アフロディシアスのアレクサンドロス 『霊魂論』 Alex. Aphr., De Anima 17.15 = SVF. 2.394  しかしながら、(ストア派の人々がそう思っているように)全ての物体は質量であるか質量からなるものだと言う人々によれば、形相は物体ではありえない。…  つまり、このように、形相が質量と形相からなると、つまり、何か他の形相からではなく、既に質量と共にあるものからなると言うのであれば、そのような人々にとっては、質量は、その本質規定において、無性質ではありえない。…  さらに、どうして無茶苦茶でないことがあろうか。質量は、形相を性質を持ち、さらに何らかの質量までその上持っているということにある、などと言うとすれば。これは、形相と性質は質量を持つ物体であると言う連中にどうしても言っておかねばならないことである。 Alex. Aphr., De Anima 18.10 = SVF. 2.793  方やこういう論がある。物体の部分は必然的にそれ自体も物体でなければならない。例えば、面・線・時間の部分はやはり面であり線であり時間であるし、もちろん動物は物体なので、その形相や質量も従って物体なのである、と。こんなことを言うのは混乱して出鱈目を言う連中のすることである。…しかし、これならどうであろうか。「その部分が物体であるものは、その当のものそれ自体も物体である。さて、知覚は魂の部分なので、物体である。故に、魂そのものも物体である」こういう論も何か意味のあることを言っているわけではない。というのは、たとえ魂が物体であり、物体であるといってもそれは質量であるというわけではないのだとしても、魂は依然質量と形相からなるであろうから、いやしくも彼等によれば物体は全て質量と共にあるというのであるから。 Alex. Aphr., De Anima 26.13 = SVF.786  さらに、魂をある種の混合や、何かの総合から導き出す人々によるならば、魂は調和であるか、あるいは何らかの物体が調和をもって総合されたものということになるだろう。そういう人々にはストア派の人々がおり、彼等は魂が気息であり、ある仕方でひと空気が混合されたものであると言っている。またエピクロス派の人々もこの種の人々である。 Alex.Aphr.,Anim.68.11=SVF.2.59(表象は刻印)  だから、彼等は表象を魂、つまり指導的部分における刻印と定義したのである。 Alex.Aphr.,Anim.71.10=SVF.2.70(把捉)  表象のうち真実なものは強く把捉的なものであると言うことに我々は慣れている、把捉はそのような表象に対する同意であるということによって。しかし、真実の物事に関する不明瞭な表象を我々は非把捉的で虚偽の表象と呼ぶ。 Alex.Aphr.,Anim.72.5=SVF.2.58(表象は刻印ではない)  刻印と共通のものを表象において聞き取らねばならない。というのも、本来の意味では刻印は何かを押しつけて離した時の印、あるいは押しつけられたものに印章が残した形だからである、蝋印がそうなっているのを我々も見るように。しかし、感覚対象から我々の内に残されたものはこのように生じるわけではない。なぜなら、元々、感覚対象の受容が何らかの形をもっているわけではないからである。というのも、白いものや総じて色一般はどのような形をもっているのか。臭いはどんな形をもっているのか。いや、痕跡、つまり感覚対象から我々の内に残され留まっているものを名の転義によって刻印と呼ぶのは何か本来の名前に関する難問を通じてのことなのである。 Alex. Aphr., De An. 97.8 = SVF.2.839  そして、感覚を司るものも栄養に関わるそれと同様に心臓付近にあるということが、…これらの事柄から理解されうるだろう。しかし実際、感覚が完了するところに表象に関わる魂がなければならないというのも必然である…さらにまた実際、表象があるところに同意があり、また同意があるところに衝動と意欲もあるのである。…魂の理知的部分、独特の用語で「指導的部分」と呼ばれているが、それ自体も心臓にあるということが論証されかねない。 Alex. Aphr., De An. Mant. 115.6 = SVF.2.785  さらに、魂が物体だとすると、火であれ気息であれ、精妙な部分からなるものが、魂を内に持つ肉体全体に行き渡っているということになる。しかし、そうだとすると、明らかに、それが怠惰であるとも、あるいは何でもいいがある状態にあるとも言えなくなる。なぜなら、火にしても気息にしても全くそのような働きは持っていないからである。というわけで、魂はそれ固有の形相と本質規定、働き、そして彼等が言うように、張力を持っていることになるだろう。 Alexander Aphrod,Anim.118.6=SVF.2.823=LS.29A(魂の部分・能力)  「魂の能力は一つであり、それがいかなる状態にあるかに応じて、その場合場合に、あるときは思惟し、あるときは怒り、あるときは欲望する」こんなことはないと論証しなければならない。 Alex.Aphr,De An.150.25=SVF.3.183  そして、この最初の親近なものとは何であるのかということが哲学者たちの下で探求され、全ての者が同じことを真実だと思ったわけではなかった。それどころか、欲求の終局にあるものに関する意見の相違とほとんど並ぶように最初の欲求対象に関する相異もこうしたことを論ずる人々に生じているのである。さて、ストア派の人々は、全員ではないが、生物はまず第一に自分自身に親近であると言っている。(というのは、生物は誕生するとただちに自分自身に対して親近になる、とりわけ人間がそうだ、というのだ)しかし彼等のうちのある人々は、より精妙にこの問題を論じさらに詳論していると思われるが、我々は誕生するとただちに我々自身の保全と保護に親近になると言っている。 Alex. Aphr., De An. 154.30  徳は立派さとしての立派さのために全てをなす(というのも、徳は行為における立派な物事を実行するものであるから) Alex. Aphr, De An. Libri. Mant. 159.19 = SVF. 3.767  しかし、徳を持つ者が徳を持ちながら生きることを放棄することも時にはあるだろう、生からの退出にしかるべき理由があるというので。 Alex. Aphr, De An. 159.33 = SVF. 3.66  さらに、もし全ての技術はそれ自身とは異なる何事かを作りなし、それ自身をそうすることはないのであり、また彼等の言うとおりに徳は幸福を作る技術なのだとしたら、幸福は徳とは異なる何ものかだということになるだろう。 Alex. Aphr, De An. 160.3 = SVF. 3.64  それ故、徳は幸福のために十分ではない。なぜなら、エピクロスの言うように、徳は快いものの選別に関わるか、さもなくば、ストア学徒たちがそう考えたように、自然に則すことの選別に関わるかのどちらかなのだから。…なぜなら、自然に則すことがらを徳に即して実現させることはなし得ないから。だからもし、徳の実現が、実践的な徳が関わらない対象に関わるとしたら、徳はそれ固有の実現態に対して十分ではない、その実現が関わりはするが徳そのものの外にあるものを必要とするから。つまり、そういうものは、彼等が言うように、理を欠いてはあり得ないものではないが、しかし徳を働かせるものであり徳を行ったり実現させたりする原因なのである。なぜなら、徳はそれらを射当てるものだから、技術者が固有の素材をそうするように。とにかく、彼等の言っていることは、自らの手で実践を差し止めるということなのである、こうしたものを追い求めず、自分たちのうちにある見解の相違によって徳を働かせもしない以上。 