アフロディシアのアレクサンドロス『配剤論』  (1.1)慈愛遍く慈悲深いアッラーの御名において。アッラーの御加護を。アッラーの他に神なし。  アフロディシアのアレクサンドロスの論考。デモクリトス・エピクロスの見解、また配剤に関する他の哲学者の議論一般が詳解され論じられる。アブー=ビシュル=マッター=イブン=ユーヌス=アル=クンナーイの、シリア語のアラビア語訳。  (1.5)彼は言う。配剤の問題について哲学をした人々には、他の人々にその問題について何か理論のようなもの、あるいはその一部を説いた人々もいた。彼等の主張では、もし配剤が何らかの理、あるいは理に関する神的な考慮であるならば、そして世界で自然偶発する物事が[現に]偶発しているなら、偶発する物事の何ものも配剤によって偶発しているのではありえない。つまり彼等の主張は、「配剤」という語は空疎なのであり、つまりその下には何の概念もないのである。(1.10)つまり、偶発する物事の何ものもその偶発を神の思慮や考慮からもたらすのではないのである。すなわち、力強く偉大な神は、彼等の主張では、こうした流れを流れるあらゆる段階の外にあるのであり、こうした事柄の何においても困難を交えることなく多忙でもないし、ましてやこうした事柄においてそういうふうにして不幸になることもない。また彼等はこうも主張する。自然によって作られ存在する物事の全体は自己偶発的に存在するのであり、個々の物事に降り掛かる偶然の一致によってそうなるのである。  彼等はこう主張する。不可分の第一の物体(=原子)(このものを、この教説に従う人々は在るもの全ての原理としているのである)が被る事態の状態は、こうした原子自身の必然性が動かす非円形連続運動の内にあるように思われ、またその運動は全世界の内にある果てしない空虚の中を動いているように思われる。(1.20)それで、個々の原子に関する限り、あるものは互いに組み合わされ、あるものは繋ぎ合わされるが、それも空虚の中で起こる運動に従ってのことであり、原子の形態と組み合わせに即してのことである。そしてこうして、あらゆる複合的な原子が生み出され生じるのである。しかし他方、ある原子はこのようなことにはならず、つまり、互いにこの種の統合や構成に至ることはないのである。というのも、それらは強制力を伴った、周回するかのような運動を、それに見合ったものともつ時には、互いに押し合うことによって互いに衝突し反発し合うからである。こうして、物体の接触と混合は起こるのだが、それは相互の邂逅と共に起こり、それらにそれらの持分を歩ませる。  また、彼等はこうも主張する。在るものの差異は不可分な物体の形態の差異に由来するのであり、そうした物体が互いに混合されているのである。つまり、形態上の差異は無限にあるし、またそれらの位置や秩序の段階や状態、相互にどのような位置にあるかということに応じても差異がある。というのも、原子から作られたものは本質上一つではないからである。秩序に従ったそれらの配列と位置は、最初に保たれていたそれと同じではない以上。  この学派の人々としては、古い方からすると、レウキッポスとデモクリトスがいたし、彼等の後に続いた人としてはエピクロスがいる。また、彼の見解に従って哲学をした人々もこの学説を主張した。  しかし別の人々は、哲学に関して意見と見解を異にし、配剤に関する(3.20)問題に対する意見も、あの人々の意見や見解とはあらゆる観点と側面において全く異なっていたのである。  (5.1)つまり、この人々の主張では、存在する万有の何ものも配剤なしに己の存在を生じさせることはなく、全てのものが神で満たされており、神は存在する事物全体に浸透している。それゆえ、存在する全てのものが己の存在へといたるのは、神の意志によるのであり、神々は(5.5)事物の守護者であり、あらゆる個々の事物の管理者なのである。  恐らく、明白な事実がこの見解の真理を証言するだろう。つまり、本性上秩序正しく、また永遠に変わることのないものに従う物事、それに備わる必然性が、これらの事物が偶然によって在るという言説に対する反証になる。というのは、存在する何ものも、遇運や偶然(5.10)によって生じたのであれば、限定されたものではないし、それどころかそういう物事の存在は稀であり、さらにそういう物事の有り様はある時はこう別の時はまた別と相矛盾しており、また状況が異なればそれに合わせて色々に変わるからである。また、先行する物事から、未来の事実に関する予見や知識が得られるということは(それらのあるものは啓示によって、あるものは夢によって、あるものは卜占によって得られるのだが)、神々がこの世の(5.15)事物を配慮しているということの、また、そうした事物における配剤というのは神々の行いであるということの明らかな証左である。  次の類比もこうした事柄に符合するだろう。つまり、知性と知能を備えたものにおいては何一つとして、その指導的部分の配剤の埒外で生じることはなく、それらの配剤は、それらに相応しい事柄の全体と、その秩序を包摂していて、人々が恥辱と愚鈍の持ち主とは異なる点はここにあるのである。そしてこれと同様に、必然的に神々は、(5.20)それゆえに知性の頂点になければならないし、また世界と世界の個々のあらゆる段階を補佐する管理者でなければならない。  というのも、世界のうちにある物事の配剤が神々によるのでなければ(それは、神々がそれらに力を及ぼすことができず、無力であるからでも、あるいは(7.1)力を及ぼせるのだが、この世にあるものに対しては何の感情ももたず、世界のうちにある物事の配剤には他人事になっているからでも、どちらでもいいのだが)、その時には神々はこれらの物事に配剤なしに浸透していることになる。  そして実に、事物に関する個の種の主張は神々には相応しくない。(7.5)というのも、神々がこの世界の物事の配剤に対して無力だという主張は、神々には全く相応しくない主張だからである。なぜなら、この主張は力強く偉大な神を人間よりも弱いものにしているからである。人間についてさえ、彼等の家事の配剤は困難でも不可能でもないのに、その程度のことが神々には不可能だ、ということである以上。  (7.10)また、神々はこの世界の物事の配剤に何の親近感ももっていないという主張も神々には全く異質なものである。というのも、これは嫉妬深い者のすることであり、その本性から言って愚劣の極みであって、多忙にかまけた怠慢、つまりより多くのすばらしいことをできるにもかかわらずしないということだからである。  つまり、この二つの性質のいずれもが神々には明らかに異質なものであるし、(7.15)両方とも、力強く偉大な神の性質ではないのである。すると、神の内にこれらの両方があるということは全く不可能であるし、それらの一つ一つが単独で神の内にあるということもまた不可能である。