キケロ『卜占論』 Cicero, Div. 1.3.5 = FDS. 462  さてこうした事柄を、この私が思う所では、古人達は理論付けて説くというよりは、よく起る事柄を示すことでよしとしたのだ。もちろん、真の卜占というものが何故ありうるのか、きちんとした理論を追求した哲学者達は結論に達している。彼等のうち、最も古い人々について言うならば、一人はコロポンのクセノパネスで、神は在ると説き、卜占を一番下で支えてきた人である。事実、残りの哲学者は全員、エピクロスを除いて、たどたどしい言い方ながらも、神々の本性から、卜占をよしとしてきたのである。もっとも皆同じ説をとるわけではないが。つまり、ソクラテス、ソクラテス派全員とゼノン及びゼノンから進み出た人々は、古来の哲学者達の教説に留まり、古アカデメイアや逍遥派と同意見なのである。つまりこういう事情である。大昔にこの事柄に多大な力を与えたのがピタゴラスであって、彼自身も鳥卜師だったと言われている。さらに多くの点で偉大な始祖であるデモクリトスは未来の出来事を予期するということがあるとした。逍遥派のディカイアルコスはその他の卜占は支持したものの、種々の夢占いや狂気に陥って行うそれは無視した。我々にも親しいクラティッポスは――この私は彼をほとんど逍遥派の最高峰とみなしているのだが――まさにこうした物事にこそ信を置き、他の類の卜占は退けた。 ↓ Cicero, De Div.1.6 = SVF. 1.173; 550 (Cleanthes) = FDS. 462  しかし、ストア派の人々はああしたもののほとんど全てを弁護したのである。例えば、ゼノンも彼の書物の中で何か種子のようなものが行き渡っていると言ったし、クレアンテスもこのことをややもっとふくらませたのである。 ↓ Cicero, Div. 1.3.6 = SVF. 2.1187 = FDS. 462  非常に鋭い才人クリュシッポスがこれに加わる。彼は卜占に関しては二冊の本を費やしてありとあらゆる思想を論じたのである。その他に神託に関しても一冊、夢占いについても一冊ものした。 ↓ Cicero, Div. 1.6 = SVF. 2.1187; Diogenes 35; Antipater 37 = FDS. 462  彼に続いて、バビロニアのディオゲネスも一冊をまとめた。クリュシッポスの弟子だった人だ。アンティパトロスは二冊、我等がポセイドニオスは五冊だ。 ↓ Cicero, Div. 1.6 = FDS. 462  しかし、パナイティオスは、ストア派に属するどころかこの学派の学頭だった人で、ポセイドニオスの師、アンティパトロスの弟子だった人だが、変節してしまい、卜占の可能性をあえて否定こそしなかったものの、個人的には疑いをもっていると言ったのだ。あのストア派の先生は、何らかの問題について嫌々ながらストア派に伍しているという学徒もいたというのに、どうしたらよかったのであろうか。我々がその他様々な事柄においてそうしているように、それはストア派の学説ではないと一歩退けばよかったのであろうか。パナイティオスが放棄しなかった問題において彼は、他の彼の弟子の目には太陽の光よりも輝いて見えたというのだからなおさらである。  (13)驚嘆されねばならないことだが、実に様々なことが、薬用植物の種類について論じられている。また、動物の死因、眼病の原因、傷のそれ、についても論じられている。しかしそれらの本性や働きを理論が明らかにしたことはなかったのである。むしろ、技術やその考案者は有用性によって証明されたのである。さて、他の分野に生じるのと同様の事柄が卜占にもあるから見ようではないか。 Cicero, Div. 1.34 = LS. 42C  それだから、私が同調するのは卜占に2種類あると言っていた人々なのだ。つまり、その一つは技術に与り、もう一方は技術を欠いている。というのも、技術が存する人々は新しい物事には推理によって従い、古い物事は観察によって学ぶのだから。