キケロ『究極善悪論』

 *底本はTeubner版のSchiche校本であるが、特に句読点に関して、従わなかった箇所がないわけではない。それに関しては段落ごとに後注を付けておいた。
 *章・節の分け方も底本に従っている。
 *翻訳の際の段落はライトなどに従ってなるべく細かく分けた。
 *()は説明的な表現などを読みやすくするために適宜用いた。[]はテキストにない表現の付加を表す。

第1巻

Cicero,Fin.1.2.6=SVF.2.34; 3 Diog.15; Ant.8=FDS.171
 ストア派では、クリュシッポスが論じ残したものが何かあるだろうか。しかし我々が読むのは、ディオゲネス、アンティパトロス、ムネサルコス、パナイティオスその他大勢の書いたものだし、とりわけ我々に親しいポセイドニオスのものなのだ。

Cic,Fin.1.11.39=SVF.3.158
 (11.39)しかしまた、アテナイには(父からそう聞いたものです、機知に富んだ都会的な仕方でストア派の連中をコケにした人でした)座ったクリュシッポスの象がケラメイコスにあるということだが、片手を伸ばしていて、その手が表すのはあの方が次の問題を気に入っていたということである。つまり「では、君の手が今あるような状態にあるとすれば、それは何かを欲しているだろうか?断じて否。しかし、快楽が善だとしたら、これを欲したのではないか?そう思われる。従って、快楽は善ではない」

こんなことは彫像だって全く言わないだろうと父は言ったものだ、もし口がきけるとしての話だが。というのも、キュレネ派に対抗して推論されたのであれば十分鋭いが、エピクロス派に対してはどういうこともないからだ。つまり、上述のように、いわば感覚をくすぐるものだけが快楽であり、それが心地よさをもって感覚に向かって注ぎ込んで流れ込むのだとしたなら、手であれ他の部分であれ苦痛のなさに満足することはありえないだろう、快楽という喜ばせる運動がない限り。しかし、もし最高の快楽が、エピクロスの説のように、何ら苦痛を感じないということならば、

Cicero,Fin.1.11.39=SVF.3.158
 最初の命題を君が、クリュシッポスよ、承認したのは正しかったのであり、かのような状態にある時手は何も欲求しない。[だが]2番目のは正しくなかったのだ。つまり、もし快楽が善であるならば欲求されることはないであろう、ということは。

Cicero, Fin.1.12.42
 (1.12.42)さらに、欲求することや忌避することの、もっと言えば、全く、物事をなすことの端緒は快楽と苦痛から発しているのだ。このことが事実である以上、明白なことだが、義しくまた賞賛に値する物事は全てこの点に至りつくのだ。快楽とともに生きるということに。さて、このものがすなわち最高善、あるいは究極善、あるいは極限善なのであり(これをギリシャ人達はギリシャ語で「究極の目的」と名付けているのだ)、このもの自体は他の何もののためにあるのでもなく、かえって全てのものがこのものに帰着するのである以上、最高善は「快適に生きる」ということであるとせねばならないのだ。

13

 (1.13.42)その最高善というものをただ徳のうちにだけおいて、名前の輝きにとらわれるあまり、自然が要求していることを分らない人々は、エピクロスの教説を聞き入れる気持ちがあれば、最大の過ちから解放されるであろう。というのも、あなた方のそのすばらしい美しい徳も、快楽を作り出さないならば、誰がそんなものを賞賛や追求に値するものと考えるだろうか。つまり、医者の技術は技術そのもののためではなく、すばらしい健康が生み出されるが故に、我々も評価するのであるし、船頭の術にしたって、首尾よく航海するにはどうしたらよいかという理論をもっているから、つまりは利益のために賞賛されるのであって、術それ自体がそうされるわけではない。それと同様に、生の技術と言われている知恵も、何も大したものをもたらさないなら、追い求められることはないのだ。しかし、実際に知恵は追求されているのであり、それはつまり、快楽を捜し出して用意する職人としてそうされているのである。

Cicero,Fin.1.18.61=SVF.3.51
 この点で我々はストア派の人々よりもはるかに優れており、真理に近い。なぜなら、あの人々は何だか知らないがあの影みたいなもの以外は善ではないと言うのだから。彼等はそれを美徳と呼んでいるが、中身の詰まったというよりはきらびやかなだけの呼び名である。しかし、この美徳の上に成り立つ徳は何ら快楽を要求せず、幸福に生きるためにもそれだけで十分だなどと言うのだ。

20

 (1.20.65)この討論で残された論題は、むしろ最も切実なものでさえあるのだが、友情に関するものだ。友情については、もし快楽が最高善ならばそれはほとんど全く何でもなくなると君達は断言している。これについてエピクロスはしかしこう言うのだ。幸福に生きるために知恵が整えてくれる全てのもののうちで友情ほど偉大で豊かで心よいものは何もない。実に、この議論だけでなく、あの方は自分の生きざま、行い、人柄によってもはるかに一層、心から友情を讃えたのだ。なぜなら、友情がどれほど偉大なものかというのは古い伝説が明らかにするところだが、最古の時代から種々雑多にくり返されたきたこれらの物語の中にも、三組の友人達が見い出されるのがやっとだからである。つまり、テセウスに始まってオレステスに至るまで。
 しかし、実にエピクロスは一つの家の中に、しかも本当に狭い家の中に、何と多くの友人を集めていたことか。その友人達も、愛という同盟関係で結ばれていたのだが、その同盟はどれほどのものであったか。このことは今なおエピクロス派の人々に保たれているのだ。
 しかし、本題に戻ろう。実際の人々を引き合いに出さねばならないということはないのだ。

第2巻

 (2.1.1)そこで、両者とも私を見つめて、聞く用意がある様子だったので、私は言った。まず第一にお願いするが、私があなた方に何か哲学者のするような講議をこれから説くとは思っていただきたくない。そのようなことは、哲学者においてさえ私は大いによしとするところではない。というのも、ソクラテスも、哲学の粗と言われるのが正当な方だが、一体そのようなことをしただろうか?こういうやり方は、当時ソフィストと呼ばれていた連中のものだった。そして、彼等全体の中でも最初にレオンティノスのゴルギアスが、集まりにおいて質問を求めることを敢行した。つまり、聞きたいことを言うように命じたのである。

Cicero,Fin.2.4.13=SVF.3.404
 しかし、ここに違いがあり、快楽は精神においても語られており、ストア派の人々の見解では、これは邪悪なもので、彼等はこれをこう定義している。多大な善を享受できると信じている魂の、理を欠いた高揚、と。

Cicero,Fin.2.6.17=SVF.1.75=FDS.36
 そこであの方が言った。問答するのはやめたいのだが、もしそれでよいようなら。というのも、この私は最初からこっちの方をむしろ望むと言ってきたのだが、それもまさにこのこと、つまり問答法の狡い論法を予見してのことだったのだ。
 私は言った。それでは問答法によってではなく弁論のやり方で我々は議論した方がいいというのですか?
 彼は言った。本当にまるで長い弁論は弁論家のすることで、哲学者のすることではないというようだな。
 私は言った。それはストア派のゼノンの立場です。つまり彼が言うには、話すことの能力全体は、かつてアリストテレスが既に言っていたことだが、2つの部分に振り分けられ、弁論術は手のひらに、問答法は拳に似たものであるということだ。というのも、弁論家達は饒舌に語るが、問答法をする者達は凝縮した議論をするからだというのだ。そういうことであれば、あなたの意向に従って、もしそうできるものなら、弁論術の話し方をしよう。もっとも、弁論術に従ってといってもこれは哲学者たちのそれであって、我々のあの法廷用のものではないのだが。こっちの方は、一般に分かるように語るものだから、どうしても時折やや鈍いものになるから。

Cicero, Fin. 2.8.24=SVF.3 Diogenes 14=FDS.169
 あの方、若い頃はストア派のディオゲネスを、そして後にはパナイティオスを聴講していたラエリウスはそうではなかった。

Cic,Fin.2.11.35=SVF.1.363(アリストン)
 (というのは、ピュロン、アリストン、ヘリロスたちはとっくの昔に除外されたのだから)

Cicero,Fin.2.11.34=SVF.3.14
 上述のこうした全ての人々に[それぞれ]着き従う究極善があるのである。アリスティッポスには単純な快楽が、ストア派の人々には自然と調和することがそうなのであるが、後者は彼等の主張では「徳から」つまり美徳にしたがって生きるということだということだ。このことを次のように彼等は解釈している。自然によって生ずることに関する知識と共に生きること、自然に従うことは選別し、反対のことは除外しながら、と。
 *(11.35)このように、美徳に与らない究極善は3つある。*
*…*アルニムがなぜこの1文を削らなかったか理由はよく分らない。

一つはアリスティッポスあるいはエピクロスのそれ、もう一つはヒエロニュモスのそれ、3つ目はカルネアデスのそれである。美徳を何らかの付加と共に含むものも3つ、ポレモンの、カリポンの、ディオドロスのそれがある。

Cicero,Fin.2.11.35=SVF.3.14
単純簡潔なものが一つあって、その創始者はゼノンである。彼はこれを全面的に立派さ、つまり美徳のうちに置いた。

Cic, Fin. 2.13.43 = SVF. 1.364 (Aristo)
 こうしたものはアリストンやピュロンにとっては何のためにもならないものに見えたのであり、例えば最高の健康と最悪の病苦との間にも全く何の差異もないとなどと言ったので、彼等に対する議論自体が絶えてしまったのも正しいことだった。というのは、一つの徳のうちに全てがあると彼等が主張するあまり、こうしたものの選択から徳を引き離し、それに出自や輝く場所を何か与えることもしなかったので、彼等は自分達が抱きかかえていた徳そのものをひねりつぶしてしまったのだ。

Cicero, Fin. 2.13.43 = SVF. 1.414 (Herillus)
 他方ヘリロスはあらゆるものを知識に逢着させて、ある一つの善を見い出したが、それは最高善でも何でもなかったし、人生を舵取れるものでもなかった。それだから、この言説自体もうとうの昔に放置されていて、なるほど、クリュシッポス以降は全く論議にも登らないのである。

14

 (2.14.43)それで、残るは君達だ。というのも、アカデメイア派の連中とは論争できるかどうかも怪しいからだが。彼等は何も確言しないし、まるで、確かなものなど認識できないと絶望してしまったかのように、真実らしいとその都度思われるものに何であれ従うよう説いているのだ。

Cicero,Fin.2.14.44=SVF.3.22
 こうしてその他の立場の見解が除外されたのだから、残るのは、私とトルクァートゥスの対決ではなく、徳と快楽のそれなのです。実際この戦いを鋭くまた細心な人、クリュシッポスは咎めていないのだ。[それどころか]最高善に関わる全ての決定点はこの争いの中におかれていると主張している。

 (2.14.45)しかるに、美徳を我々は次のようなものと理解している。すべて損得を無視し、どんな報賞も出てくる結果も抜きにして、ただそれ自体で正当に賞賛されるようなものである、と。それがどのようなものであるかということは、私が用いた定義によって理解することもできるが、それよりももっとよく理解できる方法があるのだ。それは、まず、全ての人々が共通に下す判断によってであり、また、最も優れた偉人達の意志と行為によってである。このような人々はとても多くのことを多々一つの理由から、つまり、それがなすべきことである、それが正しいことである、それが美徳にかなうことだからという理由で、たとえ何の利益も生じないということが分っていても、それでもなすのである。
 さて、

 (2.21.69)それだから、トルクァートゥス君よ、私を信じてくれ。こういった説を維持することは君にはできないのだ。君自身が君の考えと研鑽してきたことを見渡せばそうなるのだ。

Cicero, De Fin., 2.21.69 = SVF. 1.553 (Cleanthes)
 言っておくが、君はあの絵を前にして恥を知るだろう。常々クレアンテスが言葉で実に見事に描き上げていたあの絵だ。彼は聴講者達に自分の言説に従い次のような絵を思い描くように言っていたものだ。つまり、「快楽」はとても美しい着物と女王のような装飾品をまとって玉座に座っていて、徳は従女として側に侍っている。そして従女である徳が専らなし、自分達の義務としていることといえば、快楽女王に仕え、ただこう耳元で忠告するだけなのである。つまり、そんなことが絵から読み取れるとしたらだが、無思慮なことをしないよう*御注意あそばせと、衆生の心持ちを害されたまわぬようだの、苦痛につながることはお控えたもれだの、そんなことを囁くのだ。「ええええ、私ども徳が生まれましたのも、貴女様にお仕え申し上げるためでございまして、専らそのためなので御座候」というわけだ。
*faceretと読む

 (2.25.81)そしてそれで多分正しかったのであろうが、しかし多数者の証言はそう重要というわけではない。というのも、全ての技術、あるいは研究、あるいはどんな知識においてもまた徳においてさえも、何であれ最高のものは非常に稀なのだから。しかし実際私の見たところ、エピクロス自身が善い人であったということ、多くのエピクロス派の人々もそうであったし、今日でもそうだということ、また、彼等が友愛に信頼をおき、生活の全般に亘って首尾一貫しており重厚であるということ、快楽ではなくて義務によって行動の決定を制御しているということ、こうしたことは美徳の方がより大きい力をもっていて、快楽には比較的弱い力しかない徒いうことを表していると思われる。というのも、かなりの人々の生活は、彼等の言説が彼等自身の生きざまによって論駁されるような、そんな有り様だからである。しかし、行為よりも発言の方が高く評価される人々もまた別にいるが、思うにこの(エピクロス派の)人々は発言よりも行為の方が優れているのである。

 (2.26.84)よかろう。君はここで再びあのことに話を戻してもよい。最上級の言葉でもってエピクロスが友情を賞賛するために語った事柄だ。私が問題にしているのは、彼が何を言ったかということではなくて、何が彼の理説と教説に整合して語られうるのかということである。「利益のために友情は求められるのだ」ではすると、ここにいるトリアリウスの方が君にはもっと利益になりうると考えているのだろうか。プテオリの穀倉が君のものになった場合よりもだ。全部まとめて言ってもかまわないよ、君達が常々言っていることを。「保護は友人達にある」君になら、君の内にもう十分あるし、法律にも、普段の付き合いの中にも保護は十分にあるのだ。もう見くびられることは君にはないはずだ。憎悪や嫉妬など簡単に避けられるだろう。こうした事柄に対する忠告はエピクロスから与えられているからだ。また、それほどの稼ぎを気前よく振舞えば、こんなピュラデスみたいな友情などなくても、多くの人の好意を得て立派に自分を守れるだろうし、守りを固めることもできるだろう。
 (2.26.85)「しかし、よく言われるような、戯言も真面目な話も共にし、秘密のことも、内輪の話も共にする相手は?」君自身とにしておくのがもっともよかろうし、そうでなくてもせいぜい普通の友人とくらいにしておくのがよい。しかし、まぁそういう不都合が何もないとしよう。それでも、それほどの富にくらべると一体どれほどの利便になるというのか?では見たまえ、友情をその好意ということで評価するなら何もこれにまさるものはないのだが、利益でそうするなら、最高の親交も肥沃な農地の地代によって乗り越えられてしまうのだ。それだから、君は私そのものを愛すべきなのだ。私の持ち物ではなくて。もし、我々が真の友人になりたいのであれば。
 (2.27.85)しかし、明々白々な事柄について確かに永く関わりすぎだ。早い話が、締めくくりの結論として、万事が快楽に帰着するのであれば徳の余地も友愛の余地もないという、それさえ述べられれば、それ以上言うべきことは何もないのだ。しかしながら、回答を与えていないように思われるところがあるといけないので、今のうちにちょっとだけでも君の話の残りについて述べておこう。

第3巻

 (3.1.1)実に快楽は、ブルトゥスよ、もし自分のために弁護をし、しかもそれほど強固な後ろ盾をもっていないとすれば、これまでの諸巻で打ち負かされてしまったのだからそのうち徳に道を譲るものと私は結論する。というのは、恥知らずなことだろうから、[快楽が]もし徳に対してなおも抗弁するとすれば、またもし立派なものどもよりも快適なものどもの方を優先させたり、身体の快さやそれに起因する悦楽の方が魂の厳粛さや落ちつきよりもより大いなるものだと認めるとすれば。だから本当に彼女を追い払い、自らを己の限度に押し止めるように勧告しようではないか、我々の論議の厳粛さが彼女のおべんちゃらや誘惑によって邪魔されることのないように。(1.2)すなわち、探求せねばならないことはどこにあの最高善があるのかということであって、それを我々は見出そうとしているのである。というのも、快楽はそれにほど遠く、苦痛のないことが最高善であると主張する人々に抗してほぼ同じことを言うことができるのだから。そして真実の所、徳を欠くものは何一つとして最高善と認められるべきではないのだから、徳以上に優れたものはあり得ない以上。
 だから、トルクァートゥス相手にもたれた議論において我々は力を抜いていたわけではなかったが、ストア派の人々相手のこの目前の討論はさらに鋭いものである。というのは、快楽について語られることはそれほど鋭くまた曖昧に論じられるわけではないからである。また、彼女を擁護する人々は論議することにおいて巧妙ではないし、対抗して論ずる人々も難しい論議を反駁するわけではないからである。(1.3)実際エピクロス自身、快楽について論証する必要は全くないと言っている。それの判断基準は感覚におかれており、従って我々が自分でそれに気付きさえすれば十分なのであり、証明される必要はないからだというのだ。それ故、あの議論はどちらの側にしても我々にとっては簡単であった。すなわち、トルクァートゥスの論議のうちには何ら複雑なところも入り組んだところもなかったし、我々の発言も、私にはそう思われるのだが、明晰だった。
 しかし、君も知らないわけはなかろう、ストア派の人々がなす類の議論がいかに精妙、否むしろ耳障りかを。このことはギリシャ人たちにとってももちろんのこと、むしろ我々にとってより一層そうなのだが。我々とて語彙を作り出さねばならないし、新しい事物には新しい名をあてがわねばならないのである。そこそこ一通り教養のある人なら誰であれその使用がありふれた当たり前なものでない全ての学芸について考えてみれば驚きはしないことだが、個々の学芸において問題となる事項に関する語彙を作る際には多くの新奇な言葉があるのである。(1.4)そのようにして、弁証家たちも自然学者たちもギリシャ人たちにとってさえなじみではない言葉を用いるのである。実に、幾何学者たちや音楽家たち、文法家たちもまたそれぞれ独自の仕方で語るのである。弁論家たちの技術でさえ、全く公衆向きで大衆相手であるのに、教示においてはほとんど独特で固有の言葉を用いるのである。
 (2.4)また、高尚で高貴なこれらの学芸をおくとしても、職人たちでさえ、我々には訳が分からないが自分たちには当たり前な語彙を用いねば固有の技術を遵守することが不可能である。さらに、農耕でさえ、全てのより洗練された優美さからかけ離れているものの、それが関わる事項を新奇な言葉で表したのである。何にもまして哲学者がこのことをなさねばならないのである。というのは、哲学とは生の技術であり、人生について論じる者が語彙を広場から取ってくるわけにはいかないからである。