となれば残る可能性はしたがって、力強く偉大な神はこの世の事物の配剤に対して力をもっているのであり、またそれらに親近感をもっているということである。そして、もし神がそれらに親しみをもち、力をふるえるのであれば、明らかに、神は自らの配剤をそれらの事物に向けるのであり、(7.20)したがって神の知恵と意志を欠くものは何もないのである、どんなに下賤で瑣末な物事であろうと。  プラトンがこの見解を採っていたという人々もいる。また実際、この問題に関しては(9.1)明らかに、この教説に与する人々には、キティオンのゼノンとストア派の人々も含まれる。また、配剤に関するこうした一連の見解は要するにアリストテレスの見解とは異なっているし、それらそのものも相互に異なっている。これら二つの派閥のどちらもみなそれぞれ特有の確証を求めているのだが、(9.5)相手の見解の否定をせねばならない必要に駆られてそうしているのに他ならないし、個々の全ての見解にある錯誤と過ちを突くためである。というのも、いと高き神がこの世の事物を配剤しており、それらの監督者である、という主張は理にかなった納得の行く主張であるからである。なぜなら、おぞましくも醜いことだからである、位階をなすこうした秩序全体や秩序の(9.10)美しさが偶然や自己偶発、あるいは魂のない物体の強制的な運動に帰されるとしたら。  というのも、全くもっておぞましくも醜いことである、世界の存在する理由や、その中にあるものが位階をなして秩序付けられていることの理由が偶然や自己偶発に帰されるのであれば。実に、あのもの(世界)の原因は誉れ高き神以外には何もない。つまり、(9.15)あのものが偶然によるのでないならば、その内にある個々全ての物事もまた思慮と叡智によるのであるし、規定され差別化された存在によるのである。こうして、配剤の流れが以上のようであることと、また、こうした事物が偶然によるものだという説の論駁は、配剤を裏付けることにもなる。というのも、配剤に対してつべこべいう連中はこうした物事の原因を偶然だとしてしまうのであるから。  (9.20)また、配剤はこの世の物事一つ一つには及ばないという見解も、ある人々は抱いている。というのも、(11.1)個々個別の物事において生ずることの多くは神的な統御には相応しくないし、神のお導きには値しないからだというのだ。しかし、こうした物事に関して言えば、配剤は物事全体に個別の仕方で及ぶと言われる時、明らかな秩序のすばらしさを否定する可能性があるのであり、つまりそれは、物事の内にある明白な道筋を通じてこうした個別の事物の内に何かがそなわる以前は配剤なしでも物事は運行していたということなのである。つまり、こうした個々の事柄に降り掛かること、神から来るものだと言われる値打もなく進行する事柄でもよいし、偶然によって進行する事柄においては悪人も繁栄するということでもよいし、そうした事柄において善人が逆境に見舞われるということでもよいが、それは、配剤がこうした物事を命じて進行させていると考える人に対する十分な反証となる、ということである。  (106,12)しかしながら、実際この見解も、力強くも偉大な神に愚劣なものを帰する教説に耳を貸す精神へと導くものなのである。つまり、神が実在するものだとすると、その意志は我々を配剤することなのであるし、その目的も、我々が個々全てのものに割り当てるよいこと悪いことを価値的に平等な分割となるように分割することであるはずである。つまり、そのようなことをいう人々がこだわるような風に、価値を考慮してということであるが。しかし、彼等の主張では、我々が見たところ、物事はそのように動いてもいないしそのようにあるわけでもない。それどころか、我々が目の当たりにしその証人となっていることは、悪い人々が善いことにあたる傾向があり、それに留まっていて、我々も彼等を善い人々だと思っているが、善い人々はこれと反対の状態にある、ということである。つまり、彼等の実際の有り様は、生き方や生活を整える際の(11,20)義しさにふさわしい事柄とは似ても似つかないのである。こうして彼等は、神など全く全然存在しないのだと言うことになるのである。しかしながら、こんな言説を語り、このような(13,1)虚偽と妄言に傾いた精神をもつ人間を支持するなどということは、明々白々なことに反対することを、その逆のものにそうするよりも、愛する人の言うことである。  (108.1)また、この世の物事全ては利益と正義のために進行している(なぜなら、その部分全ては全体を助けるように生じるのであるから)(13.5)という見解も、真理を追求する者の見解ではなく、悪で悪を治療し、そうしていつまでも治療を続ける者の見解である。  (108.5)だからどうしても我々は神の配剤の有り様を理をもって探究せねばならない。この世の物事のうちにある目に見える明らかな事柄にああして反しないようにしながら。そういったことに関する我々の見解に(13.10)反する事柄を証言する人間がいるとしても。配剤のためとはいえ、全く説得力のない事柄に傾倒することは我々はないが、しかし、そうした説を考え出した者がああした見解にしつらえたものを凌駕するのはよいことであるし、このことはそうした議論の基礎において、それを、現にあることと配剤との整合を生み出す事柄にあわせるのである。  (108.12)こういうことでもある。力強くも偉大な神が個別の一つ一つの事柄(13.15)全体を見守っており、それを探究するのは配剤のためになるし、個別の事柄を配剤によって配剤することは欠けることなく連続している、などと主張する人々は愚劣な主張を余儀無くされる。つまり、自分自身に矛盾することになり、あらかじめ知られている周知の事柄にも反することになるのである。  (108.16)つまり、そう認める人々は総じて、その限りでは次のようなことを認めることにもなるのだ。すなわち、必然的に存在するものは、(13.20)いかなる時も存在しないということが不可能なものであり、方や、必然的に無いものは、いかなる時も、存在することが可能では全くありえないものである、と。このことに関して明らかなことは、本性を(15.1)保持しているものは何であれ間違いなくこういうことになるということである。つまり、正方形と対角線は共約的ではありえないし、二が一よりも小さいということもありえないし、三が四に等しいということもありえないし、色が聞けるということもありえないし、音が見えるということもないし、神が存在しないということはありえないし、死にうるということもありえないし、(15,5)ほかにも多くのことがあって数えられないくらいである。  (110.2)さて、力強くも偉大な神の配剤がこのように進行するという説を立てる人々はこの議論に対しては全く手も足も出ない。というのは、配剤に関して、本性上不可能であることが可能であると判断することになるのだから。