しかし、技術を持たない人々は観察され理解された徴候によって理性を働かせたり推理することもなく、魂のある種の衝動や勝手気ままな動きで将来のことを思い描くのである。こんなことは眠っている人々にもしばしば生じるし、狂気に陥って予言する人々にも時には起こる。 Cicero, Div. 1.39 = SVF. 3 Antipater 41  夢のことに話を移そう。夢について論じながら、クリュシッポスは、多くの瑣末な夢をまとめあげることで、アンティパトロスが追求したのと同じことをしたのである。つまり、アンティポンの解釈によって明らかにされた事柄が語ることだが、ああしたことは解釈の要点であって、もっと重要な例を用いるべきなのである。 Cicero, Div. 1.55 = SVF. 2.921  さて、運命と私が呼ぶものは、ギリシャ人たちはギリシャ語で運命付けられたものと呼んでいるが、原因の秩序と連続である、原因に結びつけられた原因がそれ自身から物事を産み出すのだから。それはつまり、全き永続性から流れる永遠の真理である。なぜなら事実、将来ないことは運命付けられていないのであるから。同じ仕方で、その事柄そのものを引き起こす原因を自然がもっていなければ、何一つ将来あることはない。  (1.56)事実、ガイウス=グラックスは多くの人々にこう言ったのだ。同じくコエリウスによるとそう書かれているのだが、財務官に立候補しようかどうか迷っていると、睡眠中に兄ティベリウスが現れてこう言ったというのだ。何を望んでいるにしても、遅らせた方がいい。さもなければ、この私が滅びたのと同じ死によって滅ぶことになる、と。この夢を、ガイウス=グラックスが護民官になる前に、コエリウスは直接聞いたし多くの人々にもそう言ったと書いたのだ。これ以上に確かな夢が見い出されうるであろうか。 ↓ Cicero, Div. 1.56 = SVF. 2.1200  では、あの二つの夢はどうだろう。ストア派の人々が頻繁に引き合いに出すものだが。彼等を非難することが一体できるだろうか。さて、その一つはシモニデスのものだ。この人は、見たことのない死人が投げ出されているのを夢に見たのだ。そしてまた、この者が埋葬されるのも見たし、心の中で船が上って行くのも見たのだ。そしてその時、これは、こういうことをするなと、その墓に入れられた人が忠告しているのだと思ったのだ。つまり、出航すると難破してひどい目に遭うぞと忠告していると思ったのだ。こうして、シモニデスは引き返して助かり、その時出航した彼以外の人々は悲惨な目に遭ったのだ。 ↓ Cicero, Div. 1.27.57 = SVF. 2.1204  もう一つは次のように伝えられる非常に有名な夢である。友人同志のある二人のアルカディア人が一緒に道を開いてメガラに至り、一人は小売人に、もう一人は賓客となった。彼等が食事を済ませて寝ると、深夜に、賓客になっている方が夢で、かのもう一人が、自分は小売で破産しそうなので助けてくれと言うのを見たのである。彼は最初夢に怯えて目を覚ましたが、我に帰って、自分の見たことは実際何のいわれもないことだと思ってまた寝た。すると、眠っている彼に同じあの人が現れてこう言ったのである。己の生を助けられない以上は、酬いなしではすまないが自らの死を受け入れねばならない。つまり、自殺した上に、小売人に荷馬車に投げられて汚物のうえに投げ出されるのである。そして、朝、荷馬車が街から出る前に、門の所に行こうとするのだ、と。実際、まさにこの夢に動かされて、次の朝彼は門の所にいる牛飼いの所に行ったのである。そして牛飼いに、荷馬車の中には何があるかと尋ねた。かの人は驚いて逃げ出した。死体が掘り出されたのである。小売人は事実を明らかにした上で罰を受けたのである。 Cicero, Div. 1.72 = SVF. 2.1207  (72)予兆を集めることで説明される事柄、あるいは、起こった物事から論じられ認められる事柄、つまり、予知に関する類の事柄は、既に述べたように、自然にそうなるというものではなく、人間の手を加えられてそうなると言われている。