カルキディウス 『プラトン『ティマイオス』注解』 カルキディウスよりホシウス様へ  (5.1)イソクラテスは彼の弁論の中で徳を賞揚して、全ての善いもの、幸福全体の原因はここにあると言ってから、このものだけが、不可能な物事を容易に可能な事柄にするのだと加えている。すばらしい。というのも、気高い大度に至ろうというのに厭な気分になったり、折角それが具わりつつあるのにうんざりしてしまう必要が一体あるのか疑問だからだ。そんなことは、苦難にへこたれて成長をやめてしまうものども同然ではないか。思うに、友情がそなえもつ力も同じであって、ほとんど不可能である物事を解消するに等しいのである。というのも、友人達からは、方や命令するという信義によって、また方や許すと誓うことによって、非常に喜ばしい行いがもたらされるということが保証されるのだから。精神が開花さえしておれば理解できるだろう。優れた人間性の持ち主なら努力を尽くしてこれまで試みられたことがない仕事を成し遂げるかもしれない、そういう希望があるのである。つまり、己が享しむものをギリシャ語からラテン語に写しきるかもしれないのである。しかしながら、こんなこと自体は雑作もないどころか大いにためになることですらあろう。それでも、驚くべき廉恥心によるものだと思うのだが、他の者の方がいいと思われその者を加える方を選ばれたのである。そもそも私はどうすればよいのか。どうか言っていただきたい。どれほど困難なことであろうとも、素晴らしく名誉であることだから−−そのように思いなさる以上−−与えられた務めを辞退することなどできようか。そして、いまだかつて儀礼においは全くなく、常々好意からなす事柄においても何ら務めを拒んだ試しのなかったこの者が、これほどの大変な名誉あるお望みに口答えすることなどできようか。というのも、見てくれのよい務めを無知を言い訳にして拒めば、知恵を巧みにまねるだけになってしまうだろうから。それだから確かに明らかなのだが、神的な刺激に突き動かされてこの務めは私に貴方から与えられたのであり、つまりは、もっと生き生きした精神と確かな希望の持ち主である貴方から委ねられたのであるが、そのように勧められた私は、プラトンの『ティマイオス』の第一部を翻訳するだけでなく、その部分に注釈も加えたのである。内容を絵で表したものは、解釈を加えて説明することをしないなら、実例を上げることによってかえって分かりにくくなってしまうと思われるからである。この書をいくつかの部分に分けた理由は、(10)一つにはこの著作が長くなってしまったからである。また同時に、より細かい注意を払った方がいいと思ったからである。これだけのものを何であれ捧げて、耳や心で味わって頂こうと持っていくのであるからこのくらいはして当然であろう。甚だ不満であるなどという返事がないようであれば、聞き取り方により自信を持っていいということにもなろうから。 プラトン『ティマイオス』第一部 [登場人物] ソクラテス ティマイオス ヘルモクラテス クリティアス  (17a1)(ソクラテス)一人、二人、三人。四人目は、ティマイオスよ、どうしたんですか。昨日はあなた方が饗宴の賓客だったわけですが、今日は招いてもてなす側に回る約束で、それでそこに座っているはずですが。  (ティマイオス)実は、彼は具合が急に悪くなって来られないのです。そりゃそうでしょう。自分の方から、こんな集まりがあって、しかもこんなに重要なことを論じて話合おうというのに、やって来ない訳がありませんよ。  (ソ)それならば、君にも、それからここにいる方々もそうだが、してもらわないといけないわけだな。加わる者が一人いないせいで減った分も補って頂かないとな。  (b1)(テ)同感です。だからこそ、あらゆる努力をしてここにいる方々のお役に立ちましょう。それに、よくないことですからな。昨日はえらく歓待して頂いておきながら、寂しいばかりの宴しかあなた方にして差し上げられないというのではね。  (ソ)ということはお覚えなのでしょうな。是非論じて頂きたいことをあなた方にお伝えしたはずですが。  (テ)全部ではないですがね。それに、きちんと憶えているか怪しい点も出てくるでしょうから、その点は折角ここに居られる方に教えて頂きましょう。いやそれよりも、面倒でなければ、先日話されたことを手短に始めからもう一度話して頂けませんか。そうすれば、バラバラに憶えていることもしっかり元の秩序に収まるでしょうから。(6)  (c1)(ソ)そうしましょう。昨日お話したことの要点は、間違いでなければ、国家はどのようなものが、あくまで私見ですが、そしてどのような国制をもち、市民の性格をどのようにすれば最良のものになるかということでした。  (テ)確かにそうでした。そして、おぉソクラテスよ、拝聴した内容は大いに我々の意に適うものだったのです。そうでした。  (ソ)ではどうでしょう。何よりもまず、畑を耕す人々やその他の技芸に従事する人々を、戦闘という任務に定められた若者から分けたのではなかったでしょうか。  (テ)そうでした。  (ソ)そしてそれから、他の人々には各々元々自然と与えられているものを割り当てておいて、(17d1)しかしあの人々は全ての人々が平安であるために戦争をするのであるから、この仕事だけを与え、方や市民は護り、他方国家の外にいようが(8.10)国内にいる内部のものだろうが敵には対抗し、方や(18a1)服従する人々、つまり血を同じくし自然本来の友人である人々には裁くにしても穏やかになし、武器をまとい隊伍を組んで「軍神の集い」にやってくる連中には苛烈な態度で臨ませねばならず、とにかく二重の性格を与えられて、祖国と市民を守る際にはより気高いものとなり、平時の務めにおいては儀式に賢いものであり、さらに言えば、自らの民には優しく、夷狄に対しては苛烈な者でなければならなかったのです。  (テ)覚えていますよ。  (ソ)ではどうだろう? 今言ったまさにこの双頭の本性を監督するもの、つまりあたかも何か養分のようなものは肉体の鍛練と厳しい体育に、また同時に、精神の穏やかさの方は様々な心地よさ、つまり、音楽あるいはその他、才能ある若者が知るべき学芸によるしつけの内にしつらえたのではなかったろうか。  (テ)(8.20)その通りです。  (ソ)(18b1)それからまた、こうした教育によって育て上げられた者達には金銀にしろその他の家財にしろ何であれ自分だけのものとして所有することがあってはならないし認められてもいけないと宣言したのであり、報酬を受け取るだけで満足し、誰の安全を守っているのかを明らかにし、共同の安全を守るのに要しただけに足るだけのそれを全員まとめてもらい、しかも他の仕事はやめなければならない。  (テ)(9.1)こうしたことも、そのように言われました。  (ソ)(18c1)女の人々についても、思うに、語られました。つまり、彼女等は男達と同じ性格に与る似た者に作り上げられるべきで、人柄にどんな違いがあってもいけない。そうして、両性ともが同じ共通の制度で統べられねばならない。<……>*  *ギリシャ語原文にして三行ほどの訳し忘れがある。<……>については以下同様。  (18c6)では子供達を産み育てることについてはどうだろう。はたしてこうではなかっただろうか。人々の意見や生活習慣を超えて語られたように思われることは他にもあったけれども、それらと同様に、婚姻や子供は共有とされるべきだということについてもより鮮烈にしっかりと覚えられるのではないか。そしてそれは、誰であれ自分の身内にほんのちょっとの情も覚えてはならないのであり、(18d1)全員が全員に血族としての敬意を示すべきであり、方や、同年代の者達は兄弟姉妹としての好意や(9.10)善意をもって付き合い、年長者には親にふさわしい敬意、親以上の世代には親のそれや、あるいはそれ以上の人々にふさわしい畏怖を示し、また、息子娘への義務としては好意や親切を育まねばならない、というのではなかったかね。  (テ)そうしたことも思い出すのは容易なことですし、私たちもとてもよく覚えています。  (ソ)(18d6)<……>ではどうだろう。気味の悪いことをされているという嫌悪感だの反感だのがないようにしつつ、よりよい求婚者にはよりよく躾けられた花嫁が籤で当たるよう、さらに、下らない女は下らない男にあたるように、ということではなかったか。そして君達の考えはこうではなかったか。この、仕組まれた抽籤は嘘とはいえこの上なく健全なもので、監督する人々は充分配慮をして、結婚する男女どちらにおいても、抽籤された自分の巡り合わせが不幸だと咎め立てしたり、もっといい相手がいいと嫌な思いをしたりすることがないようにするのだと。  (テ)このことも覚えています。  (ソ)(9.20)(19a1)そしてこのことも明らかにされたと思う。つまり、選ばれた親達の子供達は最高度の配慮をしつつ――自然と特別善い扱いを優先的に受けることは言うまでもない――養育されねばならない。  [(テ)まさにそうです。] *[……]はギリシャ語原文にはない追加。なお、所々厳密な翻訳と言うよりももはやパラフレーズや注釈と化している箇所も(ここまでの段階ですら!)かなりあるが、明らかな付加や省略以外は区別が面倒なので一々注記しない。  (ソ)しかし、それ以外の子供達でも、他に祖国の役に何か立つ見込みがあれば、彼等が年々成長するに応じて、何ら省かれることなく、幼年期に払われるべき配慮や青年期に相応しいそれを受けるべきであって、それだから、彼等は第二位の市民から第一位に引き上げられ、守護階級の一員となってそれを任されるとともに、父祖の徳から堕落する者達は第二級の地位へと追いやられねばならない。(9)さてどうでしょう? ティマイオスよ、これで十分果たされたように思うのですが。昨日の話をざっと残りの部分も思い起こすということに関してはです。上っ面を通り抜けただけなので、まだ何か加えれば得るところがあるかもしれませんがどうでしょうか?  (テ)(19b1)いいえ何もありません。  (ソ)ではよろしいですか。この私が、この国家について何を感じ、心で何をどのくらい願っているか、お分かりでしょうか?  (テ)(10.11)というと?  (ソ)例えば、この上なく美しく優美な動物が絵に書かれているとか、あるいは、確かに生きているはずなのに動かないでじっといているのを見たとかして、今度はそういうものが動いて何かしているのを、あるいは何かケンカでもしているところを見てみたいと思う人がいたとしましょう。(c1)そんな人と同じようにこの私も、今しがた言論の上で描かれ作り上げられた街の市民が、平時にも戦時にも回りの都市と何事かをなす場合、あれほどの栄誉と教育とに相応しいことをしてくれるのではないかと、大いに期待しつつ、願っているのです。  さて実を言いますと、認めねばなりますまい、おぉ、クリティアスにヘルモクラテスよ、(19d1)私はこの国家にそれに相応しい称賛を与えるられるだけの才能がないのです。私ができないのは何も不思議ではないのですが、いつしか、古いもの書き達や、現代の詩人達もできないらしいと思い始めています。(10.20)詩人の種族をけなしたいから言うのではないのですよ。こういうわけだからなのです。彼等も明確にはっきりと模倣する心得をもっているのでしょう。ただそれは、今現在完璧にまねることができることは、ということでして、つまり、ごく幼少の頃から馴染み経験を積んできたことや、ほぼその中で教育されてきた環境のことであればよいのですが、しかし、よく分らない性格や馴染みのない制度を(10)きちんと模倣することは、弁舌や詩文でなら特にそうですが、(19e1)優れた才能を持った明晰な人々にも難しいことなので、それは彼等には無理なのです。また、ソフィスト達は、ずらずらと言葉を並べたり演説を垂れ流すことに関する才能には恵まれていると思いますが、しかしこうではないかと恐れるところがあるのです。彼等はふらふらと落ち着かず、確とした自分の居場所とか住処とかも持たないので、哲学者にふさわしい性格だとか市民が思慮を働かせる仕組みとかを理解しようにも予想すらできず、平時の義務としてなされるべきことはどのようなことか、また、戦時において人民の知恵に守り立てられるべき忠義とはどのようなものであるか、他の人々に示すこともできないのではないかと思うのです。そうすると、残るのはただ君達、教養ある才能豊かな人々、公の配慮を受けて育てられた上に、生来の哲学的熱意に燃えてもいる方々なのです。そう言っていいでしょう。(20a2)このティマイオスはロクリス出身ですが、この街はイタリアの花でして、この生れの彼は実務経験の豊富さで名声名誉において簡単に首位に立つことができ、同時に当代では愛知においてもやすやすと最高位を得ているのです。またクリティアスも実に、立派な市民であることは言うまでもないことですが、人というものに関するあらゆる学問に特に熱心であることは我々もよく知っております。さらにヘルモクラティスについても、生れ・教養双方において、我々が説明しながら論じているこうした要件を成し遂げ満たしていることは何ら疑わなくてもよいと思います。こうした彼等なら大丈夫です。(20b1)そういうこともあるものですから、昨日君達に請われた時も簡単に言うことを聞いたわけですし、大っぴらに話されなければならないと思う事柄を果たすのも全くやぶさかではないのです。それもこう考えるからなのですよ。今まで築き上げてきた仕事の残りの部分を説明するのにこれ以上都合のよい人々は他には誰もいないと思うからです。それで、しかるべき努めを果たして語り終えてから、あなた方にも是非借りを返して下さるようお願いしたのですし、(11.20)あなた方もお願いした努めを引き受けて下さったのです。(20c1)そして、御覧のように、お約束の宴会を楽しみにしてここにやって来た次第です。  (ヘルモクラテス)(20c4)私どもも全員、今さっきティマイオスが請け合った通り、あなたが私どもに課された努めを力の限り果たしていくつもりです。