにも生き急ぎすぎた生涯に残念さを禁じえない。
例によって:○「ある心の風景」「筧の話」;残りには何も付けられていないが、レベルが非常に高いので例えば田中康夫の短編集の○と同列に考えることはもちろんできない。「のんきな患者」は「プレ檸檬」として貴重な作品でもある。

やはりこれはすごい。いつかこれを超えたいものだ(89)


柏原兵三

徳山道助の帰郷(1958)

タイトル通りの軍人の半生記
が、延々続く。軍人の悲哀や周囲の人間の愚劣は上手く描かれていて、当時の風俗の記録としても上等であることと相俟って、中々楽しめる読み物となっている。しかし、それにしても長い。一人の男の半生を描き切るにはこのくらいの分量が必要なのかもしれないが、長さのせいで結局何が焦点なのかが今一つ分かりにくくなってしまっていると思う。もう少し内容を整理できればよかったのかもしれない。

記録文学的なものとしてはそれでも貴重なものだろう(61)


梶山季之

破廉恥な女 (1968-71)

タイトル通りの色々なハレンチ女が各篇ほぼ一人ずつ出てくる短篇エロ小説集
頼まれてネット上でエロ小説を書いていたことがあって(「読み手」の身勝手と傲慢が嫌になってすぐやめたが)、その参考にしようと思って特に何の意味もなく買って読んでみたのだが、意外と読めるのでビックリした。「三日で三百枚」という伝説を持つ超流行作家だけあって、一見して分るようにページはどこもスカスカだが、意外と文章にスピード感があり結構楽しめる。こう言っては失礼かもしれないが意外と日本語を知っていて語彙も多く格調高い文章で、下手な純文学より質はいいかもしれない。時代資料的な価値も案外あると思う。様々な変態性欲やフェチが出てくるがどことなくユーモラスに書かれているので決して重くない。渡辺淳一に読ませてやりたいくらいだ。というか見習え! と言うより恥を知れよエロジジイ!
例によって目次の印を紹介すると、複数の丸に肯定的コメント「ヒイヒイの女」「パクパクの女」;複数の丸「インチキの女」;○「名器の女」「ベトベトの女」という具合。表題作だけは書き足りないと思う。

かつてはこんな小説でもこの水準を保っていたのかと思うとえもいわれない……(59)


ミスター エロチスト(1968)

犯罪を犯した変態性欲者の牧師の手記
が例によって改行の妙に多いスタイルでビュンビュン語られていく。文芸に関心のある人間なら聞いたことのない者はモグリであろう伝説の「三日で三百枚」書かれたその作品である。そういうエピソードがついて回る作品ゆえ、ものすごくやっつけな作品かと思うと意外にも(と言っては失礼なのだろうが)しっかりしている作品であることに驚く。このエピソードを聞かされなければまさか三日で書かれたものとは誰も思うまい(ゼロから書かれたのではなく、それまで暖めていたアイデアをもとに一気に書いたという話ではあるが)。逆に言えば、これ以下のものしか書けない作家はかなり問題があるということだ(まぁそんな作家ばかりなのであるが……気の毒だから具体例は挙げないが……)。
内容的にも、今でこそ「フェチ」だの「S」だの「M」だのが普通に語られるものの、こんな時代にこんな変態趣味を描ききった作品があったということにも驚きである。そしてまた描き方も、今日ウケ狙いや話題性だけでこういう題材に手を出す(これも具体例は挙げぬが……)作家など足下にも及ばないくらい深く、エロくて、しかもどことなくユーモアがあるので重すぎもせず、なかなか読める。

現在絶版で、評者も永らく探してようやく手に入れたが、もっと読まれるべき作品だ。特に、これ以下の作品しか書けない「芸術性が高い」とか言われている純文学作家はこれを読んで格の違いに愕然とした方がいい(50)


川村晃 (1927-1996)

美談の出発

連れ子を抱えたダメ女と結婚して苦労するガリ版職人のダメ人間の苦労話
というただそれだけのことで、だから何だという位しか感想のない作品。ダメ人間描写はよくできているのかもしれないが、どこかダメ人間を気取っている雰囲気が漂っていて絶望感や倦怠感にも今一つ突き抜けたものがなくただ中途半端な不快感を煽られるだけ。おまけに文章が下手で、ひらがなが多すぎて読みにくかったり、一読して意味のとれない悪文がしばしば見られてイライラする。労働運動のバカさ加減が描かれているのは面白いがそれもどこか冷笑的なので、ここでも問題をただ撫でている感覚しかしない。確か何かスキャンダルを引き起こした作品ではなかったかと思うが、そのくらいしか文学史に残すものはない。

「第三の新人」後の衰退の予感を感じさせる情けない身辺雑記(47)


唐十郎 (1940-2024)

(2024/05/04に亡くなられました 御冥福をお祈りします)

佐川君からの手紙 (1981)

劇作家として既に著名だった著者による芥川賞受賞作

であるが… 紛れもない駄作である…

「佐川君」とは言うまでもなくいわゆる「佐川事件」の犯人である佐川一政であるが… それをこの作品から抜いたら何が残るのか? さらに、著者が別の分野における有名人であることをさらに差し引いたらどうなるのか? 何か残るのであろうか?…

芥川賞受賞作に、実在の事件に取材したものはいくつかはあるが、その例外的に珍しい作品…ということで存在意義を見出そうとしても残念ながらそれも無駄である… 著者がまるでそれをはぐらかすかのように内容をそらすからである(これが「ふざけた」結果ではないことを願うものであるが…「まじめ」にやっててこれなら…なお悪いと言えるかもしれない…)

著者が「ふざけ」ているのではないかと疑う理由は読めば誰でも分かると思うが… 仮にも獄中にいる人間にこんな内容の手紙を出す人間がいるであろうか? しかも、どうやら著者本人にその自覚があるらしいのである(嗚呼!) 仮に評者・私が獄中でこのような手紙を受け取ったら二度とこの人物からの手紙は受け取るなと言うであろう

有名劇作家にしては文章が稚拙であるとか、ストーリーがお粗末だとか… 他にも瑕には事欠かない

(細かいことだが「ワイ君」という表現がどうにも「障っ」て読めない…(「一人称が「ワイ」である人」なのかと思った) なぜ「Y君」と書かないのか?(「H君」という表現はしているのに…))


芥川賞というのはある意味では非常に「政治的」な文学賞である、ということを裏付けて実感させてくれるような愚作だと思う(14)


菊村到 (1925-1999)

硫黄島

硫黄島玉砕の生き残りが苦悩した揚げ句に硫黄島で自殺した背景を新聞記者が探っていく。
一応戦争ものということにはなるのだろうが多少毛色が変わっている。推理小説のような仕立てがサスペンスタッチの文体で綴られており、読みやすいことは読みやすいが、娯楽以上のものを求めて読むとその辺が全て切り落とされてしまっているので、中々答えてくれず全体に軽い印象しかしない。主人公の苦悩を掘り返すにしても踏み込みが浅すぎて、それがどうしたという感じしか正直しない(はっきり言って楳図かずおの同じような作品の方がよほどインパクトは強い)。従軍経験者が読んでも癒されないだろう、これじゃ。おまけにラストは本当に取って付けたようなものになっていて明らかに書き足りない。

「中間小説」華やかなりし頃にもてはやされたタイプの作品に過ぎない。技術的には巧いが賞味期限切れ。(47)


北杜夫 (1927-2011)

夜と霧の隅で (1956-60)

短編集。著者のごく初期の作品を寄せ集めたもので、相互に連関はないが、自我や自意識のあやふやさというようなことが共通の問題になっている。表題作はナチ支配下の精神病患者抹殺とそれに巻き込まれる日本人の話。
どの作品も自我がぼやけていく感覚がもやもやと表現されていて、それを楽しめる向きには楽しめると思うが、受け付けない人には「何のこっちゃ」でしかないだろう。最初二編はそれが進み過ぎて筋自体が訳分からなくなっているところもあるから楽しめなければきついかもしれない。表題作は史料的な価値もあるのかもしれないが、衒学的な蘊蓄も相俟って寄せ集め的な印象が強い。個人的には「トンデモ」な内容を扱った作品や箇所が面白い。特に「霊媒のいる町」は「トンデモ純文学」として貴重。

最近はメガロマニアの金儲けという印象しかない精神科医系もの書きが面白い仕事をしてくれていた時代の遺産であろう(なだいなだ・小此木圭吾・岸田秀までは面白かったと思う。思えば斉藤茂太が「堕落」の先駆だったか? 皮肉なものだ……)(63)


京極夏彦

魍魎の匣

神秘めいた女子学生が事故の後謎の病院から消える。その後、彼女の背後にうごめく陰謀・策略の数々、次々と発見される箱入りバラバラ死体、謎の「御箱様」等々、謎また謎の展開が延々延々続く。
下手な辞典よりも分厚い装丁に正直ヒくが、文体が重過ぎず軽薄過ぎず、読みやすくできているので意識しないでいられる、と言いたいところだが、やはり長すぎる。はっきり言って疲れた。上手いことは上手いが、着いていけないというのが本音だ。ファンにはなりたくないというより、ファンがいるのが信じられない(というより身近に見たことがないのだが……)というのが本心だ。最初からスリル感がものすごいが、長さでどうにもダレる。「この長さが魅力」という気分には到底なれない。ストーリーの構成も全体を眺めたらよく練られているのかどうか疑問で、長くしすぎて見渡せなくなったのではないかと言わざるを得ない。
長さ以上にどうにも気に入らないのは、その凝った表現だ。まず文体はどう考えても凝り過ぎで、時折やりすぎで読みにくくなるほど。所々にどうも障る表現が見られ、それはもちろんごく少数なのだが、全体が読みやすくできているので相対的に目立ってしまう。表現上の実験も色々となされているが、効果にはバラつきがあると思われ、明らかに滑っているものもある。
聞くところでは、装丁やレイアウトにもかなりこだわりのある作者らしいが、その点も正直どうかと思わされる。まず、妙に字間が詰められていて、ギリギリ開いているということが珍しくないどころか「中中」なんて完全にくっついてしまっていたりする。なぜこんなことをわざわざするのかさっぱり理解できない。もう一つ、フォントにもこだわっているらしいが、この点は甘い。これは間違いなくそう言える。というのも所々このフォントでは出ない文字を使っているらしく、その部分は完全に浮いている。これじゃ自己満足と揶揄されてもしようがあるまい。
衒学的な議論がずらずらずらずら続くのは、このような形でしかこういう議論に関わらない向きにはたまらないのかもしれないが、哲学なんて分野で一度は活動していた人間に言わせればべらべらべらべら長いだけ。そんなに深くない。小説の一部として読む分には面白いが、分量のバランスは明らかに悪い。「アストロジー」なんてボロを不用意に出しているのは興ざめだ。

面白かったのか面白くなかったのかよく分からない読後感に正直戸惑っている。はっきり言えば、ここまで長くしなければはるかにもっと面白くなったのではないか。(66)


清岡卓行

アカシヤの大連

終戦前後、大連生れの青年が色々考える。
詩の文体で小説を書く限界を感じさせてくれるというか、詩人が書いた小説の悪い見本と言うしかない自惚れと感傷にまみれたナルシスティックでグロテスクな代物。何より表現がひどい。詩ならこれでいいのかもしれないが、不必要にゴツゴツした漢語だらけで論文か何かのような固い表現に、軽薄な効果を増すだけの突然出てくるカタカナ語、助詞や修飾が乱れた座りの悪い表現に、とどめはやっぱり出てくる体言止めで、作者だけが酔っているのが有り有りと分かる。おまけに人称と言うか語りの視点に対する感覚が鈍感で、一応三人称で書かれてはいるが実質一人称と乱れていて(どころか一部二人称になってしまっている)イライラする。普通の作家なら一行空けのところがことごとく二行空けになっていて、後半などそれが頻発するので、創作メモを推敲なしにそのまま出したような雰囲気になっている。内容もまるでまとまってない。これで読者の感情を揺さぶることなど無理だ。哲学っぽい内容を語れば語るほどどんどん白けるだけ。系列としては池沢夏樹の先祖的なものと言えるかもしれないが、池沢夏樹がマシに思えるほど下らない。

安部公房、三木卓など詩人出身でも好きな作家は何人かいるが、この作者とこの作品をその中に入れたくはない(37)


桐野夏生

天使に見捨てられた夜 (1994)

フェミニストに依頼されてAV女優を探す女流探偵の活躍
ほどほどにトホホ感漂う魅力的な設定に張り巡らされた伏線や謎、それらを煽る小道具と素材を贅沢に盛り込んで丹念に書かれていく前半は無茶苦茶面白いが、謎がだんだん解けてくる後半に入ると一気に緊張感がなくなってしまうのが何とも興醒めで、おまけに最後は無理矢理終わってしまうからシラけまくりで読後感はかなり悪い。途中でやる気がなくなったのか。それとも単に緊張感が切れたのか。あるいは締切とか枚数制限とかで無理矢理収束をつけたのか。そんな雰囲気漂う残念な作品。文庫版の解説を担当している作家はこの機会を利用して自分の主張を垂れ流しているだけで結果的に底の浅さを露呈させてしまい絶望的につまらん。

後半三分の一くらいはどうにかならないの?って雰囲気……(54)


金史良 (1914-1950)

光の中に (1939)

在日の教師と「ハーフ」の子供との交流
をこじんまりとまとめた作品。善くも悪くもただそれだけで、「在日」という文脈がなくなったら何の意味があるのかと思わずにはいられない。どうも、在日・沖縄・東北あるいは部落などこの手の特定の文脈を前提としている文学には何か常に疑義を感じてしまうのだが……。それを超えるものがあるかと言えば怪しいと言わなければならない。作者が問題としているものを共有できない読者にはただの物語りでしかなく、種々の道具立ては逆にジャマになりかねない。結末はやや安易で書き足りないと思う。

小説としてはそこそこ書けているとは思うがそれだけ(50)


久世光彦 (1935-2006)

(2006年3月2日永眠されました。ご冥福をお祈りします)

一九三四冬−乱歩 (1989)

タイトル通りの時期、スランプに陥った乱歩が怪しいホテルに逃げ、そこで怪奇小説を着想して書く
のが久世先生らしいシリアスさとユーモアが程よく混ざった表現で重いような軽いような独特の調子に綴られていく。最初評者は作者を演出家の久世光彦と同姓同名の別人だと(江川卓みたいなものかと)思っていたので、同一人物と知って驚いたくらいだ。そのくらい小説としてもよくできていて、読める。しかも、これだけ仕掛けに凝るタイプの作風を持った人だとは思わなかった。とにかく色々とひねりが効いていて、またそれがどれもうまく機能している(さすがテレビの演出家だと言うべきか)。特に、色々な道具がリフのように機能しているのが単純に技法として上手い。小説家を主人公にして作中で小説を書かせてしまったためか、知的な登場人物を何人も入れ込んでしまったためか、かなりの予備知識を要する内容も盛り込まれており衒学的と言われても仕方ないほどではあるが、知的脱線としては中々楽しめる(さすがに評者も時折着いていけない内容があったが……)。作品自体が簡単な小説論にもなっているのは、書く側の人間にも参考になる。そして、作中で乱歩が書くことになる倣作「梔子姫」は、評者は乱歩には詳しくないのでどのくらい似ているのかはよく分からないが、確かによくできていて面白い。
ただ、これだけ完成度が高いので、後半に入ってやや物語が退屈になるのが惜しい。本当に惜しい。最後にもう一ひねりあれば、大傑作になったであろうに。というわけでラストは尻切れトンボもいいところで、全くいただけない。もう一つケチを付けるとすれば、エロな内容が下品であまりセンスを感じられない。自虐的なユーモアとエロが絡み合わされているのは面白いのだが……

後半がもうちょっと何とかなっていればさらにいい作品になっていたであろうに惜しい(62)


国木田独歩

武蔵野

この大作家の代表作であるタイトル作を中心に随筆(タイトル作も随筆)やら散文詩やら翻訳やらまで色々と寄せ集めた作品集
で、特にこれといって内容的なまとまりはない、ものの、新しい文学が生まれつつある過程で成功した試みが惜しげもなく披露されていて、二十一世紀となっては歴史的な意味合い以上に特にこれといって読み返す必要はないものの、表現的には意外と新鮮な驚きを味わうことができる。「何かが起こりつつある時代なのだな」という雰囲気がプンプンして、このような時代に生まれたかったものだと無責任な憧憬を抱いてしまう。
それにしても、この作品集の完成度と比べ、詩人出身の散文家はいつから情けない小説を垂れ流すようになったのであろうか(実際に読んだことはないので何とも言えないが、石川啄木の挫折が何か一つの転換点だった予感がする。あるいは永井荷風か?)。詩の感覚で小説を書くとは、こうするのだという見本のような作品である。
例によって:○「星」「おとづれ」「詩想」「忘れえぬ人々」「まぼろし」「川霧」「初恋」;後は無印ではあるが、言うまでもなく昨今のしょうもない作家の短編集と比べるのは酷というもの。

歴史的な意義を超えて読む価値は十分ある。とはいえ、単純に内容だけ見るとそんなに面白いものでもないのだが……(61)


久米正雄

学生時代

タイトル通り、学生、なかんずく一高・東大生絡みの短編が都合十二編
評者が今回読んだ版にはアニメのカバーが付いていたのだが(かなり前に純文学の名作を三十分のアニメにするというシリーズがあって、評者も楽しんだ記憶があるが、その絡み。高尚な時代であった……)、確かにそんな雰囲気もあるにはあるが、そんなフワフワした雰囲気など途端に吹っ飛ばすくらい内容は重い。かつての文士はこういうものだったのだなぁと、体験してもいないのに郷愁を覚え、時代に一種の羨望を掻き立てられる。例えばこれと大江健三郎・庄司薫・佐藤亜有子などを比べると、かつては自らの存在を賭けて知的な営みに挑んでいた東大生がどんどん崩れていく様が実感できて、何とも言えない……時代的に古臭さは否めないが風俗資料としても中々面白い。
前半はいかにも大学生小説だなというものが多いが、背後にあるものが分厚く、またそれを強靭な表現で表してくれているので、かなり読みごたえがある。技術的にも非常に高度で、色々と勉強になる(嫉妬と羨望を感じつつ盗める所を探しながら読んだ)。哲学的な内容の捻じ込み方も上手く、内容がありつつも邪魔をしていない。内容的には後味悪い、嫌な気分にさせられるものもあるが、でまた実に不愉快な雰囲気のままに放り出してくれる結末がそれを煽ってくれるが、こういう純文学的な不愉快さが好きならばたまらないだろう。表現的には意表を付きつつも格調が高いという、やはり文学は純文学だなと思わせてくれる箇所に溢れている。西洋語の影響が強い表現が目立つが、特に目障りではない。
例によって;二重丸「受験生の手記」「艶書」「復讐」「求婚者の話」「万年大学生」;大きい丸「鉄拳制裁」「密告者」;小さい丸「選任」「嫌疑」;×「文学界」 最後四編はすばらしい。特に「求婚者…」は実験的で面白い。「艶書」「復讐」はラストがすばらしい。

これは久々にまいった! こんなのが書ければさぞかし満足だろう(89)


倉光俊夫 (1908-)

連絡員 (1942)

タイトル通り新聞社の在中連絡員の半生
つまらん! 久々に腹が立つくらいつまらん小説を読んだ。最初の墓の描写は、何が起るのだろうとワクワクさせられるが、その後は事件の説明がズラズラズラズラ続くだけで退屈極まりない。中国語のルビとかは内容からしょうがないとしても、無理にそうしたとしか思えない純文学臭い文体や勿体つけた表現は逆に白けるだけ。自費出版で出された半生記とかのレベル。

恐ろしくつまらん(28)


車谷長吉

塩壷の匙

短編集;内容的にはいわゆる伝統的な私小説の王道を行くもので、基本的に作者の分身と思しき主人公の奇矯な生活・生涯、悪辣さや暗黒面までこれでもかと暴露される
ひさびさに「これは純文学だ」というものを読ませていただけた気がしている。というより、このような作風が二十一世紀の現代にまだ生き残っているということが、決して嫌味ではなく、驚きである。まだこういう営みをしていてもいいのだ、想像力も何もない頭の悪い読者に合わせる必要も、文学を商品としてしか見られない送り手にも、おもねる必要は何もないのだ、と背中を押されたような気がする。
しかし「これは今あるべき文学ではないな」という気にもさせられた。妙に凝った語彙や表現(要するに難しい漢字)が多用されていることに象徴されるように、無理して純文学にしているという感覚は収録の全ての作品に通底している(どこかで著者は平野啓一郎を唾棄していると耳にした覚えがあるが、そうだろうなという気もする。もっとも「無理矢理純文学」度は平野よりも低くかつスマートで、純文学の末裔としては明らかにこちらの方がまっとうである)。要するに文体はいくらなんでも凝り過ぎで、嫌味ですらある。ここまであからさまな純文学的体裁をとらずに、この内容を存分に表現できればよいのだろうな、という気はするが、それは我々(曖昧な言い方で恐縮だが)が追求せねばならないのだろう……小説としての技法も高度なものがあり、感覚描写と情景描写とのバランスや両者の間の往還にセンスのよさが垣間見えて非常に勉強になった。
例によって:二重丸「吃りの父が……」;○「白桃」「塩壷の匙」 残りは無印だが、これで凡作家(もう気の毒なので例は挙げませんが)の二重丸とかのレベルである。とはいえ、「愚か者」は単純に意味不明。なおタイトルの「しお」は本当はもっと難しい字。

久々に気持ちがいい。内容的には「気持ち悪い」の一言につきるのだが、こういう訳の分からない不快な快感が味わえるのが純文学なのだな……もう純文学は「変態」のためのものになってしまうのだろうか……(77)


玄侑宗久 (1956-)

朝顔の花 (2001)

新しい出合いをした女性が霊能者の手助けまで借りて忌わしい過去を乗り越えようとする。
まず、この作者に女性が主人公の作品を書くことは無理ではないかと思う。主人公が「女ということになっている男」にしかなっていない。そして、僧侶であるという立場上仕方ないのかもしれないが、いつもながら宗教的な内容を無理に盛り込もうとするあまりストーリーはちぐはぐなものになっている。この作家は自作から一度仏教的なものを払拭することを試みなければならないのではないか(というか禅宗の坊さんだろ? 何にしがみついてんの? って感じがするんだが……関係ないがそう考えるとやっぱり遠藤周作ってすごかったんだな……)。仏教と名がつけば何となく有り難がる一般人も悪い。いくら宗教絡みでもつまらない小説には「つまらない」「内容がない」と言うべきだ。

この作家はこんなニューエイジの水割りみたいな小説をこれからも作っていくつもりなのだろうか? それとも作家として地位を確立したら後は誰かさんみたいな説法文化人になるつもりなのだろうか?(もうなってる?!)(30)


中陰の花

僧侶が体験した「神秘現象」に仏教用語や何やかや持ち出してもっともらしい理屈をかぶせ「トンデモ」度を薄めただけの、少し高級感漂うニューエイジ小説、としか思えない。被せられる理屈も正直「(浄土真宗ならともかく)禅宗の坊さんがこれかい?」というものでしかない。所々吹き出すような幼稚な表現がある。読み通すのが苦痛だった。

仏教と言えば無条件に有り難がる年寄りやオバサン、「ムー」も飽きたからそろそろ背伸びしたいニューエイジ連中にはたまらないのでしょう……嗚呼…… (33)


郷静子 (1929-)

れくいえむ (1972)

必死に「軍国少女」であろうとした少女が体験した大戦末期から終戦までの苦労話
が、女友達との往復書簡の引用をふんだんに盛り込みながら延々と続く。まず、こういう構成上の工夫がどういう意味を持ちどんな効果があるのか今一つ分らない。主人公やその周りの人々が色々な文学作品を読んでいるのもストーリーとどう絡んでいるのかよく分らない。そういうことが気になってどうも乗らせてもらえなかった。表現は瑞々しく独特の湿った雰囲気を持っていて(所々不用意に固い表現があるのが珠瑕)、最初は心地よい絶望感を味わえるのだが、退屈さに耐えられなくなってくると、いくら面白い表現や描写が出てきても全部白けてしまう。結末に近付くとまたスリルが出てくるので、中盤をもっと絞れればよかったのだろう。大体において長過ぎる。ただ、ドン底のラストはいい。もっと上手く引っぱれればもっと生きたであろう。時代資料としても価値を有する作品と言える。

もうちょっと絞り込めば確実によくなることが分るだけに惜しい作品だ(56)


河野多恵子 (1926-)

(1963)

結核治療で房総にやってきた女が甥のために蟹を探し歩く
というそれだけの話。どうもこの作品はこの大家の本領を発揮した作品ではないらしいのだが、それにしても何も起らなすぎる。書き方は上手く、なるほど名人芸を感じるものの、蟹が見つからないもどかしさも伝わってくるものの、だから何と言うしかない。前半の「どうしてこのタイトルが?」という部分と、タイトルが落ち着いてから以降は分離していて、構成はもうちょっとどうにかならなかったのかと思う。雰囲気は中里恒子を連想するが、妙に凝った漢字が多用されていて嫌らしさを感じる。

うまいだけ(52)


小谷剛 (1924-)

確証 (1949)

鬼畜な医者の変態性愛遍歴
最近なら「ハリガネムシ」「蛇にピアス」と芥川賞も鬼畜変態倒錯モノが取り上げられることが多いが、戦後まもなくこんな筋金入りの鬼畜ネタが受賞していたとは知らなかった。いきなり出てくるのがロリコン紛いで、そして中盤を過ぎると主人公にまとわりつく醜い身体障害勘違い女が出てきて雰囲気はもう最悪だ。特にこの醜悪な女を無理矢理犯すシーンなどもうこれ以上最低な陵辱シーンがあるだろうかというくらいに悪趣味でクラクラしてくるが、評者など結局根が変態なので案外楽しんでしまった。主人公はよく分からない精神構造の持ち主(単純に著者その人の分身らしい)で、それがそのまま描かれているから、その辺は結局何がなんだか分からないようになってしまっており、それで作品が単なる悪趣味変態ものに成り下がってしまっているのが惜しい。小説としてはかなりごちゃごちゃしているので、その辺がもうちょっと整理されていたらもっとすばらしいものになったのではないかと思う。とにかく、こんな時代にこんな所にこんな作品が埋もれていたのは驚きだ。

悪趣味や虚仮威し、ハッタリも個人的には嫌いではないが最低限このくらいはやってほしいというものだ(63)


小島信夫 (1915-2006)

2006年10月他界されました。ご冥福をお祈りします。

アメリカン・スクール (1954)

タイトル通りアメリカンスクールを見学に行く日本人英語教師達のアホバカ振り
がやや饒舌な文体で綴られていく。アホバカ教師達の卑屈、コンプレックス、無駄なプライド、党派意識などがきっちり書き込まれており、個々の登場人物もキャラが立っていて、コミカルなのに笑えないという作りになっている。見事だ。というか、英語教育の状況が全然変わっていないことに絶望させられる。中学の夏休みにはこれを課題図書として強制的に読ませるべきだ! 惜しむらくは、ラストがプツッと切れる感じであっけなすぎる。

