キケロ
その他の著作・断片


Cicero, Brutus 25.94=FDS.46(ストアの弁論術は無味乾燥)
 同じく、凡庸な弁論家の数に入るのがルキウス、スプリウスのムンミウス兄弟です。この両者の弁論も残っています。実際、ルキウスは簡素で古風なのですが、反面スプリウスはその彼よりも全然飾り気がなくむしろ素っ気ないのです。と言いますのも、彼が教養を身に付けたのはストア派の学徒からだったのですから。

Cicero, Brutus 30,114=FDS.46
 彼ルティリウスの弁論はひもじいものです。たくさん立派なことを法律について書きましたが。教養のある人でギリシャの文芸に造詣が深く、パナイティオスに聴講し、ストア派の教説にはほとんど完成されていました。ストア派の人々の弁論のあり方は鋭く、技術にも富んではいるが、ご存じのように、無味乾燥で一般人の同意を得るのに十分適していないのです。このように、この学派の特徴であるあの点は、哲学者たち自ら自分たちについて抱いている見解でもあるのですが、この人のうちにも確固としており、確実に見出されるのです。
…(30,116)それだから、ストア流の弁論においてはルティリウス、古風なそれにおいてはスカウルムを我々はもっているのです。しかしながら、我々は両者共を賞賛します。彼等のおかげで、国家におけるこの種の弁論はこうした弁論による賞賛を欠くことがなかったからです。つまり、私は舞台におけると同様に広場においても讃えたいのですが、荒々しく難しい動きを用いる人々だけではなく、より穏やかだと呼ばれる人々もそうしたいのです。彼等には論を進める上であの簡素だがよく練られた真理が属しているのです。
…(31.118)そこでブルトゥス君:ギリシャ人達と同じこのことが我々にも関わりがあるということは私も分かります。同じようなことなのでしょう。ストア派のほとんど全員が話術に非常に思慮深く、技術を駆使してそれをなし、ほとんど言葉の棟梁でありながら、論議から弁論に進む際この同じ人々があからさまに陳腐になる、それと同様なのでしょう。一人、例外と思うのはカトーですが…
(119)そして私:私はこう言いたい。ブルトゥス君、それもいわれのないことではない。この人々の関心は全て弁証の諸問題に費やされていて、弁論というあのふらふらしてとらえどころなく、また多岐に亘る様式は扱われないのです。しかし、ご存じのように、君の叔父さんはあの人々から求め得るべきだったことまでストア派の人々から得ているのです。それでも、叔父さんは話し方を話術の教師から学び、彼等のやり方に従って訓練したのです。たとえもし、全てのことが哲学者から求め得られるべきだとしても、逍遥派の原則による方が弁論はよりよく組み立てられるのです。(120)…しかしながら、話すことの理論において逍遥派とアカデメイア派のまさに伝統なのは次のようなことです。すなわち、弁論はそれだけで自らを完成させることはできないし、また弁論がなくては弁論家も完全なものではありえない、ということです。つまり、ストア派の人々の弁論がもっと素っ気ないものであり、民衆の耳が欲するよりも時にはさらに抑制されたものであるように、彼等のそれは判決文や公会議の慣わしが甘んじているよりももっと自由で詳細にわたるものなのです。

Cicero, Brutus 90.309=FDS.39(弁証と弁論)
 私はストア派のディオドロスと共にいました。…彼の下では、他の事柄と共に弁証術においても非常に懸命に修練を積みました。この学は引き締まった簡潔な雄弁術とみなされるべきです。この学を欠いては君でさえ、ブルトゥス君、思いもよらなかったでしょう。自分があのあるべき正しい雄弁術を、それを引き延ばされた弁証術と人々は考えているのですが、修めることができたなどとは。

『卜占論』

Cicero, De Div.1.6 = SVF. 1.173; 550 (Cleanthes)
 しかし、ストア派の人々はああしたもののほとんど全てを弁護したのである。例えば、ゼノンも彼の書物の中で何か種子のようなものが行き渡っていると言ったし、クレアンテスもこのことをややもっとふくらませたのである。