Cicero,D.Fin.3.2.5=SVF.1.34
 (2.5)しかし、全ての哲学者たちのうちでストア派の人々が最も多くの新語を造りだしたのであり、彼等の開祖ゼノンも新問題の発見者というよりは新語の発明家であった。

だから、ギリシャでは*多くの人々がより語彙豊富だと認めるあの言葉で非常に学のある人々が在り来たりではない問題について新奇な言葉を用いているという事実を認めるなら、我々はそれをどれだけ一層許容せねばならないだろうか、そうした問題に我々が今初めてかかずらおうとしているのだから。そして、しばしば我々がそう言ったように、ギリシャ人たちからだけでなく自分たちが我々[ラテン人]としてよりもむしろギリシャ人とみなされたいと願う人々からも何か異論はあろうが、我々は語彙の豊富さにおいてギリシャ人たちに打ち負かされていないだけでなく、むしろその点では勝っているのだから、努めてこのこと[語彙を豊かにすること]を我々の学芸においてのみならずあの人々自身のそれにおいても追求せねばならない。しかしながら、我々が古人たちの慣習に従いラテン語として用いる語彙は、例えば「哲学」そのものや「弁論術」「弁証術」「文法学」「幾何学」「音楽」、それをラテン語で言い表すこともできたのだけれど、用いられて受け入れられていることでもあるし、我々の語彙としよう。
 *シヒェに依りa Graeciaを読む。
 (2.6)問題事項の名前に関しては以上である。しかし、ブルトゥスよ、事柄そのものに関する限り責められるのではないかとしばしば内心穏やかではないのだ、こんなことを君に書き送るとすれば、君は哲学においても哲学の最高の部門においてもあれほどぬき出ているのだから。それ故、もしまるで君に教えを垂れるようなことをしたとしたら非難されたとしても正当なことだったろう。しかし、そんなことはとんでもないことだ。*もうよく御存知のことを知ればいいと思って君に[この書を]捧げるのではない。とても結構な具合に君の名に安心感を覚えるからであり、私と君に共通の研究に君は最も公平な評価者・判定者だと思うからなのだ。だから、いつものように、細心の注意を払って、そして私が天分に恵まれた特異な人物である君の甥と行った討論を判定してほしい。
 *句読点はライトに従う。
 (2.7)というのは、トゥスクルムにいた折り若ルクルスの書庫からある書物を使わせてもらいたいと思ったときだったが、私は彼の別荘に赴いた、いつものように自分でそれらの書物を借りに行くために。そこに赴いた時マルクス=カトーが、彼がそこにいるとは知らなかったのだが、書庫の中でストア派に関するたくさんの書物に囲まれて座っているのを見たのだ。というのは、君も知っているように彼の内には貪欲な読書熱があって満足することがあり得なかった。実際、この方は大衆の空っぽな非難をものともせず元老院が召集されている間に元老院の中でさえしばしば本を読んでいたものだったが、それでも国家の仕事は何ら疎かにしなかった。何よりも、最高の余暇、最大の蔵書の中であのお方は「書物の食いしん坊」なっているように見えた、こんな言葉がこんなに輝かしい事柄に用いられてよいというのなら。
 (2.8)そして、我々お互いが突然思いがけずにお目にかかった時、あの方はすぐに立ち上がられた。そして出会った時の習慣であるあの最初の挨拶を[交わしたのだ]。「どうしてあなたがここに?」とあの方は言われた。「すると別荘からいらしたようにお見受けしますが。それにしても、あそこにあなたがおられると知っていれば直々に参りましたものを」私は言った「昨日競技会なんてものが始まりましたので市街を発って夕方に着きました。しかし、ここにやってきたわけはこの書庫からいくつか書物を都合してもらうためなのです。カトーよ、この蔵書全てはやがて我らがルクルスにとって勲章になるのがふさわしいでしょう。つまり、彼は別荘の残りの調度よりもこの書物を喜んでほしいと思うのです。というのも私の大きな関心事は、もっともそれは実際には本来あなたのすることなのですが、お父上や我らがカエピオやこれほどまでに親密なあなたに相応しいものとなるよう彼が養われることなのです。しかし私は訳もなく気を揉んでいるのではありません。なぜなら、彼のお爺さんの思い出に私は心動かされているからです。つまり、御存知でしょう、私がカエピオをどれだけの人物とみなしたかは。このお方は、私見では、もし生きていたならばとっくに指導者の内に入っていたでしょうに。それからまた、ルクルス君は[私の]目の前で私の方を向いていてくれるからなのです。全ての徳を備えた優れた人物が友情と全面的な好意と親愛の情で私にこれほどに結びつけられているのです。
 (2.9)彼は言った、大変立派なことです。おニ人ともの思い出をもっておられるとは。その方々は遺言状で自らの御子息をあなたに委ねなさったのだが。そして御子息をとりわけ気にかけておられるとは。さて、私のすることと言われたことにやぶさかではないですが、しかしあなたを相棒として加えることにします。また、加えておきますが、御子息は気品と天分の印をたくさん私に与えてくれます。しかし[彼の]年は御存知でしょう。
 分かっています、と私は言った、しかしながら彼はもうあの学芸に染められてしかるべきです。若いうちにそれらを飲み込んでおけば、さらに経験豊富な者として重大事に向かうことでしょう。
 その通りです。実にそこで、丹念に何度もそのことをお互いに語り合おうではないですか。そして力を合わせてやっていこうではないですか。とにかく、腰を下ろしませんか、と彼は言った、よろしければ。我々はそうした。
 (3.10)そこであの方はこう言われた。それにしても、あなたは自分であんなに書物をお持ちなのに、一体全体何をここに御所望で。
 アリストテレスのある講義録を、と私は言った、ここにあるのは知っておりましたので借り出させてもらおうとやってきたのです。暇のあるうちに読んでおこうと思いましてね。本当、我々には滅多にない機会ですからね。
 あなたがストア派に転向してくれていたら、と彼は言った、どれだけ善いことか!。というのも、[もしストア派になっていたなら]誰かがそうするのなら、あなたは間違いなくに徳以外の何物も善いもののうちに認めなかったはずですから。
 おそらく、と私は言った、大いにあなたのことでしょう、事柄に新しい名をあてないということは。実際、私にそう思われる同じことがあなたにもそう思われるはずですから。つまり、我々の理論は合意しているのに、表現は対立しているのです。
 いや実際はほとんど、あの方は言われた、合意などないよ。というのも、何であれ立派なもの意外のものを求めるべきであると君は言うだろうし、それを善のうちに数え入れるだろうから。つまり、君は徳の輝きとも言うべき立派さそのものを消し、徳を内側から滅ぼしたことになるだろうよ。

Cicero,De Fin.3.3.11=SVF.1.364
 (3.11)カトーよ、私は言った、こういうことは高らかに語られています。しかし、あなたのお言葉の御立派さはピュロンやアリストンと共通のものであるのを御存知ですか。彼等は全てのものをひとしなみにしたのですが。彼等についてあなたがどうお思いか私は知りたいですね。
 私がどう思っているか、彼は言った、知りたいだと。[このローマという]国家には善き人、勇敢な人、正義の人、節制のある人がいたと聞いているし我々自身が見たところでもある。また彼等はどんな教説にも頼らず自然そのものに従い賛嘆すべき多くのことを成し遂げたのだ。彼等は哲学に教えられた人々よりも自然によってよりよく教示されたのである。「哲学」というのは、そういった人たちが何か他の哲学を善いものだとしたとしての話であるが。つまり、立派なものでなければ何も善いもののうちに認めず醜いものでなければ何も悪いもののうちには認めない哲学以外の。その他の哲学者たちの教説は、あるものは完全にそうだし別のものはかなりそうだがしかしながら全部がそうであることには変わりなく、何か徳に与らないものを善いもの[に、何か悪徳に与らないものを]悪いものに数えているのであり、我々がより善い者となるよう補助も強化もしないばかりか、自然そのものを損なわせるのだと私は主張する。すなわち、立派なものだけが善であるというこのことが確立されない限り、幸福な生が徳によって実現されるということはどうやっても明らかになりえないのだ。しかしもしそうだとしたら、哲学に関心が払われなければならない理由が私は分からない。つまり、誰か賢者が悲惨であり得るならば、他ならぬ私は栄光ある高名な徳そのものをそれほど評価しなくてもよいと考えるだろう。
 (4.12)今まで、カトーよ、あなたが言ったのと同じことは、私は言った、もしあなたがピュロンやアリストンに従っていたとしても言い得たことです。というのは、御存知でしょうが、この方たちはその立派さを最高善とみなしているだけでなく、他ならぬあなたが主張されるように、唯一の善とみなしているのです。このことが事実そうならば必然的な帰結として、あなたはそう主張するように見えますが、賢者たちは全員常に幸福であるということになります。そうすると、この人々をあなたは讃えるのですか。そして、私は言った、この人々のああいう見解に我々は従うべきだとお考えですか。
 いやまさか彼等のには、と彼は言った。つまり、徳に固有のものとして、自然に従う事物の選別をなすことがある以上、万物をひとしなみにし、[善悪]どちらの側にも同じことでしかないとしてしまい、何の選別も行使しないようにしてしまった人々は徳そのものを取り去ってしまったことになるのだ。

 (4.13)本当に、私は言った、結構なご意見です。しかしながら、私が伺いたいのは、あなたは同じことをなすべきではないのかということです、公正・立派さでないものは何一つ善ではないと述べ、その他のものの区別を放棄するのですから。
 放棄するなら本当にそうなるだろうね。そうじゃなくて区別の余地は残すのだよ。
 (4.14)一体全体どうやって!?、私は言った。もし、徳が唯一のものであり、あなたが立派さ・公正・誉むべきもの・優美さと呼ぶものがたった一つであり(こう言うのは、同じものが多くの呼び名で表されるなら、それがどのようなものなのかよりはっきりするからなのですが)、従ってそれだけが、私は言った、善ならば、それ以上あなたは何をもつことになるというのですか、あなたが何かを求めるとすれば。また逆に、もし、醜悪・恥辱・険悪・邪・悪態・凶悪(このものもまた多くの名称ではっきりさせようと思います)でなければ悪ではないのなら、それ以上に何を避けねばならないと言うのですか。
 私がこれから言うことを君は知らないわけではないね、彼は言った。いや、そうじゃないかと思うが、君は私の手短な回答から何か大層なことを手に入れようとしているから、細かいことをいちいち応えるのではなく、むしろ、我々は暇なのだし、君が余計なことだと言わなければ、ゼノンとストア派の教説を全部言ってあげよう。
 とんでもない、私は言った、余計なことだなんて。我々が探求していることにあなたのこの説明は大いに役立つことでしょう。
 (4.15)ではやってみよう、彼は言った、このストア派の理論はちょっと難解でよく分からなくはあるけど。というのは、新奇なことがらに関するまさにこうした名称はかつてギリシャ語でも日常見られたものではなかったけど*、今では永年の習慣で使い古されているのだ。ラテン語ではどうなると思うかね。
*色々読み方の案はあるが、テキストの通りで十分意味は通じると思うのでそのまま読んでみた。
 たやすいことでしょう、私は言った。

Cicero,Fin.3.4.15=SVF.1.34
なぜなら、ゼノンにだって、何か珍奇なことを考え出したときにそれに耳慣れない名前まであてることが許されたのに、どうしてカトーにそれが許されないでしょうか。

しかしながら、へたくそな翻訳家はいつもそうしますけど、厳密に逐語訳する必要はありません、同じことを表すのにもっと馴染みの言葉があるならば。それはともかく、私はいつもそうしているのですが、他にやりようがないときはギリシャ人が一つの単語で言うことを複数の語彙で表現します。でもまた、これは許されてよいと思いますが、ラテン語がなかなか思い浮かばないならギリシャ語の単語を用いることにしましょう。サドル(鞍)やデカンター(生酒入れ)という語についてそうしてよいものなら、ベターな(優先の)バッドな(非優先の)についてはなおさらでしょう。「価値上位の」とか「避けられるべき」とか言うことも認められてしかるべきですけど。
 (4.16)よくぞ、彼は言った、私を助けるようなことをしてくれた。本当に、今君が言ったラテン語を使うことにするよ。その他のことでは、もし私が困っているように見えたら、助けてほしい。
 一生懸命、私は言った、やってみましょう。でも「運は強し」ですから。それではやりましょう。ではおたずねします。というのもこれ以上に敬虔なことを我々はできるでしょうか。

Cicero, Fin.3.5.16 = SVF.3.182
 (5.16)彼等の説はこうだ、彼は言った。私は彼等の理論がよいと思っているが。つまり、動物は誕生するやいなや(というのはここから始めるべきなのだが)己が己に親しいものとなり、自己保存に勢力を傾け、己のあり方とそれをより守る選考へと向かうようになるというのだ。しかし、破壊と、破壊に手を貸すように思われるものからは遠ざかるというのだ。これが事実であるということを彼等はこう証明している。すなわち、快苦[の感覚]が生じる前に既に健全なものは欲せられ、その反対のものは無価値なものとして避けられるのであるが、このことが生じるのは、己のあり方を愛し破滅を恐れるようになって初めてなのである、と。しかしまた、とにかく何かを欲するということが起こりうるのは、自分自身についての感覚をもち、さらには自分を愛するようになって初めてなのである。ここから理解すべきことは、最初の衝動は己を愛することに由来するということなのだ。

Cicero,Fin.3.5.17=SVF.3.154
 (5.17)しかし、ストア派の大部分は自然に従う最初のもののうちに快を入れてはいけないと主張する。

彼等にこの私も大いに同意するのだが、それは自然が快を最初に欲されるもののうちに入れたと思われるならばたくさんの醜悪なことが帰結しかねないからなのである。

Cicero,Fin.3.5.17=SVF.3.187=LS.59D
 ともかく、最初に自然と*受け入れられるものを我々が愛する理由については十分に論じられたと思う。というのも実際、どちらでも好きにしてよい場合に、体の全部分をきちんとした健常なものとして備えているよりも、同じように使えるにしても不十分で歪んだものとしてもつ方を選ぶ者などいないからである。
*Engberg-Pedersen1990, p. 244 n.11はnaturaをdiligereにかけろと言うが…

Cicero,Fin.3.5.17=SVF.1.73; 3.189
 さてまた、物事の認識(「把握」「知覚」などと言えばよいだろうし、こういう単語があまりお気に召さずよく分からないというのならギリシャ語で「把捉」と言えばいいだろう)はまさにそれそのものを[他のものとの関連なしに]それだけで受け入れるべきだというのが我々の見解だ。このものは真理をつかみそれに結びつく何かをその内に備えているのである。このことは子供たちをみれば分かるだろう。我々が目にするように、子供たちは、たとえそれが何の役に立たなくても、理性を働かせて自分の力だけで何かを発見したら喜ぶではないか。(5.18)また、技術というものもそのものをそれだけで受け入れるべきだというのが我々の説なのだ。というのも、技術は受け入れるに値するものをその内に備えており、認識から成り立ち、理論と方法に従って成り立つものを何か含んでいるからである。その反面、虚偽への同意に、自然に反するその他のものよりも一層、違和感を覚えるというのが彼等の論である。

Cicero,Fin.3.5.18=SVF.2.1166
 *さてところで、四肢、すなわち身体の様々な部分についても自然からそれらが有益だからと与えられたように思われるものもある。例えば手や脚や足や内蔵などのように(それらがどれほど有益かということについては医者たちの間にもまだ異論があるのだが)。しかし他方、何の役にも立たずまるで何かの飾りにするために思えるものもある。例えば孔雀にとっては尾が、鳩にとっては色とりどりの羽が、人間にとっては乳房やヒゲがそのようなものである*
*…*この一節は底本のままここに置いたが、文脈に合わないので、例えばラッカムは()の中に入れてその旨を注に触れ、ライトは19.63の途中に移している。

 (5.19)以上述べたことはおそらく簡便にすぎるだろう。しかし、これらは自然の基本の基本ともいうべきものであって、こういうことを論じても言説の豊かさはまず増しはしないし、私としてもそんなことを追求しようとは思わない。実際逆に、君がより重大なことがらを述べれば事柄そのものが言葉をとらえるものなのだ。つまり、[事柄が]より重大であるだけ、言説の方もよりすぐれたものになるのだ。
 おっしゃるとおりです、と私は言った。しかし、善いことを明晰に述べるものは全て私には立派な言説であるように思われます。逆に、まさにそのような事柄をきらびやかに語ろうとするのは幼稚なことでして、むしろ簡潔かつ明晰に言い表すことができるのが学識と教養のある人にふさわしいことなのです。



 (6.20)それでは先に進もうではないか、彼は言った、こうした自然の原理から我々は始めたのだから、これから論ずることはこの原理に調和しなければならないだろう。さて、その次に来るのは次のような区別なのだ。