「第三の新人」の中では地味な存在だったのが今や大文豪なのだから分からないものだ。というか後が続かなかったというべきか、日本がもはや文豪を必要とせずどうしようもない「ブンゴウ」が徘徊するようになってしまった、というべきか……(73)


抱擁家族 (1965)

コンプレックスの塊の翻訳家が妻を外人に寝取られ、下手にアメリカ風の家を作り、妻を癌で無くし、徐々に壊れていく様
が妙にシュールな筆致で延々続く。正直、何が何だかよく分らないのだが、何だか分らない説得力があって、翻弄されながらも案外楽しめてしまった。これぞ純文学という雰囲気を味わわせてもらえた。前半はさすがに一体何が起っているのかさっぱり分らないので、この時点で投げ出してしまう危険性が高いだろう。しかし、中盤に入って主人公の妻が癌で倒れて以降は、もの凄いスリル感が出てくる。主人公の鬱屈や葛藤は上手く書けているのだが、訳の分らないものを描いているので高度に訳が分らないという妙なことになってしまっている。ラスト付近は主人公が完全に壊れてしまい、えらいことになっている(映画化するといいかもしれない。主役は……と考えるのも楽しい)。こういうものを冷静に書ける精神というのは、正直ついていけない。とにかく雰囲気が独特で、真似できない。会話が特に絶妙なズレ方で、よく分らんが何かいい。一つだけケチをつけると、多分グロテスクな家を中心にしたかったのだろうが、今一つ中心に居座っておらず、魔窟というよりも亡霊みたいに影が薄くなってしまっている。そこを何とかしたらさらに恐ろしい作品になったのではないかと思ってしまった。

やっぱり純文学はこのくらいうろたえさせてもらわないと……という見本のような作品だ。滝井孝作の「無限抱擁」があまりに期待外れだったので、似たタイトルのこの作品が気になって読んでみたが、全然いい(82)


後藤紀一 (1915-1990)

少年の橋 (1963)

ろくでなし画家の親父に愛想つかして母親と一緒に家を出た少年の揺れ動く心情
が少年っぽいというかはっきり言ってバカバカな文体でダラダラ綴られる。芥川賞全集を順に読んでいくと突然文体が妙に軽くなるので何事かと思う(まぁ色々ジャブはあったにしても)。本当に子供が書いたんじゃないかと思って、そんなことはありえないはず(丸健以前だし)と思って年譜を見たりすると、若者どころか中年がこれを書いたということを発見してまた驚いた。模倣だとしたら見事なのかもしれないが(下らないものを真似るというのもどうなのかと思うが……)、これしか書けなかったのだとしたら悲惨だ。ガキというのは所詮身勝手なものだが、その身勝手なガキがどいつもこいつもひどい身勝手な連中の中でグレていくのが書き込まれていてこれはこれで案外面白い。しかしそれだけ。

今なら作家志望の高校生とかが書きそうな程度の作品(49)


小林信彦

唐獅子株式会社

タイトルから予想される通り「アップデート」なビジネスに乗り出した「渡世人」が引き起こすドタバタ劇を描いた連作短編集。

面白い!エンターテインメントとしては理屈抜きに楽しめる。(ただ…二十一世紀にこのような小説が娯楽としてどのくらいの存在意義を維持できているのか…と考えると…何とも言えない感覚に陥るけど…)

「その世界」に関するあれやこれやは今日もはや作り物の「ギャグ」としてしか通用しないとは思うが…ゴチャゴチャ言わずに楽しむ分には問題ない…かもしれない…

過剰なまでにちりばめられたパロディは元ネタが分かれば分かるほど楽しめる作りになっていると思うし、大変な技術も感じるものの…やりすぎ感も感じないではない…


などとゴチャゴチャ言うのも野暮というもの…という良質な娯楽作品である…(61)


近藤啓太郎 (1920-)

海人舟 (1956)

海人(あま)と海女との骨太な恋物語
が内容通りの骨太な文章と適格な状景描写・心理描写を盛り込みつつコンパクトにまとめられている。内容が絞り込まれているので登場人物のキャラクターもはっきりしていてとても読みやすい。もっと色々なことが起ってほしい向きには物足りないかもしれないが、これはこれでよくまとまっている。嘘みたい、というより嘘そのものでしかないアホな恋愛小説にはない文字通り体を張った(もちろんセックスという意味ではなく)恋愛が描かれていて気持がいい。どうでもいいことかもしれないが、女主人公の裸体の描写が中々エロくていい。
内容には関係ないことだが、タイトルは多分「あまぶね」と読むのだろうが(作中に一ケ所だけ振りがなが振られている)、読んでなければ十中八九「かいじんぶね」と読んでしまうだろう(事実、評者がOCRした際のファイル名も実はそうなっている)。ちょっと何とかした方がいいと思う。

何度も言うようだが、こういう地味ながらも良質な作品が芥川賞並びに文学を支えているのだな(74)


阪田寛夫 (1925-2005)

土の器 (1974)

夙川のクリスチャン頑固婆さんの闘病記
が、厳格な躾を受けトラウマになっている息子の視点から、迷惑してきた兄嫁の視点も交えて描かれる。詩人だけ(略歴を見て初めて気付いたが童謡「サッちゃん」の作詞者!)あって文体が伸びやかでスラスラと読める。それに、表現が適格で面白く、詩人らしい凝った表現も浮いていない(詩人の小説は出来不出来が人によってえらく違う気がするが何故だ?)。宗教に狂った人間の迷惑さもよく出ている。ある種の崇高さも描かれている。回りの人間の迷惑や、恨みつらみもよく出せている。最後、人道主義的に無難に終わるかと思わせておいてもう一ひねりあるのが上手い。非常に上手い。比較的高齢での芥川賞受賞作だが、年季が入っただけのことはある。一つだけ欠点を言えば、平仮名がうもれることに少々鈍感で時折ちと読みにくいが大した問題ではない。

詩人と小説との関係をまた考えさせられた……(71)(2005年、逝去されました。御冥福をお祈りします)


桜田常久

平賀源内

タイトル通り源内の後半生を「ノンフィクションではない形で」偽史っぽく綴ったもの。
時代物としては結構読めると思う。表現は娯楽もののそれで重さはない代わりに読みやすい。とにかく展開が早く色んなものが出てくるので、NHKのドラマの原作のようにも思える(個人的には嫌いではない。安藤昌益まで出すのはやり過ぎだと思うが)。玄白を始め有名人がぞろぞろ出てくるのは、まるで某宗教団体の文書のようで軽薄な気がするし、スノッブ趣味の人間を喜ばせるならともかく、知的な娯楽となってくれるかというとやや力不足のようにも思う。
それにしてもこの作品が芥川賞だとは……昔からエンタテイメントと純文学の区別なんて曖昧だったんだな……

まぁでも「読み物」のレベルに留まるだろう。中高生や、教養に憧れを持ち続ける社会人が齧って喜ぶためのような作品(51)


笹山久三

四万十川:あつよしの夏

タイトル通りの舞台でサブタイトルの名の少年が弱いものを助けるため闘う。
宮本輝さんなんかが「こどもの小説ばかりで、おとなの小説がない」ということを色んな所で言っているが、この作品なんかが「おとなの小説」ということになるのだろう。主人公は子供だが、書き方は明らかに「おとな」で、よくできてはいるが、逆に言えば、あざとさのようなものを常に感じずには読めなかった。四万十川の自然描写も美しいのだが、何かどこをとってもいかにもうまく作りましたというのが見えかくれして今一つ入り込めなかった。なぜだか自分でも分からないが文体がどうにも自分のリズムに合ってくれず、ものすごく読みにくかったので、そのせいもあるのかもしれない。あるいは、方言を盛り込みすぎてさすがに読みにくいせいでもあるのかもしれない(四国の方言と富山弁が意外と似ているのは面白かったが)。前半後半に分かれて、主人公が同じだという以外に特に有機的なつながりがないのはどうかと思う。

結構評判のいい作家であり作品ではあるが、そしてそれを認めるのにやぶさかではないが、この作品も含めて、多分もうこの作家の作品を自ら読むことはないだろう(61)


佐藤亜紀 (1962-)

バルタザールの遍歴 (1991)

何かと色々気の毒なこの作家の実質的なデビュー作(もちろんこの作品も一旦新潮社から出版された後に新潮社都合で突然絶版にされ著者が版権を引き上げている、と…この作品自体が奇妙な遍歴をとげるという皮肉に見舞われている…(2021年現在この作品がどこから出版されているのか残念ながら知らない))

一つの肉体を共有する奇妙な双子が近代西側世界を股にタイトル通り奇妙な遍歴を遂げる様が、いかにも衒学的ではあるが嫌味ではない筆致で濃密に語られていく…

著者が奇妙な遍歴に見舞われる原因(とみなさざるを得ないだろう)となった某作家とどうしても比べたくなるが…そっちほど嫌味なわざとらしさはなく、軽やかに読んでいける

はずなのだが… 正直言って評者はいわゆる「ファンタジー」がどうにも苦手なので… やはりどこか常に突き放された感じで「だから何?」感と戦いながら読まねばならなかった(要するにそんなに楽しめなかった…この作品の文学的価値を認めるのはやぶさかではないが…)… この作品(そして恐らく著者自身も)を「ファンタジー」というカテゴリーに安易に押し込むのは多分間違っているのであろう、そのことが直ちに分かるくらいこの作品の語り口も濃厚で「地に足の着いた」ものであるのだが…


著者及びこの作品の数奇な運命を度外視しても(しかし全く意識するなと言われてもどだい無理だ…)どうにもモヤる…こんな風に困ってしまうのは評者の見識がまだ至らないからなのだろうけど…苦し紛れの(65)


佐藤亜有子

ボディ・レンタル

タイトル通り有料で肉体を貸す商売をしている落ちこぼれ(とはいえ簡単に翻訳の仕事が回ってきたりするのは大江の時代から変わっていないのだな……)東大生のだらけた日常。
女流というと「性」がまるでそれ以外の問題はないというくらいに問題となって、手を換え品を換え「男性社会が築き上げた暴力機構の中で物件として商品として扱われ……」といった内容がお経のように、しかもどれもこれも同じような雰囲気や文体で唱えられるというのにはっきり言ってウンザりしていたが、そういうのとは案外雰囲気が違うので多少は楽しめた。モヤモヤした感じは巧く表現されている(ような気がするが、まとまらなかっただけか?)。とはいえ、かえって興醒めになるほどにやたらと衒学的な表現が出てくるわりには、明らかに文章が練れていない箇所も多くあってちぐはぐな印象がある。意味不明の「死んだ」比喩やあまりに独り善がりな表現も多い。タイの「ロリータ花電車」(!)など風俗小説として面白いところもあってそれも魅力だが旅行のエピソードは明らかに書き足りない。主人公の心情を乱す登場人物を始末する仕方はいくら何でも安易じゃないだろうか。後半の失速は、文体とも相俟って三島の女版かと思った。どうでもいいことだが、文庫版の解説は今どき「ポストモダン」な意味不明の御託を並べていて失笑する。

ランディでも何でもそうだが、どうしてみんなこんな雰囲気になるのかねぇ?「等身大の女性の感性」とかって、こんなもんなの? という感じが相変わらずしてしまった(46)


佐藤春夫

晶子曼陀羅

タイトル通り与謝野晶子の半生
をまさに浪漫派という情緒溢れる文章で延々と綴っている。さすがに文章がうまい。表現が美しく、延々長いがすらすらと快適に読んでいける。しかしながら、結果としてノンフィクションなのか創作なのかどっち付かずになっているし、考証っぽい内容になると折角のスピードが止まってしまう(このくらいの時代の小説家に共通する欠点だと思う)。晶子もともかく、夫鉄幹の生きざまが分かるのも鉄幹ファンにはうれしい。色々と楽しめるエピソードや情報も盛り込まれていて、例えば晶子朝鮮人説というのがあるというのは面白いし、鉄幹スキャンダルの下りはえもいわれない愚劣さでクラクラする。結末はついたようなつかないような感じで突然ブツッっと終わっているが、折角ここまで書いたのだから、補遺か続編のような形で晶子が没するまで書き切ってほしい気もする。何の影響か、そもそも意識的なものかどうか分からないが、時々女言葉みたいになるのが面白い。

確かに面白いが、取材に大きく依存している部分もあるので、これで小説家佐藤春夫を判断することはできないだろう。昭和文学全集の収録作品選別には時折疑問があるが、これが最たるものだ(78)


窓展く

貧乏横町に住む男が隣屋の様子を、その家に新しくできた窓から覗く
そして見えた顛末をリアルなようなそうでないような筆致でつらつら描く。すぐ上で問題にしたが、昭和文学全集第一巻、佐藤春夫の純粋な小説で収録されているのは、この短編だけである。評者は別に佐藤春夫のファンでも何でもないし、これまで全く読んだこともないくらいだが、それでもこれはおかしいと思う。一体この一応名は通った文豪をどう扱いたいのか。しかも、短いながらもさすが! と思わせてもらえる作品が収録されているのならまだしも、はっきり言って「だから何?」というレベルの作品である。全集に納められて研究者や熱心なファンだけが読むという類いの作品に過ぎない、としか思えない。

一体何なんだ?(54)


(山妖海異)

南紀に伝わる怪奇伝説を綴ったエッセイ的なもの
だが、こっちの方が小説よりも小説的な面白みが味わえる。語られる怪奇譚・伝説の内容も中々面白いが、作者の筆致がそれを盛り上げるように働いており、これはこれで見事な作品だと言える。

佐藤春夫はオリジナルな物語を作れない作家だったとでも言いたいのだろうか? と思ってしまうチグハグな編集がなされている……(66)


佐野洋

推理小説実習

都合6種の推理小説のタイプを解説した後に各々のタイプに即して作った短編を載せたもの

解説は役に立ち勉強になるし、そこそこ面白いが、残念ながらその後の「実習」たる短編が、どう贔屓目に見ても出来が良くない… 要するにつまらん。評者は元々ミステリーがあまり好きではないこともあって、この作者についてはあまり知識を持たないが、それでもそこそこ有名な作家であることは知っている。「それで、これか…」と思わざるを得ないのだ。どうにも「無理矢理作った」感がぬぐえない作風には説得力が感じられず、文体から何から「いかにもミステリー」って体裁にしてあればとりあえず安心するという向きならともかく、評者はわざとらしさが気になってどうにも楽しめなかった。登場人物が睡眠薬と一緒に酒を飲むなど「詰め」の甘さ(評者の偏見かもしれないがミステリー作家にはよく見られる現象のような気がする)も白ける。

例によって;◯「頼もしい男」、×「鍵の旅」「黙秘権」、残りは無印 ちなみに、今評者の手元にあるのは古本の文庫版なのだが、前の持ち主は「絶つ」「黙秘権」「頼もしい男」「バスはどこに」に◯をつけている。

あまり意味が感じられない残念な作品(34)


寒川光太郎 (1908-1977)

密猟者 (1939)

凄腕マタギが白熊狩りに駆り出され倒れるまで
が時代物と言うよりもハードボイルドに近い凝縮された文体で綴られる。内容も相まって中々カッコいい読み物になっている。ただ所々筆が滑っていて、奇妙な文章があったり、場違いなカタカナ語が紛れ込んでいたりして白けるのが惜しい。主人公の内面や、マタギ仲間との友情と葛藤はうまく書き込まれている。ラストは慌ててまとめ過ぎた印象がある。

かつての芥川賞は地味な作品でもこの水準だったのだなと妙な感慨に捕われる…(75)


志賀直哉 (1883-1971)

暗夜行路(1937)

呪われた出自を持つ主人公が時折腐りながらもこの運命を克服しようとするのだが、どうしても捻曲った人格で不幸を引き寄せてしまい、その中で裏切りやさらなる不運に打ちのめされながらも何とか生きていこうとする、まぁそんな物語。
当時の風俗や方々の状景などがさすがに志賀直哉という引き締まった文体で綴られているから軽快に読んでいけるが、とにかく長い! 舞台が案外頻繁に移るのでそれについていくのが大変かもしれない上に所々突き放したような箇所があるので時折読みにくさは感じる。おまけに主人公の性格が極力嫌な感じに描かれているので中々疲れる。全編に冷たい感じが漂っているのは慣れると楽しめるかもしれない。志賀直哉と言えば短く簡潔に切り詰めた文章と言われ「短い文章」派の親玉みたいになっているが、息の長い入り組んだ文章やカタカナ語が案外使われているのが意外だった。
どうでもいいことだが文庫版の解説がなかなか面白い(今回は新潮文庫版で読んだ)。藤村の所でも書いたが、古典的な名作の解説はさすがにいいことが書いてある、のに対し、最近のものの解説は腹が立つほど下らないものも多い。どうなっているんだ?

名作であるのは間違いないものの「そんなに大名作か」という感覚も拭い難いので(後で調べたら一時期これの欠陥をあげつらうのが「流行った」らしい。嗚呼嗚呼…)(87)


重兼芳子 (1927-)

やまあいの煙 (1979)

火葬場で働く男が老人病院の女を好きになるものの職業柄色々と考える
のが淡々と語られる。取材といい表現といい久々に「これぞ芥川賞」というものを読ませて頂いたと思い、前半は面白く読ませて頂けたものの、一旦女を退け別の女がストーリーに介入してくるようになると途端に間延びする。この女の身の上話が中々ショッキングでそれが出てくるとまた面白くなるが(やっぱり俺は変態だ)、その途端に尻切れトンボで終わる。非常に惜しい。もうちょっと何とかなったら結構傑作になったのではないだろうか。死の意味を静かに考えさせてくれるのはとてもよい(「葬式仏教大いに結構」「私の人生こんなに楽ー」なんてしゃーしゃー言ってるどっかの坊主作家よ、ちったぁ見習え! というか禅坊主全員一回死ね!)
細かいことを言えば、ルビが足りない。特に、ルビなしの「室」をどうやら「へや」と読ませたいようだが、さすがにそれは無理だろう。

他のものも読んでみたいと思ったので、その意味では充分成功作だろうか(63)


篠田節子

絹の変容

バイオ技術で新種の絹を作り出そうとした男女に降りかかるあれやこれや
が「いかにも新人」という瑞々しい表現で細部まできっちりリアルに描かれていく。バイオベンチャー起業小説になっている前半は中々読める。細かい取材がリアルさをかもし出していて「嘘だ」という気がせず、それでいて表現にも独特のものがあって面白い。小説を書く上でも勉強になることが多い。しかし、パニック小説になってしまってからは途端にドタバタ小説になってしまい、妙に展開が速くなることと相俟って、面白くは読めるが何か物足りない。主人公とヒロインのロマンスはありきたりかもしれないし、ラストは明らかに慌てて結末を付けていて、大いに物足りない。パニック(内容が分かると面白さが半減するので書きません)は状況的には鬼気迫るものがあるはずなのに、どうも今一つ迫力が感じられないのはなぜだろう。

いかにも新人のデビュー作というもの。もうちょっと作りこめたらもっとよかったろうにと思わされる(59)


芝木好子 (1914-1991)

青果の市

タイトル通り青果の競り市で女だてらに奮闘する仲買人の栄光と挫折
が内容とマッチした歯切れのいい文章と小気味よい展開で綴られていく。主人公は鬱屈や自負・自暴自棄まで巧みに書き込まれていて、好みはあろうが読者を引き込むものを持っている。ただ、彼女の兄弟が前面に出てきて語り出すと途端に展開が妙に説明臭くなってしまって折角の雰囲気がブチ壊されてしまうのが惜しい。結末はやや唐突に締めくくられていてそれも惜しい。

何かこの手の作風って好きだな(62)


斯波四郎 (1910-)

山塔 (1952)

墓を探す部落出身者の帰郷
ポスト「第三の新人」というのであろうか(いまさら気付いたが芥川賞としては高齢受賞者に入るのではあるけれども)、中上健次を先取りしたような設定と虚実夢現ないまぜの文体で無気味な幻想風景がゆらゆら綴られていく。現実と幻想の間を区別なく往復するようになっているのは個人的には時々ついていけないものを感じてしまった。田舎者のどうしようもなさに加えて部落民の卑屈や絶望感や怨念がてんこもりに盛り込まれていてかなり雰囲気は重苦しいがうまく表現されている。やはりこういう作品はベテランでないと書けないのか。

正直よく分からないのだが……(69)


柴田翔 (1935-)

されど われらが日々―― (1963)

就職と結婚が決まった東大院生の波瀾の日々
がいかにもインテリという雰囲気漂う面倒臭い饒舌体で延々と語られる。やはり東大生というのは優雅なものだな、とえもいわれない虚脱感に憮然愕然としつつうらやましくも呆れながら読まざるをえなかった。例えば評者のように、東大京大に入れなかったばっかりに学会に残れなかったと思っている人間には(評者はそれでもいずれやめていただろうが……)嫌味なヨタ話にしか聞こえない記述やエピソードが多く時々読んでられないものがあるが、当時の風俗や雰囲気はよく盛り込まれていてこれはこれで貴重なものかもしれない。学生運動が萎んでいく過程もよく書かれていてその点でもえも言われない脱力感を呼び覚ましてくれる。結局左翼運動というのは空しいもので、アレが今の無気力でだらしない日本を作ってしまったんではないのかと怒りを新たにもさせてくれる。まぁこれだけ評者の感情を揺さぶったのだから成功であろう……手紙や回想を引用した部分の終りが明記されているのが珍しい。それにしてもちょっと長過ぎないか。ここまでダラダラさせないで退屈とか倦怠感とかを表現する方法はないものなのか(それも贅沢か)

かなり間延びしているがその意味はある(65)


司馬遼太郎

梟の城

秀吉に愛憎を抱く伊賀の忍者が報復を狙う側とそれを阻止する側に別れて対峙する物語

が読みやすく味わい深い文章で綴られていく

この大作家の最初の長編小説にして直木賞受賞作であり、「忍者もの」時代小説の草分けであるが、そうなるのも納得するくらい物語の構成などもよくできていて、ファンが多いのも宜なるかなである

「忍び」に関するあれやこれやについて、また忍者という人種の「モラル」「気質」についても丹念に書き込まれていて、これ一つで「忍者通」になった気分にさせてもらえる(内容が正しいかどうかはひとまず別問題として…)

忍者としてのモラルと時に相克する恋愛模様が複線としてストーリーに重層感を加えており、その点も面白い

描写も冴えている(悪趣味な展開がちと多い気がしないでもないが…)

要するに娯楽作品としてよくできており楽しく読めて面白い 何度も映像化されているのも納得である(残念ながらどれも未見)

この文豪の初期作品であるだけに「瑕」は探そうと思えば見つかるが(講談よろしく突如現れる「謎の語り部」が何なのか不明…等々)…野暮というものであろう…

割と頻繁に挟まれている空行はどうやら連載時の「切れ目」のようで必ずしもストーリーには関係あるとは限らないようである…


面白い!時代小説が娯楽として滅びない人気を維持しているわけである…そのことを実感させてくれる佳作(75)

余談だが… 新潮文庫版の解説を書いているのが意外な人物でビックリする(けど… 例えば三島由紀夫はこういう小説がむしろ好きだったはずであるから…そう考えると分からんでもない…)


島木健作

生活の探求

大学を中退し郷里(はっきりとは書かれていないが状況を総合するとどうやら香川県のようである;ちなみに作者・島木健作は香川県出身ではない)で農業に人生を捧げる決心をした成年の悪戦苦闘

が、しっかりとした、しかし読みやすい文体で綴られる

正続編合わせるとかなり長い物語になり、その中には様々な事件が描かれ(読んでいる間は特に意識しなかったが、作品全体でどのくらいの年月が経っているものなのだろうか?)、一大大河農業文学となっており、読みごたえはある。日本文学史に残る農業文学として良質な部類に入るのは間違いなかろう

惜しむらくは、作中何度かあるが、登場人物が思想談義を始めると物語がそこだけ止まってしまい、折角のスピード感がなくなってしまう(突飛なたとえかもしれないが、まるでガンダムで、おなじみの「富野ケンカ」が始まったのだが「ケンカ」中は戦闘をやめている…そんな感じである…)

作者・島木健作は「転向作家」として有名な存在であるが、そのことは特に表立って物語に反映されてはいない…ものの、時折そういうことを暗に言いたいのではなかろうか?と思わされる箇所は結構あちこちにあって、それが何とも言えない…(もしかしたらこのモヤっとした雰囲気は作品の印象に影響を与えているのかもしれない…)

この大物語の結末は、主人公が農村に託児所を作るという、未来に希望を残す形で終わっているのだが、ここで一つ余談… 主人公が作ったこの託児所には30人強の子供が集まるのだが、21世紀の日本で今、地方の農村で子供が30人もいる所があるだろうか?…と考えて何とも絶望的な気分になった…(作者・島木健作もそんな未来は恐らく予期していなかっただろう…)


欠点はあるものの、日本文学史に残る農業文学の傑作であることは間違いない(嫌味めいたことを言うようで恐縮だが…恐らく日本文学は農業文学というものをもう生み出せないであろう…日本文学で活躍している作家はそんなことにはまるで興味関心がないようにしか見えない)。21世紀の今日あまり顧みられない作家であり作品であるが、広く長く読み継がれてほしい作品である(64)


島崎藤村 (1872-1943)

破戒 (1906)

「ブラク」出身を隠して教師になった男が、人間関係の縺れなどに翻弄された揚げ句、出自がバレてしまい、新天地に去るまで。
言うまでもなく内容的には日本文学を代表する作品で、それはその通りだと思う。欠点を捜そうとするのも恥ずかしくなってしまうほどだ。構成・表現・文章どれをとっても巧いと思う。さすがに『夜明け前』まで行ってしまうと敷き居が高いが、その当時の風俗もふんだんに盛り込まれていてその点からも楽しめる。読んで愉快になる作品ではないが、それが藤村なのだから仕方ない。
こんな作業を始めてから何度も驚かされているが、こんな時代に書かれた作品を二十一世紀の人間が読んで難無く楽しめるというのは驚異だ。
今回は新潮文庫版で読んだが、後ろについている解説も面白い。特に差別表現との葛藤がうかがえる出版誌資料はこれだけでも読む価値があるほどだ。

時間をおいてまた読みたくなる作品(『夜明け前』を再読するのはさすがにきつい)(83)


島田雅彦

やけっぱちのアリス

「キコク」の女子校生の周囲に繰り広げられるドタバタ学園ドラマ

実は島田雅彦の小説をちゃんと読むのは初めてなのだが…正直こんなにつまらないとは思わなかった…映画いやマンガの原作、それも大してレベルの高くないもの(作者だけがはしゃいでる類の学園ドラマとかそういうの)を読まされている気分で…申し訳ないが何の文学的な充実感も得られなかった…

一番気に入らないのが文体で、ワザと書いてるんでないとすれば精神状態を疑いたくなるクサいそれこそ中二病的表現と、持って回った文学的表現、それにふざけているとしか思えない悪趣味な表現がないまぜになった、典型的な勘違い純文学文体に、正直ウンザリした…持っているものは読んでみようかと思うが…この作家が私の好きな作家になることは多分ないであろう…