何しろ、どんな理屈をつけて言い訳しても、それはよくないことですからね。そういうわけで、昨日も会がお開きになって宿に帰ってからも――私どもはクリティアスの所に泊めてもらっていたのですけど――それどころか会が終わるとすぐに、まさにこの問題についてやかましく論じていたのです。(20d1)するとそこで、私どもに古い物語の中から一くさり話してくれたのですが、それをどうか、クリティアスよ、もう一回話してくれないだろうか。ソクラテスに聞いてもらえたら、求められたお返しをするのにこれから実際役に立つものかどうか見てもらえるだろうから。  (クリティアス*) そうするのがいいだろう。しかし、この努めに与る三人目、ティマイオスは違う考えじゃないだろうね。<……>ではまぁ聞いて下さい、ソクラテスよ。確かに驚くべきことだが、大いに信頼できる真実の物語であって、七賢人のうちでも第一番目のソロンが調べ上げており、彼はクリティアスという名前にも与っており殆ど私の父祖の身内であると言われているのだ。その方のことを引き合いに出しながらだったが、子供だった私が聞いたのは、その都市の、記憶に値する物語が語られる所だったのである。長い年月が経ち、伝える人々もなくなってしまったために失われてしまったものであるが、それが語られたのだ。その中でも何より輝かしいことが一つあるので、それを思い起こして、君には恩返しをし、女神にも――今日の祭礼はかの女神のためのものなのですが――なすべき敬意を払うことにしたい。 *「クラテス」となっているテキストがあるらしいが当然間違い。 <(ソ)……>  さてさて、語ってくださった方は御高齢で、(21b1)もう九十歳近かったということだったが、私はその時十歳になろうという頃で、広く儀礼が行われる名高い日で、記念のためにとソロンの詩句から歌が吟じられたのである。つまり、祭日の間に我が一族も儀礼をして、私達子供らも、記憶力を競うようにと、子供ながらも褒美を与えるというので、招かれたのである。しかるに、古い詩人も新しい詩人も記憶に残る名高い人々が沢山の詩歌を残しているが、その中でもソロンのものがかなり多く、新しいものが喜ばれたのでそれが歓迎されたこともあったのだが、誰かがこんなことを言ったのを覚えている。その人は本当にそう思ったのか、クリティアスを持ち上げるつもりでもあったのか、こう言ったのだ。全くソロンという方は、思慮深さということで他の人々から称賛されるのにふさわしいのは無論だがそれだけでなく、詩歌でも卓越していた、と。すると老人が――こんなことはよく覚えているのだ――非常に喜んで「確かに。余興ではなく真剣に詩作に取り組んでくれていたらどうだったろう」こう言った「ソロンがきちんと仕上げてだな、我がアミュナンドロスよ、エジプトから持ってきて書き上げた物語にしてもきちんと完成させたとしたらどうだったろうね。内乱があったり、他にも市民の不和が尋常じゃなかったりしたのに邪魔されておざなりにしてしまったのだがね。ヘシオドスやホメロスにひけをとらない人になったろうと思うのだが」そこであの方は「それは一体全体、おぉクリティアスよ、どんなお話なのですか? どんなことについて書かれたものですか?」  そこでこう言った。「非常に優れた徳の最高のもの、この市民国が成し遂げた最も名高い名声に関するものだ。ただ、成し遂げた人々が亡くなってしまい、また時間も経ってしまったので、伝えられなくなってしまったのだ」 「ではそれをどうぞ話して下さい、クリティアスよ。その偉業というのはどういうもので、どのくらいのものだったのでしょうか。そしてソロンはそれを誰から聞いてあなたに語ったのでしょうか」 「エジプトに三角州地帯があり、その渦からナイルの流れが別れているのだが、その近くにサイスという名前の大国家がある。そこを支配しているのは古い掟で、サイティカ法と呼ばれていた。この都市出身だった方にアマシス王がおられる。さて、この街の設立者である神様は、エジプトの言葉ではネウトとされ、ギリシャ語ではアテナだと言われている。さらに、彼等自身アテナイ贔屓で、まさにこの大都市の親戚だということで、自分達は高貴だと自画自賛しているのである。ソロンは、この地に赴いた際に非常な歓待をうけたが名誉なことだと語っていたものだ。しかしまたこんなことを体験してしまったのも事実だということである。というのは、記憶が古くなりすぎたため、我が国の誰一人としてその知識を全く持ち合わせていないというのだ。それで、故事をとりわけよく憶えている祭司が集まったところで、語る気を起こさせようと、アテナイの非常に古い歴史について彼が知っていたことを語ったのである。つまり、ポロネオスとニオベ、洪水後のピュルラとデウカリオンについて語り、またさらに、新たな人々の種族を丹念に辿り続けて父祖の世代まで年数を数えていたのだが、祭司の一人に笑われ、こんなことを言われたというのだ。 「おおソロンよ、君達ギリシャ人はいつまでたっても子供だ。ギリシャには年寄りはいないのだな」  何故そのようなことを言ったのかと訊ねたソロンに、 「というのもだ、君達はどうでもいい新しいことばかりにかかずらっていて、いつも何一つ憶えていないじゃないか」そしてこう言った。「君達の所にも古い知識はある。しかし、遜色のないものではない。人類が滅亡したのが多くあるいは大火、あるいは破滅的な大洪水によって生じたのは事実だ。それからあの物語もあるだろう。君達もよく知っているものだ。昔々、太陽の子パエトンが父親の務めをしようと思い、陽の光をもたらす戦車を駆ろうとしたのだが、きちんと軌道に沿って走らせることができず、地上を焼き尽し、自らも星々の炎で燃やされてしまった、というものだ。作り話だと言われてはいるが、これは本当の話なのだ。というのも、長い周期を経て宇宙は円軌道を周回しており、それには必然的に、巨大な炎で一切が焼き尽されることが伴うからである。それゆえその際には、高い渇いた所に留まっている人々の方が、海や川の側に住んでいる人々よりもよりひどい被害を被るものである。さらに我々の場合は恵みのナイル川が、多くの物事の場合と同じくこの種の危険に対しても、あるいは水を恵む流れとなり、あるいは横たわる合流となり、破滅から救ってくれる。また、地上が水で洗い流される場合、山の高所に至った君達の羊飼い達は危ない目に見舞われないが、(22e1)平野に構えられた都市は市民ともども海へ持っていかれるのである。こうした危険にはこの地域は曝されないのであるが、それは、他の地方のように水が高い所から平野に流れてくるのではなく、地中深くから大地そのものを通って(14.20)静かに湧き出て穏やかに溜まって留まるのだからである。このような原因で、公のことも個々人のことも記録がよく保たれたのであり、それは、我が国家の行いも無論、他の種族のそれらも同じく丹念に残されたのであって、なかんずくその名高いものは伝えられて我々の知るところとなるのだが、書き残されて寺院に保持され守られたのである。さてしかし、あなた方の下でも他の人々の下でも、様々な記録にある年月がいよいよ十分に巡ってくると、ついに天からの水に打たれて倒れ、古の言い伝えが記されている公の文書も四散して混沌としてしまうのである。そして、新たに生活を始め、新しい人々と共に、新たな記録を書き記さねばならなくなるのである。あなた方があなた方自身の古い時代のことも他の人々のそれも知らないのは故あることであり、君がいやちゃんと覚えていて語ることもできるのだと思っていることも実は子供のお話と大差はないのでああるが、その訳というのはまず何より、君はたった一回の大洪水のことを覚えているのに過ぎないが、実は数え切れないほどのものが既にあったからであり、さらにまた、あなた方の父祖のうちでも最良の種族のことをあなた方が知らないせいでもあるのだ。その種族からこそ(23c)、君にせよその他のアテナイ人たちにせよ、民族の困難を乗り越えた僅かな種によって成り立って今あるのだが。すなわち、かつてアテナイ人たちの国家が他のそれよりも、優れた人格にせよ能力の生かし方といい記憶に残るのも当然の戦いや平穏な日々にせよ、はるかに抜きん出ていた時代があったのであり、その業績も偉大なものだったのだ。もっとも、我々がするような伝え方では、どんなに優れた誉れであれ、何を描いて見てもぼやけてしまうのだけれども……」  (23d)そしてその時ソロンは驚き、司祭にそれら古い国家について何もかも詳らかにしてくれるよう頼んだということだ。  そして、かの司祭はこう答えたというのだ。「何の差し支えもないよ。何しろ、君には範を示さねばならないし、友好国に誉れを授ける義務もあるのだから。それにまた、私には両都市を築き育て整えた女神に敬意を払わねばならない必要もあるのだから。さらに、あなた方の都市の方がほぼ千年早いのであって、端は神に等しい大地と(23e)ヴルカンの種に発する反面、後発の我等が街は八千年後のものであると、そう至聖所には伝えられているのだから。ではソロンよ、あなた方のうちでもより偉大な人々、九千年前に生きていた人々のことを聞いていただこう。どのような法律が用いられ、どれほど豊かなそれほど輝かしい偉業が高貴にもなされたかということを。(24a)詳しい裏付けをお望みなら、また時間がある時に聖所の書物を読んであげよう。  ではまず法律を見たまえ。幸い、類縁を示すものを沢山見出せるだろうから。例えば、司祭に付けられた人々は他の人々とは一貫して離され、何であれ世俗にまみれて純潔が汚されないようにしてある。また、種々の職人にしても互いに分け隔てられ、何であれ仕事が交じり合わないようになっているのだ。また実に牧人たちも、彼等こそ狩猟や土地の世話や耕作の知識の持主なのだが、独自の地位を持っていて、(24b)剣闘士たちや青年剣士たちの地位や身分とは分けられているのだ。まさにこうした者達の印が同じ物を使っていたり違うものだったりするのは、ここでも、あなた方の所でも、いまだにそうなのだが、丸盾で防御し、胸には覆いを付け、投槍を装備しているのがそういうものだ。しかし実に、法律がこれほど思慮を振り絞るよう定めている所がどこかにあろうか? また、名誉が人生の仕事や務めにおいてこれほどありがたいものとなっている者達があろうか? 卜占はどうであろうか? 療法はどうであろうか? 築き上げた女神に突き動かされて人々にもたらされたのではないのか? 事実、こうしたものをあなた方の先祖の国家に具えさせて固め讃えたのも、それらをお作りになった神の意向なのであって、神は、精妙な才覚や知慮に富む健全な土地を選ばれたのだ。というのも無論、戦いに長じ、知恵もある女神は、自分に似たものを人に具え置くであろう地域こそ選ばれるべきものと考えたのであるから。そうして、こうした法律、いやもっと立派なものや制度であらゆる徳へと育て上げられたのが古のアテナイ人たちであって、言うまでもなく神の系統に属する人々でもあるから、人間並みの栄誉で収まるものを超えた最大限の称号で、高貴さを讃えられるべき人々なのだ。それらの中でも際立って優れた偉業が古い記録の中に見出されるのだが、(24e)それは、かつて数の上では恐ろしく立ち向かう余地のない勢力――その時既にほぼ全ヨーロッパとアジアを掌握していたのだが――が、アトラスの海から全種族国家に災悪をもたらした戦闘で、退けられたということなのである。というのも、思うに、当時かの海の航行は容易であり、それもそのはず、内海の入り口を出た所には島があったのである――この入り口のことを君達はヘラクレスの柱と言っているのだが――。実際、この島はリビアとアジアをあわせたよりも若干大きかったと言われている。それだからまた、この島を通じて他の島々に辿り着くこともでき、当時はこの道を辿って行くことで、人もいないような島々や、海を包んでいる大陸――実際海のすぐそばにあった――の入り口に至ることもできたのだ。実際、これら、あるいは「ヘラクレスの柱」の間にある海峡は、ほんの小さい海浜で――今では古い港湾の名残が見られる所だ――大陸と隔てられているのだが、まさにあの海こそ、計り知れないほど膨大な大きさの「本当の海」なのである。  (25a)さて、このアトラスの島に諸王の中でも最大の驚くべき勢力が現れたのだ。全島を、そして近隣の島々を掌握し、大陸の大部分をも支配していた王の中でも最大のものだ。(25b)さらに、この世界の第三の部分、リビアと呼ばれている所では、エジプトまでを統べ、ヨーロッパではテュラニア海までもそうしていたのだ。そして、勢力を終結し武装して我々や、おおソロンよ、あなた方の土地を、さらにまた、ヘラクレスの柱の内側にある種族までにも、襲いかかり支配しようとしたのだ。するとその時、あなた方の国家の徳はあらゆる栄光にまさって輝いたのだ。というのも、万人共通の安全と自由のため、恐怖に打ちひしがれ見捨てられたすべての人々に、偉大なる精神と戦の技で、遍き防御を備え、そのことで、まずは、これ以上ない雌雄を決する戦いを経てこの「人類の敵」を追い出して追い払い、隷属していた人々には自由を取り戻し、免れた人々には本来の自由を保障したからである。しかし、遠からずその後、地震と洪水が一昼夜に併せて起こり、あなた方のあのすばらしい若者戦士は失われ、アトランティスの島も、かつてあったという証を残さず沈んでしまったのだ。そして、あの海が他の海より「愚鈍」で、航海を許さないのが、割れた島から出た分厚い泥土が上からの流れで固められたためだというのは、言わなくても分るだろう」  以上が、おぉソクラテスよ、老クリティアスが話してくれた、ソロンその人が述べ語った内容なのだ。さてしかし、過日、国家や平時戦時の務めについて語ってくれた時、つい思い出して驚いてしまったのだが――神の加護なしでは君の語ったことは語れないことだ――ともかくも、君が物語の中で築き上げた国政は、クリティアスの話から私が学んだものと同じか、もうかなり似ているようなのだ。しかし、私は恐れず黙っていた。