Cicero,Fin.3.6.20=SVF.3.143=LS.59D
 「価値を有するもの」と彼等が言うものがある(我々はそう言えばいいと思うのだが)。それはまず、そのもの自体が自然に従うものである。またあるいは何かそのようなものを生み出すものであり、評価に値する重要性をもつ故に選別に値するのである。その評価をあの人々はギリシャ語で「価値」と呼んでいるのだ。また逆に、「無価値なもの」は上述のものに反対のものである。

Cicero,Fin.3.6.20=SVF.3.188=LS.59D
 次に、こうした基本原則が定められたとすると、つまり自然に従うものはそれそのものをそれ自体として受け入れるべきであり、反対のものは同様に避けるべきだとすると、第一の相応行為(つまりギリシャ語の「適宜行為」のことを私はこう呼ぶのだが)とは自然の状態に保つということであり、次に来るの[相応行為]は自然に従うものを保ち反対のものを遠ざけるということである。こうした選別が理解され忌避も同様にそうされたなら、次に続くのは相応行為を伴う選別であり、続いて恒久化されたそれ、そして最終的には首尾一貫し自然に調和したそれとなるのである。この最後の段階において初めて、真に善と言われうるものが備わり始めるのでありそれが何であるのかが*理解され始めるのである。
*句読点はライトに従う。

Cicero,De Fin.3.6.21=SVF.1.179;3.188=LS.59D
 (6.21)つまり、人が最初にもつ親しみは自然に従うものに向いているのだ。しかし、知力やあるいはむしろ概念(あの方々はギリシャ語で「内在観念」と呼んでいるが)を獲得し、行われるべき物事の秩序(私は協調と言いたいが)を見るとただちに、この秩序をこそ、人は自分が最初によしとした全てのものよりもはるかに高く評価するものなのである。そしてまた、知識と推論を働かせて、人間にとってのそれ自体で賞賛され希求されるあの最高善はここに置かれそびえ立っていると結論づけるのだ。なぜなら、ストア派の人々がギリシャ語で一致(よければ我々は調和と呼ぼう)と呼ぶもののうちにそのものは置かれており、従って、全てのものがそれに遡及すべきもののうちにその善があるのであって、立派な行いと立派さそのもの(これだけが善の内に入れられるのだが)は、いかにそれが遅く生じようとも、それにも関わらずそれだけがその効能と尊さの故に求められるべきなのだから。その反面、最初に自然に従うものは何一つとしてそれ自体の故に求められるべきではない。

Cicero,Fin.3.6.22=SVF.3.497=LS.59D
 (6.22)しかし実の所、私が相応行為と言ったものは自然の[根元的な]衝動から生じてくるものなのだから、そういった[最初に自然に従う]ものにも関わらざるを得ない。従って、全ての相応行為は我々が「自然の原理」を獲得するためのものだというのは正しい言い方だが、しかしながらそのことを善の究極と言うのは正しいわけではない、自然に最初になじむもののうちに立派な行為は入らないのだから。立派な行為はそれらに続くものであり、既に述べたように、後から生ずるのである。しかしそれでもなお、それは自然に従うものであり、それ自身を希求するようにと先行する全てのものよりもはるかに一層我々を促すのだ。

Cicero,Fin.3.6.22=SVF.3.18=LS.64F
 しかしまずこの点で、最初に陥りやすい誤りが取り除かれねばならない、善の究極が2つあるということになると考える人がいるといけないから。実際、誰かの目標が何かに投げ槍や矢を突き刺すことだとしてみよう、他ならぬ我々が善いものの中の究極のものを語る場合のようなものだ。*こんな例えにおいて彼は突き刺すために万事をなさねばならないが、目標が成し遂げられるための手段を全てをなすということが究極のことであって、この我々が人生における最高善と言ったものに似ているが、[現実に]的に当あたったというあのことはいわば選別されるべきものであって希求されるべきものではないのだ。
*シヒェに従い削除。ラッカムは削除していない。

Cicero,Fin.3.7.23=SVF.3.186
 (7.23)さて、全ての相応行為は自然の始源に由来するのだから、知恵そのものも同じものに由来するのが必然なのである。しかし、誰かに紹介された人が、紹介した人よりも紹介された人の方により親しくなるということがしばしばあるように、初め我々は自然の入り口から知恵に導かれたのだがしかしその後で知恵へのこの通路よりも知恵そのものの方が我々により親密なものになるというのも何ら驚くことではない。

Cicero,Fin.3.7.23=SVF.3.11=LS.64H
 さらに、四肢が我々に備わっているのはそれが何らかの生き方に役立つように与えられたことが明かになるためであるように、魂に備わる欲求(ギリシャ語で衝動と言われている)もあらゆる任意の生き方のためにではなくて明らかにある一定の性の形のために与えられているのである。理性、及び完全な理性も同様である。
 (7.24)つまり、俳優には演技が、舞踊家には振りが、何でもいいというのではなくてある一定のものが与えられるように、人生も何らかある一定の形態に従って営まれるべきであって、勝手な仕方でよいというのではない。そういうものを調和した形態とか一致したそれとかと我々は言っているのである。すなわち、知恵は航海術や医術ではなく先ほど言ったああいう演技や舞踊にむしろ似ていると我々は主張するのだ。つまり、それはそれらそのもののうちに目的、すなわち術の実践を備えていて、外部にそれを求めているのではないからである。しかしそうとは言ってもその反面、こうした術そのものと知恵との間にはある相異がある。それはまず第一に、こうした術の場合、正しくなされたことは術を構成する全ての部分を含んでいるわけではないからである。しかし、我々が(その表現ががいいとして)「正当なこと」「正当な行為」と呼ぶもの(彼等はギリシャ語で「正当行為」と呼んでいるが)は徳の全ての分野を含んでいるのである。つまり、知恵だけが全面的にそのもの自身に向かっているのであり、これと同じことはその他の術には起こらないのだ。*(7.25)かえって、医術や船頭術の目的と知恵の目的とを同列におくのはおかしい。というのは、知恵は魂の偉大さや正義、また人を見舞う全てのことを見下すことをも含んでいおり、この同じことは他の術には起こらないのである。**
*ラッカムによるとライドは、第32説は本来ここにあったのだが誤って底本のようになった、と言うらしい。
**ライトはここに第32節を移動させている。

 さて、先ほど触れたそれらの徳を持つことは誰もできないだろう、立派なものと醜いもの意外には違いをもち物事を区別するものはないという思想を確立しない限りは。(7.26)それでは、私が既に述べた事柄に伴うあの結論がいかに明白なものであるかを見ようではないか。つまり、この目的とは(君は分かってくれると思うが、ギリシャ人がギリシャ語で「終局目的」と言っているものを私は先ほどからずっとあるいは極限とあるいは終局とあるいは最高と読んでいたのだ。しかし極限とか終局とかいう代わりに究極と言うのが適切だろう)

Cicero,Fin.3.7.26=SVF.3.582
 しかるにこの極限の目的とは、自然に一致し調和して生きるということなのだから、必然的な結論として、賢者は全員全く幸福に生き、何者にも妨げられず何からも禁止を受けず何を欠いてもいないことになる。

さて、私が述べているこの教説だけでなく我々の人生や幸福をも支配しているもの、つまり立派なものだけを善とするべきであるということ、は細心に吟味された言葉と重厚な議論を全て導入して広範かつ存分に修辞をこらして拡大され飾られることもできるのだが、ストア派の人々が導いた簡潔で鋭い論証の方が私の気に入るのだ。
 (8.27)要するに、彼等の議論は次のように導かれている。

Cicero,Fin.3.8.27=SVF.3.37=LS.60N
 善いものは全て称賛に値する。さて、称賛に値するものは全て立派である。故に、善とは立派なもののことである。この結論は明らかに妥当ではないか。当たり前だ。なぜなら、前提とされた二つのことから帰結するであろうことのうちにこの結論があるのは分かるだろうから。しかし、結論を導く2つの前提のうち最初のものに反対して、善いものが全て称賛に値するわけではないと言われるのが常である。すなわち、称賛に値するものは立派であるということは認められている。しかし、その半面で何か希求されるべきでない善があるとか、希求されるべきだが喜ばしくないものがあるとか、喜ばしいにしても愛されるべきではないものがあるとか、このような主張はひどくばかげている。そしてこうして証明もされることになるのだ。つまり、そういうものは賞賛に値するものでもあることになる。さて、そのようなものは立派なものである。こうして、善いものは立派なものでもあるということになるのだ。

Cicero,Fin.3.8.28=SVF.3.34
 (8.28)続いて私が問いたいのは、悲惨な人生や幸福でない人生を誇れる者が果たしているかということである。従って、そのようなことができるのは幸福な生についてだけである。ここから導かれるのは、私はそう言いたいのだが、名誉に値するのは幸福な生であって、それはただ立派な生についてだけそうなるのが正しいのだ。立派な生は幸福な生であるということになる。また、正しい賞賛に当てはまる人は栄光と名誉に対する何らかのしるしを備えており、そういうものが非常に多いので彼を幸福であると言えるのは正当なことなのだから、そのような人の生についても同じことが語られるのは非常に正しいことなのである。だから、幸福な生が立派さを基準としているのなら、立派なものだけが持つべき善であるということになる。

Cicero,Fin.3.8.29=SVF.3.35
 (8.29)ではどうだろう。どうやってみても決して否定はできないのではないだろうか、誰か不動で堅固で偉大な魂の持ち主、彼のことを勇敢な人でもあると我々はいうわけだが、があり得るのは苦痛が悪ではないということが確立されて初めてなのだということを。つまり、死を害悪のうちに入れる者はそれを恐れずにはいられないように、害悪だと判断したものをいかなる事態においても気に留めず恐れないなどということは誰にもできないのだ。こうしたことが確立され万人の同意をとりつけるならば、さらに加えて認められることは、偉大で勇敢な魂の持ち主は人を見舞いうる全てのことを見下し何のためにもならないものとみなすということである。このことが事実なら、醜くないものは何ら害悪ではないということになる。

Cicero,Fin.3.8.29=SVF.3.36
 さらにまた、まさにこの人、崇高で優れており偉大な魂の持ち主であり真に勇敢な人であり全ての人間的なことを自分の足下に見下す人、つまり私の言いたいのは、我々が生じさせようとしており追求している人物だということだが、彼は必ずや自分自身と自分のこれまでの生涯とこれからの人生に自信を持っており、自分についてもよく判断していて、賢者には何ら悪いことは起こらないということを堅持しているはずである。ここからもあの同じことが理解されるのだ。つまり、唯一の善は立派なもののことであり、それは幸福に生きることなのである。そして幸福に生きることとは、立派に、つまり有徳に、生きるということに他ならない。

 (9.30)実の所、哲学者たちが様々な主張をしてきたのを私だって知らないわけではないのだよ。そのうち、最高善(とは私が終局善と読んでいるもののことだが)を理性におく人々の説を述べているのだが。間違った仕方でこの説に従った人々もいたのだが、徳を最高善から引き離した3派、というのは彼等はあるいは快をあるいは無苦痛をあるいは最初の自然[的衝動]を最高善に入れたからそう言うのだが、だけでなく別の3派、彼等は何らかの付加がないと徳は不完全であると考えて、そのために彼等はそれぞれ上述の3つのもののうちそれぞれを徳に加えたのだが、このような人々全員よりもおよそどんな性質の人であれ最高善を魂すなわち徳におく人々の方を私はより上におくのである。

Cicero,Fin.3.9.31=SVF.1.415(ヘリロス・アリストン)
 (9.31)さて、次のような人々もしかしながらおかしい。つまり、知識を持って生きることが最高善だと言った人々、どんな物事も無差別であり賢者は高度に幸福なのでどんなものも他のものからいささかでも優先させることはないと言った人々、それから、アカデメイア派の中にはそういうことを主張した人もいると言われているが、善の極限・賢者がなすべきことの最高は見かけに抗し自分の同意をしっかりと差し控えることであると言った人々のことである。

これらの個々の説に対して長々と反論するのが習慣ではあるが、明々白々なことが長々と述べられる必要はない。

Cicero,Fin.3.9.31=SVF.3.190
 それにしてもこれ以上に明白なことはないだろう。もし、自然に逆らうものから自然に従うものを区別する何の選別もないのなら、探求され賞賛されるこの思慮も全て潰えるということ以上に。

Cicero,Fin.3.9.31=SVF.3.15=LS.64A
 私が挙げたああいう教説や、もしそれに似たものがあるとしたらそれも除外するならば、残る説は、最高善とは自然によって生ずることがらの知識を行使して、自然に従うものを選び、自然に反するものを避けながら生きること、つまり自然に一致し調和して生きることだというものになる。

Cicero,Fin.3.9.32=SVF.3.504=LS.59L
 (9.32)しかし、他の技術において「技術にかなった仕方で」と言われる場合は何らか後に続くとか帰結するとかいうこと(あの人々はギリシャ語で「後から生ずるもの」と呼んでいる)が考察されるべきなのだろうが、しかしそこで「知恵に従って」と我々が言う場合は端緒からして非常に正しいということを言っているのだ。つまり、何であれ知恵によって手を付けられたことは必ずやその全ての部分において完遂されねばならないのである。というのも、そのうちには我々が言うところの期待すべきものがおかれているのだから。つまり、祖国を裏切ることや両親につらく当たること、神殿泥棒をすることが罪であり、それはしたことの結果のうちに入るのだが、ちょうどそれに応じる形で、恐れること、悲しむこと、欲望にとらわれることは同じく罪ではあるのだがしかし結果なしでもそうなのである。まさに、こうしたことが後に続くものや帰結するものにおいてではなく初めから即罪であるように、徳からなされることは完遂を待つのではなく最初の初めから正しいものと判断されるべきなのだ。

Cicero,Fin.3.10.33=SVF.Diogenes 40
 (10.33)さて、善というこの語は、この論述の中で頻繁に用いられているが、定義によっても意味は明らかになる。とはいえ、彼等の定義は相互にほんのわずかな違いしかなくむしろ同じことの方を向いているのだ。この私はディオゲネスに同意するのだが、彼は善を定義して「自然に従って完成されたもの」と言っている。またそれに続いて、有益なもの(ギリシャ語の「有益なもの」を我々はこう呼ぶことにしよう)を今度は「自然に従って完成されたものに由来する運動や状態」と言ったのだ。

Cicero,Fin.3.10.33=SVF.3.72=LS.60D
 物事の概念が魂の内に生ずるのは、経験か綜合か類似か類比かによって何事かが認識される場合なのだが、その時にはいつもこの4番目のもの、つまり最後に挙げたものだが、によって善の観念が形成されるのだ。つまり、自然に従うものから魂が類比によってそれを飛び越えるとき、善の観念に到達するのだ。
 (10.34)しかしこの善そのものは付加や増大や他のものとに比較によるのではなく、我々は善そのものが持つ働きによってそれを感じ善と呼ぶのである。つまり、蜂蜜がもっとも甘いものでありながら、他のものとの比較によってではなくそれが持つ固有の味の種類によって甘いと感じられるように、我々が論じている善も確かにたくさんのものよりもより評価すべきものなのだが、しかしその評価の正しさは種に関わるのであって量に関わるのではない。つまり、評価(ギリシャ語の「価値」のことを言うのだが)は善いものにも、逆に悪いものにも入れられないのであり、君がここにどれほどのものを付け加えようともその[価値の]種は変わらないだろう。従って、固有の評価が徳には備わっているのであって、それは種に関して有効で量的な大きさには関わらないのだ。

Cicero,Fin.3.10.35=SVF.3.381
 (10.35)またさらに心の惑乱というものがあって、それは賢者でない人々の生を惨めでつらいものにするのだが、これをギリシャ人はギリシャ語で「感情」と呼んでいる。私としてはむしろ単語そのものを翻訳するなら「病」と言うこともできたのだが、これは全部の場合に有効ではないだろう。なぜなら、同情や怒りっぽさのことを常々病と言う人などいるだろうか。さてところで、あの人々はそれをギリシャ語で感情と言っている。だから、惑乱というのがいいだろう、この表現は名そのものからして不全なものとして言い表されているようだから*。そしてこれら全ての感情は類に分けるなら、下属するものは多いが、4つになる。つまり、苦痛、恐怖、欲望、そしてストア派の人々が心身に共通の語彙を用いてギリシャ語で「快」と読んでいるもの、私としては喜悦と呼びたいが、いわば魂が快を感じたときに得る上機嫌な高揚である、この4つである。しかし、感情も何ら自然の力によって引き起こされるのではなく、全てそれは軽々しい魂の思惑や判断なのである。それだから、賢者はこんなものを決して持つことがない。
*底本では1句削除されているがラッカムはそのまま読んでいる。廣川も読んだ方がいいとする。

Cicero,Fin.3.11.36=SVF.3.41
 (11.36)さて、立派なものは全てそれ自体として望ましいという説は我々が他の多くの哲学者たちと共有するものである。つまり、徳を最高善から閉め出す3学徒を除けば、残りの全ての哲学徒にとってこの説は遵守すべき教説であり、このストア学徒*にとっては最大限にそうなのだ。立派なものでなければ何一つ最高善には入らないと主張するのだから。
*Stoicisを読む。

さて、[この問題についても]この教説が非常に簡潔で易しい弁護となる。というのも、こんな人がいるだろうか。またいただろうか。強烈な強欲ときりのない欲望を備えていたとしても、どんな悪事を犯しても成し遂げたいその同じことが、全く咎めなく悪事も犯さずに自分の下に生ずることの方を、あんな仕方で生ずることよりも、何倍も望むことがない、などという人が。
 (11.37)一体、どれほどの有用性と成果を期待して我々は我々に隠されていること、つまり空で展開する事柄の動き方やその原因、を知ろうとするのだろうか。逆に、知る価値のある事柄に背いてそうしたものを探求もせず何の喜びも有用さも認めずかえって無価値なものだとしてしまうほど遅れた体制の中で生き、それほどまでに頑強に自然探求に反対する者が誰かいるだろうか。また、父祖たちや両アフリカヌスや君の口にもしばしば上る私の曾祖父やその他勇敢で全ての徳の点で有名な人々の言動や思想を知って魂に何の喜びも起こさない人などいるだろうか。
 (11.38)反面、立派な家庭でしつけられ素直な教育を受けた人は恥ずべき行為に、例え彼に将来何の害も与えないとしても、衝撃を受けないだろうか。汚れ恥辱に満ちて生きていると思う人を平静な心で見る人がいるだろうか。邪悪な者、中身のない者、軽薄な者、役立たずを嫌わない者がいるだろうか。しかし、恥じるべきことそのものをそれそのものの故に避けるべきだということを我々が確立しないなら、一体何を言いうるだろうか、邪悪が自ら人々を恥じるべきことや醜いことから遠ざけないとしたら人々は闇や人目のなさを手に入れると醜い行いを何ら控えなくなるということにならないために。無数のことをこの説に対しては言うことができるが、そうする必要もない。