Alex.Aphr,De An.Libri.Mant.160.24=SVF.3.766  もし、徳の実現が自然に従うものや親近なものの選別、またこれらに反対なものを追い出し引き離すことに関わるとすれば、選別されるであろうものは明らかに身近になければならない。というのも実際、そういうものが常に人の身近にあるとは限らないから。そうなると、こういうものがないなら徳を持つ人は時には自分自身を生から退出させることになる。というのは、退出はこうしたものを選別する能力がないことによるのではなく、これが徳の実現だから、徳の下にないものが彼のそばにないことによるのだから。 Alex. Aphr, De An. Lib. Mant. 161.16 = SVF.3.239  さらに、徳を備えもつ者が昏睡や鬱病や酩酊や狂気など徳に即して活動できない状態に陥りうるならば、徳はそれに密接な活動に対して十分ではない。なぜなら、気がふれた者、気がふれて歯止めがきかなくなった者、友人たちの助けを得られない者が思慮ある仕方で活動できると一体どうして言いうるのだ、こいつらは自分のあり方を保とうとさえ思わないのだから。さらにまた、彼等の言うように、徳は善悪無記のもののうちあるものは取り除け、あるものは選び取るというのであれば、徳は幸福に対しても十分ではありえない。徳が拒絶するものの内にある人がどうして幸福なものか。 Alex.Aphr,De An..161.26=SVF.3.63(徳と実践)  しかし、感覚そのものも、もし人間であるために必然的であるものという地位をそれらが占めるならば、徳、すなわち理を欠いてはありえないもの、の実現に向けて奉仕することは決してない。しかしもし、人間にとって必然的なものであるということに加え実戦に向けて奉仕するということでもあれば、徳は自らに固有な実現のためにそれらを併せ用いもする(というのは、表象は徳に即した実践の基礎であるから)。[しかし感覚は]徳に即した実現のために理を欠いてはあり得ないものをそなえてはいない、ちょうど天空や大地や時空がそうあるように。というのは、感覚がどうあろうが徳に即した実現を我々がなすとすれば、すなわち、こうした感覚に由来する誤った表象にまで同意しそれらに従って行為するか(しかしどうしてこんなことが優れた人のすることか)、さもなければ判断停止し同意もしないとすれば、我々は徳に応じた事柄を何一つ実行できないであろうし、従って全く徳を実現できないことになる。 Alex.Aphr,De An.162.29=SVF.3.185(善悪無記説の理論的整合性)  我々が非常に多くのものに親近になるということ、しかしそれらがどういうものであろうと我々には何の関わりもない(無記である)ということ、こういうことを[同時に]語るのは言論上の齟齬を起こす。 Alex.Aphr,De An.162.32=SVF.3.65(徳の十分性)  さらにもし、幸福に関する共通観念が自足そのものとして生に備わっているとされるなら(なぜなら、幸福な人は何も必要としないというのが彼等の前提だから)、また幸福は欲求対象の究極であると彼等が理解しているのなら(ところが、自然に即して生きること、自然に即した生のこともまた彼等は幸福だと言うし、これらに加えて善く生きること、善く生活すること、善い生も幸福であると彼等は言っている)、またこのようなものが幸福であると前提しつつもこうしたもののどれにも徳は十分ではないというのなら、徳は幸福のために十分ではない。 Alex.Aphr,De An.163.4=SVF.3.192(優先物)R  というのも彼等はこう言っているからだ。「賢者にとってある特定の優先物が価値を持ち、何らかの点で親近で、引き寄せるに適切だということがある」しかしこうも言っている。「二様のあり方をするものに徳が関わるが、それらとともにある徳は一つしかないという状況でも、賢者は決して分裂した徳を選択することはない、他のものに関わる徳を取ることが可能だとすれば」。もしこうだとすると、賢者はこのような他の諸徳を必要とするだろう。 Alex.Aphr.,De An Mant. 163.14=SVF.3.180(自然に従う 親近性)  というのは、我々に魂と肉体を与える自然は両者それぞれの完成とあるべき状態に向けて我々を親近なものとしたので、自然に従う両者それぞれの完成を欠いている者は自然に従って生きられないであろう。(というのは自然に従うことは自然の意向に聴従することだから)もしこうでないならば、幸福ではない。 Alex.Aphr,De An Mant. 163.32=SVF.3.194(選別)  さらに、彼等に従って選別によってこうしたものが徳に落ち着くとしたら、また我々に親近なものを選別し、こうしたものに対立するものを追い出すために自然が徳を迎え入れるのだとすると、はたして、肉体に関わる善いものや外的なそれを選別するべきでありつつもそれらを配慮してはいけないということになるのか。 Alex.Aphr,De An.164.3-9=SVF.3.193=LS64B(選別)  また、何であれ他の技術は選別することただそれだけのために何かを選別することなどなく、むしろ全てのものの選別は目的に向かって関わりを持っているのである。つまり、選別されたものの使用にこそ目的はあるのであって、あらかじめあるものを選び出すことにはないのだ。また総じて、徳は選別することただこのことだけのためにあるのだなどと言うことはどうして滅茶苦茶でないものか。なぜなら、選別されたものの使用が善悪無記であって目的へと向かっていないのならば、選別は空疎で愚かなことになってしまうから。 Alex.Aphr,De An.Mant. 166.21=SVF.3.57(徳と幸福の関係)  さらにこういうこともない。「もし我々が何かによって見るならばそのものの徳によって我々はよく見るのであり、何かによって聞くならばそのものの徳によってよく聞くのであり、そしてこのこと故に、我々が何かによって生きるならそのものの徳によってよく生きるということになる。その結果、魂の徳が幸福であることになるだろう。なぜなら、魂によって我々は生きるのだから」すると、このこと故に次のことも違う… Alex.Aphr,De An. Mant. 167.4=SVF.3.204(徳と技術の類比)  「笛術が与えられた全ての節を正しく用いることができるように徳も全ての事柄を」と言うことは健全ではあるがさらに規定を加えねばならない。… Alex.Aphr,De An. Mant.167.9=SVF.3.205(使用と幸福の関係)  さらに、それが全ての物事を立派に使用するから正に全てのものの使用が幸福にふさわしい、というわけではない。 Alex.Aphr,De An. Mant. 167.13=SVF.3.145(?)(優先の理論に対する批判)  さらに、何かに対して親近なもの、優先されるもの、有用なもの、価値を有するものがこうした名称をもつのは幸福に対して何ら貢献しない場合なのである。というのは、全ての優先されるものが何かに対して優先されるのは、他のものよりもより前におかれているものに向けて貢献するところがあることにもよるのであり、この故に目的に向けて優先されているとも言われるのであり、こういうものの推進は明らかに幸福に貢献するのである。そして、こうしたものを生に即した生に関して価値があるものと言うことがこのこと、つまり自然に即した生に対して貢献しないとしたら、このことは善であるか、善ではないが親近なものでありそれ自体優先されるものでもあるか、疎遠なものであり優先されないものか、全くどちらとも言えないものかである。