『神々本性論』
キケロ


14

Cicero, ND. 1.14.36 = SVF. 1.154; 161-2; 165; 167
 (1.14.36)バルブスよ、今度は君たちの学派に論述を進めよう。ゼノンは自然の法は神的なものであり、その力は正しいことを保持するように命令し反対のことはこれを禁止すると考えている。この法を彼がどういう風にして生あるものにしているかは我々には分からない。しかしもちろん我々はその法が生あるものであってほしいのだ。また、別の所ではこの同じ人は天空が神であると言っている。もし神が賛成も反対も何もしないとすれば、神は我々に全く影響を及ぼしはしない。祈ろうが讃えようが誓いをたてようが無駄である。しかし別の本では、何らかの理が事物のあらゆる*本性に浸透しており、その理は神聖な力の影響を受けていると主張している。この人はこの同じ力を天体にも、年月や歳月の流れにも認めている。実に、ヘシオドスの『神統記』を解釈した時に、彼は神々に関する流布の常識的な見解を根こそぎ取り除いたのである。すなわち、ユピテルもユノもウェスタも、あるいはそのような類いの名で呼ばれる他のいかなる神々をも神々の数に入れないで、むしろ魂をもたずもの言わぬものどもにこそある種の象徴作用によってかの献名が与えられるべきだと考えているのだ。


Cicero, ND. 1.14.37 = SVF. 1.378 (Aristo)
 (1.14.37)彼の弟子アリストンの説も負けず劣らず多大な誤謬のうちにある。この人は神々の姿を知ることはできないと考え、神々には何の感覚もないと言い、そもそも神は全然生物ではないのではないかとさえ疑っている。

Cicero, ND. 1.14.37 = SVF. 1.530; 532
 他方、クレアンテスは、今し方名を挙げた人と一緒にゼノンの講議を聴いていたのだが、ある時には宇宙自体が神であると言い、ある時には自然全体にそなわる精神と魂にこの名を与え、ある時には、宇宙の果ての最も高いところにあり、そこから宇宙を取り囲んで、全てを覆って抱え込む最外奥の炎(アイテルと呼ばれているのだが)が神に違いないと考えている。この同じ人は、快楽批判の書物の中ではまるで狂ったように神々のおかしな姿形を思い描いたが、別のところでは全ての神性を星々に帰したし、また別のところでは理性以上に神的なものはないと考えている。

こんな有り様で、我々が精神で知っているあの神、魂にそなわる概念に痕跡を残すようにとっておきたいあの神は全くどこにもあらわれないのだ。

15

Cicero, ND. 1.15.38 = SVF. 1.448 (Persaeus)
 (1.15.38)しかし、同じゼノンの聴講者だったペルサイオスによると、生活を整えるのに何か大いに役立つことを見い出した人々が神とみなされる反面、その有益で役に立つことそのものも神という名前で呼ばれたのであるが、それで彼は、あれらの事柄は神々が見い出したことであるという言い方は全然せず、それらそのものが神的なのだと言ったのである。しかし、卑しく不格好な物事に神々の誉れを与えることや、既に逝った人間を神々の内に加えることほど馬鹿げたことがあるだろうか。そうした人々を弔うにはひとえに喪に服することしかないであろうに。

Cicero, ND. 1.15.39 = SVF. 2.1077 = LS. 54B(クリュシッポス『神々本性論』)
 (39)すなわち実際クリュシッポスは、ストア派の人々の夢物語の最も巧妙な解釈者とみなされているのだが、未知の神々の大群をとりしきっているのだ。しかし実際それらの神々は、論議によって形描くことさえ我々にはできないほどに未知なお方々なのである。我々の知性は思惟によって何でも描くことができるように見えるにもかかわらず、そんなことはできないのだ。すなわち、彼は言う、神的な力は理性のうちに、また普遍的な自然の魂や知性のうちに位置している、と。また彼は言う、ゼウス自身が世界であり、つまりその魂の普遍的な流出が世界なのである、と。つまりこういうことだ。まず第一にそれは己自身の原理であり、知性や理性のうちで展開し、事物に共通であらゆるものを包摂する普遍的な本性なのである。次に、運命にかかわる力*であり将来あるであろう事柄に関わる必然性であり、さらに言えば火である。これは前にエーテルと言ったものでもある。また次に、自然にしたがって流れ留まるものども、つまり水や大地や空気や太陽や月や星々や、事物に普遍なものであり全てのものを包摂するもののことである。また不死の状態に至った者がいればそのような人間さえもそうである。(40)この人はこんなことも論じている。エーテルとは人々がユピテルと呼んでいるところのものであって、気息として海に満ちているものがネプチューンであって、大地とはケレスと呼ばれるもののことであり、残りの神々の名前も同様の仕方に従っているのだ、と。さらにこの人は、恒久永遠の法の力までもが、それは人生の導き手であり義務に関する指導者のようなものなのだが、ユピテルであると言い、運命に関わる同じ必然性であり、将来あるであろう事柄に関わる永遠の真理であると言っている。それらのうちには神的な力を内に具えているように見えるようなものは何一つないのだが。(41)さて、以上のことは『神々の本性について』第1巻における内容だが、一方第2巻ではオルフェウス、ムサイオス、ヘシオドスやホメロスの神話を、クリュシッポス自身が不死の神々に関して第1巻で述べた事柄に調和させようとしている。それは、これらの古い詩人たちが、以上で言われたようなことを信じていたとは到底思えないのだが、事実上ストア派に属するとみなされるようにするためであった。
*ロングとセドリーに従った。

Cicero, ND. 1.15.41 = SVF. 3 Diogenes 34
 このクリュシッポスを受け継いだのがバビロニアのディオゲネスで、ヨヴの子孫であるこの処女神の出生と誕生を、自然学に引き寄せ、おとぎ話から引き離している。

