アエティウス Aetius, 1, Prooem 2 (= [Plut.], De Plac. Phil. 874e) = SVF. 2.35 = LS. 26A = FDS. 15  さて、ストア派の人々は、知恵とは神に関わることと人間に関わることについての知識であるといっていたし、他方哲学とは有益なことに関わる技術の実践であるとも言っていた。有益なものとは徳のみであり、それだけが究極価値なのである。他方、最高類における徳は3つである。つまり、自然学的なそれ、倫理学的なそれ、論理学的なそれである。この理由で、哲学は3部分をもつのである。つまり、哲学には自然学の部門、倫理学の部門、論理学の部門が属している。我々が世界や世界の内にあるものを探求するとき、それは自然学の部門になるのであり、人間の生について探求されることが倫理学の部門であり、論理学の部門は言葉に関わるものであり、それは弁証の部門と呼ばれている。 Aetius, Plac. 1.3.25 = SVF. 1.85  ムナセウスの子、キティオンのゼノンによると、原理とは神と質量で、前者は能動することの、後者は受動することの原因であって、原素は四つである。 Aetius, 1.7.23 (DDG. 303.11) = SVF. 1.157  ストア派のゼノンは宇宙の火的な知性が神であると言った。 Aetius, 1.7.25 (DG. 303.15) = SVF. 3 Boethus 2  ボエトゥスは最上天が神であると説いた。 Aetius, Plac. 1.7.33 = SVF. 2.1027 = LS. 46A  ストア派の人々の言明するところによれば、神は知的なものであり、道に沿って世界の生成へと歩む形成的な火であり、一切の種子的理をそのうちに含んでいる。各々のものは、その理に応じて、運命に従って生ずる。そして気息は世界全体に浸透しており、その行き渡る質量の交替に応じて、様々な名称を得ている。世界も星々も、地も、万物の最上位にあるアイテールにおける理性も、神々である。(岩崎允胤訳) Aetius,1.9.2  タレスとピタゴラスの徒達、そしてストア派の人々は、質料は全体が全体的に変転し、変容し、変化し、流転すると言っている。 Aetius,1.9.7  ストア派の人々は質量を物体と呼んでいる。 Aetius, 1.10.5 = SVF.1.65 = FDS. 317  ゼノンの徒であるストア派の人々はイデアを我々の内にある概念であると言っていた。 Aetius, 1.11.5=SVF.2.340  ストア派の人々は全ての原因が物体的であると言っている。それは気息的なものだからというので。 Aetius, 1.11.7=SVF.2.338  ストア派の人々は第一の原因を動かされうるものと定義した。 Aetius, 1.12.4 = SVF. 1.101  大地付近の光は直進し、天空の光は円運動をする。 Aetius, 1.14.5 = SVF. 1.498 (Cleanthes)  クレアンテスは、ストア派の人々の中では唯一、火は円錐形であると主張した。 Aetius, 1.14.6 (DDG 131b1) = SVF. 1.101  ゼノンは、火は直線運動をすると言った。 Aetius,1.15.6 (DG. p313) = SVF. 1.91  ストア派のゼノンは色が質量の第一の形態であると言った。 Aetius, Plac. 1.18.5; 20.1  ゼノンとゼノンの徒は、世界はあるが、空虚はあらぬものであり、世界の外側では無限である、と言っている。さらに、空虚と場所と空間とは異なっている。空虚とは物体の不在であり、場所とは物体によって占められているところであり、空間とは、酒を入れる壷の場合のように、部分的に占められるところである。(岩崎允胤訳) Aetius,1.27.5=SVF.1.176  ストア派のゼノンは『自然論』の中で(運命を)質量を同じことに即して同様に動かす力だと言っており、摂理や本性と呼んでも変わらないと言っている。 Aetius, 1.27.6.322 Diels = SVF. 3 Antipater 35  ストア派のアンティパトロスは神が運命であると主張した。 Aetius, Plac.1.29.7 = SVF.2.966  アナクサゴラスとストア派の人々は[偶運を]人間の思惟にとって不明な原因とみている。というのは、彼等によれば、あるものは必然によって、あるものは運命によって、あるものは選択意志によって、あるものは偶運によって、あるものは自己偶発によって存する。(岩崎允胤訳) Aetius, 2.1.2 (DDG 327b8) = SVF. 1.97  ゼノンは宇宙は一つであると言った。 Aetius, 2.4.16 = SVF.1.499  ストア派のクレアンテスは、太陽に宇宙の指導的部分があると言った。 Aetius, 2.4.17 = SVF. 3 Archedemus 15  アルケデモスは宇宙の指導的部分は地球にあると説いた。 Aetius, 2.11.4 = SVF. 1.116  ゼノンによると天空は火の性質をもっている。 Aetius, 2.14.1 (DG. 343) = SVF. 1.508 (Cleanthes)  他の学徒は球形と考えているが、クレアンテスは[星々を]円錐形だと考えている。 Aetius, 2.16.1 (DDG 345a16) = SVF. 1.507 (Cleanthes)  アナクサゴラス、デモクリトス、クレアンテスは、全ての星々が上昇から下降に導かれると考えた。 