正直ガッカリ…(35)


ドンナ・アンナ

短編集

初遭遇はガッカリだったが(「やけっぱちのアリス」参照)…もしかしてこの作品だけが性に合わなかったのかもしれないと思って、一緒に積んであったものを読んでみた次第…

結論として…ほぼ全く同じ感想を抱く羽目になった…

評者は何と言うか「純文学的雰囲気」というものが好きだが…それをこんなもので味わいたいとは思わない…「純文学」という装丁を整えたらどんな悪趣味や悪ふざけも許される通ると思っている、と取られても仕方ないレベルの独り善がりな作品群

例によって…;◯かつ×「聖アカヒト伝」、◎かつ二重の×「ある解剖学者の話」、青い△「観光客」、タイトル作品は無印


せめて悪趣味さのベクトルがもうちょっと共感できるものだったらなぁ…それならむしろ好きになれたかもしれない…そういう意味でもかなり残念…(34)


清水基吉 (1918-)

雁立 (1944)

文学を志す青年の片思いノロけ話
ただそれだけの話。下らん! 著者も俳人であるらしく、それが反映してか素っ気無い状景描写が淡々と続くが、抑制というよりは生のままという方が近く退屈なだけ。しかもその中にふざけた表現や汚らしい表現が恐らく意図的に盛り込まれていてバカにされた気にもさせられる。固有名詞の多くがイニシャルになっているのも週刊誌みたいで下品。俳人の直感力というのはこの程度なのか。

下らんの一言(27)


志茂田景樹

黄色い牙

秋田県のマタギの一代記
が骨太な文章でいかにも雄々しく描かれる。狩猟の場面などは期待通りのスリルが味わえる。もはや美学の域に達したマタギのモラルが如何なく書き込まれていて、あまりにも崇高な精神性は清々しいほどだ。しかも、それを壊そうとする人間や逆らえない時の流れを対比させることで単なるきれいごとに終わらないようにもしてある。全体を通して悪キャラクターの作り方が上手い。それに、女の戦いや一種プロレタリア文学のような視点も組み込まれていて、重層的なストーリーが組み立てられている。マタギの風俗が細かく書かれるのはもちろん、小道具や伏線・繰返しなども上手く機能していて、レベルが高い。後半は特にすばらしく、ノって書いているのがありありと分る。直木賞も納得の傑作である。傑作だということを認めた上で小さいケチをつければ、時折てにをはや句読点、修飾に鈍感で折角のリズムが悪くなっているのが惜しい。ストーリー的には少々詰め込みすぎの所もある(個人的にはこのくらい脱線があってくれた方が面白いけど)。こういうものを読むと今時の「純愛」などアホらしくて話にならない。このあまりにも高いモラル精神に心地よさを覚えてしまう評者はやはり古いタイプの人間なのだろうか……

これを読むと後の志茂田作品、特にどうしようもないいいかげんなシミュレーションものなど読みたくなくなる……(71)


庄司薫 (1937-)

赤頭巾ちゃん気を付けて (1969)

都立日比谷を卒業して「何となく東大ってのも何だかなぁ」とか悩んじゃってる作者と同名の主人公の一人語り
がズラズラズラズラ続いちゃって、時代風俗とか学生運動の波が収まりつつあってそんな中でただもう無気力にシラけちゃって「ねぇぼく達これからどうすりゃいいんだろ」とか言ってるだけの若者の雰囲気とかそのまま再現してくれたりもするわけだし、そんなこんななモヤモヤした心情を中々それはそれで上手い形で書き出したりもしてくれちゃったりもするけれども、「いやったらしい」作品で、要するに下らん! そんなだけの作品。日本文化・文学が疲弊していく過程のドキュメントとしてはそれなりに貴重なものかもしれんが、二度と読みたくない。おまけに主人公が性的に不能なのは読んでいてやりきれないものがある……丸谷才一に続いて東大出身者の芥川賞受賞となったわけだが、「だからボクらこういう感性で、こういうのはインテリジェンスがないとだめなわけよ。分かんない? じゃいいよ。しょうがないね。ハハ」って雰囲気が漂っていて、天下の最高学府の疲弊をも体現していると思うとさらにやりきれない。

たまらなく退屈な駄弁似而非文学(46)


庄野潤三 (1921-)

貝がらと海の音

作者自身と身辺の子供たちとの日常
がひたすら延々とズラズラズラズラ続く。はっきり言おう。最近読んだ小説の中では最低最悪だと思う。とにかく何も起こらない。ただ何でも書いてるだけ。構成も何もあったもんじゃない。しかも内容的には身内自慢のような箇所も多く、ただの年寄りのヨタ話を読ませるな、と腹が立った。表現的にも「これの何がいいのか」と思うしかない。しかもやたらに長い。時間の無駄以外の何物でもない。庄野潤三といえば、評者も一応は敬意を払ってきた文豪、のはずだったが、こんな無様な身辺雑記を恥ずかしげもなく垂れ流せる状態に落ちぶれているとは思わなかった。がっかりだ。

もうこれでしばらくは庄野潤三なんか読みたくないというくらい頭に来ている。下らないの一言。こんな駄作に「中毒」する人間がいるというらしいから世の中分からない(11)


プールサイド小景 (1954)

会社の金を使い込んでクビになった夫とその家族が「今まで何だったんだ」と今更思う。
たったそれだけの話なのだが、淡々と続く描写との対比が鮮やかで背後にどことなく無気味な雰囲気が漂っている。特に前半部分は一見平和そうでその実恐ろしい。誰だったか「庄野潤三はゆっくり読むべきだ」という主旨のことを言っていた記憶があるが、さもありなんと思う。惜しむらくは、この無気味さが持続せず、後半は単なる心境や描写の羅列になってしまっている気がする。

技術は感じるが内容とうまく噛み合っていない気がする(66)


鈴木弘樹

よしわら

吉原担当の風俗雑誌記者がこのごちゃごちゃした街でごちゃごちゃした人間関係やら事件やらに巻き込まれて、結局は予定通りにこの街を去るまで。
読みにくいだの日本語がおかしいだの散々けなされるためだけに芥川賞候補になったようなものだが、正直そんなに読みにくいだろうか(宮本輝さんは色んな所で口癖のように「こんなことでもないと最後まで読めなかった」と言っているが、よほどスムーズに読めないとイライラするタチなのか?)? 確かに意図的に捩じれさせた文章(例えば「シベリアで雪が降り出して株価の下降は止まらず表で自動車が衝突しても十割る三は割り切れない」といった感じの)が頻発する上に改行が極端に少なく、時折全く意味不明な描写が長々と綴られたりはするが、おかしなスピード感が具わっているので慣れれば結構気持ちよく読める(文体などから「限りなく透明に近いブルー」を連想するが、こっちの方がストーリーらしいものがまだある分読める)。特に会話と地の文が区別されていないのは軽快さを増していると思う。スピード感を増すにはハードボイルド作家みたいに改行を多くすればいいと思い込んでいたのでちょっと新鮮だった。思えば近世近代の戯作文学はみなこんな感じだし、饒舌なタイプの作風が好きな向きにはお勧めできる。一応期待通りのエピソードはあるものの風俗業界を知る役にはあまり立たない。個人的には「マンガチ」という猫の名前が気に入った(笑)。

意外と楽しんで読めたので自分でも驚いた。でもまぁマニアックな作品だろうからそういう意味で(70)


青来有一 (1958-)

聖水 (2000)

長崎にて、隠れキリシタンの末裔が住む地域で「聖水」と称する井戸水(……)が売られていて、その宗教集団やらスーパーやらにまつわる人間模様のあれやこれや。
タイトル通り宗教掛った内容もあれば地方の風物もあり会社や金にまつわる駆け引きもあって人間模様が多角的に描かれている。描写の鮮やかさや文章の軽やかさも相まって、きれいにまとまった世界が味わえるが、色恋とか世代ギャップまで盛り込んでしまったのは個人的にはやりすぎだと思った。欲を言えば最後の展開はありきたりかもしれない。取材の特殊さを除けば個性という点では今一つかもしれないが、巧くまとめられたいかにも芥川賞という佳作だと思う。文章的には、修飾が混乱している表現など、所々練れていない所がある。

派手なものばかりが話題になる芥川賞ではあるが、こういう堅実な作品が支えているのだな(68)


デビッド=ゾペティ

いちげんさん

京都に住み日本人との摩擦に苦しむ留学生と盲目の少女とのラブロマンス。
日本語を母国語としない人間がこれほどのものを書いたということにはやはり脱帽しなければならないものの、一方的かつ一面的にこき下ろされる典型的日本人とのあまりにもありきたりな「摩擦」(例えば主人公には自分が白人であるということでかなり摩擦が軽減されていることへの認識が全くない。どこに行っても簡単に「遊牧民」になれる白人の無神経さを裏返しに表しているとすれば皮肉だ)、最初は新鮮だがあまりにも頻発してうんざりする奇矯な比喩、不自然な会話、使い捨てられるエピソードなど、傷には事欠かない(著者が外国人ということでその批判がかわされるとしたらそれこそ喜劇だ)。まぁこんなものでしょう。個人的には帰化ブラジル人(誰か書けよ、「逆蒼氓」!)やアフリカ系黒人(サンコンさんやゾマホンさんに書かせればいいんでは)、イラン人(こっちはマジド=シャイエステに…)、コンピューター(実現したら色んな意味ですごい!)、宇宙人(さすがに無理か……)などの日本語作家がもっといたら面白いと思う(でもやはり白人しか出ないのだろうな…嗚呼)。

このような文学への道を開いたという点では間違いなく重要だが、それ以上でも以下でもないと思う。(52)


高井有一 (1932-)

北の河 (1965)

戦争で「壊れて」しまった母の入水自殺に息子が色々思う
重い……内容、構成、文体みんな重い。読んで楽しい作品では全然ないし、こういう作品を書きたいとも全く思わない。しかし多分作者はこのような作品を書かざるを得なかったのだろう。純文学にはそういう側面があるということを実感させてくれる作品。好き好んで読むものではないかもしれない。視点が息子からのものになっているのはそれはそれでいいとしても、母親がどうして何にこうも「壊れ」てしまったのかということが一読した限りでは今一つ分からず、その辺がスッキリしない嫌な気分になってしまった。地方新聞で小説の投稿を求めると体験のある人々は皆こぞって「戦争」を書くくらいなのでうんざりするが、正直「またか」という感覚は否めない。

正直あまり読みたいものではない(54)


高橋揆一郎 (1928-)

伸予 (1978)

未亡人の元教師が教師時代に好きだった教え子に再会し、空しさと恋心の間で揺れ動いた挙句、結局捨てられ顔面神経痛と衰えた肉体を抱えて落ち込む
のが「これは女流だろう」と思うくらい艶っぽい文章で描かれる。思わず中里恒子を連想してしまうほどだ。切り詰めた文体とシュールな表現、微妙な会話が独特で味わい深い。後半に入って主人公の無神経さが暴露され、その後どんどん沈んでいく様は迫力があり、重々しくも訴えてくるものが伝わってきて心苦しさが味わえる(文芸賞受賞作だが、昨今の同賞受賞作がまるで娯楽作品のオンパレードになっているのとはえらい違いだ(これはこれでいいのかもしれないが……)。純文学的な不快感はもう不要になったのか、それとも現代人はそのようなものを快感と感じられなくなったのか、あるいはもう耐えられないのか……)。それにしては、所々ゴツゴツした表現が顔を出すのが障る、惜しい。前半は時系列が章によって前後しているのも少し分かりにくい。ラストはなかなか衝撃的だがもうちょっとどぎついものにした方がさらによかったと思う。

淡く小さい恋物語がどんどん崩れていく様が快感だ(68)


高橋三千綱 (1948-)

九月の空 (1978)

多摩の剣道高校生の青春
が爽やかーに綴られる。文章は軽やかで読みやすいが、その分軽い。中身がないようにも見える。全体に微笑ましい青春小説ではあるが、その域を出られていない。主人公をスーパーマンにし過ぎているせいもあるのかもしれない。ドラマの原作本のレベル。しかも軽い割には時折組み立てが乱れた文があり、そこが障る。技法としてはある方法だが、意図的なものではないらしい。効果が上がっていない。もう一つ技術面での不備を言えば、回想のねじ込みがうまく機能していない、読み手をフラフラさせるだけ。恋愛や性を盛り込みたいのは分るが、これもただ入れただけで、全体を深めることになっていない。ただ、珍しいものが色々出てくるので、こんな所にこんなことが書いてあるという資料的な面白さはあるかもしれない。全体に寄せ集め感は否めない。剣道が全体にどういう意味を有しつながりを持つのかは最期まで分らなかった。

ほどほど健全な青春小説のレベル。二十一世紀に読む意味は特にない(53)


高見順 (1907-1965)

故旧忘れ得べき(1935)

プロレタリア運動崩れの綿々が送るだらだらした日常が、内容を反映しただらだらした(しかしただだらだらしているのではなくてちゃんと芸があるのだが……)文体で延々続いて、突然終わる。講釈のように物語の進行が地の文で説明されたり、突然作者が語り出したりするのが個人的には新鮮だった。

しかし長過ぎる!長さに耐えられればただ読む分には面白い。(73)


高見広春

バトル・ロワイアル

映画化マンガ化もされた御存知の中三の一クラスが島で殺し合う理不尽極まるバイオレンス小説

ストーリー上仕方ないとはいえ五十人に及ぶ登場人物、そしていきなり延々と続く登場人物紹介、ネット上のネタレベルのパロディ(「金八先生」の他にも「剣崎順矢」なるアイドルが「ペガサスマグナム」とか歌ってたりする…)、と一読して分かる素人の作、であるとともにストーリーもおよそマンガのレベルである…

と、瑕だらけの作品であるが、逆に見れば、クラス全員を一人も省略せずにキャラ造形し一通りの見せ場を作った挙句、千数百枚をそれほど退屈させることもなく読ませられる、という点では素人離れしている、とも言いうる。つまり、純粋な娯楽作品としてはそこそこ読ませる(倣作が続出する(している?)んではないかと危惧するが…)

この作品については必然的に付いて回る、新人賞落選にまつわるエピソード(非常にしょうもない!)もそうであるが、今日日娯楽・エンタメとしての小説というのは本当にどうしようもないことになっているのだな…(いや今や日本文学全体がそうなのかもしれない…)と嘆息せざるを得なくなる、そんな作品である。つまり、「プロ」は何をやっているのか?と問いたくなる(作家・編集者・文壇関係者全てにおいて…)

繰り返すが、単なる娯楽としてはそこそこ読める(文章は結構読ませる;もっとも、叙述の視点がフラフラしていたり(特に()内が何者の「発言」なのかぞんざいなのが気になる)、やっぱり素人だなと思わされる点は多々ある)

なお、評者・私も今回初めて原作を読んで驚いたが、映画・マンガともかなりの改変が加えられており、半ば別物と捉えた方がいいかもしれない。ストーリーや展開をじっくり楽しむにはこの原作が一番良いかもしれない(特に映画は尺や展開の都合で進み方が速すぎる)


意外と楽しめたので驚いている… 余計な心配かもしれないが第一作がこんなことになってしまって、次作以降は大丈夫なのだろうかと思わざるをえない(51)

(余談;映画に関して言えば、この作品の映画化も実はそれほどあまり感心しなかったが(深作欣二は余計なことをしすぎ!そして「ラスボス」たるサイコキラー的な生徒・桐山の人物造形が全然ダメ;アレじゃタダのバイオレンスヲタクだ)、続編はそれ以上にどうしようもない駄作だと言わざるをえない)


高山樗牛

滝口入道 (1894)

滝口入道斉藤時頼の悲恋と挫折に満ちた半生
既に言文一致の試みはなされていたが、その中で敢えて擬古的な文体で作られている。しかしこれが名文と言う以外のない軽やかな調子で綴られていて、信じられないくらいにスラスラと読めて驚いてしまった(樋口一葉とほぼ同時期の作だが読みやすさという点では全然違う)。講談師にそのまま朗読させて聴いていたいほどだ。しかし、手堅くまとめられているものの、ただそれだけで、かなり乱雑に何でも詰め込んでしまったという印象がある。もっと長くして細部を書き込むか、ポイントを絞るかすればよかったのではないかと今更思ってもみるが、昨今の長いだけの時代小説と比べたらこのコンパクトさは貴重かもしれない。時代小説は長いものだと思い込んでいる大家は見習ってほしいと思う。

うまくまとめたってだけだが文章はすばらしい(53)


高城修三 (1947-)

榧の木祭り (1977)

タイトル通りの奇祭にまつわる人々の奇態
が民話調の文体で語られるのだが、状況説明が足りず、はっきり言って何が何だか分らない。いつか分らせてもらえるのかと思うとそのまま何が何だか分らない状況がずーっと続く。いくら純文学は想像力を働かせてそれで楽しませるものだとしても、読者の想像力に頼りすぎであろう。一人で分って喜んでるタイプの作品で、全く読者の立場に立っていない。何となく漂うエロティシズムは、無気味な雰囲気とともにちょっと期待させてくれるものがあるが、結局の所、いい形で解消させてくれない。欲求不満度はものすごく高い。人工的な方言とか色々そういう方面で発表時は注目されたらしいが何のことやら。無意味。意図的に下品な表現はさすがにやりすぎな所がある。

純文学ってこんなもんなの? という倦怠感に駆られる作品(50)


滝井孝作

無限抱擁

吉原の芸妓に惚れて結婚する男の恋愛記
がひたすらズラズラズラズラ書き綴られるだけ。文体は簡潔で小気味よく、風俗描写も丹念でその点では面白いが、肝心のストーリーが全然噛み合っていなくて面白くも何ともない。状況説明を延々と聞かされているような気分にしかならない。いくら純愛が語られようと、ヒロインの悲劇が描かれようと結局他人事にしかなってくれない。ありのままをただ丹念に書き綴れば「リアル」だった時代の遺物としか言い様がない。出来事を描くだけで何かを伝えようとするのは難しいということなのか、それとも本当は言いたいことなど何もないのか。おまけに、時代的なものなのか文章が時折読みにくく、現代人には全く状況説明不足で、描かれる風俗に馴染みがないという以上の問題があるとしか思えないことも多くイライラさせられる。タイトルは魅力的だがタイトル負けも甚だしい。独特、というよりは変な、「、」の打ち方が時々見られる。

面白くないとか、小説としてこれはお粗末だなとか、そういうのとは別種の、ただ読むだけでも苦痛というとんでもない思いをしてようやく読めた。二度と読まん!(29)


田久保英夫

深い河

時代は朝鮮戦争の頃、長崎で米軍に雇われた青年が周囲の状況に巻き込まれ振り回され、自分が生き残るために馬を撲殺する。
ストーリーや文体は堀田善衛の第二段という雰囲気だが悪趣味で気持悪い所は大江フォロワーなのかもしれないと思えてくる。時代や状況の記録としては貴重なものであるし、その雰囲気を共有させやりきれない気分にさせてくれるだけの内容と完成度は備え持っている。ただ、それだけに欠点も目立ってしまっているのが惜しい。まず、カタカナの訳文を載せるくらいなら英文のセリフをわざわざ書く必要はあるのだろうか。堀田作品に感じるのと同種の疑問を感じる。そして、不用意に固い表現や場違いな漢語が多く、おまけに時折助詞がおかしい。ちょっと変わった表現が「純文学」だと思われていた時代なのか。さらに体言止めの多用はやはり陳腐だ。「寝」が皆「寐」になってるのは自己満足としか思えない。評者はつまる所変態なので、主人公に絡む体育会系ガサツ女が逆に中々魅力的に思った。どうでもいいことだが、芥川賞全集の底本が版によって違っているのは何があったのだろうか。

とはいえ、文学史上重要な作品であることは間違いない(60)


多田裕計 (1912-1980)

長江デルタ (1940)

タイトル通りの舞台で革命派と和平派に分かれてしまった活動家一家の悲劇
が幾分ドキュメンタリータッチで描かれるのだが、文体が持って回ったいかにも純文学というもので、所々白けるどころか失笑させられる。主語と述語が合ってないなど変な文章が散見されるが、不注意とすれば不様だし、意図的にやったものだとしたら逆効果で目も当てられない。登場人物が生半可な衒学的蘊蓄を語るのも陳腐で鼻白む。ストーリー、表現ともサスペンスタッチというかハードボイルドな臭いがして読み物としては面白い。前半をもっと推敲するべきだと思う。

仕上げが足りない作品という印象がある。(54)


立松和平

遠雷 (1980)

開発に揺さぶられる新興住宅地で地道にトマト作りに励む農業青年の結婚まで
が何と言うか「裏中上健次」とでも言いたくなるような独特としか言い様のない個性満点の筆致で無骨に綴られる。いきなり語尾が全部「−た」の連発に面喰らわされ、その後も散文に適宜詩を混ぜたような新鮮な表現が機関銃のように浴びせられ圧倒される。ニュース番組や自然探検番組でヌけたことを言ってるオッサンくらいに思っていたが、小説がこんなにイイとは思わなかった。著者の代表作であり続けているのも納得である。とにかく表現が上手く、小道具や繰返し、一見関係ない文を並べるテクニックなど、技法的にも高度なものがある。時折クスっと入るユーモアもいい。ストーリーや描写力もすばらしく、後半に入ってからのドンデン返しの連続にはスリルがあるし、なんとも言えない嫌な雰囲気のラストもたまらない。ただ、セックスが全面に出てくるとやや陳腐に感じた。ところで、色々な作家の作品に出てくるけど「地虫」ってのは一体何?

久々に「参った!」という雰囲気にさせてもらえた。現代の農業文学の代表作として歴史に残り続けるだろう。(84)


田辺聖子

感傷旅行

大阪で売れない放送作家をしている男女の周りで起るあれやこれや、
がコミカルな文体で軽やかに描かれていくのだが、内容は案外重く意外と問題も深く追求されていて、面白くてためになるものとなっている。これはこれで見事だと思うとともに、どんな重苦しいテーマを扱ってもこのような感覚を忘れないようにしたいものだと思わされる。社会主義革命運動というものがどれほど下らない傍迷惑なものかということも茶化すことで描き切られている。文章はさすがに上手い。惜しむらくは、主人公とヒロインとの関係が今一つよく分からないままで、この二人が突然(再?)接近する後半からはストーリーに緊張感がなくなってしまっているどころか何か消化試合のようなダラダラした調子に陥っている。ラスト付近は特に物足りない。

しかしこれはこれで見事だ(62)


田山花袋 (1871-1930)

重右衛門の最後 (1902)

タイトルの名前の脱腸のアウトロー飲んだくれ放火魔の半生
今で言えばアウトロー小説ということになるんだろうが、蒲団と併せ読むとなるほど五年の歳月を感じてしまう。中々楽しくは読めるが、今ならネット上でこの程度の悪趣味物語はいくらでも書きなぐられている。そんな程度の作品。まぁでもNHKあたりでドラマ化でもしたら充分面白いだろう。

プレ「蒲団」「田舎教師」としてのみ重要(50)


蒲団 (1907)

ストーリーはおなじみの、売れない作家が女弟子を文学青年崩れに取られて失い、彼女の蒲団を抱いて泣くというもの
そう長くない作品だが、日本の近代文学史を論じる場合にほとんど必ず登場するという恐るべき超重要作品で、確かにそれもそうかもしれないと思うだけの技術と内容はある。内容・技法ともに批判に曝されることも多いが、それもこれだけ取り上げられれば花袋も本望だろう。主人公(もちろんモデルは花袋本人らしい)の情けない感じが、その他の登場人物共々よく書けていて、有名なラストなどさすがに中々読める。「文豪!」というにはちょっと「あれ?」と思うような表現が所々あってそのトホホな雰囲気がまた独特の雰囲気を醸し出しているのも個人的には好きだ。

確かに歴史に残るだけのことはある(71)


辻亮一 (1914-)

異邦人 (1950)

満州(らしい)で共産主義自治体(国家? 何と言えばいいのか?)にとらわれた日本人の苦労話。
遅れてきたプロレタリア文学という雰囲気で、重苦しいトーンといい、読むだけで嫌になってくるようなリアリズムといい、共産主義者のアホらしさといい、とどめに「糞尿譚」を超える下品なストーリーと描写といい、中々やりきれない気分にさせてくれる作品である。純文学とはこういうものだという時代があったのだなと思ってしまう。インパクト満点で読みごたえはある。
ただ、説明不足なことが多すぎる。特に、主人公の妻がらみの情報は少なすぎる。他の作品を読まないと状況がつかめないというのは明らかな欠点だろう。その辺がもう少し解消されてればかなりの傑作だったろうにと思わされる。文章は所々下手だ。
どうでもいいことだが、この位の時期の坂口安吾は狂ってるとしか言い様がない状態だったことが芥川賞の選評からだけでも分かる。もう「壊れ」つつあったのか……

欠点が多すぎるのが惜しい(56)


筒井康隆 (1934-)

虚人たち(1981)

小説の作中登場人物であるという意識を備え持った主人公が妻子を誘拐される目に遭い、そこから始まるスッタモンダ

という設定はとても面白そうなのだが…

その後は主人公の思念をとにかく何でもかんでも書きなぐったものとしか取れず、退屈でしかない…(中公文庫版の解説によると「小説の舞台裏」というかいわば「原液」をそのまま出したもの、ということだが…だからといって大してより面白くはならない…)

とにかくゴチャゴチャゴチャゴチャした独白がダラダラダラダラ垂れ流される…

こうした「しゃべくり形」の文学作品はもちろん史上沢山あって、文学史に残る名作とされるものも多々あるのだけれど(しかし…ここをお読みの方々ならお分かりとは思うが評者・私はこの手の作品が正直苦手である…)、その面倒臭さだけを世界文学レベルにしたという感じの作品である…

意図的な空白ページ、「割り込み表現」など、仕掛け・工夫も色々となされているが… 評者が感じた退屈さをそれほど癒してはくれなかった…

発言が自動的に隠語まみれになってしまう登場人物の方がよほど面白いと思った(←こういう「悪ふざけ」が筒井の著作の好きな点でもあり嫌いな点でもあるのだけれど…)

「ネタバレ」は極力慎んでいるつもりなのだが、この作品に関してはあまり関係ないであろうから言うが、事件は結局碌に解決しない


筒井康隆という作家は…評者・私にとって好嫌相半ばする作家なのだが… 「これだから嫌なんだよな…」という部分だけ凝縮されてしまったという感じである…(50)


俗物図鑑 (1972)

ひょんなことで誕生した「梁山泊」なる特殊評論家専門事務所の栄枯盛衰

が「これぞ筒井康隆」という筆致で展開される…

続々出てくる奇天烈な特殊評論家の数々(言ってしまうと楽しみが半減すると思うので敢えて極力触れませんが全く笑わせてもらえます…(一つだけ触れておくと…スネークマンショーのとあるネタの原型的なものがこんな所にあるのには驚いた…(実際の関連は不明)))、荒唐無稽なしかし妙にリアリティのあるストーリー、そして最後は我々世代にはまるで「ハレンチ学園」や「イヤハヤ南友」を思わせる全面戦争で締めくくられる

まさに荒唐無稽かつ抱腹絶倒なやりたい放題の一大娯楽読み物となっており、単純に読み物として楽しめる。筒井康隆という作家の一面である「安定感」と、それと裏腹の破天荒さというもう一面の両方を味わうことができる(破天荒さが勝りすぎると数々の実験的な諸作品になるのだが…それは成功しているのも、どうもそうでもないのでは…というものとがある…(それは上の「虚人たち」の評者評にある通りである))

調べてみると映画化されているようである(残念ながら未見)… ヒカシューが出ているというのには笑った!