16

18

 (1.18.47)つまり、最も優れた本性は、幸福であるからにせよ、永遠のものであるからにせよ、理由はともかくとして、これを最も麗しいものとするべきであると思われるのだが、そこでだ、一体どんな構成の四肢、どんなまとまりの輪郭、どんな体型、どんな外見が人間のそれよりもより麗しいというのか。

Cicero, ND. 1.17.47 = SVF. 2.1165
 しかし少なくとも君たちが常とする論法では(と言ったのは我らがコッタは時にああ言えばこう言いもするからだが)、創造や、神が何事かをお造りになることを論じる際には、万事が人間という形においては単に利便だけにではなく、まことに、優美さにもどれだけ適しているかということを述べるのである。

 (1.25.70)こんなことを言うのは、弁護できないと白状することよりももっと恥である。しかし、同じことを彼は弁証家達に対しても行ったのだ。彼等は、「かくかくであるか、それともそうでないか」という形をとる全ての選言命題においてはどちらか一方が真であるということを教えたが、このお方が恐れたのは、もしこうして例えば「明日エピクロスは生きているか、さもなくば死んでいる」ということを認めたらどちらかが必然的になってしまう、ということであった。そして、彼は「かくかくであるか、それともそうでないか」ということ全体についてそれが必然的であることを否定したのだ。これ以上頭の悪いことを言えたものだろうか。

Cicero, ND. 1.70 = SVF. 1.63
 アルケシラスはゼノンに対して、感覚を通して見えるものは全てが偽であると強行に主張したが、その際ゼノンはしかし、感覚像に全く誤りがないということはないが、全部が間違いということもない、と言っていたのである。

ところがエピクロスは、もし感覚像に一つでも偽のものがあるならば、真な感覚像などないのではないかと恐れた。そして、全ての感覚は真を告げるものであると言ったのである。こうした議論は何一つうまくない*。なぜなら、彼はより弱い打撃を跳ね返すためにもっと重い打撃を受けたのだから。
*callideと読む。

Cicero, ND. 1.121 = SVF. 3.635
 (17.121)どれほどストア派の連中の方がましだろう。君達にけなされてはいるが。ともかく、彼等は知らない賢者たちに対してさえ賢者たちは友人であると考えている。というのも、徳以上に愛らしいものはないからというのだ。[徳は]誰がどこで得ようとも我々によって愛されるのである。

(122)それに引き換え、君達の仕打ちはひどいものだ!親切と好意を弱さに帰するのだから!!つまり、神々の力と本性はおいておくとしても、一体人間は、弱い存在でなかったら、好意も親切もないだろうと思うのか。善い人々の間には自然の情愛など何もないのか。「愛」という言葉自体が愛らしいものではないか。ここからして、友愛という言葉も取られているのだ。それを我々の利得に結び付け、我々が愛する人の方の利益にはそうしないなら、友愛そのものが自分達の利便の何か取り引きのようなものになってしまうだろう。牧草地や耕作地、また牛の群れはまさにこうやって値踏みされる。つまり、どんな利得がそれらから得られるかということだ。しかし、人間の好意や友愛は損得抜きの親切心によるものだ。それだから、神々についてはどれほどのことだろう!神々は何も必要としないけれども、互いを愛し、また人間達のことを気遣って下さるのだ。こうしたことが事実でないなら、何故我々は神々を崇め祈るのか。なぜ司祭が犠牲を、鳥卜官が鳥卜を司っているのか。なぜ、不死の神に願いごとをし、願をかけるのか。「しかし、エピクロスも神聖について本を書いている」(123)

第二巻

Cicero, ND.2.12 = LS.54C
 こうして、全ての種族の全ての人々の間にこの上ないほどの意見の一致があるのだ。つまり、この点で一致しているということだが、全ての人々に内在し、魂の中に刻印のように刻まれているのが神なのである。(13)神がどのようなものであるかということには色々異論があるが、とにかく神が在るということは誰も否定しない。実際、我らがクレアンテスは、神々の概念が人間の魂の中に形成されることについて4つの理由を説いた。



 (2.5.13)神々がどのような性質かということに関しては異論があるが、とにかく神々が在るということは何者も否定しない。

Cicero, ND. 2.5.13 = SVF. 1.528 (Cleanthes)
 実際、我らがクレアンテスは、人間の魂の内に神々の概念が形作られることに四つの原因を挙げた。
 第一は、ついさっき話したものだが、現在の事柄から未来の事柄を予期することで生じる。
 もう一つは、[我々が享受する]利益の偉大さから我々が把握してきたものである。それらは、穏やかな気候、豊穣な大地、その他数多くの莫大な利益から見てとられるのである。
 (2.5.14)第三のものは魂を脅えさせるもので、雷、嵐、大雨、雪、雹、災害の後の廃虚、伝染病、地震、頻繁な地鳴り、石礫の雨、まるで血のような雨粒などによる。さらに、地盤沈下や突然の地割れ、また人間や家畜の不自然な奇形、また燃える星々の出現、また、ギリシャ人達が彼らの言葉で「彗星」と呼び、我々は巻き毛の星と呼んでいる星々(最近オクタヴィウス抗争の際に多大な惨事の先駆けとなった)、また双児太陽(父の話では、トゥディタヌスとアクィリウスが執政官だった頃に現れ、実際この年に第二の太陽と言われたアフリカヌスが逝かれたのだ)、こういったものに恐れおののいた人々がある種の天の力、神的な力、そういうものがあるのではないのかと考えたのである。
 (2.5.15)第四の原因は、最大のものだが、天体の一定し一貫した公転、太陽や月や全ての星々の差異や有用性*、美や秩序であって、こうしたものがあらわれること自体、これらが偶然に存在しているのではないことの充分な証拠となっている。例えば、もし誰かがどこか家や運動場や広場に行ったとしよう、そして全てのものが秩序、規則、規律をもっているのを見たとしたら、それらが何の原因もなく生じたとは思えず、何か支配し統治する者があると考えるであろう。ましてやこれほど大きい運動とこれほどの変化、これほど甚だしく多くの物事に秩序があり、計りしれないほどの無限の年月を通じていまだかつて欺かれることがなかったのであればなおさらである。何かの精神によってこれほどの自然の運動が統べられていると考えるのが必然である。
*varietatem「多様」と読むのが一般的だが、このままでも意味が通じないということはない。