Cicero,Fin.3.11.38=SVF.3.41
 つまり、もはや疑いようのないことだが、立派なものはそれ自体として望ましいが、同様にまた、醜いことはそれ自体として厭わしいのである。

 (11.39)これまで述べてきたあのこと、つまり立派なものだけが善であるということ、が確立されたと以上、何よりも理解せねばならないのは、立派なものはここから与えられるあの中間のものよりも高く評価されねばならないということである。

Cicero,Fin.3.11.39=SVF.3.41
 無思慮、臆病、不正、放埒をこれらそのものから生じてくるものの故に避けねばならないと我々が言うときも既に述べたあの、悪は醜いものだけであるということと今の発言が齟齬するように語っているわけではない。なぜかというと、[「生じてくるもの」というのが]身体の害悪のことをいっているのではなく悪徳に由来する醜い行為のことを言っているからなのである。そのような誤解の原因は、ギリシャ人がギリシャ語で「悪」と呼んでいるものを私は悪意と言うよりはむしろ悪徳と名づけるからなのだが。

 (12.40)全く、私は言った、カトーよ、あなたの語られる言葉は明白であなたの主張を明らかにしてくれます。あなたはラテン語で哲学を教えまるで哲学[の女神]に市民権を与えているように見えるほどです。彼女はこれまでローマでは外人で、我々の言葉では自分を表現しないように見えたのです。この哲学はとりわけそう見えたのですが、そのわけは内容にも表現にも何らか洗練されたものがり精妙であるからなのです。つまり、どんな言葉でも哲学をできる人々がいることも私は知っています。すなわち、彼等は何の分類も定義も用いず、自然が問答無用に同意することをただ単に是認するのだと自分で言っているのです。それだから、全く不明瞭ではない事柄においてはそれらを論証する苦労がそれほど要らないのです。だから、あなたのお話に一生懸命に耳を傾けていますし、この討論が関わっている事柄にあなたがあてられる語彙を何であろうと覚えようとしています。というのは、私も多分まさしくその同じ語彙をもうすぐ使うことになるでしょうから。話を戻しますと、悪徳を徳に反対のものとしたのは非常に正しく、また我々の言葉の習慣にも沿うと思われます。つまり、それ自体として非難されるものはそれ自体悪徳と名づけられるものと思いますし、あるいは「非難される」という言葉が「悪徳」に由来しているのです。もしあなたがギリシャ語の「悪」を「悪意」と言ったとしたらラテン語の習慣は我々を何か個別の悪徳へと導いたでしょう。ところが実際、徳は全ての悪徳に反対の単語で表されているのです。
 (12.41)そこであのお方が言われた。しかるに、このようにこうしたことが確かめられた後でも多大な論争が続いて生じてしまうのだ。その論争をもっと穏やかにしているのが逍遥派の人々なわけだが。というのは弁証に無知なため彼等の議論の習慣は十分に鋭くないから。君のカルネアデスは弁証の大変に優れた修練と最高の雄弁さを備えていて、問題を最高点にまで導いたのではあるが。というのは彼はとりわけいわゆる善悪の問題について論争することをやめず、ストア派と逍遥派の論争は事柄そのものではなくむしろ用語に関わるのだとも主張したのだから。しかし、これほど明白なことはないと思うのだが、これらの哲学者たちのこうした説が互いに相異しているのは言葉においてよりも内容においてなのである。ストア派と逍遥派の間には何よりも大きい断絶があり、それも言葉よりも内容に関わっていると私は主張するのだ。なぜなら、逍遥派の人々は幸福に生きることに貢献するものなら全て善と呼ぶのであるが、我々の方は何らかの評価に値するものを全部合わせても幸福な生は完成されないと主張するからだ。
 (13.42)実際、これ以上に確かなことが何かあり得るだろうか、苦痛を悪に含める人々の理論によると賢者が拷問にかけられたら幸福でなくなるということ以上に。しかし、苦痛を悪に入れない人々の理論では、確かな結論として、苦痛を全部集めた中にあっても幸福な生は賢者の下に留まり続けるのだ。祖国のために苦痛を受け入れる人の方がくだらない理由でそうする者よりも同じ苦痛でもより耐えやすいものとして感じるとしたら、[苦痛の]あり方ではなくそれに対する思惑が苦痛の強さを増減させることになるのだ。

Cicero,Fin.3.13.43=SVF.3.60
 (13.43)また次のようなことがもっともらしい見解となることもない。つまり、善には3種あるとすると、それが逍遥派の説なのであるが、誰であれ身体的善や外的善により満たされれば満たされるほどそれだけ一層幸福だということになるとか、身体においてより評価されるものをたくさん持っている人がより幸福であるということが同じく納得のいく説になることにもならない。つまり、あの方々は身体の善さによって幸福な生が満たされると主張するが、我々は誰一人そんなことを少しも認めないのだ。すなわち、我々が本当の善というものを多量にかき集めても人生は少しもより幸福になるわけではないしより望ましくなるわけでもより価値が増すわけでもないというのが我々の説なのだから、身体的な善さがたくさんあっても幸福な生には何ら役に立たないというのが確実なことである。
 (13.44)実際、知恵を備えることと健康であることが望ましいことだとすると両者を合わせたものの方が知恵を持つことそれだけよりも一層望ましいことになるが、他方、両方とも評価に値するものだとしても両方を合わせたら知恵を持つこと単独よりももっと価値が増すということはない。つまり、健康は何らかの評価に値するとは認めるがそれを善に入れない我々はまた同時に徳に優先されるほどの価値など何もないと主張するのである。同じく、こういうことは逍遥派のそなえていない考えであって、彼等の主張といえば、苦痛を伴わない立派な行為は苦痛を伴う同じ行為よりも一層望ましいというものである。我々にはこれは違うと思われるのだが、それが正しいかそうでないかは後回しにしよう。しかし、この問題についてこれ以上の見解の相違があろうか。
 (14.45)例えば、太陽の光によってランプの火が曇らされ覆い隠されるように、またエーゲ海の広大さに一滴の蜂蜜など融け込んでしまうように、またクロイソスの富にはした金を加えるように、またここからインドへの道のりの中の1歩のように、まさにそのような具合で、こうしたものがストア派の論ずる究極善である以上、ああした身体的な事物の価値など全て徳の輝かしさと偉大さによって曇らされ圧倒されかき消されてしまうのが必然なのだ。

Cicero,Fin.3.14.45=SVF.3.524
 また、好機(ギリシャ語の「好機」のことをこう言うことにしよう)はその期間がのびたとしても善さを増したりはしないが、いわゆる時宜にかなうものはそれ固有のあり方を備えているのだから、ちょうどそのように正しい行為も(ギリシャ語の「正当行為」のことを私はこう呼ぶ、正しくなされたことが「正当行為」なのだから)、そうだその正当行為も同じく調和であり善そのものであり自然に一致するということのうちにおかれているものなのだが、何かを加えられて増えるなどということは一切ないのである。
 (14.46)つまり、好機が時間的に長くなったとしても私が述べたこの時宜の善さというものは増大しないように、そういうわけでストア派の考えは、幸福な生はたとえそれが永くなったとしても短い場合よりもより望ましくなったり求められるものになったりはしないというものである。彼等が用いる比喩はこうだ。ブーツの善さとは足にしっくり合うということであり、たくさんの靴の方が少ない靴よりも、大きい靴の方が小さい靴よりも優先的な価値を持つなどということはないように、その善さが全部調和と好機によって決まるものは多いものが少ないものよりも、短いものが永いものよりも価値的に上だということがないのだ。

 (14.47)それほど当たってもいないがこう言う者もいる。よい健康状態は長続きした方が短いのよりも一層価値が高いとすると、知恵も何であれ非常に永く行使された方がはるかに価値が高いということになる、と。こう言う者たちが理解していないことは、健康の価値は時間の長さで計られるが徳のそれは時宜によるということである。それだから、こういうことを言う人は同時に、善い臨終や善い出産も永く続いた方が短いよりもよいと言うことになるだろう。短ければ一層善いこともあれば、長続きすれば善いこともあるということを知らないのだ。
 (14.48)また、既に述べられた事柄に調和することとして、善の究極(我々が極限とか終局とか言うもののことだが)が増大しうると言う者の理論に従えば、ある人が他の人よりもより知恵があるとか、同様により一層過ちを犯したり正しい行為をしたりするということが同じ彼等の説となるが、こんなことは善の究極が増大するなどという主張をしない我々にとっては言ってはならないことなのだ。

Cicero,Fin.3.14.48=SVF.3.530
 すなわち例えば、水の中で溺れている者はいずれにせよ息ができないのであって、それはそれほど水面から離れていなくてすぐにでも水上に出られる場合でも、底でそんな風になっている場合でも変わらない。また、もうすぐ目が見えるようになっている子犬は生まれたばかりのそれよりもたくさんものを見るわけではない。ちょうどそのように、徳の所有に向けていくらか向上した者も全然向上していない者に比べて悲惨さの度合いが低いわけではないのだ。
 (15.48)この見解が驚くべきものと思われるのは私にも分かる。しかし、既述の事柄が確かに確証された真実であり、今の説はそれらに調和する帰結である以上、この説が真実であることは疑う余地がない。だが、ストア派は徳と悪徳が増大することを否定しはするが、他方両方ともある意味では拡散や拡大のようなものを受け入れることも主張しているのだ。

Cicero,Fin.3.15.49=SVF.3.Diogenes 41
 (15.49)*さて、ディオゲネスの説では富は快楽や善い健康状態への導き手くらいの**力しか持っていない。***さてまた、こうした見解が内含することとして、こうしたものは徳においても他の技術においても同じ働きをするわけではないということがある。他の技術にとっても財産は先導ではあるが、そのものの一部をなすことはできない。ちょうどそのように、もし快と善い健康が善のうちに入るとしたら富も善に入れるべきだろうが、そうだからといって富も善と言うべきだということにはならない。また、善に入らないものから善に入るものが構成されることはできないし、同じ理由で、富が善に入らないとしても、物事の認識と把握が、これが技術を作り出すのだが、欲求を引き起こすのだから、技術は全く富を構成要素としなくてもよい。(15.50)だから、技術についてかのような説を認めるとしてもなお、徳にも同じ理屈が当てはまるわけではないだろう。というのは、この徳というものは非常に多くの探求と実践を必要とするが、同じことが技術に当てはまるわけではないし、徳は不動さ・堅固さ・全生涯に亘る一貫性を内に含んでいるが、同じことが技術にもあるとは思われないからである。*
*…*ライトは全体を括弧に入れ、これは本来第51節か第57節への脚注的なものではなかったかと言っている。
**ラッカムはかなり異なる読みを採っている。
***句読点は底本に従う。

Cicero,Fin.3.15.50=SVF.1.365=LS.58I
 では次に、事物の区別について説明しよう。というのも、アリストンの説に従うように、もし我々が何の区別もしないのであれば全生涯はごちゃまぜになってしまうし、知恵の果たす役割や仕事もどこにあるのか分からなくなる、生涯を送るために関わらねばならないものが全く無差別になり従うべき選別もないということになるのだから。

Cicero,Fin.3.15.50=SVF.3.129
 続いて、立派なものだけが善であり醜いものだけが悪であるという説を十分に確証してから、幸福に生きることにも悲惨に生きることにも何の寄与もしないもののうちにもしかし差別をなす要素があるのだと主張したのである。そういうもののうちにはより評価されるものもあれば、それと反対のものもあり、中間のものもあるというのだ。(15.51)さて、評価されるべきもののうちには、なぜ他の何ものかよりも優先されるかというその十分な理由をうちに備えているものもある。例えば、健康、損なわれていない感覚、苦痛からの開放、名誉、富、これらに類似のものどもである。しかし、そういうあり方をしないものもある。また、全く評価するに値しないものどものうちにも、なぜ[他の]ものよりも忌避されるかというその十分な理由をもっているものも一方にはある。例えば、苦痛、病気、感覚の喪失、貧乏、不名誉、これらに似たものどもである。しかしそういうあり方をしないものもやはりある。こうして考え出されたのが、あの、ゼノンが「優先物」あるいはその反対に「非優先物」と名付けたものである。

彼はギリシャ語の豊かな語彙の中にありながらもなおも新しい造語を用いたのであるがそれはラテン語のこの乏しい語彙の中では我々に許されないことなのである。実際常々君はこの言語は語彙に乏しいと言ってはいたが。

Cicero,Fin.3.15.51=SVF.1.193
 しかし、こうした言葉の意味がより用意に理解されるように、この論者ゼノンの議論を紹介するのも場違いではない。
 (16.52) 彼は言う「実際、誰も王宮で王その人を栄誉に貢献する人であるかのように語りはしない(なぜならそのようなものが優先物であるから)。むしろ、何らかの名誉に与り、己の地位が、王の最高位に次ぐものとはいえ、最高に達している人々にその言葉は語られるのである。ちょうどそのように、人生においても第一位にあるものどもではなく、それに続く地位を保っているものどものことが「優先物」つまり貢献的なものと呼ばれるのである。

 それらを呼ぶのに我々は、それが逐語的であろうから、より優れたものとかより劣ったものとかいう言葉も用いるのである。より高い価値を持つものとか、優先して取られるものであるとか、そしてあの[反対の]ものについては拒絶されるものであるとかとも永年言ってきたように。

Cicero,Fin.3.16.53=SVF.3.130
 (16.53)しかし、善である限りの全てのものは第一の地位を占めると我々が言うからには、より前におかれるものとか優先して取られるものとか言われるものが善でも悪でもないのは必然なのである。そして、我々はこのものを次のように定義している「善悪無記ではあるが、そこそこの価値を伴うもの」、と。というのは、あの人々が[ギリシャ語で]「善悪無記物」と言っているものを[ラテン語で]善悪無記なものと言えばいいと私に思い浮かんだのだから。すなわち、自然に従うものや反するものが中間のものどものうちに残っていないなどということは決して起こりえないし、そのようなものが残っているからには、十分に価値のあるものがそれらのうちにないということも、このようなことが認められるのに価値的により高いものが他に何もないということもまた起こりえないことである。(16.54)従って、このようになされた区別は正しいのである。しかしさらに、事態がより用意に飲み込めるようにと次の比喩が彼等から提示されている。彼等は言う、真っ直ぐ立つように賽を投げることが終局であり究極であると仮想したとしよう。まっすぐ落ちるように賽を投げた人は終局に向かって何らかのより近い価値を持っていることになるだろう。そうでない人はその逆である。しかしながら、このようなあのより高い価値も私が終局と言ったものに対しては何の寄与もしない。以上のように、より高い価値を持つものと呼ばれるものは終局に向かうあの何物かではあるが、終局の持つ力すなわち自然に対しては何の寄与もしない。

Cicero,Fin.3.16.55=SVF.3.108(善の分類)
 (16.55)するとあの分類が帰結することになる。つまり、善いもののうちにはかの最高善を構成するものもあるし(すなわち[ギリシャ語で]終局的なものと呼ばれているもののことを私は言っているのだ。すなわち、我々が同意したように、まさにこのことは一つの単語では言えないのでそれを分かりやすくするために複数の言葉を用いて語るよう試みようではないか)、またかの最高善に貢献するものもあるし(ギリシャ語で「貢献的なもの」という)、両方の性格をもつものもある。最高善を構成するものに関して言えば、立派な行為以外には何ものも善ではない。貢献的なものについて言えば、友人以外は何も善ではない。しかし、最高善を構成しつつも同時に貢献的なものとして知恵を彼等は挙げようとしている。なぜかと言えば、知恵は理にかなった行為なので、私が述べたあの構成的な種族に属するからである。また他方、知恵は立派な行為を促し引き起こすから、貢献的なものと言われうるからである。


Cicero,Fin.3.17.56=SVF.3.134(優先物の分類)
 (17.56)これら我々が優先物と呼ぶものにはそれら自身の故に優先されるものもあれば、何らかの帰結をもたらすが故に優先されるものもあれば、両方の理由で優先されるものもある。それ自身の故に[優先されるもの]とは、例えば表情や外見のある種のあり方や、立ち居振る舞いのように、何らかの優先されるべきものや避けられるべきものがうちにあるもののことである。他に、そこから何らかの帰結が生じるというその事態によって優先物と呼ばれるものもある。例えば財産である。またその他に、両方の事態の故にそうであるものもある。例えば健全な感覚やよい健康状態である。

Cicero, Fin. 3.17.57 = SVF. 3.159; Diogenes 42; Antipater 55(優先物の範囲)
 (17.57)しかし、善い名声に関して言うと(彼等がギリシャ語で「善い評判」と呼ぶものを善い名声と言う方が栄誉と呼ぶよりもここではより適切である)、クリュシッポスとディオゲネスは、その有用性は考慮から外したした上で、そんなもののためには指を伸ばす価値さえもないと言っていた。彼等に私も大いに賛成する。しかしながら、彼等の後代の人々は、カルネアデスの批判に耐えきれず、私が善い名声と言ったあのものをそれ自体として優先されるものであり取り上げられるべきものであると言ったのである。そしてまた、自由人らしい人、より教養豊かに教育された人にふさわしいのは両親や隣人やさらには善い人に評判がいいのを望むことであるとも言うのだ。さらにこのようになるのは事柄それ自体の故になのであって、有用性に照らしてそうだというわけではないというのだ。彼等が言うには、例え自分たちが死んだ後に生まれるとしても子供たちの利害の考慮をしかもそれ自体として我々はしようとするように、有用性を度外視したとしても、死語の名声はそれ自体として考慮されるべきなのである。