「虚人たち」の所でも触れたが、筒井康隆という作家には好嫌相半ばする感覚をずっと持っている… もちろんこの作品は「好」の方に入る… が…「にしては実験性が足りないのでは…」ともっと「冒険」を期待してしまう自分もいる… 読者とは勝手なものだ…(67)

完全に余談であるが… 調べてみると… 何とこの作品よりも「ハレンチ学園」の大戦争の方が先である! もちろん、作者筒井がアレを意識したのかどうかは分からない(筒井康隆ともあろう人がアレを知らなかったということはまさかないとは思うが…)

もう一つ余談… この作品のある個所で筒井が「すべからく」の誤用をしていたので(よくある「すべからく」を「すべて」の意味で使うアレ)筒井康隆ともあろう者が…と思ったのだが… 別の個所では正しく用いており… 何なのかよく分からない…(この辺も何となく筒井康隆らしいな…と言われればそうなのかもしれない…)


津村節子 (1928-)

玩具 (1965)

作家志望の変人夫に振り回される妻
主人公の夫が書いた作品に心当たりがあったので「あれ?」と思って調べるとやはり、モデルが実は某大作家だった。はっきり言って彼のキャラクターだけでもっている。色々と工夫はこらされているし、構成・描写とも技術を感じはするが、それもみんな吹っ飛んでいる。ただそれだけ。これで夫が普通の人間なら果たして作品が成り立ったかと思う。

しかしこの作品は芥川賞。モデルの文豪は結局芥川賞になれずじまい。世の中分からんものだ(51)


鶴田知也 (1902-1988)

コシャマイン記

アイヌの英雄コシャマインが近代日本に翻弄され騙され殺されるまで。
風変わりな時代小説として中々読める上に、アイヌ民族に関する小史としてもちょっと勉強になる。これが単なる同人誌に掲載されていたというのだから怖い時代であるともに、当時は芥川賞の審査員も真剣だったというのが分る(石原都知事は言うに及ばず、池沢夏樹や村上龍が好き好んで同人雑誌を相手にするとは到底思えない。宮本輝は文句言うためだけに読んでそうな気もする)。最近中学校の歴史教科書とかでも喧しく取り上げられているシャクシャインが割と否定的に書かれているのが面白い。学校の教師は受け売りのお説教をするくらいならこれを読ませるべきだ。

文学全集などの名作集に必ず収録されているのも納得の(80)


東野辺薫 (1902-1961)

和紙 (1943)

会津の紙漉き農家の苦労話
普通に生活していたら恐らく一生関わらないであろう業界や業種などに触れられるというのも小説の醍醐味の一つで、こういう言うならば「特種小説」の存在意義も一つにはそういうことにあると言える。この作品などその典型のようなもので、不必要かと思えるほどに紙漉きの細かい内容まで盛り込まれていて耳学問の快感を得ることができる(全く興味のない、あるいは嫌悪している向きにはうるさいだけかもしれないが)。ただ、時節柄仕方なかったのかもしれないが、紙漉きだけで押し通さず戦争を盛り込んだ結果内容的にはやや分裂してしまった印象がある。軍需紙というだけでなく紙漉きと戦争をもっと有機的に絡み合わせたストーリーが作れればさらにとんでもない名作になったのではと思うが、それも無い物ねだりか。

「特種小説」としては一級品であろう(60)


徳田秋声 (1871-1943)

あらくれ (1915)

本人は真剣なつもりかもしれないが周りや感情に流されているだけの「奔放」な女の半生
下手! それにつきる。文学史上で「名作」と呼ばれているものがそうでもないことを発見してしまうと多少は戸惑うものだが、これは何の躊躇もなく言いたい。ヘタクソと(それとも「あえて言おう、カスであると!」とでも言おうか(笑))。まず文章が下手だ。何度も読み替えさないと意味がとれない類いの悪文が多い。個々のエピソードが短く書き込み足りないくせにやたらに展開が速く、取り残される感覚が常にする。書き込みが足りないにしてもそれがもう説明不足と言う以外にないことも度々で非常にしばしば何が起ったのか分からない。登場人物が多いくせに書き分けができていない。欠点ばかりが目に付いて久々に苦痛を感じながら何とか読み通した。女主人公の下らなさはよく出ているのかもしれないが、そんなもん読ませんなという気もする。「純粋客観」だの何だの大層に持ち上げられているらしいが、アホらしい。面白くないものに看板だけかけるのはよしてほしいものだ。

二度と読みたくない(34)


冨澤有爲男

地中海

フランス駐在員の不倫物語。
不倫をそそのかす主人公の悪友が無気味な存在感をもって描かれている以外特にストーリーはどういうこともない。ラストが何だかもやもやと終わるのは個人的には「逃げたな」という気がしたが、そのまま決着を付けなかったのはかえってよかったのかもしれない。状景描写が的確でストーリーとのバランスもよく、その点はうまいと思った。

古臭さを感じさせない、手堅くまとまった佳作だと思う。 (75)


中上健次 (1946-1992)

枯木灘

複雑怪奇な出自と陰鬱な郷土の風土に呪われた青年がそれでも地道に土方人生を送るものの結局呪いに屈する

「岬」の続編的な作品にして、この作家初の長編

ということなのだが… ストーリー面でも文体面でも「岬」から良くも悪くも落ち着いてしまった、という風に感じざるをえなかった… 要するに「アク」というか「クセ」というかが抜けている分幾分読みやすいが、その分インパクト面では「岬」に比べると物足りなく思う…

どんな大作家でもデビュー第二作とか初の長編とかになると「アガる」ものらしいが、この作家、この作品も御多分にもれないらしい。なるほど、ストーリーが動き出すのが何かノロい

文体面も良く言えば読みやすく、悪く言えば「フツー」に近付いてしまっているが、しかし不気味な雰囲気は全編に漂っていて、「純文学」的な雰囲気を受け付けるか否かで恐らく評価は正反対になると思われる

評者は「純文学派」なのでもちろん肯定的に捉える方であるが、それでも欲を言えば、終盤の「破滅」に向かっていく展開の持って行き方がもっと上手ければさらに劇的な作品になったのではと思わされる

また、何人かの登場人物がある「逸脱行為」を犯すのだが、ストーリー全体におけるその行為の意味合いが今一つ見えず、単なる悪趣味なコケオドシ以上の意味が見いだしにくい

さらに、主人公はじめ何人かの登場人物が「何ものかに見られている」という感覚にとらわれている旨を吐露していて、この点哲学的にもちょっと面白いと思わされるものの、やっぱり今一つ掘り下げが足りず「スパイス」以上にはなっていない(しかも、「誰が見ているのか」はともかく、「誰が見られているのか」については明らかに考慮が足りず、そもそも哲学的に疑問が残る(誰が何者の感覚を語っているのか?))

と、「疵」をあげつらおうと思えばできる、というもので、「反純文学派」にとってはなおさら不利に働くであろう

それにいくら何でも「性器」「性器」言いすぎであろう… バーのオカマさんじゃあるまいし…

「面倒臭い文章で読者の不快感を煽ることで自我を揺さぶる」「ストーリーらしいストーリーを「敢えて語らない」」という(単なる自称や失敗作含め)「典型的な純文学的雰囲気」の源流が「ここ」かもしれない…と、思いたくはないものだが…評者がそう思ってしまったのは事実である…


複雑な家庭環境(巻末に家系図が付いているが…正直訳が分からない)はともかく…陰鬱な風土については描写の巧みさも相まって心地よく気持ち悪くさせてもらえる…(68)

余談だが… 評者の学部時代の先輩が丁度この地方の出身で(確か「那智勝浦町天満」で、作中にも言及がある)、色々と考えてしまった…


複雑な家庭環境の中で生活している土方の青年が見た家庭内外のゴタゴタドロドロ
が独特としか言い様のないさっぱりしてるんだか粘着質なんだかよく分らない文体であまり起伏なく語られていく。やたらに打たれる読点、揃ってない文の長さ、当たり前のように出てくる主語なし文など、およそ巷の文章指南書に反する文体で綴られているのだが、それが無気味な効果を上げているのだから何か納得してしまう(ただ、叙述の視点が安定していないのは誰が誰だか分かりにくくなっているだけだと思う)。これぞ純文学というような文章だ。ストーリーもそんな感じで結局何なんだかよく分らないが、何かとりあえず恐ろしく無気味な状景が延々続いて気持ち悪いが何かハマるものがあるかもしれない。「こんなの俺絶対書けねぇ!」と何度もショックを受けながら読んだが、文体的にもストーリー的にも正直あまり読みたいものではない……
どうでもいい話だが、村上龍は芥川賞に推す推さないの基準をこの作品に置いているとどこかで読んだ覚えがあるが、私が変だと思うのは「あれは、これ以上なのか?」と思わざるを得ない作品が村上龍の賛成した作品にすら多くあるのは一体どういうわけなのだろう。(元ネタ分る人だけ笑ってください念のため)

この作家の作品は実は初めて読んだんだが、他もこんな雰囲気なんだろうか……(74)


中里恒子 (1909-1987)

日光室 (1938)

国際結婚した家庭の子供達の交流とそれにやきもきする母親
が「いかにも女流」という文体で(こんなこと書くとすぐに「「女流の文体」なんて言い方は偏見だ! お前は男尊女卑だ! 女性差別だ! キーッ!」とか言われそうだが、言いたきゃ言ってください……そんな連中は誰が何しようがこういうこと言うんだろうから……)しっとりと綴られる。出来事よりも母親の心理描写に重きが置かれていて気の効いた心理小説として中々読める。真面目な主婦向きの(ここで多分同じこと言わなきゃいけないんだろうな……)読み物としては上等でお勧めできる。

こじんまりとした佳作(67)


乗合馬車 (1938)

日本人と国際結婚し帽子屋を営む在日フランス人が摩擦に苦しみ、帽子屋もうまく行かなくなり望郷の念にとらわれながら倒れるまで(死にません)
が思わず「あぁ女流だなぁ」と思ってしまう微妙に湿った文章で綴られる。年相応に老けながらも時折色気にハッとさせられるような近所の未亡人みたいな文章だ(渡辺淳一並みの陳腐な言い方だが……)。主人公の内面は多分共感を持って書かれており中々センチにさせてくれる。その他の登場人物も割と丹念に心境が描写されていて上手い。ただ、前半は今一つキャラが立っておらず、しかも無駄と思われる登場人物も多く案外ごちゃごちゃしていてちょっと読みづらい。後半の雰囲気に早く叩き込めればよかったと思う(読者とは贅沢なものだ……)。
文体は独特なもので、特に細かく打たれる読点が何か拍子木でも打ちながら読んでいる気分にさせてくれる。会話の最後が例外なく『、」』で終わっているのは何なのだろう?

これぞ昭和の女流という作品だなぁ……受け付ければたまらないだろう……(66)


中島敦

光と風と夢

「宝島」の作者として有名なスティーブンソンが南洋パラオに移り住んでからの体験記、という体の物語

今現在も作品が国語の教科書に載せられているあの中島敦の、何と漢学にはおよそ全く関係のない作品にして、さらに何と何と芥川賞の最終候補作である。そんな作品が中島敦にあるのか、と驚かれる向きも多かろうと思う

恐らく我々の大部分にはなじみがないであろうパラオの自然文化・社会制度などが割と丁寧に描写されており、またスティーブンソンの晩年の伝記的な物語としても、なかなか面白くは読める

しかし、中島敦という作家をちょっとでも知っている者なら、この作品を読めば恐らくほぼ全員がこう思うであろう。これは、中島敦がものすべき作品なのであろうか、と。そして、この作品は、決して悪くはないが、中島敦という作家の本領が発揮された作品とは、到底言えないであろう、と(中島敦という作家の代表作としてこの作品を「山月記」などを差し置いて挙げる人間は、 例えば極端な漢学嫌悪者とかでなければ、まずいないのではないかと思われる)


悪くはない、面白くなくもない… だけど… と何ともモヤらされる作品 伊福部昭に十二音技法で作曲させた作品があったらこんな風に思うかもしれない、とかそんな感じ(「ここ」でよく使われる比喩で言えば、寿司屋にケーキを作らせたら…、とでもなるところだが…一流の寿司職人はケーキも案外おいしく作りそうな気がしないでもない…)(61)


中野重治 (1902-1979)

歌のわかれ (1940)

文学を志す者の鬱屈した青春が綴られる作品集
前書きからしてもう既に詩になってしまっている。いきなり「こんなの書けねぇ!」と面喰らわされ、その後も詩情がありながらもズンズンと迫力のある重い文体での描写に痺れさせられる。ブラックユーモアが効いているのもいい。しかし、上手いんだけれども一体何が言いたいんだという感覚も同時に味わわされて戸惑う。表題作に入るまではその感覚が払拭できず困った。表題作も序盤がダラダラしすぎていて構成に難があるが、ラストは苛立ちが伝わってくる。残り二つ、特に「空想家とシナリオ」は面白い。会話がいい雰囲気で丸山健二を連想した。適度に思想・文学論が入っていて批評の効いた作品にもなっている。しかし、こっちはラストがちとお粗末。最後の「村の家」も心理描写が巧みで焦燥感がジリジリと伝わってくる。

上手いんだけど……もう一段突き抜けてくれたら……とずっと思わされた……(67)


中村真一郎

女体幻想

タイトル通り、女性の体の一部分をタイトルにした幻想譚が都合十篇
あるのだが、はっきり言っておこう。もう賞味期限切れ、発酵待ちである。こういう文学が一般的な人気を得られる時代はとうの昔に終わっている(むしろ大半が平成になってから書かれていることが驚きだ)。「古文」としての価値が出てくるまでは誰も読まないだろうと断言できる。
とにかく面倒くさい! かつてこういう形で「エロ」が「味わわれて」いた時代もあったのだなぁ(かつてはエロにも想像力が必要だったのだろう……今はAVも風俗も普通にあるし、バカにとってはエロに知性なんかいらないもんな)……という今となっては失笑ものの「純文学エロ」だが、二十一世紀の人間にとってはもはや無茶苦茶でしかない面倒くさい文体に慣れれば、そこそこ読める。何か知的な雰囲気を漂わせたいというのは分かるが、読みにくい文体が文学的だと思われていた時代はもう終わったと念を押したくなるほど、文章は悪い。それで、衒学的な内容をこれでもかとイヤミに盛り込むので、読みにくいことこの上ない。
イメージだけが暴走しているような雰囲気には「慣れれば」中々心地よいものがあるし、評者など結局哲学病なので案外思想めいた内容も楽しめたが、どうも深さを浅く気取っているだけで、今一つ突き抜けたものがない。特に「時間超越」「主客未分」といった一昔前の観念系思想家が振り回していた神話がまだ生きていることには呆れさせられる。芸術論としては時々読めるが、こういうことを書き出すとのめりこみすぎて今度は小説にならなくなるという欠点もある。
例によって;二重丸:「髪」、二重丸+×:「茂み」、○:「脣」「臍」、○+×:「掌」「腰」、△+×:「顔」 「×」は要するに文体が悪いというものが大半。

恐らくこの作品でこの文豪の全てを判断してはいけないのだろうが、要するに面倒くさいだけの、超マニア向けゲテモノに過ぎない。「いつまでこんなことやってんの?」という感じである……(50)


中山義秀 (1900-1969)

厚物咲 (1938)

人格破綻者の強欲エロクソジジイが周りを不幸にしまくったあげく不様に死ぬまで
が説明調で語られて、いつか終わるのかと思うとほぼ最後まで続く。長い長い状況説明だけで物語が終わってしまったという印象がある。最後の最後に来てストーリーが動き出すとそのままあっけなく終わってしまう。前半のしつこさと比べてひどく物足りない。結末の付け方も取ってつけたようなものでしかない。しかも視点が三人称のような一人称のようなよく分からないもやもやした書き方で、昔はこれでよかったのかもしれないが今となっては結構イライラする。クソジジイは嫌になるくらいしつこく書かれていてその点ではよくできているのかもしれない。高級な悪い見本としては使えるかもしれない。

かつては叙述法とか語り口に作家もそれほど自覚的ではなかったということだろうか?(56)


永山則夫

木橋

御存知連続射殺魔にして日本の獄中作家の草分けでもあり「赤い」連中の英雄的な存在である永山則夫の処女作品集。デビュー作にして新日本文学賞受賞作の表題作と、その関連作品とでも言うべき二編が収められている。

聞く所では作品の文学的価値を一つの理由として死刑からの減刑が主張されていたらしいが、はっきり言おう、この作品集を読む限りではそんな価値は全くない。読み書きもままならない人間が「ここまで来た」という意味ではすごいのかもしれないが、それと作品自体の文学的価値そのものとは別の問題であるはずだ。永山や彼の作品を持ち上げていた連中は、どこにそんな幻想を見ていたのか、正直分からない。

三作品とも永山自身の体験を基にしたものだが、一番感心しないのは、自分が犯した犯罪を正当化しようとしていると取られても文句の言えない内容がそこら中にちりばめられていることで、被害者遺族の中にはこの作品集に激怒した方々もいたというのも理解できる。贖罪では無論なく、芸術的な昇華とも言い難い自惚れた自己正当化に、一体どれほどの文学的価値があるというのだろうか。永山とこんな作品を持ち上げる連中は永山の作品しか小説を読んだことがないんではないのか?と嫌味な邪推もしたくなるというものだ。


これじゃ犠牲者は浮かばれないだろう…何なんだ全く…(35)


丹羽文雄 (-2005)

(2005年永眠されました。御冥福をお祈りします)

厭がらせの年齢

表題作を含む短編集、とはいえ、作品はどれも短篇と言うには長い。読んでから気付いたが、全く同名の短編集が集英社文庫と新潮文庫とから出ており、しかも表題作以外の収録作品は全然違う(やめてほしい……)。今回評者が読んだのは集英社文庫版だが、たまたま手元にあったというだけで別に意味はない。
勝手に「大衆作家」という印象を持っていて、しかも見た所作品がどれもこれも超長篇なので今まで敬遠していたのだが、何が「大衆文学」だか、これはもう純文学以外の何ものでもない。高度な心理・哲学小説が完成されており(突飛かもしれないがマラマッドを連想した)、どの作品も強力に読者の精神を揺さぶってくれる。とにかく俗物根性や悪意・エゴ等がきっちり書き込まれていて、読んで心地いいものではないが「読まねばならない」という気にさせられる。着眼や発想、取材も高度ではあるが、技術的にも高度なものがあり、圧倒させる。とにかく文体が論理的なようで(論文の文体にやや近く評者は嫉妬を覚えた……)しかし情緒的で独特としか言い様がない。突然ポンと飛ぶ文を繋ぐ手法や数字を入れてリアル感を出す手法も上手く、比喩や小細工にも大いに感心させられた。惜しむらくはこうした技術が走りすぎたのか、いきなり描写が続いて状況説明は後から、ということが非常に多く(解説にも書かれているが)、時折おいてけぼり感に襲われる。二十一世紀の人間には敷居が高かろう……読みにくい小説として忘れられるにはあまりにも惜しいのだが……
かつては多かった、極端に改行の少ない文体で書かれており非常にページが「黒い」(漢字と平仮名のバランスがいいのでそれほど息苦しくはないが……)。一体段落というのは何なのだろうと考えないではいられなかった……
短編集の例によって:複数の○に肯定的コメント「夢想家」「厭がらせの年齢」「守礼の門」;○+△「盛粧」;○「鬼子母神界隈」「洗濯屋」;残りは何も付けられてはいないが全体にレベルが高いので、これで他の作家の短編集の○レベル。やはり表題作が一番よいと思う。

決して読みやすいものではないが読まれるべき文学だと思う。(82)


野沢尚 (1960-2004)

破線のマリス (1997)

ヤラセ紛いの衝撃的な編集で視聴率を稼ぐのを得意とするテレビ技術者の女が、そのテクニックが仇となり事件に巻き込まれ転落する
のがいかにも小説デビュー作にして乱歩賞受賞作品(映画化もされているらしい(未見)。それによく考えると乱歩賞受賞作を読むのは多分初めてだ)という気負いまくった文体で綴られる。なるほど緊張感には満ちていてスリルがあるが、さすがに堅く時折息苦しさを感じてしまう。ストーリーが進み内容に慣れてくるまでは作者の方も書き慣れていないのか、上手いのか下手なのかよく分らない表現が続く。ごく少量ではあるが「○○たる」など場違いな時代がかった表現は邪魔。ストーリーが動き出すとスピード感があり、例えば『呼人』よりも抵抗なく読んでいける。ただ、結末の付け方には大いに不満が残る。収束のさせ方が急ぎ過ぎもいい所で無理矢理感が漂い、謎がきちんと解決されず放り出されてしまったと思わざるを得ない。でかい伏線(言うと面白くないので書きませんが)も工夫はしているのだろうが、これも無理矢理でいただけない。

色々な技術は感じるのだが、それ以上のものが足りないと言わざるを得ない(60)


呼人 (1999)

十二歳で成長が止まってしまった少年が仲間と共に自らの出自を探る
のがなるほど十二歳ならこんなもんかという筆致で延々続く。作るのが難しいキャラクターを主人公にしてしまったという感じで、上手いがどうも今一つ突き抜けたものがない。最初は特に軽いというよりヌルい雰囲気でいかにも作り物の少年小説紛いになってしまっている。後半になるとスリルが出てきてグッと面白くなるが、そうなると今度は説明臭くかつ説教臭くなって「いかにも」という雰囲気が過ぎる。全体に作り過ぎで、調べたからって書くなよと何度となく思わされた。とはいえ、動きのあるエピソードの描写は冴えていて、迫力がある。特に地雷戦のエピソードはいい。ただ、ラストは感傷まみれもあって、今一つ。謎が解けていく過程も、それまでの引っぱり方と比べるとすごく弱い。どうでもいいことかもしれないが、未来のことを書くというのはやはり難しいのかなとも思わされた。読む側としては「予言」がどのくらい当っているかという「と」的な読み方もできて楽しいのではあるが。

全体に「いかにも」な作り物で、これはこれで楽しめる。なるほどドラマなどの原作としては丁度いいものかもしれない(60)


野呂邦暢 (1937-1980)

草のつるぎ (1973)

自分を変えようと自衛隊に入隊した若者の悪戦苦闘
を切り詰めた簡潔な表現で綴っていく。その文体が妙に迫力あり、主人公の苦しさが伝わってくる。本領が出ている部分ではスリルがあるが、中盤以降は恐ろしく退屈になる。まず、持って回った文学的表現が頻発するのが陳腐で白ける。そこだけ紋切り型になっているのが残念。おまけに体言止めまで出てくる。本領の表現だけで押し通せればもっとよかったのだろう。緊張感が途切れるとこういう表現が連発して読むに耐えない。そこを超えると紋切り型はなくなって読めることは読めるが、今度はエピソードの羅列で何が言いたいのか分らなくなる。全体に構成が甘く、全体像がなかなか見えない。第一、「示点桿」「槓杆」などにフリガナが打たれていないのは明らかに不親切。これじゃ単なる自衛隊オタク小説と思われてもしょうがない。しかも、ここまでディテールにやたらにこだわる意味が今一つ感じられない。「岩塩」「唇の腫れ」など小道具を工夫しているのは分るが「ああやってるな」と分る程度の工夫と効果にとどまっている。

前半は期待したが大いに裏切られた……あんまりだ!(54)


長谷健 (1904-1957)

あさくさの子供 (1939)

タイトル通りあさくさの子供たちと、年中「教師とは」とか反省だけしているような迷惑な小学校教師との交流
が饒舌な文体でずらずらずらずら……綴られていく。とにかく長い!(多分芥川賞受賞作では最長ではないか? 約370枚)割と軽やかに読めて退屈ではないが、それにしても長い。ウソつきガキ、ひねた母親のせいで脱腸で死にかける子供、子供じみた恋の芽生えと三章に分けてある意味はよく分からない。最後は無理矢理一つの話にまとめてあるような作りになっているのもよく分からない(何故か脱腸子供だけは出てこない。死んだのか?)。章分けによって語り手の人称が代わっているのもよく分からないし、「手記」と書いてあるのがどう考えても手記じゃないというのもよく分からない。今となっては色々な所がぞんざいに見えてしょうがない。
ただ、小説としてはよく書けていると思う。子供の手に負えなさ、学校という組織の暴力性、教師という存在の身勝手さなどはよく出ている(リアルすぎて嫌になるくらいだ)。時系列をずらしたり、ストーリーに直接関係ないものを克明に描写して効果を上げたりしていて、技術的にも優れている。長さに引き換え、ラストのあまりにもあっけない幕切れは物足りない。

読みごたえがある。ただ、これほどまで長くなかったら……とはやはり思う(68)


畑山博 (1935-)

いつか汽笛を鳴らして (1972)

兎口の冴えない旋盤工の挫折
が屈辱の回想をふんだんに盛り込みながら綴られる。何よりも表現が独特で雰囲気もよく(語られる内容の重々しさとは裏腹に。こういうことが味わえるのが純文学なのだな)、瑞々しい。特に感覚の描写が上手く、主人公の鬱屈が伝わってくる。文体には一種詩的な迫力が漲っていて、それを巧みな比喩が引き立てている。表現としては高度だ。ただ、それだけに構成面でやや難があるのが惜しい。いきなり回想(? よく分らない)から入り、盛上がったところでポンと時間が飛ぶのはどうかと思う上に、飛んだ先の「現代」の物語には始め明らかに緊張感が欠けている(少なくとも回想部分ほどの迫力はない)。「過去」は緊張に満ちていたのに惜しいなぁ、と思いつつ読み進めると、後半に入ってから、現在と過去の往還、というより回想の捩じ込みが上手く機能してくる。この雰囲気を最初から出せればすばらしいものになったであろうに、と思わされる。

構成上の難を吹っ飛ばすものを備えた勢いのある名作であろう(72)


林京子 (1930-)

祭りの場 (1975)