Cicero, ND. 2.6.16 = SVF. 2.1012
 (6.16)実際、クリュシッポスは、非常に鋭い才能の持ち主だが、彼の語ることはまるで自然そのものが語っているようで、自分で発見したとは思えないほどである。彼は言う「つまり、自然万有(事物の本性)のうちに人間の精神、理性、人間並みの力や能力では作り出せないものが何かあるならば、それは人間よりもより善いあの方が作られたのだ。また、天体や、永遠の秩序をたもつ全てのものは人間の手で形作られることなどできない。故に、ああしたものを形作ったのは人間より善いものである。しかし、君はそれを神という以外に何と言えただろう。実際、神々がいなければ、自然万有において人間よりもより善いものなど何がありえよう。その内にだけ理性はあり、理性以上のものなど何もないのだから。ところで、全世界の内で自分よりもより善い者などないと言える人間がいるなどということは愚かな傲慢である。故に、何か人間よりもっと善い者は存在する。だから、間違いなく神は存在する」(17)実際、こうではないだろうか。君がもし大きくてきれいな家を見たとしよう。まさか、仮に住人を見ることがなくても、ネズミやイタチがあの家を造ったなどと思うよう導かれることなどできないだろう。故に、輝かしいこの世界、天体の多彩な美しさ、海や大地の力強さや偉大さを君がこれは自分の住居であって不死の神々のではないなどと言い張ったら、全くおかしくなっていると思われたことだろう。



Cicero, ND. 2.21 = SVF. 1.111
 (2.8.21)「理性を行使するものは理性を行使しないものよりも優れている。さて、宇宙よりも優れたものはない。故に、宇宙は理性を行使する」

同様の論法で、宇宙は知恵があるとか、幸福であるとか、永遠であるとか、そういうことも論証することができる。なぜなら、全てこうしたものは、これらの性質を欠いているものよりもより優れているが、宇宙よりも優れたものは何も存在しないからである。ここからして、宇宙が神であることが論証される。

Cicero, ND. 2.22 = SVF. 1.114
 (2.8.22)同じ人物はこうも述べている。「感覚を欠くもののいかなる部分も感覚をするものではありえない。さて、宇宙には感覚をする部分がある。故に、宇宙は感覚を欠くものではない」

同じ人はさらに続けて、もっと細かい議論を押し進める。彼は言う。

Cicero, ND. 2.22 = SVF. 1.113
「何であれ、精神や理性に与らないのであれば、生命を持つものや理性能力のあるものをそれ自らから生み出すことはできない。しかし、宇宙は生物や、理性能力のあるものを生み出す。故に、宇宙は生命を持ち、理性能力がある」

Cicero, ND. 2.22 = SVF. 1.112
 同じ人は、しばしばそうしていたように、比喩を用いて次のように結論付けている。「オリーブの木から、いい調べを奏でる笛が作り出されるとすると、オリーブの内に笛に関する知識が何か備わっていると言っていけないことがあろうか。プラタナスの木から、整った響きを奏でる竪琴が作り出されるとしたらどうだろう。つまり、同じように、プラタナスの中に音楽が宿っていると考えるだろう。それだから、なぜ宇宙が無生物だとか、知恵がないとか考えるのか。知恵のあるものや生物を生み出しているではないか」



 いや、最初に言ったこととは違った議論を初めてしまったから(というのは、神々が存在するということは万人に自明なので、この第一の前提について議論は必要ないのだと私は言ったのだから)、ここでまさにこのことを自然学の理論で、つまり、自然の事物に関する理論によって確証したい。

Cicero, ND. 2.23 = LS. 47C = SVF. 1.513
 つまり、物事は実際そうであるのだが、養われ成長するものは全て己のうちに熱の力を含んでおり、それなしでは養われることも成長することもできない。それもそのはず、熱を持つ火的なものは全て自らの運動によって駆り立てられ動くのである。他方、養われて成長するものは何か確かで規則正しい運動に与る。それが我々の内に存続しているそれだけ感覚と生命は持続するのだが、熱が奪われて冷えてしまうと他ならぬ我々も潰えて死ぬのである。(24)実際、クレアンテスもこのことを、全ての物体において熱の力がどれほどのものであるかということを、次のような議論で説いている。つまりこうだ。一昼夜で消化されないほど重い食べ物などありはしない。それどころか、それの残りかすにさえ熱は入っている。自然が拒んだためそうなったにもかかわらず。事実さらに、血管や気管は絶えず震えており、まるである種の火の動きのようであるし、しばしば見られるように、何か生き物の胸を開いて心臓を取り出すと、それは素早く振動していて、まるで火の素早さをまねているようである。それ故、生物は、動物にしろ地から生まれたものにせよ、全てその内に含まれる熱によって生きているのである。ここから理解されねばならないことだが、この熱の本性は己の内に生命の力をもっており、その力は全世界に影響を及ぼしているのだ。(25)そして、そのことは、万物に及ぶこの火的なものが全体としてもっと詳しく解明されれば、もっと容易に我々は認められるだろう。しかるに、世界の部分は全て(と言っても最も大きいもののことだが)熱に支えられて成り立っているのだ。そのことはまず第一に大地の本性において認められる。…
 (28)以上のことから導き出されることだが、世界の全ての部分が熱によって保たれている以上、世界そのものも等しく類似の本性によってこれほどの永きに亘って保たれてきたのだ。しかも、次の事実が理解されねばならないだけに一層そうなのだ。つまり、あの熱と火の要素は万物の本性に行き渡っていて、その故に全てのものには繁殖力と成長の要因が備わっているのであり、動物にせよ、根が大地につながれているものにせよ全てこれによって生まれ成長せねばならないのである。(29)それだから、全世界を保持して保っている本性があるのであり、それが感覚や理性を欠いているということはない。というのは、本性というものは、孤立した単純なものでなく何か他のものとつながれ結び合わされている限りは、己の内に何か主導的なものを持っているに違いないからだ。例えば、人間においては精神がそれであり、何でもいいが獣においては精神に似たものがあって、それによって物事を希求する。木々や地面から生えるものにも根に主導的なものが備わっているといわれている。ところで、主導的なものと私が言っているのは、ギリシャ人達がギリシャ語で「主導的部分」と呼んでいるもののことで、種においてこれに並ぶ力のものはないし、これ以上のものはあってはならないのだ。それでどうしてもこういうことになる。つまり、全自然の主導的部分が備わっているあのものこそ、万物のうちでも最高のものであり、万物を支配し統轄するに最もふさわしいのだ。(30)さて、我々も見るように、世界の部分々々には感覚と理性が備わっている(というのも、世界の内にあって万有世界の部分でないものなどないのだから)。それ故、世界の主導的部分が内在しているその部分にもそれら、感覚と理性はなければならないのであり、しかもより鋭く偉大なそれがなければならないのだ。だから、世界そのものが知恵あるもの、賢者であるのも必然であり、万物を包み込んで保っている本性が完璧な理性によって際立っているのもまた必然なのだ。さらにそうすると、万有世界こそ神であり、世界の力も神的な本性によって保たれているのでなければならない。