しかしながら、神々は可能な事柄を好むという主張の方が、神々にとっては不可能は可能であるという主張よりもはるかに(15.10)当然である。なぜなら、第一の見解によると全てが可能になるからである。神の意志に属するものなのだから。そして、神の意志に属すものはその内にありその内に生じることが可能なものであり、隅から隅まで神の意志なしではありえないのである。神は、事物全体に亘って、可能なことと不可能なことの本性を知っているのだから。  (110.11)また、(15.15)不可能な事柄の大部分について反省し考慮することも[不可能なことである]。不可能な事柄に属する事柄の大部分は創造すらままならないのであるから。  (110.14)沢山の物事をその都度個別の場合場合に精査することは個々人には不可能である。個々あらゆる物事に関する情報を言葉で、同一の方法で、描写しようとするのであれば。そしてそれと同様に、一人の(15.20)人間が沢山の物事に同時に考慮を払うことも不可能である。とりわけ、関心を払う物事に類似性がない場合には。つまり、考慮や関心・認識は一種の言葉であって、魂それ自体により、実際に音を出すことがなくとも声になっているのである。  (110.21)(17.1)そのように、多くの事柄に考慮を払うことが不可能であるならば、神の配剤が個々の物事のあらゆるもの全てにあるということも不可能である。もしそうだとすれば、必然的にそうならざるを得ないのだが、こうした物事の配剤という事態が以上のような進路を進む場合、そういったことに対する考慮を放棄せざるをえないし、全体を吟味考慮することもそうせねばならない。また、そういった事柄に対する考慮をまったくこれやあれやと再現なく動かさねばならないし、無限に異なる物事を考慮せねばならないのである。  (112.2)そしてこんなことは不可能である。実際、多くの物事を同時に知ることは不可能ではない。もっとも、人が、音楽の知識を修めていながら、幾何学の問題にも通じているということは、困難なことではない。しかしながら、多くの物事一つ一つに(17.10)考慮を払い、それらの一つ一つ全てを考慮するまで考慮を行き渡らせ、考慮をそれらあらゆる個別の事柄に動かすのは不可能である。ところが、先に述べられた見解、つまり神は物事のあらゆる個別の部分を同時に考慮せねばならないというもの、が必然的に示唆することは、神は物事のあらゆるものを個別にしかも同時に取り扱わなければならなくもなるということなのである。  (112.10)(17.15)他方、こう言う者がいるとしよう。つまり、この世のものに対する配剤は同時に働くのではなく、それらの一つ一つに次々と働いていくと言う者がいるとしよう。しかし、これは問題事項の原則に従っていない。というのも実際、既に述べたことであるが、何ものも存在するためには、あるいは時宜を得るためには、配剤に貫かればならないのである。  実際、偶運から、存在する(17.20)個々の事物全てに生じるもの、また、[神の]叡智がこういうことに従事し一つ一つの物事に関わるなどというのはとんでもないことであることは、こうした配剤の実例の埒外にあるのだ。また他方、中断や間隙が介入の際に生ずるのも、配剤がこのような行程をとって(19.1)動くというのも、醜悪な事柄に属する。  (112.20)また、配剤は一つ以上の物事に関わるといったところで、この難問の解消にはならない。つまり、人が配剤を強制して個々の事物全てに関わらせねばならず、配剤につながり、それに加えられる物事全てをそうせねばならなくなるのである。しかしながらこのことは邪な害悪につながる。つまり、この言説はあらゆる観点において醜悪である。なぜなら、物事の諸部分、つまり個々の物事は時間によって状態が異なるし、ある時には数的により多く、別の時にはより少ないからである。これでは神々は我々に仕えるために(19.10)おられるようなものではないか。  (114.4)つまり、物書きがこう想定したとしよう。すなわち、物事全体を同時に配慮し考慮すること、また、全ての物事を上述のように配剤することは神々にとっては可能なことであるが、しかしながら、このような振る舞いは神々にはいかなる点でもふさわしくない。なぜなら、このような振る舞いは神々に永遠の(19.15)労苦を負わせることになるし、そんなことはあらゆる麗しい行い全体に鑑みておぞましいことであるから。  (114.9)また、したがって、このような振る舞いはまた、行いのきちんとした人、きちんと生活している人にもふさわしくない。また、正しく麗しい見識を備えた人であれば、このような振る舞いの生き方をすることを選ぶことはないのだ。そういう事態に強制力によって強制されない限りは。つまり、(19.20)経験を積んで実際に体験する前に、そのような生活様式を選んでしまった人がいたとしても、その中に立ってそのような生活を進めると、それから逃れさえし、離れるのである。破滅をもたらす物事全体をどうしても避けて離れないわけにはいかないというわけである。  (21.1)(114.17)しかしながら、このような振る舞いが神々に適しておらずふさわしくない理由としては、神々に多忙や厄介が帰されるということもあることはあるが、それに加えてさらに、そのような配剤が関わる物事を把握し考察し理解することからも得られるのである。というのも、個々個別の物事の大部分は、あらゆる点で、神の叡智には異質なものであり(21.5)程遠いのであるから。  (114.22)つまり、神々が自然物と異なるように、必然的なことであるが、神によって制御される事柄、神にふさわしく、特に神の監視下にある物事は、我々が描き詳論するその思想と相容れない。だとすれば、一体どうしたならば、こうした進行を進行する配剤やこの種の(21.10)物事を考慮することが神にとってその卓越性の妨げとならず、本来的に神に属する物事の実行の妨げとならないのだろうか。実際、(116)こう言う者があったとしよう。つまり、神のなす事柄において、この世の事柄の配慮以上のものはなく、この配慮はこういう行程を辿るのだ、と言う者があったとしよう。だとしたら、その者は未熟者であり、神が彼自身を愛して下さる理由を見失っているのだ。なぜなら、このような発言はとりもなおさず、(21.15)神が可死の物事の故にあると言うことになるのだから。このような物事の配剤こそ神の目標であり目的であるのだからと理由をつけて。  (116.7)しかしながら、別のものの故にあるものは全てそのものよりも劣っているのである。それ故、力強くも偉大な神も、この教説を説く人々の見解に従えば、第二の地位に甘んじ、神が配剤する物事よりも劣ることになるのである。  (116.10)確かに、放牧農民は(21.20)それが見守り配慮するものよりも低い。