預言者、鳥卜官、占師がこれに数え入れられる。逍遥派の人々はこれらをないがしろにしているが、ストア派の人々は擁護している。 ↓ それらのあるものは記録や教説に残されている。たとえば、エトルリアの占師や雷師あるいは儀礼書、さらには古来の鳥卜官たちが明らかにしている事柄がそれである。他方、すぐさま卜占によって説明された事柄もある。たとえば、ホメロスにおいてカルカスは雀の数でトロイア戦争が何年続くかを鳥卜したし、スラの歴史書に書いてあるように(君もよく調べればそれが事実だということが分かるだろう)、あの方がノラの地で司令官の幕屋の前で犠牲を捧げた時に祭壇の下から突然蛇が出てきたのである。そこで占師ガイウス=ポストゥミウスはあの方に、進軍すれば厄介な作戦となるであろう、と告げたのだ。スラがこういうことをしていた時、ノラの街の前ではサムニウム人たちの陣営が大変に意気揚々としていたのである。 Cicero, Div. 1.82 = FDS. 466 = LS. 42D  (82)そのような技術が事実成立するということは次のようなストア派の論法によって導かれる。「神々が存在し、しかし彼等は将来の出来事を人間に前もって告げてはくれないとしたらどうか。次のどれかであろう。神々は人間達を愛してはいない。あるいは、神々は将来何が起こるのかを知らない。あるいは、人間は将来なにがあるかを知るのに関心がないと思っている。あるいは、人間達に将来の出来事を徴候を示すなどということは自分たちの威厳にそぐわないと考えている。あるいは、神々でさえそのような徴候を示すことができない。しかし、神々が我々を愛していないということはない(なぜなら、神々という種族は人間に友好的で恩恵に満ちたものだから)。また、自分たちによって組み立てられ計画された物事を知らないということもない。また、我々は将来起こる物事を知るのに関心がないということもない(なぜなら、そういうことを知っていれば、我々はもっと慎重になるだろうから)。また、そのような措置が自分たちの威厳に全くそぐわないと思っているということもない(なぜなら、その恩恵よりもすばらしいものはないのだから)。また、神々が未来の出来事を予見できないということもない。(83)そうすると、神々は存在するが彼等は将来の物事を表してくれないなどということはない。さて、神々は存在する。故に、神々は将来の出来事を表してくれているのだ。そして、神々がそれを表してくれているのであれば、そうして徴候を知るのに何の道筋も我々に許してくれていないということもないのだ(というのも、万が一そうだとすれば、神々が徴候を示しているというのは訳が分からないことをしていることになる)。また、神々が道筋を与えてくれているのなら、卜占がありえないということはない。以上のことから、卜占はあるのだ」 ↓ Cic, Div. 1.84 = SVF. 3 Diogenes 37 = FDS. 466 = LS. 42D  このような理論をクリュシッポスもディオゲネスもアンティパトロスも用いている。 ↓ それではどうだろうか。何の疑うことがあるだろうか。私が論じたこうした事柄は非常に確からしいのだ。理性が私に明らかにしてくれるし、出来事もそうだ。民衆や諸国家、ギリシャ人達や夷狄ども、つまりは我々[人類の]大部分がそうしてくれるし、さらには、このことはいつもその通りだと主張されていて、最も優れた哲学者達、詩人、とても知恵のある人々、つまり、国家を築き上げ都市を作り上げた人々がそう言っているのであるから。どうだろう、動物達が言葉を話すとしたら、動物達は我々の確かな意見に同意して我々を満足させてくれるとは思えないだろうか。  (1.109)どこからこんなに脱線したのだろうか、しかし話は同じ所に戻って行くようだ。