14

 (2.14.37)つまり、宇宙というのは並ぶもののないものであって、何一つ不足がなく、非のうち所なくまとめあげ仕上げられていて、どんな部分を数えてみたところで完璧なのである。

Cicero, ND. 2.14.37 = SVF. 2.1153
 なるほどクリュシッポスの言説はふるっている。彼によれば、楯のために覆いがあり、剣のために鞘があるように、宇宙そのもの以外の全てのものは何か他のもののために生み出されている。同様に、大地が生み出す作物や果実は動物のためになり、動物は人間のために、また、馬は運搬のために、牛は耕作のために、犬は狩猟と番のためになっている。他方、他ならぬ人間が生み出されたのも宇宙を観想し模倣するためなのである。

人間そのものは完璧とは言えないが、宇宙の完全性の何か重要な一部をなしてはいるのだ。
 (2.14.38)しかし、宇宙は万物を包摂しており、宇宙の内にないものは何一つないのであるから、どこから見ても完璧なのである。したがって、最善のものがそこにかけているということがどうしてあろうか。さて、精神と理性よりも優れたものな之ないのである。故に、これらが宇宙に欠けているということはありえない。

Cicero, ND. 2.14.38 = SVF. 2.641
 そういうわけで、当のクリュシッポスもよいことを言っているのだ。彼は、比喩をあわせ用いながら、全てのものは完成され成熟した際にもっとも優れていると考えている。例えば、子馬よりも成馬の方がより優れているし、子犬と成犬、子供と大人を比べてみても分る。同様に、全宇宙の中でもっとも優れているものも、何か絶対的に完全なものの内にあるのでなければならない。
 (2.14.39)さて、宇宙以上に完全なものはないし、徳より優れたものもない。故に、徳は宇宙の特質である。人間の本性が完全なものでないのは確かだが、徳が実現されるのが人間の内であるのも確かだ。ということであれば、宇宙において徳が実現されるのは非常に容易である。故に、宇宙の内に徳はある。従って、宇宙は賢者であるし、それ故に神である。

15

Cicero, ND. 2.15.39 = SVF. 2.684
 そして、このようにして、宇宙が神であるということを観得した以上、星々にも同じ神々しさを帰するべきである。それらは上天の最も活発で最も純粋な部分から生じており、他のいかなる本性とも混合されることはなく、全体が熱を持ち、透き通っているのである。それだから、これらが魂を持ち、感覚し知性認識をするといわれるのも非常に正しいのだ。

 (2.15.40)また実際、これら全てが火の性質をもっていることは二つの感覚、つまり触覚と視覚、を証拠として立証されるとクレアンテスは主張している。つまり、太陽の熱と輝きはいかなる火よりも明るく、実際、広大な宇宙を通じて遠く広く輝いており、これにあたると、単に暖まるだけではなく、時には火がついて燃え上がることさえあるが、両方とも火の性質がなければ生じない。そして彼はこう言う。「故に、太陽は火の性質をもっており、大海の蒸気で養われているので」(なぜなら、いなかる火も全く何の燃料もなしに燃え続けることはできないのだから)「必然的に、太陽は、我々が生活に役立つよう用立てている火や動物の肉体に含まれているそれに似たところがあるのである。(2.15.41)さて、我々が生活に役立てるために要するこの火は全てを焼きつくして破壊するが、同時に、どこにでも襲いかかっては全体を混乱させて破壊する。逆に、肉体に宿るあの火は生命力をもつ健全な火で、全てを守り、養い、成長させ、保持し、感覚を与える」それだから、今述べたどちらの火に太陽が似ているかは疑う余地がないというのだ。なぜなら、この火は、全てのものが繁栄し、それぞれの種にあった成長をするようにするのであるから。それだから、太陽の火は、生物の肉体の内にある火に似ている以上、太陽も魂があるというべきであるし、天空とか上天とか名付けられている、天の熱の中で生まれるその他の星々も同様である。