長崎原爆投下時の被爆者の体験談とか
が、たたみかけるような簡潔な文章でルポタッチで描かれる。時代・事件の資料としては貴重。ノンフィクションとして読めばなかなか。データ・数字がしつこく書かれているのが残虐さを引き立てている。原爆小景の描写も淡々としていてかえって迫力がある。特に比喩が面白い。身近なものを用いた表現がかえって痛みを増している。単なるお涙頂戴や悪趣味だけの原爆文学に終わっていない。
ただ、傷も多い。まず、当時の描写・回想・現在・主人公(作者)の思想が入り交じっていて分かりにくく時折ついていきにくい。表現的には、いかにも純文学という気取った表現がわざとらしく、白ける。漢字を平仮名に直してあるのがかえって読みにくいどころか幼稚に思える。時折、一行空けが多すぎて場面が持続せず、ぶつ切りの印章を強めるだけ。後半は改行も多すぎ、ブツ切れ感がさらに強い。それに悲惨さに慣れてしまってインパクトが失せる。
個人的に驚いたのは、『ウルトラセブン』第十二話「欠番」の顛末が載っており、しかも否定的に書かれているわけでないことで、たまたま『封印作品の謎』なんぞ読んでいたので、やりきれない気分になった……

原爆文学としては貴重なもので、そこから抜け出してはいるが、文学作品として見ればまだまだ(57)


林芙美子

放浪記

御存知、林芙美子と言えば何はともあれこの作品、なのであるが… 実は評者・私、読むのは今回初めてである…

いきなり余談だが、かつて「名作アニメ劇場」なる企画があり日本文学の名作が30分アニメ化されていた(中には「太陽の季節」なんてのもあった(案外面白く見た記憶がある…))。この作品もアニメ化されていたわけだが、評者・私はたまたま見逃した… そして、その企画に合わせて新潮文庫のカバーもこのアニメの絵のものにされていたのだが、この作品の表紙はちっちゃい子供時代の著者・林芙美子と「両親」が描かれていたと記憶している… そして、当時の評者・私も、この作品はそういう時代の話が延々と書かれているのだと思っていた…

が、全く違っていた…

いや、そういう時代のエピソードも確かにあるのだが、それは冒頭のほんの少しで、残りは詩人志望の売れない文学少女時代の林女史の、ほぼその日暮らしという有様の、悪戦苦闘、それもただものを食べて生き延びるためだけの、が延々延々描かれる

著者がこのような体験記を書いているという自覚はあるようだが、恐らくは実体験をそのまま書き連ねているだけで、特にまとまった物語の筋というものがあるわけではないので、それこそ「懲りない面々」が同じようなことを同じように繰り返しては失敗して落ち込み自虐する、のがズラズラダラダラ続く

ただ、その内容はすさまじく、どこからこんな強靭な生きる意志、そしてさらに文学への「書く意思」が湧いて出てくるのか、と驚嘆にすら値するその力強さは、確かに読む価値があるかもしれない(し、それだから今日まで読まれ続けているのだろう)

しかも、さすがに詩人志望だけあってか、文章がそもそも詩というか、もはや歌のようになっており(普通にしゃべるだけで歌のようになってしまう方が現実に何人かいるが(矢野顕子サンや矢沢永吉サンをその中に入れるのに異論のある方はあまりいないと思う)、そんな感じ)、読んでいて気持ちいい。こんなすばらしい文章を書ける人が何故売れなかったんだろう?と思う

話は戻るが、元々は私的な体験記のつもりででもあったのか、状況説明が明らかに不足しているまま場面が突然展開したりして(新章に入ったら突然関東大震災が起きた後だったり、男と別れた後だったり…)その辺は結構読みにくい、スピード感のある文章と物語だけに少々残念に思う


文体・文章は破天荒ながらも独特のものがあり、非常に読ませる(もしかしたら斎藤美奈子あたりは「こんな感じ」を目指しているのかもしれないが…言うまでもなくレベルが全く違う)ものの、身も蓋もないことを言えば小説というよりは体験記である(著者・林芙美子自身が作中で「小説は書けない」という趣旨のことを語っていたりする)(59)


半田義之 (1911-1970)

鶏騒動 (1939)

千葉(?)の強欲ババアとロシア人との交流
が方言をふんだんに盛り込んだコミカルな文体で綴られる。タイトルから予想される通り、コメディーと言うべき内容だが「ドタバタ」ではない。ババアの心境変化が丹念に描かれているのでその辺は中々面白く読める。難を言えば設定や展開がやや安易かつ御都合主義的で、叙述が不親切で読み進むまで何が起ったのか分からなかったりするものの、こじんまりとまとまっている(関係ないことだが、この頃の芥川賞選評は恐ろしく皆印象批評で何の参考にもならない。「難がある」とだけ言って突き放したり、ひどい時には「候補作を読んでない」とか言ってしまっていたりする。よく大丈夫だったなぁ……)。ロシア人を出さねばならない意味はよく分からない。どうでもいいが、久米正雄の芥川賞選評は面白い。

地味な作品だがよく書けている(67)


東峰夫 (1938-)

オキナワの少年 (1971)

タイトル通り、沖縄の少年の日常と冒険
が、そのまんま少年っぽい文体で綴られる。視点が少年の目線に置かれているのである程度は仕方がないのだろうが、表現・ストーリーともどうにも幼稚で、童話みたいな雰囲気に多少癒されはするものの、時折大人(つまり作者)の視線が不用意に入り込んでいて興醒めする(性への目覚めを書いた部分など特に)。こういう作品を自然な感じに仕上げるのは意外と難しいと分る。擬音語等の使い方は上手いが、いかんせん基盤がこれなので今一つ生きてこない。ただ、当時の沖縄の風俗はよく描けていてその点は楽しめる。もっとも、沖縄語をふんだんに盛り込んだ文体はうるさい。章分けが妙に細かいのも全体の印象を散漫にしている。

ありがちな「沖縄文学」でないのは個人的には評価したいが、それだけ(50)


東野圭吾

毒笑小説

タイトル通り(この書き出しばっかりだな……)、笑える短編を都合十二編集めたもの。今現在最も活発に活躍している推理作家の一人であるだけに、どの作品もよくできていて単純に楽しんで読める。大抵このような作品は作者だけが喜んでいるか、狙い過ぎて外しているか、対象を絞りすぎて単なる内輪ウケのオタク小説に堕すか(気の毒なので具体例は挙げませんが……)、そういう悲惨な結末になるものだが、うまくバランスが取れている。とはいえ、何作品かは途中までは非常に面白いものの、オチが弱くてややがっかりさせられる。しかしそうした作品でも、並の作家の短編集の「上」くらいの質は保っているのが偉い。
巻末に付いている京極夏彦氏との対談も面白い。無責任な作家に手抜きの解説を書かせるくらいなら、こういう風にした方が余程面白いのではなかろうか。評者も「活字の笑い」というものがもっと盛んになってほしいと思う。
例によって;複数の○:「マニュアル警察」「ホームアローンじいさん」「花婿人形」「つぐない」「誘拐電話網」;○「女流作家」;△「誘拐天国」「エンジェル」「殺意取扱説明書」;後は無印。一番よくできているのは「誘拐〜」だと思うが、個人的に一番好きなのは「マニュアル警察」。「エンジェル」は「あらすじ小説」であまり感心しない。

面白い! こういうのを書くのを本業にできれば最高なんだろうな……(仕事になっちゃうとまた嫌かもしれないが……)(63)


日野啓三 (1929-)

あの夕陽 (1975)

ソウル帰りで在日と結婚した新聞記者が何もなかった夫婦関係に疑問を持ち、終えることを決意した途端に逆に逃げられる
のが、回想を盛り込みながら淡々と続く。読んで嫌ーな気分がする。内容が重いとかそういうことではなくて(むしろ重さは全然足りない。必死に深刻さを演出しようとして全然そうなっていない)、大して面白くもない内容を不必要に捻った文体と見え見えな小細工や効果で「いかにも純文学」という雰囲気に拵えてみせている。芥川賞全集を読んできて、いよいよ「これ」が始まったか……と暗い気分になった(「これ」は様々な小粒作家を経由して今でも例えば島本理生などに継承されている。ただ、以前はそれこそ「賞を取ったただのひと」で終わったのが今では文豪にすらなってしまうのだから酷い)。こういう「いかにも純文学」が狭い世界でだけもてはやされ、その外部では見向きもされない、そんな状況を固定させたのがこうした作品と、それに対する評価ではないかと思う。
ストーリーが平凡である以上に文章が陳腐で嫌だ。紋切り型だらけ。その上に序盤はリズムが悪すぎる。読みにくい! 紋切り型まみれになってくると読みやすくなる。最悪だ! どうも読みにくい文章が純文学だと思っている節がある(妙に長い修飾句等々)…… そうかと思うと娯楽小説並の紋切り型の連発…… 一体何なんだ! 文章の細かい所はかなりぞんざいで、同じ助詞を繰返す、漢字/かなの使い分けがお粗末等々、ひどいとしか言い様がない。そのままだとそこそこ食える大衆食堂が妙に色気を出した高級料理に挑んでかえって墓穴を掘り、主人と取巻きだけが高級感に浸っている、そんな感じ。

この作家も評価が真っ二つになるが、この作家が偉大であり、この作品が傑作なのだとしたら、一体どこがそうなのか、皮肉ではなく真面目に知りたい。分らない俺が浅いのか(個人的には作品が浅いとしか思えないのだが……)(45)


火野葦平 (1907-1960)

糞尿譚 (1937)

汚物処理行を営む男が苦労した揚げ句に没落するまで。
題材からしてとてつもなく汚い作品かと思うとむしろ清潔感すら漂う構成と文体でスマートにまとめられている。逆に言えば「糞尿」がやけに無害なものになってしまっていて、これなら廃品回収とかでよかったのではないのかという気もしないではないが、変態ネタで書くとすれば目指すべき境地の一つとして掲げたいものだと思う。極端に改行の少ないスタイルは(明らかに意図的になされている)一見した所は異様だが文章が娯楽小説並みにとても読みやすいのでかえってスピード感が増していると思うほどだ。改行ばかりしているエンターテイメント作家は見習うべきだろう。糞尿をばらまきながらなぜか「じゅげむ」を口走るというシュールなラストシーンは圧巻だ! どうでもいいが、芥川賞受賞時の横光利一の選評は面白くて利一ファンの評者はシビれた。

こういうのが書けたらいいなぁ……と思う作品の一つになった。あくまで個人的評価だと念を押した上で(91)


平中悠一

She's Rain

高校生が彼女(未満)と色々あった四日間。
村上春樹が至る所で模倣されているとは聞いていたが、ここまで酷いとは思わなかった。最初から最後までそれが変わらない。村上春樹なしにこの作品が成り立ったのかと考えると、作者はこれで満足なのだろうかと思ってしまう。まるで詩のようなページが延々と続くのはあまりにも読みごたえがない上に、それを成り立たせる詩的センスがあまりにも下らなくて楽しませてもらえない。こういうのが「オシャレ」とされた時代もあったのだな、と妙な感慨に駆られる。
比留間久夫のところでも書いたが、一体誰が誰に語っているのかということの自覚が全くないのは小説家として致命的ではないだろうか。作者と読者という関係を無自覚に、しかも身勝手に前提している。それが独り善がりで、これほど耐用年数の短い作品を大量に産み出してきた元凶なのではないのか。

このような作品があることに一体どういう意味があるのだろうか…(9)


比留間久夫

YES-YES-YES

限りなく男娼に近いゲイバーホストの日常。
興味がない向きにはグロい異次元でしかない男娼の世界を表現上はグロくならないようにうまく書いてある。ストーリーはこれといって起伏ないのが割とだらだらと続くのでそれが「限りなく透明に近いブルー」を連想させる。というか、村上龍の真似しすぎ。文章は本家村上龍ほどこなれておらず、「死に比喩」や独り善がりな表現、変な文章などが散見されるので不様な感覚が漂っている(それは意図的にやったもので、これで主人公の不様さを表現しているんだ、とかってのはそれはやはり「逃げ」でしょう)。高級な「やおい」という感じで適度に刺激的かつ爽やかに読めるから、これはこれで貴重な作風かもしれない。現代の性風俗や性意識の資料としてはなかなか貴重なものだろうから、まぁまぁ読み継がれていくだろう。一体誰が誰に語っているのか最後まで分らない割には語っている意識だけは時々明記され、イライラする。「ははっ」とか「ふふっ」とかは白けるのでやめてほしい……
どうでもいいことだがこのタイトルは「YES・YES・YES」なのか、それとも「YESYESYES」で半角の「・」(というこのマシンでは出ない文字)を間に入れるのか? 文壇・出版業界っておかしな作品は「新しい!」とかって売り出すくせに妙な所で無意味に保守的で頭固いよね。これじゃ出版不況になるわな。(斉藤美奈子かよ!(笑))

小説としての完成度は今一つだと思うが時代風俗の資料的価値はあると思うので(48)


深沢七郎 (1914-1987)

風流夢譚 (1961)

主人公(何者かは謎)が見た夢
が文体から脈絡からぐちゃぐちゃに語られるだけという、かなり趣味が悪い代物で、恐らく作家志望の人間がこんなものを書いて公募に出しても一次審査を通るかどうか怪しいであろう。こんなひどいのには中々お目にかかれないほどの悪文も満載で、そういう意味ではなかなか楽しい。私が変だと思うのは、こんなひどい文体でストーリーも無茶苦茶なのにいまだに文学史の中で語られているのだが、深沢七郎といえば『楢山節考』の次にこれが上がってしまうのだが、それについて何とも思わず、読めないにも関わらずずっと語り種になっているのはどういうわけだろう。(←こんな感じ)小説としてはまぁ最低の部類だと思うが、これは夢の話だし、これはこれで個人的には好きだ。
この作品を出すからには「アレ」に触れねばならないと思うが、本当にサッと出てくるだけで、趣味が悪いのは分かるにしてもこの程度で人が死んだのか…という感想は持たざるを得ない。「スッテンコロコロカラカラ」よりも皇太后の方が個人的には問題じゃないかと思う。
(モラル上配布はできませんが御希望の方には個人的に入手方法をお教えします)

個人的には嫌いではないが、やはり文学的価値は低いと言わざるを得ない…(39)


藤野千代

少年と少女のポルカ

今で言う所の「LGBT」を扱った作家の先駆、と言われているらしいが、この作品集を読む限りでは同人誌レベル、いやゲイバー好きの女の客が精一杯「通」のつもりで不用意に自分の願望を投影してしまった、という程度で、要するにBLの域を脱していない

「LGBT」という世界を描いたというだけで満足している、あるいは、「こんなものだろう…」というのが透けて見えてしまい、いわゆる活動家がこの作品を持ち上げるとすれば、やはりその程度かと言わざるをえない

(この作家という「人」を評価できるほど評者は彼女の作品を読んではいない)

文章もワザとらしく、ゲイという人種を不当に「良い人」に描いているという風にしか評者には見えない

これは、リアリティーではなく「ファンタジー」なのだ、と仮に言うとしても、技術的な不備がそこに心地よく浸らせてはくれない… 一言で言えば下手である

(例えば、表題作について言えば「トシヒコ」パートと「ヤマダ」パートの書き分けが上手くなく、どっちも一緒になっている)

併録作の「午後の時間割」は単なるヤニ女の煤けた頭の中をだらしなく描いただけでさらにつまらない

これは作者の責任ではないのかもしれないが、今回評者が読んだ講談社文庫版では、活字が妙にくっつけて印刷されており、それが快適な読書を妨げ、この作品の評価を下げるのに貢献してしまっている

講談社文庫版の解説は明らかに「やっつけ仕事」で読む意味はない


「このジャンル」の先駆的な作家とされているようなのだが、BL同人誌レベルである 両方まとめて(38)


二葉亭四迷 (1864-1909)

浮雲(1887)

才能はあるのかもしれないが世渡り下手な青年が官吏をクビになり、義理の家族との関係に苦悩する(未完)。
まず、明治二十年・帝国憲法と同時期に発表された小説を平成の人間が読んで特に苦労もなく楽しめるということが驚異だ(「日蝕」の方がよほど読みにくい(これはこれで好きです念のため(こう言っておかないとうるさいんだよね「ファン」が。あー面倒臭い……ジャニオタの女かよおまえら……)))。さらに、二十一世紀の今でも斬新、どころか「現代の」保守的な作家・評論家・読者すらが眉を顰めそうな表現が多くその点でも度胆を抜かれる(このページを見れば分るが評者はどちらかというと保守的な方で、それで今まで堀田あけみ・綿矢りさといった作家、あるいは斉藤美奈子の評論には嫌悪感しか感じてこなかったのだが、多少見方が変わった気がする。でも堀田あけみはいつまでも嫌いだろうけど)。こういう動きが恐らくしばしばありながらも、いわゆる純文学臭い文壇的な文章というのがどこで固定したのか、調べたくなったくらいだ。
ただ、小説としての完成度はそれほど高くない。心理描写は丹念にしているつもりなのだろうが何か同じようなことが繰返されて退屈だし、最後に何か変わるのかなと思ったところで中断されそのままになってしまうのはやはり大いに物足りない。
どうでもいいが、女の身勝手さのようなものがよく描かれていてそういうことまで今に至るまでそう変わっていないのを考えると、人間というのは進歩しないものだなと思う……

「言文一致体を確立した云々」とか称賛される割には誰も読んでないんだなと分かった。華々しく散った実験という意味しかないと思う(49)


船戸与一(1944-2015)

蛮族ども(1982)

白人による支配体制が崩壊した直後のジンバブエから財産を金塊に変えて持ち出そうとする白人旧支配者層と彼が雇った傭兵たち、とそれを阻止しようとする黒人活動家との激突

が迫力ある文体でダイナミックに語られる… と言いたいところだが、残念ながら下手な小説の見本のようなお粗末さがそれを妨げてくださる…

無暗に数だけ多い登場人物が一々一々フルネームで書かれるという「ウザい」文体もクドければ、全て説明しなければ分からないと説教されてその通りにしている優等生のような説明口調も下らないし(しかも複雑な事項の説明になると説明が下手で何が何だか分からなくなったりしている…)、ストーリーはそれこそ「ゴルゴ13」のシナリオかそれ以下で、ひまつぶし以上の読みごたえは感じられない

作者船戸はそれこそ「ゴルゴ13」の脚本作家の一人として知られていて、彼が脚本を手がけたとされる作品には好きなものもありさえするのだが(「氷結海峡」とか「陽気な狙撃者」とか…)、「自前」作品になった途端のこのつまらなさは一体どういうことなのかと不思議である… (例えば、この作品の作戦を阻止する側に「デューク東郷」が雇われたとして(いや別に作戦遂行側でもいいのだが…(ただしこの作品では「チーム」を形成しているので「彼」向きではないだろう))、それを「ゴルゴ13」の一エピソードとして漫画化したら…面白くなるであろうか? 評者・私はそうは思えない(まず登場人物がやはり無暗に多すぎるので、作画スタッフから減らしてくれと注文が付くのではないかと思う))

政治小説として、読めなくはないが… 今時ならそれこそ「生成AI」に書かせればできそうなレベルである…


福田和也版の「本家」を読んだ際に「これは是非とも読んで自分でも確かめてみたい」と思った作家の一人が実は船戸与一だった(もちろん「本当にそんなに酷いのか」「どれだけ酷いのか」という意味で… 逆は、実はあまりない… ついでに言えば、福田が酷評した作家のうち何人かは別に読みたいとも思わない(鈴木光司とか椎名誠とか…))… そして「なるほど」と思った…(39)


舟橋聖一(1904-1976)

白い魔魚(1956)

新しいつもりで実は感情でフラフラしているだけの女子大生が悪友に翻弄され実家のゴタゴタに巻き込まれ金持ちに金の力で求婚され、そんな中で「オホホホ」と男達を翻弄するてんやわんや
が、いかにも流行作家という文章で延々続く。そんな軽めの文体(「ホホホホ」等は本当にそう書かれている)と「いかにも純文学」な文体や本当に瑞々しい表現とがないまぜになっていてごちゃごちゃしているが、これはこれで貴重な作風かもしれない。ただ、時折発作的に思想臭いことを言い出すのは完全に浮いていて逆にしらける。ちょっとしたギャグはいい雰囲気だが。要するにバランスがいいとは思えず、そんな中でバラバラのエピソードがノロノロズラズラ続くので特に前半は退屈だ。後半に入るとストーリーに動きが出てくるが、今度はドタバタになってしまう。「悪女」を描きたいのだろうが、失笑するしかない浅さは東海テレビのドラマなみで(逆に、原作にいいかも)下らない。文庫版の解説で谷崎と比較されているが、谷崎とは違うもっとタチの悪い女礼讃が何とも不愉快で、文学全集の中だけに保存され「ああそんな作家もいたねぇ」で終わるのがよく分る。登場人物たちの「時代やのー」なグレ方は何ともトホホである。そして最悪なのがラストで、収束のさせ方があまりに無理矢理かつ中途半端。新聞連載にしてももうちょっと何とかなったんじゃないのか。というか後で直せよ。

それなりに楽しんで読めるが長過ぎる上に瑕が多すぎる(52)


古井由吉

杳子

タイトル通りの名前の、精神を病んだ女とのあれやこれや
が、引き締まった表現で延々と綴られていく。個人的には、芥川賞の選評で一人だけ好きなことを毎回言い放って独走している人、という印象しかない方であるが、作品の方も何かそんな感じで、特に突飛なものは何もないのだが、表現・ストーリー・何を取っても独特としか言い様のない雰囲気が漂っていておかしな説得力がある。とりわけ、違和感のある表現を組み合わせてなんとも言えない印象を与えるのがうまい(例えば「耳障りな音が楽しそうに」とかいった具合)。ただ、ちょっと長過ぎて途中でさすがに疲れる。評者など、モロ「メンヘル」的な人間なので、身に積まされる所もあってか読み通すのは結構きついものがあった。

もうちょっと短くまとめられればさらに効果が上がったのではとも思うが名作には間違いない(72)


古山高麗雄

プレオー8の夜明け

大戦後、ベトナムの戦犯収容所の様子をコミカルに描く。
作者の実体験に基づくものらしいと確か聞いた覚えがあるが、そういうことも含め、大岡「俘慮記」の後追い的な作品と言える。ただ、大岡にあった深刻さがこの作品にはなく、代わりに自嘲するしかない状況が極力コミカルに描かれていくので印象はまるで違い、単なる後追いに終わっていない。文体もふざけたものだが、惨めな状況を引き立てるのにかえって役立っている。擬音語や擬態語の使い方もうまい。時折サッと挟まれる人間洞察などが単なるおちゃらけに終止しないよう作品を引き締めている。敢えて難を言えば、状況が時折掴みにくく、どういう場面で何が起ったのか分からないことがある。ドキュメンタリー的な作品でこれは大きな欠点だ。いわゆるホモが戯画的に扱われているのは個人的には笑えるが、腹が立つ人も多かろう。
このような営みをしていて時々思うのだがタイトルにもルビを振るべきだ。評者も今回実際に読むまではこの作品が「プレオー「ハチ」」だと思っていた。まさかタイトルだけを見て「プレオー「ユイット」」と読む人間はおるまい。

欠点を覆い隠すだけのものは持っている佳作(62)


 

堀田あけみ

1980 アイコ 十六歳

タイトル通り「多感な」十六歳の日常
がまるで少女マンガの原作のような文体で延々と綴られるが、自意識過剰独善的駄弁の洪水に、軽薄と言うのすら恥ずかしくなるような「生のママ」の下らない表現、高校生が精一杯背伸びして「考えてみた」無自覚に薄っぺらな奇麗事や人生論、そういったものが並べられるだけでストーリーも構成も何もあったものじゃない(「限りなく透明に近いブルー」の粗悪なコピーといったところか)。綿矢のところで触れたので久々に読返してみたがこんな感覚がよしとされた時代もあったのだなと妙な感慨に駆られてしまった。これと「しゃべり場」とかの状況を合わせ考えると、失われた十年どころか、文化的には失われた二十年ということになるんじゃないのかと堪え難い絶望感にとらわれる(いや、このまま永遠に「失われた」ままか!? 嗚呼……)。
福田和也さんが、純文学は八十年代に入って質がガクッと落ちているという主旨のことを言っていたが、恐らくこれがその決定的な打撃つまり「とどめ」となったのであろう(この「没落」の端緒が何なのかは個人的に気になるので今ちょっと調べようと思っている)。もっとも、「没落」というのは世間的なものであって、玄人好みの名作は今なお着々と作られているのだが。
どうでもいいことだが、タイトルは目次を見ると「1980 アイコ 十六歳」のようだが、空白が全角になったり半角になったり、ぞんざいさが何か「らしい」。縦書きと横書きの違いによるものだろうか。いまだに縦書きにこだわる割には出版業界って意外と無神経なんだな。(ちなみに評者は縦書き廃止論者である。横書き推進論者と言った方がいいかもしれない。「縦書き原理主義者」達の言い分は評者にはさっぱり分らない。ついでに言えば「旧かな原理主義者」にももちろん反対だが、こいつ等は積極的に絶滅したいほどだ)

「こんな時代もありました」という資料としての価値しかない。この程度のものが歴史に残っているという意味では貴重かもしれない。(8)


堀田善衛 (1918-1998)

漢奸 (1951)

おなじみ終戦前後の在中新聞記者とタイトル通り、日本に協力したと糾弾される中国人詩人との交流
が、例によって著者の哲学的社会的な洞察にストーリーが挟まれるような文体と叙述でトボトボ進められる。「広場」と抱き合わせで芥川賞という語られ方しかされない気の毒な作品だが、内容が絞られている分だけ「広場」よりも引き締まっている印象がある。中国語だの何だのまで満載の文体はやっぱりうるさいが(「広場」ほどではないが、デジタル化するのがえらい大変だった)、慣れるとこれはこれで楽しめる。しかし、堀田は初期は中国ばっかり、晩年はスペインばっかりと一芸名人的で、この内容に興味がないとかなりキツい……

まぁしかしよくまとまっている。(71)


広場の孤独 (1951)

戦後まもなく、新聞社の臨時社員が赤狩りやら移住問題やらに翻弄されて悩む。
毛嫌いするという形で実力を認めるという屈折した表現をする方が作家にもいるが(最近だと慎ちゃんと平野啓一郎さんとか)、三島由紀夫が毛嫌いしていたというのも納得の(確かどこかで「堀田善衛の小説みたいで気に入らん」とか発言したことがあったはず。三島にここまで言わせれば立派だ。「宴のあと」と比べれば何となく三島の気持も分かる気がする……)政治・哲学・心理全部に外国語まで、ほどほどいい具合に交ぜ込んだ感じのかなり盛り沢山な小説で、結局ずっと堀田善衛と言えばこれだったのも当然という作品。こんなの書ければ満足だろうなと思うほど中身が濃い。逆に言えば詰め込み過ぎもいいところで、これを書き直して三つくらい別の小説が書けそうな気もするくらいだ。そのためか収束のさせ方は強引に見えなくもない。

この文豪の代表作であり続けたのも納得である。(71)


堀江敏幸 (1964-)

熊の敷石 (2000)