もし、個々あらゆるものが「何故」生じたのかということは論ずることができないから、私が挙げてきた事柄もそれらが生じたということだけを考えるのだとしたら、私はエピクロスやカルネアデスに全然応えられないであろう。 ↓ Cicero, Div. 1.49.109 = SVF. 2.  ではどうだろう。技巧を発揮して予測するということの理屈が簡単なものだということは明らかなのだとすれば、卜占のそれも全く訳の分からないものではないのではないか。臓物やら雷やらその他の予兆や星々によって示される物事は長い間観察されているのでよく知られている。しかしながら、長い年月をかけてずっと観察を続けてきた結果あらゆるものに信じ難いほどの知恵が与えられたのであって、それは神々の働きや刺激がなくてもありうるものである。何が個々の物事から生じるか、何が個々の物事を表すかはこまめに注意していれば見て取られるからである。  さて、もう一つの卜占は、先程言ったように、自然的なものである。(110)これは論ずべき事柄の精妙な本性を通じて神々の本性に関わるべきものである。非常に学識のある最高の賢者たちの見解では、我々の持つ魂は神々の本性からほんの一部を取って引き出したものである。万物は神的な精神と感覚を詰め込まれ満たされているので、必然的なことであるが、神的な魂との接触によって人間の魂は動かされているのである。 ↓ しかし、[我々の]魂は生きていくのに不可欠な事柄に日夜念入りに奉仕し、神々と交わることを自らやめ、肉体という鎖に邪魔されているのである。 Cicero, Div. 1.117 = SVF. 2.1210 = LS. 42E  実際私にはこれらの論点は引きずられ得ないと思えるのだが、これらを我々が保持するなら、人間には神々から未来の出来事が示されているというのはまさしく必然なのだ。(118)しかし、どのようにしてかということがさらにはっきりされねばならないと思う。つまり、神が一々肝臓の溝だの鳥の歌だのにかかずらっているなどというのがストア派の見解ではないのだ。そんなことは神の優美さや威厳にそぐわないし、大体そんなことはどうやっても不可能だ。そうではなくて、彼等の見解は、世界はその着手された最初から、或る物事にはそれに合った徴が先行するという風になっている、というものなのだ。そのあるものは臓物に、あるものは鳥に、あるものは雷に、あるものは天変地異に、あるものは星々に、あるものは夢見に、あるものは異言に顕れる。これらをよく把握する人々はそう誤ることはない。それらが悪く予期されたり、悪く解釈されたとしても、その虚偽は世界そのものに備わる悪の故ではなく、解釈するの者の無知によるのである。 ↓ Cicero, Div. 1.52.118 = SVF. 2.1209  しかしこのこと、つまり神的な生命が存在し人間の生命を包んでいるということ、を定め認めると、我々が間違いなく認める物事が何らかの理によって生じているのではないかと思うのは何ら難しいことではない。つまり、犠牲獣を選ぶ際に卜官が、全宇宙に充満している何らかの力を感じ取るということはあり得ることだ。また、まさに犠牲を捧げようとするその時に、外部の物事が変化するというのもあり得ることで、なくなるものもあれば、留まるものもあるのだ。つまり、ほんの短い間に多くの自然が増えたり、変わったり、減ったりするかもしれないのである。 Cicero, Div. 1.53.120 = SVF. 2.1213  まさに同じ神的な精神が鳥にも働いていて、それで羽を持つものたちはある時はこちらある時はあちらへと飛ぶのである。また、卜鳥たちもある時はここにある時はあそこに隠れ、ある時は右、ある時は左を向いて鳴くのである。つまり、全ての動物は、自分の体を動かそうとする時、つまり、前に傾けたり、横に傾けたり、後ろに傾けたり、その他どこでも体の部分を傾けたり、あるいは巻いたり、延ばしたり、縮めたりしようとする時には、考えるよりもちょっと前にそういったことが起こるのである。このようなことは神にとっては非常にたやすいことである。