CM2S私家版「作家の値うち」
谷崎潤一郎
(1886-1965)

蘆刈 (1932)

京都郊外にある元色街の蘆原を訪ねた男が別の奇妙な男に出会い、その男が語る父親の奇怪な半生
が有名な平仮名だらけ句読点排除の上ほとんど改行もないという文体実験寸前の表現で綴られる。とにかく実験的な外見とそれこそ幽玄な内容とのギャップが何ともえも言われない。谷崎作品の中でも異色のものだが、語り種になるのも納得の完成度を見せていて、単なる虚仮威しに終わっていないのがさすがだと思わされる。ただそれだけに、実質的に物語が動き始めるまでは随筆だかなんだか分からない退屈な記述が続いてあまり感心できない。語り部の老人が物語る内容は本当にこんなことがあったら驚くに違いない奇怪さだが、微妙な官能性やらフェチ趣味めいた指向性だのが存分に出されていて、しかしそれでいて上品だから、さすが谷崎ならではだと思わされる。

名作以上大名作一歩前という印象がやはりしてしまうのだが……(78)


細雪

時は二次大戦末期、没落貴族の四人姉妹がそれぞれに紆余曲折を経て「落ち着く」までを辿った大作

質量ともに谷崎の代表作にして恐らくは最高傑作と言ってもよかろう(「最大公約数」的に言って…)。関西の言葉や風俗をふんだんに盛り込んだ息の長い文章が何とも心地よく(日本語の文章全体の中でも名文のうちに入れてしかるべきだと思う(好みは別として…))、これだけの巨編にしてはそれほど苦痛なく読める。当時の世相や風俗を知る上でも恐らく良い資料で、そういう観点からも楽しく読める。

ただ…内容的にはそんなに「楽しい」ものでもない… いまだにかつての栄光を忘れ去られず身に合わないものを当然のように求め続けて失敗し続ける元貴族のみっともなさ、その周りに寄生虫かハイエナのようにまとわりつく愚劣な輩たち、肉親や身内なのに、いやそれだからこそか、利用したり負担をかけたり見捨てたりと、あまり御上品とは言えないゴタゴタを繰り広げる四姉妹とその周りの人々(その多くは女性…(この辺が「フェミニズム」な方々には「キーッ!」となる所以なのだろうけど…)と、まぁこういうものをワイドショー的というか二時間ドラマ的というかな覗き見趣味で娯楽として楽しめる方々もいるんだろうけど、正直谷崎の手でこれだけの芸術性を付与されたのでなければ、読むに耐えない内容だろう… 個人的には好き好んで読みたいものではない…(「振り回される」側の視点が丹念に描き切られているのが「救い」だ)

谷崎の仕事的に仕方のないことだろうが「源氏物語」との比較を云々されることがあるらしく、それは谷崎自身も後書きで触れているが、評者個人の見解としては、色々な意味で全然違うと思うし、影響もそれほどないと思う。「源氏」に比べて「中心」がより曖昧だし、「源氏」にある物語の重層さというものがあまりないと思う(無論それは単なる「違い」であって、この作品の価値を必ずしも下げるものではない)



娯楽としては評者個人にはあまりうまく機能しないが紛れもない傑作であると認めるのにやぶさかではない(「純文学」とはそういうものなのかもしれぬ…)(83)


春琴抄 (1933)

山口百恵も映画で演じたおなじみの、加虐趣味の女検校とその使用人のちに弟子そして内縁の夫となる被虐趣味検校との半生記
が「これはもう谷崎だよ」というぬめぬめした文体で、関西弁もふんだんに交えて綴られる。我が国の文学史上に間違いなく輝き続けるであろう大名作であることは間違いないし、それを認めるのにやぶさかではないものの、それにしても何でもかんでも詰め込み過ぎではないかという感をぬぐい去れなかった。個人的には、内容をもっと絞り込んだ方がサドマゾ的な雰囲気もさらに生きてきたのではないかと思わざるを得ない。生き生きした部分ではスリルを感じ、感情を揺さぶられ、二人の不可解さに戸惑うものの、説明臭い、もっと言えば半分ノンフィクション的な体裁になっている所は退屈で折角の雰囲気が冷めてしまう。語り部的な存在として出てくる女性が何かもっと重要な役割を果たすのかと思いきやそのまま消えるのもどうかと思う。