すなわち以上のことに反対しては何も応えることができない。なぜなら、彼等もこのものを少なくとも悪とは言っていないのだから。さて、善であるとすれば…立派なものだけが善であることにはならないだろう。なぜなら、自然に即した生もそうなのだから。 Alex.Aphr,De An.Libri.Mant.168.1=SVF.3.764(自殺)  しかし総じて、もし徳が我々の生を究極まで幸福で恵まれたものに仕立てるのに十分だとすれば、徳を持つ者にとって、彼が幸せな生の内にあるときに、生からの退出がどうしてもっともな理由を持つのか。なぜなら、神が敢えて死ぬということが滅茶苦茶であるように、この神と同じくらい幸せに生きている者が自分をこうした生から除外し、それがもっともな理由を持つなどというのも同じく無茶苦茶である。肉体的あるいは外的な善悪無記物は幸福を作り出しもせず破壊もしないが、徳は、それだけが生を幸せなものに作り上げ、確実さを備えつつそれを守るのだが、賢者を置き去りにすることはない以上は。…すなわち、徳が賢者にそんなもので応えるということにどうしてもっともな理由があろうか。 Alex.Aphr,De An.173.11=SVF.3.67(状況依存的適宜行為)  このように、徳は幸福に十分であるという者に伴うことは、生からの理にかなった退出などということはないということや、健康は選択に値するものでも徳に反する何ものかでもないということである以上、こうした事柄のうち何かが退けられるならば、徳は幸福に十分であるということもまた退けられるであろう。 AA, Mant. 179.6 = SVF.2.967  運命を人間の理知では明らかにならない原因だと言うことは、運命について何か確とした本性を想定する人々のすることではなくて、運命というものは原因に対する人々の何らかの態度のうちにあるものだと言う人々のすることである。…つまり、もし運命はある人々には明らかでない原因だというのではなくて、およそ全ての人々にとってそうなのだと言うのであれば、彼等は運命というものを全く何ものでもないと認めているようなものである。卜占があると認め、明らかではないと思われる事柄を知ることができる術というものがあると、他の人々には認めているにもかかわらず。 『アリストテレス『分析論前書』注解』 Alex. Aphr, In Aristot. Analut. Pr. 1.3 = SVF. 2.49a = FDS. 27  //論理と推論に関わる学的営みが今我々の課題であり、これによるものは論証学も弁証学も勧奨術もさらには詭弁論法さえもそうなのだが、この営みは哲学の仕事なのである。何か他の知識や技術もこれを使用するのではあるが、むしろ哲学の下に取り入れられているのである。というのも、この学のすることは[問題の]発見や結合、また最も重大なことのためにそれを使用することなのであるから。この学が哲学の仕事であるのである人々はこれを哲学の部分であると思っているが、他方哲学の部分ではなく道具であると考えている人々もいる。さて、これを「部分」と言う人々がそのような見解に導かれた理由はこうである。つまり、どう考えても哲学の部分であると同意されている他の事柄についても哲学はこうしたことの発見や秩序付けや構成を仕事とするもので依然あるのだが、それと同様のことが当の問題事項についても当てはまるからである。そして、この学が[他ならぬ]哲学の仕事である以上、哲学の残りの部分の部分ではない。つまり、観想的部分の部分でもなければ、実践的なそれのでもないのである。というのは、あの部分それぞれの基礎となっているものは違うのだし、目指すものもそれらそれぞれにワじて異なっているのだから。また、あの互いに異なる学は互いに反対のものとして分割されているのだから、このどちらとも異なっている当の学的方法がこれらと反対のものとして分かたれるのももっともなことである。なぜなら、基礎においてもあれらとは異なっているのだから。つまり、命題と陳述が当の学の基礎なのである。また、目的と課題においてもそうである。なぜなら、この学の課題は、前提され承認された陳述を何らかの形で結合したものから必然的に帰結するものを証明することなのである。これはあの部分どちらの目的でもない。 Alex., In Ar. An. Pr. 17.11 Wal. = SVF. 3 Antipater 27  つまり、より後の人々が「単一前提の推論」と呼んでいる*ものではない。……(18)しかし、いわゆる「単一前提の」ものは、別の命題を、それが自明であることに頼って、聞く側に提示することで初めて推論となるものだと思われる。すなわち、「君は息をしている、したがって君は生きている」は、聞く側が、自明である命題、つまり「全て、呼吸をしているものは生きている」をこれに加えるからこそ推論となるように思われる。 * legomenoiの誤植であろう Alex. Aphr., In Ar. An. Pr. 177.19 = FDS. 994 = SVF.2.202a  さて、アリストテレスは、可能な事柄に不可能な事柄が論理的に後続することはありえないということを(177.20)論証するのに、真である仮言命題においては帰結は前件に必然的に従わなければならないということを根拠としている。そして、必然からして何かに後続するものは、常にそのものに後続するのである。そして、しかるに、不可能なことはそれに先行する物事には常に後続するので、従って、可能なことが生じえる場合には、実際生じた物事に不可能事は後続するのである。そして、そのことに後続する物事はいつか実際にもあることだろう。故に、不可能なことは生じうるのである。しかしそのようなことは不可能である。  (177.25)クリュシッポスは、可能な事柄に不可能な事柄が帰結することをさまたげるものは何もないと言っているが、アリストテレスが語った論証については何も言及せず、そのくせ、邪にあつらえた事例からアリストテレスの言っていることは間違っていると証明しようとしている。つまり、クリュシッポスはこう言っているのだ。「もしディオンが死んだのであれば、この人は死んでいる」という仮言命題において(ディオンが直示されうる人であればこの命題は真である)、「ディオンが死んだ」という前件は、(177.30)ディオンが死ぬということが真であり得るということからして、可能な事態であるが、しかし「この人は死んだ」というのは不可能な事態である。というのは、ディオンが死んでしまったのであれば、「この人は死んだ」という命題は、指示を受け入れられなくなってしまうので、棄却されるのだから。指示は生きている人にたいして、その生きている間に、なされるものだから。すると、この人が死ねば「この人」というのは成り立たないのであり、さらにディオンは既に逝っており、この人について(178.1)「この人は死んだ」と言うことが可能であった、ということであれば、その場合「この人は死んだ」と言うことは不可能である。なぜなら、次のことも不可能ではないからである。つまり、ディオンの死後(この人について、彼が存命中、その仮言命題の前件で「この人は死んだ」と語られていたのであるが)後にいつか再び「この人」と語られることもあり得るのである。しかし、このことが可能でない場合には、「この人は死んだ」とは言い得ない。  これに似たものとして引き合いに出されているのが、昼が指示されている条件下での「もし夜があるなら、それは昼ではない」という命題である。なぜなら、この仮言命題は真であるが、そこにおいては、思うに、可能であると考えられることに不可能なことが後続しているからである。  (178.8)クリュシッポスが語ることがまともでないということは、仮言命題に対する過った非難によって示される。