神の意志は万物に及んでいるのだから。 Cicero, Div. 1.123 = SVF. 3 Antipater 38  ソクラテスに与えられた驚くべき知らせが非常に多数アンティパトロスによってまとめられている。しかしそれらはおいておこう。君には分ると思うが、私にとっては言及する必要のないことだからだ。(124)しかしながら、この哲学徒にはあのほとんど神に等しいと言ってもよい偉大さが備わっていた。不埒な判決で酷い目に合ったが、平静な精神で死ぬと言ったからだ。つまり、彼は祖国から逃げ出すこともなかったし、判決が述べられたあの壇上に登った彼にもいつもの「印」が何もなかったのである。それは悪いことだからしないようにとでも言うかのように神から下されるあの印だ。 Cicero, Div. 1.126 = SVF. 2.921 = LS. 55L  ここから理解されることは、運命は迷信に従って語られることではなくて自然学的に語られることなのであり、つまりは事物の永遠の原因であり、過去のことが引き起こされたこと、現在あることが引き起こされること、これから生じることが将来あるだろうことの理由である。 Cicero, Div. 1.56.127 = SVF. 2.944 = LS. 55O  さらに、運命によって全ては生じるので、…死すべき者で全ての原因の連鎖を精神で見て取る者がありうるとしたら、何も彼を本当に騙せないだろう。というのは、未来の物事の原因を把握している者は必然的に将来ある全てのことを把握しているだろうから。神でなければこのことを誰もなし得ないので、人間に残されるのは将来の帰結を表す何らかの印によって予見するということにならざるをえない。なぜなら、将来ある物事が即座に存在するとは限らないから。むしろ、縄がほどかれるように時は進行するのであり、それは初めてのことをあらわにするにしても何ら新規なことを引き起こさないのである。 第二巻 Cicero, Div. 2.33 = SVF. 2.1211; 3 Antipater 48  確かに彼等はこれらのことを見てとることができなかった。それは既に述べた通りだ。すると、見い出されたのは未来のことではなく、技術だということにならないか。もし仮に、認識されえない物事に関する技術が何かあるとしたらだ。物事の本性上何らかの関わりを持っているのであるから。それらは何かある一致によってつなぎ合わされ、まとめられているというのだが、この説は見た所自然学者達のお気に入りだったもので、何よりも彼等は、有るもの全ては一つなのであると言っていたのだ。その集大成が見い出され、つなぎ合わされた以上、宇宙はどのようになっているということになるのだろうか。つまり、臓物によって、私の財産が増えると示されているとしたら、またそれが自然にかなっているのだとしたら、まず、臓物は宇宙につなぎ合わされており、さらに、私の得る利益も物事の本性によって制御されているのである。こんな主張をして自然学者達は恥ずかしくなかったのだろうか。しかしながら物事の本性の中には何か直接働く影響力があるようであり、それがあることは私も認める。  (というのは、ストア派の人々がそういったものを沢山収集しているからだ。つまり、冬には小鼠の小さな肝臓が肥大し、冬至のその日には、ひからびていたメグサハッカが花をつけ、膨れた果皮が裂け、その中に入っているリンゴの種が反対側を向き、竪琴の弦をこれこれに打てばそれに合った音を返し、紫貝やムール貝があらゆるものを染め、月の満ち欠けが等しくなり、木々も冬の時期には月が老いるのと同様に、その時に干上がるものだから、嵐のような気候の中で散り散りになるというのである。(34)海峡や夏の海については何を多く語る必要があろうか。それらの満ち引きは月の動きに支配されている。この手のものは膨れ上がって600にも登る。これで、懸け離れた物事の間にも自然の結びつきがあるのは明らかだというのだ)  まぁしかしこんなことは措いておこうじゃないか。