何か尋ねられたとしたら、何しろ具合が悪いことに忘れっぽいものだから私にとっては何の得にもならないし笑われるだけで、むしろ、覚えていることを自分だけで調べてみることにしたのだ。するとこんなことになった。私は君が言う王国にすんなり得心がいったので、何だか自信が涌いてきて、思い出して記憶を辿れば、簡単に思い起こせそうな気がしてきたのだ。それで、ここで先ほど言ったように、昨日お開きになってからずっと今の今まで反芻してきたし、夜も寝ないで全体を事細かに思い起こし、人生最初の頃に聞かされたことだが、それらの記憶をしっかりと確かなものにしようとしてみた。全く、昨日聞いたことを次の日に思い出せるかどうか全く怪しいものだが、子供の頃学んだことは何一つ記憶もなくならないでそのまま詳らかにできるものだ。あの頃は物事を知る悦びも、心で分るならばなおさら、格別高いものだし、また運よく、老人が熱心にずっと語ってくれたので、余計なもののないいつまでも残る印が何か心に刻まれたのだ。それだから、語られたこと全て、何か関りのあることは語ろう。私には話をする用意がある。それも、聞いた話をそのまま言うのではない。国家というものをつまびらかにしよう。しかも、ソクラテスが昨日語り論じてくれた、想像上の人々や、刺繍のように絢爛豪華とは言え所詮絵空事の理想国ではないぞ。かつて本当にあった理想国や本当に生きていた人々のことだ。戦士たちもそうだ。まさにその国家が、労苦に耐えるだけの心の徳を持つよう体育と音楽という馴致で育て上げた人々で、彼等こそ我々の祖先であり――あのエジプトの司祭が語ってくれた人々のことだが――、彼等がなしてきた事柄が、このお方の与えてくれた記録や制度に合致しているだけになおさらなのだ。そこでソクラテスよ、君は我々に答える義務があるわけだが、まさにこれで十分なのではないかと思うのだがどうかね。この務めを引き受け与るもの全員が、ソクラテスが色々な話をして描いてくれたあの都市こそ君たちアテナイ人なのだとすることに賛成なのだが、それでいいかね。だから我がソクラテス、こんな風にお返しをすることで、満足してはもらえないかね。  (ソ)いや本当に、クリティアスよ、これ以上はないと思うね。その話が一番いい。祝祭の時期だけにそれがふさわしい。よく考えられた作り話ではなく、本当に生きていた人々の物語だけになおさらだ。誰かがその話をしてくれれば、私もあなた方の心意気を知らせてもらえるかもしれないからね。さてでは、幸運の女神が嘉したもうことを願いつつ、先に進めて物語を始めてくれたまえ。私の方は、いい聞き手であるのがよいことだから、極力黙っていることにして耳と心をそのつもりにさせてもらうよ。  (ク)無論君も考えてみててはくれないかね。我々が君にしなければならない話の順番はこれでいいのかどうか。というのも、我々はこれでいいと思っているのだがね。ティマイオスは実に天文や、その他自然の神秘を究めた人だから、最初に語ってもらい、目に見える世界の成り立ちから始めて、人間の誕生と歩みについて述べてもらう。そしてそこからは私が、彼の話の中でできあがった人間たちを引き受けて、さらに君のからは、すばらしい実りに加え、法というより神聖な舵取りで教え込まれ育て上げられた人々をそうして、ソロンやエジプト人たちの聖なる書にも適うよう、古のこの上なく輝かしい市民を呼び起こし、彼等の前に人々の栄えある光景を築き上げよう。無論、大洪水で海の底に沈んだとエジプトの記録でもそう言われたたえられる人々、また我々の祖先ということでも話題になってきた人々のことだ。  (ソ)いや、この私が本日お招きいただけたことは全く光栄ですな。もう既に何もかも分っていらっしゃる方がお話してくださるのですから。ではどうぞ、ティマイオスよ、始めてくれたまえ。いつものように、神の御加護を願ってからね。  (テ)全くです、我がソクラテスよ、何につけても習慣というか何かもう義務のようなものですが、大につけ小につけ何事か成し遂げようとするならば、神の加護を願うものです。それだから、森羅万象の本性や本質の有様を明らかにしようとする我々はなおさらのこと神の力を求めなければなりません。何か完全に怒り狂ってしまったとか、取り返しの付かないほど正気でなくなったとかなら別ですが。ですから、私のお祈りは一番頑張ってこんな所になるだろう。私どもの話が神のお気に召しますことを。我々自身辻褄が合うことを、また、物語を立派に語ってみせられることを。それから、君たちがすぐ納得してくれるよう、折角いい話を期待してくれたお心に答えられますことを。  それでは。思うに、まず最初に弁えるべきことは、常に有るもの、生成しないもの、とは何であるか、また、生成し常に有るとはいえないものとは何か、ということである。(28a)前者は叡智により、理性の導きと探求で「把握される」ものである。常に同一のものであるから。しかし他方、後者は思惑や理知に与らぬ感覚で「思われる」もので、従って不確かなものだ。決して、常に確かに有り続けるというわけにはいかない。  さらに、全て生成するものは、何かの原因から生成するのが必然である。なぜなら、適切な原因や理法もあらかじめないのに生じるものなどありえないのだから。  また、作品をすばらしいものにする作者はこういうものだ。つまり、滅びることなく本当に確固としたままでいられる「見本」に似せ合わせて作品をかたどるならば、立派な似像を作れるのは当然だが、(28b)ひとりでに生まれたものを振り返り、生成したものを見上げながらそうするのであれば、全然立派なものなどできないのが真実だ。  続いて、宇宙でも世界でも、ふさわしいのならどんな名前でもよいが、そのことだ。全ての論考において、何を扱うにしても最初に考慮されるべきことを済ませなければならない。つまり、世界は常に有ったのであるか、それとも、それ以上前のない時間の始まりがあって、そこから時間の始まりを得たのであるか、それを考慮せねばならない。それは、作られたのである。そして無論、物体としてあるもの、つまり見たり触れたりされるものは全てその限りでは感覚に与り物体としての性質を持つのであるが、さらに、感覚に与るもの、(28c)つまり思念が何らかの感覚に動かされて把握するものは全て作られたものであり、何らかの生成によって実質を持ったものだと考えられている。そしてまた実に、作られたものであればそれを作ったものがあるというのも確かなことである。  さてしかし、宇宙の創造主にして生みの親は、これを見出すのも難しいが、見出したとて、それにふさわしい形でつまびらかにすることは不可能ですらあるのだ。疑いなく確かなことは、どんな模範を見据えて世界創造の業の基を築き上げたかといえば、変わることのない永遠の性質を具えたものに決まっているのだが、さもなくば、既に作り上げられたものになってしまう、ということである。というのも、世界が比類ない美しさを具えており、それを創造し作り出したのも至善の者だとすれば――それはほぼ確かだ――、明らかに、純粋で変わることのない性質の似姿に寄せて世界の構築は行われたのであるが、仮にそうでないとしたら――考えるのも想像するのもいけないことだが――、既に作り上げられたものを範としたことになる。それは理に合わないことである以上、明白なことだが、創造主たる神は偉大な範例を基にして世界を作り上げる際に従ったのだ。そしてまさしく、この世界は生成した全てのものの内でも非常に麗しいものであるから、それの作者たるかの御方は最高に麗しいのである。であるから、その業に際しても、理性と思慮をもって、常に同一であるものどもに似合せたのであって、思うに、それは生成したものとは違うのだ。さて、物事の始まりに関する理法を明らかにするのは中々難しい行いだから、写し似と似像の本性を区別しておこう。広く行き渡る原因というものは――個々の物事が何故あるかというそのことなのだが――同じ物事と血が繋がっているのである。それだから、まさしく確固不同な類の本性や、知性や思慮で明らかにされる物事の原因や理法が確固としており難攻不落であるのは明らかだと思われる。確固とした永遠のものに似せて作られたものに備わる理法は――言うまでもなく、想像されたものは想像に与るが、似像も理に与る――決して完全とは言えない類似性しか得られない。よりよい存在が生成によって堕落するというわけだが、輝かしい真理が評判だの不確かな思惑だのでそうなるのと同じようなものだ。だから今のうちにもう言っておくが、ソクラテスよ、森羅万象の本性などということについて論じているのだから、反論の余地もない確固とした理屈を少しも私が差し出せなかったとしても、君達は呆れないでほしいのだ。否むしろ、それでも私が理に適ったことを何かお話できるかどうか、そのことに注目してほしい。つまり、お話しする私も、判定をしてくださるあなた方も人間であるということを肝に銘じ、これほど高尚な物事においては、ほどほどの説明が得られれば、何であれ大層な苦労を背負い込んだことも報われるという風に覚えておいてくれたまえ。  (ソ)何事もあなたの望まれる通りで、おぉティマイオスよ、私はよろしいのです。さてしかし、お話の初めには感心いたしましたので、後は、続きを読み上げて、尊いお話にどうぞけりをつけてください。  (テ)それでは語らねばなりません。事物を創造し作り出した者は、何故、生成するこの万物を作り上げねばならないと考えたのだろうか。その者は最もよき者であるし、最善の者には妬みなどまったくかけ離れたものである。それだから自然な流れとして、彼は万物が自らに似たものとなり、あらゆるものの本性が美に適うものでありうるようにすることを望んだのだ。まさに、こうした神の意思が事物の最も確かな起源であるとする者がいたら、(30a)正しい主張だと賛成しよう。さて、神は全てのものが善きものとなり、生じるものの本性に従って、悪の根が何も残らないことを望んだので、目に見える物体全てはそれにふさわしくない運動に揺さぶられて全く制止することがなかったのだが、それを無秩序な動揺から秩序へと戻したのだ。それも、秩序正しいものの方が、無秩序に混乱したものよりもはるかに幸せだということを知っていたからなのだ。実に、優れて善き者は麗しいことでなければなすことを許されないのだが、(30b)感覚でとらえられるものは何ものもそれほどの神々しさには与れず、理知を働かせないという意味で愚鈍なものはそうできるものよりもよいものではなく*、また、魂に与るのでなければ理知あるものとなることもない、こういうことも確かなのだ。そして、こう考えて理知を魂の内に、また魂を肉体の内に置き、魂を持つ世界全体が輝かしい光栄に包まれるようまとめ上げたのである。ここから明らかなように、感覚でとらえられる世界は理知を持った生物であって、神の配剤という神聖なるものに与っているのである。  *このままでこう読むのは苦しいがこういう意味だと思う。  (30c)さて、このことが認められたとして、それに続く事柄を説明しなければならない。それは、どういう生物に似せてそれを創造主は作り上げなさったのかということである。いかなるものであれ個々の生き物に似せたのでは全くないのだ――いやしくも宇宙が種々個々の点においてではなく類全体として完璧なものだとすれば、それゆえに、不完全なものに似せてある宇宙など全然完璧なものではなくなるのだから――。否むしろ、宇宙が似ているのは、叡智に与る生物を類として全て、あたかも何らかの源泉のようにして内に包んでいる、そのようなものなのだ。すなわち、宇宙が生き物を類として含んでいるというのは、言うならば、この世界が我々や、視覚その他の感覚に服すものどもをそうしているのと同じようなことなのだ。(30d)それゆえに、叡智に与る物事の内でも最も優れた最高のもの、あらゆる点で完璧な本性を備えたものに、創造主たる神はこの宇宙を似せようと欲し、感覚、なかんずく視覚に与る一つの生物、それも、生命を享受するもので自らの本性に合致する全てを自らの域内、限度内に含むものとして、作り上げたのだ。  (31a)さて、私たちが宇宙を一つのものと語ったのは正しかったのか、それとも、複数、いや、数え切れないものと言った方がよかったのか、そのことも考えてみよう。しかし、一つのものなのは明白だ。というのも、範例に従って作られたものとはいえ、叡智に与るもの一切を含んでいるものが、他のものと並んで二番目のものとなるということはありえないのだから。つまり、思うに、そうだとすれば、両者共を森羅万象が包んでいるというのは疑わしいことだし、万有を含んでいるものが始原の単一者ではなく、結び合わされ繋ぎ合わされたものとなってしまうのだ。従って、その似姿を借りてきた模範に数の上でも似せるため、(31b)そのためにも、二つとか、まして無数の世界とかいうのではなく、一つのもとしてこの宇宙は神が作りたもうたのである。  そして、物体としてある以上見え触れるものであるのがふさわしいのだろうが、火がなくては何ものもおよそ見えるものとは感じられないし、何であれ触れられるには濃密さが不可欠で、それは土なくてはないので、火と土とを物体としての世界の基盤に神は据えられたのだ。また、何であれ二つのものが第三のものを加えずにしっかり離れることなく結びつくということはないので――(31c)間にあれば最もよく両者を結びつけることになるものこそ最も堅固な結合に違いなく、それは自らと自らに結び付けられるものを一体にするものであるが――部分を計り適合させるという仕方でそれはなされるのである。つまり、三つの数や量あるいは何か他の性質のうちに*「中」が元に対し、(32a)ちょうど端が中に対するようにあり、また逆に、元が中に対する通りに中が端に対するとすれば、まさしくその場合に中は端にも、また同じく元にも何ら背かず、翻って、かの極が中の地位にされそれと等しくされるなら、今度は中が極の代りとみなされるので、思うにそうなると、もの全体が同一の仕方でまとまり、同じようにして、部分全体が互いに同じものとなることになり、まさに一つの有り方がそれらに備わるということになるのだ。