もうちょっと何とかなったはずだと思ってしまうが名作(80)


蓼喰う虫 (1928)

別れるに別れられない夫婦の優柔不断
が延々と綴られる中に人形浄瑠璃とか脱線を色々とちりばめたものとしか思えない。大体において脱線が長すぎてまた分量も多すぎて全体として何が言いたいのかさっぱり分からない。どうも優柔不断夫婦の結婚観・恋愛観の対比を表現したかったようだが、はっきり言って大失敗だと思う。夫婦の心理はきっちりと描かれていて、関東と関西の対比もよく出ていると思うが、それにしても無駄が多すぎる。内容を絞り込めればよかったのではないかと思う。ふんだんに盛り込まれる小細工にも効果が上がっているものとそうでないものがある。さらには、何か実験的な試みをしたかったのか(妙に欧文の影響が強い表現が多いが、外国語の勉強でもしていたのだろうか?)非常にしばしば文体が変だ。特に固い奇妙な会話が多い。それにしても「契約」が好きだなぁ……

ノーベル文学賞候補になったというので過剰な期待とともに読んだが「どうしてこれが?」と思わざるを得ない(62)


痴人の愛 (1924-5)

平凡なサラリーマンが少女を「立派に」育てようとした挙句に「毒婦」を育ててしまいしかもそれにおぼれていく過程を、育て上げたつもりが飼いならされ「堕ちて」いく本人の叙述で語られていく

のが、さすがと言わざるをえない説得力あるストーリーと文章表現によってまさに悪魔的に綴られていく…

危篤にもここをお読みの方ならおそらくはおぼろげに印象として抱かれるのではないかと予想する(し、直接評者・私という人間を知っている方ならばなおさらのことである)が、評者・私は主人公にも、無論ナオミにも全く感情移入できないし何一つ共感できない、

つまり、この小説全体が全く「アホらしい」愚か者同士の自業自得劇場としか思えない、

のであるが… しかしその「アホ劇場」をこれだけ読まされるのであるから、大したものである… と言わざるをえない… そのくらい「作品」としてはよくできている。読み物としては実に完成度が高い(それがこんな時代に書かれていたのであるからなおさら驚く)。「アホらしい」と思いながらも、結構楽しんで読めたので我ながらビックリしているほどだ

これだけの優れた「娯楽」作品に精神分析的な読みを加えるのは野暮というものだとは思うが… 著者谷崎の女性観もともかく(これもほぼ同じことを繰り返すことになるが… 評者・私は谷崎の女性観に全く共感できない…「アホか」としか思えない…この作品中でも「カルメン」を引き合いに出して「憎めば憎むほど美しくなる女」とか言われているが全く理解できない…「勝手にやっとれ」としか思わない…)、西洋コンプレックスのようなものも窺えて、そこも何とも言えない… さらに、作中ではさりげなくしか触れられないが、主人公が実は今風に言えば「ブサメン」であることにも何とも気が滅入る…

どうでもいいことであるが… 作中でナオミに有島武郎の「カインの末裔」を読ませているのは明らかに意図的であろう… 敢えて「或る女」でなくこの作品にしている所が何とも「いやらしい」…


純文学というのはこういうものであろう… とまた言わねばならないのかもしれないが… 非常に優れた作品であるが、内容には全く何一つ共感できない… 次に何か「機会」が訪れるまでは評者・私は好き好んでこの作品を読み返すことはないであろう…(79)

これだけ魅力的な作品だけあって何度も映像化されているが… というわけで、この作品に限っては見る気は全くない… 今回訳あってある朗読ソフトを聞いてみたりもしたが…不愉快さが増しただけであった(紙の本を読んだ方が良い…ということもあることがよく分かった…)


武州公秘話 (1931)