Cicero, Div. 1.34=LS.42C
 それだから、私が同調するのは卜占に2種類あると言っていた人々なのだ。つまり、その一つは技術に与り、もう一方は技術を欠いている。というのも、技術が存する人々は新しい物事には推理によって従い、古い物事は観察によって学ぶのだから。しかし、技術を持たない人々は観察され理解された徴候によって理性を働かせたり推理することもなく、魂のある種の衝動や勝手気ままな動きで将来のことを思い描くのである。こんなことは眠っている人々にもしばしば生じるし、狂気に陥って予言する人々にも時には起こる。

Cicero,Div.1.55=SVF.2.921(運命は原因の連鎖)
 さて、運命と私が呼ぶものは、ギリシャ人たちはギリシャ語で運命付けられたものと呼んでいるが、原因の秩序と連続である、原因に結びつけられた原因がそれ自身から物事を産み出すのだから。それはつまり、全き永続性から流れる永遠の真理である。なぜなら事実、将来ないことは運命付けられていないのであるから。同じ仕方で、その事柄そのものを引き起こす原因を自然がもっていなければ、何一つ将来あることはない。

Cicero, Div. 1.82=LS.42D
 (82)そのような技術が実際成立するということは次のようなストア派の論法によって導かれる。「神々が存在し、しかし彼等は将来の出来事を人間に前もって告げてはくれないとしたらどうか。次のどれかであろう。神々は人間達を愛してはいない。あるいは、神々は将来何が起こるのかを知らない。あるいは、人間は将来なにがあるかを知るのに関心がないと思っている。あるいは、人間達に将来の出来事を徴候を示すなどということは自分たちの威厳にそぐわないと考えている。あるいは、神々でさえそのような徴候を示すことができない。しかし、神々が我々を愛していないということはない(なぜなら、神々という種族は人間に友好的で恩恵に満ちたものだから)。また、自分たちによって組み立てられ計画された物事を知らないということもない。また、我々は将来起こる物事を知るのに関心がないということもない(なぜなら、そういうことを知っていれば、我々はもっと慎重になるだろうから)。また、そのような措置が自分たちの威厳に全くそぐわないと思っているということもない(なぜなら、その恩恵よりもすばらしいものはないのだから)。また、神々が未来の出来事を予見できないということもない。(83)そうすると、神々は存在するが彼等は将来の物事を表してくれないなどということはない。さて、神々は存在する。故に、神々は将来の出来事を表してくれているのだ。そして、神々がそれを表してくれているのであれば、そうして徴候を知るのに何の道筋も我々に許してくれていないということもないのだ(というのも、万が一そうだとすれば、神々が徴候を示しているというのは訳が分からないことをしていることになる)。また、神々が道筋を与えてくれているのなら、卜占がありえないということはない。以上のことから、卜占はあるのだ」

Cic,Div.1.84=SVF.3 Diogenes 37=LS.42D
 このような理論をクリュシッポスもディオゲネスもアンティパトロスも用いている。

Cicero, Div. 1.117=SVF.2.1210=LS.42E
 実際私にはこれらの論点は引きずられ得ないと思えるのだが、これらを我々が保持するなら、人間には神々から未来の出来事が示されているというのはまさしく必然なのだ。(118)しかし、どのようにしてかということがさらにはっきりされねばならないと思う。つまり、神が一々肝臓の溝だの鳥の歌だのにかかずらっているなどというのがストア派の見解ではないのだ。そんなことは神の優美さや威厳にそぐわないし、大体そんなことはどうやっても不可能だ。そうではなくて、彼等の見解は、世界はその着手された最初から、或る物事にはそれに合った徴が先行するという風になっている、というものなのだ。そのあるものは臓物に、あるものは鳥に、あるものは雷に、あるものは天変地異に、あるものは星々に、あるものは夢見に、あるものは異言に顕れる。これらをよく把握する人々はそう誤ることはない。それらが悪く予期されたり、悪く解釈されたとしても、その虚偽は世界そのものに備わる悪の故ではなく、解釈するの者の無知によるのである。

Cicero,Div. 1.126=SVF.2.921=LS.55L(恒常原因としての運命)
 ここから理解されることは、運命は迷信に従って語られることではなくて自然学的に語られることなのであり、つまりは事物の永遠の原因であり、過去のことが引き起こされたこと、現在あることが引き起こされること、これから生じることが将来あるだろうことの理由である。