久々にフランスに赴いた翻訳家が旧友と出会う、
それだけの話に、フランスの風俗を混ぜ込み、ついでにユダヤ人問題とかまで入れてみた、というだけの作品。どこかで、十日で書かれたと読んだ覚えがあるが、それもそうだろうというくらいストーリーも構成もだらしない。舞台を日本に移したら何の意味もない作品に成り下がるのじゃないかとしか思えない。文章は巧いので楽しく読めることは読める。技巧でごまかすタイプの作品で、巧さに感心しつつも嫌悪感を禁じ得ない。ヨーロッパかぶれがどうのこうとという評があったらしいが、そんな大袈裟な問題以前に、海外を舞台にするだけでこういう虚仮威しがいまだに通用してしまう日本の状況が問題じゃないのか。

がっかりした。二度とは読みたくない。これを「深い」などと言う某書評家は頭がおかしい(40)


町田康 (1962-)

きれぎれ (2000)

うだつの上がらない画家志望のボンボンが体験したあれやこれや
ということなのだが、はっきり言って何が何だかさっぱり分からない。よくいる「しゃべってないと死ぬ」タイプの人間が思いに任せてだらだらだらだらとにかく何か口走っているという感じがするだけで、時々笑えたり、気の利いた警句めいたことが顔を出したりもするが、文字通りの駄弁が垂れ流されるだけで、イメージ的に鮮烈なものがあるにしてもだから何だと言う以外にない。例えば、町田町蔵(評者にとってはこの印象の方がまだ強い)ではなく、ただの文士志望者が同じものを書いて投稿して認めてもらえたかと言うと、大いにあやしいと思う。楽しめる楽しめない以前の本質的な疑義を吹っ飛ばすものがそもそもこの作品にあるのか。ないと思う。町田という看板でそれが覆われているだけだろう。芥川賞受賞時に「ラップだ」とか「朗読に適している」とか評されていたが、そんな大層なものかという気がする。この点に関しては宮本輝の見解の方に賛成だ。繰返し読む意味があるのかどうか疑問。独り善がりでヘタクソな即興演奏の録音みたいなものだと思う。所々明らかに必要なルビがふられておらず読みにくい。山本有三みたいにルビをふらないことをポリシーにでもしているのかと思うと、多分どうでもいい所で数カ所だけふられていて、何なのかと思う。
どうでもいいが、村上龍の芥川賞選評はこの賞の選評史上に残る最低最悪のものだと思う。何が「無つまりnothing」だか……いまだに自分の文体がカッコいいと思っている愚劣な不様さがえもいわれない。どうして一時期爆発的に騒がれた作家って後々無惨になるんだろうか……

これが文学と言えるのかどうかそもそもが疑問だ(38)(まぁでもこれはパンクのCDが雑誌で三十点しかもらえなかったりとかと同じ種類のものです)


松浦寿輝 (1954-)

花腐し (2000)

ビジネスに挫折した男が借金の「カタ」に押し付けられた仕事で奇妙な男に出会い巻き込まれ訳が分らなくなるまで
が、石川淳・高見順あたりを思わせるうねうねとした息の長い文体でぐにゃぐにゃと綴られる。確か町田康さんと同時に芥川賞を受賞したはずで、芥川賞がえらく粘着質な年だったのだなぁ……。ストーリーはまぁどういうこともなく、印象としてはサルトルの「嘔吐」みたいに全体の雰囲気に主張が込められている気はするが、どのくらい表現されているかは疑問。グシャッと潰れるようなラストは個人的にはあまりにも物足りない(「カットオフ」みたいなラストが流行った時期があったのか?)。堀江敏幸さんなんかもそうだが、別に何も言いたいことがないのに技術でごまかして作品にしてしまうのは文学的な貧困を招くだけだと思うのでやめてほしい。とはいえ、さすがに表現としてはうまい、ものの所々どうかと思う表現もあって読みにくいこともあった。スノッブ趣味的な部分もあるが、奢りが見えないのはいいことだ。

知的娯楽としての純文学が続いていることを確認できる作品(62)


松村栄子

僕はかぐや姫 (1991)

表題作は女子高文芸部の例によって自意識過剰「独り反抗」少女のジェンダー論;併録作は白豪主義丸出しのオーストラリア人ビジネスマンが日本の女を引っ掛けて挫折する話
表題作は「アイコ十六歳」のパクりと言われかねない内容と雰囲気の作品だが、もちろんこちらの方が小説としてはよくできている。ただ、主人公のジェンダー(ちなみに評者はこの言葉が嫌いだが便宜的に用いる)に対するこだわりがどれだけ表現され世界を構築したかと言うと疑問と言わねばならない。やっぱり結局「何か違う……」がずらずらずらずら続くだけという印象が残り、女子校生の自意識なんて結局この程度なのという感想を持ってしまう(本当にそうなのか著者がその程度のものとしかみていないのかは分からないが)。同じような雰囲気は併録の「人魚の保険」にも漂っていて、ゾペティの「いちげんさん」を先取りしたような白人の高飛車かつ一面的な在日摩擦遍歴が綴られるだけなのは、色々な技術が駆使されてその点には頭のよさを感じるものの(評者が出た大学のOGだから言うわけじゃないが……ちなみに松本郁子の方はどうにかしてほしいほどのバカだと思っている)、だからどうしたという感じしかしない。技術でごまかすタイプか……と思った

書き方はうまいけどその後ろにあるものがこれじゃぁ……(53)


松本清張 (1909-1992)

或る「小倉日記」伝 (1952)

小児麻痺で跛ながら頭はいいというコンプレックスの塊の青年が小倉時代の鴎外の足跡を追っていく。
清張のごく初期の作品の一つだが、もう既に清張らしさが如何なく発揮されている。時限爆弾のように埋め込まれた複線や仕掛け、グロテスクながらもどこか惹かれてしまう人間描写、畳み掛けてくる悪意、知識や学問・美といったものに対する屈折した敵意、とどめに何度か用意されるストンと落ちるようなドンデン返しに、もちろん文章はほとんど余計な引っ掛かりもなく読みやすい。「これはもう清張だよ!」と何度思ったか分からない。欲を言えば、展開が早すぎてコロコロ転がるような感じがするのが物足りないかもしれない。純文学的な取っ付きにくさを求めるならば確かに食い足りないが、そういうものを求めるのなら清張を読んでもそもそもしょうがなかろう。「もてない男」にはやりきれなくなるような内容だが(実を言うと評者はこの作品で夏休みの読書感想文を書いたことがある)、アホみたいな恋愛小説よりもこういうものこそ読まれねばならないんじゃないのか。

松本清張は最初から最後まで松本清張だった(79)


けものみち(1962-3)

甘言にほだされてタイトル通り「けものみち」へと迷い込むように闇社会の暗部に飲み込まれていく女中の気の毒な転落人生

が言うまでもなく松本清張以外の何物でもないスタイルで延々としかし内容とは裏腹に軽やかに語られていく(清張の作品の中でも最も長いものの一つ)

何度も映像化されているように(どれも未見)、重い内容にもかかわらず読み物としての面白さはわざわざ言うまでもなく、娯楽小説としては「これぞ中間小説」と言いたくなるもので、いい意味で暇つぶしには最適である

そう断った上で言えば…清張の代表作とはいえ、欠点を指摘しようとすればいくらでも言える…

まずどう考えても長すぎる上にストーリーの動きにそんなに起伏がなく、どことなく間延びしている上に、そのくせ結末は突然まるで「打ち切り」作品のように唐突に過ぎる(これであまりカタルシスが得られるとは思えない…(ドラマ化とかにはかえって良いのかもしれないが…))…「闇社会」への踏み込み・描き方も、当時はこれでも鋭かったのかもしれないが、今となっては浅いと言わざるをえずどことなく「なぞってるだけ」感が否めない…ミステリー的にもトリックや工作が甘く、これでうまくいくんですか?と時々思わされる(これはこの手のミステリーには宿命的なものかもしれない…)…等々等々…しかし無論この作品の価値を決定的に下げるものではない…

(「そういう期待」をされる向きがあるかもしれないからわざわざ断っておくが…エロ方面の期待はしてもあまり得るものはないので、しない方が良いであろう)

キャラクターはどれも魅力的に描かれていて(要するに「キャラ立ち」している)、確かにこれを読んだら映像化してみたくはなるだろうな…と思う

(かなりどうでもいいことであるが…たまたま近くなので一言… 主人公が富山県は伏木の出身という設定になっているが、ストーリー上でその設定が特に「生きる」ということはない…(逆に言えば清張が何の意味があってなぜこんな場所を設定に選んだのか興味を引かれる…))


清張と言えばまずこれ!というところまでは行かないと思うが(そこはさすがに「点と線」とかには負ける)… 清張を楽しむにはこれで十分という作品ではある 映像化作品は残念ながら見たことがないが…見てみたくはなる…そういう魅力は確実にある作品(60)


丸谷才一 (1925-)

年の残り (1968)

息子を亡くし親友も自殺した医者のヨタ話
虚仮威し。その一言に尽きる。東大出身の作家には何も言いたいことがないのに小手先の技術だけで作品を仕上げてしまうのがいて困ったものだ、というのがあながち偏見とも言い切れなくなる、そんな状況を作り上げる親玉みたいな存在だと言ってよかろう。一体作品全体として何が言いたいのかさっぱり分からない。その疑問を抱かせないため「分からない? そりゃ君がバカだからだよ」という印象を与えようと妙な知的遊戯を盛り込んでみる。堅気の読者は「こんなことまで知っている大先生の作品だから……」と思う。下らん。いまだに旧かなにこだわり、追従者を生み出して一般人を迷惑がらせて下さる大先生だが、それだけ表現にこだわりがあるはずにしては文章も下品で下手だ。
ちなみに元専門家として言っておくが、ストア哲学の理解は無茶苦茶である。高校の倫理レベルに過ぎない。恥がないだけ余計悪い。

がっかりした。これだけを読んだ限りでは福田和也さんの言うことは正しい(44)


丸山健二 (1943-)

夏の流れ (1966)

死刑囚の拘置所職員の生活
を抑制の効いた文体で綴った作品。と言われているが、一見してスカスカだったので半分眉唾で読んでみたら本当にそうであるどころか、本当にこれを、小説など書いたことのない二十いくつの青年が書いたのかと驚かざるを得ない恐るべき作品だった。描写も会話も素っ気無いが、無駄をそぎ落としたという形容はこのような作品にこそ相応しいと思わされる。伏線や構成上の工夫、「書かずに示す」方法など、確か碌々小説を読んだこともなかったはずの人間がどうしてこんなものを作れたのだろうか(電信文の感覚を応用したと確か自伝か何かで言っていた記憶があるが、それにしても上手すぎる)。小説を書くのをやめたくなるほどのショックを受けてしまい正直うろたえている……もう少し冷静になれてからじっくり読返したい。

とはいえ、当時芥川賞の最年少受賞だったにもかかわらず単行本は全然売れなかったらしい……今も昔も変わらんね、文学ってやつは……(79)


三浦哲郎 (1931-)

忍ぶ川 (1960)

廓に生まれた女との恋愛・結婚譚
が適度に湿り気のある文体で情感たっぷりに綴られる。プレ「螢川」と言えばこの文豪に失礼だろうか。大学入試の問題などにも人気なだけあって、書き方は上手い。特に、情感を増すための句読点の使い方が、上手い。ただ、それだけだという気もしなくはない。前半に漂う緊張感が後半に入ってから薄れ、ただの美談になってしまっているのは惜しい。

個人的には技術以上のものを感じないタイプの作風(69)


三木卓

満州(らしい)で過酷な運命と人間模様に翻弄されながらヤミ市稼業を続ける兄弟の話
ドラマの脚本のようで色々なことが起ってはいくがただ羅列されているようでどうもどれもこれもちぐはぐな印象がしてくる。詩人だけあってか表現は所々美しいが、場面描写に書き足りない所が多く、所々何が起っているのかよく分らない。叙述に使われる人称が安定していないのは読みにくく、明らかな欠点だと思う。鶸(「ひわ」と読む。念のため…)が全体にどういう意味を持っているのかもよく分らない。例えばまさにグチュッと潰されるようなラストはもうちょっと別のやり方もあったのではないか。

まぁ手堅いというただそれだけ。戦争を出せば喜ぶ向きにはいいんだろう、こういう作風は。(54)


三沢知廉

(2005年、亡くなられました。御冥福をお祈りします)

天皇ごっこ

右左翼活動家、精神病院の患者、北朝鮮を訪れた右翼など、天皇の幻に翻弄され続ける人々のアレな人生模様
がシュールかつコミカルな文体でタッタカと書き進められる。左翼文学だか右翼文学だかよく分からない妙な作品になっているが、とにかくよく調べられていて確かに色々とためにはなる。
しかし、難点は多い。まず、全体の構成がよく考えられているとは思えず、どうも無理矢理つないだ印象が否めない。早い話が第五章だけでいいんじゃないかとも思う。おまけに、各章の間の連関がよく分からない。どの章も読み進めないと時代設定などがよく分からず、しかも安直に語りの人称を変えたりしているので、余計に分かりにくい。文体的にも、いかにも文学的というわざとらしい表現に、安易なルビ、そしてやっぱり出てくる体現止めと、傷は多い。これだけ盛り上げておいて唐突に終わる結末も味気ない。
「天皇」がその都度形を変えながらも常に象徴になっているのは上手い。「亡霊」「天皇は叫ばぬ」等々がリフのように機能しているのもよい。前半の主人公が獄中で「殉死」する場面は非常によい。

書かれた状況が状況だけに仕方がなかったのかもしれないが、もうちょっと何とかできればさらに傑作となったのではないかと思えて仕方がない。(67)


(母と息子の囚人狂時代)

爆破殺人事件犯人として服役中の著者がその状況で何とかして執筆活動を続け、成功するまでのドキュメント
がリアルな筆致で骨太に描かれる。はっきり言って、「天皇ごっこ」よりもこっちの方がずっと面白い。フィクションではなく事実を書いたものだけに余計な工夫や仕掛けもなく状況や心情がそのまま伝わってきて、楽しくはないが読んでいて面白い。これ一冊で刑務所の中のことがかなり分かり、その点でもためになる。著者の母親の苦労は身につまされてえもいわれない気分にさせられ、思わず頭が下がる。途中描かれる愚劣な国鉄職員のエピソードには頭にくる。刑務所という組織内部のどうしようもなさと相まって、やはり日本は官僚国家なのだなと、改めていやな気分になる。
上で挙げた「天皇ごっこ」でも語りの人称というかの感覚がぶれているのを欠点として指摘したが、その悪い癖はこの作品でも出ている。ノンフィクションでこれは、ダメだろう。しかし作品の価値を大きく下げるものではない。

小説よりもこっちの方が面白いというのは……多分本人もそのことは終生悩みだったろうとは思うが……(75)


三島由紀夫 (1925-70)

金閣寺 (1956)

美に取り憑かれながらも裏切られた青年僧が金閣に放火するまで
がナルシスティックな文体で嫌味に綴られる。上品さを気取っているつもりだろうが、はっきり言って下品。無理に難しい言葉を使って、それを情緒と勘違いしているという雰囲気。体言止めはやはり陳腐。少なくとも使い方が上手くない。ストーリーの組み立ても、正直どうなんだろうと言うしかない。何か余計なことばかり書いている気がしてしまう。特に母乳抹茶のエピソードは余計。単なる変態。若い頃はこのごちゃごちゃした面倒臭い内容が深遠に見えたものだが、今になってみると下らなくて笑える。ニーチェが顔を出すのはやはり陳腐。おまけに、クライマックスを過ぎると、いつものように失速してプツンと終わる。三島ってやっぱりこの程度か……とやっぱり思わされる……

これで読むのは何度目だろうか……今まで読んだ中では一番つまらないと思った。「あれ、こんなに面白くなかったっけ?」と(54)


三田誠広 (1948-)

僕って何 (1977)

フラフラと学生運動に巻き込まれたりして悩んじゃってみるマザコン大学生の適当に波乱なキャンパスライフ
が簡潔な文章で描かれる。畳み掛けるような描写はスピード感があっていい。しかし心理描写や思想が語られ出すと退屈だ。ひたすらフラフラしているだけ。浅い。確か「深い小説の書き方」みたいな本も書いていたと思うが、この程度か……(まぁその程度の内容のものだったが……)。中途半端に実存的なのは陳腐極まりない。当時の大学生は所詮こんなもんという記録でしかない。学閥的な考え方はしたくないものだが、庄司薫の早稲田版という雰囲気で、どうしようもなさもそれと似ている。 口語におもねった文章や漢字をひらがなに直したことは文章の幼稚さを増しているだけだと思う。幼稚な文章でないと主人公の幼さが表せないというのは「下手」ということだろう。時折修飾の乱れた悪文が見られるが、こういうのが文学と思っている節がある。やっぱり出てくる体言止めも陳腐だ。学生運動世代が「しらけ」世代へと移って行く過程のドキュメントとしてはそれなりに面白いが、これが自分達の親の世代かと思うと情けなくなってくる。どうしようもなさや無力感・無気力感が嫌というほど伝わってくるのは一つの芸かもしれない。露骨なマザコン趣味はここまでいくとさすがに読んでいて不快でしかない。精々マザコン狩りフェミニズムババアの槍玉にされてればいい。

文体的には純文学に行ってはいけないタイプだと思う(61)


宮原昭夫 (1932-)

誰かが触った (1972)

癩病の隔離療養所のあれやこれや
焦点ボケ。その一言で片付けたい。癩療養所という舞台と設定に全面的に寄り掛かっているだけで、作中では色々な人々が往来して色々なことが起っていくが、どれもこれも掘り下げが足りないので物足りない。大しておいしくもない料理をつまみ食いして、しかも満腹にならないという印象しか受けない。

どうも特定の背景や文脈を始めから要求する文学は個人的にダメらしいな……(45)


宮部みゆき

淋しい狩人

風変わりな古本屋の周辺で起こる珍事を取り上げた6つの連作短編

今日日最も売れて読まれているであろう作家の一人であるだけに、ストーリーの作り方といい文章といい、上手いと言わざるをえない。数はそんなに多くないものの比喩も上手い(ただ…凝りすぎて「スベって」いるものも見られる…)

しかし、そのスベった比喩が象徴するかのように、それ以上に「突き抜けた」ものが、少なくともこの作品だけを見た場合は、見出し難いというのも事実だと思われる。要するに「ああ面白かった」で終わり…である

評者は純文学と娯楽文学との区別を特に意識しているわけではなく結果事実としていわゆる娯楽文学は今までそんなに読んでこなかったというだけのことなのだけれども、というわけで、娯楽文学の強さと限界とを感じてしまった、というのが正直な感想である

もう一つ、どうも評者はやはりミステリーとは相性が悪いらしく、このミステリー仕立ての短編集を読んでもやはりそう思ってしまったのだが、これは必ずしも評者私の嗜好によるものばかりではなく、この作品群、始まりから事件の展開まではとても面白いのだが、収拾がついて「種明かし」が始まるとただの解説になって残念ながら非常につまらない…

ミステリーにつきものの「トリック」もアイデア豊富で楽しめる反面、やはりどうにも「都合のよさ」が引っかかってしまう…

短編集の例によって… 〇「歪んだ鏡」;「〇→△」「黙って逝った」;「〇→×」「淋しい狩人」;「〇→(どうにもモヤる…という意味の記号)」「うそつき喇叭」;残りは無印である。やはり、出来事の収拾から「種明かし」に至るにあたってつまらなくなっていると感じているのが現れている…


才能も技術も感じるのだが…そういうわけで後味は案外悪く、印象は残念ながらあまり良くない…(55)

なお、「突き抜けたものがない」と言ったが、純文学において「突き抜けた」作品はさらにもっと見出しにくいのが現実である…「ほとんどない」と言っても過言ではない…(その数少ない作品をまるで翡翠や砂金を探すかのごとく探すためにこういうことをやっているとも言える…もちろん翡翠や砂金探しのように、あるいはそれ以上に、むなしい営みではあるのが何とも残念なのだが…)


宮本輝 (1947-)

螢川

富山の少年が家族の死や恋に翻弄される。
最初に言っとこう。「いたち川」はこんなにロマンチックな川じゃないし(螢の名所なのは本当ですが)、富山はこんないいところじゃないです。
正直言って個人的には好きな文体じゃないし、作風も好きになれないけれども、名作であることは間違いない。何か色んなことが起りすぎる気はするが(いくら何でもあっけなく人死にすぎ)、構成は凝っており伏線も張り巡らされているので、これはこれで面白い作りになっている。一見のほほんとしていながらどことなく無気味な雰囲気が漂っているのは、たまらない人にはたまらないのだろう。評者個人としては好きになれないが。ちなみに「ネイティブ」に言わせていただければ富山弁は所々おかしい。意図的なものかもしれないが少年の会話は所々不自然だ。比喩的な表現はやはりうまい。

名作であることは間違いないのだが、色々あってあまり読返したくない……(69)


向田邦子

あ・うん (1981)

家族ぐるみで長い付き合いをしてきた親父二人にまつわるてんやわんや
が名人芸あふれる筆致で情感たっぷりに綴られていくのだが、確かに非常にしばしば「うまい!」と思わされるものの、正直「だから結局何?」「詰まる所何が言いたいわけ?」という感覚が最後まで拭い切れなかった。前半はそれが邪魔になってどうも今一つ気持ちよく読ませてもらえなかったが、最後に二人の主人公が一端絶交しつつもまた寄り添うのはいい感じになっている。しかし、例えば新人作家がこれをやっても、読んでもらえないかもしれない。サッと入るギャグがなかなかいい雰囲気を出している。

色々な所で絶賛されているので気になって読んでみたが、今一つ評者には合わない気がする……(65)


村上春樹

ノルウェイの森

精神を病んだ彼女と大学での知り合いとの間で揺れる大学生の恋愛模様
がさすがに洗練された表現で割と起伏なくズラズラ綴られる。ちょうど評者が大学生だったくらいの頃だろうかにベストセラーになった小説ではあるが、またさすがに高度な技術をこれでもかというくらいに感じさせてもらえる作品で大いに参考にもなったものの、しかしこれが単なる恋愛ロマンス以上の何なのかと思うと、一体何なんだろうかと思うしかなく、個人的にはただただモヤモヤしているだけの何とも言いようのないよく分からない雰囲気の作品としか表現が思いつかない。いい作品で、上手い、とはもちろん思うものの、これがそんなベストセラーになるほどの内容なのかとも思わずにはいられないので、読後感は何とも悪い。正直、上手く消化できない作品だ(というか、そんなに村上春樹は読んでいるわけではないが、何かいつもこんな雰囲気にさせられる気がする)。文学に求めているものが違うのか。それとも、評者が対応できないでいるだけなのか……(評者は365日三食全部カレーでも平気だという人間であるが、そのカレーを具なしのボンカレーにさせられ、延々と食わされている、そんな気分がする。あるいはカップヌードルでもいい)。

こののっぺりとした感触は何なのだろう……正直よく分からない……(68)


森敦 (1912-1989)

月山

題名通り月山を臨む山村にひょんなことで流れ着き一冬を過ごさざるを得なくなった主人公が体験する異様な世界
文庫版の小島信夫による解説にもある通り、表向きは村の一冬が味わい深い描写で綴られていくだけなのだが、村の異様さ、主人公の戸惑いや心境変化や諦めや馴れがその背後に無気味な筆致で、方言や風俗までふんだんに盛り込みつつ、これでもかというほど書き込まれている。芥川賞最高齢受賞者として有名な筆者だが、この異様さ無気味さはなるほど若い作家ではなかなか出せないものかもしれない。文学的な価値は高い作品だと思うが、個人的には好きな雰囲気ではない。文体的にも大嫌いだ(いくらなんでも傍点打過ぎでしょう)。乱読をするとこういうものにも当るからやはりするべきなのだな…。

価値を認めるのにやぶさかではないが、二度と読みたいとは思わない…宮本輝風に言えば「こんなことでもないと最後まで読めなかっただろう」(79)


森礼子 (1928-)

モッキングバードのいる町 (1979)

終戦後、アメリカ南部の田舎町で夫達や日本人妻仲間に振り回され文化摩擦に苦しみ、アイデンティティーに悩む日本人妻
の心境や苦労話がやっぱり「いかにも純文学」という奢りまくった文体で嫌味に綴られる。てっきり実体験に基づくストーリーだと思うと全然そんな体験がないということに驚きつつ、相当なキャリアを積んだ五十ものババアの書いたものだということも発見して同時に呆れた。取材だけでここまで細かくリアルに書き込み、登場人物達の複雑な鬱屈や敗北感、コンプレックスをきっちり書き込んだのは感心するが、文体がどうにもジャマで最後まで楽しまさせてもらえなかった。一体、こんな設定でこんな内容なのに、ここまで嫌味な時代がかった表現をしなければいけないものだろうか。それに、しばしば会話と地の文の区別が付けられていなかったり、意味が曖昧な長い修飾句があったり、やっぱりお前も「読みにくいのが純文学」と思っているのか、そんな時代だったのか、とイライラさせられた。結末の付け方は無理矢理でいただけない。タイトルのモッキングバードは小道具としても今一つ生きていない。

技術が下手に芸術的な奢りとくっつくとこんな風になるという見本(54)


八木義徳 (1911-)

劉廣福 (1944)

時代柄仕方ないのかもしれないが、またもや満州での、タイトル通りの名前の「おバカさん」の波瀾の半生
むしろ娯楽小説的な読み物になっていて、重みはないがまとまっている。主人公の人物造型に努力が集中されていて余計なことがなされていないので、それだけと言われればそれまでだが世界はきちんと作られている。ストーリーは道徳主義的で優等生臭さが鼻につくかもしれないが(主人公の醜悪さでバランスが取れている気がしないでもない)、気にならなければどういうこともない。もう一つ悪意が籠っていれば捻りが効いたかもしれないが、個人的にはこれはこれでよいと思う。

よくまとまった佳作(63)


安岡章太郎 (1920-)

陰気な愉しみ (1953)

障害者手当てで細々と暮らしている男の惨めな心境
が丹念に追われる。惨めさや諦めや自分でも訳の分からない衝動などがゆらゆらと描かれて最後はスパッと終わる。ただそれだけだが書き方は巧い。こういう作品が量産できれば……と思わされてしまうような、コンパクトにまとめられた作品。

「悪い仲間」みたいな飛び道具はないが、巧い(70)


悪い仲間 (1953)

ダメ学生がタイトル通り悪い仲間(実は在日)に惹かれて真似していくうちに自分もダメ人間になる
のがコミカルな文体で綴られていく。何より文体が独特で面白い。独特の漢字使いやカタカナ混じりの表現にとどめは臭覚に訴える文字通り「臭い」表現の散発で戦中戦後の愚連隊の雰囲気がプンプンしてくる。心理描写も丹念になされていて、ワルの快感とかダメだダメだと思いつつもそれにハマっていく心境が味わえる。惜しむらくはラストがやや唐突に終わっている。

うまくまとまった作品だとは思うが何かいや〜な感じになる…(69)


山口雅也

生ける屍の死(1989)