さらにこうして、たとえ部分が個々別々のものだとしても、全体は同じ一つのものだということになる。  *ギリシャ語原文でも解釈の分かれる所だが、ラテン語のmolesやpotentiaを「立法数」「平方数」と訳すのは無理があるのではないかと思う。  さて、物体としての森羅万象が奥行きと幅だけでよく厚みは何も持たなくてもよかったとすれば、そしてあたかも立体の表面のようなものだとすれば、一つの「中」だけで十分に自らと末端の部分とを結び付けられただろう。(32b)しかし、物質世界は立体でなければならず、またさらに、立体は一つではなく二つの中で結び付けられるので、世界を創ったお方は火と土の間に風と水を入れ、強固なあり方でこれらの要素の釣り合わされるようにしたのだ。つまり、火と風の間の類縁性が風と水との間にあるよう、また逆に、風と水との間にあるのと同じものが水と土の内に在るようにしたのである。そしてこうして、今言った四つの素材から、この卓越した機構が目にも見え触れられるものとして作り上げられたのだが、(32c)それは部分々々の友愛と、等しさを基にした比例によって統合されているのであって、作り上げたものの意思によるのでなければ何事に対しても不死不滅なほど強固なものなのだ。  しかるに、かの物体全部が、何らの取り残しもなく、世界を取りまとめるに当たって使われたのである。すなわち、火全体、またかの残余のものにしても全て、つまり風水土全体からそれは構築され、物質にしろ働きにしろいかなる部分も残されたり疎かにされたりはしなかったのだ。それはまさしく、宇宙が完璧な生物となるためであり、また、完全無欠な物体によって完成されるためであり、さらには、永遠に無病なものであるためであった。(33a)というのも、かのお方の見たところ、物質の本性というものは、熱や冷や、多大で有害な働きを具えたあらゆるこの種のものがよからぬ仕方で近寄ってくると、容易に「病む」のである。こう考え考慮して、一つの完全なものとして完全なるものから、老いや滅びに至らぬものとして作り上げられたのがこの世界であり、(33b)それにふさわしい形が与えられたのである。つまり、全ての生物を自らのうちに含み、その全ての形をいつでも生み出せるような形が。それは、丸い球形であり、中心から末端部分まで含む全体まで等しい距離を保っていて、そうやって全体が自らに相等しいものとなっており、相似の方が相異よりもよりよいと考えてのことだった。さらに、この球の外面をじっくりと至る所滑らかに仕上げたのだが、そのわけは、(33c)見えるものは全て球の内部に取り込まれているから見るということが不要であるからであり、聞くべき音も外部には何もないので聞く必要もなく、呼吸する機関も要らず――何しろ気息は全て内部に封じ込まれているのだから――、まして、新しい食べ物が入ってきたら古いのを水で流し出す部分など全くなくていいからなのだ。というのも、宇宙は何ものも外に出さなかったのであり、全てのものは閉じ込められているので、何かを受け入れるための機能もなかったからで、むしろ、自らの内で古くなった部分は滅び、それと引き換えに食物は何か部分を得、そうして、世界丸ごと全体も、その部分が互いに作用し受動することで、同じものでありながら作用を及ぼしまた受けるようになっているのである。さらに事実、手もそれには不必要だと思われたのだが、それは掴むものなど何も残っていなかったからであり、足も不要だったのだ。(34a)そのわけはこうだ。七つの運動のうち、場所ではなくともかく理知に関るものこそそれにはふさわしく、それだから、回転運動こそ魂に特有のものであり、場所から場所に移動するものはそうではないのであって、こうして、それは周回して一定の限度内を巡るものだからなのだ。それでこそ、宇宙の運動は着実で誤りのないものとなる。  しかるに以上が、永遠なる神が、(34b)いつか将来生じるであろう神についてあらかじめ鑑みたことで、つまりそれを、一様に滑らかで偏りのない、中心から全方向に向かって等しく、またあらゆる完璧なものから完成された全体として生み出したのである。また実に、魂をその中心に据え、その同じ魂が、球をなす宇宙全体に一様に広がるようにさせ、そうして、全体の最遠部も内部部分に包まれ、魂が巡って覆われるようにしたのである。かくして、滑らかな球体が円を描いて自らを周回し展開することを意図し、それが唯一の存在として運動することを望んだのだが、それはまた、徳の内でも傑出したものを十分備えているので自らにふさわしい融和に何ら特別な助けを要せず、常に自らの友たりえるのである。そしてまた以上の理由で、宇宙は最も幸福なもの、まさに神的な権能を備えたものとして生じたというわけだ。  さてしかし、この我々が順序としては今語っているその魂だが、(34c)これに神はより若い者として生まれることを認め、肉体よりも後のものとした、などということはないのだ――先だって生まれたものが後から生まれたものに支配されるのはよいことではないのだから――。だが、人というものは前後に無頓着だったり順序をよく踏まえずに物事をしたりするものだ。だが実際、神は後先に関しても「徳」に関しても魂が身体の本性に先立ち、そっちの方が支配者となるようにしたのであり、こうして、保たれている物事に最もよい法が備わるよう望んだのである。  そこで、魂の第三の種が考え出されたのだが、それは次のようにしてであった。(35a)まず、不可分で常に同じ状態に留まっている実体と、また同様に、物体の中でも不可分な類で、同じ物体に分けられているとされるもう一つのそれとを元に、この両者の実体の間に第三の実体を混ぜ置いたのである。また同様にして、双子状の二つの形の本性――つまり、「同」と言われる部分と、「異」と呼ばれるそれ――から第三の種の本性を考え出し、それを不可分な実体と、同じく、物体の結合によってよって分割された物体との間に置き、そして、これら三つ全てを一つの形態へと混ぜ合わせたのだが、その際、かの相異なる本性を、類を一つにまとめ固めることへと押しやったのである。  (35b)また、実体に混ぜ合わされた三つのものから一つに戻されたこの一つの全体を、またそれにふさわしく部分に分けたのであるが、それも、個々の部分が様々異なる実体から、また同じく、「同」と呼ばれるものの双子状の本性から成り立っているようにしたのだ。そしてその分割は次のようにして行われた。つまり、宇宙全体から最初にある部分を取り、その後にこの取ったものの二倍のものを取り、三番目には二番目のの一倍半であり最初にとられたものの三倍を、そして第四に二番目の二倍を取り、第五は第三の三倍、(35c)第六は最初のより七倍多い部分を取り、第七は最初のものの二十七倍のをそうした。  そしてこうした分割に沿うようにして、(36a)二倍や三倍の量の間を埋めていったのであるが、宇宙から部分を切り離して、それらで間隙の隙間を満たし、その際、一つの間隙が二つの中で保たれるようにしたのだ。もっと詳しく言えば、これら「中」の一方は、極限の一定の割合をもって一つの極限を超過し、また全体としてもう一つの極限の全体に超過されるもので、もう一方の「中」は、数として等しく平等な総計の分だけ、両限を超過し超過されるものである。  このようにして「限」が生み出されたのだが、つまり、三対二のそれ、また同様に、自らの三分の一をさらに得るもの(その類をギリシャ人たちはそのような一語のギリシャ語で「超三分の一数」と言っている)、また自らの八分の一をさらに得るもの(これも彼等は「超八分の一数」と呼んでいる)が生じ、(36b)これらをつなぎ合わせて初めにあった間隙を、すなわち、九対八の間隙で四対三の間隔全てを埋めていき、完全に最後まで行き渡らせて四対三がないようにし、結局は243対256という比が残るようにしたのだ。そして、混合物として類のあの万有全体はもう全てこのように部分に切り分けていくことでなくなってしまった。  そこで、この一連の連なりをまた分けて、一つの連なりから二つのそれを作り、それらの中間と中間をあわせてギリシャ語のXの形にしてから丸く曲げたのであるが、(36c)互いに頂点が当たり、あたかも円が円を内に含むようにし、その一方は対峙する円を、もう一方は傾いた円を描いて回るようにして、外側の円には「同」の運動、つまり同一本性の血筋をたもつそれ、の名を与え、内側のは「異」としたのである。そして、外側の円――「同」と名付けられたと言った方だ――は右側から左側へ動いて右に巡らせ、他方「異」の方は対角線を通じ左方へそうさせつつ、同一で一様な回転の方こそ本来の主要な回転運動だとしたのだ。(36d)つまり、一方はそのまま分割せずに残し、他方、内側の方は六度分割して七つの不等の軌道を作り二倍及び三倍の間隔に沿わせ、軌道自体は反対の運動をするようにし、これら七つのうち三つは同じ速度で、残り四つはこれら(四つ)自身でも他方の(三つ)に比べても不等で似ていないが、しかし比例はしている運動をさせたのである。  そして、父祖の意向に従うように魂の理に適った構造全体が出来上がると、そのやや後に肉体全部を、それを取り囲むもの(魂)の内側に作り上げ、(一方の)中を(他方の)中に結び付けつつ、よい響きが得られるように繋げていったのだ。さて、こうした宇宙の端から端を包み込み、それを外側から取り囲んで巡り、自分自身も周回してこれを覆いつつ、自ら自身も回転して、神々しい門出を、知恵の疲れ知らずの絶え間ない生涯は幸先よく始めたのである。  また、宇宙もしくは天の身体は確かに見えるものとして創られたのだが、この魂そのものは見えないものではあるものの、しかし理法や同様に調和を備え、(37a)あらゆる理知的なものより優れたものとして、最も優れた製作者によって創り出されたのだ。  さてこの魂は、「同」と「異」の本性を元に「有」と混ぜ合わされ、神的な動き、つまり円環運動と結び付けられ自らに回帰するので、何であれ拡散しうる実体や不可分のそれに当たる場合は、何が「同」にして不可分な本性に与り、同じく何が「異」にして拡散しうるそれにそうするのかを容易に見分け、全て出来するものの原因を見て取り、生じるものの何が将来もあるかを計り、その理に適った運動がいかなる可感なものとともにあるかを音も声もなしに観察し、しかして、種々多様な円運動が過ちなく働いて、全ての魂に真実を告げ確かなことを伝える感覚を備え、信ずるに足る正しい信念が生まれるのである。(37c)そしてさらに、不可分で常に同一である種を観照し、内奥の動きによる物事を忠実に伝える場合には、それが知恵・知識にまで育つのだ。<……>  さてこうしたもの全てが魂の中に作られ、この同じものにおいて傑出しているのは明らかである。そして、この魂が生きて動いており、自らの似像が作られたことを、不死の神性を具えた創造主自身が見て取ると、その似姿に大変大いに喜び、実物に同じであろうとするさらに他の特徴も考え出さねばならないと思ったのだ。(37d)しかるに、この魂が不死永遠なものであるのに倣い、感覚世界も不死の生物として作り上げたのである。しかし実際は、この「生物」、つまり普遍者としての生物、は本性上永遠に等しいのだ。ここからして、自然に作り上げられた被造物には、永遠との連合に連なることは到底ないように思われる。そういうわけで、数に従って進む動くその似姿を、自ら作った仕組みに結びつけ、これを「時間」と呼んだのだ。これは、永遠に(直接)触れるものではないが、一つ一つ着実に進むものではある。(37e)つまり、昼と夜、月や年は、天が整えられる以前はなかったのだが、今や世界の誕生とともに存在を命じられたのだ。これらは全て時間の一部なので、我々はそれを永遠にも当てはめ、つまりそれだけで存在する自然本性に帰するのだが、それらを個物の部分とするのは正しくない。というのも、我々は(永遠が?)「あった」「ある」「あるだろう」というのだが、かのものにはただ「ある」だけがふさわしく、それが正しく真っ当な理に適ったことであり、「あった」だのまた「あるだろう」だのはふさわしくないのである。本来、これらは生成する時間に専ら関るもので、つまり運動しており、あるいは過ぎ去った時間や、他方これから来ようとするそれに備わり、決して永遠の時間には関らない。永遠の方には、果てしなく不変の持続が属するというのが真実だ。したがって、「より若い」も「より老いた」も、「あった」も「あるだろう」もなく、感覚に関る本性が受け入れる何ものも受け入れないのであって、これらの変転全ては永遠を模した時間に属するものである。しかし、これらについては多分後からもっとふさわしい論ずべき機会があると思う。  時間は宇宙とまさに「同い年」なのであるが、それは、仮に解体されるのが理に適い適切だとしたら、もろとも同時に解体されるようにとの事であり、両方の世界が時間を範として似たものとなるようにとのことであった。(38c)というのも、「原型」というものは全ての時間に常に現前するものなのだが、感覚でとらえられるその「写し」は、いわば、あらゆる時間を通じて「あった」ものであり「あるだろう」ものだからである。  かくして、このように時間が生成され生み出されることを神は望んだのだが、その神の理知と配慮によって、太陽と月と、「惑星」と呼ばれる他の五つの星とが作られたのだ。そのことで、時間の部分が確かな尺度とともに区切られ、回帰回折が時間を表す数の統合の下に進行するようになった。そして、まさに「体」である天体を作り上げて、様々な本性が生きた運動をするのに、数にして七に相当する物体をあてがったのである。(38d)つまり、地球のそばに月の第一の軌道を、太陽は第二のそれに、さらに、ルキフェルとメルクリウスの火は、太陽の軌道に沿って走る動きをしつつも、それとは逆に動く軌道を描くよう配置したのだ。 