Cicero, Fin. 3.17.58 = SVF. 3.498 = LS. 59F (適宜行為と正当行為)(cf. EP1990, p.113-)
 (17.58)しかし、立派なものそれだけが善であると我々は言っているのだが、それでも相応行為を完遂することは理に適っている、この相応行為というものを我々は善いものにも悪いものにも入れないにもかかわらず。というのも、このような物事のうちにも善い方に転がりうる何かはあるのであって、それはその理由が与えられうるという形で、従って、善い方に転がりうるようにそれをなす人にはそれをなす理由が与えられうるという形であるからなのである。そうした善い方に転がりうる理由が与えられるような仕方でなされたものが相応行為なのである。ここから解ることだが、相応行為は何か中間のものであって、善いものにもその反対のものにも入らないのである。徳のうちも悪徳のうちにもない物事の中にも有用に用いられうるものはそれでも何かあるのだから、それを反故にするべきではない。そうではなくこうしたことは、この種の行為、つまりそれら中間の物事のうちの何かをなしたり作り出したりうるように理が要請するというような何かなのである。また、理に従ってなされたことを我々は相応行為と呼ぶこともある。従って、相応行為とは善いものとも悪いものとも言われないものの一種である。
(17.59)また同様に明らかなことは、このような中間の物事のうちの何かを賢者もなすということである。従って、賢者はそれをなすときそれを相応しいことだと判断していることになる。[彼の]判断においてはそのことは決して過たれないから、中間の物事のうちにも相応しいものがあることになるだろう。このことは以下のように論証の帰結を通じても示される。我々が正しい行為と呼ばれるものが何かあると我々は当然考えるのであり、またそれは完全な相応行為である以上、不完全なそれもあることになるだろう。例えばそれはどういうことかというと、「預けられたものを正しく返す」ということが正しい行為に含まれるならば、「預けられたものを返す」ということは相応行為のうちに入れられるということである。つまり「正しく」というあの語の追加によってそれは正しい行為になるのであり、しかしながらそれ自体として見れば返すというこの行為そのものは単に適宜な行為に入れられるだけである。疑問の余地なく、中間のものと呼ばれるものには選び取るべきものもあれば拒絶するべきものもあるから、そのように行為または記述されるものはすべて相応行為に含まれることになる。ここから解ることだが、本性上全ての人は自分自身を大切なものだと選別するのだから、無知の者も知者も、自然に従うものは選び取るだろうし、反対のことは拒絶するだろう。そんな風にして、何か共通の相応行為が賢者にも愚者にもそなわっているのである。ここから示されるように、[共通の相応行為は]中間のものと呼ばれるものに関わっているのである。

18

Cicero,Fin.3.18.60=SVF.3.763=LS.66G
 (18.60)しかし、こうしたものから全ての相応行為が生じてくるので、我々の全ての思惟がこのことに関わっていると言うのも理由がないことではない。その思惟の内には生からの撤退や生に留まることといった問題も含まれる。つまり、自然に従うものをたくさん備えている人の相応行為は生に留まることである。その反面、反対のものをたくさん備えている、または既に備わっていると思われる人の相応行為は生から撤退することである。ここから明らかになるのは、幸福であるにも関わらず生から撤退することが賢者の相応行為であることも時にはあれば、悲惨であるにも関わらず愚者が生き続けることがそうであることもあるということである。(18.61)というのは、あの善悪は、もうしばしばいわれたように、後から帰結するものなのであるが、しかし自然のあの最初のものは、それらが自然に従うものであるか反対するものであるかが、賢者の判断と選別の下にあるのであって、ああしたものは知恵の対象でありいわば素材であるのだ。そのように、生に留まることや撤退することの理由は全て上述のこうした事柄によって計られるべきである。すなわち、徳の故にかの[賢者]は生に留まるわけではないし、徳を備えていない者は死に値するというわけでもない。そして、このうえなく幸福であるにも関わらず生から離れることがしばしば賢者の相応行為であるのだ、自然に調和する行為として*時宜を得て遂行し得るならば。つまり彼等が認めているように、幸福に生きることは時宜の善さに関わるのである。こうして、その必要がある場合には知恵そのものから、賢者が知恵そのものを残して逝ってしまうべきだということが告げられるのである。
*移動提案もあるが底本のまま読む。
 そしてそれ故、自死の理由を与えるだけの力がそのままでは悪徳には備わっていないので、非常に明らかなことだが、愚かな者、同時に悲惨な者でもあるが、の相応行為が生に留まることであることもあり、それは自然に従うものと我々が呼ぶものの大部分に恵まれている場合なのである。また、生から逃げようが留まろうが悲惨であることには変わりがなければ、永く生きたからといって彼にとって人生がより厭わしいものになるわけでもないので、自然に従うものをたくさん享受しうる人は生に留まった方がいいという説も根拠のないものではない。

Cicero,De Finibus.3.19.62=SVF.3.340=LS.57F(社会親近性)
 (19.62) 次に、子供が両親に愛されることが自然によって引き起こされると理解することは重大なことに関わると彼等は考えている。人類に共通の社会はこの起源から由来するのだと我々は論じているのだ。このことはまず第一に身体と四肢の形態から理解されねばならないが、それらそのものは生み出すことに関わる理法が自然本来の定めであると明らかにしている。実際、自然は生み出すことは欲するが生み出されたものが愛されるようには配慮しないというのでは辻褄が合うはずがない。それどころか、野獣どもにおいてさえ自然の力は見て取られうるのだ。子育てや養育におけるこいつらの努力を見るとき、我々は自然そのものの声を聞くように思うのだ。だから、我々が苦痛から逃げるのが明らかに本性にかなっているように、我々が[自分が]生んだ者を愛するように駆り立てられるというのも自然そのものからして確かなのだ。(19.63)ここからして、人々が共通に互いを認め合うことも自然に即したことなのである。つまり、人であるというそのことからして誰であれ他の人からよそ者とは思われるべきではないのだ。

Cicero,Fin.3.19.63=SVF.3.369=LS.57F
 なるほど、体の部分のうちでもあるものはそれ自身のために生み出されたかのようである。例えば目や耳のように。しかし、別のものは自分以外の部分にも役立つようになっている。例えば足や手のように。それと同じように、ある種の獰猛な動物は己だけのために生まれている。しかし、幅広コンク貝の中に住むいわゆるウミエラや、ムール貝から泳ぎ出る(それを見張るが故に[そう言われる])いわゆる見張りエビが貝の中に戻ってくると口が閉じられるが、貝に注意するように促しているようにも見える。同様にして、蟻や蜂やコウノトリたちはある種の事柄を確かに他のもののためにもなすのである。人々ははるかにより一層密接なものとして[このようなことをなすのだ]。だから、本性上我々は集団や共同体や社会に適しているのである。

Cicero,Fin.3.19.64=SVF.3.333=LS.57F(宇宙国家 利他)
 (19.64)さらに、宇宙は神々の意思によって統治されていると彼等は考えている。そしてこの宇宙は言うならば人間たちと神々に共通の都市であり国家であり、我々一人一人はこの宇宙の部分だというのだ。ここから自然に帰結することはこうだ。つまり、我々は我々に共通の利益を優先するべきなのだ。すなわち、法律が全ての人の保全を個々人のそれよりも優先するように、善き賢者、つまり法に従い市民の義務に無知ではない者は全ての人の利益を自分自身や誰であれその他の個人のそれよりも一層考慮するのである。祖国の裏切り者は、自分の利益や保全のために共通の利益や保全を蔑ろにした者と同じく、責められねばならない。ここからして、国家のために死を迎える人が称賛されるということになる。それは我々にとっては我々自身よりも国家の方が愛しいのがふさわしいことだからである。

Cicero,Fin.3.19.64=SVF.3.341=LS.57F
 自分たちが死んだ後に全世界が燃え上がるということに異議を唱えない(このことは常々ある通俗的なギリシャの詩句によって言い表される)人々の発言が非人間的で愚かだと思われているのだから、彼等自身のためになるようにいつか生まれてくるであろう者たちを配慮するべきだということは真理なのだ。
 (20.65) 魂のこの感情から、死の床にある人々の遺言と委任は生じているのだ。

Cicero,Fin.3.20.65=SVF.3.341=LS.57F(共同体)
 また、たとえ計り知れないほど大量の快楽を積まれたところで誰一人全くの孤独の内に生を送ろうとは思わないのだから、我々は人々の共同と共生のために、また自然な交わりのために生まれついていると容易に理解される。さらに、本性上強いられているのは我々ができるだけ沢山の人を善くしてあげるように望むこと、とりわけ思慮の理論や教授によって教えつつそうすること、なのである。(20.66)だから、自分が知っていることを他人に伝えない人を見出すのは困難である。それ故、我々は学ぶだけでなく教える傾向も確かにもっているのだ。また、本性上牛どもに元々課せられているのは子牛たちのためにライオンどもに対し能力と気力の限り戦うということであるように、能力に富みまたそれを行使できる人々は、例えばヘラクレスやリベルがそうだったと言われているが、人間という種族を保護するように本来駆り立てられるのである。さらにまた、ユピテル神を最高最大の者と我々が言うとき、またこの同じ神を救世主・歓待者・戦列に踏み留まる者と言う時にいつも念頭においているのは、人々の平安はこの神の庇護のうちに保たれているということなのだ。大体、ひどく辻褄が合わないことではないか、我々自身が互いにつまらないものであって軽蔑し合っているのに、不死の神々に愛され大事にされるよう期待するなどということは。だから、何のためにそれをもっているのかを学ぶ前に我々は四肢を使うのだが、それと同様に、我々は市民共同体へと互いに結びつけられそれに与るように本性上できているのだ。もしこうなってないならば、正義や親切の余地は何らないことになろう。

Cicero,Fin.3.20.67=SVF.3.371=LS.57F
 (20.67)そして、正義という絆は人間たちのものであって人間たちの間にあると彼らは主張するのだが、それに関連して人間と獣どもの間には何ら正義は存在しないとも言っている。すなわち、クリュシッポスは、その他のものどもは人間たちと神々のために生み出されたのだが、人間と神々は自らの共同体と社会のために生まれたのであり、従って人間たちは自分たちの利益のために獣どもを利用しても不正を犯さないでいられる、と明言している。そして、人間のこの本性は言わば社会正義として自分自身と人類の間にあるのだから、この正義を遵守する者は正しく、離反する者は不正だということになろう。しかし、劇場は公共のものとはいえ、各人が座っている場所は彼のものだということも十分正しいものでありうるように、共同の都市や世界においても、各人のものはその人のものではないなどと正義は反対することはないのだ。

Cicero,Fin.3.20.68=SVF.3.616=LS.57F
 (20.68)さて、人間は人間を見守り保護するように生まれついていると我々は見ている以上、こうした本性に調和するのは、賢者は国事に参加しそれを司ることを望むということであり、自然に従って生きるために妻帯し彼女から子供をもうけようとするということである。

Cicero,Fin.3.20.68=SVF.3.651
 しかし、純粋な[ものであれば]愛は賢者にはなんら疎遠なものではないと彼等は論じている。

Cicero,Fin.3.20.68=SVF.3.645
 また、彼がそのような状況に遭遇しそうしたことをすべきだということになった場合には犬儒派の理論や生き方さえも賢者に適合すると言う人々もいるが、全くそのようなことはないと言う人々もいる。

21
Cicero, Fin. 3.21.69 = SVF. 3.93(利害と損得)
 (21.69)まさしく、全ての人が人間に対して協力や団結や好意を保つようにと、利害(彼等はギリシャ語で「有益なもの」「有害なもの」と呼んでいる)は共有のものだと彼等は主張しているのだ。それは方や益し、方や害するというわけだ。[さらに]共有のものだというだけでなく、実際むしろ平等なものだとまで彼等は言ったのだ。しかしその反面、損得(こう私はギリシャ語の「有効なもの」「無益なもの」を言い表すのだが)は共有のものであると説きはしたが平等なものだという主張はしなかった。つまり、利益になるものや害になるものはそれぞれ善いもの、悪いものであって平等である必要があるというのだ。しかし、損になるものや得になるものは彼等が優先物や忌避物と呼ぶものの領域にある。それらが平等である必要はない。ところでさらに、利益が共有のものだとは彼等も言うが、正しい行為や過誤が共有のものであることは主張されない。

Cicero,De Fin.3.21.70=SVF.3.348
 (21.70)さらに、友情は広めるべきものであると彼等は考えている。有益なものの類に属するからである。友情に関して、賢者にとっては友人のことは自分のことと同様に愛しいのだという人たちもいれば、自分にとっては自分のことの方が他人のよりも愛しいのだと言う人々もいる。しかし他方、後者はまた、他人から何かを自分のものにするために奪い取ることは、我々がそれに向かって生まれついていると思われる正義に疎遠なことだとみなしている。実に、私が語っているこの教説によれば、正義や友情が有用性のために誉められ評価されるということは全然認められていないのだ。というのも、この同じ有用性はそれらを揺るがし歪めるかもしれないからである。また、これらそのものがそれ自身のために求められないのならば正義も友情も全く存在しえないからである。


Cicero,De Fin.3.21.71=SVF.3.309 (法 正義)
 (21.71)また、法は、そのように言われ呼ばれうる限りでは、自然本来においてあるのであり、賢者にとっては誰であれ人に不正を働くことはもちろん害を加えることさえもなお疎遠なことなのである。それに、友人たちやあるいはそれにふさわしい人々と不正が付き合ったり交わったりするなどということは実に間違ったことだ。平等は決して有益さから分かたれえないということは最も強力にかつ真実なこととして保たれるのであり、何であれ平等で正当なことは立派でもあり、逆に立派なものは何であれ正当で平等であろう、というのだ。

Cicero,Fin.3.21.72=SVF.3.281
 (21.72)これら既に論じた徳に弁証学と自然学を彼等は加えるのである。これら二つ[の学]をも彼等は徳の名で呼ぶのだが、その理由は前者については、何らかの虚偽に同意したり間違ったもっともらしさに騙されたりしないようにする理論をそれが備えており、善と悪について我々が論じたことを保持し守れるようにするからなのである。つまり、この術なしでは誰もが真理から引き離されて過ちに陥りうるというのが彼等の主張なのだ。従って、万事において性急さと無知が悪であるならば、こうしたものを取り除く術が徳と名づけられるのは正当なことである。

Cicero,Fin.3.22.73=SVF.3.282
 (22.73)自然学が同じ名誉に与るのも理由のないことではない。なぜなら、自然に調和して生きようとする人は全世界とそれへの先慮にもとづいて生を始めるべきなのだから。実に、誰であれ善と悪について正しく判断することは、自然と人生とまた神々の理がすっかり理解され、人間本性と宇宙のそれが調和するかどうかという問題が解答されて初めて可能となるのである。自然学がなければ、何であれ賢者たちの古い教説が、それらは「時宜に従え」「神に従え」「自らを知れ」「限を越えるな」などと命じているのだが、どれほどの力を持っているか(実際最大の力を持っているのだが)誰も分かることはできない。また、正義を守ること、友情やその他の好意を保つことに自然がどれほど力を持っているかということを伝えることができるのもひとえにこの知識なのである。また実に、神々に対する敬虔さや神々にどれほどの恩寵を負っているかということも自然の解明なしには理解不可能である。

 (22.74)さて、もう感じていることなのだが、私は遠くまで行き過ぎたようだ、意図していた計画に必要な以上に。実の所、教説の驚くべき構築美と信じられないほど秩序のとれた思想内容が私を導いたのだ。この体系に、不死の神々に誓って、君は驚嘆しないだろうか。すなわち、最高に調和と均整のとれた自然において、あるいは手仕事の作品においてでもよいが、これほど秩序付けられ整合され緊密にされたものが見出されうるだろうか。前提と整合しない帰結があろうか。先立つものに対応しない帰結が何かあろうか。一字くらい動かしても全体が崩れてしまうなどということはないという程度にしか互いに組み合わされていないものなどあろうか。それどころか、動かせるものなど何もないのだ。
 (22.75)実に、なんと重厚で偉大で揺るぎないものに賢者の人格は構築されたことか。立派なものだけが善であると理性が告げた以上、彼は必然的に常に幸福であり無知な連中が常々笑いものにするその全ての名称を備えているのである。つまり、タルクィヌスよりもこの人の方を王と呼んだ方が正しいのだ。あの者は自分自身も自分の臣民も支配することができなかったのだから。スラよりも彼を民衆の教師(とは指導者のことだが)と呼んだ方が正しいのだ。あの者は3つのひどい悪徳、贅沢、放埒、残虐の教師だったから。クラッススよりも彼を金持ちと呼んだ方が正しいのだ。あの者はもし渇望に駆られることがなければユーフラテス川を決して戦争のために横断しようなどとは思わなかっただろうから。

Cicero,Fin.3.22.75=SVF.1.221;3.591
 全てのものは彼のものだと言われるのも正しい。彼だけが全てのものを使用するすべを知っているのだから。また、麗しい人だと呼ばれるのも正しい。魂の形の方が身体のそれよりもより麗しいのだから。彼だけが自由で、どんな僭制にも従わず、欲望に服従しないと言うのも正しい。不屈の者と言うのも正しい。彼の肉体は拘束されたとしても魂にはどんな枷もはめられ得ないから。

 (22.76)人生最後の日を死で閉じた後で幸福だったかどうか判断されるために生涯のその時を待つということもないだろう。そういうことを7賢人の一人[ソロン]がクロイソス王に進言したのだが、これは賢者にふさわしくないことだ。つまり、彼がいつか幸福だったとしたら、その幸福な生をキュロスが築き上げた墓領のまさに中まで持っていったことになるからだ。善い人でないと誰も幸福ではなく、また善い人は全員幸福だとすると、哲学以上に誉めるべきものがあろうか。また徳以上に神聖なものがあろうか。//