Aetius, 2.20.4 = SVF. 1.501 (Cleanthes)  クレアンテスは、海から生じた知性ある炎が太陽であると言った。 Aetius, 2.31.5 (DG. 363.12) = SVF. 3 Boethus 8  ボエトゥスは(宇宙が)広がっているという表象に関してはそのことを受け入れたが、本質はそうではないとした。 Aetius, 3.2.7 (DG. 367.5) = SVF. 3 Boethus 9  ボエトゥスは(彗星を)天空に張り付いたものの表象であるとした。 Aetius,Plac.4.11=SVF.2.83  どのようにして生じたものが感覚、内在観念、内的言語なのか。 Aetius,Plac.4.8.12=SVF.2.72  ストア派の人々によれば、全ての感覚は同意と把捉である。 Aetius,Plac.4.9.4=SVF.2.78  ストア派の人々によると、感覚は真であるが、表象には真のものと偽のものがある。 Aetius, Plac. 4.9.13 = SVF.2.81  クリュシッポスによると、類としての快は叡智の対象だが、種としてのあるいは個別の快は感覚の対象である。 Aetius,Plac.4.9.17=SVF.1.204;3.568  ストア派の人々が言うには、賢者は[その人が賢者であると]そのあり方から判然と感覚で分かる。 Aetius, Plac. 4.11.1 = SVF. 2.83 = LS. 38E; 30J  どのようにして感覚、観念、内在理性が生ずるか。  ストア派の人々はこう言っている。人が産み落とされたとき、魂の指導的部分はちょうど書き込みに適した紙のような状態にある。ここに指導的部分は個々のあらゆる観念を自分で書き込むのである。書き込みの方法の第一は感覚を通じてのものである。人が何か(例えば白いもの)を感覚すると、その感覚がなくなってからもその記憶は保持している。そして、多くの同種の記憶が生じたときに、我々は経験をもつという。すなわち、経験とは同種の表象の集合である。観念には、今言った仕方で自然に無規則に生ずるものもあれば、我々の教授や配慮を通じて生ずるものもある。本来、後者のみが観念と呼ばれるのであり、前者は先取観念とも言われている。理性は、それによって我々が理知的であると呼ばれるその基なのであるが、先取観念によって生後最初の7年間で完成されると言われている。観念は理性的動物の思惟が抱く表象である。すなわち、表象が理知的な魂に抱かれた場合に、それが観念と呼ばれるのであり、この呼び名は叡知に由来する。従って、理不尽な動物どもに抱かれるものはただの表象である。しかし、我々や神々に抱かれるものは、類として見れば表象でもあるが、種として見れば観念ということにもなる。それはちょうどダナリア硬貨やスタテル硬貨のようなものである。それらはそれ自体として見ればダナリア硬貨でありスタテル硬貨でしかない。しかしそれが船舶の貸借のために支払われる場合には、硬貨であるとともに運賃とも言われる。 Aetius, 4.20.2 = SVF.2.387  ストア派の人々は音声は物体であると言っている。なぜなら、何かをなすもの、作用するものは全て物体だからである。さて、音声は何か作用をし、何かをなす。というのも、我々が音声を聞く際、我々は聴覚に遭遇したものを感覚しているのであり、それは、指が蜜鑞にそうするように、刻印されたものだからである。さらに、何かを動かしたりかく乱したりするものは全て物体である。さて、よい音楽は我々を感動させ、ひどい音楽は我々を掻き乱す。さらに、動かされるものも全て物体である。さて、音声は動いてきて、平面に当ると反射するが、それは球を壁に投げ付けた場合のようなものである。確かに、エジプトのピラミッドの中では一つの音声が発されると、それは四つあるいは五つの音さえも作り出すのである。 Aetius, Plac. 4.21 = SVF.2.836  どこからして魂は感覚をしうるものとなるのか。また、魂の指導的部分とは何か。  ストア派の人々は言う。魂の最も上の部分が指導的部分であって、これは表象・同意・感覚・衝動をつくりだす、と。…そして、指導的部分からは魂の七つの部分が発して肉体へと伸びており、まるでタコの足のようである。魂の七つの部分のうちには、感官、つまり視覚・嗅覚・聴覚・味覚・触覚が含まれている。… それらのうち、視覚は指導的部分から両目まで伸びた気息であり、聴覚は指導的部分から両耳まで伸びた気息、嗅覚は指導的部分から鼻腔にまで伸びた気息、味覚は指導的部分から舌にまで伸びた気息、触覚は指導的部分から、皮膚にあたったものを接触によって感覚するために皮膚にまで伸びた気息である。…残りの部分のうち一つは種子的部分と呼ばれていて、指導的部分から睾丸にまで伸びた気息である。ゼノンが「音声的部分」と呼ぶもの、いわゆる声のことだが、は指導的部分から気管と舌、そしてそれらに親しい器官、にまで伸びた気息である。さて、指導的部分それ自体は、宇宙における太陽のように、我々の球形の頭の中におさまっているのである。 Aetius, 5.4.1 = SVF. 1.128  ゼノンは[種子・精子は]物体であると言った。魂の断片であるというので。 Aetius, 5.5.2 = SVF. 1.129  ゼノンは[女性は]湿った質量を放出するが、それは共に働いて汗をかくようなものであって、種子を出すということはないのだと言った。