この論議に抵触するものは何もないのだから。もし今、肝がかくかくの仕方で切られたとしたら、[そのこと自体から?]何か利益になることが出てくるであろうか。このような自然の結びつき、それは一致や調和のようなものであり、ギリシャ人達はギリシャ語で「共感」と呼んでいるのだが、それがあるからこそ、肝の切れ目が私のささやかな利益と結び付き、私が得る本の少しの得が天地や森羅万象の本性と一致するのではないか。 ↓ お望みならこのことまでは認めてもよい。付き合いを犠牲にしても、卜占の臓物には自然の便宜が何かそなわっているのだと認めるとしたらだ。  (35)しかしながら、このことを認めたところで、卜占で知ろうと思った人がそういった物事に犠牲という便宜を捧げたということに一体なるのであろうか。この私も論駁できるなどとは考えなかった論点である。棄て去れたらどんなにか嬉しいことだろう。 ↓ Cicero, Div. 2.35 = SVF. 3 Antipater 39  君の言うことは全然恥ずかしいものではないと思うし、君の記憶力にも驚嘆しているのだ。しかし、クリュシッポス・アンティパトロス・ポセイドニオスの徒は君と全く同じことを言っている。つまり、犠牲獣の選別に対する導き手となるのは、世界全体に混ぜ合わされているある判断力・予兆力なのだというのだ。しかし、君も採用している説、またあの人々が説いている説の方がはるかによいのも真実だ。つまり、誰でもよいが、犠牲を捧げようとする時には、外面的な事柄の変化が生じ、何か異常な常規を逸したことが起こるのだ。 (2.41)それならば、何故に君達はあの奇論にのめり込んだのだ。君達はその論法をいまだかつて納得の行くように説明してくれたことがないではないか。 ↓ Cicero, Div. 2.41 = SVF. 2.1193  つまりこうして、非常に性急に論を進めて、彼等はいつもこう結論付けるのだ。「神々があるなら、卜占はある。さて、神々は存在する。故に、卜占は存在する」 ↓ 見たまえ。まるで無茶苦茶な論法ではないか。これでは、卜占が実は何ものでもないとしたら、神々もそうなるではないか。つまり、卜占は明らかに存立し得ないから、神々が存在するということは考え直さないといけなくなるのだ。 Cicero, Div. 2.44 = SVF. 2.699  ストア派の見解では、冷たい大地の蒸気は流れ出しはじめると気化するのである。さてそして、それが雲の中に入って、その何か非常に精妙な部分を分割し始め、それを粉々にし、このことを激しく繰り返し行うと、稲光と雷鳴が起こる、というのだ。他方、雲の衝突によって激しい熱が放出されると、それが稲光となる。 Cicero, Div. 2.56.115 = FDS. 80  つまり、君達の言うような御託宣でクリュシッポスは全巻を埋め尽くしたのだが、それらには私がそう考えているように虚偽のものもあり、たまたま真実だったものもあるし(弁論全般にしょっちゅうあることだが)、どちらともとれる曖昧なものも(解釈者が解釈者を必要としたり、占いのために別の占いをたてるというようなことだ)、いくつもの意味を持っているものもある。そしてこうした事柄を弁証家のために防御せねばならないのである。 Cicero, Div. 2.61.126 = SVF. 2.62  とりわけ、クリュシッポスはアカデメイア派の人々を論駁して、覚醒している人に見えているものの方が夢で見られたものよりもはるかに明白であり確実であると言っているのだから。  (2.90)信じ難い気狂い沙汰だ。愚かさは全てが過ちではないと言わねばならないのだから。 ↓ Cicero, Div. 2.90 = SVF. 3 Diogenes 36  バビロニアのディオゲネスも彼等には多少譲歩してこう言っている。予言することができるのは、各々が本性上どのようであるか、また各々はどんな物事に最も適しているだろうか、ということだけである。