注解第一部  (1)(58)(69)プラトンの『ティマイオス』は古人達も理解が難しいととらえており、表立ってそう言ってもいるのだが、これは書物としての力が弱いために曖昧さを生ぜしめているからではない。(というのもあのお方以上に洞察力が優れているということが一体ありえようか)むしろその理由はこうである。問いを立てられた問題事項を説明する(70)際に働く理論の技法を講議する者達が、著作の技術を十分に持ち合わせていなかったからである。そして総じて、論考に取り上げられることを、問題事項に相応しく無関係ではない論証によって詳らかにすることができなくなってしまったからである。つまり、今言ったのは確かな論証ということであるが、それは、一致調和した理論によって問題を明らかにする論証のことである。例えば、天体の運行について何か意見が一致せずそれ以上論議が進まない場合は、いわゆる天文学という理論から結論が導かれるし、また、色々な弦や様々な音声から生じる和声について論議がなされる場合は、音楽という理論でなだめられて異論は落ち着くことになる。また、自然にかなった治療の手段として切開を加えることが治療の際に用いられる場合は、いかなる場合でも熟練した医者の指示に従うことになっているのはもはや常識である。  (2)(58)さらに、この書では森羅万象のあり方が論じられ、また、宇宙が包み込んでいる全ての物事の原因や理法を示しているので、必然的に種々数多くの問題があることになる。例えば、天体の形状について、固体について、宇宙に生命と感覚を与える魂が物体ではないことについて、宇宙の運動、つまり永遠の活動について、星々の規則的な運行や迷走について、である。確かな教説はその全体が学にかなった手続によって行われねばならない。つまり、算術、天文、幾何、音楽などによって。というのは、個々の物事はその「家族・血族」である親近な理論によって説明されるからである。それゆえまた、学にかなった理論を用いているわけではない物事が、無知な者達の的外れな言説で論証される可能性などないに等しいからでもある。さらに言えば、何かある理論を知っている人々とはいえ、彼等によって論証されるのは、彼等がその認識を働かせて知っていることだけであって、残余の事柄は無知の闇にくらまされるのである。  (3)(58.13)(71)ここからして、この書はほとんどそのような人々によって仕上げられたように思われるし、実際そうである。つまり、この種の知識を用い働かせて万事に向かった人々である。こうした人々は他の人々と交流するにも非常に聡明な知識をもってしたので、そこから豊かな幸せが流れ出てくるはずだったのを不毛な妬みから愚かにも押さえ込んでしまい、彼等と交われないままだったのである。  (4)(58.18)こうして、説く側のあなたこそが様式を決める立場にあったので、説かれる事柄の方が、そこそこの才能を維持する能力を上回っていたのだとしても、翻訳をするだけで満足して理解を曖昧なままにし、それどころか、あまり明らかではない例で描かれた事柄を解釈を加えずに移しかえて、同程度かあるいはもっとひどい曖昧模糊さという汚点を残すことになる。また、何か難点があるとしか見えない事柄を解釈してしまい、知っているはずがない学芸や教説を当然知らないが故に覆われてしまっている事柄しか解説できないということになったのだ。全ての理知に遍く行き渡っている物事を、疑い深い疑問を差し挟んで、台無しにするというのは、傲慢で、読者の能力を信じられない者のすることであるから。それだから、古の行いや歴史を(59.1)精査する前にただの叙述をしているだけのこの書の冒頭について私は何も言わなかったが、それでも、書かれた作品全体にある秩序、つまり本の順序については大いに述べられねばならないと考えたのである。  (5)(59.3)さて、以前ソクラテスが国家について全十巻を費やして論じたことがあった。ソクラテスがこの論述に降り至ったのは原則論のためではなくそこから何事かを引き出すためだったのだのである。その際、正義について論じ始め、弁論家トラシュマコスはこれを、最有力者の利益であると定義したが、これに対してソクラテスは、否むしろ(72)最も無力な者の利益というのが正しいと説いたのである。その際彼はより明白な事例を用い、それが個々の人間の人柄においてではなく、あらゆる国家の群衆において堕落するのを探究するならば、ある国家の似像を描くことになるというのである。その国家とは、義しい性格の持ち主、あるいはそうなるであろう人々によって治められ、法をまとめあげることによって幸福となるが、逆に、その機構が崩れると、その国制には大変な不幸が生じ、性格もひどく酷いものになるというものである。  (6)従って、あの書における問題や解決は、人間に関する事柄において展開する正義だったと思われるので、自然の公正が残る問題となる。ソクラテスは、自分の能力を超える重荷であるとは言ったものの、この問題に非常に努力して取り組んだのである。『ティマイオス』『クリティアス』『ヘルモクラテス』という連作がそれで、あの書は続編を得たことになる。ここから明らかなことだが、この書の主題は次のことである。つまり、制定されたものではなく、自然のあの正義と公正の仕組みを考慮し観想することであり、それらの公正が、制定されるべき法律や起草されるべき法規に、真の中庸から実質を与えたのだ。それと同様に、ソクラテスも、人間に関わりのある正義について語った際に、市民国家の似像を導入したのだが、それに対応するように、ロクルス人ティマイオスもピタゴラスの教説に基づいて、また、天文学の理論を完璧に修めた者として、あの正義を探究しようとしたのだ。つまり、神々の種族が、感覚されうるこの世界をあたかも何らかの共通の都市あるいは国家のようにして、その中で自らに対して用いているあの正義をだ。  (7)さて、この書の章立てと、解明される項目は以下の通りである。まず追求されるのは、  1. 宇宙の誕生  次いで  2. 魂の起源   そして  3. 拍あるいは階  4. 数  5. 天体と惑星の数、太陽と月をなすのはどの数か  6. 天空  7. 動物の四種、空を飛ぶもの、歩行するもの、海を泳ぐもの、土にもぐるもの  8. 人類の起源  9. 人間のほとんどには知恵があるが、そうでない者もいるのは何故なのか  10. 視覚  11. 思考  12. 視覚という栄誉  13. 素材  14. 時間  15. 質量となる第一の素材とその保持  16. 種々の体液と粘液  17. 嗅覚と味覚  18. 様々な色と、類似の色から色への変化(74)  19. 生命を成り立たせるものの要 (61.1)20. 魂、及びその部分と場  21. 肉体の部分とその種類  22. 種々の人種の起源  23. 肉体の苦痛  24. 精神の苦痛  25. この両方の物体の治癒  26. 宇宙全体と宇宙が包み込んでいる全てのもの  27. 神の知性 これら全てが個々に、この本の順序通りに説明される。 1:宇宙の誕生  (8)(61.10)宇宙は一つの物体としてみると完全であると思われるが(つまり、完全な物体というのは、奥行き、幅、高さの三つのものからなっている固体のことであるが)、最初に平面、つまり惑星の形態が説明される。奥行きと幅はあるのだが、高さがない形態である。これらの形態によって一つの「中」が築かれると言われている。事実、二つのものは、間に入って隔てるものが何かあることで連続しており、両者の間隙に親密なものを何か備えているのである。このことは次のように表現されている。  (61.15)「すなわち、三つの数あるいは量あるいは力をもとに、低から中を、そして中から高を、また高から中を、そして中から低を、というふうに中を完成する時、まさに、中は高そして低から何ら異ならず、また、そうした端が等しい中の状態に帰され、最も遠いものの代わりに中が立てられると、思うに、全ての素材が同一の理によって結ばれ、そのようにして、それが宇宙の部分となり、しかもそれらに一つのあり方が具わるのである。そうして、部分が一つの働きをなすことで、宇宙全体が同一のものとなるのである」  (9)(62.1)数学的な論証が行われる。「二」が互いに離れ、一つの同種の中に媒介されてまとめられると言えば、以上に展開された「三」という図形が描写される(II -> III)。最初の場で描写されたものが並行されると、一つの面では二つの要素から、他の面では三つの要素から成り立つことになる。この図形を数え上げると、完全に並行した平面全体は六つの要素から成り立っていることになる。つまり二かける三は六になる。まさに、最初に平方され離された端から、最終的には一辺が四つの要素からなり、他辺が六つからなるものが生じることになる。この図形を数え上げると、24の要素から完成された平方面ができあがる。つまり、四かける六は24である。他方、12の要素からなる中間形態もあり、これが仲介することで、(62.10)最も遠くに動かされた平方が連続しているように見えるのである。この「中」は、最遠の要素と同じ種類のもので、最も離れた所に置かれた部分よりも小さい、つまりその半分になっているが、全体としての合計はより多くなるようになっている。(76)12は24の半分だからである。繰り返せば、全体としての24は、基本においては12であり、これは中間において二倍されたものである。つまり、より先の形態の全体を二倍することで中間形態の全体が得られる。要するにニかける六は12である。  (10)このように、二分と二倍という理によって最遠の限は共同して成り立っており、これは同一の条件付けに仲介されることにも基づいている。ところで、最遠の要素から生じる「中」とは何であるか。つまり、最終的な形態の境界のうち長い方の全体を、基本の形態の境界の短い方で倍にするととるべきか、それとも逆に、最終形態の境界の短い方を、基本形態の境界の長い方で倍にするととるべきか。どちらにしても12という数は生ずるのであるが。つまり、六の二倍も四の三倍もどちらも12となる。  (11)(63.1)互いに隔たる二つのものに同じ連続が備わり、一つの中によって仲介されているということは、幾何学的な証明によっても明らかにされる。そこで、今次のような図形を描いてもよかろう。向かい合って置かれた二つの直線を幾何学者達は平行線と呼んでいる。また、平行線に平方面が伴うのは論理的に正しい。(77)さて、論証されるべきことは、どのようにして、二つの平行線に同様な中が見い出され、しかも比を損なわないでいられるか、ということである。すなわち、二つの同様な平行線(ギリシャ文字AGThをつけておいた)、これらは等しい角度をそなえている。つまり、BGDとHGZである。さらに、等しい角がある所では、辺がきちんと作られるようにそれらが位置している。つまり、辺BGは辺GZに接続し、(63.10)またそれと同様にして、辺DGは辺GHに接続している。すなわちこうして、この二つの同様な平行線に理にかなった中が見い出されるのである。事実、辺BGが辺GZに直続するとすれば、すなわち、辺DGも辺GHに直続することになり、また、直線ADとThZによって最遠の辺DE及びZEが導かれ、こうして図形全体が完成される。しかるに、辺BGが辺GZに接続することによって、平行線BDが平行線DZに接続し、つまり同じ正方形によってAEBZが成り立つのである。転じて、辺DGが辺GHに接続することで平行線GEが平行線ZHに接続し、すなわちこれらも正方形を形作りつつDHEThとなる。つまりこうして、平行線BDが平行線DZに接続することで、平行線DZは平行線GThの下にあるものに接続するのである。故に、生ずべき二つの同様な平行線の間に一つの中が見い出されたのであり、それはすなわち(63.20)平行線DZである。 A−D−E I I I B−G−Z   I I   H−Th  (12)(64.1)三角形の形を用いても次のような形で中の介在が見て取られる。論証すべき事柄は(78)どのようにして、類似の二つの三角形にふさわしい中が見い出されるかということである。二つの類似の三角形があるとせよ。それらはギリシャ文字で囲まれている。一つはABGA(ママ*)、もう一つはDBEDである。これらは等しい角をそなえている。つまり、一つはABGにあるもの、もうひとつはDBEにあるものである。さて、等しい角がある所で、辺もうまくつながるように接続しているはずである。つまり、辺ABが辺BEに接続していると同時に、辺GBも辺BDに接続しているのである。要するに、これら二つの類似の三角形に適切な一つの中が見い出されたのである。つまり、辺ABが辺BEにまっすぐに向けられているとするならば、辺GBも辺BDにそうなっているはずである。そして、導かれた二つの線はある直線でつながれるはずである。つまり、線ADによって。こうして、辺ABが辺BEに接続することで、三角形BDEBも三角形DBADに接続する。事実、同じ高さにA(等?)があることになる。他方、辺GBが辺BDに接続することで、三角形DBADも三角形ABGAに接続する。つまり、ここでもA等は同じ高さにある。こうして、三角形DBEDが三角形DBADに接続することで、三角形DBADも三角形ABGAに接続するのである。(65.1)つまりこうして、二つの類似の三角形、つまりABGAとDBED、から第三のもの、つまりDBADが作られるのである。以上がなされるべき事柄であった。 *これはもちろん今の表記法では「△ABG」ということだが、とにかく原文ではこのような書き方になっている。 A − G  \ / | B   / \ D − E  (13)(65.3)「従って、著者の言う所では、宇宙という物体が幅と奥行きしかもたず、高さを全くもたないのでなければならなかったとしたら、しかし、このような面として、完全な物体の(79)性質はもっているとしたら、それ自体と最遠の部分という状況を打開するには一つの中だけで十分である。