前者の完成や目的はひとえにそれらの物事、つまりそれらが増えることによっているのであるから。しかし、王は、彼が王である所の物事を配剤するにあたって、このような行程をとることはない。つまり、彼自身が残余の事柄全て一つ一つを監督するということはないが、(23.1)彼が掌握している物事の何一つとして彼の支配を逃れ得ず、彼の視界から離れられないのである。しかも、彼の生涯全体はそれら個々の物事に従事することでもあるのだ。(それだからこそ、こう考えると、「運は王の上」なのである)しかしながら、王の配剤は全体的かつ普遍的なのであり、こうした配剤に向けられた彼のまなざしは好意に満ちているのである。また、彼の行いは(23.5)高尚で非常に偉大であるが、それは彼の関心や配慮がこのような行程をとるからである。  (116.21)しかしながら、是非とも知りたいものだが、神は人間にだけはこういう配剤を向けるのだが、その他の動植物や、その他の存在にはそうしないのであろうか、それとも、神の洞察や配慮はこうした物事一つ一つ(23.10)全てに、しかも個々別々に、及ぶのであろうか。というのも、配剤が事実人間だけに向けられているのだとすれば、一体どういう理由で、神はその他の物事の平安と秩序に無関心なのであろうか。つまり、こちらの方がもっとありそうなことであるが、このような物事が必然的に秩序に向かっているということもありうることであるし、(118)また、こうした物事がどうしても分割されており、状態によって価値がつけられ、そこに公平が成り立つのは、(23.15)必然的ですらあるのだ。  (118.4)さて、配剤がこのような物事に及ばないのは、一体全体、神がそうすることができずまたそのつもりもないからであるのか、それとも、そうすることはできるが意志がないだけであるのか、それとも、その意志はあるのだが能力がないからなのであるのか。しかしながら、このような諸々の想定はおぞましいことである。したがって、明らかに、神はこのようなことに意志も能力も両方あるのである。そして、このような物事に対する配剤は人間に対するそれと同様なのである。(23.20)我々が先になした論議が妥当性を持ち説得的であるとすれば、そういうことになる。  (118.10)つまり、誉れ高き神は、瑣末な物事を配剤することまで(25.1)できる能力全体の源なのである。  (118.11)しかしながら、身の毛もよだつほど醜悪なことであるが、力強くも偉大な神が、存在するもの一つ一つ全てを親しく監督しているなどと想定する輩がいる。また、そういう物事と共に在り生成するものであれば全てそうだ、などというのである。つまり、理解力が十分ある人であれば、こんな言説を表明しはしない。人間の場合にしてすら、家の中にあるもの全体に(25.5)配剤を及ぼすことはできないのだ。鼠だの蟻だの、その他自分の家の中にあるその他あらゆるもの個々全てにまでどうやってできるものか。しかしながら、こう言う者もいる。上位にある人間が、自分の家の中にあるもの全体を整えていて、それら個々全てに対して正しい場を与え、価値に応じて全体に対する関係も調整するのである。しかし、こんなことは彼の行為の中でも麗しいものではないし、彼にふさわしいものでもない。むしろ、人が関わるのは、専ら、(25.10)家の中にあるより優れたものであり、より上位にあるものである。ただ、このような営みも、類似の配慮も、人間の本分には合致しないものであり、異質なものである。このような見解である。事実、このような事柄は知恵を備えた人間にふさわしいものではない。*このような知性を備えた人間にはふさわしくなく、異質なものである。*ここからしてより一層必然的なことであるが、力強くも偉大な神は志向の地位におられ、自らの考慮を人間に(25.15)向けると言えるし、我々と同等ではないものの、鼠や蟻にもそうすると言える。つまり、配剤は人にも及ぶし、この世の他の物事にも及ぶのであり、(120.1)その仕方は上述の通りである。 *…*同じ意味の句が繰り返されているが、そのまま訳しておいた。  (120.2)さて実際、この種の振る舞いは奴隷のそれであって、こんな言説は愚の骨頂である。  (120.3)神についてこのような言説を表明する者は、さらに悪の原因は神であるとも言い、そう公言している。配剤がこのように運行するという(25.20)言説を表明するのは、明らかに、愚劣であり、全く思慮のないことである。というのも、人はこれを悪人の場合に移して、尋ねてこう言うであろうから。一体どちらか知りたいものだ。(27.1)神々は、こうした人々が善人であるようにすることができず、そのつもりもなかったのか。それとも、そうすることはできたが、そうしようとは思わなかったのか。それとも、そうしようとは思ったが、できなかったのか。どちらなのか、と。  (120.11)つまり、この言説に従うと、人は誰一人として悪人ではないということになる。(27.5)神々は、人間を全員よいものとする能力も意志もあるのだから。そのわけは、神が、その意志がないというのは無論のこと、そうする能力がないという言説は、相応しくない事柄に神を結び付けるからである、というわけである。  (120.16)しかし、もっとも醜悪な言説とは、力強くも偉大な神は物事全体全てに(27.10)浸透貫通している、というものである。神はそれらの創造主であるからそれが当然だというのだ。そして、神の配剤もこのようにして万物にもたらされているというのだ。つまり、このような言説を弄し信じる者達は、彼等の見解が自己撞着を起こしていることはともかくとして、神を下劣な物事の一部にしており、物体を物体に浸透させるのだが、彼等の言説において、それを明々白々な物事に整合させることが全くできないのである。(27.15)  (120.23)しかしながら実際、王侯は彼等に服する人々には伍さないし、教師は生徒に、監督は彼等が監督するものに伍することはない。総じて、あらゆるこの種の(122.1)考慮者は、個々の物事全体に、個々の物事それぞれに、己の配剤を向けるわけではないのだ。実際はそれに伍しているわけではなく、そうした物事はその助けがあって始めてそのように(28.20)なるのであるから。つまり、必然的に必然なことだが、配剤をなすものは、それによって配剤されるものから決然と分たれているのである。つまり、配剤する側にとって相手方は不可欠ではないが、相手方、つまり配剤者によって配剤されるもの、はまさに配剤者を必要としており、その助けなしにはありえないのである。  (122.8)(29.1)従って、神々についてはこう言わねばならない。神々は物事[一般]を配剤する。つまり、神々から生じたもの全体をそうするのだが、しかしこのことは神々を、神々が利用する物事のうちに伍させるわけではないのだ。  (122.10)また、この種の配剤がこの世の物事に及ぶという言説は非常に醜悪であると言う人がいる。