Cicero,Div.1.56.127=SVF.2.944=LS.55O(決定論)
 さらに、運命によって全ては生じるので、…死すべき者で全ての原因の連鎖を精神で見て取る者がありうるとしたら、何も彼を本当に騙せないだろう。というのは、未来の物事の原因を把握している者は必然的に将来ある全てのことを把握しているだろうから。神でなければこのことを誰もなし得ないので、人間に残されるのは将来の帰結を表す何らかの印によって予見するということにならざるをえない。なぜなら、将来ある物事が即座に存在するとは限らないから。むしろ、縄がほどかれるように時は進行するのであり、それは初めてのことをあらわにするにしても何ら新規なことを引き起こさないのである。

Cicero, Div. 2.56.115=FDS.80
 つまり、君達の言うような御託宣でクリュシッポスは全巻を埋め尽くしたのだが、それらには私がそう考えているように虚偽のものもあり、たまたま真実だったものもあるし(弁論全般にしょっちゅうあることだが)、どちらともとれる曖昧なものも(解釈者が解釈者を必要としたり、占いのために別の占いをたてるというようなことだ)、いくつもの意味を持っているものもある。そしてこうした事柄を弁証家のために防御せねばならないのである。

Cicero,Div.2.61.126=SVF.2.62
 とりわけ、クリュシッポスはアカデメイア派の人々を論駁して、覚醒している人に見えているものの方が夢で見られたものよりもはるかに明白であり確実であると言っているのだから。

Cicero,Div.2.129=SVF.3.607
 しかし、君のストア派の人々は誰かが賢者でもないのに神的でありうるということを否定している。


Cicero, Ep. ad Famil.9.22.1=SVF.1.77
 私は羞恥を愛するが、君はむしろ言論の自由をという。しかしこのことはゼノンの気に入ったことだぞ…何とこの鋭い人が!、我々のアカデメイアはこの大問題でもちきりだというのに…。それにしても、私のいう通り、何事であれ自分たちの呼び名で呼ぶのがストア派の人々の気に入るのだ。すなわち、彼等はこう論じている。厭わしいものは何もないし、恥ずべき言葉も何もない、と。すなわちこうだ、汚れのうちにあるものが恥ずべきものだというならば、それは実際の物事のうちにあるか言葉のうちにあるかどちらかである。第3の可能性はない。実際の物事のうちにはない。たとえば、喜劇の中では事実そのものが語られるわけではないし(例が続く)、悲劇の中でもそうである(例が続く)。だから、君が同じ事件を目撃する場合、言葉がないのだから、恥ずべきことが目撃されているわけではない。故に、物事のうちにはない。言葉のうちにあることはまずない。すなわち、言葉によって示されるものが恥ずべきものでないならば、それを表す言葉も恥ずべきものであるはずがない(ラテン語の例が続く)。従って、言葉のうちにもない。しかし、物事のうちにあるとも思われない。故に、どこにもない(5章まで沢山の例が続く)。君はストア派の教えを知っているはずだ。「賢者は率直にものを言う」と。…私は…羞恥を重視する。かくして、控えめな言葉で私が君に書いたことを、ストア派の人々はあからさまな言葉で書くのである。しかしこの人達はヒソヒソ話すのもゲップするのも同程度に自由であるべきだとさえいうのだ。


Cicero, Hortensius Non. 155M (fr. 38 Muller = fr. 44 Ruch = fr. 45 Grilli) (see Ioppolo (1980) p. 184 n. 33)
 彼等とは逆に、頑固で意固地なキオスのアリストンはこう言ったのだ。義しく、美徳にかなっていないなら、何ものも善ではない。