死者が蘇るという怪現象の中で起こった殺人事件
どうもミステリーというのは評者の肌に合わないらしい。そういうことを改めて実感した。海外ミステリーの翻訳のような文体で、この魅力的な設定が綴られていく序盤はアイデアの鮮やかさもあり「おおっ!」と思わされるのだが、とにかく起伏なくズラズラズラズラ延々続くのですぐにたまらなく退屈になり、しかも前置きが長すぎて、ストーリーが動き出す頃にはもう既にウンザリしてしまい、後半はひたすら苦痛に耐えながら何とか読んだ、ものの、結末も「これだけ引っ張ってこれかい……」という程度のもので、正直ガッカリ。時間を返せ! というか、ミステリーのファンは、これで満足できるものなのか? 分らん……

腹が立つくらい落胆している。頭に来たのでしばらくこの作家の作品は読みたくない。(42)


日本殺人事件(1994)

「ブレードランナー」よろしく西洋人がイメージするステレオタイプ丸出しのヘンテコ日本都市でゲイシャ絡みの殺人事件が起こる…

結論…やはり私は「ミステリー」には性が合わないらしい…

笑っちゃうくらいのヘンテコ日本が描写される前半はとても面白いのだが…そこで殺人事件が起こり「本筋」が動き出すと「あぁ…またこれか…」と思ってしまった…

ファンの方々には失礼なことなのかもしれないが…前半の面白さを保ったまま「事件」を突っ切れなかったのか?と…個人的には思わずにいられない…


(とはいえ「屍」よりはずっと読後感はいいし面白いとは思えた…続編があるらしいが…それは…結構だな…(60))


山田智彦

解雇

タイトル通りリストラに遭った/遭いそうなサラリーマン数人の慌てぶり

が「大衆小説ならこんなもんだよな」という程度のだらしない構成と文体でだらしなくつづられる。はっきり言って下手。それしか言いようがない。評者は純文学と大衆文学の区別はあまり意味がないと思っているし(事実としていわゆる大衆文学にはあまり手が伸びないというだけで)、別に後者を何かランクが下のものだとも思わないが、こんなものが流通しているから大衆文学が格下のものに見られるんじゃないのかと思いたくなる、その程度の代物。

リストラに見舞われそうな主人公たちがオーケストラを組む相談をする所からストーリーは始まるのだが、それが終盤に来て何か効いてくるのかと思うと、何と別に何事もなく放り出されたまま終ってしまう。そこからしてもうダメ。他にも、文章は荒いわ、ケチをつけようと思えばいくらでもできる。この作家はどういう人なのか全然知らないが、今後彼の作品を読むことはないだろう。

暇つぶしにもならん(7)


山本道子 (1936-)

ベティさんの庭 (1972)

戦後まもなく、オーストラリアに嫁いできた日本女性が過酷な環境の中で色々苦しむ
さまがオーストラリアの自然や風俗をふんだんに盛り込みながら綴られていく。心理描写が上手く、海外生活の焦燥や絶望感がよく伝わってくる。しかしながら、文体が肌に合わないのか(あるいは単に評者の調子が悪い時に読んでしまったせいなのか)、情景に入り込ませてもらえず、ストーリーも全体としてよく分らないままだった。特に中盤は何がどうなっているのかよく分らず、だれる。これは全く評者の責任だけとも言い切れない面もある。特に冒頭で、海外の話だと分るのが遅かったり、叙述の視点がぶれていたり、それ以外でも時折説明不足で何が何だか分らないことがあったりして、どうも不親切感が漂う。手軽にオーストラリア気分を味わうにはちょうどいいものかもしれない(が、肯定的な印象はもちろん喚起させてくれない)。

技術に頼り切りつつもそれがまだまだだということも同時に示す矛盾に満ちた作品(50)


山本有三 (1887-1974)

真実一路

ドラマ化されていたのでついつい読んでみた。最初に言っておこう。あんな脚本が許されるのか? とにかく基本的な設定以外のありとあらゆる部分を踏みにじっている。著者が生きていたら激怒したのではないか? 「原作 山本有三」と書くことにモラル上の問題はないのかということが問題になるのではなかろうか。「売れればいい」という傾向はここまで深刻なのかと絶望感にとらわれてしまった。
それはともかく、ストーリーは気の赴くまま恋に生きる女が捨てた夫の元に残された少年からみた「母」の生涯ということになるのだろう。戯曲を得意とした著者だけあって心理描写はやはりうまい。著者の主義に基づくものか、主人公が少年であることに合わせたものかよく分らないが、妙に漢字をひらがなに直した箇所が多く、さすがに時々読みにくい。

間違いなく名作だが、読みにくい上に色々詰め込み過ぎという気もしないではないので(73)


由起しげ子 (1900-1969)

本の話 (1949)

死んだ義理の兄が残した蔵書を有意義に片付けるために奔走する話
つまらん! 久々にこんなつまらない小説を読んだというくらいにつまらん! 同人誌に書いたり、身辺雑記や苦労話をまとめてせっせと公募に送っている主婦でコツを覚えて上手くなったのが書いた作品といった感じで、上手いのかもしれないが、ただただ退屈なだけ。私はこんなに苦労しています! 分って下さい! でも何も考えていません。えっそれじゃ悪いんですか? そんな感じ。面白くもなければ何の感動もしないし、逆に嫌悪感や不愉快さを突き付けて世界観を揺るがせることもない。仕方なく食べる代用食みたいな作品。

何の意味も感じない(24)


吉田修一

最後の息子

デビュー作の表題作を含む中篇が三篇
ごく最近の作家の中では割と好きな方であるが、その魅力の一つである「細かさ」がこの時点ではうまく出ていない。まだ本人も自分の本領がまだ分かっていなかった時期なのかもしれない。とはいえ、技術的には非常に高度なものがあり、よく言えばうまいが、悪く言えば技術に溺れてそれだけで書いているという印象が強く、「うまいけど、だから何」という雰囲気は全作品に漂っている。総じて、一体何が言いたいのか、ということは今一つスッキリさせてもらえない。もしかしたら、それが魅力の一つなのかもしれないが、どうも主張をなかなか伝えたがらない傾向があるようだ。それが如実に現れるのがエロい内容を書く時で、しつこく書かれる割には何か後ろめたさのようなものが漂っていて、何か同質嫌悪を感じてえも言われない。文体的には、場違いに凝った漢語がどうも障るという点はあるが、印象的な場面をスパッと意表を付く表現で表すのがうまく、全体に期待をうまく裏切る表現が多用されていてなかなか雰囲気はいい。
「最後の息子」は細部の意味が今一つ分からない。「破片」はこじんまりしているが、これが一番いい。最後の「Water」は佐伯一麦や高橋三千綱のできそこないのような作品で、これが一番ダメ。

技術以外に特に感心するところはないが、作家の誕生をうかがわせる作品集としてはまぁまぁ面白い(53)


吉田知子

無明長夜

「御本山」なる無気味な寺とその無気味な住職や癲癇持ちの女に囲まれてぐちゃぐちゃな女の体験談
だか何だか分らないものが虚実ないまぜドロドロになった形で綴られる。正直言って訳が分らないし、はっきり言って気持悪いのだが、純文学というのはこういうものなのだと思わせてくれる作品。ちょっとやそっとで書けるものではない(こういうものが書けたから何だという話にもなるが)。幻想文学(と言うには気味悪すぎるが……)でありつつイメージだけに流れず、適度に哲学臭いのが作品に深みを増しているものの、技術的にはいくつかの明らかな欠点がある。まず、説明無しに新しい状況が突然出てきて後から説明があるということが多すぎる。そして、体言止めの使い方が下手だ。効果を上げるどころか、折角の雰囲気を壊してしかいない。それにやっぱり「夢落ち」はつまらんよ。

内容的にも表現的にも、「プレ中上健次」のような印象を受けた。あんまり繰返し読みたいものではないがまた読みたい、などと妙な気分にさせてくれる作品(64)


吉村昭

2006年7月他界されました。ご冥福をお祈りします。

高熱隧道

黒部第三発電所のためのトンネル掘削の地獄のドキュメント。
「武蔵」に比べるとあらゆる点においてこちらの方がノンフィクションとしても小説としても完成度が高く、はるかに面白い、が、ルポタッチに陥るとストーリーが止まったり、詳細にこだわりすぎて小説じゃなくなりそうになったり、そういう点はまだある(ひょっとしたらそれがこの作家の「味」なのかもしれないが、評者はこれを魅力とは思えない)。しかしリアリズムに徹した記述は完成の域に近付いていて、結構満足できる。無慈悲な描写や残酷・悪趣味な展開もますます冴えている。ラスト付近はかなりのスリル感がある。それにしても、富山県の田舎根性はこんな昔から変わらないんだな……

「武蔵」よりはずっと面白いのだが……それは間違いないのだが……せめてこの完成度で「武蔵」のような内容に取り組んでいてくれたら……と思う(59)


戦艦武蔵

タイトル通り、戦艦武蔵の建造から最後まで。
この文豪の実質的な出世作ではあるが……正直小説としてこんなに欠点が多いものだとは思わなかった。かなりガッカリしている。「つかみ」は上手く「何だ?」と先に読み進ませてくれるのだが、その後はノンフィクションと大差ない記述が延々続き、特に史実的なそれになると完全にルポ化してストーリーが止まるので、小説を期待する読み手はイライラさせられる。時折無理して小説に「しようとしている」箇所があるだけに余計にそれが障る。その、小説になっている箇所には結構いい箇所もあるので余計に残念。特に武蔵の完成から出陣に至る過程は不用意に端折られていて、これは大きい欠点だ。
ただ後半に入り戦闘シーンが増えてくると中々いい。特に武蔵の最期は中々読みごたえがある。駆け出し時代は悪趣味な作風で文壇をヒかせていただけに残酷描写も冴えている。帝国軍人の立派さが強調されている(ように読める)のは戦争賛美っぽくてなんか嫌だが。

それにしても自分がこれほど戦艦武蔵について何も知らなかったということが驚きだ。そういう様々な情報に触れられるだけでも価値がある。それだけに小説に仕上げるかルポに徹するか、どちらかにすればよかったと思う。残念。(50)


吉本ばなな

『キッチン』 (1988)

現在流布しているのは、作者の実質的デビュー作とその続編に、いわば「作品番号1」の作品を一まとめにした短編集(キッチン正続ともう一作とのストーリー的な繋がりは恐らくない)

若くして天涯孤独となった主人公の女性が人々と交流していく中で悲しさや孤独、そして身近な人々の死に自分なりに向き合い、生き方を収斂させていく過程が、誠実ではあるが深刻ではない語り口と、しっかりしているが適度にポップな文体で綴られていく

実は、評者・私がこの作者の作品を読むのは初めてなのであるが… これは読まれるであろうと思った… 一言で言えば魅力的である…(なるほど何度か映像化・ドラマ化されているようである(残念ながらどれも未見未聴)) 「デビュー作にはその作家の全てが詰まっている」と言ったのは誰だったか忘れたが…さもありなんと思う… 割と深刻な内容なのに楽しく読める… 純文学の新しい形なのかもしれないとすら感じた…

作品の出来としてはやはり続編の「満月」が一番良いと思ったが、冒頭の衝撃的な事件のせいで後半がややダレ気味にも感じられるのが少々残念(だが、互いに孤独な登場人物が人間関係を回復していく過程はなかなか良い雰囲気である)

「こころがけます」「かたじけない」など、主人公の口調が何か微妙にオタクっぽいのが何かちょっと笑える(主人公は特にいわゆるオタクではない)

「おまけ」の「ムーンライト・シャドウ」は表題作以前の作品で、さすがに習作っぽさは感じるものの、奇抜な登場人物や設定に加えオカルト的な内容までゴッタ煮的に詰め込まれていて、評者・私はこれもこれはこれで楽しく読んだ


別に意識して読むのを避けてきたわけではなかったが、こんなに良いとは思わなかった… 今まで読んでこなかったのを真面目に残念に思う…(70)

余談であるが… ラジオの朗読番組で聴いて良いと思ったのが読むきっかけだったのであるが(ちなみに朗読は北乃きいサンであった…とてもお上手だったと思う…)… こういうものが良いきっかけになることがあるとともに、作品の魅力をより高めることにもなりうるかとも思った…(もちろん逆に低めることになる場合も恐らくあろう…)

ついでと言っては何であるが… その朗読番組中、現代の作品にしては珍しく「現在の放送では使われない表現」に関するアナウンスがあった… どうやらそれは「満月」冒頭部分にある「気が狂った」のようである…


吉行淳之介

驟雨

娼婦に感情を揺れ動かすサラリーマンの心境
が、いかにもという技術を駆使してコンパクトにまとめられている。自分で小説を書く人間なら、ここはアレだここはそれだと「技法」の数々に気付かないわけにはいかないであろう、そんな作品。非常に上手いのだが、逆に言えばいかにも「作りました」という雰囲気が漂っていて読んでいても今一つ爆発的なものを感じさせてもらえず、結局「だから何」という雰囲気に終わる。とはいえ、書き方を勉強している最中の人間には非常に参考になる。小道具の使い方や心理描写が特に上手い。個人的には、文体がややごちゃごちゃしていて、今一つ心地よく読ませてもらえない。官能性云々ということで善くも悪くも取り上げられる文豪ではあるが、その点ではそんなにいいかな、とは正直思う。

まぁしかしこの文豪の初期代表作に入るだけのものはある(60)


吉行理恵 (1939-)

小さな貴婦人 (1981)

飼い猫が死んで落ち込む女流作家の身辺雑記
が程々にシュールな、女流と言われればなるほどというような、吉行淳之介の妹と言われればなるほどという気もするようなしないような、そんな文体でコンパクトに綴られる。短い作品だがまとまりはない。小説だかエッセイだかよく分らないものになってしまっているのは個人的には感心しないし、恐らく意図的に座りの悪い文章を用いて雰囲気を出しているのは同質嫌悪を感じてしまう。猫ネタが好きな作家らしいが、もうちょっと踏み込んでもらわないと猫好きと言えども欲求不満になるだろうと個人的には思う。

個人的にはあまり存在意義を感じない作品(46)


李恢成 (1935-)

砧をうつ女 (1971)

「日帝」(作中でもこう書いてある)時代の朝鮮で時代や環境に翻弄されながらも強く生きて死んだ母親の生涯
文章力だけで持っている作品。ストーリーは特にどういうこともなく「ああそういうことね」というただそれだけのことで、在日という文脈に共感を持てる人間しか特別に感動するということはないと思う。文章はさすがに瑞々しいものを感じるが、正直「だから何」という感想しかわいてこない。特に「砧」がどういう意味を持つのかがよく分らない。細かいことだが「かの女」という表記は分かりにくい。

技術力だけを感じる作品。どうも在日文学というのは面白いと思えないな……(53)


渡辺淳一 (1933-)

失楽園(1996)

ドラマ・映画でお馴染みの通り、閑職に追いやられた編集者と「自発的セックスレス」に悩む女流書道家が不倫の挙げ句に心中するまで。
ドラマ化映画化されていた時期に立ち読みしてみたら文章が固くて楽しめそうに思えなかったので読まなかったのだが、こうして改めてじっくり読んでみて吃驚した。ドラマや映画の方がずっと面白い。脚本を小説化した方が面白いのではないか?
まず細部が全然書き足りない割にはベッドシーンだけがしつこく描かれていてどう考えてもバランスが悪い(結局書きたいのはセックスだけか?)。特に前半はそのせいで読むのがとても厳しい。ストーリーを二人の関係に絞ったのはそれはそれでいいのかもしれないが、個人的には膨らみがなくて退屈としか思えない(ちょこっと顔を出すだけの傍役が多すぎる。ドラマ化する時に脹らませるようにというのは「逃げ」だろう)。これなら完全に二人だけにしてしまった方がよかろう。阿部定等々時々挿まれる衒学的な蘊蓄は、「知的生き方文庫」あたりを愛読するサラリーマンとかには面白いのかもしれないが中途半端で苛々するだけ。とどめに「正気かよ!」「これはギャグなのか?」と言わねばならないほど下らない失笑ものの表現と、持って回った文壇的文章が無神経に並んでいて、コーラ飲みながら寿司を食べているような気分になってくる。「捻れた」文章が散見されるが、どうもそれを「色気」と勘違いしている節がある。
ブームになった折に解説本やら料理・ワインガイドに至るまでありとあらゆる便乗本が出たが、今振り返ってみても頭が痛くなる。売れれば、金になればいいという体質が嫌というほど伝わってきて吐き気がするほどだ。「これはエンターテイメントだから…」という言い訳は通用しない。評者の世代は青年時代に隠れて「官能小説」を読んでいたものだが、正直もっと面白かった。一体どういう人々がこの愚劣な老大家の作家生命を維持させているのか分らないが、この程度のものを読んで満足できるのか? エンターテイメントの領域を食い付くした拝金主義はいまや純文学の領域まで押しかけているように思えるが、この程度の作品がもてはやされる状況がその発端ではないのか?

ちなみに単なる偶然だがブームになった頃評者はたまたまミルトンの同名作品を読んでいて(ドラマのラストはミルトンの方のそれをもじった演出ではないかと思っている)非常に楽しんだ覚えがあるので、改めてがっかりした。部分的に面白いと思うところもないではないという程度の(32)


綿矢りさ

インストール

どんなもんだろうと思って読んでみたが、久しぶりに純文学(なのでしょうね?一応!?)読んで猛烈に腹が立った。いや、内容に腹が立ったというのではなく、これを読んだ時間がもったいなくて腹が立った。誰がこの程度のものを持ち上げたのかは分らないが、世の作家や文芸評論家全員がこれを傑作と称しても俺はこんなものを文学だとは認めない。
改行して少々冷静に書いてやろう。女子校生言葉やインターネットが盛り込まれたのが新しかった、と思われてしまったのだろうが、そんなもん『ニューロマンサー』が約二十年前、『アイコ16才』(これも「正気かよ!?」という駄作だと思う。そういえばこれも映画化されていましたな。『ニューロマンサー』は映画化し難いらしい。皮肉なもんです)がさらに前に既に実現していたことだ。それを現代風の下品さで焼き直したものに過ぎない。逆に言えば「純文学」がその間何をしていたのかということにもなってくる。ネット上をうろうろしている人間なら日常茶飯事に目にしている表現を大胆に取り入れたつもりなのだとすれば思い違いもいい所だ。幸い島本理生みたいに表舞台を騒がせることにはならなかったが、芥川賞候補にでもなっていれば、恐らく石原慎太郎がそんなことを言ったであろうと思われる世紀の大駄作。二度とこんなもの読みたくない!文藝賞の審査員目を覚ませと言いたい(「黒冷水」は面白いと思ったが)。
どうでもいいけど堀田あけみも、それから大道さんなんかもそうだし、斉藤美奈子の評論なんかもその一種だと思うが「女性の等身大の感性」とやらを前面に押し出す連中の文体ってみんな同じだな。「感性」ってその程度のものか?どれもこれも橋本治の女版みたいで嫌な気分にならずには読めない。誰が何と言おうとこれは「逃げ」だ(これに関してはどっかできちんと書きたい)。
次も書いたらしいが、所詮その程度のことを言いたいに過ぎなかったのか……と島本理生と同様「終わったな」という感想しかない(と思ったら芥川賞になったよ……嗚呼嗚呼……とはいえルックスに惹かれてしまう自分もいるのだが……嗚呼嗚呼……)。たとえノーベル文学賞をもらったとしてもこいつのものはもう読まない、と思うくらい腹が立った。「純文学」をやおい小説とかのレベルにまで落としたという点で審査員共々阿鼻叫喚地獄行きだ!

百歩譲って、時々「ここは面白い」という点もないわけではないので(10)


参考(翻訳や現代日本語ではないものはここに入れます)

ウェルズ

宇宙戦争

このウェブサイトもずいぶん長いことやってきて内容も結構紆余曲折してきたが久々にSFについて書く(某教授よあんたも罪だ。このサイトからSFコーナーが消えたのは実はあんたのせいだ。え?いつのことをいまだに根に持ってるんだって?申し訳ないな…筆者はそういう人間なんでな…多分一生忘れんよ)。その久々に取り上げるSF作品はこの古典だ。

が、実は初めて読むのだが、読んでみて驚いた。一言で言えば、つまらん…。もっと言えば、小説として下手だ。

書き方としては、誰だったかが例えばデフォーの「ロビンソン・クルーソー」について評していた通りの「古典的な」小説作法で、要するに出来事を全部書いて、出来事の始まりが書き始めで、出来事の終わりが結末、という手法。こういう手法をそれをそれとして認めるのにはやぶさかではない。

ただ、その比重の割き方というかが、どう読んでもバランス悪い。前置きがズラズラズラズラ続いて、で、どういう結末になるのかなと思うと「おいおいおいおい!それかよ!」と何というかストン!と落ちる。「アンドロメダ病原体」をもっと極端にしたというか(と言ってしまうと「オチ」を半分晒しているようなものだが…)三島由紀夫をものすごく下手にしたというか、そういう感じで、少なくとも評者は満足するには程遠かった。何とかして「オチ」をもっと豊かなものとするか、この「オチ」で行くならそれに見合う「前置き」を用意するか(ただしその場合多分まともな小説にはなりにくいだろう)どちらかにすべきだったと思う。

何よりもこの作品の欠点はやはりつまらなすぎる「オチ」だろう。読む楽しみを削いではいけないと思うから一応黙ってはおくが。この結末で納得いく、というか満足できる読者というのがいるんだろうか?と心配になってしまうくらいつまらない。演劇だったら物投げつけられるレベル。


この「古典」は実はこんなものなのか…と愕然とすると同時に個人的には結構腹が立った。映画化されているが「あっち」はどういう「オチ」になっているんだろう?と別の角度からの興味が湧いてきた。どうでもいいことだが某マンガはこれを大いにパクっているな…(49)


オースティン

自負と偏見

英国は田舎の名家の五人姉妹の結婚を巡るドタバタ話

が特にこれといった大事件もなく(後半に起こるある出来事は例外として)延々と続く…のだが、語り口が軽妙かつ鋭い人間観察に裏打ちされており(引用するのにちょうどいい鋭い警句には事欠かない)、退屈はしない。

(評者はたまたま原文でも読んだことがあるが英語としてもいい文章であり、なかなかに読める)

それにしても長い…のは長いのだが…


講談や戯作文学のような感じで娯楽作品としてはなかなか読める。小説作品としてどうかと言われれば…「はて…」となるのもまた事実だが…(なんて言うと専門家に叱られるのかもしれないけれども…)(62) (なお、この作品のタイトルは訳者によってまちまちであるが、今回読んだもの(中野好夫訳新潮文庫)に準じてある)


オールコット

若草物語

貧しいながらも懸命に生きる四姉妹一家のあれやこれや

何かの本で、小説というのは物語が始まった所から書き始めて終わる所まで書くというのが本来、というのを読んだことがあるが(確か例としてロビンソンクルーソーが挙がっていた)、まさにそんな感じで、例えば「赤毛のアン」とかと同様に、特にこれといって全体としての起承転結や起伏もなく(一応隣家の青年との絡みや父の不在に関する事情などが大きなストーリーを作っているとも言えるかもしれない)エピソードの羅列が続く… かつて小説というのはこういうものだったのだ、ということなのかもしれない(なるほどホームドラマというか連続アニメというか、そんな感じだ(逆だか…))…

だが、そのエピソード自体はなかなか面白く、四の五の言わずに単純に読んでて楽しい。娯楽としての文学というのはこういうものだとも言える。

ただ…悲しいのは…これも「赤毛のアン」と同じことを言わねばならないが…翻訳(松本恵子訳)が今や読むのに辛い…「アン」も辛かったが、こっちはもっと酷い…絶望的に固くて古臭く不自然極まりない…今こんな翻訳をしたら誰も相手にしないだろう…残念ながらこの作品の価値を下げるほどの訳だと判断せざるを得ない…評者は訳あって英語原文を読んだこともあるが、この訳なら原文で読んだ方がよほど楽しめるはずだ(そう難しい英語ではない)。


とにかく翻訳が残念…幸か不幸か原文で読んだことがあるのとこの無様な訳とを加味するとこんな所か…(63)


ルイス・キャロル

ふしぎの国のアリス/Alice's Adventures in Wonderland(1865)

御存知アリスが体験したおかしな世界のあれやこれや

この作品に関しては妙なことをしてしまった…最初は翻訳(木村太郎訳)で読み、ただちに原書でも読んだ(たまたま持っていた)

何故そんなことをしたのかというと…あまりにもつまらないので「こんなはずはない!」と思ったからだ…

事情は「ヴェルテル」の時と同じようなもので、とにかく物語に入れない…目の前に描かれていくお話の何が面白いのかがさっぱり分からない…実はちゃんと読むのは初めてなのだが「こんなはずでは…」という感覚がどうにもぬぐえない…「これって…そんなに面白い?」と常に思いながらでないと読み進めない…いや多分「面白い」のであろう…しかし…何か相性が悪いというべきか「だから何?」と突き放してしまう自分がどうにもなくならない…

いやきっとウィットというかユーモアが効いているはずで、それは英語原文ならばより直に味わえるかもしれない…と原書を読んでみたが…全く変わらなかった…

正直自分でもどうとらえていいのか分からない…とにかく何から何まで「寒い」と言うより今はない。「作者ルイス・キャロルは数学者でもあってその方面からの工夫も…」ってのもよく聞いたが、それにしたところでそんなにそれ、生きてるか?としか思えなかった…


さて困った…というわけで苦し紛れに今はこうしておきます(50)
いつか読み返せば違う感想を得られるのか…それとも「ヴェルテル」みたいに「やっぱり分からん…」になるのか…


グラス

ブリキの太鼓

自らの意志で成長を止めた「少年」が見た第二次大戦前後の世界

が「しゃべくり系」文学の調子でずらずらずらずら…続く

これは困った…訳あって読んでみたのだが…どこの何がどう面白いのか全く分からない!いや恐らくそれは評者が悪いのであろう…しかしそれこそ精神病院の患者のうわごとを延々と聞かされているような感覚が全くぬぐいされないまま全体を読み通さざるをえなかった…

こんな権威主義的なことを言わざるを得ないのは屈辱的ですらあるのだが…多分文学的価値はあるのだろう…そう思いながらも「どこが?」という思いが全く脳裏から拭い去れなかった…

要するにつまらない…

ちなみに御存知映画化されたものは原作の第二部までであるが、映画化されてない第三部を読んでもそう驚く内容はない…あの映画はあれはあれでよくできているし原作を読む上でも助けになるので、見ることを止める理由は別にない(声のアレが前に押し出されすぎているかもしれない…)

もうひとつ…「そっち」の方の描写はないわけではないが…そういう期待をするほどのものではない…


どうもこういう「しゃべくり系」の文学は性に合わないのかもしれない…苦し紛れの(50)


ゲーテ

若きウェルテルの悩み

改めて説明するまでもない青年ヴェルテルが悲恋の末に自ら死を選ぶまで

なのであるが、長いことぶりに読んでみて、やっぱりヴェルテル青年と「悩み」を共有することはできなかった… 要するに彼が何故こんなことにこんなに悩んだ挙句に自殺するのか、正直な所、さっぱり分らない。死にたくて悩んだんじゃないか、と思えてくるくらいだ。