善だけがその配剤のただ唯一の美点だと言う人である。(29.5)事実、神々がこの世の物事にそのような善きものの何であれそれを許すとすれば、神々はこの種の配剤をそれに向けることになるのである。しかしながら、善が我々の権内にあるとしても、それを獲得するために神々を要する必要はどこにも全くないのである。  (122.16)また、神は不変の物事以前に我々を考慮しているのだという言説、つまり、(29.10)神の思慮は我々に生じる物事に従っているという言説は、神そのものや神に関する言説を知らないもの達の言うことである。  (122.19)さらに、この種の配剤は神の実在に基づくという言説にしても決して神の従女ではない。つまり、必然的な言説ではないのだ。というのは、生物というのは何か魂と肉体から合成されたものであり、従って変転は被るが(29.10)滅ぶことはない、という言説も容易に確証することはできないからである。なぜなら、思うに、変転を被らないのであれば、生物は滅びないというべきであるのはその通りだが、何らかの影響を被るものは滅びうるものでもあるからである。  (122.25)さて、かりにこうしたことを認める人がいたとしよう。しかしながら、このような[魂と肉体からなる]生物が存在するのは、それが本性上優れたものを備えており、力強くも偉大な神に近いからではあるが、結局それらは我々のために在るのだ、などという言説は醜悪である。  (122.27)さらに、(29.20)このような運行をする(124.1)この世のものごとに働いているはずの配剤が、(31.1)現にある物事に整合しないということにもなってしまう。事実からしてこれは明らかである。  (124.3)実際、悪疫や、作物に発生する病害、火災、冷害、また、不運が善い人々の下にあり幸運が悪人達の下にあること、さらに、これらに類似の事柄は、この見解が偽りで空しいことを証明するのに十分である。(31.5)事実、まさにこの見解を支持しつつも、以上のようなことは実は悪ではないのだと言い張る人がいたら、その人はこう言わねばならなくなるだろう。つまり、それらの反対の物事も善ではない、と。では、神々の権限が我々にお許しになったこととは何なのか。妨げられるのは何なのか。何を我々に御命じになるのか。神々とその現前が我々を正道に導かれるとしてもそれは一体どこに導かれるのか。また、何を我々に禁じられるのか。神の配剤がこのようにして万物に及ぶなどということは実にありえないことだ。また(31.10)万が一そのようなことがありうるとしても、そのようなことを神に結び付けるのはふさわしいことではない。  (124.13)そして、この種の事柄から明かとなることが人にはある。そしてそれゆえに、人はあらゆるこれらの見解全てから離れねばならないのである。つまり[一つは]、配剤全体をなきものにする見解である。こんな見解はあらゆる観点から見て虚偽だからである。そして[もう一つは]、個々(31.15)個別のことに関わる配剤などというものを作り出し、配剤を細切れに切り刻む見解である。現実と調和しないからである。また、この見解の信奉者達は信念の中で、神にふさわしくないものを神に帰しているからである。そして、配剤という問題においては、神に親近で固有な信念にあくまで固着する必要がある。上述のどちらの見解の一つ一つ全てに虚偽があることを考慮しながら。そしてあたかも、この問題についてアリストテレスが(31.20)語った見解でなければ信頼のおける健全な見解とは認めないとするより他に思想が存在する方法はない、というほどなのである。事実、支持される事柄であるが、彼の見解だけが、神々にふさわしい事柄を保持しており、現象とも合致しているのである。  (124.26)なるほど、アリストテレスはこう言っている。この世の事物が存在し、それが全体として本質的に永続し、保全されるには、神々の配剤が不可欠である。また、(126.1)太陽や月や、彼の見解では太陽のような運行をするその他の星々から流出する力は、(33.5)彼によると、自然に基づく物事が存在し保持されることの原因なのである。事実、彼の考えでは、これらの天体の規則正しい運動や、それらがこの世界から比例に則った距離をとっていることが、こうした事柄の原因であり、このことに関して星々全体で最も重要なのは太陽である。  (126.6)(35.1)さて、こうした事柄が以上に論じてきた通りであり事実だとするならば、この点から次のことが明かとなる。つまり、彼はこう言っているのだ。仮にもし、地球から太陽までの距離が、現にそうであるそれと異なっていたとしたら、またもし、太陽の運動や移動が黄道にないとしたら、あるいはさらにもし、そうした運動があるのがそもそも(35.5)この天球でないとしたら、たとえ恒星球の回転に従う動きをしていたとしても、また、特異な動きをするのが太陽だけだったとしても、家の中に我々が持っているあらゆるもの全体を我々は持てないし、また、動植物が存在する手段となりうるものもそうであるばかりか、端的な物体すらありえないのである。「端的な物体」とは、その保全が、(35.10)相互の秩序だった変化によってその存在を全うするものである。  (126.17)(37.1)また実に、我々から太陽までの距離が今実際にそうあるよりも近かったとしたら、つまり、太陽と我々の距離が今実際にある距離でなかったとしたら、大地に近い場所は過熱されるものだが、太陽が非常に近いところを運動するためにそれが行き過ぎてしまい、そのような場所は暖まり過ぎてしまう。(37.5)また、状況が正反対だとすれば、つまり、太陽と地球の距離が現在あるこの距離よりも大きければ、暖まり方は少なくなる。さてまさに、これらのどれかが現実に生じたとしたら、いかなる種類の動植物も存在は不可能だったのである。  (126.25)衆目のために言えば、以上のことに充分な同意を得るには、人が住めないと言われている地域を挙げればよい。そうすれば、このことに関する問題の二つの条件の(37.10)どちらも得られるのである。  (126.28)(39.1)事実、その場所は動物も植物もいないので、(128.1)こう考えるのが必然である、つまり、同じ理由で大地全体もそのようなことになってもよい。また、次のことの方がよりありそうなことだというべきであるが、こうした出来事が大地全体で同じ理由によって起こってもよかった。というのは、(39.5)これもまたよりありそうなことであるが、大地全体において今ある[気候の]混合の変化を逸脱するものがあったとしても、それもまた完全に寒暖によっているからである。また、こうした理由で生じる出来事は、大地のある部分に今ある物事よりもより多くより優勢だからである。つまり、大地のある部分が「無人地帯(砂漠)」と呼ばれる原因となる混合のことである。