第4巻
Cicero, Fin. 4.2.3 = SVF. 1.13 = FDS. 252; 113
 (4.2.3)それ故、カトーよ、私の考えではあのプラトンの古い弟子達、スペウシッポス、アリストテレス、クセノクラテス、それから彼等の弟子であるポレモンやテオプラストスは十分にかつ豊かにまた優美に築き上げられた教説を既に持っていたのだ。それだからゼノンにそんなことをするいわれはなかった。ポレモンの弟子になった時に彼自身やその先人の見解から離れる理由などなかったのだ。彼等の教説はこうなっている。そこでだが、私はむしろあなたが「ここは違う」という点があれば待たないで指摘していただきたい。あなたが話されたストア派の教説全体を私は話していくつもりだが、その間に言っていただいてかまわない。と言うのも、彼等の理論全般とあなた方のの全体とを一緒にして論じてみたいと思うからだ。(4.2.4)さて、彼等の見解はまずこうだ。我々はあの徳一般に適合するように生まれてくる。その高名で輝かしい徳とはつまり正義、節制、その他そういう類のもののことである(これらはその他の学術とあらゆる点で似ているが、ただ素材となる対象とその取り扱いの点ではそれらから抜きん出ている)。彼等の見解では、まさにこうした徳を我々は他のものよりも猛烈にかつ熱烈に求めるのである。そして次に、我々はある種の生まれ持った、いやむしろ生得的な知への欲求を備えているというのも彼等の見解だ。そしてさらに、彼等の見解では、我々が生まれたのは人々の交わり、そしてさらには人類という社会と公共の交わりのためなのであり、こうした事柄は最も才能のある人々のうちに最もよく輝き出るのである。こうして彼等は哲学全体を3つの部分に分けたのであるが、この区分をゼノンも採用したのだと我々は見ている。(2.5)こうした学の一つに、性格を形作るものと主張されるものがあるが、目下の問題の根本とも言うべきものだからこの分野は後回しにしよう。つまり、善の究極とは何かという問題はすぐ後で論じることにして、ここでは逍遥派とアカデメイア派の人々(彼等は[教説の]内容では一致しており語彙の点で相違しているだけなのだが)が深く精密に探求してしまったあの論点を述べるにとどめよう。それをギリシャ人たちは「政治学」と呼んでいたが、市民政治の学と[今日]呼ばれているのは正しいことだと思われる。
 (3.5)あの方々はどんなにたくさんのことを国家についてまた法律について著作したことか!立派に語ることについて技術上の規則だけでなく弁論の模範をもどれだけたくさん残してくれたことか!というのはまず第一に、精密に吟味されるべき事柄さえも彼等は定義をしたり分割をしたりして優美かつ適切に語ったのだ。定義や分割ならあなた方もしているが、しかしあなた方はむしろ乱暴で、あの方々の論述がいかに滑らかかはあなたも御存知だろう。(3.6)次に、修辞をこらした厳粛な論述を要する事柄を彼等はいかに荘厳に語ったことか!いかに洗練された語り方だったか!正義、節制、勇気、友愛、生のおくり方、哲学、国事に手をつける仕方について[の問題]はストア派の方々みたいに重箱の隅をつついたり骨までしゃぶったりしようとする人々ではなくて、より重大なことは論をつくして、より些細なことは簡単に論じようとする人々の[考える]ことなのだ。こうして、彼等の慰謝や勧奨、あるいは警告や折衝でさえも最も高貴な人々のために書かれたものとなっているのだ。彼等に従うと、物事そのものの本性がそうであるように、論述の仕方には2種類あったのだ。つまり、何が問われるにしてもその問題は、個々人や状況を無視した類的なことそのものに関わる議論か、あるいはこうしたものをも考慮した上で法律や用語に関わる事態の議論かをもつのである。それだから、彼等は両方の分野で実践したし、彼等の教説は論述の両分野で多大な影響をもたらしたのである。

Cic, Fin. 4.3.7 = SVF. 1.76; 2.288 = FDS. 252
 (3.7)この分野全体をゼノンと彼に続く人々は視野に入れることができなかったのかその気がなかったのか、とにかく放置したのだ。

Cic,Fin.4.3.7=SVF.1.492;2.288=FDS.45; 252
 クレアンテスとクリュシッポスも弁論の技術について著作しはしたが、もし誰かが沈黙しようとするならば他のものを読んではならない、という程度のものでしかない。

FDS.252
このように、彼等の語り方をあなたは御存知だろう。新語を作り出してはなじみの言葉遣いを無視しているのだ。
 しかしどれほどのことに彼等は取り組んでいることか!この世界全体が我々の街である!こうして、聞く者たちが熱狂させられるのはあなたも知っているはずだ。*キルケイウスの住民たちにこの世界が自分達の都市だと示すために君はどれほどのことができるというのか?**
*底本通り。ラッカムは**の位置に移しincendiをincenditと読んでいる。
 何ですと?あの人が熱狂させるですと?こんな人は燃えている学生を引き受けたとしても[熱狂させる前に]意気消沈させるのだ。あなたが簡潔に述べたそのまさに「王であり執政官であり富者であるのは賢者だけだ」ということはあなたも本当に適切にまた流暢に語っている。それもそのはずだ。あなたは弁論家たちにも教えを受けたのだから。しかし実に、まさにその同じ命題が徳の力についてはいかに貧弱なことしか言えないものか!彼等の主張では徳の力はかくも偉大であって、それそのものだけで人を幸福にできるほどだ、ということだ。しかし、彼等は細かい三段論法をちまちまやりながら重箱の隅をつついているようなもので、むしろ同意する人がいたとしてもそんなものによっては内心は変えられず、教えを請いに来た時と全く同じままで帰ることになるのだ。[彼等の説の]中身は多分正しく大事なことだろうけど、彼等は適切な仕方で論じておらずむしろ何かもっとつまらない方法でそうしているのだ。
 (4.4.8)次は、言論に関する理論と自然に関する認識である。ところで先に言ったように、最高善についてはじきに見ることにして、討論全体の解明をそこに依らせることにしよう。というわけで、この2つの分野においては何もゼノンは改変しようという気を強くは持たなかった。というのも、問題は既に非常に明快な状態にあったからである、特にこの両方の分野においては。つまり、言論に関わるまさにこの分野で古人たちは何を手つかずにしただろうか。彼等は非常に多くのことを定義し、定義の術を残した。問題を部分に分割するために定義に加えられることも彼等は残したし、どのようにそれを行うべきかということも彼等は伝えている。二分割法*(これによって類への分割や、類の下の種へのそれへ進むのだが)についても同様である。さてまた、演繹的な推論に関する理論については、彼等が自明とすることを起点にし、それから規則に従い、ついには個々の事項において真であることが最終的な結論となるのである。(4.4.9)それにしても、理性によって推論を下す論法のどれほど多彩なものがあの方々に由来するだろう。彼等の理論は詭弁に満ちた「問答」とどんなに違うことだろう。ではどうだろう?非常に多くの箇所でまるで布告するかのように彼等はこう言っているが、どうか?曰く、我々は理性なしには感覚に信頼を求められないし、感覚なしに理性にそうすることもできない。曰く、しかし両者を互いに分けてしまうこともできない。ではどうだろう?今日弁証家たちが主張し教え広めていることはあの方々の手で発見され**確立されたのではないのか。
*プラトンにおけるように分割されたものが互いに矛盾対立するような分割のことか(数を奇数と偶数に分けるような)。まさか「矛盾律」ではないだろう。
**底本通り。マトフィヒはinventa suntを削っている。

Cic,De Fin.4.4.9=SVF.1.47;2.45=FDS.252=LS.31I
 それらに関しては、クリュシッポスによって最高度に発展されたとはいえ、ゼノンによっては古の人々による以上に発展されたというわけではないのだ。

Cic,De Fin.4.4.9=SVF.2.45=FDS.76
 それどころか、彼によっても古人たち以上のものにはにはならなかった事柄もあれば、全く顧みられなかったこともある。(4.10)推論と弁論とを完全に包摂する2つの学問、つまり創意(トピカ)の学と論証の学、があるとするなら、この後者はストア派の人々と逍遥派の人々によって発展されたのだが、しかし前者について言えばあの方々は非常に見事にその学を広めたけれどもこの方々は全く何の関係ももたなかったのである。つまり、この分野をあたかも貯蔵庫のように考えて、そこから議論を引いてこなければいけなかったのだが、君達の学派はそんなことには思いもよらなかった。先人達は技と工夫をこらしてこれに身を捧げたのに。

 (5.11)同じことが自然の探求についても言われうる。それを彼等も行ったしあなた方もそうしたのだが、それはエピクロスが認めたただ2つの理由から、つまり死に対する恐怖と宗教に対する畏怖を取り除くためだけではなかった。*それだけではなく、神々の下にもどれほどの節制やどれほどの秩序があるかを見てとった人々に天体の観察は何らかの節度を与えもすれば、神々の仕事や技を見知った人々には心の大きさを、最高の指導者である主の意思や配慮や選択がいかなるものかを知ったならば正義を与えもするのである。それらの本性に対応する名として「真正の理性」「最高の法」といったものを哲学者は挙げている。(5.12)この同じ自然探求の内には物事を認識することに由来する計り知れない歓喜が備わっており、このたった一つの学問の中でさえ、なすべき勤めをおさめたあかつきに、問題を求める我々は美徳とともに自由人らしく生きることができるのだ。すると、この学全体において最重要なほとんどの問題でストア派の人々はあの方々に追従しているのだが、例えば神と全世界は4つのものから構成されていると主張している。
*句読点はラッカムに従い;とする。

Cic., Fin. 4.5.12 = SVF. 1.134
 さて、本当に難しい問題だと論じられているのだが、何らかの第5の本性があるように思われるのであり、理性と知性はそれから生ずる。ここには、魂はどんな種のものからなっているかという問題もある。ゼノンはそれを火だと言った。

*次に、全然違うことを言っていないというわけではないが些細な点で異なる説を述べているというわけだが、最重要の点では同じ語り方をしているのであって、神的な精神と本性によって全世界及びその最大の部分は支配されていると言っている。実に、問題の質と量は彼等の下では貧弱だが、あの方々の下では非常に豊穣だと我々は見ているのだ。
*ラッカムに従い;とする。

Cicero,De Fin.4.6.14=SVF.1.179;3.13(目的定式)
 つまり、上述の人々、その中でもとりわけポレモン、は自然に従って生きるということ最高善だと言ったのだが、この言葉で3つのことが表現されているとストア派の人々は言っている。一つは次のような表現をとっている、つまり「自然によって生ずることに関わる知識を用いて生きる」。このことがまさにゼノンの言う目的なのだと彼等は言っているのだが、そのことは彼によって語られたことを明らかにしている、つまり、自然に調和して生きるということを。もう一つは、「全てあるいは大部分の中間的相応行為を保持して生きる」と言われるなら同じことが表現される。(6.15)このように言い表されたこの定式は先のものとは異なっている。というのは、あれは正しい行為(これをあなたはギリシャ語で正当行為と言うのだが)であって賢者だけにしか当てはまらないが、しかしこれは何らかの未熟な相応行為つまり不完全なそれに属すことであって、賢者でない人々にも当てはまりうるのである。さて、第3のものは、自然に従うことの全てあるいは大部分を享受しつつ生きるということである。このことは我々の行為のうちに置かれているのではない。なぜなら、徳を享受する生の種類と、自然に従うが我々の権内にはない物事から、この定式は成り立っているからである。しかしながら、第3の表現によって理解されるこの最高善、及び最高善から営まれるこの生は、このものに徳が結びつけられているから、賢者だけに当てはまる。そしてこの究極善は、ストア派の人々自身によって書かれているのを我々が見る通りに、クセノクラテスやアリストテレスによっても定式化されているのである。

 (7.17)しかし、知恵は人間全体の守護者であり監督者であって、自然の仲間であり伴侶でもあるというのが彼等の主張なのだから、知恵の仕事はこういうことになると彼等らは言うのだ。つまり、それは魂と肉体とから成り立っているものを守るべきである以上、それを両方の点で助け補助すべきなのだ。そして、まず事柄を大まかに論じた上で、残りの点をより精密に追及しつつ、身体の善はある程度簡単な理を備えていると彼等は主張したのだが、*魂の善についてはもっと鋭く追及して、それらのうちに正義の種子があるということをまず最初に発見し、生まれた者が生んだ者に愛されるということは自然の賜物なのだということを全ての哲学者たちのうちでも最初に説いたのであり、しかし時間的な順序ではこの方がより先なのだが、男性と女性が結ばれるということも自然による結び付きであり、これが根本となって家族の絆に基づく愛が生まれるとも説いたのである。そして、この始点から出発して、諸徳の全ての根源と発展を彼等は探求したのだ。魂の偉大さが成立するのもここからであって、それによれば容易に運命に対抗し抵抗することができるのだが、そうできることは賢者の能力のうちでも最大の事柄なのだ。しかし、運命のいたずらと意地悪など、古の哲学者たちの教説によって整えられた生は簡単に凌駕してしまうのだが。(7.18)さて、自然から与えられた原理からは何か大変に広範な善いものがわき上がったのであるが、そのうちにはより秘められた物事の観照によるものもあり、それは精神に認識への愛が内在しているからなのであって、そこからは論証や論述の理論を求める心が生じてくるのだ。さらにまた、この動物だけが羞恥と慎みを備えて生まれてくるのであり、社会生活のために人々の結び付きを求めるのであり、全ての言行に留意して美徳にかなわないことや麗しくないことがないようにするのだが、既に述べたように、自然から与えられたこうした始点と種子から節制や慎みや正義や全ての美徳が完璧に完成されるのである。
*句読点はラッカムに従い「,」とする。

 (9.21)おぉ、天才たちの偉大な才能と、新教説成立の正当な根拠!

Cicero,Fin.4.9.21=SVF.3.532
 もっと説明を続けて頂きたい。というのも、あなたが非常に学識深くまとめられたことから帰結するのは、全ての人の無知・不正その他の悪徳は同様であり、全ての過誤は等しいということだから。また、生まれつきによってであれ学習によってであれ徳に向かってはるかに向上した人もそれをすっかり得てしまわなければやはり悲惨の極みであり、彼等の生と非常に邪悪な者のそれの間には全く何の段階もないのだから。それだから、例えばプラトンのようにあれほどの人物でも、賢者でなければ、誰であれ非常に邪悪な者よりも全然善い者ではなくより幸福に生きることもないだろう、ということになる。

すなわちこれが古の哲学の修正と補正なのだが、こんなものが市会や公会や元老院に寄与しうることは何一つありえない。誰がこんなことを言う者に我慢ができるだろうか、厳粛に知恵に従っておくるべき人生に関する権威だと自認しつつ、全ての人々と同じことを感じ、そういう物事に同じ意味を当てながらも、見解を何一つ取り下げることなく語彙だけを変更する者に?(22)弁護人が被告を弁護する発言をしていてその訴訟の締めくくりに「国外追放は悪ではない」「財産没収は悪ではない」と言うだろうか?「忌避すべきものではあるが、拒絶すべきものではない」などと言うだろうか?裁判官は同情心があってしかるべきではないのか?それはさておき、仮に集会で話しているとしよう、そこで仮にハンニバルが城門にやって来て、槍で城壁に穴を開けて侵入しようとしていたとしよう、そこで捕囚・拿捕・処刑・祖国喪失が悪ではないなどと言えるだろうか?また、元老院は、アフリカヌスの勝利を布告する際、「彼の徳により」あるいは「彼の武運によって」と言い得ただろうか、もし徳や幸運が真に語られうるのは賢者だけにおいてであったなら?しかるに、一体なんという哲学だろうか、公開の場では公の習慣に従って話し、他方書物の中では独自のそれによるというのは?とりわけ、あの連中が自分達独自の用語で言い表わしていることには実は何の新しいことはないのだから。同じ事柄が、そのまま違う装いをしているだけである。

Cic., Fin.4.9.23 = Straaten 113
 (23)というのも、君が富や権勢や健康を「善いもの」と呼ぶのと「優先物」と呼ぶのと、何の違いがあるのか?こういうものを「善いもの」と呼ぶあの人々は、同じあのものを「優先物」と名付ける君以上のものを何もあれらに加えないのである以上。それだから、才能においても威厳においても第一級の人であり、スキピオやラエリウスとのあの交際に相応しい人、パナイティオスは、クゥイントゥス=トゥベロ宛に『苦痛忍耐論』を書いた際、もしそれが論証されていたなら最重要の論点となってしかるべきであったことをどこにも書かなかった。つまり、苦痛は悪ではないということをである。むしろ彼は苦痛の本質が何であるかということ、それがどのような性質であるかということ、その中にはどれほどの自然に疎遠なものが含まれているかということ、そして、どのようにしてそれを耐えるべきかということを書いたのである。実に、彼はストア学徒だったのだから、この彼の教説によってああした言説の空しさは既に非難されていると私には思える。

Cic, Fin.4.11.26 = LS. 46K
 それ故、私が疑問に思うのは自然から由来するこのこれほどまでの賜物がどうして直ちに知恵に置き去りにされたのかということである。(11.27)たとえもし我々の探求しているものが人間の究極善ではなくて、精神を欠いたら何もなくなるような何らかの生物のそれだとしても(我々がより用意に真理を見出すためには何かこんなものを形作ることもいたしかたないだろう)、しかしそれでもその魂に君達の言う目的は備わってはいないだろう。なぜなら、その生物は健康や苦痛なきことを欲するだろうし、自己保存やああした財産の保持をも求めるだろうし、自然に従って生きることを自分の目的とするだろうが、すでに言ったようにそれは自然に従う事柄の全部かあるいは最多最大をもつという意味なのである。