Cicero, Orat. 32.113 = SVF. 1.75 = FDS. 38
 それ故、完璧に流暢な弁論家に必要なのは、思うに、彼特有の能力である、饒舌かつ大仰に語ることを備えるだけではなく、弁証の中のこれに近い似た学をも併せ備えることなのである。弁論と議論は別のものに見え、論じられていることと語られていることも同じではないようではあるが、しかしながら両方とも語ることの内にあるのである。論ずることや話すことの理論は弁証に属し、弁論に属するのは語ることや構成することなのである。実際、ゼノンは、ストア派の教説の創始者だが、手を使ってこれらの術の間の差異を示すのが常であった。つまり、指を折って拳をつくり「弁証はこのようなものだ」と言い、手を空け広げてこの手の平に似ているのが雄弁術だと言ったのである。(114)しかしながら、この人以前にもアリストテレスは『弁論術』の初めで、あの術は弁証術の片割れのようなものに当たると言い、明らかに相互の違いは後者の話す術はより饒舌であり、前者の論ずる術はより引き締まっているという点にあるとしている。それだから私が望むのは、この最高の人物が、話すこと[弁論]に持ち込まれうる限りでの語ることの理論[弁証]全てを知っていることである。実際この問題には、君はこの術の訓練を積んでいるのだからまさか知らないことはなかろうが、2重の語り方があるのだ。というのも、アリストテレスその人は語り方に関する沢山の忠告を提供したのだが、後にいわゆる弁証家達が細々とした本を沢山生み出したからである。(115)故に、私はこう思うのだが、雄弁の名声を博す者はまさにこうした事柄に無知ではなく、あの古来のものにせよこのクリュシッポスの学派にせよ、それの訓練を受けているのである。彼はまず言葉の働き、本性、種類、それも単純なものと複合されたものと両方、を学んだはずであり、その後では、何事であれどのような仕方で語られるかということ、どうやって真偽が判別されるか、証明されるのは何か、またさらに、何であれその帰結は何か、両立しないことは何か、をそうしたはずである。また、曖昧に語られる事柄は多いので、そういったものの何であれがどうやって区別されるかが追求されねばならない。こうしたことを留意せねばならないのが弁論家である(なるほど彼等はしばしば自分でそれを顕わす)。しかし、弁論というものはひとりでにどんどん粗野になるものだから、何か弁論上の優美さがこうした説明の中にも用いられるべきである。


Cicero,De Oratore 1.11.50=SVF.2.26
 実際我々が目にするように、こうした問題について、あのきわめて鋭かったクリュシッポスのように、無味乾燥かつ貧弱に論じた人々は誰であれこの問題に向けて哲学を満足させなかった、この新規な話術から力を得なかったからである。

Cicero, De Or. 2.157=LS.31G=FDS.77
 さて、ここまで来たこの話の初めに戻ると、まさにその3人の聡明な哲学者たちのうち(ローマを訪れたのは彼等だというお話だが)、ディオゲネスこそその人だったというのはご存じでしょう。彼が言うには、善く語る術と真偽を判断する術を(彼はこれをギリシャ語で弁証術と呼だのだが)伝えたのは彼自身なのだ。この術には(仮にこれが技術だとしての話だが)、いかにして真理を見出すかということに関する忠告は全然なく、どう判断するかのそれしかない。(158)つまり、そのことがあるとかないとか我々が言う通りに表現することが全てである。すなわち、単純な文が語られる場合には、弁証家はそれが真が偽かと考え判断する。結合文として表現されたり、他の文が結合されたりした場合には、その結合が正しいかどうか、個々の推論の帰結が真かどうかを判断する。そして挙げ句の果てにこの人々は自分たちの詭弁を隅々突っつきまくり、沢山のことを調べ上げては自分たちでさえまだ解決できない議論だけではなく、かつて織り始められたものやそれどころかもうほとんど編み上がっているものをほどいてしまうようなものまで見つけ出すのである。(159)だからこの点では、ストア派の人々も我々には何の助けにもならない。どうやって論題を見つけ出すのかを(私はそれを語りたいのだが)彼等は説いてくれないからである。

Cicero, De Or. 3.62 = SVF. 1.414
 他にも哲学の系統というのはあって、そのほとんど全てはソクラテスの徒と呼ばれていた。つまり、エレトリア派、ヘリロス派、メガラ派、ピュロン派である。しかし、彼等の影響力も彼等のなした議論も今ではもう随分四散して途絶えてしまっている。