 (57)それだから、思うにあながち間違いではないだろう。この議論の出発点を、真理探究の第一人者からとってきたとしても。

Cicero,ND.2.57=SVF.1.171
 しかるに、ゼノンは自然をこう規定している。つまり、彼が言うには、自然とは、道に沿って産出へと進む造化的な火である。なぜなら、彼の考えるところでは、技術の最高の特性は、創造と産出であり、我々の技術の活動の中で手が果たすことを、はるかに技術的に、自然、つまり彼の言うところでは、その他の技術の師である造化的火が、果たすからである。

Cicero, ND. 2.57 = SVF. 1.172 = LS. 53Y
 この議論によると、自然全体が技術を備えたものであるが、それは自然が何らかの方途や方法を持ち、それに従うからである。(58)まさしく、万物を自ら包み込みながら統括し制御する世界それ自体の本性は造化的であるだけでなく端的に制作者であり、同じゼノンの言うところでは、万物の有用さと時宜の世話人であり配慮者なのである。また、何であれその他の本性が固有の種子から成長し増大し維持されるように、全世界の本性も自由意志に基づく運動と意欲と欲求を備えており(これをギリシャ人はギリシャ語で「衝動」と呼んでいる)これらに調和する行為を、我々自身が心と感覚によって動かされるように、行使するのである。従って、世界のこうした知性も同じ原因に基づき、思慮や摂理(つまりギリシャ語で「配慮」と言われるもの)と呼ばれうるのが正しい以上、このものがとりわけ配慮し、そのうちでも最大の位置を占めるのは、まず第一に、世界が存在するのにできるだけ最適なものであるようにと言うことであり、次に何ものも欠けないようにということであり、しかし最重要なのは、世界のうちに優れた美しさとあらゆるものの優美さがあるようにということである。

Cicero, ND. 2.24.63 = SVF. 1.166; 2.1067
 また、他の理論や自然学から神々の大大群がなだれ込んだのであり、人間の姿をまとった彼等が詩人たちにお話のネタを提供し、さらに人々の生活を全ての迷信で一杯にしたのだ。この問題はゼノンによって考察され、後にクレアンテスとクリュシッポスの手でたくさんの言葉を費やして詳論されたのだ。つまり、カエルス(ウラヌス)は息子のサトゥルヌス(クロノス)に去勢され、方やサトゥルヌス自身も息子のヨヴィス(ゼウス)に成敗されたというこの古の思想がギリシャを埋め尽くした後、(64)野暮ならざる自然学の理論がこうした不敬なお伽話に組み込まれたのである。すなわち、天の最高位にあるエーテル、つまり自らの手で全てを生み出す火の本性はある物体の要素を欠いているのだが、その要素もまた別のものと組み合わされなければ何かを生み出すことができないと彼等は説くのである。

Cicero,ND.2.25.64=SVF.2.1091
 (25.64)さて、サトゥルヌスは、彼等の主張では、季節や時の経過と移り変わりを司るお方であって、この神はギリシャではまさにそれにふさわしい名をもっている。というのはギリシャ語でクロノスというこの語は時間の幅を表すクロノスという単語と同音なのだから。一方、ラテン語でサトゥルヌスと呼ばれるのは年月が充満しているからなのである。この神は自分が生んだ者をいつも食べてしまったと神話にはあるが、それは時間というものが時の長さを食いつぶしながら進むものであり、過ぎ去った年月だけではどれだけでも満たされることがないからである。しかし、この神はヨヴに縛られた。それは時の運行に限度がないように、またサトゥルヌスを星界という牢獄に縛り付けるためでもあった。

Cicero,ND.2.26.66=SVF.2.1075
 (26.66)さて、ストア派の人々の説くところでは、空気は海と空の間にあり、ヨヴィスの妹であり配偶者であるユノの名で神格化されている。これに似ており、またもっとも近しいものだからだというのだ。しかし、彼等はそれを女性とし、ユノに帰している、最高に柔和だからというので。

Cicero,ND.2.71=SVF.2.1080
 (71)しかし、こうしたお話をけなして退けはしたものの、あらゆるものの本性を貫いている神、大地はケレス(デメテル)、海はネプチューン(ポセイドン)、他のものにはそれに見合ったもの、が何でありどのようなものであるかということを理解することはできたのである。しかしまた、慣習は彼等をこうした名前で呼んでいるが、この名前で神々を崇め敬うのは我々の義務である。

31

Cicero, ND. 2.31.78 = SVF. 2.1127 = Pearson, Z.39
 (31.78)しかしながら、神々が存在するとすれば(存在しているのは事実だが、そう仮定したとしても)彼らは生物であるのが必然である。しかもただ生物に属すだけではなく、理性に与り、あたかも市民であるかのように互いに団結と友好によって結びついているのである。そして、一つの宇宙を共通の国家であり何らかの都市のように支配しているのだ。(79)人間一般にとってと同じ理が彼らのうちにあることになるし、両者には同じ真理があり、正しいことの勧告と誤ったことの制止としての同じ法があることになる。ここから分かることだが、思慮や知性も神々から人間にもたらされたのである。父祖の法規において知性・信義・徳・調和が神聖なものとされ公に奉られたのも同じ理由である。これらを備えた神々が存在しないとなどということが一体成り立つだろうか。彼等の神々しく神聖な似像に我々は祈りを捧げているというのに。人間の種族の中にも知性・徳・調和があるとすれば、これらが地上に流れてきたのは上方からであると考える以外ないではないか。我々の内にも考慮や理や思慮があるのだから、神々がまさにこうしたものをより多く持っているのは当然である。それどころか単に持っているだけではなく、最大最高の事柄においてそれらを用いるということも当然である。(80)さてところで、宇宙よりも偉大なものもより善いものも何もない。従って、宇宙は神々の考慮と思慮によって統べられているのが必然である。

 要するに、もう充分に述べた通りに、我々が明らかな力と輝かしい外見を見るもの、つまり、太陽・月・惑星・恒星・天空・宇宙そのもの、また、その力が全宇宙に内在し、人類に多大な利益と便宜をもたらしてくれるもの、これらは神であって、そうである以上、万物は神の知性と思慮に統べられているという結論になる。さて、第一の論点については十分に語られた。