つまり、その他のことはたとえ明言しうることであっても、どうやっても知りえないのだと言うのだ。というのも、双子の姿形が似ていても、生き方や運勢が大いに異なっているということはあるのである。例えば、プロクレスとエウリュステネスは、スパルタの王だったのだが、双子兄弟だった。(2.91)しかし、この兄弟は同じ年月生きたわけではなかった。つまり、プロクレスの生涯はより短かったのだが、こちらの兄弟は政事に関する栄誉においてもはるかに抜きん出ていた。しかしながら、この私としては、ディオゲネスという最高の人がカルダイアの占師達に譲歩してまるで矛盾した証言をしたような形になった事柄さえも、知ることは不可能であると思う。 ↓ そのわけはこうだ。彼等自身が語ったところでは、子供が生まれ、誕生日が月に支配されていると、カルダイアの占師達はその誕生星を調べて記し、どの星がその月に結びついているかを見て、目に備わった鋭い欺瞞の感覚で、心持ちや精神が何を負っているかを判断するのである。つまり、思うに、学者達の理論によると、これらにどういう意味を与えるべきかは、月がどれほど低く大地すれすれにくっついて運行しているか、水星付近の星々からどれだけ離れているか、他方、金星からはもっと離れていて、さらには、太陽からは別の距離をもっているということ、こういったことに照らして精査すべきだというのだ。実際、その他の三つの距離は無限に大きい。太陽から火星へのそれ、また、木星へ、木星から土星へのそれ、さらには、天空そのものへのそれのことである。宇宙は最も大きい究極のものだからである。 Cicero, Div. 2.56.115 = SVF. 2.1214  (115)しかしもうあなたを取り上げる段になった。   おぉ聖なるアポロンよ。大地の確かなへそをとらえる者。   あなたからまず、迷誤に満ちた荒々しくも狂った声が出てきたのだ。 というのも、あなたの神託でクリュシッポスは全巻を埋め尽くしたのだが、その一部は間違っており(少なくとも私はそう思っている)、一部は偶然正しいだけであり(あらゆる弁論において非常にしばしば起こることであるが)、一部ははっきりいないのでどうともとれ(それで解釈者が解釈を加え、つまりは、御伺いに対して御伺いを立てねばならなくなるわけだ)、一部は何のことか分からないからだ(それで弁証論の先生にきかねばならないのだ)。 ↓ 例えば、かの御伺いがアジアの非常に裕福な王に下された時、  クロイソスがハリュスに進攻し大いなる権力を転覆する 人は敵達の力が打負かされるのだと思ったが、実際には自分達のそれが倒されたのである。 Cicero, Div. 2.117 = SVF. 2.1215  しかし、この方は頭目なのだから教えてもらいたいものだ、何故にそのような仕方でデルポイの神託は下されないのか。我々の時代だけでなくずっと昔から。そうすれば何も軽蔑に値するようなことはないはずではないか。その場所について回答を要すると、彼等はこう言うのだ。その場所の力は古くなりなくなってしまったのだ、と。そこからはあの大地の蒸気が生じていて、その精気でプチアは刺激されて託宣を下したのである、と。 Cicero, Div. 2.126 = FDS. 351A  その理由は何よりも、クリュシッポスがアカデメイア派の人々を論難してこう言っているからである。つまり、目覚めている人に現れる物事の方が、眠っている人々のそれよりもずっと明らかで確実ではないか、というのである。 Cicero, Div. 2.129 = SVF. 3.607  しかし、君のストア派の人々は誰かが賢者でもないのに神的でありうるということを否定している。 ↓ Cicero, Div. 2.63.130 = SVF. 2.1189  なるほどクリュシッポスは卜占を次のような表現で定義している。神々から人間にあらかじめ伝えられた印を認め、知り、説明する能力である。