なぜなら、(178.10)「ディオンが死んだなら、この人は死んでいる」は真ではないからである。つまり、さらに言えば、「ディオンが死んだ」が「この人は死んだ」ということについて語られ、また語られえ、しかしそれについてディオンは語られても「この人」は語られないということであれば、「ディオンが死んだ」という前件に「この人は死んだ」ということは後続しえないからである。なぜなら、かつてないことである後件に対して前件がありうるならば、その論理的接続は健全なものではないからである。つまりこういうことである。ディオンが同音異義語ならば、「ディオンが死んだならば、この人は死んでいる」は真ではありえない。なぜなら、「ディオンが死んだ」が語られるのは誰か別の人に対してであって、指示されている人ではないということがありうるからである。それと同様に、ディオンが指示された場合、大体においてその名は指示に関わるとしても、名が関わる全ての場合に指示があり得るということはないということならば、「ディオンが死んだなら、この人は死んでいる」は真ではないだろう。(178.20)なぜなら、「ディオンは死んだ」が、それについて「この人は死んだ」とはい言えない物事について語られているということが可能であろうから。さらに言えば、ディオンというのは死んだものについても語られうるのだとしても、「この人」は生きているものにおいてのみ語られるのである。つまり、既に言ったように、前件が、それに論理的に後続すると理解されることなしにとにかくありうるのであれば、その論理的な接続は健全なものではないのである。つまり、真な仮言命題において、実現しない前件に後件が後続するということは突飛なことではない。従って、実現しない前件に後件が後続するということは可能である。しかし、真な仮言命題において、実現しない後件に前件が先行するということは不可能である。なぜなら、棄却されることで、後件が前件に接続しないなら、まさにその故に、その仮言命題は健全なものとなるからである。 Alex. Aphr., In Ar. An. Pr. 180.28 Wallies = FDS. 994 = SVF. 2.624  もし、「この人は死んだ」ということで「この人の魂と肉体が分離された」ということを理解しているのであれば、彼等によれば、「この人は死んだ」ということは不可能ではないだろう。なぜなら、ある時点で真であることが可能である述語は不可能ではないから。彼等によれば、「この人の魂と肉体は分離されている」は、ディオンを指しているのであれば、ディオンが死んだ後に初めて真になりうるのである。というのは、彼等の説では、世界燃焼の後に全てのものは宇宙と数において同一になるのであり、それはつまり、固有性質が、それまでのものにおけるのとその宇宙におけるのとで同じになるということなのだからである。これはクリュシッポスが『宇宙論』で言っている通りである。もしこの通りだとすると、ある時点でディオンが生存しているとしたら、(181.1)その時点でもこの人について「この人は死んでいる」は真であり得るのである。なぜなら、この人について、魂と肉体は分離されているが、また繋ぎ合わされてもいるからである。そうだとしたら、彼等の説に従っても、「この人は死んでいる」ということは不可能ではないのだ。その理由はこうである。閉じた指について、それらが指し示されているとして、このものは滅んでいるという命題は、その時点では実際のところ偽であるのだが、不可能ではない。なぜなら、開いていた指が、それがつまり閉じているものの滅びということなのだが、再び閉じられ、そしてこのものが指し示される対象であるなら、このものは滅びたということが真であることが可能である(つまり、指が開いていたその時点ではかつて滅んでいた)。それと同様にして、ディオンがまだいたとしても「この人は死んだ」は真だろう。なぜなら、既にこの人の魂と肉体は別れていたのだから、指を合わせることがそうであるようにして。(181.10)つまり、指においても、数の上でだけ転換がなされ、先に示されたものと後に示されたものは数の上においてのみ異なるように、ディオンにおいても同様である。少なくとも、後のディオンと先のディオンということにそうであるならば。さてもし、指の場合は、開いていたものと後から閉じられたものとは数の上でも同じだが、ディオンの場合は、数の上で同一の魂と肉体が結合していたわけではないのだ、などと彼等が言うにしても、大したことではない。前提されている固有性質が、先のもの後のものととで同じであるというのであれば、その限りでは何の違いもないのである。(固有性質が同じであると言う人々にとって難問なのは恐らく、数の上で同一ではない魂と肉体が繋ぎ合わされると同一のものになるというのはいかにしてなのか、ということであろう)なぜなら、(181.20)このディオンという人はその同じ指示を受け入れるからである。つまり、後のディオンと先のディオンは同じではないし、同一人物に「これ」が述語付けられているのでもないのである。しかし、もしそうであるならば、この人について「この人は死んだ」というのは真であろうし、「この人の魂と肉体は分離された」もそうである。そして、「この人は死んだ」がいつか真でありうるのであれば、それは不可能ではない。この理由で、実際、「ディオンは死んだ」は可能な命題である。ある時点では真なのだから。また、彼等はこうも言う。後の固有性質に、先のそれに対する変転が生じるのは何か外的に付帯するものにおいてだけである、と。そのような変転は、同じ人であり続けている人には、つまり生存しているディオンには、生じないのである、と。つまり、それは別のものにはならないのである。なぜなら、瞳にかつてはあったものが後にはないというのであれば、それは別のものになったのではないから。(181.30)また彼等は言う。ある宇宙における固有性質に生じるそのような変転は、別の宇宙におけるそれにも生じる、と。しかしもし、「この人は死んだ」が不可能な命題でもなく、滅びうる命題でもないとしたら、「もしディオンが死んだのであれば、この人は死んでいる」は真である仮言命題ではないということに彼等も同意するであろう。なぜなら、「ディオンは死んだ」が真なら、その場合「この人は死んだ」がにもかかわらず棄却されていないということはないからである。「もし夜であるなら、それは昼ではない」もこれと同様である。というのも、こうした場合において、夜であるというような意味で、これは昼ではないということは可能だからである。なぜなら、それで意味が変わるということはないから。つまり、「これは昼ではない」と言う人が、昼であるところのものが、それがある時に、ない、と言うとしたら、その仮言は真ではない。なぜなら、夜であるということに論理的に後続するのは、実際それがある時に昼であるところのものがないということではなく、昼でないということなのであるから。さてもし、夜であるところのものが指示されないと人が言うなら、その場合この仮言は真であり、同様に前件に後続Yるものは可能名のである。また、先に語られたその他の事柄も、この指示ということに関して語られうるのである。 Alex. Aphr., Ar. An. Pr. 277.37 = FDS.1167  さて、Eがこれらの前提から推論され、それがあたかもABから推論されたかのようであるならば、複数の推論が同じ命題に関わることになるだろう。つまり、ここで示されることは、もし同じ結論が「それぞれ別々の」前提から生じるなら推論は複数である、ということである。しかしもし、ABのどちらかがCDから推論されるなら、こうしてABという前提のどちらかによって複数の推論があることになる。