ある地域は熱すぎるためにそうなり、また別の地域は(39.10)冷たすぎるためにそうなるのであるが。そして、大地全体が、これらそれぞれの状態が大小にそのように超過しているとすれば、大地あるいはその部分の間にある寒冷の多寡の比率を考えることは不可能であるし、思い描くことすらできない。太陽がさらに上方に上がり、わずかでも遠ざかればそのようなことになるのである。  (128.15)(41.1)ホメロス*の言ったことは実に立派であった。次のような詞である。 *原語「Amirsh」は無論普通「ホメロス」であるが、これをエウリピデス、殊に失われた悲劇作品『フェトン』からの、断片と見る見解もあるらしい。 神よ、太陽が高すぎて、寒気が人間に襲いかからないように。そして、人間が滅びてだめにならないように。 またこのような詩句もある。 神よ、規則正しい軌道を下げないで下さい。そうなると、熱が人間を襲うのです。(41.5)つまり、氷が溶けて人類を滅ぼしてしまうのです。 (130.1)つまり、太陽と大地との間の均整は、地上や地中にある物事が平安である原因なのである。これは人類全てに明らかに明白である。事実、こうした事柄が太陽によって完成され、つまり、太陽の動きが傾斜球(黄道)を通ることによって成り立っているということは、人々に明らかであるし、(41.10)この問題を深く吟味すれば理解もできるのである。  (130.6)(43.1)すなわち、もし太陽がこの天球に沿って運動せず、別の平らな周回に沿って運動していたら、その場合そのために、夏や冬になるということはなく、いかなる季節の変転もないであろうし、むしろ、一年の季節のありかたは、年中同じだということになるのである。なぜならば、全世界のどの人からみても太陽からの距離は(43.5)一年中等しいということになるからである。そして、ある人々にとっては、太陽が年中真上を通っているということになるし(太陽がそういうあり方をするとしたら、そういう状況にある人々には(年中)夏だということになる)、また別の人々にとっては、彼等から太陽までの距離がもっと長いので、(年中)冬だということになる。  (130.15)こうした事柄がこうしたあり方をするからこそ、(43.10)地上の物事が平安であることも可能なのである。このことは万人に明白に明らかである。年々の規則正しい交替が地上の物事の存在と保全に恩恵をもたらしているという事態が明白に明らかである以上そうなのである。  (130.20)(45.1)しかしながら、たとえ、傾斜球の太陽の運動が今あるそれに等しくとも、宇宙全体に調和した運動がさらにそなわるのでなければ、昼夜の連続がうまく行くすべはなかったであろう。そして、動物が休息や平安を得るすべもなく、労苦の果てに落ち着く先もないのである。それどころか、(45.5)居住地の中には一年中熱にさらされる所もあるであろう。あるいは[そこまでいかなくても]、太陽が元の場所に戻ってくるまでの期間(=一年間)、その半分は[ずっと]夜、もう半分は[ずっと]昼ということになりかねない。  (132.1)実に、この世の物事が保たれ存続している原因が、この世と太陽との間に釣り合いがあること、また、太陽が傾斜球を運動しており、その運動が再現されること、(45.10)であるのは明白に明らかである。それだから、この事態に現に備わる秩序から何ごとかを除こうとする者は、かえって地上の物事全体を転覆し混乱させようと望むことになるのである。  (132.6)(47.1)また我々は月の問題も解明せねばならない。つまり、この世の物事と月との間に成り立つ釣り合いという問題を理論的に考察し、その運行をも考察せねばならないのである。月の運行とは、地上の物事の原因となるように現在運行しているその運行の事であるが。つまり、もし月が今実際にあるよりも近かったならば、雲が上昇して(47.5)集まることを、要するに、水分がそうなることを妨げたであろう。蒸気が散乱して弱まったであろうから。しかし、雨があることや降らないことに月が関わっており、それも大きい影響力を持っているということは、毎月ある太陽と月の合、つまり両者の合が天空の合となること、から明らかである。また、両者が一致すること、つまり、両者が合とは反対の(47.10)位置に至ることからも明らかである。  (132.17)また実に、月の運行が黄道ではなく、別の平行の円環にあったとしたら、ほどよい冷たさも、今現にそうあるような熱の助けも、我々が住んでいるところでそれから得られるものも、生じなかったかも知れない。  (49.1)(132.21)実際、現在の月の状態は、太陽のそれと反対であるので、冬の夜に暖かい熱をもたらすのである。それというのも、月が我々の側にある時、これは夏の時期に太陽がとるそれに対応しているからである。また逆に夏には、夜をそれほど熱くなく暖かくもないようにする。(49.5)なぜなら、この季節には、月は南方に移動するからである。また、[月の運行が現にあるようでなければ]果実ができ成熟することに月が助力することも、今現にあるような形では、なかったかもしれない。月は実にこれらの事柄において重要な原因となっている。  (134.1)総じて、我々が月から受けることのできる利益、つまり我々が今ある状態においてとにかくいずれにせよ享受し益される利益全般の事であるが、(49.10)かつての運行がそうでなくなったり、今現在この世界と月との間にある間隙を保つものがなかったりすれば、ありえないのである。  (51.1)(134.6)神的な存在(天体)とその運行が、それが規則正しいものであるが故に、地上の物事が存在し存続することの原因なのであるのは、アリストテレスが説く通りであって、それゆえに、偶然や自己偶発が原因では決してないのである。それで我々は、多くの事実からこれを理論的に解明せねばならず、これを(51.5)明確に把握し理解せねばならない。  (134.11)さて、我々が目的とするのは太陽や月やその他の恒星の叙述であるが、それは、神が存在し、彼等の運動は魂と知性に基づいていて、しかしこれは何かもっとよい活動に仕えるものではない、ということを論証するためである。しかしながら、神に関する自然な信念や、そのことについて人間全体に普遍的であり(51.10)一致している先の信念は全ての論証よりももっと明白なのである。  (134.17)(53.1)ところが、理不尽でしかも、我々が論じてきた物事それ自体とその保全は神々によって全うされるという言説にも反することだが、神々についてこんなことを言う者がある。つまり、神々は我々のために存在し、神々固有の行いとはひとえに我々のために物事を念入りにし、保ち、監督して我々の、いや神々に由来するあらゆる物事全ての、ためになるようにすることであって、例えば、我々に関する物事を(53.5)方やとどめて存在せぬようにし、方や解き放って起こるがままにすることなのである、と。