さてしかし、宇宙という物体には高さが必要であり、高さをもつ固体が貫かれるには一つではなく二つの中が必要であるから、宇宙の創造者は火と土の間に気と水を挿入し(10)同じ原素が健全な仕方で平衡を保つようにしたのである。つまりこうして、火と気の間にあるのと同じ類縁性が、気と水の間にあるように、また、気と水の間にあるのと同じものが水と土の共通性として成り立っているようにしたのである」* *「…」内は『ティマイオス』のパラフレーズになっており、大きめの活字で印刷されている。  (13)宇宙という物体は立体であり球形であると言われている。このようにしてこの物体は二つの中によって貫かれる。それはちょうど、かの囲まれた領域においてもすり鉢の形のようになっているようにしてである。事実、長さと幅も量がありさえすれば、最も外側の中に置かれた点によって計り尽くされるのであり、その中へは外郭全方向から等しい線が引かれるのである。従って、このような中は一つには表面に置かれ、もう一つは深みに置かれる。中間の高さまで押されるならば、かの点はそこに到達する。  (14)(65.20)この故に、仲介は双児としてそなわるので、それを倍加するのも、平面におけるように一度きりではなく二度なされねばならない。それでここでも我々は二つの辺を描いたのである。その一つは二つの要素、もう一つは三つの要素から構成され、ニを三倍することで六という数が生ずるということが分かる。(66.1)そして、この立体図形においては、二重の仲介によって倍加も二重のものとなるであろう。つまり、ニと三が倍加されることで同じ六が生じるのだが、その際、一つの仲介のあり方を加えられると共に、もう一つ別の仲介のあり方を加えられることで、こちらは四という数になり、(80)六の四倍を数えることができる。こうして、全ての数、量、質の極が24の部分をとることがわかる。というのも、宇宙の極つまり火は、立体として存在する物体で、あの三つの要素、長さ、幅、厚さを持っているが、それらを等しく持っているわけではなく、その火には明るさは非常に多く、熱は程々どころではなく、物質としては非常に細かい。他方、[中心である]地球はより大きい安定性をもち、(10)湿り気もある程度は持っているが、光は非常に少ない。気と水という二つの中が、今述べた原素と親しい関係を持っていることが分かるだろう。 立体図形及びその数の幾何学理論に基づく説明    3        3       4       6 2  4 24 − 2  8 48 − 3 8 96 − 4 8 192    6        6       12       24  (15)これらの立体図形の類縁性は数の共同によっても示される。つまり、第一の限界の総計は、第二のそれの総計の半分であり(つまり、24は48の半分である)、第二は第三の、この第三のものは第四の限界の総計の半分であり、同様に逆向きにも、最後のものは第三の二倍であり、同じように、第三は第二の、第一のものは第二の二倍である。また、両端の形態の間に挿入されたこれら二つの中間形態も同じ極から生み出されるだろう。つまり、最初の限にあるより大きい数の中、つまり6が、これは最も小さい数をかけ合わせること(2*3)で生じたのであるが、最も新しい限のより小さい数の中、つまり8、も同様である。故に、最初の限のより大きい中と、最後の限の(81)より小さい中でかけ合わせると、二番目の限に48という数となる実総数が作り出される(67.10)。さてまた他方、最初の限のより小さい中、つまり4、と最後の限のより大きい中、つまり6*4から総計24となる、を共にかけ合わせると、第三の限の実総数が作り出されるだろう。これは96という数となる。こうして、これらの固体の両極が二つの中によって乗り越えられるのだが、否定されようのない確実な幾何学の教説が、プラトンがなした証明にある見解を論証し確証するのである。  (16)同じ間隔が二つの立体にあるということ、つまり、二重の仲介が離れた物体を結び付けるということは、幾何学の理論によっても、比例のあり方にそって次のように展開される。しかしまず、有益であり論議のためにもなる事柄、(68)つまり、我々が比例と呼び、ギリシャ人達が類比と呼ぶものを説明しよう。比例は双児であり、一つは連続しており、他方は隔たっている。連続した比例とは、中間にある共通の限によって最遠の部分を結び付けるものであり、隔たった比例とは、中間にある二つの限によって最遠の部分を隔てるもので、二つの限のあり方はそれら自身に一致した状態にあり、あたかも合意があるかのようである。こうして、複数のあり方が対置されることで比が成り立ち、相似な持続が三つのほぼ等しい限に(82)見い出されるのである。つまり、第一のものが第ニのものに接続するのと同様に、第ニのものが第三のものに接続し、8が4に接続するように4が2に接続するのである。事実、これらの限のうち、中として自らを反映させるものは、(68.10)最遠のものを平方倍して生じるものに等しい。つまり、8の2倍は16であるが、これは4の4倍に等しい。他方、隔たった比も、四つの最小限のうちに見い出される。つまり、第一が第二に接続するのと同様に、第三も第四にそうするのである。8が4に接続するように、6も3に接続するのである(これを「4が6に接続するように」と言い直すことはできない)。これらの内では、連続する相似な図形の限において、最遠のものからなるものが、中を数え上げることで生じるものと等しくなっている。つまり、8の4倍は計24となるが、これは4の6倍というこれに等しい総計を作り出す。  (17)故に、今ここで、連続する比例という理論あるいは理法が用いられているのは、その本性が、離れた限を結び付けて一つにするものだからであり、(68.20)またそれが、感覚でとらえられる世界の創造者である神が用いられたのと同様の理法だからである。というのも、神は、世界の最も遠い限、つまり火と土、に気と水という中を差し入れたのであるから。        N−−P       /| /|      K−−M |      | X|−O      |/||/|   E−−Th−−L |  /| /| U|−F A−−D−|S |/ | Z|−H|−T |/ |/ |/ B−−G−−R  (18)二つの離れた六面体の記述がなされる。つまり、いくつかの六面体が連続して一つの固体を形成し、その際に二つの別の六面体が挿入され、連続する比例(ギリシャ人達が「連続した類比」と呼ぶもの)に基づくのである。しかるに、この記述が論証する(83)限りでは、二つの立体(幾何学者達が六面体と呼ぶもの)が、類似の二つの立体を挿入されることで連続し、連続する比例という理法に従っていることが、統合と分離によって明らかになるのである。さて、平行線、つまりそれからなる正方形が描かれる。四つのギリシャ文字ABGDで囲まれる平面である。そしてこの正方形に、EZHThで囲まれる別の正方形が加えられ、辺EA、ZB、ThA、HGで両者が結び付けられる。そしてこうすることで、一つの立体あるいは六面体が完成される。これに同様な別の立体が次のようにして描かれる。線分EThによってをThLが延長され、逆にLThによってEThが延長される。また、HThによってThKが増加され、点KからKMが、また同様に点MからMLが、さらにまた同様にして、XからXOが引かれる。そしてまた、この同じXとOから二本の直線、XNとOPが引かれる。さて、ThLはEThと、ThEはLThと、ThKはHKと同一面にあるとせよ。こうして、正方形KThLMとNXOPが同様なものとなり、NKPMとOLXTh(ママ)が連続することになる。別の立体もこのようにして生ずることになるが、それは次のように叙述される。つまり、以上述べた二つの相似の立体の間に別の二つの相似の立体が、連続する比率に従って見い出されるのである。つまり、線NXによってXUが、POによってOFが、また、MLによってLT、同様に、LDによってDS、(84)BGによってGRが引かれるのである。そして、線NXはXUと、POはOFと、MLはLTとADはDSと、BGはGRと等しい面にあるとせよ。つまり、平行線をなすことによって、同じ正方形にあるものは等しい面にあるということになる。そして、YH、SL、FT、TR、が連続し、他の面も同様である。こうして、四つの立体が連結されることになるだろう。  (19)どの程度のことがこうして証明されるのであろうか。辺EThが辺ThLに接続するように、正方形EZThHも延長されて正方形ThHTLにつながことになる。従って、立体ABGDEZHThはDGRSThHTLに接続する。すなわちこうして、上で叙述した(70.10)辺は、自らに相似する様式を持つことになる。つまり、同じ正方形の下にあるかのようにして、正方形がそれ自身に相似するのである。同じ高さの下にあるというので。そしてまた従って、上で語られた立体も自らに相似する類似性を持つことになる。他方、辺DThがある高さで辺ThXに接続するように、正方形ThDGHも正方形ThXUHに接続することになる。そしてこうして、立体DGRSThHTLも立体ThHTLXUFOに接続することになる。さてしかるに、以上で把握された諸辺は自らに対比するという様式を備えていて、同一の正方形の下にあるようである。そしてまた、それらの正方形も自らに対比している。同じ高さの(85)下にあるからである。こうして、以上で述べた立体も自らに対し相似する類似性を持つことになる。他方これとは別に、辺HThが辺ThKにある高さで接続することで、(70.20)正方形ThHTLも正方形KThLMに接続することになる。こうして、(71)立体ThHTLXUFOも立体KThLMNXOPに接続することになる。さてつまり、以上で把握された辺は互いの間に類比を備えていて、あたかも同じ正方形の下にあるかのようであり、それらの正方形も、同じ高さにある以上、互いに相似しているのである。そしてこうして、以上で述べた立体も互いに類比し相似することになるのである。すなわち、立体ABGDEZHThが立体DLRSThHTLに接続するようにして、後者のその同じ立体もThHTLXUFOに接続し、また同様にして、この最後の同じ立体が立体KThLMNXOPに接続するのである。  二つの類似の立体六面体がこうして展開されることで、中間にある二つの類似する立体六面体も、連続する相似というあり方に基づいているということが見い出される。以上が示されるべきことであった。  (20)(71.10)こう言う人がいるかもしれない。確かに、より長い距離を間に挿んだ二つの物体が、間に入って仲介する二つの物体を通じ、連続し相似するあり方に従って結び付けられるということは以上で自明なものとなったかもしれない。しかしながら、火と土の間には、確かにこれらは固い物体ではあるが、何の類似性も見られないではないか、と。というのも、プラトンその人に従っても、実際火の形態は錐形であると言われているからである。つまり、錐をなして上昇するというのである。他方、土は方形であり、これらが形の上での相互の類似性によって交替するなどということはおよそありそうなことではない。第一、双方の形態にそなわる角度は等しいどころではないではないか、と。(事実、立方体は(86)全ての角が直角なので、土は立方体の形態をとる以上、必然的に直角をもつことになるが、錐形の角は鋭角により近いのである)そして、角が等しくなければ、辺が類比した、(71.20)もっと言えば、自らに相似なものになるはずがないではないか、と。何であれ離れた物体が他の二つの立体が介在して連続するとしても、連続はこのようにして妨げられるのだ。二つの物体の間に挿入されるべきものが任意のものではなく、各々互いに相似した立体なのだとしたら、どうしてもそうなるではないか、と。  (21)(71.24)このように言う者に対しては差し当たり次のようにして応答できよう。我々が覚えておくべきなのは、次のようにとる人々があることである。プラトンはまさにこの難問をはるか以前に予見していて、そのような難問を感じ取るであろう人々を過ちからもう既に救出していたのだ、と。我々も覚えている通り、プラトンはこう言ったのだ。類似性というのは形態においてだけではなく、能力と性質においても探し求めるべきなのである、と。プラトン自身はこう言っている。「三つの数において、量なり性質なり*があり、内奥が中に対応するのと同じように中が端に対応するようになっているのだから」それだから、火と土との間には外見上つまり表面上の類似は何もないとしても、こうした原素の本性や性質、あるいはそれらの特性においてそれを探し求めるべきであろう。前者は何ごとか作用の授受が行われる際に伴うものであるし、後者によって両者の原素の力、とりわけ類縁性が表されるのであるから。しかるに、火にも土にも実に多くの異なる特性がそなわっているが、しかし(87)それらの力なり特質なりを最も強く表すのは間違いなく次のものである。つまり、火には鋭さがそなわり、鋭く貫通する。また、柔らかく、大変精妙で細かい。さらには、動きやすいので常に動いている。他方、土には鈍さがそなわっており、(10)鈍く、太っていて、常に不動である。これら二つの本性はもちろん正反対だというべきであるが、それでも、互いに対立しあう中にも等しいものを備えている。というのも、似たものは似たものに、似ていないものは似ていないものに比類されるからである。そして、こうした関係こそが類比、つまり連続して競合する比である。すなわち、鋭さが鈍さに対立するのと同様にして、精妙さが太さに並べられ、また、精妙さが太さと並べられるのと同様にして、動きやすさが不動さに対立するのである。換言すると、中であるものが端をなしており、これらは実に、最遠の距離にあるものが中に置かれていて、類比という規則正しいあり方を作り上げるのである。 *無論『ティマイオス』本文の解釈の趨勢は「立方数」「平方数」というものであるが、この注釈の文脈ではこう判断すべきであろう。  (22)(72.18)しかるに、これら二つの立体の間に類比が成り立つ限りで(これらにどのような類似性があるかはすでに示した通りである)、間に立つ他の二つの立体も、(20)連続して競合する比に従って連続している。これは算術の理論の通りである。つまりこういうことである。火に近い原素が何であり何から成り立っているのかを探究しようとするのであれば、火が最も近いので、火の二つの徳性、つまり精妙さと動きやすさ、そして土からは一つの性質、つまり鈍さを取り上げるべきであろう。かくして、第二の原素がどうして生じるかが分かる。火に下属する原素、つまり気である。つまり、この原素は鈍いが精妙で動きやすい。他方、土に近い原素、つまり水、がどのように生ずるかを考慮するならば、土からは二つの徳性、つまり鈍さと太さ、そして火からは一つ、つまり運動を取り上げるべきであろう。こうして、水という実体が生じる。つまり、鈍く太っているが動きやすい物体である。(88)さて以上のようにして、火と土の間に、両極の徳性を凝集することで気と水が生じ、(30)それらによって宇宙の連続が成り立つのである。さて、このようにして、幾何学的な類比もまた連続して競合する比に従って保たれる。つまり、火が気に対するのと同じようにして気も水に対し、さらに水が土に対する。そして逆に、土が水に対するのと同じようにして水が気に、また気が火に対するのである。  (23)(73.5)以上で、宇宙という物体の構成と、宇宙を成り立たせている素材の誕生については論じられた。さて、作り出されたものは物体である以上堅固であり、同じものである限り分解されないのではあるが、作り出され生み出された被造物は分解され、生まれ出たものは滅びるのでもあるから、人々の意見に沿う所を修正治療するためにも、物事が何によって作られ、何から成り立ち、(10)何を範型として構成され、どういう原因により、どの程度永遠に近いかということをプラトンは述べる。つまりこういうことである。存在する物事は神の作品であるか、自然の産物であるか、自然を模倣する人間が技術を用いて作り上げたものか、どれかである。自然が生み出した物事の始源や起点となるのは種子であり、これが作り出されるのは、(74.1)あるいは大地の核から植物の穀物へと進み出たものとして、あるいは、青年期の動物の種子が生殖器の豊穣さによってまとめあげられたものとして理解されている。これら全てのものの(89)始源は時間の内にある。つまり、自然と時間とは、同じようにして同じ時に生まれたのである。自然が作り出したものは、始源をもっているが、それはその物事が在りはじめた時間によっている。そうである以上、それらはそれらが滅びる終焉をももっており、つまり、連続したつながりの中で解消されるのである。しかしながら、神の作り出した作品の始まりや起点は把握不能である。つまり、確実にそうだと示されるものは何もないし、いつの時間に在り始めたのかを示すものも何もない。そういったものの何でもよいが、それが何らかの原因によって存在しているのが何故であるかというその原因があるということだけは、そういうものが何かあるとしての話だが、そしてまた我々が理解できるのは精々そこまでだが、確かである。神によって作られたものの何ものも原因なしでは(10)ありえないということは確実なのであるから。したがって、自然の法によって産み出されるものの原理が種子であるのと同様に、神が作り上げた物事の原理は「原因」であり、それは明らかに神的な摂理である。しかしながら、神は時間の創造に先立つ永遠なものであられるので(「時間は永遠を模倣したものであるから」)、神の全ての業の原因も時間に先立つものであり、神が永遠であるように、この原因も永遠である。ここから結論されることだが、何であれ[直接]神に作りなされた物事は時間に依るものではなく、時間に依るものでなければ、時間の法には縛られない。さらに、時間は歳月を移り変わらせ、病、老年、死をもたらす。従って、神によって作り上げられた全てのものに、端緒あるいは端緒の原因となるものは無関係であり、それらは時間とも関係ない。そして、感覚で捉えられる宇宙は神の作品である。故に、端緒あるいはそれの原因となるものは時間に関わらない。このように、感覚で捉えられる(20)宇宙は、もちろん物体であり、神によって作られ組み立てられたものではあるが、永遠なのである。  (24)(75.1)さらに宇宙は欠けるところのない完全な素材から成り立っている。プラトンはこう言う。「火全体、気全て、そして他の元素からも何ら部分を損なうことなく、作り上げたのだ。それはつまり、どんな物体のどんな小さい部分でも宇宙という囲いの外に残ることのないようにしたのである」(32c6-8)およそ物体である限りのものはある意味では熱く、ある意味では冷たいのであるから、いくら元々なかったものでも、冷や熱が外部から加えられたところで、それが宇宙を動かして苦しめるということはない。従って、宇宙は不可避の不具合から離れたところに置かれているので永遠なのである。「しかし、物体の本性は流動的であり、宇宙は物体から成り立っている」と言われる。しかしながら、[宇宙の]一部が損なわれて滅びることがあったとしても、それはただ流れることによってそうなるのではなく、流れ出すこと、つまり外部に流れることによってそうなるのである。事実、何ものかが外に放たれるとすれば、それは(75.10)宇宙から欠けるということになるだろう。しかし、宇宙の内部で何もかもが投げ返されるにしても、もちろんそれらが宇宙の埒外にあるということは全くない。それだから、物体の本性に即して流れる以上は、流れ出す先というのはどこにもないのである。故に、流れ込むことはあっても流れ出すことはないのだ。そして、結局宇宙が再び何か打撃を被るとしても、それはつまる所、長い時間の中で消耗した部分が再生されるということなのである。  (25)(75.14)叡智で捉えられる不変の別の永続性を範型として作り上げられたものとは何か。もはや誰も疑わないであろうが、永遠なるものを範型としてそれに似せて作り上げられたものは永続性に似たものを持っている。さて、永続性は時間の内にある。しかるに、範型、つまり叡智でとらえられる世界、は時間の内で(76.1)作り上げられている以上、これを範型としているもの、つまり感覚的な世界も時間の内にある。そして、時間の特性は前進するということであり、永遠の特性は持続し、常に同一であり続けることである。同様の対照であるが、時間には部分がありそれはつまり昼と夜、(91)月や年であるが、永遠には部分というものがない。また同様に、時間には過去現在未来という種別があるが、永遠はその本質において一つだけであり、ただ永遠に現在である。従って、叡智でとらえられる世界は常に存在し、この世界も、かの世界の似像である以上、常に存在したし、存在しているし、これからも存在するのである。 魂の起源  (26)(76.7)ここから、転じて宇宙の魂を論ずるに当り、プラトンがまず配慮しているのは、「順序を逆にして」、その身体の構成を先に論じ、魂が吹き込まれたことについてはその後に論じられたということである。逆だというのは、神は全ての「物体に先立つ(10)魂として」成り立っているからである。 Chalcidius, Tim. 144 = SVF. 2.933  このような主張をする者もいる。摂理と運命は違うと当然のように思われているが実は同一のものだ、というのだ。というのは、神の摂理は意思であろう。さらに、神の意志は原因の連鎖である。また実にここから、意思である以上、摂理であるし、さらに原因のこの同じ連鎖である以上、運命と同義であることになる。ここから生じることは、運命に従う事柄は摂理によってもあるということである。同様に、摂理に従うことは運命による。そうクリュシッポスも主張している。しかし他方、摂理という権力に因るものは運命に従って現れるが、しかし運命にしたがうものは摂理に因るわけではないという人々もいる、例えばクレアンテスのように。 Calcidius, Ad Timaeum 160 = SVF. 2.943  だから彼等は次のように言っている。もし神が全てのことをそれが起こる前にあらかじめ知っているとすれば、しかも天体だけでなく、これは何らかの運によっているようだが永遠の至福という幸運な必然に支えられているのだ、我々の思惟や恣意まで知っているとすれば、神はどうなるか分かったものではないかの本性をも知っており、現在過去未来のことを掌握しているのであり、それ故前もって知っており、誤ることはありえない。本当に、全ての物事はあらかじめ定められ決定されているというのだ。我々の権内にあるものも、偶然にさらされないことはない運次第のものも決定されていると彼等は言う。さらに、こうした全ての物事は既に前もって決定されているので、生ずる限りの全てのことは運命に従って生ずるのだと彼等は結論づける。さて、法とはある種の推奨と叱責と教唆であって、あらゆるものは運命にかかわる状況に支えられているということに関わる。もし何かを受け容れるように決定された人がいて、そこでその一つのことが決定されているとすれば、この者の助けや利益になるようにそのことは生じなければならないはずである。例えば、航海における安全が生じるであろう人がいれば、それは任意の誰かではなく航海を指揮するあの船長に従うことで彼に生じるであろう。あるいは、市民国家によってそうなるであろう人がいるならば、善い習慣や慣習を用いれば、またはスパルタのリュクルゴス法を用いれば、それが生じるだろう。同様に、例えばアリステイデスのように、将来正しい者になるであろう人がいるならば、父祖のこの教育が正義や平等を広めることにおいて補助となるだろう。…  (161) 技術もまた運命の決定の下に働くことが明らかだと彼等は言う。すなわち、病気だが医者のおかげで回復するであろう人は以前から既に前もってそう仕向けられていたのだというのだ。それだから、しばしば起こることだが、かくの如き条件が定められていた場合には、病人は医者のおかげではなく素人のおかげで治癒することもあるのだ。同じ理屈が名誉や非難や探求や報酬についてもある。すなわち、しばしば起こることだが、運命が反対するので何らかの正しい行いが何ら名誉をもたらさないどころかかえって非難と罰をもたらすことさえあるのだ。ところが実際に、卜占術が既に前もって決定されている将来の出来事を明示すると彼等は言っている。すなわち、決定が先行しないならば、その理へと与兆が至ることはありえないというのだ。実に、我々の魂の運動は運命の決定の働きに他ならない、我々を通じて動かしている運命によってことが運ばれているのが必然ならば。場がなければ運動も定位もありえないが、このようにして、それがなければことが運ばれないものの変遷を人々はつかみ取るのだと彼等は言っている。 Chalcidius, Ad Timaeum 165 = SVF. 3.229(?)  さらに彼等の言うところでは、過誤は自由意志に基づくものではない、なぜなら全ての魂は神性をそなえており自然な欲求に従えば常に善を求めるのではあるが、しかし時には善悪の判断において誤るからである。つまり、我々の最高善は快楽であると説く人々もいれば、富だと言う人々もいるが、一番多いのは名誉とする人々で、こうした全てのものを真実の善そのものよりも偉大なものとしている。過誤の原因は様々である。まず第一に、ストア派の人々が2重の転回と呼ぶものがある。ところで、このものは事物そのものからと同様に通俗化した信念からも生ずる。というのは、産み出されて母親の体内から産み落とされるや否やある苦痛とともに誕生が始まるのだが、それはまさしく温かく瑞々しい居場所から寒く乾いた所へと空気に囲まれて出発するからなのである。赤子たちのこの苦痛と寒さに対抗して逆らうのは、それが薬の役割を果たすのだが、産婆たちの巧みな先見であり、こうして新生児たちはすぐに温かいお湯で温められ、母親の胸の代わりや類似のものが温めて暖めることから保たれ、曝された柔弱な身体はこれで喜ばされ安らぐのである。故に、両方の感覚、つまり苦痛のそれと喜びのそれ、からある種の信念が生じるのであり、全て自分自身に喜ばしいものは善であり、苦痛をもたらす者は反対に悪であり避けるべきであると説くのである。  (166)同じく、同じ説が渇望と充足、魅了と叱責についても当てはまる、さらに進んだ年代に達すると。というのは、同じ説は固められて、先にある年代にも保たれるのだから。つまり、魅了するものは全てたとえ無益でも善であり、より大変なことは全てたとえ便宜をもたらすものだとしても悪であるとみなすのである。これに続いて、富を、こうした快楽においては最もずば抜けた手段だから、過剰に喜び、名声を名誉の代わりに歓迎するのである。また、本性上全ての人は栄誉と名誉を欲するものである。というのも、徳に対する名誉が証拠であるから。しかし、思慮があり、知恵の探求に転じた人々はどんな徳をどうやって育て上げれよいかを知っている。実際は、無学な大衆は物事の無知ゆえに名誉の代わりに名声と世間的な評価を育てている。実際に、快楽で汚された生を徳の代わりに追い求めている、望むことをなせる能力が何らかの王のような光栄であるとみなして。人間は本性上王的な動物だとすれば、また王制は常に力を追い求める以上、王制といえども力に服従しているのではないかと思われる、両親による正しい保護が王制であるとして。同時に、自由に生きることは必然的に幸福である以上、快楽と共に生きている人々も幸福であると人々は主張する。こんな見解は誤謬であり、物事の出自から人間の魂を把握するというものにすぎない。  (167)さて、上述の過ちに通俗化によって続くのは母親や乳母たちの願いに基づいて富や名声やその他誤って善と見なされるものにそそのかすことである。