ABはEを推論しうる命題であり、EはCDという前提に依る結論でもあるからである。さてところで、この種の連鎖式、より最近の人々が呼ぶところの第三の推論規則に従って生じるものだが、それは我々が先述したところの総合的な命題によるのであって、その意味するところをを言うならば、先述したとおりである。「何らかの前提から何らかの結論が推論され、この推論された結論が何か一つあるいはそれ以上の命題と組み合わされると別のある結論を導出する場合、この別の結論を推論しうる諸前提が、先の結論を導出しうる一つあるいはそれ以上の前提と共にされるなら、同じ命題を導出する(A&B->C, C&D(&E..)->F, A&B&C(&E..)->F)」 ↓ Alex. Aphr., In Ar. An. Pr. 278.11 = SVF.2.255 = FDS. 1167 = LS.36J  さて、いわゆる第3の規則そのものの意味内容はこのようになっている。「2つの命題から何か第3のものが導出される場合、それら2つの命題のうちどれか一つから推論されうる命題がそれらの他に得られるなら、先の2つのうちのもう一方と、それではない方から推論されうる他の諸命題とから同じ命題が導き出される」 『アリストテレス『形而上学』注解』 Alex. Aphr, In Aristot. Metaphys. 133.33 (Bon), 178,15 (Hayd)  ところが、何らかの原因がそれ自体として質料の下に存在もするとしたら、何か別の問題が考察されねばならないと彼は言う。つまり、このものは質量から分離されてそれ自体独立して存立するのか、質量の中にあるのかということが。このものとは、質量の内にある形相という性質を持つものであり、ストア派の人々が神、つまり原因の制作者は質量の内にあると考えているような意味合いのものである。 『運命論』 Alexander Aphrod., De Fato 7(172.12) = SVF.2.969  というのは、何ごとかが遇運から生ずるということは維持されないからである、もし、そのように生じるものの本性を無きものとし、遇運という名称を必然から生ずるものに定め立てるとすれば。 Alexander Aphrod., De Fato 8(173.13)=SVF.2.968  そうすると、偶運によって偶発的に生じるもののあり方が、先行する原因によらずに生ずるというものだとすると(というのは、これら以前に生じるものにはめったに起こらないものに属するのが自己偶発であり遇運なのだから)、彼等はこれまで言われたことのうち何でもよいがそれを救えるのか?彼等によると、全てのものは、在るものにせよ成るものにせよ、何か先行する原因と最初のそれによって生ずるのが必然なのだが、成るものは各々何か前もって条件を整える原因を持っており、それが在るまたは成るのは必然的に自分自身がそうするのである、あるいは成るのだというのに。  *さて、前に言ったことを何ら保持せず、遇運という言葉は何か違うものに関わるのだと定めておいて、万事は必然によって生ずるとする人にもあの論は転覆されていないということでもって、遇運そのものも転覆されてはいないと言うとするなら、そういう連中のすることは詭弁を労する連中のすることであって、自分自身も、そいつ等の話を聞く人々をも欺いているのである。つまり、そう言ったところで、運命と遇運が同じものであると言うのを妨げるものは何もないし、「全て成るものは遇運から成る」と言うことはその限りでは遇運を転覆することには程遠いということもそうである。 *テキストに多少問題がある。 Alex. Aphr., De Fato 197.25  しかし、自然に健康であり、苦労も配慮も無しにそうである人々を我々は賞賛することはない。幸せな人だと思いはするが。彼等は他の人々が愛し求めるものを苦労せずに得ているからである。たとえ他の人々が苦労しつつもそれを得ているとしても。これと同じか、あるいはもっと甚だしいことを我々は徳の場合にするであろう。もし徳が自然に備わる人々がいるとしたらである。神々に対しては我々も無論そうしているのだが。しかし、そんなことは我々にはありえないことで、不可能なことを自然に求めてはいけない。(自然が可能事と不可能事の尺度なのであるから。(198)というのは、徳は各々のものに親近な本性の完成であり頂点であるが、完成された状態において何か不完全なものがあるということはありえず、しかしながら、生まれたものは、生まれた直後は、不完全だからである)人間が生まれながらにして徳を備えもっているということはないのである。  (198.3)他方、人間が徳を獲得するのに自然が何も貢献しないということはない、というのも本当である。むしろ、人は自然から、徳を受け入れる能力とそれに適した性質とを受け取っており、これは他のいかなる動物ももっていないものである。人間が他の動物と本性上異なっているのは、まさにこの能力による。もっとも、肉体的な利点をその代わりに与えられている動物も多い。さて、我々が、徳を受け入れる能力を自然から得る仕方が次のようであったらどうであろうか。つまり、我々が徳を受け入れて進歩し完成する仕方が、歩いたり、歯や髭がのびたり、我々に自然に生じるその他のもののようだったとしたら、どうであろうか。その場合、今のべた物事のどれもそうでないように、徳も我々の権内にあるものとはならないであろう。しかし、我々はこのようにして徳を獲得するわけではない。つまり、他のもののように思慮や徳も人間に生まれつき具わるのだとしたら、全ての人々が、あるいは少なくとも大部分の人々が、自然に人々に具わるその他のものの場合と同様に、徳を受け入れる能力だけではなく、徳そのものまでも自然から受け取るであろうし、そうなれば徳や悪徳に賞賛と非難や何かそのようなものも不要であろう人々には徳が現に具わるためのきっかけと実質がより神に近い形で具わっているのだから。しかるに、事実はそのようではない。というのも、我々が見たところ、全ての人々が徳をもっているわけではなく、大部分の人がそうだとも言えないからである。それが、自然に生じる物事の証左なのだが、むしろ、どこかに一人でもそんな者があれば御の字なのである。しかもそれにしたところで、人間が本性上他の動物よりもより優れているのは訓練と教示を通じてなのであると示すに過ぎないのである。まさにこれによって、本性上我々に欠けてはいるがどうしても必要なものを補うのである。こうしたことから分かるように、徳を獲得することは我々の権内にあり、賞賛と非難も無用でも無駄でもなく、よりよい物事に勧奨することも、法に則ったよりよい習慣によって教導することも同様である。 Alexander Aphrod., De Fato 28.199.7 = SVF. 3.658  我々がそのように(善くあるいは悪く)あり、そうなるのは必然的なことであると言う人々は、そのようなことをしたりしなかったりする能力を我々に残してくれないのだ。[しかし]そのようなことを通じて我々はかようなものになるのであって、そうするとこの理論によると、それをなせばそういう者になるようなことをなさないことは悪くなった人々もできないしよい人々もそうであることになる。[そうすると彼等は]人間が本性によってあらゆる動物どもよりも悪しきものとなるということにどうやって同意しないでいられるのか。その本性によって他の全てのものは己の保全を為し遂げるようになると言っているのに。すなわち、徳だけが善く、悪徳だけが悪く、他の生き物は何一つとしてこのいずれをも示さず、人々の大部分は悪しく、エチオピアから来たフェニキア人が言う何か常識外れな図式や不自然な奇論のように、彼等によって語られているのは2人目ではなく何よりも[最初の]一人目が善き者となることであるとすれば、また、一人一人を区別できず、賢者でない人々は皆一様に狂っているというので、平等に全ての人々は悪しく互いに対してもそうだというのであれば、人間は全てのもののうちでもっと悲惨な生き物だということにどうしてならないのか。