というわけで、文学的価値を認めるのにはやぶさかではないが(心理小説としてはよくできている方だと思う)、今も昔も「これを、オレはいつか理解できるんだろうか?」と思ってきたし、やっぱりそう思った。ちなみに、昔は分らなかったけど何となく分ったような気がするわ…ってものもあれば(梶井基次郎の「檸檬」とか)、その逆というか、「昔はこんなのを面白いと思っていたんだなぁ…」ってものもある(こっちは気の毒だから挙げません)、思い浮かばないけど「分ってたと思ってたけど、分らなくなってきたわ」ってものもあるんだろう…


いつか分る日が来るのかなぁ…というか次いつ読むんだろうか?(51)


サガン (1935-2004)

悲しみよこんにちは (1954)

パートナーが安定しない父親を持つ思春期の少女が父親の再婚相手や愛人を含む人間模様に翻弄されある悲劇に関わるまで

が、何とも言えない湿り気のある語り口で情感たっぷりに語られる

御存知サガンの言うまでもない有名な処女作であるが… 18才の女子がいきなりこんなものを書いたという事実に驚きを禁じ得ない… 才能というのはある所にはあるものである…(実存主義の影響云々とはよく聞くが…それは限定的なもの…作者の後の交友関係からの逆算に過ぎないと思われる(作中に出てくる哲学思想(特にベルクソン)への微妙な敵意からもそれは窺える))

人間模様は下品な言い方をすればかなり「ドロドロ」であり… 下手な物書きならそのまま読むに堪えない悪趣味なものになりそうなものを、芸術の域にまで見事に昇華されており、読みながら「愛とは何だ」と考えつつ、「美とは何だ」とも思わされる…


要するに傑作である(83)

翻訳について云々する資格は評者・私にはないが… かつて朝吹訳で読んだことがあり、今回河野真理子の新訳を試してみたが、どちらも読みやすい良い訳だと思った


ジッド

狭き門

相思相愛しかも周囲の支持まである恋仲を神への愛と引き換えに諦めたフィアンセの思いに残された男が苦悩する

という何とも言えないもどかしさ満載のストーリーが例によって緻密な構成と美しい表現で綴られる…

突飛な比較だがゲーテの「ヴェルテル」とはまた別種の「何でこんなことになるんだか全く理解できない…こいつらは何でこんなことをしているんだ…」こういう感覚に終始陥らされる作品で…「ヴェルテル」の場合は多分評者はゲーテの意図を追えてないと感じるが…この作品の場合は背景を考慮すると、もしかして読後評者がこのようにモヤモヤした状態になっているのもジッドの意図したものではないかと、ちょっと思えてくる…

要するに「神への愛」って何よそれ?それほどのものか??って感覚を禁じ得ない…


まぁそれだけの力がある作品ということなんだろう…何だかますます古典しか読みたくない傾向が強まっていくなぁ…正直現代作家(特に日本の)はもっと頑張ってほしいものだ(え?だったらお前が書けよ!ですって…無理ですよ無理…それに私が読みたいもの書きたいもの書いても、出させてはもらえませんよ…)(64)


田園交響楽

牧師に拾われた盲目の少女が開眼手術を受け、最初に見たものは……
という粗筋を聞いただけで結末が知りたくなってしまう内容で、その通り評者もつられて高校生時代に読み、それなりに衝撃を受けたものだったのを思い出すが、今読み返すと意外と全然面白くない。結末を知った上で読んでいるからかもしれないが、それ以前の問題がある気がする(何かはよくわからないが)。どこかで永井荷風が、小説を書きたかったらジッドを読めと言っていた記憶があるが、評者には合わないタイプなのかもしれない。最大の欠点は、信仰談義になると物語が止まってしまうことだと思う。要するに小説としての出来がそれほどよくないと言わざるをえない。盲人にとって色彩とは何かという問題が語られているのはちょっと面白い。今回読んだ翻訳(若林真訳)もやや固く、それがまたつまらなさを引き立ててしまっている。
今現在フジ系列でこれを原作にしたと称するドラマが放送中であるが(「緋の十字架」)、例によって原作を踏みにじりこね繰り回し、余計なものをくっつけ(必要なものを取り去るほど長い作品ではない)、「どこが?」というくらい全く別のものになってしまっている。盲目の少女が拾われてきて主人と息子の間で揺れ動き、やがて開眼手術を受けて成功する、というくらいしか共通点はない。ちなみに、既にドラマは原作から大きく逸れて暴走しているので、結末は原作を読んだ人間にも予想がつかない。

「こんなに面白くなかったかなぁ…」としみじみ思わされる作品がまた出た……(53)


スタインベック

怒りの葡萄

搾取され土地を追われた農民たちが逃れた先でもさらに搾取を受け不運不幸に見舞われるさま

が、なるほどノーベル文学賞も納得の丹念な描写で綴られる。

文学的価値を認めるのにやぶさかではないものの(そのくらいは評者でも分かる)、どうしてこう英米文学というのは相性が悪いんだろうな…とまたしても思わずにはいられない…

とにかく物語が動き出すのが遅すぎる…という気がしてならない…恐らく文学に求めているものが私とスタインベックとで(あるいは多くの英米文学の巨匠とで)大きくズレているのだろう…とでも言うしかない。ようやく物語が動き出したなと思ったら文庫本の上巻が終わっており、これからどうなるのだろうと思ったら残りページを意識する所に来ていた…多分私が「浅い」のであろうけど(「面白くない」と言い切れる自信はない)…


面白いんだかつまらないんだか…結構複雑にモヤっている…ちなみにこれを原作とする映画を見たことがあるがさすがにダレるとは思わなかった(この悪影響があるのかもしれない)(65)


スタンダール

赤と黒

田舎出身の一青年が類希な知性と美貌で成り上がるものの破滅するまで

が「古典的な」形式で描かれる。

余談だが評者は訳あって今はもはや古典にしかもう興味がないので…こんなものばかり読む傾向にある…さすがに21世紀の今となっては「何じゃこりゃ?」なスタイルとか違和感を覚えることも多いが(突然「読者諸氏は…」などと直に語り掛けられることとか…)…物語の形式は、基本こうだよな…と安心させてもらえるのも確か…(逆に言えば現代の小説は余計なことをしすぎというか己に溺れすぎだと感じる…)

ともあれ…古典的な「物語の始まりから書き始めて物語の終わりで終わる」スタイルなので…現代の感覚からすると「こんなこと書かなくても…」ということが…どうしても目に付く…

そして…ご存じの通りこの作品は「恋愛論」の物語化という側面があるのだが…「恋愛論」と同じく、スタンダールの恋愛観になじめないと「何をやっているんだこいつらは…」という感覚がどうにも否めず…そして、スタンダールの恋愛観が今現在そのまま通用するはずはないので…どうにも絵空事感が拭えない…この辺りは、いくらスタンダールの筆致が見事でも現代の恋愛小説にはどうしても対抗できない要素だろう

(もちろん「この側面」だけに限っては…ということで…現代の恋愛小説はこの作品に比べるのが冒涜と思えるほど、大概は低レベルなのであるが…)

要するに…平たく言えば「何のこっちゃい」なことを延々一生懸命語られるので少々退屈する…ということである…

それにしても…主人公はじめ主要登場人物による「恋のかけひき」とやらの面倒くさいことには、失笑せざるを得ない…が、それは評者が現代人だということなのであろう…

しかし、「恋愛論」に続いて「これ…まるっきりニーチェじゃねぇか!」と何度となく思わされた…そういうニーチェ研究があるのかどうかは知らないが…確かにいかにもニーチェが好きそうな作品ではあるな…

こんな評でこの作品を読もうとする方がいるものかどうか分からないが…「「赤と黒」について」というスタンダール自身による書評が併録されているとすればそれを先に読んでおくことをお勧めする(「恋愛論」の方は、この作品の先に読んでも後に読んでもどちらでもよいと思う)


古典として読まれ続けられるだけのことはある作品で面白く読めるが…さすがにダレる…(69)


恋愛論

本当は別の書評コーナーに載せるべきものかと思うが、この書に関しては「赤と黒」との関連性が大きいので、例外的にここで取り上げる

「赤と黒」の理論的な背景を論じたものという捉え方もできる論考で、特にスタンダールの言う所の「情熱恋愛」のあり方については、これと「赤と黒」とを合わせ読むと、より楽しめるかと思う

ただし…所詮スタンダールの時代の恋愛について論じているものなので…現代人の我々が読んでもそのままでは訳が分からなかったり着いていけなかったりする面はどうしても多い(それは「赤と黒」も同様)

もう一つの要であるはずの「結晶作用」については…「赤と黒」にもそれほど反映されているようには思えず、また説明不足で結局どういうことなのか今一つスッキリさせてもらえない…とどうにも今一つモヤモヤさせられる

しかし…突飛なことを言うかもしれないが…「ニュアンス」の重要性の強調といいイタリア礼賛傾向といい…どうしてもニーチェを思い起こさずにはいられない…また、内容的にもいかにもニーチェの好きそうなことが沢山書かれている(ニーチェもロッシーニが好きだったはずである…)…そんなことを追求する余裕も才能も評者にはないが…ニーチェとスタンダールの関係を追求してみたいと思ってしまった…


もちろん…現実に恋愛ごとをする上で、この書物を読んでも多分ほとんど何の役にも立たないであろうことは言うまでもない…(小説ではないので評価の対象外)


デュマ=フィス

椿姫

人生に心身ともに疲れた高級娼婦とそこそこいい身分の青年との悲恋物語

が古典的なスタイルで比較的コンパクトに語られる

「古典的なスタイル」というと例の、事件の始まりが書き出しで、終わりが結末であり、その間のことは基本的に何でも書いてある、ってもので、勢いどうでもいいことが延々と書かれたりとかもするのだが、この作品は抑制が効いていて「何でこんなことを長々と書くのかな…?」と思わされることが比較的少なく、要するに読みやすい

半面、「お説教」めいたことが結構丹念に書かれており、その「道徳臭さ」は気になる向きもあるかもしれない

なお、オペラ「椿姫」(ヴェルディ作のオペラのタイトルは原作とは違っているが日本では「椿姫」というタイトルで上演されるのが普通)の原作ではあるが、かなり趣は異なっており、その違いぶりは例えば「カルメン」以上かもしれないので、その点は注意が必要、というか完全に別の作品として読んだ方がいいくらいかもしれない


古典的な小説(とはいえ19世紀の作品なのだが…)としては読みやすい ただ、オペラの方から来た向きには拍子抜けするかもしれない(69)


デュラス

愛人(ラマン)

親の都合で富裕中国人の愛人となった少女の一人語り

が、これぞ官能性!とでも言いたくなるしっとりとした調子でゆったりと続く

訳者が触れているように時に辻褄が合わなくなったり、そこまでいかなくても何を言っているのか分からなくなったりと、「うわごと」系の文学によくある状態に陥ってはいるが、奇跡的にうまくまとまっているのでそんなに突き放される感じはない(長さも長すぎず短すぎず丁度良い…ただ最後は唐突に終わらせているようにも感じる)

恐らく、自らの境遇を呪ったり、何かを恨んだり非難したりという調子があまりないので、そこが違いなのかもしれない

念のために申し上げておくが、「そういう」描写を期待してもあまり得るものはない


現代文学の一つの成功例と言って構わないだろう(80)


バック

大地

タイトル通り大地に生きる中国の一農民からその孫までの三代を描いた大河小説 実は全三部からなる連作小説で、本来このタイトルなのはその第一作

農夫の挫折・苦悩・災難と成功、そして一家・一族の隆盛と没落・崩壊を当時の中国の社会情勢なども反映させながら描き切ったまさに巨編で、読みごたえはある。

ただ、確かに特に初代主人公についてはその実直さ勤勉さ不屈さがよく描かれているが、彼の息子たちを初めとする一族や関係者の愚劣さやどうしようもない俗物性もそれ以上によく描かれていて、読みごたえがあるだけに楽しく嫌な気分にさせてもらえる。「これが中国人だ」なんて言うつもりはないが、中国人について実体験がある向きは「なるほど」と思ってえもいわれないこと必至であろう。当時中国、なかんずく「当局」がこの作品に反発したのも納得である。

間違いなく世界文学史に残る傑作で面白さは請け合っていいと思うが…多少の欠点はあって、まず明らかに第二部第三部は後から付け足されたものなだけに、初代の長男次男の名前が第二部に入ってからようやく分かる等のちぐはぐさが若干ある。また、二代目三男は確かに魅力的なキャラクターではあるが、そのせいか彼の生涯だけ何というか明らかに「暴走」していて、露骨にバランスが悪い。無論、この傑作の文学的価値をそれほど下げるものではないが…


若干の難点など無視できるほどの疑う余地のない名作である(92)


(エミリー・)ブロンテ

嵐が丘

イギリス郊外の荒れ地に建つ二軒の間に三大に亘って繰り広げられる愛憎劇

が終始重々しい調子と凝りに凝った複雑な構成の下に描かれる、のだが…はっきり言って読みにくい! 

様々な派生作品の基になっていることからも、愛憎劇にしてももっと「ロマンチック」なものを想像したのだが、ここまで重々しいとは思わなかった… その上人間関係が複雑で、物語の叙述も時系列の前後・入れ子構造・伝聞や嘘まで入っていて、正直一度読んだだけでこの物語に入り込める人がいたら相当文学的才能に恵まれた方じゃないかと思う…。「上級者向け」と言わざるを得ない作品だと思う…

というわけで評者もどこまで正当な評価を下せるものが全く自信がない…

ただ…おなじみ「ブリティッシュ嫌な奴」「イングリッシュ偏屈」はこれでもかというくらい全面展開されていて、それに伴う独特のメンタリティは思う存分味わえるので…そういう雰囲気が好きな向きには恐らく最初からたまらない作品であろう…


文学的価値を認めるのにやぶさかではないが…申し訳ないが正直あまり関りになりたくない類の作品だな…(60)


マゾッホ

毛皮を着たヴィーナス

サド侯爵のサディズムと並び称される「マゾヒズム」の元祖的存在にしてその名の由来でもあるドイツ語作家マゾッホの最も有名な(というかこれ以外はまぁ知られていない。評者もこれしか知らない)作品

そもそも作品の構成が入れ子構造になっていて、のっけからひねくれている上に、(まさか関連はないと思うが)まるでサド侯爵の向こうを張るかのように無駄に深く広い教養が贅沢に(いや「ふしだらに」?)ひけらかされ、おまけに実質的な主人公(一応の主人公はいわば物語の「額縁」をなすに過ぎない)とヒロインの「ヴィーナス」との関係というか心理的な「駆け引き」が一々一々ややこしいというか、これでもか!というくらいに屈折している、と中々一筋縄ではいかない作品に仕上がっている。内容だけでなく作品そのものでも、はっきり言って変態に走っているという、ある意味では一貫した潔いものだが、目指す方向がそもそもおかしいので、結果として何だか分からないものとして完成されてしまっている。評者のような「まともじゃない」人間には大傑作だが、おそらく「まともな」人のかなりの割合は「訳が分からん」で片づけてしまうだろう。「変態」の元祖的存在としては、なるほどサド侯爵と並び称され、文学史に残る資格はある。

こうして、表現される思想内容や作品の構成はそれこそ変態的にごちゃごちゃしているが、表現としてはむしろ軽やかとさえ言え、読むだけなら結構快適に読める。ただ…内容が内容なんで、訳が分からんというか読みようによってはギャグとしか思えないことも評者にすら何度もあった(実際評者も読んでいて何度か爆笑してしまった)。

これも奇しくもサドの諸作品と並行してしまうのだが、一見単なる悪乗り変態小説に見えても、その外殻を剥いで、その背後にあるものを読もうとしてみると、そこには屈折しているながらもそれなりに深い人間洞察や人間哲学があり、なかなか考えさせられる。特に男性と女性との関係については、賛否は別として、確固とした主張を読み取ることができる。そういう意味でもなかなか「楽しい」読み物である。


多分読者の志向に応じて大きく評価が分かれる類の文学だと思うが、評者は詰まる所変態なので、そんな立場からの個人的な見解だと断った上での(60)


マラマッド (1914-)

マラマッド短編集 (1958)

ノーマン=メイラーと並びアメリカを代表するユダヤ人作家(らしい。実は評者もたまたまこの作品を読むまでは名前も知らなかった)の第一短編集『魔法の樽』の全訳。とにかく想像力が爆発していて、慣れるまでは堅気の人間には何が何だか分らない。最初二偏は評者もついていけなくてうろたえた。全般に発想が跳びまくっており時折殆ど意味不明に陥る上に、結末がどれもこれもモヤモヤとしていて、非常に後味が悪い。しかし、慣れてくるとこれはこれで味わいがあると思えるどころか、これこそ純文学だという雰囲気で、ものの見方や感情を揺さぶられる快感を味わえる。惨めな人間の卑屈や劣等感、それと裏腹の見栄や虚栄、善意の空しさなどは特に上手く描かれている。感情の表現や、それを増すために描写が上手く、短篇とはこう書くものだと言われているようでまいった。違和感のある表現を故意にもってきて気味悪い雰囲気を出しているのは、例えば古井由吉を連想した。全編すばらしい出来だが、「最初の七年間」「弔う人々」は評者には今一つ意味不明で、「借金」は書き足りないと思う。残りの中では「われを憐れめ」と原タイトル作がよいと思う。「もてない男」には身に積まされる作品がいくつかあるのはえもいわれない。惜しむらくは翻訳(加島祥造訳)が時折よくなく、折角の雰囲気が時折台無しになっている。原書で読みたいと思ってしまった。

まいった! こういう作品が書ければ最高だろうな……(90)


モーパッサン

脂肪の塊・テリエ館

この文豪の実質的なデビュー作と、作家としての地位を確立した後続作の二編

であるが、両作品ともまるで「小説の書き方の見本」のような模範的な佳作である

模範的過ぎて何の「冒険」も感じられない…という点が欠点になりうるほどの「まっとうな」小説で、これをいきなり読んだ師匠・先輩筋の作家はさぞ驚いたことだろうと思われる

両作品とも普仏戦争時代に取材しており、娼婦が大きくストーリーに絡んでくるものの、自然主義文学特有の敢えて人生の暗黒面をとりあげるある種の悪趣味さはそれほど強く出ておらず、むしろそれがユーモア感漂う筆致でやわらげられて楽しい読み物に昇華されている

そのユーモア感がより強い「テリエ館」の方が読み物としては楽しいかもしれないが、物語構造がより堅固な「脂肪の塊」の方が完成度としてはやはり上であろう…難しいものだ…


短編小説の見本のような佳作である 「脂肪の塊」(70)・「テリエ館」(66)

さて… このような「二本立て」や短編集をここでどう扱ったものか?それは評者・私自身いまだによく分からないのであるが… 差し当たりは「一冊は一冊」「独立性の高い作品は単独で取り上げる」ということにしておこうかと思う(もちろんこれらの原則は整合性に難があるかもしれない…)


女の一生

この文豪の代表作にして自然主義文学の紛れもない傑作

ある不運な女性の一生を冷徹に描き切った作品で、主人公はもちろん家族や周囲の人間含め「人間というもの」を丹念に書いており、小説の見本と言っても過言ではないであろう優れた作品である

このような大河小説になると勢いどうでもいいことを長々と書いてしまったり、放り出される挿話や設定、ストーリー上の矛盾や破綻がどうしても出がちであるが、そういうことも「敢えて見つけよう」とでもしない限り気にはならない。要するに楽しく読める

また、確かな描写力、多彩な比喩など、技術的にも優れている。特に物語後半になると「省略」が効いており、ダレるのを防いでいる

今風にいう所のキャラクター造形もなかなか上手く、特に世間に見捨てられた存在としてちょこちょこ出てくる叔母の存在が効果を上げている

と、ほめちぎっているが、自然主義文学だけあってストーリーの内容はなかなか気が滅入る… 人生の暗黒面だけをことさらに追求している、と批判されてもしょうがない内容は、美しい自然描写などでバランスが取れているのかもしれないが(二種類の「自然主義」の融合とも言いうるのかもしれない)、よくもまあ出てくる「ダメ人間」の数々にはなかなか救いがない… 特に主人公の血のつながった息子が見事にダメ人間に堕していくのは読んでいて気が滅入る…

(総じて、出てくる男性登場人物がほぼ全員「パワハラクズ男」なのは… ある種の思想の持主には「楽しい」のかもしれないが…)

今回読んだのは新庄嘉章訳新潮文庫版であるが、訳も読みやすい良い訳だと思う。また、訳者による巻末解説もなかなか読める(ただ「はりえにしだ」は文章を読みにくくする一つの原因になってしまっている…)


この作品が世界文学レベルの傑作であることに意を唱える人間はそういないものと予想する この文豪の作家としての活動期間が不幸にして短かったことを嘆かずにはいられない (94)


モンゴメリ

赤毛のアン

「手違い」で里親家に来てしまった空想&おしゃべり病の少女アンがドタバタしながら成長していくさま

がアンの性格を反映したかのような饒舌だが軽やかな調子で語られる。こんな面白いものがいくつもの出版社に相手にされなかったというのだから驚き呆れる(編集者なんてものは今も昔もその程度なのだろう)。

実際にこんな少女が身近にいたらとてつもなくウザいだろうが(笑)、しかしそれを上回る魅力にあふれたキャラクター作りが成功の一因だろう。とにかく読んでいて楽しい。評者が知る限りでも数えきれないくらい二次・三次化されているのも納得である(そういうもののうちには原作の魅力を伝えられてないどころか台無しにしているものもあると言わざるを得ないが…評者が原作を読む気分になれなかった原因の一つがそれでもある)。

ケチを付けようと思えばいくらでも言えるのかもしれないし、評者が一つだけ言えば、エピソードが並べられるだけで全体のまとまりというものがあるのかないのか?と言いたくなる、という点が気にはなったが小さい瑕と言えるだろう。

ちなみに、これも違う所で話題になった村岡花子訳で読んだが(確か村岡訳以外もあるはず)、訳としてはよくできている方だとは思うが、直訳調の漢語が「触る」のと(アンみたいな少女が「だって現実的なんですもの!」とか言うわけがない…ギャグかよ…)、ひらがなだけで長く書きすぎて読みづらいことが少なくないのと、そういう点が気になった。


これはさすがに「古典」たるべき佳作である(70)


紫式部 (ca 973-?)

源氏物語 (ca 1001-)

御存知光源氏とその周囲の人々の大河恋愛模様
が伏線や脱線をふんだんに盛り込んで延々と綴られる。きちんとキャラクターが作り込まれ書き込まれる魅力的な登場人物に、因果応報や不条理・無常感が漂う何とも言えぬ筋書き、無能感・諦観・敗北感・怨恨まで含めて渦巻く情念と、これでもかと言うくらいに読みごたえがあり、何人もの大作家を夢中にさせいまだに玄人素人を問わずマニアを全国(全世界?)に産み出し続けているだけのことはある。「バカみたいに恋愛ばかりしていて」と揶揄されることもあるが、それはマンガや映画でしか触れてないか今流行りの「あらすじで読」んでしかいないからで、意外と政治的社会的な問題も盛り込まれていて深読みはいくらでもできる。当時の風俗史料としても一級品でそれだけでも十分に楽しめるほどだ。どうやら最初からまとまった構想の下に書かれたものではないらしく(それどころか全部を紫式部が書いたのではないらしく、文体論的にある程度は裏付けられるという話も聞いたことがある。それをきちんと検証もせず「男尊女卑的な偏見」と決めつけるのは浅いよ寂聴お前も結局その程度か)、構成的にはかなりごちゃごちゃしているが、まるで雑居ビルの中を歩き回っているようでそれがかえって物語の深みを増しているように思える。ついていければこれほど面白い物語はないかもしれない。国内においてすら最長の小説ではないが、質・量とも世界最大の小説の一つに入るのは間違いない。このような作品をほぼ西暦千年丁度で既にもっていることに我が国の文学は誇りをもってよいだろう。
ただ、決して読みやすいものではない。今回ほぼ二十年ぶりに通読するにあたって、円地源氏を試してみたが(前回は谷崎源氏をかなり時間をかけて読んだ。与謝野他は試したことがない)、関わってくる人物が多くなってくると途端に誰が誰だか分からなくなってきて時々ついていくのが厳しい。円地訳は中途半端に親切なのでかえって分かりにくくなってしまっている(この点は寂調訳が一番親切らしく読みやすいかもしれない。谷崎訳は極力主語を省略しているのでさすがに読みにくく、文庫版は註がつけられている。与謝野源氏がどうなっているかは知らないが、橋本治訳(というかあんなもの「訳」ではない)はこの点では一番不親切でお勧めできない)。あらかじめガイドブックやマンガ・映画などで概要をつかんでから読むかした方がいいと思う。それに、それも魅力の一つとはいえ、一日一帖読んでさえ単純計算で約二ヶ月かかるというのは現代人にはやはり長過ぎる。寂調さんは現代人が読まないことを嘆いておられたが、ある程度は仕方がないと思う。円地訳にさらにちょっとケチをつけるとすれば、文章はこなれているかもしれないが、所々現代的に過ぎる言い回しが見られて白けてしまう。逆に、原文に忠実なのかもしれないが「洟をかむ」等は現代人には汚らしいので何とかした方がよかったと思う。
個人的には、まるで芝居のように次々に登場人物が消えていくのは惜しいと思う。特に夕霧があっと言う間に単なる傍役になってしまうのはもったいないと思う。ブス・エロババア・ゴシップ女・田舎ジジイなどチョイ役が魅力的なのは楽しい。

敷居が高いのは仕方ないかもしれないが入り込めればやはり魅力的な作品だろう(89)


作者未詳

とりかえばや物語

平安貴族に生まれた兄妹が男女逆に育ってしまい、一旦男女を偽って生活していくものの、色々あって結局は元に戻る
という言うならば現代版「転校生」で、こんな時代にこんなブッ飛んだ設定の物語があったということに驚愕し、魅力的な展開にも前半は引き込まれるが、どうにも尻すぼみで、読み進むほどにつまらなくなるのが残念でしょうがない。こういう古典の難点として、慣れないとすぐに誰が誰だか分からなくなるということが現代人には避けて通れないが、現代語訳(中村真一郎訳)はそれを緩和するどころかどうかすると増幅しているので、はっきり言って読みにくい。この浪漫派の作家にしては、場違いな漢語が邪魔になるなど、言葉遣いが今一つ気に入らない。ストーリー的には、妹中心で進む面が多く、個人的には女と偽って生活する兄の様子をもっと書いてほしかったとも思うので(時代柄仕方がなかったのかもしれないが…)、その点も残念。
この作品自体には関係がないが、訳者による解説は中途半端な知識を情緒に任せて嫌みに垂れ流しては悦に浸るという典型的な一昔二昔前の文芸評論そのまんまで、まるで意味不明無意味。最低最悪。こういうのが「文学的」と言われ、訳が分からないままに「芸術性」だの何だのと言われてきた結果が今の状態なんじゃないのかと言いたくなる(もちろんその親玉は小林秀雄であろうが)。

設定は魅力的なだけに残念!(52)


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