つまり、これが信仰であるにせよ信念であるにしろ、どちらにしても神々には全くふさわしくない。なぜなら、人間のなす行いの中ですら、より高尚で優れているものは、何か他の物事のためになされるのではなく、(136.1)むしろ、それ自体のためになされるものだからである。事実、叡智的な考察は、その完成をそれ自身の活動に持っており、その活動というのも(53.10)叡智的な考察によってなされるのである。つまり、あんな見解よりもより偉大でふさわしい見解であるが、いと高き神は、自らに固有で自らにふさわしい行いを自らのために行われるのであり、このことにおける神の目的も、この世の物事の保持や救済ではなく、行為そのものも決してそういう物事に向けられ及ぼされたのではないのである。  (136.8)(55.1)事実、その言説が表明しているのはこういうことである。神の行い、それも、神の存在がそれにより、また、神から生じる物事がそれによる行いは、より優れた幸福な性向に常に絶え間なく向かうのである、と。また、この事物における神の配剤について言えば、善いものと善いものに働くものの範囲にそれは及ぶと判断するのが必然である。というのも、全ての善にそなわる性質は(55.5)有益であるということであるから。  (13)さて、善いものにしてもその個々全ては、それが現前し存在することによって、周囲のものを益するのであるが、しかしながら、それがなすこと全てが周囲のものの利益の為になされるわけではない。(例えば、健康も、健康を持っているあらゆる物事に利益をもたらす行いをもたらすわけではない)(57.1)同様に必然なことだが、全ての物事を超越しているものがあり、善さを持っているものの善さがそれであるという限りで万物の上にあるもの(つまりは神)があると信じ、その本性からして善にふさわしいのでこれこそが善の創造者であり、まさにその故に、それはあらゆる点において物事全体に有益なものとなる、ということを信じなければならない。つまり、残余の個々全ての善いものの本分はそれが現存することで自らを益し、また、それに与る物事の一つ一つがそれによって役立てられることである。このようにして、かのものは種々の利益の一つ一つが存在するのを助けるのである。  (138.1)しかしながら、力強くも偉大な神について言えば、その本質と恩恵はこのような方途をとらず、むしろ、神は存在する全ての物事にとって多大な善い物事の原因であり、(57.10)それはそれらが善に与れる度合いに応じているのである。というのも、神はこうした全ての物事の番人であり、こうした性質の存在全体のそれだからである。さて、神は、彼の生は至福の内にあるのだが、永遠の物事に配慮し、それらを保全しする。また、この世界のより低い物事にも配慮されるのだが、それはあくまでもついでであって二次的な目的に過ぎない。つまり、神には、神に由来し神に従う物事への(59.1)嫉妬など何らないだけではなく、それどころか、神によりふさわしいことだが、神々の段階に従う物事の全体が第一の位階を目指しており、神の意志と選択に従って生じているということすらありうるのだ。  (138.11)さて、アリストテレスの見解に従うと、配剤は[宇宙の]どこにあり何に向かっているのかという問題について言えば、望ましいのは、我々ができる範囲で、手短な表現でそれを論じることである。  (138.14)彼の見解によると、配剤は二通りに語られる。(配剤とはつまり、神々から第一の自然によって存在する物事に及ぼされる配剤のことである)*さて、「哲学者」の教説から証言されることであるが、彼はこう言っているのだ、配剤が及ぶのは月天球までである、と。しかしながら、彼はこうも言っている、(59.10)月天球の下の物事、つまりこの世界に及ぶ配剤もまたあるのだ、と。事実、彼の証言によると、人間を生み出すのは人間と太陽なのである。  (138.20)つまり、この世の事物の秩序は全面的に、天体の運動の秩序に従っているのである。従って、月天球にまで配剤が及ぶと言う場合、それは、そこに見い出される配剤のことを言っているのである。(61.1)ただし、この発言から理解される意味は、それが関わるものにおいて見い出されるのが配剤だということなのである。つまり、そこにある配剤はそれが関わるものにおいて見い出され、配剤がそれによって成り立つ物事に関わるのであるが、その配剤がそこに成り立ち、またそれと共にあるものとは、つまり、天体一般、彼の見解に従う事柄によると、(140.1)月天球にまで及ぶ物体全体なのである。そしてこれが、この世の物事における配剤そのものの原因なのである。  (140.3)事実、それ固有の本性においてそれに備わるものは永遠で麗しく整えられているのだが、それが在るために他のものの助けを全く必要としない。そしてこれこそが神的な物体全てのあり方である。  (140.6)さて、彼の見解に*従うと、配剤は月天球の下の物事にも見られるのである。(それは、配剤によって存在する物事には配剤がそなわるからである。そしてこれはまさに、この世界の物事のあり方である。つまり、それらは配剤を必要とする)というのは、総じてそれらは存在するためには他のものの助けを必要とするからである。 *ra'yihiと読む。  (14011)事実、配剤を備えたものは全て、何ものかへの配剤をそうしている。同様に、天体も配剤を備えているが、その配剤は天体そのものを配剤するのではありえない。天体はそのようなことをする必要が全くないのであるから。したがって、残る可能性として、その配剤はそれ以外の何ものかを配剤するということになる。そして、天体以外のものは、つまり、存在はしているものの変転を被るものであり、月天球の下にある物体はこのような状態にある。従って、(63.1)配剤が向けられるのはこうした物事である。  (14018)そしてどうしても必然的なことであるが、天体がもつ配剤は天体のあり方とは異なる物事に向けられており、しかもそれは全く遇有的な仕方ではいけないのである。というのも、ある物事からそれに下属する物事への配剤が遇有的に働くというのは不可能であるから。しかしながら、この場合にも、どこからどう見ても何か固有の本性というものがあるはずであり、そんなことはそれに似つかわしくないことであるから。また、そのような物事に働く神々の配剤は、その全体で第一の目的を占めているわけではない。そんなことになれば、神々に固有の行いがこうした物事のために行われることになるから。  (14027)(63.10)要するに、どちらの場合にしても、神々にふさわしいことではないのだ。