悪徳をもち、このものに同じ根を持つものとして生まれついたものとして狂ってさえいるのに。 Alex. Aphrod., De Fato 29.199.27 = SVF. 3.242  しかるに、その性向をもたないことは彼の権内にあることではないが*(ちょうど、高いところから身投げした人にとって止まることが権内にないように、たとえ身投げするかしないかという能力を[身投げ前には]備えていたとしても)、しかし、その性向ともつ者として活動する活動そのものについて言えば、何かをなさないことは彼の権内にあるのだ**。というのはつまり、思慮ある者が理と思慮に従う活動を活動するということが何よりも理にかなったことだとすると、まず、何かかくかくの特定の活動が活動されたとかこの程度活動されたとかいうことは決定的なことではなく、むしろこのような仕方で活動されたことは全て同じレベルにあり、彼等において些細なことに関わることは前もっての意図を損なわせない。 *アルニムに従う。シャープルズに従うと「彼は決してその性向を自分の権内にあるものとしてもつことはないが」。 **アルニムに従う。シャープルズに従うと「その性向をそなえた上で活動する活動のうちの何かをなさないことは彼の権内にある」。 Alex. Aphrod., De Fato 34 (205.24) = SVF. 2.1002  つまり、自然に従って成り立っているものはそれぞれみな運命に従っていると理解し、それは「自然に従って」というのと「運命に従って」というのは同じことであるという意味でそれらがそうある限りだとしておいて、彼等はこう加えるのである。「それだから、運命に従ってのことなのだ、動物が感覚し衝動するのも。もっと言えば、動物のうちあるものは単に活動し、理性的なものは「実践」と言いうる活動をし、しかも過誤行為したり正当行為したりするというのもそうである。なぜなら、それらにとってはそうしたことが自然にかなっているのだから。さて、過誤と正当行為がそのまま残り、自然本性と[そうした]性質が損なわれないならば、称賛と非難、懲罰や賞揚も残ることになる。なぜなら、[そうしたものの]一致調和や秩序について、以上のことがそのまま当てはまるのだから」 Alex. Aphrod, De Fato 35.207.4 = SVF. 2.1003 = LS. 62J  さてまた、あの論点を残さないようにしておこう。[ストア派の人々は]その論点に自信を持っており、目下の諸問題を何らかの点で論証できるものと思っているのである。というのも彼等はこう言っているからだ。「というのも、そのような運命はあるのだが、運命づけられたものはないということはないからだ。また、<運命づけられたものはあるのだが、>運はないということもない。また、運はあるのだが、天分はないということもない。また、天分はあるのだが、法はないということもない。また、法はあるのだが、なすべきことを命令しなすべきでないことを禁止する正しい理はないということもない。さてところが、過誤は禁止され、正当行為は命令されている。だから、そのような運命はあるのだが、過誤や正当行為はないということはない。それどころか、運命があるならば徳と悪徳があり、それらがあるならば、立派なことと醜いことがあるのである。ところで、立派なこととは推奨されるべきことであり、醜いこととは避けられるべきことである。だから、そのような運命はあるのだが、推奨されるべきことと避けられるべきことはないということはない。さて、推奨されるべき事柄とは称賛に値する事柄であ、避けられるべき事柄とは非難に値する事柄である。だから、そのような運命はあるのだが、称賛と非難はないということはない。さて、称賛とは年長者の意見であり、非難とは矯正である。だから、そのような運命はあるのだが、年長者の意見や矯正はないということはない。*もしこれらの事柄が探求されなかったとしても、運命に従って生じる限りは、正当行為と過誤も、称賛や非難や年長者の意見や推奨や忌避もあり続けるのである。 *アルニムに従うとこうなる。ロング+セドリーでは「もしこのようだとすると、今語られた全てのもの、つまり正当行為や…、は運命に従って生じる限りあり続けることになる」。 Alex.Aphrod,De Fato 36.207.29=SVF.2.1003(運命 衝動)  もし我々が何かをより善くあるいはより悪く語る能力を持っているとすれば、我々のうちの誰がその論点の集約に驚かないだろうか。[ストア派の人々は]同意された明白な事柄から直ちに論点を集約するのである。あるいは、果たして彼等は推論を巡るたゆみない努力から何も利益を得なかったのか。というのも彼等は次のような人々なのだから。つまり、彼等は運命に即して生じたものならびに生じるであろうもの全てを用いると認めている。それは運命の下に生じるものの妨げられぬ実現に向けてのことであり、そうしたものの各々が生じ、本来のあり方をするようにしているのだ。つまり、運命は石を石として、植物を植物として、動物を動物として、ある場合には衝動をもつ動物として用いるのだ。また彼等は、運命が動物を衝動をもつ動物として用いることもあると仮定し、それらから運命の下に生まれたものは動物の衝動に即して生まれたのだと仮定しているのだが(これらのこともまたその時必然的にこうしたものを取り囲んでいる原因、それが何であれ、に従っているというのだ)、その点において、全てのものが運命に即して生ずるところでは動物たちは衝動に即して本性を実現させるということを観察すること通じて、何かが我々の権内にあると見て取れると思っているのだ。その上で彼等は別の議論、とりわけ前述したもの、をも追求している。思うに彼等はその議論を真実のものとは思っていない。言葉の長さや量、論点の不明瞭な集約が聞き手を過たせると彼等[自身]考えているくらいなのだから。 Alex. Aphrod., De Fato 36(210.3)=SVF.2.1004   Alex.Aphrod.,De Fato 37.211.13=SVF.3.247(神と人の徳)  というのは、同じ徳が人々にも神々にもあるということが可能だから。なぜならば、さもなければ、本性上これほどまでに互いにかけ離れた者たちについて同じ完成、つまり徳を語ることは真実ではないし、こうした者たちについて彼等のもとで語られた言説がそれ自身のうちに何か理にかなう点をもつこともないから。 ↓ Alex.Aphrod.,De Fato 37.211.17=SVF.3.283(思慮)  さて、思慮は人にそなわる徳であって、それは彼等が言うところによるとなすべきこととなすべきでないことに関する知識である。 Alex.Aphrod.,De Mixtione 216.14=SVF.2.473=LS.48C(混合)  混合のうちで、2つあるいは多くの物体が、相互に全体が全体に浸透し、それらの物体の各々がこのような混合において固有な実体性とそれにおける性質とを保持するようなものだけが、結合である。(岩崎允胤訳) Alex.Aphr.,Mix. 224.32=SVF.2.310(?)  こうしたものの原因を与えたものがあるというのも理に適ったことであろう、そこに理が生じるものならば。そして、万物の原因には2つものがあるという人々が−つまり、その2つとは質量と神的なものであり、このうち後者は能動的なもの、前者は受動的なものである−言うことが、質量に神的なものが混合され、全ての前者を通じてそのような仕方で後者は充満し、形態を与え、形作り、秩序を与えるということであるのもそうである。