Cicero, ND. 2.44.115 = SVF. 2.549
 (44.115)こうした星々の配列全てや、天のこれほど大掛かりな装飾が、あちこちと偶然のでたらめに走り回る物体から作られているというのはまともな人がよしとしうるものであろうか。また実に、精神や理性を持たない何かその他の自然がこうしたものを作り出すことができたであろうか。理性によらねばそれらはありえなかったというだけではない。それらがいかなるものかということを理解するにも理性を最高度に働かさねばならないというのに。

45

Cicero, ND. 2.115 = SVF. 2.549
 実に、驚嘆に値するのはこれらのことだけではないのだ。宇宙がこれほど確固としておりこれほど調和しているということもこの上なく驚くべきことだ。永続するということに関して、宇宙以上にふさわしいものは考えられない。つまり、宇宙の全ての部分があらゆる方向から中心を求めて、等しく押し掛けるのである。さて、互いにつなぎ合わされた物体は、何か紐帯のようなもので取り囲まれて結び合わされた時に、最も長持ちするのである。こういうことをなすのがあの自然本性、万物を精神と理性でまとめあげながら宇宙全体に充溢し、宇宙の果てを向け変えて中心に向かわせる自然本性なのである。

46

 (2.46.117)さて、天空の中を星々は巡っているのであるが、それらはそれ自身がそれ自身を圧迫することで球状を保っており、自らの形態と形式によって自らの運動を続けるのである。というのも、球形というのはあらゆる形態の中でも、もう言ったこととは思うが、影響を受けること最も少ないものなのだ。

Cicero, ND. 2.118 = SVF. 2.593
 (2.46.118)ところで、星々は炎の本性からなっている。それだから、大地や海やその他の水から出た蒸気に養わているのだ。太陽に暖められた大地や水から生じた蒸気に。こうした蒸気に養われて新たにされた星々や天空全体は同時にそれらを放出し、また再び同じ場所から得るのである。こうして、ほとんど何も失われないか、あったとしてもごくわずかで、星々の火や天空の炎はほとんど何も消費しないのである。ここからして、我々の主張では、もっともパナイティオスはこの教説に疑いを抱いたと言われているのだが、全宇宙は最終的に燃焼するということになるのだ。というのも、水分が枯渇すると地は養われず、気ももはや戻れない。気の生成は、全ての水が枯れ果てると不可能になるからだ。こうして、火以外は何も残らず、再び火が生命をもち神となって、宇宙の再生をもたらし、何も損なわれ得ないのである。*
*異読があるらしい。

 (2.47.123)他方、背の高いもの、例えば鵞鳥、白鳥、鶴、駱駝などは首が長いことで助かっている。また、象に手[のような鼻]が備わっているのは、体が重すぎて食べ物に口をつけることが難しいからなのである。

48

 (2.48.123)また他方、ある種の獣は他の動物の肉を食べ物にしているわけだが、そういった動物に自然は力や素早さを与えている。またある種の動物には巧みな技と狡猾さが備わっている。例えば、蜘蛛の中でもあるものは網のようなものを作り出して、何かがくっつくとすることをするし、また別の蜘蛛は思っても見ない所で目を光らせていて、何かがやってくるとつかまえてしとめるのである。

Cicero, ND. 2.48.123 = SVF. 2.729
 また実際、タイラギ貝(とギリシャ語で言うのだが)は殻の大きな二枚貝であるが、小蝦と何か同盟のようなものを結ぶ。食べ物を得るためである。つまり、小魚が開いた貝の中に泳いでくると、即座に蝦は貝の身を噛んで知らせ、貝は殻を閉じるのである。こうして、異なる小動物が共同して食物を得るのである。
 (2.48.124)これは驚くべきことである。何らかの巡り合わせによるものにせよ、初めから自然そのものによってそう邂逅するようになっているにせよ。

また、地上で生まれる水棲動物にも驚嘆すべきことがある。例えば、ワニ、川の亀、水の外で生まれるが初めて這えるようになるともうすぐに水を追い求める蛇の種類などである。いやそれどころかこういうこともあるのだ。我々はしばしば鵞鳥の卵を雌鳥の下に置く。そうした卵から生まれたひな鳥達は最初、丸で母鳥にそうされるように、雌鳥に養われるのである。卵を温めてかえしたのは雌鳥であるというので。しかし、水辺がどうやら本来の住処らしいということを見て取れるようになるとすぐに、雌鳥達を捨ててしまい、雌鳥が追いかけてくると逃げるのである。これほどまでに身を守る術を自然は動物に植え付けているのである。

49

 (2.49.124)また、書物で読んだのだが、ペリカンという鳥がいるということだ。この鳥は自分の餌を求めるのに、水に潜る鳥のところに飛んでいって、こうした鳥が魚をくわえて水の上に現れると、くちばしでそれらの頭を押さえ付けて、獲物を離すまで離さず、それを奪い取るということだ。このまさに同じ鳥は、その書物によると、腹一杯に貝を食べては、胃の熱で消化すると戻して、そうして食べられる貝だけを選びだすという習性があるらしい。

Cicero, ND. 2.53.133 = SVF. 2.1131 = LS. 54N
 一体誰のためにこれほどのものどもが創造されたのだろうかともし誰かが問うとしよう。草木のためであろうか。これらは感覚はしないが自然に従って生を保っている。いや、しかしこれは馬鹿げている。獣たちのためであろうか。口もきかず全然知恵もないものどものために神がこれほどのことを働かれたなどということは全くありそうにもないことだ。そうすると、一体何もののために世界が創造されたと言われてきたのか。無論、理を用いる生物のためである。それは神々と人々である。実際、彼等より善いものは何もない。理はあらゆるものに優るからである。このように、神々と人々のために世界とこの世界の内にある全てのものどもが創られたというのはかなり確かであろう。