Cicero, Or. 3.18.65=FDS.52
 しかし私はストア派の人々を全く非難はしないが、そのままにしておいて、彼等が怒っても怖がらない。というのも彼等は怒るということを全く知らないのだから。しかしながら、私はこの点では彼等に感謝しているのだ。なぜなら、全ての哲学者のうちで彼等だけが雄弁の流暢さを徳であり知恵であると言ったのだから。ところが、いつでもそうだが、彼等のうちには我々が描き上げたような弁論家とは全然違うものがあるのだ。あるいはこういう点だ。賢者でない人々は全て奴隷であり、盗賊であり、仇敵であり、狂人である、と彼等は言うが、しかしながら誰も賢者ではないとも言うのだ。さて、こんな人に集会や元老院や何か人々の集まりを任せるなどとんでもなく馬鹿げたことだ。彼にとってはその場にいる誰一人としてまともではなく、市民でも自由でもないと思われるのだから。(66)これに加えて、彼等は確かに精妙でとても鋭い類の弁論を備えているが、それは小者の弁論家におけるように役に立たないもので、大衆の耳には身の毛もよだつようなものであり、はっきりしない空っぽの貧弱なもので、公衆に対してはどうやっても使えない類のものなのである。なぜなら、ストア派の人々に善いものや悪いものと見えるものはどの市民達とも、いやどの民族とも違っており、力・名誉・不名誉・褒賞・刑罰に属させるものも違っているからだ。それが正しいかどうかは今は問題ではない。とにかく、我々がそう言った言葉遣いに従ったら、語っても語っても決して何も得るところはないだろう。


(61)そして、我々がこの演説をせねばならないのは、教養のない大衆にでもなければ、何か田舎者の集会においてでもないので、自由人らしさに関する勉学に関して、私もあなた方もよく御存じの快いものだが、やや大胆に論じたいと思う。マルクス=カトーに、陪審員達よ、次のような美点を我々は見たわけだし、それは神々しいほどずば抜けたもので、彼自信の持分であることはあなた方も御存じである。我々も[彼に]無い物ねだりをして求めることはないわけではなかったが、そうしたこと全ては人間の本性からではなくて、彼の師から由来するものなのである。つまり、最高度の才能の持ち主ゼノンがその人であって、彼の考案した教説の熱烈な賛同者たちはストア派と呼ばれている。この人の教説や教訓は次のようなものである。

Cicero, Pro Murena 61 = SVF.1.214
 「賢者は快楽には決して動かされない」「誰の過失も決して見逃さない」「愚か者や軽薄なものでなければ、誰かに同情するということはない」「嘆願を聞き入れるということも、大目に見るということもこの人のすることではない」

Cicero,Pro Murena 61=SVF.1.220
「賢者たちだけは、たとえひどく外見が崩れていても端正であり、たとえほとんど乞食同然だとしても裕福であり、下僕として仕えていても王なのである」

「しかし、賢者ではない人々は、逃亡者であり、亡国者であり、仇敵、狂人である」ここからしてこうも言われる。「全ての罪過は等しい」「全て逸脱行為は大逆行為である」「そうする必要もないのに、飼っている鶏を絞め殺した者は、父親を絞め殺した者よりも罪が軽いわけではない」

Cicero,Pro Mur.61=SVF.1.54
 賢者は何事も思惑しないし、何事も後悔しないし、何事においても誤らないし、判断を決して変えない。


Cicero, Topica 6=FDS.75=LS.31F
 語ることに関する厳密な理論全てには2つの部分、つまり創意に関わるものと判断に関わるものがあるのだが、両方の頭目がアリストテレスだったと、ともかく私には思われる。しかし、ストア派の人々は確かに一方には熱心だった。というのも、判断の方法は、彼等がギリシャ語で弁証術と呼ぶ学問に従って、厳密に追求したが、創意の学(ギリシャ語でトピカの学と呼ばれるのだが)は、この学が実用に関してはより有用で自然の順序からいっても間違いなくより先のものであるのに、全体を放置したからだ。


Cicero apud Diomed. 2.421 K = SVF. 1.73
 技術とは、生活に役立つ一つの目的に奉仕するように向けられ鍛えられた知覚を築き上げたものである。

Cicero apud Lactantius Instit.5.11=SVF.3.762
 よろしい。マルクス=トゥリウスはこう言っている。というのも、人の心を持つことになるとしても、何か動物の姿に変えられるよりは死を選ぶ者が誰もいないとしたらどうだろう。何と惨めなことか、人の姿をしながらも野蛮な魂をもつことは。実際、私の意見ではこれほどまでに精神は肉体よりも優れているのだ。
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