というのは彼等の言う通り、もし神が物体、叡知的で永遠な気息であって、他方質量も物体であるならば、逆にまず初めに物体に浸透する物体があり、その後にこの気息があることになるだろうが、この気息は彼等が元素とも言う4つの端的な物体の何かであるか、あるいは、彼等自身もどこかで言っているように、こうしたものから合成されたものであるか(というのも、空気や火の本性をもつものが気息であるというのが彼等の前提だから)、あるいは何か他のものがありうるなら、彼等にとって神的な物体は第5の何らかの本性であるだろう。しかし、この第5の本性という説は、何ら論証や説得力もなく語られており、そんなことを言うのは、固有の論証を備えてこういう論を立てるに対抗して「そんな物言いは非常識だ(逆説的だ)」と反論する人々なのである。 Alex.Aphrod.,Quaest.1.4.2=SVF.2.962(運命・必然と強制)  全ては運命に従って生ずると言う人々によると可能なものは必然的なものだけだということになる。必然的なものというのを強制によるものという意味ではなくて、その反対が不可能なものと理解しての話だが。しかし実際、全ては運命に従って生ずると言う人々に従うと、必然性から生ずるものは*必然的に生ずるものに他ならず**、必然性から生ずるものは強制によって生ずるものではないが***(それは彼等が言う通りだが)、しかし必然的に生ずるものは****原因の連鎖に従って生ずるもののことなのである。さてこのことから分るように、全てが運命によって生ずると言う人々によると、何一つ強制されて生ずるということは不可能になる。つまりもし、運命に従って生ずるものは原因の連鎖と何らかの神的な秩序に従って生ずるのであり、そのような秩序に従って生じるものの何ものも強制によって生じたのではないとするならば、運命に従って生じたものの何ものも強制によって生じたのではないことになろう。…なぜなら、強制力なしに原因に従うようなものを何であれ運命が引き起こすなどと言うことは神的な秩序には全く疎遠なことだと思われようから。さて、全てが運命に従って生ずるとしたら、何かL強制によって生ずるということは葬り去られる。というのも、既に述べたように、このことも運命付けられた秩序に従うものでありえようから。 *アルニムに従いoute gignomenouを削除。 **シャープルズに従いoukを削らない。 ***シャープルズに従いmenを読む。 ****シャープルズに従いanagkaios toを読む。 Alex.Aphrod.,Quaest.1.14=SVF.3.32(立派なものだけが善 人と神)  神々からは何一つ善きものが人間たちには生じないということに、上述の人々に従うならば、なるということはここから明らかである。  立派なものは我々の権内にある。我々の権内にあるものは我々自身を通じて得られる。我々自身を通じて得られるものは何か他のものによってもたらされるわけではない。故に、立派なものは何か他のものによって我々にもたらされるわけではない。もし何ものにもよらないとしたら、神々にもよらない。さてところで、立派なものだけが善だとする人々によれば、善いものと立派なものは同じものである。故に、善いものは何一つとして人間の下には神々からはもたらされないのだ。 Alex.Aphr.,Quaest.2.16=SVF.3.19(目的達成術)  目標を射当てる術の目的は自らの下にあるもの全てを目の前にある目的に当てるためになすことであると誰かが言うとすれば、これらの術もまた固有の目的を射当てる術ではない術と同様にして射当てないということがどうしてあろうか。しかし、この点、つまり同様な仕方で目的を達成しないということによって射当てる術は他の術から最大限に異なっていると彼等は考えている。というのはまず、この術にとっての目的とは目の前にあるものを達成することであるとする人々によれば、両者はこの点で異なっているであろうからである。しかしまた他方、上述のことがこの技術にとっての目的だとする人々によれば、目的を同様に達成したとしても、それらと同様の目的を持っていないという点でそれらから異なっていることになろうから。  というのは、そのために術が生じたものは術に従って生ずるものに伴い、術の前におかれたものを達成しそこなうことは術に従ってなされなかった事柄に関わる過誤に従って生ずるということからして、ああした[射当てる術以外の]術は目の前にある目的を達成することを目的としているのである。(なぜなら、ああした術においては、自らの下にあるもの全てを目の前におかれたものを達成するためになすこととそれを達成することは等しいから。つまり、自らの下にあること[全て]をなす場合にそうしたものが生ずるのである)しかし、射当てる術においては、そのために術があるものは術に従ってなされたことに必ずしも伴わないが、それは術だけによらない多くのものをさらにあのものを達成することに加えて必要とするからなのである。さらに、全ての場合に同様に適応されることもできないから、術に従って生ずることそのものも規定されないし、同じものを作り出せるわけでもないのであり、その術においては全部かあるいは何らかの範囲で予期したのと違ったことになるのであるからして、目の前にあることを達成することが目的なのではなくて術に属することを完遂することがそれだということになる。 Alex,Aphrod.,Quaest. ..118.23=SVF.3.165  「もし善く泳ぐことが善く、悪く泳ぐことが悪いのなら、ただ泳ぐことは善くも悪くもない。すると、善く生きることが善く、悪く生きることが悪いのであれば、ただ生きることは善くも悪くもない」…それとも、反対の事柄の能力は善悪無記で中間的だというのは真実ではないのか。 Alex. Aphrod.,Quaest. 4.1.119.23=SVF.3.165  というのは、どうして齟齬しないことがあろうか、一方では我々は自然本性によってこのものに親近になり自分自身を守るために全てのことをなすと言い、もう一方では善そのものに対して本性上我々は親近になると言わないということが。 Alex.Aphrod.,Quaest.4.3.121.14=SVF.3.537(「中間者」としての子供 向上)  正義と不正、総じて徳と悪徳に何か中間の性向があり、それを我々は中間の性向と呼んでいるということ。もし、正義と不正が彼らの言うような性状であり、性状は失われ得ないのであれば、人が不正な者から義しい者になることはあり得ず、逆も不可能である。…(24)しかしもし彼等の言うことが、悪徳は性状でもなく失われ得ないものでもなく、むしろ人が不正から正義へと、総じて悪徳から徳へと変化することを妨げるものがないということなら、ならば一体全体人々が悪徳に成り下がるのはどこからなのか。  (32)しかしもし彼等の言うことが、子供はまだ理性的ではない、なぜなら義しい者でも不正な者でもなく(というのも、こうした性向は理性的な者に備わるのだから、こうしたものと中間のそれが理性的なもののものだとしたら。子供は非理性的で、徳の内にも悪徳の内にも両者の中間にもないとすれば、理性をもたないものの何か他のものがそうであるように)、理性的なものになった途端に劣悪な者である(「なる」のではない)ということだとしたら、こうした論述は首尾一貫したであろう。… 『アリストテレス『トピカ』注解』 Alex. Aphr., Top. 1.8.Wal=SVF.2.124=FDS.57  「弁証法」という名称を全ての哲学者たちが同じ意味で使ってはいないということを我々が予見していたのは結構なことである。