(11.28)すなわち、君がどういう形で生物を作り上げたとしても、そしてたとえ先ほど我々がそうしたような肉体をもたない生物だとしても、しかしそれでも必然的に魂には肉体にあるものと何らか似たものがあるので、私が既に提示した仕方でなければ善の究極を構築することなどどうやっても不可能なのだ。

Cic,Fin.4.11.28=SVF.3.20
 しかし、クリュシッポスは生物の間の差異を論じて、それらのうちには肉体が抜きん出ているものもあれば、魂がそうであるものもあるし、両方ともの点で卓越しているというものもないわけではないと言っている。それから、生き物のそれぞれの種の極限[の善]として何が立てられるべきかを論じている。しかし、魂の卓越を帰した種族に人間を入れたものの、彼が最高善として立てたものは魂が抜きん出ているということではなく、むしろ魂以外には何もないと思われるということであった。


Cicero, Fin. 4.12.30 = SVF. 3.61
 私にはこの点でストア派の人々は時折冗談を言っているように見えてならない。というのも彼等はこんなことを言うからだ。徳と共に過ごされたあの生に油壺や掻き箆が加わるなら、賢者はむしろこうしたものの加わったこっちの生の方を取るだろうが、そのために一層幸福になるなどということは全くない、と。

14

 (4.14.36)今問題なのは、人間にとっての最高善なのだ。それだから、その本性全体において何が生み出されているのかをどうして疑うことがあろうか。というのは、知恵の全ての義務と仕事は人間を陶冶することにある、このことは万人が一致しているものの、ある人々の(私が反論するのはストア派だけだと思わないでくれたまえ)提示する教説は、最高善が、我々の能力の外にある類の物事のうちにあるというもので、まるで何かの無生物について語っているようであるし、逆に別の人々は、人間には肉体など全くないかのように、精神以外のことは全然考慮しない。しかし、何より精神そのものも、それが何であるにせよ(と言ったわけは、正確にそれが何であるか知ることは不可能だからだが)、空虚の中にあるわけではなくて、何らか肉体の類の内にあるのだから、肉体はただ徳さえあれば満足というわけではなく、苦痛がないことを欲するであろう。以上のような具合で、両方とも同じことをしているのであり、まるで、左をおざなりにして右側を守るということをしているのだ。

Cicero, Fin. 4.14.36 = SVF. 1.416 (Herillus)
 あるいは精神そのものについても、ヘリロスがしたように、認識を詰め込むあまり行為を疎かにしている。

つまり、多くの事柄をおざなりにして、その反面で、選り好みをして追求するという人々全ての学説は片輪である。他方、完全で充実した学説というのは、人間の最高善を探究する際にも、魂の部分も肉体の部分も全く、保護のないまま放っておくことのない、そのような人々のものだ。

Cicero, Fin. 4.14.39 = SVF. 3.132
 彼等がギリシャ語で衝動と呼ぶ自然な欲求、また同様に相応行為や徳そのものさえも彼等は自然に従うものに属すると主張している。しかし、彼等が最高善に至ろうと思う時には[こうした]全てのものを飛び越えて、我々に一つの課題の代わりに2つのそれを残すのである。つまり、我々はあるものは受容し、別のものは欲求するべきだというのだ、この両方を一つの目的に含めるよりもむしろ。

15

 (4.15.40)しかしさてそこで君達はこう言うのだ。徳を「作り上げる」ことがそもそも不可能になるではないか。もし徳以外のものが、幸福に生きることに関わってくるのなら、と。全く逆なのだよ。

Cicero, Fin. 4.15.40 = SVF. 1.412
 何とかして徳が「導き入れられる」ためにこそ、徳が選んだり避けたりするものが何か一つの究極に関係せねばならないのだ。つまり、我々が我々を全く疎かにするなら、我々はアリストンの錯誤と過ちに陥って、我々が徳そのものに与えた原則を忘れてしまうだろう。また、それを疎かにしないまでも、究極善という極限に関わらせないのであれば、我々はフラフラして、ヘリロスの軽卒と大差ないことになるだろう。つまり、我々は二重の生という理論をつかみ取らねばならないのである。なぜなら、あの人は善の究極を二つに切り裂いたが、真の究極であれば一つになってしかるべきだろうから。しかし、いまや究極善は切り離されてバラバラである。これ以上の本末転倒があるか。

Cicero,Fin.4.16.43=SVF.1.369(アリストン)
 このように、私に思われるところでは、善の究極を美徳にかなって生きることだと言ったあの方々は全て実に間違っている。しかし、間違いのひどさには軽重があって、言うまでもなく最悪はピュロンであり、彼は徳を構築するにあたって欲求されるべきものを全く何一つ残さなかった。次はアリストンで、何ものも残さないなどということはあえてしなかったが、そのかわり彼が導入したのはそれに動かされて賢者が何かを欲求するというもので、精神に生じる何かとかそのように起こった何かとかいうものである。ある種の欲求を認める点ではこの人はピュロンよりましだが、あまりにも自然から離れているのでその他の人々より劣っている。

Cicero,Fin.4.16.45=SVF.1.198
 しかし、もっと公正だと私に思われるのはゼノンはポレモンと論争する際に、そもそもゼノンは彼から「第一の自然」というものを受け継いだのだから、まず共通の出発点から初めて、初めに立ち止まるのはどこでか、またどこから異論の原因が生じたのかを見ることである。自分たちの説く最高善は自然に由来するとさえ言わない人々と一緒になって、あの人々が使うのと同じ議論を用いて、同じ教説を説いてもどうしようもない。

 (17.46)また実に、私が全然よろしくないと思うのはあの点だ。あなた方にはそう思われるのだが、あなたが説いたように美徳だけが善であるとすると、自然に適合し調和する始点に対する離反を提示せざるをえないと説くことになるのだ。そういったものどもを選択することによって徳は成り立っていられるのに。すなわち、徳は選択に置かれてはならないということになり、最高善であるものそれ自体は何か別のものを希求することになろう。つまり、何であれ選び取り選別し欲求されるべきものは全て全体としての善いもののうちに含まれるべきなので、それを得た人がいれば他に何物も欲しないことになるだろう。全ての善を快楽に置く人々にとってなすべきこととなすべきでないことが何かは明々白々だということが分らないか?彼等の全ての義務をどこに見るべきであり、何を求め、何を避けるべきか、それが分らない人などいないということが分らないか?今私が擁護しているもの、それが最高の善なのだとしてみよう。すると義務が何であり行為が何であるべきかということは直ちに明らかになるのだ。しかし、正しく美徳にかなうものでなければ[善のうちに]置かないあなた方について言えば、どこから義務や行為の原理が生じるかということを見出すことはないのだ。(17.47)従って、こんなことを追及する人々、そして心に侵入すること、思い浮かぶことなら何でも追及するという人々、つまりあなた方は自然に反抗するのである。彼等に対して自然は正当にもこう応答するだろう、幸福に生きることの真の目標は他のところにはなく、自然現象の原理そのものに求められるのだ、と。つまり、なされるべき事柄の原理も最高善も一つの理に含まれるというのだ。

Cic, Fin. 4.17.47 = SVF. 1.364
 そして、アリストンの教説は退けられたのである。彼が言うには物事には何の差別もなく、徳と悪徳以外にその間に何らかの差異を備えているものは何一つないのである。

Cic,Fin.4.17.47.SVF.1.189
 またそれと同様に、ゼノンも誤っている。彼は徳と悪徳以外において最大の善に向けての価値の傾きをいささかも求めてはならないと言いつつも、そうしたその他のものは幸福な生に向けて何の価値も持っていないが、それでもそうしたもののうちには物事に対する欲求を引き起こす価値はあると言ったのだ。まるでこの欲求は最大の善の獲得に何の関係もないというかのように!(17.48)これほど首尾一貫しないことがあろうか、最大の善を認識した上で、自然には背を向け、しかしそこに行為つまり義務の原理を求める人々の言うことほど。

つまり、行為と義務の原理が自然に従うものへ欲求を引き起こすのではなく、逆にそういったものどもから欲求と行為が発動されるのである。

Cicero,Fin.4.18.50=SVF.3.37=FDS.1241
 それだから、カトーよ、これがあなたのお気に入りの論法ではないか。同意されていない前提を立てておいて、それらからお好みのことを論証してみせるというのが。さて、あの連鎖論法だが、あなた方の主張のうちで最も悪質なものである。つまり「善いものは望ましい。望ましいものは希求に値する。希求に値するものは称賛に値する」ここに残りの段が続くわけだ。しかし、この私はここで立ち止まる。なぜなら、今言ったように、「希求に値するものは称賛に値する」などと言うことは誰もあなたに認めていないからだ。

Cicero, Fin. 4.19.54=FDS.1148
 しかし、帰結が虚偽であるということは、それらが生じてきたあの前提も真であるはずはない。なぜなら、御存知のように、弁証家達は我々にこう教えてくれるのだから。「何か他の事柄に伴う帰結が偽ならば、伴われたあの前提自体が偽なのである」と。こうしてあの帰結は単に真であるだけではなく、自明でもあるので、弁証家達は説明の必要もないと言うほどなのである。「あれならばこれ。しかしこれではない。故にあれでもない」すると、あなた方の結論が転覆されるなら、最初の前提も潰える。

そうすると帰結する事柄はどうか?「賢者でない人々は皆悲惨である」「賢者は全員最高度に幸福である」「正当行為は全て等しい」「全ての過誤は平等である」これらのことは最初は荘厳に語られているように見えるが、子細に検討すれば大したものではなかったのは明らかである。というのは、誰であれ人の感覚や物事の自然や真理そのものが高言するのは、ゼノンが平等としたものどものうちには何の差別もない、などという説には納得などできないということなのだから。

Cic,Fin. 4.20.56 = SVF. 1.232
 次に、あなたの言うあのフェニキア人は(というのも御存知の通りあなたの後ろ盾のキティオン人たちはフェニキアからやってきたのだから)、しかるに狡猾な人間だったので、立ち挑んでくる自然に対してあくまで論戦を続けることをせず語彙を変えるということをやり出したのだ。そしてまず最初に、我々が善いものと呼んでいるものについてそれが「評価に値するもの」とか「自然に調和するもの」とか言われることを許したのである。そしてまた、賢者、とはすなわち*最高に幸福な人なのだが、彼にとってもしかし、あの方はあえて善いものと呼ぶことをしなかったが自然に調和するものであることは認めたあのものどもをもそなえもつならばより都合がよいということを主張し始めたのだ。それからまた、プラトンが賢者ではないとしても僭主デュオニシウスと同じ状態にあるということは否定するのだ。こんな奴は知恵を得る見込みもないから死ねば一番いいのだが、あの方にはその希望があるから生きているのが一番いいのだという。しかしまた、許容されうる過誤もあれば、全然そうでないのもあるが、その理由は過誤のうちにはいわば数的により多くの義務を逸脱するものもあればより少なくそうするものもあるからというのだ。さらに、愚者のうちにはどうやっても賢者には近付きえない者どももいれば、それを望むならば知恵に従うことができるであろう者もいる。
*句読点はラッカムに従い,hoc est,とする。

(20.57)こうした全ての事柄は違う言葉で語られてはいるが、彼が意味していることは他の人と同じなのだ。実際、善いものであることを彼自身否定したものを、それを善いものだと言った人々[が評価する]よりも価値的に低く評価すべきだなど彼は言ったのではなかった。では、ああした語彙を変更した人々は自ら何を主張しようとしたのか?最低でも何か大変な重要さを差し引き、逍遥派の方々がそうするよりもそういったものどもにさらに低い価値しか認めるべきでなければ、ただ違う言葉を語っているだけでなく違う内容をも意味しているのだなどということにはならないであろう。ではどうだろう?幸福な生そのもの、つまりそれに全てが関わっていくものについてあなた方は何を言っているか?あなた方は自然が望むもの全てによってそれが満たされることを否定し、幸福全体をただ一つの徳のうちに置くのだ。全ての係争点はそれが常であるように、[差異が]内容に関わるのか語彙に関わるのかということにある以上、事柄そのものに無知であるのかそれとも言葉の使い方が間違っているのかに応じて両者のどちらかだということになるのだ。もしどちらでもないとしたら、注意すべきことはできるだけありふれた、そして最も適切な、つまり最もよく事柄を言い表す言葉を我々は用いるべきだということである。

 (21.60)要するに、ゼノンが「評価に値するもの」「取るべきもの」「自然に適したもの」と言ったその同じものをあの人々は善いものと呼んだのである。他方、幸福な生はあの方々によると上述のものの大部分あるいは最重要のものからなるのだが、

Cicero,Fin.4.21.60=SVF.1.189
 しかし、ゼノンは、なぜそれが欲されるべきかというその自らの固有の麗しさをもっているものだけを善と呼び、また幸福な生は徳と共におくられたものだけだというのである。

 (22.61)どうだろう、プラトンの弟子たちとそれからまた彼等の教えを聞いた人々が生き返り、あなたにこう言ったとしたら?「マルクス=カトーよ、非常によく哲学を学び、最も正しい人であり、最高の陪審員であり、髪に誓っても全く恥ずかしくないほどの証人であるあなたの話を聞いて驚いた。あなたが我々を差し置いてストア派である理由は何なのだ。彼等が善と悪について語る内実はこの我々の下でポレモンからゼノンが学んだことで、語彙を変えただけで、それらとて最初にみれば驚嘆するものかもしれないが内実が明らかにされたらお笑い種でしかないのだ。しかし、ああした教説があなたによいと思われたのなら、なぜそれに適した語彙を保持しなかったのだ?創始者があなたを動かしたというのなら、我々全員とプラトンその人よりもあの人を、誰だか知らないが、「優先した」というのか?あなたが国家において指導者たろうとしたり、国家を守るためにあなたの最高の威厳とともに我々から最高度に飾りたてて装備を整えることができるとしたらなおさらそうではないか。まさにこうした事柄は我々によって探求され、我々によって叙述され、記録され、教説として把握されたのであり、全ての国家を指導する仕方の種類やあり方や変遷、また法律や習慣や市民の持つべき徳について完膚無きまでに論述したのである。実に、指導者にとっては最大の飾りである雄弁についてもあなたが沢山正しいことを述べるのを我々は聞いたのではあるが、我々の記念碑的業績からあなた方のもとにどれだけのものが加えられたことだろう!」彼等がこうしたことを述べたとしたら、その時あなたはこれほどの人々に何を言い得ただろうか?

 (24.66)あなたのおじいさんのドルススと、この方とほとんど同時代の方だが、ガイウス=グラックスとを比べてみようか?こいつは国家に傷を付けたのだが、あの方はそれに治療を施したのだ。もし不敬虔と蛮行ほど人を悲惨にするものはないとしたら、無知な者は全員悲惨だとはいえ、もちろんそれも事実なのだが、しかしながら祖国に貢献した人々とその破滅を願った人々とがそういう風に平等だということはないのである。従って、悪徳を多いに減らすということが、徳に向けてなにがしかの向上をした人々のうちにはあるのだ。(24.67)しかし、あなた方は徳への向上が生じるとは言うものの、悪徳の減少が生じることは否定するのだ。

 (25.68)そうするとまさにこうした袋小路の原因は何なのか?最高善を構築する際の虚勢に満ちたこけおどしなのだ。

Cic, Fin. 4.25.68 = SVF. 3.27
 つまり、美徳だけが善だということが確立されると健康の配慮、家事のきりもり、国事への奉仕、係争をなす場合の秩序、生活上の義務が破壊され、ついにはあの美徳そのものが見放されねばならなくなるのだ、専らそれの内に全ての「顔」があるのだから。この点が、アリストンに対してクリュシッポスが丹念に反論した点なのだが。

アッキウスが言うように、この難問からあの「弁舌巧みに騙す悪徳」が生まれたのだ。(25.69)というのはつまり、知恵が足場をおくべき場は 、全ての相応行為が損なわれたなら、保たれなかっただろうし、しかしまた相応行為も全ての選別と区別が取り去られるなら潰えるのだから。またそれらは全てのものがひとしなみにされて各々の間に何の差異もなくなってしまうならありようがないのだ。こうした袋小路から結果することはアリストンのそれよりも悪質である。この人のはむしろ単純なのだが、あなた方のは狡賢い。

Cicero,Fin.4.25.69=SVF.1.368
 というのは、あなたにとって苦痛からの解放、財産、健康、こうしたものは善いものと思われませんかとアリストンに訊ねるといい。否と言うだろう。ではどうか?これらと反対のものどもは悪いものではないか?全然全く、と言うだろう。ではゼノンに訊ねてみるといい。答の語数は変わらないだろう。そこでびっくりして我々は両者に尋ねたくなるのだ。一体全体どうやって我々は生をおくれるのか、我々が健康か病気かということや、苦痛にさいなまれるか免れているかということや、寒さや飢えを避けることができるかどうかということに何の違いもないというのなら、と。アリストンならこう言う。大きな心で簡素に生きたまえ。何であれよいと思われることをすればいい。君は苦痛に悩むことも欲望を抱くことも恐怖におののくことも決してないだろう、と。

(25.70)ではゼノンはどうだろう?次のような常軌を逸したことを彼は語るのであり、それに従うと生活は全く不可能になる。つまり、美徳と汚涜の間には計り知れないほどの開きがあるのに、その他のものどもの間には全く何の差異もない、というのだ。(25.71)ここまでは同じではないか。とにかく、残りの説を聞きたまえ、笑いをこらえられるものならそうしたまえ。

 (27.74)さて、同じ狡猾な言葉からあなた方には王国や帝国や富が生み出されたのである。つまり、全てのものは、それがどこにあるのであれ、賢者のものだとあなた方が言うほど莫大なそれらが。次に、彼だけが容姿端麗で自由であり、彼だけが市民であり、愚者は全ての点で反対であり、彼等は狂人でもあるというのがあなた方の説なのだ。こうした言説をあの方々はギリシャ語で「パラドクス」と、我々は逆説と読んでいる。しかし、[こうした言説に]接近戦を挑むなら、それらはどんな驚くべきことを備えているのか?あなたとともに進軍し、あなたが何であれ個々の語句にどんな事柄を当てているかを見たいと思う。異存はないだろう。全ての過誤は等しい、とあなた方は言う。この私は今あなたと戯言を言い合うつもりはないのだ、ルキウス=ミュレナをあなたは非難し私は弁護した折にこの同じ事柄についてそうしたものだったが。あの時はこうした議論に慣れていない人々に向かってあの言説が語られていたわけで、いくらか聴衆もいた。しかし今は精妙に議論をせねばならない。