というのもまず、神々にとって第一の目的である行いのうちに、この世の物事の配剤が含まれているなどという意見だが、その場合、神々に固有の行いが、この世の物事の存在とそれらの秩序のためにあることになってしまうし、神々が動くのもそれに向けてだということになってしまい、こんな意見は馬鹿げているからである。その場合、何度も繰り替えし言ったように、それ自身以外のもののためにあるものは、後者よりも劣り、卑しいのである。  (142.7)(65.1)神の配剤がこのように進行すると言うならば、あの見解に戻ることになってしまう。つまり、力強くも偉大な神が存在するのがこの世の物事のためだということになってしまうのだ。しかし、こんな言説よりもさらに理不尽なものが何かあるだろうか。つまり、神がこの世の物事一つ一つに高い意義を与えるのが一番の目的であり、それらを配慮して、数多くのそれら全てを保全し、神がそれらを見守り監督する限りにおいて、それらの状態や働きも保つというのである。しかし、こんな見解は明らかに理不尽であるし、ありえないのも明らかである。  (142.15)他方、[神は]神のために存在している物事を全く知らないという言説も(65.10)どう考えても酷い。しかし、必然的に、神々はあらゆる事物のうちで最も知性あるものでなければならず、神々に固有の本性は善に向けて働くものでなければならない。それだけに、その知性には、そうした本性に従って生じる物事を知ることも含まれている。つまり、ありえないことだが、暖める性質があるものはものを暖めるということは、知識がある以上その本性上どうしても知らなければならないが、善に向かう知識がありながら、その知識に関わる善や、その知識が善に向かうということは知らない、こういうことはないのである。  (144.1)(67.1)神に由来する物事は、その存在を神に有している。神々に依る善いものを知っているということは、それが神々の意志に基づくということをも知っているということになろう。つまり、神々に従属する本性や本質を知るということは、神々固有のことである。神々によって存在し、それを原因として存在を持つようになった物事全ては、実に、神々の意志によって存在しているのである。  (144.7)それだから、神々にまず第一に属する行為は世界や、神々に基づくにしろ存在するのはこの世である物事を配剤することでもなければ、それらを守ることでもない。しかしながら、これらの物事が存在しつつ、神がそれらを知らず、意志を及ぼしてもいない、ということもまたない。(67.10)さらに、これらの物事がそれ以外の何ものかを原因として存在しているということもまたない。むしろ、こうした物事はそれらの存在も配剤も神々に依存しているのである。  (144.12)また、こうした物事の存在がこのように進行するのも、神々がそれを知ることなしにはありえないし、知ってはいるが意志はしないということもありえない。つまり、神は完全で善である存在であるという主張は、(69.1)全ての人にお馴染みの見解である。そして、存在においても善性においてもこのようなあり方を進めるものは、善を作り出した者に他ならない。  (144.17)本性上暖かいものであれば必然的に、近くにあって影響を受けられるものを暖めるのがその本性であって、かのものを念頭においては何もなされず、それどころか自らに固有の本性に留まりこれを保持しているだけだとしても、そのことは変わりない。これと同様に、本性上そのような状態にあるもの、つまり神がそうあるような状態にあるもののことであるが、それもまた、自らの近隣にあるもの全体は、どれほど近いかに応じて、その権能に与ることができるのである。事実、そういったものが善に与れるのも、かのものを受け入れられる度合いに(69.10)応じているのである。これは、熱いもののそばに置かれたものが温まるのに似ている。  (146.1)(71.1)つまり次のようなことがあってはならない。変化を被りうる物体が近隣にあるとそれから変化を被る物体が何かあるとしよう。作用者側から作用がなされて影響が被られ、そこから何らかの状態が受動されるということがある反面、作用者が及ぼす能力はそれ本来の状態に留まることができず、その際に逆の影響が及ぼされて何事かを被ってしまう、そのようなことが可能ではいけない。また、変わり得ないがゆえに己の本質を保ち続け個々の能力を保持する物事が、近くにある事物に影響を容易に及ぼせない、しかも前者が後者よりもはるかに偉大であるにも関わらず、そんなことがあってはならないのである。事実、神的な権能に関して言えば、それが月天球の下にある物体的な物事に至り及ぶのはこのようにしてなのである。  (146.11)(73.1)既に明らかにしたように、神的な存在は全て本性上回転運動を運動しており、これも既に明らかなことだが、等しく永遠に持続する運動は、本性上悪化しない物体の特性である。それゆえ、運動の原理をそなえ持っているものには、まさにその運動が生じ、その運動は本性上このものの特性の一つとなっている。恐らくこの回転運動は、本質において物的な物体全体の周りを動いている。この物体は、それが異なり変わることはあり得る以上、何らかの仕方で本性においてそのような物体であり続けているのである。事実、両者の間にはいかなる空虚も存在しない。こうしたものに接近し接触するものは、それから流出してくる能力を受け取るのである。そして、天体から(73.10)可変的で変わりうる物体に及ぶ能力はこの世の本性にそなわっているし、かのものからの近さに応じてもいる。  (148.1)それだから、自然に基づくもの全てはその内に(75.1)神的なものを属性としてもっている、という見解は健全である。それらは上述の仕方で神的な能力に与っているからである。それで、月天球のすぐ下にあり、神的な物体に近くそれに接触している物体から現に影響を被っているという状況下では、その影響は近くにある物体全てに及ぶ。というのも、そのような物体はああした需要を容易になしうるよう、また、最初に影響を被ったものにつながり、接触するようになっているからである。  (148.8)この理由で、自然に従う事物は万物に先駆けて生じるのである。それは事実神的な技術なのだから。そして、この権能、つまりこの自然本性は、神的なものであり神に由来するので、これに与る物事に最初に利益をもたらすのである。参画の度合いに応じて。  (75.10)(148.12)このような物体が魂に与れる範囲に応じて、そのようなあり方をする物体は魂を持つものとなり、その他のものは魂を欠くものとなる。また、このようにして知性に(77.1)与れる状態にある物体には、それに応じて知性がそなわる。これは自然における一つの完成態である。事実、滅びうる物体の全てが善い秩序に傾いた状態にあるわけではない。全ての物体の状態が同じではないからである。つまり、物体の混成は単一の仕方でなされるわけではなく、あるものはより純粋であるが、別の物体の状態はそれほどそうではない。