ところで、ストア派の人々は弁証術を、善く語ることに関する知識と定義し、また善く語ることは、真実のことやふさわしいことを語ることにあると考え、これは哲学固有のことであるとみなして、この弁証術という名を最も完成された哲学に則らせるのである。それだから、彼等によると、賢者だけが弁証家なのである。しかしプラトンは…他方アリストテレスとその学派は… Alex. Aphr., Top. 3.8 = FDS.58  というのももし、弁証法(問答法)という言葉が問答することに発するのであり、問答することは質疑にあるとすれば… (5.7)両者が互いに異なるのはこういう点による。弁証術はあらゆる素材に関して用いられることが可能ではあるが、論を詳細を尽くしたものにはせず、質疑におけるもの(というのもこの学の名前も定義をこのことから得ているのだから)にし、叙述を非常に全体的で一般的なものとするのである。他方弁論術は… Alex., In Top. p.24 Ald.42.27 = SVF.2.228; 3 Antipater 24 = LS.32E  さて、定義とは分析に基づいて十分よく表現された言論である、と言う人々は(彼等は「分析」ということで、定義される対象が説明され、それが要点をうまくとらえていることを意味し、「丁度よく」ということで、過不足がないということを意味している)、定義は固有の性質を提示することに他ならないと言っていることになる。 Alex., In Top. 8.16 Wal. = SVF 3 Antipater 26  彼等というのはつまり、アンティパトロスの下で「前提が一つしかない推論」を語っている人々で、すなわち、推論をしているとは言えず、例えば「昼である、したがって光がある」だの「君は息をしている、したがって君は生きている」だのと至らない問題を立てている人々のことである。 Alex.Aphr.,Top. 1. p.43 Ald 79.5 Wal=SVF.3.147(健康の価値)  また、健康は善いものであるかそうでないかである、とクリュシッポスは言っている。 Alex.Aphr.,Top.46 Ald. 84.14 Wal.=SVF.3.711  というのは、あるものにはよく知られた平易な論証が親しく、ちょっとした注意で理解されるからである。…そういったものは適宜行為に関する問題においてストア派の人々が探求した事柄であって、例えば、父親や誰かと食事をしている者は、そっちの方がたくさんあるからといって、遠くの皿に手を伸ばすべきか、それとも目の前にあるもので満足するべきではないのかということ、また、哲学者の話を聴いている時に足を組んでよいかどうかということである。 Alex.Aphr.,Top.2.72 Ald 134.13 Wal=SVF.3.594(賢者の逆説)  賢者だけが富者で、立派で、生まれがよく、弁論家であるという人々のように。というのは、賢者に備わるこうしたものを富だの立派さだの善い生まれだのと言うのはこうした「そんなことは知らない」という人々ではなく、据え置かれた議論を踏み越える人々なのだから。 Alex. Aphr., Top. 2.75 Ald. 139.21 Wal. = SVF.3.722  しかし、いかなる愛情も洗練されたものではないという問題も我々は一般に否定的に解消するだろう。つまり、全ての愛情が劣悪なものではないと言って。その際我々は、愛情を性愛に対する張りつめた欲望であると言うとともに(エピクロスが言うように。そして彼はこれは洗練されたものではありえないと言う)、美しい外見を通じた、友人を作る試みであるとも言うのである(ストア派の人々が言うように)。 Alex.Aphr.,Top.79 Ald 147.12 Wal=SVF.3.595(賢者の逆説)  こうした仕方で、ストア派の人々の言う逆説に手を付けようとするものもいる。つまり、普通の人々富者と言うのは沢山ものを持っている人のことだけなのに、こういう言い方をしないでしかしこの[「富者」という]名前を用いる人がいたとしたら、賢者つまり徳を備え持つ者にそれをあてがい、言葉を使用する際の定義として前提とされたものを踏み越えることになったであろう。  22.再び、普通の人々が幸運な人というのは良運に恵まれた人のことである。他方、あの人々は徳を持つ者を幸運な者と言い、良運に恵まれなくてもそうだというのだ。こうして、またもこの人々は言葉のふさわしい用い方を踏み越えるのである。 Alex.Aphr.,Top.2.96 Ald,181.1 Wal=SVF.3.434  なぜなら、基体と意味においては快楽も歓喜も上機嫌も悦楽も同じものであるから。プロディコスはこうした名前各々に何か固有の意味を設定しようとしたが、それはストア派の人々がしたのと同様である。この人々は、歓喜は理にかなった高揚であるが、快楽は理不尽な高揚であり、悦楽は?を通じた快楽であり、上機嫌は言葉を通じた快楽であると言っている。しかし、こんなことは法律屋のすることであって健全な言論に関わる者のすることではない。 Alex.Aphr.,Top.2.107 201.21Wal=SVF.3.152(富は善ではない)  つまり、こうだとすると、ストア派の人々によって語られたことは立派であると思われるだろう。「悪によって生じたものは善ではない。さて、富は売春業者という悪人によっても生じる。だから、富は善ではない」 Alex.Aphr.,Top.2.107(CAG.II.ii.211.9)=SVF.3.62(選別)  次のようにして、善悪無記でありながら優先されるものと言われるものの各々が善いものであり選択に値すると新参者たちによって論証されているらしい。つまり、こうしたもののうち徳に親しいものはそれぞれが全体としてより選択に値するものと優れた人にもたらす。というのは、もし健康とともにあるなら徳に即した生はより選択に値するものであるし、豊かさ、よい評判とそうである場合もそうだからである。すなわち、選択に値するものや忌避すべきものは優れた人の選択と忌避によって判断されるのである。 Alex.Aphrod.,Top.4.155.19(301.19-25)=SVF.2.329=LS.27B(存在)  ストア派の人々が或ものを存在するものの類としているのはまずい、ということを、君は次のようにして示しうるだろう。もし或ものであるならば、存在であることは明かであり、もし存在であるならば、存在の論を受け入れることができるだろうから。だが、彼等は、存在は物体のみに関して言われる、と定めていたので、そのアポリアを逃れることができるだろう。この故に、彼等は、物体に関してばかりではなく非物体的なものについても述語されるものとして、或ものが最高類である、と主張している。(岩崎允胤訳) Alex.Aphrod.,Top.4.180(359.12-16)=SVF.2.329=LS.30D  「何か」が全てのものにとっての類ではないことは次のように証明されるだろう。つまり、「一」という類もあり、このものはそれ自身に同じであるかより大きいかどちらかであろう。少なくとも、「一」は概念にも関わるが、他方「何か」は物体と非物体にのみ関わり、また他方概念はこの両者のどちらにおいても言及されない、というのであれば。 Alex. Aphrod., In Ar. Top. 4. 181 Ald. 360.9 Wal = SVF. 2.379  性質とはある状態にある気息あるいはある状態にある質量であるという説は退けられうる。…また実際、拳はある状態にある手であるという人も間違っている。なぜなら、拳が手であるわけではなく、拳は基体としての手のうちにあるわけではないからである。