Cicero, ND. 2.59.148 = SVF. 1.73
 これらを互いに突き合わせ比べることから、我々は技術というものを作り出すのだ。ある時は生活に役立つために、またある時は楽しみに不可欠なもののために。

しかし実に、万物の女王である、というのは君達がいつもそう言っているのだが、雄弁は何とすばらしく、何と神々しいことか。まずこの術のおかげで、我々は自分達の知らないことを学ぶようになるのであるし、既に知っていることを他の人々に教えることもできるのである。次に、我々が鼓舞され、人を説得し、思い煩う者を慰め、恐怖におびえる人々を救い上げたり、舞い上がった者を抑え、欲望や怒りをかき消すのもこの術のおかげなのであるし、我々を正義や法という絆、あるいは市民どうしの結びつきによって結び付けたのも、野蛮で獣同然の生活から我々を引き離したのもこの術なのである。

 (2.61.154)しかしまだ論じるべきことが残っている。

62

Cicero, ND. 2.154 = SVF. 2.1131
 まず第一に、宇宙自体が神々と人間たちのために作りあげられており、何であれその中にあるものは人間たちのためになるように用意され作り出されているのである。すなわち、宇宙は神々と人間に共通の住処であり両者にとっての都市のようなものである。つまり、理を働かせるものだけが法と掟に即して生きるのである。

64

 (2.64.159)ラバやロバがどれだけ役に立つかということを追求すれば長くなるが、彼等が人間の役に立つようにともたらされたのは間違いない。

Cicero, ND. 2.64.160 = SVF. 2.1154
 また事実、食べられるということがなければ豚にはどういうことが残っているのか。豚に塩ではなく本物の魂が与えられているのは実は腐らないためなのだ、とはクリュシッポスの言説だ。人間が食べるのに適しているので、自然はこの動物を何よりも多産なものとしたのだ。

様々な種類の魚がいてまたそれらがおいしく食べられることについては言うまでもない。では鳥はどうだ。鳥たちから得られる喜びは非常に大きいので、我らが摂理がエピクロス派の女神に見えてしまうほどだ。また、人間が理知と技巧を働かせなければ鳥を捕まえることは全然できない。そして、鳥には、我々の鳥卜官が用いる用語では、翼占鳥と声占鳥というものがあるが、これらは鳥卜に用いられるために生まれたと言われている。

Cicero,ND.3.10.25=SVF.2.1011
 そして、クリュシッポスは鋭いことを言っていると君には見えたのだ。この疑いなく機知と年期に富んだお人は(機知に富む人々と私が言うのは、心がすばやく転じられる人のことだが、年期に富むというのは、手が仕事によって堅くなるように、魂が習慣によって堅固になった人のことである)それゆえこう言う。「もし人が引き起こせない物事が何かあるなら、それを引き起こした者は人よりもより善い。しかし、人は世界にある物事を引き起こすことができない。故に、それができる者は人間以上の者である。さてところで、人間を上回れるのは神でなくて誰であろうか。だから、神は存在する」こうした議論は全てゼノンのそれと同じ虚偽の上で踊っているだけだ。(26)なぜなら、「より善い」「上回っている」とはどういうことか、自然と理性の間にあるものは何かということが規定されていないからだ。同じクリュシッポスは、もし神々がいなければ自然全体のうちで人間よりもより善いものは何もないと言っている。しかし、人間よりもっと善い者はいないとあらゆる人が主張するのは最高の傲慢であるとは彼も認める。自分を世界より高い者と言い張るのは全く傲慢な者のすることだが、自分は感覚と理性をもっているがこの同じものをオリオンもシリウスも持っていないと考えることは、確かに傲慢ではあるが、それだけではなく思慮ある人のすることでもある。また彼は言う、きれいな家があった場合、この家はそこの家族のために築き上げられたのであってネズミたちのためではないと我々は考える。故に同様にして、世界は神々の家だと我々は表明しなければならない。あの世界がもし建築されたものであれば私は全くそう言おう、(これから私はそう述べるつもりだが)自然にできたなどとは言わずに。

Cicero,ND.3.14=SVF.2.922
 とりわけ、同じ君たちが言うには、運命によって全ては生ずるのだが、しかしその運命は永遠の全体から常に真なのであり、つまり運命付けられている、というのであるから。

Cicero,ND.3.27=SVF.1.171
 造化的に進展する自然について、ゼノンが言うように

Cicero, ND. 3.35 = SVF. 2.421; 1.501
 (3.14.35)しかし、君達の派の人々は、バルブスよ、全てのものを常々火的な力に帰している、思うにヘラクレイトスに追従して。皆が一つの仕方で彼を解釈しているのではないけど。それというのも、あの方は何を言うにしてもそれが理解されるのを望まなかったのだから。しかしヘラクレイトスはどうでもいい。しかし、君達はこう言うのだ。全ての力は火的であって、なるほど動物たちにしても熱を失うと死んでしまうし、しかるに全ての物事の本性においても生き、力を発揮するのは熱を持つものなのだ、と。しかし私が分らないのは、熱がなくなったらものは滅びるのに、水分や気が失われても死なないというのはどういうわけかということなのだ。とりわけ、高熱を出して死んだ場合には[水分や気を失って死ぬではないか]。(3.14.36)それだから、事実このことは熱にもともに当てはまるのである。しかし実際、どういうことになるか見てみようではないか。思うに君達の主張というのはこうだ。我々以外で*自然あるいは宇宙の中で生物というものは火だけである。ではなぜ「気だけである」とむしろ言わなかったのか。そこから生物の魂は由来していて、それにちなんで動物とも言われているというのに。しかし、一体どうやってこんなことがあたかも承認を受けているように君達は考えているのか。火だけが魂であるなどということを。というのは、もっと確からしく思われるのは、魂というのは火と気から合成されたか何かそのようなものではないかということだからだ。「もし仮に、火がそれ自体で、他の本性を何ら交えることなく、生物だというのであれば、それが我々の肉体のうちにあることによって我々は感覚をなすのである以上、火それ自体も感覚を持っていないわけにはいかない」同じことをまたこうも言うことができる。つまり、何であれ感覚を持つものは必然的に快苦を感じなくてはならないはずである。さて、苦痛がもたらされるものには破滅もやってくる。従って、火は永遠であることを君達は証明できないことになる。(3.14.37)ではどうだろう。同じ君達の説として、全ての火は燃料を要し、それで養われないことにはどうやっても燃え続けられない、ということになるのではないか。いやそれとも、他の太陽、月、その他の天体はあるものは甘い水で、またあるものは海の水で養われているとでもいうのだろうか。
*ピースによるとintrinsecusに改める必要はないとのこと。
 この理由でクレアンテスもこう言い訳しているのだ
  なぜ太陽は退いて、それ以上進もうとしないのか
  夏至の境界線に
冬至についても同様だ。どうも彼は食べ物からそう離れたことがないと見える。