Cicero,Fin.4.27.74=SVF.3.531
 「過誤は等しい」一体どうして?(27.75)「立派なものよりも立派なものはないし、醜いものよりも醜いものはないからだ」もっと説明を続けて頂きたい。というのも、まさにこの点に多大な不一致があるのだから。特にあの議論を用いてなぜ全ての過誤が等しいのか見ようではないか。あの方が言うには、たくさんの竪琴の中にどの弦も張りが足らないで調和を保てないものがあると全体が等しく不調和になるように、過誤は不調和なので等しく不調和なのだ。従って、等しい。

この論で我々は曖昧さを弄しているのだ。つまり、弦の張りが足りないということが全ての竪琴に等しく生じている。しかしこれは、張りの足りなさが等しいというあのことにはつながらない。従って、この類比はあなたを擁護しない。すなわち、等しく強欲があるとあなた方が言う場合でも、その強欲が全て等しいということは帰結しない。

Cicero,Fin.4.27.76=SVF.3.531
 もう一つ別の例えがある。つまり、あの方が言うには、屑を積んだ船を転覆させたのであれ黄金を積んだのをそうしたのであれ、船長は等しく罪があるのと同様に、両親であれ奴隷であれ、不正に打擲する者は等しく罪がある。

この、舟の積み荷の種別を無視することはしかし航海術には何の関係もないではないか!そのように、黄金を運ぶか屑を運ぶかということはよく航海することや悪く航海することに何の関係もない!しかし、両親と奴隷の間にある差異は知られうるものでありまた知らねばならないのだ。従って、どんな種類の過誤を犯したかということは航海においては何の関係もないが、相応行為に関しては大いに関係があるのである。さらにまた、航海においてさえ、怠慢のせいで舟が転覆されたのなら、屑を積んでいた場合よりも黄金を積んでいた場合の方が過誤は重い。つまり、全ての術には、思慮によって共通に要求されるものが備わっているのであり、全ての人々はどんな技術に長じているにしろそれを持っていなければならないのである。このように、以上あなた方が言ったような仕方では、全然過誤は等しくないのである。

Cicero,Fin.4.28.77=SVF.3.531
 しかし、彼等は強引に論を進めて退却しない。彼等が言うには、全ての過誤は弱さと不調和に関わり、この悪徳の大きさが愚かな者全員に等しいので、必然的に過誤は等しいことになる。

実に、まるで全ての愚者においては悪徳の大きさは等しいと認められているかのようであるし、ルキウス=トゥブルスがプブリウス=スカエヴォラと同じ卑怯さと支離滅裂に与っているかのようである。前者を後者は市民投票に訴えて弾劾したのであるが。さらにまた、過誤が犯された事柄には何の差異もないかのようである。このように、こうした事柄が重大か些細かに応じてこうした状況下で犯された過誤が重大か些細かが決まるのだ!(78)そしてこうして、もうこの話も締めくくられねばならないのだが、何よりもこの一つの点をしくじったので君のストア派は逼迫しているように私には見える。つまり、うかつにも、彼等は正反対の二つの主張を保持することが可能だと言い張ったのだ。というのもこれほど自己撞着することがあるだろうか?同じ人が、方や、美徳だけが善であると言い、方や、生きるのに適した物事への欲求が自然に由来するとも言うのだ。かくて、最初の主張に適したことを保持しようとすると彼等はアリストン[の立場]に陥るし、そうなるのを避けると、逍遥派の人々がするのと全く同じ論法で[自説を]弁護するのだが、用語の使い方には噛み付き続けるのだ。逆に言えば、そうした用語も自分等の方に引き続き引っ張ってこようとは思わなかったので、彼等は、弁論のスタイルにおいても彼等の人柄においても、もっと粗野で荒々しい、生硬なものとなっているのだ。

Cic., Fin.4.28.79 = Straaten 55
 (79)彼等のこうした厳めしく荒々しいところを避けたので、パナイティオスは彼等の教説の厳格さも、弁舌の微細さもよしとはせず、一方の分野ではもっと穏やかで、他方ではもっと晴れやかであった。また、彼が常に口にしていたのはプラトン・アリストテレス・クセノクラテス・テオプラストス・ディカイアルコスだったが、それは彼自身の著作が明らかにしている。

実際、こうした人達こそ君達は熱心に一生懸命研究するべきだと私は大いに思っている。
 (80)まぁしかし、日も暮れたことだし、私も帰らねばならないので、今のところはここまでにしておこう。それはともかくも、こういう論議はちょくちょくやろうじゃないか。
 あの方は言った。ええ、それはもう。我々ならもっとうまくできるだろうからね。それに実のところ、まず第一にお願いしたいのは、君が言ったことを私が論駁するから、それを聞いてほしいのだ。しかし、覚えておいてほしい、君は我々の教説を全てよしとし、ただ違う用語が用いられているだけだとするのだが、私は君達の教説を何らよしとしないのだ。
 しばしのお別れです。私は言った。でも、またお目にかかりましょう。
 こう言って、我々は別れた。

第5巻
Cic,Fin.5.4.11=Fortenbaugh et al. 590
 (4.11)さて、第3の分野つまり善く生きることに関わる教説もこの学派は追及したのだが、この分野は彼等の下ではただ私人として生きる方法だけでなく、国家を指導することにも関わっていたのだ。ギリシャだけでなく夷狄のそれも含めてほとんど全ての市民について、アリストテレスからは人柄や習慣や制度を、テオプラストスからは法律を学んだのである。彼等両者ともが、国家にはどのような指導者がいるのがよいことかを説き、それに加え沢山の著作の中で国家の最高の状態は何かということを著述したのではあるが、これをより豊かになしたのはテオプラストスであった。国家における事柄の変化と時代状況の変遷とは何であるかについて、また事態が何を要求するにしろその通りに事を治めるにはどうすればよいかについて、論じたのである。

Cic,Fin.5.4.11 = Fortenbaugh et al. 482
 しかし、生涯を全うすべき方法について彼等に最も気に入ったのは事物の観想と認識のうちに過ごされる清閑であった。それは神々の生に最もよく似ており、賢者には最もふさわしいように見えたのである。そして、彼等の輝かしくも光栄な論述はこの事柄に関わっている。

 (16)*ここからして、万人が求めるもの、つまり幸福に生きることの理法が見い出されまとめられうるのである。この点には多大な異論があるので、カルネアデス流の分類を我々は用いることにしよう。我らがアンティオコスも常用するのにやぶさかではなかったものだ。しかるに、あの方、カルネアデスはそれまで実際に哲学者が最高善についてもっていた見解だけではなく、およそ教説としてあり得るものまで検討したのだ。そして、それ自らから生まれる学芸技術などないと彼は言っていた。というのも、学芸技術によってとらえられるものは常にその外部にあるのであるから。例を挙げてこの点を長々と述べる必要はない。つまり、明らかに、それ自身を対象とする学芸技術などなく、学芸技術そのものとその対象となるものとは別々なのである。すると、医術は健康に、航海術は操舵に関わるのと同様のあり方で、生の技術が思慮なのだとすると、それも何か他のものから成り立ち生まれたのでなくてはならない。(17)さて、ほとんど全ての人々が合意する事があるが、それは、思慮が対象とし追求しようとするものは自然本性に適合しそれに馴染むものに違いなく、それ自身それ自体で魂の欲求(ギリシャ人がギリシャ語で衝動と呼ぶものだ)を誘発し引き出すものに違いないということだ。しかしながら、生まれてすぐ自然に欲求されるかのように我々を動かすもの、それが一体何かということになると、意見は一致しなくなる。これに関しては哲学者達の間にも異論があるし、最高善が論じられる際も全ての見解の相違はここに関わるのである。つまり、この問題全体、究極の善悪に関するものであり、善いもの悪いものの中で何が最高であり極限かという問題だが、それを見い出すべき源泉は、自然による最初の誘発が存するところなのである。それが見い出されるや否や、そこからあたかも水源を発するかのように、究極善悪に関する全ての論議が発するのである。
*節の切り方は諸家の間で一定しない。
 (7.18)ある人々は快楽が第一に欲求されるものであり、第一に忌避されるものは苦痛であると主張する。ある人々は無苦痛が最初に是認されるものであり、最初に拒絶されるのが苦痛であると考える。この人々とは別に、

Cicero,Fin.5.7.20=SVF.3.44
 しかし実際、自然に従っているものを我々が手に入れるために全てのことをなすということ、そして我々がそれを獲得できなかったとしても、それが美徳であり、それ自体で希求されるべきものであり唯一の善であるとストア派の人々は言っている。


Cic,Fin.5.8.23=SVF.1.363(アリストン)
 既に除外され取り除かれたピュロン、アリストン、ヘリロスの教説は我々が取り囲んでいる集まりに入ることができないので全然招き入れられる必要がなかったのである。

Cic, Fin. 5.8.23 = SVF. 1.364; 1.417 (Aristo, Herillus)
 すなわち、善悪の究極あるいは終局とも言うべきものに関わる全ての問題は自然に従うものや適合するものと我々が言うものから出発するのであり、最初にそれ自体として欲求されるもの全てを破壊するこの人々は、自らのうちに美徳も汚涜もないものどもにはあるものを別のものよりもより優先する理由など何一つなく、こうしたものどもの間には何一つ差異などないと言うので、またヘリロスも智恵以外にはなにものも善ではないと説いているのだとしたら、思慮を働かせる理由も義務を見出す働きも崩壊させてしまったのだ。

22

 (5.22.61)しかし、ここでは次のことを説明するにとどめよう。私が言うこうした美徳は、我々自身がそれを愛しているということを別としても、それでもなおその本性からしてそれそのものが追い求められるに値するのである。このことを示してくれるのが子供達で、彼等においてはまるで鏡に移るかのように自然本性が見てとられるのである。どれほど熱心に彼等は競い合うことか。その競争自体も何と凄まじいことか。勝った時にはどれほど喜んで我を忘れ、負けたらどれほど恥ずかしく思うことか。どれほど非難されることを嫌うことか。どれほど賞賛されることを求めることか。同年代の頭目となるために、どんな労苦に耐えることか。よくしてくれた人々のことはどれほどよく覚えていて、どれほどの恩返しをしようとすることか。そして、これらのことは最も優れた素質において最もよく表れるのであり、そこでは、我々が理解している美徳が自然によって言わば素描されているのだ。
 (5.22.62)しかし、以上のことは子供の場合の話である。もうすっかり出来上がった年令の人々においては、これらのことはまさにあからさまにされているのだ。汚涜に対する嫌悪感や美徳に対する賞賛に動かされないほどの人でなしなどいるだろうか。誰が、好色無恥の若者を嫌わないだろうか。逆に、ああした年代の廉恥心や節操を、自分自身には何の関わりもないにしても、それでも愛さないような人がいるのか。フレゲラエのプルス=ヌミトリウスを、確かに彼は我らの国家のためになることをしたのではあるが、嫌わない人がいようか。都を守った人であるコドロスや、エレクテウスの娘達を大いに賞賛しない者がいるか。トゥブルスの名前に嫌悪感を抱かない人がいるか。故アリステイデスを愛さない人がいるのか。伝え聞くのでも本で読むのでもよいが、何であれ誠実さ、友情、大きな心からなされたことを知るならば、我々はどんなに感動することか。そして一体それを忘れるであろうか。
 (5.22.63)我々については何を言うことがあろうか。我々は名声と名誉のために生まれ、そのために生を受け、養育されたのであるから。どれほどの喝采が劇場のごく普通の特に教養のない人々の間でも沸き起こることか。あの文句が語られる時のことだ。「この俺がオレステスだ」すると逆にもう一人は「何を言うか。この俺がオレステスなのだ」と、こう言うのだ。さてまた、両者ともが解決の方法を、混乱して迷っている王に示し、つまり、両人ともをいっぺんに殺せと願った時、この場面が演じられる度に、常に最大の賞賛を得るのではないか。従って、この心情をよしとして賞賛しないような人はいないのだ。利得をものともしないどころか、それに反してまでも信義を守るようなものなのだから。
 (5.22.64)このような例は、架空の物語だけでなく、実際の歴史をも埋め尽くしているのであり、特に我々ローマの歴史がそうである。というのも、イダ山の聖物を拝領するために最高の漢を選んだのも我々ならば、王侯に後見人を派遣したのもほかならぬ我々だったのである。また、我らが将軍達は祖国安泰のために自分の首を捧げたし、我々の執政官達は最も憎むべき王が城壁にまさに迫っていた時、毒を盛られないように気をつけろと彼に忠告した。我が国には、無理矢理加えられた凌辱を自らの死をもってそいだ彼女[ルクレティア]もいたし、我が娘を殺める方が辱めを受けるよりもましだとした者もいたのだ。はたして分らない者がいるのだろうか。これら全てのこと、また同じような事柄は数え切れないが、それらをなした人々は、徳の威厳がもつ輝きに導かれて、自分の利得などには目もくれなかったのだ。また、我々にしても、それらを賞賛する時は、ほかならぬ美徳によって導かれているのだ。

23

 (5.23.64)こうした事柄を手短かに話してきたわけだが(手短にというのは、私はやろうと思えばできた沢山の論議を辿ることをしなかったからだ。実際疑いを挟む余地などないのだからな)、しかしながら以上の事柄から確かに結論付けられるのは、全ての徳も、それらから生じ、またそれに結びついている美徳も、それ自体のために求められるということなのである。
 (5.23.65)しかし、我々が論じている美徳全体の中でも人間の間にある人間どうしの結び付きほど輝かしく、広範に行き渡っているものはない。それは功利による社会的連合と交友のようなもので、人類に備わる好意そのものなのだ。それは人が産み落とされると直ちに生ずるのである、生まれた子供たちは両親に可愛がられ、家族全体は家系という血のつながりで結ばれているのだから。この結び付きは徐々に家の外に這い出して行くのだが、まず最初は家族の血のつながりに、次いで婚姻に、さらには友情に、その後で隣人との付き合いに、最終的には人類全体を包括するものによって広がっていくのだ。この心の感情は誰に対してもその者のものを認め、人間の結び付きによるこの社会と我々が言うものを寛容に満ち平等に作られたものとみなすのだが、これは正義と呼ばれている。これに結び合わされるものには、敬虔、親切、自由人らしさ、鷹揚、紳士らしさ、この種。また、これらは正義の特質であるので、その他の諸徳にも共有されている。(23.66)つまり、人間の本性はいわば社会的で公共的な(ギリシャ人たちはギリシャ語で「政治的」と呼んでいる)何かを生得的に備えているように生まれついているので、どの徳が何をするにしろそのことは交友や、私が既に論じた好意や社会的連合から離れることはないだろうし、逆に正義はそれ自体他の諸徳に広がっていくのでそれらの諸徳を要請するとも言える。

Cic,Fin.5.24.72=Fortenbaugh et al. 480a
 ここから他の人々は個別の論点をつかみ出し、どいつもこいつもそれが自分の説であると見えるようにしようとしたのである。(25.73)物事の認識がそれ自体としてしばしばアリストテレスによってもテオプラストスによっても驚嘆すべきほどに称揚されたのだ。

Cicero, Fin. 5.25.73 = SVF. 1.417; Fortenbaugh et al. 480a (Herillus)
 この一点だけを捕まえてヘリロスは智恵が最高善であるという見解を擁護し、それ以外のものはそれ自体として欲求すべきでないと説いたのだ。

Cic,Fin.5.25.73=SVF.1.366(アリストン)
 古人たちからして人間的な事柄を見下し軽視することについては多くのことが語られてきた。この一点にアリストンはこだわったのだ。徳と悪徳以外に何かを避けるべきであるとか欲求すべきであるとかいうことを彼は否定したのだ。

Cicero, Fin. 5.26.76=FDS.340
 というのも、問題は他ならぬこの点なのだから。つまり、何も感覚され得ないとは私に思えないのだが、それはどうしてかということだ。もっとも、感覚の能力をストア派の連中がこう定義するのであれば話は別だが。彼等は、偽ではありえないような真のことでなければ何も感覚され得ないと、こう言うのだ。

 (5.27.79)私の回答はこうだ。私は言った。私が今問題にしているのは徳が何を作り出せるかということではなく、どんな主張が一貫していて、それ自身調和しているかということなのである。
どういう意味だ?彼は言った。

Cicero, Fin.5.27.79 = SVF.1.187
 私は言った。ゼノンが、まるで神託のようにかくも威厳を持って「徳は、幸福に生きるにはそれだけで十分である」と語り、人が「どうしてそうなのですか?」と言った時、彼は応えて「なぜなら、美徳でないものは何ものも善ではないからだ」と言ったのだ。

私はもうこの説が正しいかどうか知りたいとは思わない。私が言いたいのは、彼の説いたことは非常に首尾一貫しているということである。

Cicero,Fin.5.28.84
 貧乏が悪だとすると、乞食は誰一人幸福ではありえない、たとえ賢者だとしても。しかし、ゼノンがあえて言ったところでは、この人は幸福であるだけでなく裕福でもあるのだ。

Cicero,Fin.5.31.94=SVF.1.431
 我々の意見では、あのヘラクレアのディオニシウスが眼病のせいでストア派から離反したのは恥辱である。まるであたかも、ゼノンから学んだことは、苦痛を感じているときも苦痛と思わないことであったというようなものではないか。あの者が聞いたことは、とはいえそれほど学習しなかったのだが、あの苦痛というものは醜いものではないので悪ではなく、人はそれに耐えねばならないということだった。
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