武州公武蔵守輝勝の変態趣味に満ちた数奇な半生
恥ずかしながら、谷崎のこういう本格的な歴史物を読むのは初めてだし、言われてみれば幾つか作品名は浮かぶが、これほどいいとは思わなかった。史実にどのくらい基づいているのかは分らないが、いかにも仮構という世界が組み立てられていてそれがかえって面白味を増している(確か中村光夫だと思うが谷崎文学は現実との関わりを無視する所に成り立つという旨のことを言っていたはずで、なるほどと思う)。毎度おなじみの変態趣味も「作られた」作品世界の中で抑制なく発揮されている。特に生首に対する興味など、上手く伝わってくる。バランスもよく、脱線はあるが「蓼」などのような悪ノリややり過ぎがない。表現としては、意外と現代風の言い回しが多いのに驚くと共に、カタカナ語やコミカルな言い回しが結構あって、それがまた雰囲気を出している。ただし、「外科医がメス」は最悪で、最高に白ける。折角の佳作がたった一行でブチ壊れるという恐ろしさを知ってしまった。取材の細かさは相変わらずだが、中でも大名貴族のトイレの考察が面白い。多分、こういうことを調べ始めると夢中になってしまう人なのだろう……。それにしても、やっぱり契約や取り引きみたいなことが出てくるのね……

今まで読んだ谷崎作品の中では一番好きだ。こうなると「細雪」を読まないわけにはいかない……さぁ困った……(83)


(1928)

我侭お嬢様と同性愛に落ち、振り回され、旦那共々手玉に取られ、無茶苦茶にされた挙句、最後は三人で心中したものの一人死にきれなかった女の独白
が、ずらずらずらずら例によってぬめぬめした何ともいやらしい文体で続く。個人的にはレズに絞ってもらいたかった。松浦理英子的な駆け引きは余計で、艶っぽさを妨げているだけ。また、夫との関係も余計。特に痴話喧嘩は退屈かつブチ壊しで、下らない。毎度、色々なものを詰め込み過ぎだと思わされる。例によって文章は大阪弁満載だが、言い訳とか言い争いになると下品(谷崎の関西弁への愛はこんなもんなのか? それともこういう所でも谷崎の愛情は歪んでいるのか?)。特に女の言い訳は見苦しさも相俟って退屈。女の下手な衒学趣味は白ける。女の汚さや「寄生」具合も何とも不愉快。と、ケチばっかりつけてしまったが、小説としては非常によくできていて、不快感を伴いながらもスルスルと読んでいける。恋愛感情がうまくいっている間や、後半の絶望感がヒタヒタと迫ってくるあたりはさすがにうまいと思わされる。細かいことを言うと、小道具や地名の使い方がうまい。

内容的には「どうなんだろう……」という感じだが、技術的には高度だ(実は真似して失敗した経験が評者にはある……)(77)


(瘋癲老人日記) (1961-2)

晩年になり変態趣味に歯止めが効かなくなった老文豪が、息子の嫁にいいようにあしらわれてかえって喜び、彼女の入浴を覗いたり、足を舐めたり、いい年こいて狂態を曝した挙句、嫌っている娘にキレたはずみに神経を悪くしてついに倒れるまでの日記。
他にも色々あるが基本的にはただそれだけ。谷崎の変態美学に付いていける分には面白いが、受け付けない者にはトチ狂った変態ジジイのアホ三昧以外の何物でもないだろう。評者もどちらかと言えば付いていけない方だが、変態同士それなりの理解はできるので何とか楽しめるという程度。表現はさすがに上手いので、その点はさすがに読める(もっとも、倒れて以降は蛇足。史料的な意味しかない)。谷崎理解には欠かせないものだろうが、正直あまり読返したくない。評者が読んだ版ではやたらに「…………」(時に数行に及ぶ)が多く、明らかにそこに何か書いてあった形跡があるのだが、何が書いてあったのか気になる(特定の人物に害が及びかねないことにでも触れているのか?)。それにしてもカタカナは読みにくい……こいつもデジタル化が大変だった……

これは小説ではないが、同じような悪趣味な物を書いてもこれ以下でしかない作家が多いのは逆に呆れる(60)


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