ともかく、こうしたこと全体がどういうことになるのか、それはそのうち見ることにして、今はとりあえずこう結んでおこう。滅びうるものはその本性上永遠ではありえない。さて、火は養われないならば潰えてしまう。故に、火は本性上永続しない。

15

Cicero,ND.3.24.63=SVF.2.1069
 この非常な難問を、大して必要なものでもないが、取り上げたのはまずゼノン、次いでクレアンテス、最後にクリュシッポスであり、彼等はこうした作り話を合理化し、神々の各々がなぜそう呼ばれるのかという説明を与えるためにそうしたのだ。君達がこうする時、まさしくあのことを認めたことになる。つまり、事実は全く違うのだが、人々の考えていることはそれはそれでよい、ということを。なぜなら、神々と呼ばれているものは物事の本性であって、神々という姿をしたものではない、と君達は言うのだから。

 (3.31.77)以上は詩人達の言っていることに過ぎず、翻ってこの我々は哲学者たらんとするのだ。つまり、作り話ではなく事実を説く者たらんとするのだ。さてところで、詩人達が説くこうした神々は、ああしたことが子供達を破滅させるものであると知っていたのならば、好意によって加害したと言われかねない。

Cicero, ND. 3.31.77 = SVF. 1. 242; 348(アリストン)
 もし、アリストンが常々言っていたことが本当であり、哲学者はたとえよいことを語ったとしてもひどい解釈をされるなら聴講者を害することになるのだとすると(つまり、放蕩者がアリスティッポスの、厳格者がゼノンの学園から逃げ出すこともありうるのである)

、さらに言えば、哲学者の議論をひねくれて解釈した結果、聴講者が劣悪な者になって学校をさるということがあるとすれば、哲学者は聴講者に害を加えるくらいなら黙っていた方がいいのである。

35

Cicero, ND. 3.86 = SVF. 2.1179
 (3.35.86)しかしながら、神々は些細な事柄には注意を払わず、個々人の狭い畑だの小さい葡萄の樹だのをいちいち面倒みたりはしないし、葡萄が病気や霜で何か大変な害を被ろうがそんなことはユピテルのかかずらうことではないのだ。事実、王たちも王国の中のこまごましたこと全てを気遣うわけではない。つまり君たちはこう言うわけだ。

まるで、ほんの先ほど私が嘆いたのもプブリウス=ルティリウスがフォルミアに持っている土地についてであって、彼の安全が脅かされているということに関するものではないとでも言わんばかりだな。

36

 (3.36.86)しかし、死すべき人間であれば誰もが皆こう考えるものだ。つまり、外的な利便、例えば葡萄園とか麦畑とかオリーブ園とか、穀物や果物の豊作、要するに、生活上の便宜と繁栄は全て神々から授かっている、と。しかし、我々が徳を授かっているということを神々に結び付ける者は誰もいない。

37

Cicero, ND. 3.37.90 = SVF. 2.1180
 (3.37.90)こう言う人もいる。神々は万事にかかずらうわけではなく、王侯も事実そうである、と。しかし、この二つは決して似ていない。つまり、王達の場合、そうと知りつつ見逃すということがあれば、大きな恥罪である。

38

 (3.38.90)しかし、神の場合、無知は容赦とならない。君たちが全く鮮やかに弁護しているのは何なのか。君たちの言説では、神々の力は例えて言えば、本人死亡のために犯罪に対する罰を免れたとしても、彼の子・孫・さらに後の子孫にその罰が引き継がれるようなものだというのだ。

おぉ、神々の公平さはなんと驚くべきことか!こんな法の立案者を受け入れる国があるものか!父親や祖父が犯罪を犯したらその子供や孫が断罪されねばならない、などというのだ。

  タンタロスの一族がしでかした虐殺には一体どんな結末が
  もたらされるのか。また、ミュルティロスの死

Cicero, ND. 3.39.92 = SVF. 2.1107
 (39.92)つまり、君達自身が常々言うところでは、神ができないことは何もなく、しかもあらゆることを造作もなくなさるのだ。すなわち、人間の四肢が何の苦労もなく心だけでその意向のままに動かされるように、神々の肯首によって全てのものは造られ、動かされ、変えられることができる。このことを君達は迷信やお伽話としてではなく、首尾一貫した自然学の理論に沿って述べているのだ。というのも、物事の素材は、全てのものはこれから造られこれに依存しているのだが、全体的に可塑的で変転を被るので、どれだけ急速にであれそこから創り出されたり変えられたりできないものなど何もないのである、と君達は言うのだから。しかし、この世界全体を遍く創り出し治めている者は神的な摂理なのである。それ故、この摂理は、どこから働きかけているにしても、望むことを何でも引き起こすことができる。
最初のページに戻る