また、惑乱は若年を激しく動揺させる恐怖のうちにあり平安やこの種の全てのもののうちにはない。挙げ句の果てには、力を与えられた精神をそそのかすもの、詩や著作家・教師のその他の高尚な作品が一体どれほどのものを精神に棍棒でもたらすだろうか、快楽とならんで、苦痛や、名声への傾斜を。ではどうだろう。画家や彫刻家たちもまた魂を勤勉から心地よさへと駆り立てるのではないか。実際、悪徳へ駆り立てる最大のものは心身の凝集にあるのであって、これが多すぎたり足りなかったりすると我々は快楽や怒りにより傾きやすくなるのだ。これらに加わるのが生を送ることそのものや運の要、つまり苦痛、隷属、必需品の不足であり、これらに関わることで我々は美徳の研究から整えられた生にふさわしい義務へと自らを導き、真の善の考察から呼び戻されるのである。故に、将来賢者となるだろう人々に必要なことは、大衆には縁のない教授のみならず自由教科及び美徳に導く教説によってもまた、知恵に導く選ばれたものを全て見て観察することなのである。 Calcidius, In Tim. 220 = SVF. 2.879; 1.138 = FDS. 424 = LS.53G  実際、ストア派の人々は、心臓が魂の主導的部分の座であるという点では一致している。しかしそれは、血がそれだという意味ではない。それは肉体と共に生じるものだから。実際、ゼノンは気息が魂であると考えたのだが、それは次のような議論に基づいている。それが肉体から退けば動物は死ぬというのもの、それこそが魂に違いない。さらに、生気という本性が退くと動物は死ぬ。故に、生気という本性が魂なのである。クリュシッポスの見解も同様である。我々が同一のものによって呼吸しかつ生きているというのは間違いない。さて、我々が呼吸するのは生気という本性によってである。故に、我々が生きているのも、同じく生気によってなのである。ところで、我々は魂によって生きている。故に、生気の本性が魂であることが分かる。また彼は言う。それで、このものが8つの部分に分かれていることも分かる。つまり、それは主導的部分、五感、さらに音声の基盤となる部分、増殖と生殖の能力、からなっている。さらに、魂の諸部分は、あたかも泉の源からのように、心臓という座から流れ出て体全体に行き渡り、個々全ての肢体を生気で満たし、数え切れない多種多様な能力によってそれらを支配し制御するのである。つまり、栄養、成長、運動、移動をする能力、伝達、感覚に基づいて行為を指令する能力、などによってである。統体としての魂はその機能である感覚をあたかも枝のように、木の幹のようなあの主導的部分から広げ、感覚は感覚するものの伝令となるが、魂そのものは伝礼されるであろうものを判断し、王のように振る舞う。さらに言えば、感覚されるものは複合的なものであり、当然物体である。それに応じて、個々の感覚はそれぞれ一つのものを感覚する。この感覚は色を、別のものは音を、またあれは味覚の味わいを判別し、これは臭いを放つものの臭気を、あれは触覚によって荒さを、という風に。そして、全ての現在あるものがそうである。しかし、過去にあったものの何ものをも感覚は何ら記憶しないし、未来のことを予想することもない。実際、それは内的な思慮や考慮のすることである。つまり、個々の感覚の情態を認識し、それらが告げることからあの外界の事物がどうあるかを論じ、そしてそれらが現に今あるのならそれを受入れ、既に不在ならば思い出し、将来のことならば予見する、のがそれらの特質である。クリュシッポスその人は精神の内奥の思慮をこう定義している。魂の内奥の運動が理知的な力である、と。物言わぬ動物達も魂の主導的な力をもっているのは事実である。それらもこれを行使して、餌を区別し、何事かを思い描き、罠を避け、険しく急な場所に飛び乗り、生存に必要不可欠なことを認識し、理性はないものの、ともかく自然にかなった行動はするのである。可死の生物のうちではただ人間だけが精神の最も根幹にある善いもの、つまり理性を行使するのである。それで同じクリュシッポスもこう言っている。「蜘蛛が網の中央にいて、糸が動き出すのを全て脚で感じ取り、かかった動物からどんな振動がどの方向からやってくるとしても即座に感得するように、魂の主導的部分も、神経の中央に座しつつも感覚の末端を把握し、感覚に何が伝わろうとも即座に認識するのである」また、彼等の言説では、音声も胸の内奥、つまり心臓、心臓の中でも生気を保つ核心部分から遣わされる。そこでは、筋に覆われた隔壁が両側から心臓を肺やその他の臓器から隔てていて、そこから喉の隘路が打たれ、舌が形をとると、他の発声器官も働いて、文節音、つまり発話の要素が放たれるのである。まさにこのようにして、解釈者たる精神の内奥の運動が明らかにされるのである。それは魂の主要部分と呼ばれている。 Chalcidius, In Tim. 221 = SVF. 2.796  それだからこそ、生気が魂だと言っている人々は一般に、魂は物体であると主張するのである。こうだとすれば、物体が物体と共になっていることに過ぎないのである。さらに言えば、この共同は接続あるいは混合あるいは凝固によって生じている。もし、肉体と魂が接続されたものだとしたら、これら二つのものが接続されて作り上げられたものはそれだけで生物全体となるであろうか。というのは、他ならぬこう言う人々自身に従うと、生命はもっぱら生気の内にあり、生気は肉体の内奥につながれたままというわけにはいかないからである。つまり、単に繋ぎ合わされたものは浸透しているわけではないのである。そして、動物は全体として生きているのだと言われている。したがって、魂と肉体の共同は接続によるのではない。さて、混合されたものだとすると、魂は何か一つのものではなく、多くのものが混ぜられたものだということになる。しかし、ストア派の人々が表明しているところでは、生気、つまり魂は何か一つのものである。したがって、混合によるのでもない。かくして、凝集によるという選択肢が残ることになる。故に、二つの物体が相互に浸透し、一方の物体が占めている一つの場が二つの物体に余地を与えるということになる。しかし、水が水と葡萄酒両方を同時に受け入れることはありえないではないか、と人は言うかもしれない。したがって、肉体と魂の共同は接続によるのでもなければ、混合や凝集によるのでもないのである。ここからして、魂は物体ではないということになる。それで、徳や能力は物体とは関係がないのである。 Chalcidius, In Tim. 237 = SVF. 2.863  事実、ストア派の人々は視覚の原因を気息から生じた投射作用においている。その残像は円錐形をしているというのが彼等の主張である。つまりこれは、瞳と呼ばれる目の内奥から発して、最初は狭いが徐々に広がり、始点が豊かに濃密となり、見られるものを得ると、あらゆる仕方で得たものが注ぎ込まれ、視覚を鮮やかに展開する、というのである。また、自然の範囲内で程々に動くものであれば[?=不自然に大きく動くものでなければ?]、距離と大きさに応じて一種の円錐ができ、視覚に強烈すぎるものであるとか、あまりに遠くにあるものとかでなければ、見えるものは明瞭に見える、というのだ。事実、円錐自体は専ら尺度に応じて投射を広げるのであり、その底辺が真直ぐであるか、傾いているかに応じて、また観察されうるものの形にはまることに応じてそのように、見られるものは現れるのだ。事実、遠くから見た貨物船はとても小さく見えるが、それは[距離のために]見る力が不足し、船の隅々にまで気息が行き渡らないからである。角塔が円塔に見えるのも同様であるし、回廊を斜めから見るとすぼんで小さくなっていくのも目[の力]が足りなくなるからである。また、天体の光はとても小さく見えるので、地球の何倍も大きいはずの太陽さえも両足の幅のうちに入るように思われるほどである。さらに彼等の主張では、精神は同様に認識を深め、精神をつき動かすのは気息であるということ、気息は、目に見える形が凝集したものから自らが受け取ったものを精神の内奥に渡すということも感じ取るのである。そしてそれが広げられるようにして引き延ばされると、見えるものは明るいものだと告げられ、またさらに、黒く暗いものならば、凝集されることで表される。この印象は、海洋魚を触ると固まるものに似ている。つまり、亜麻や麻をつたい、また手をつたって、その粘液が流れ、感覚の内奥に浸透する場合に似ているのである。 Calcidius, In Tim. 251 = SVF. 2.1198 = FDS. 471 = Heraclitus DK 22B20  事実、ヘラクレイトスは、彼に同意するストア派の人々によれば、我々の理性を、宇宙を統べ制御する理性に結び付けている。つまり、この連合は分かちがたいので、理性に与えられる指令の意識が作られるとそれが、静かに眠っている魂に感覚の働きによって未来の事柄を告げるというのだ。知らない土地の映像がうかぶとか、生きている人や亡くなった人々の姿が見えるとか、そういうこともこうして起こるのだ。同じ人が主張する所では、卜占を用いることで様々な利益が予告されるのであり、それも神的な能力が(人間に)組み込まれているからなのである。ここでも、色々な説を応用すると、知恵を堅固に完璧にするのに役立つのである。 Calcidius, In Tim. 266 = SVF. 2.863  しかし実際、ストア派の人々は視覚を神と呼んでいる。最高のものだというので。つまり、神という麗しい名前を与えられるに相応しいと言ったのである。 Chalcidius, In Tim. 280 = SVF. 2.321(?)  しかし、多量のものが組み合わされているのも摂理のなせることだと言った人々は、それが創造から終末までの一つの何らかの持続によって延びていると考えているのだが、全ての人々が同じように考えているのではない。つまり、ピタゴラス、同様にプラトンは違ったふうに考えているし、異なった仕方でアリストテレスは考えており、いくらか違った風にストア派の人々も考えているのである。しかしながら実は、これら全ての人々はそれが形のないものでありまた何ら質をもたないという見解をもっている。 Calcidius, In Tim. 290 = SVF. 1.86; 2.316  しかし大部分の人々は、ゼノンやクリュシッポスのように、質量を本体から区別している。なぜなら、彼等によれば、質量は、性質を持つ万物のもとにあるものであるが、実体は、万物の第一質量もしくは万物の最も原初的な土台であり、その本体からして外観もなく無形対である。例えば、青銅、金、鉄、その他このようなものは、これらのものから作り出されるものの質量であるが、実体ではない。ところが、これらのものにとっても、その他のものにとっても、それらの存在するための原因であるところのもの、それこそが実体である。(岩崎允胤訳) Calcidius 292 = SVF.1.88 = LS.44D  さらにゼノンは言う。この本質そのものが限定されたものであり、在るもの全てに共通の一つの基体であって、分割可能であり、あらゆる点で変化されうる、と。実際には、その部分部分は変転しうるが、枯渇して在るものから無になってしまわない限り滅びることはない。しかし、彼はこう考える。蝋には数え切れないくらいの様々な形態があるように、形相であれ、形態であれ、何らかの性質であれ、万物の質量にとって基礎的であるそれというのは全くないが、しかしながらそれは常に何らかの性質に結びつけられており、分離不能なほど癒着しているのである、と。それは在らぬものに置き換わったり、無へと枯渇したりはしない以上、誕生も消滅もそれにはないので、生気と生命力が永遠に備わっている。これがそれを理にかなう仕方で、時にはその全体を、時には部分的に動かしているのである。そしてこれが、宇宙万有のかくも頻繁でかくも激しい変転の原因なのである。さらに、あの動者としての精神はただの自然ではなく、魂であり、理知的なそれですらある。これが世界を動かして感覚させ、それで飾るのであり、こうして今や世界は優美なものとして輝くのである。実際彼等はこの世界を幸福な生き物である神と呼んでいるのだ。 Calcidius 293 = LS.44E  それ故、ストア派の人々によると、宇宙万有という物体は限定された、一つの全体としての実体である。全体であるというのは、どの部分も欠けていないからであり、しかし一つのものであるというのは、その部分が不可分であり相互に癒着しているからである。また、実体であるというのは、全ての物体の第一の素材であり、彼等が言うところでは、普遍的な理性全体がその中を通じているのである。ちょうど、精子が生殖器を通るように。実は、その理性そのものが制作者であるというのが彼等の主張であり、それは性質を持たずに物体に癒着し、全体が素材や実体を保持して変えることができるというのだ。なるほど、これらは変転はするが、全体として滅びることはないし、部分が破壊されてもそうなることはない。その理由は、全ての哲学者たちに共通の教説として、何ものも無からは生じないし滅びて無に至るということもない、というものがあるからである。つまり、物体全体が何らかの場合に四散するということはありうるが、しかし素材は常に存在するし、工作者である神、つまり理性、もそうなのである。この神や理性において個々のものがいつ生じ、いつ滅びねばならないかが定まっているのだ。だから、物事は在るものから生じ在るものへと去っていくのでなければならないが、それは常に不死であり続けるもので物事が限界付けられているからであり、何であれ生じるものはそれによってまたそれから生じるのである。 Chalcidius 294 = SVF. 1.87  ストア派の人々の言う神というのはすなわち質量であるところのものである。別様に言えば、神は質量から分離され得ない性質であって、まさにこのものが質量を貫通しているのは、精子が生殖器を通過するようなものなのである。