しかし、この能力がなすべき義務は、人間に対比して、神々がどのような心を持っておられ、何を表され、どのようにしてそれらは配慮され、また犠牲はどのようにして捧げたらよいか、を知ることである、と。同じくクリュシッポスは、夢占いについても次のように定義している。神々から人間に夢の中で示された事柄を認め説明する能力である、と。 ↓ ではどうだろう。常人の場合これらの目的に思慮は役に立つのではないだろうか。それとも、並外れた才能の持ち主や完璧に教養を身につけた人にもそうではないだろうか。しかしそんな人は誰一人見つからないのだが。 Cicero, Div. 2.65.134 = SVF. 2.1201  卜占師を擁護する論をなす者もいる。自分の寝室の寝台の紐に卵がぶら下がっている夢を自分も見たというのだ。まさに、クリュシッポスの本に書いてある夢がこれだ。占師は、寝台の下に金庫が埋まっています、と答えた。彼はそこを掘ってかなりの金を見つけ、その周りには銀もあった。しかし、彼はほんのちょっとの銀しか見つからなかったと占師に伝えた。そこで占師は「黄身はなかったのか」と尋ねた。つまり、占師には、卵は金と残りの銀のことを明らかに表していると思われたのである。 ↓ すると、いまだかつて誰も他に卵の夢を見た人はいなかったのであろうか。それでは何故、誰かは知らないが、この人は[卵を見付けずに]宝物だけを見つけたのであろうか。いかに多くの人々が、貧乏で神の庇護を受けねばならないのに、宝物を見つけるように促す夢など何も見ないことか。卵から宝物の似姿が生まれるというようなよく分からない仕方で忠告がなされ、ちょうどシモニデスが航海を差し止められたように、宝物を見つけるよう明確に告げたのではなかったのは、そうするとなぜなのか。 Cicero, Div. 2.144 = SVF. 2.1206; 3 Antipater 42  ではどうだろう。解釈者自身の推論の能力はより一層、どんな力や自然との一致が彼等に備わっているかを明らかにしないであろうか。オリンピアに行こうと思っている走者が四輪戦車で走っている夢を見た。占師に任せておけばよい。しかしあの人はこう言ったのだ。「君は勝利するだろう。馬の力と素早さがそれを示しているのだ」この人はその後でアンティポンのところに言った。そしてこの人はこう言ったのだ。「君が勝利するのは間違いない。君の前を走る戦車があるとおもうかい」別の走者もいるが(まぁでも、クリュシッポスやアンティパトロスの本はこういう夢や類似のもので一杯なのだ)、この走者の話に戻ろう。彼は占師に伝えて、夢に鷲が現れたと言った。そこであの人はこう答えたのだ。「君は勝ったのだ。この鳥にまさる強力な鳥があるとは思えないから」この同じ人にアンティポンはこう言ったのだ。「旦那。負けるのがお分かりか。この鳥は他の鳥を駆り立て、追い立てて、自分は常に最後にいるわけだから」(145)また、ある貴婦人が妊娠したのではないかと思ってそれを確かめようとしていたのだが、眠っている間に自分は封をされた状態にあるという夢を見たのだ。そしてそれを伝えた。ある占師は、封をされているのだから妊娠することはありえないと言った。しかし、別の占師は、妊娠していますよと言った。なぜなら、虚ろなものに封をするということは普通しないのだから、というのだ。占師の技術というものは何と弁説巧みなことか。私が述べた事柄やストア派の人々が集めてきた数え切れない事例は一体何を示しているのか?ある一つの像からあるときはこう、またあるときはこうという結論を引き出す人間こそ鋭いということ以外の何であるのか。 ↓ 他方、医者達は脈や病的な息や、その他多くの事柄から何か印を得ると、将来起こることを感じ取るのである。また、船頭達も、イカが飛び上がったり、イルカが港の中に集まってくるのを見ると、嵐の印だと考えるのである。こういったことであれば、理論的な説明が可能であるし、自然現象に関連づけることも用意にできる。しかしながら、ちょっと前に私が述べた事柄は決してそうではない。