キケロ『トゥスクルム論叢』
第1巻
(1.1)弁護という骨の折れる仕事や元老院の勤めから全く、あるいは大部分、ようやく自由になったので、ブルトゥス君、何よりも君がそう勧めていたのだが、私は自分をあの探求へと連れ戻したのだ。つまり、心の中に保たれてはいたものの周囲の事情のせいでおざなりにされていて長い間中断されたままだったこの探求を呼び起こしたのである。そして、正しく生きる道に関わる全ての術策の理論と教説は知恵の探求(これは哲学と呼ばれている)に結びつけられているのだから、このことを私はラテン語の著作によって明示せねばならないと考えたのだ。というわけは、哲学がギリシャ人たちの著作や教説によっては理解され得ないからというわけではなくて、常に私はそう判断してきたのだが、むしろこうした全てのことを我々は自らの力でギリシャ人たちよりももっと賢明に見出してきたし、あの者たちから受容したものにしてもよりよくなしたからなのである。実際我々はそれらを骨を折るに値するものと見なしてきたのだが。
(1.2)というのは、生活上の習慣や規則、家庭内や家族に関わる事柄を我々は確かによりよくより立派に保っているし、実に公の事柄を我々の祖先は確実により優れた体制と法律で治めていたのだ。軍事に関しては私は何と言えばいいだろうか。この分野において我々の祖先は徳によって大いに有力であっただけでなくさらに一層教説によってもそうだったのだ。さらに、文字による教示ではなく自然本性によって獲得された事柄はギリシャともいかなる民族とも比べようがないのである。つまり、これほどの威厳、これほどの不動、大心、忠誠、信義、全ての分野におけるこれほどまでの卓越性である徳はいかなる人々にであれどのようなものとしてあったか、我々の祖先と比較できるほどには。
(1.3)学問と全ての種類の文学においてギリシャは我々を凌駕していた。この分野では対抗する者がいなかったので凌駕することは容易だったのだ。すなわち、ギリシャ人の下では最も古い賢者は詩人の種族だったのであり、それはホメロスとヘシオドスがローマ建国以前の人でありアルキロコスはロムルスの治世の人である以上そうなのだが、詩を我々が受容したのはより遅くなってからである。ローマ建国からほぼ510年後にリヴィウスは教訓詩を発表したがそれはカエクスの子息ガイウス=クラウディスとマルクス=トゥディタートゥスが執政官だった頃、エンニウスが生まれる1年前だった。エンニウスはプラウトゥスやナエヴィウスよりも年長の生まれだったのである。
(2.3)したがって、詩人たちが我々の下で認められ受け入れられたのは遅かったのである。『起源記』には饗宴では賓客が笛に合わせて偉人の徳を詠うのが習わしであったとあるが、しかし敬意がこの類の人々にはらわれたわけではなかったとカトーの弁論が断言しており、そこではマルクス=ノビリオルの愚行を非難している。つまり、彼は植民庁に詩人を招き入れたというのである。それどころか、執政官のあの方はアエトリアに、周知のように、エンニウスを連れて行ってしまった。故に、詩人たちへの名誉が少なくなればなるほどこの研究も貧しくなったのだが、しかしそれでももしこの分野で多大な才能をそなえた人々が現れたらギリシャ人たちの栄光では十分でないほどの報いがあったのである。
(2.4)それとも我々はこう考えるべきであろうか。もし最も高貴な人物であるファビウスに彼の描いたものが栄誉として与えられたとしたら、我々の下には多くのポリュクリトスやパラシオスがいることになったであろう、とでも。名誉が学術を養い、全ての人は名声によって学問に燃えるのであり、誰の下でもよく思われないものは常に倒れ伏しているのである。最高の教養はギリシャ人たちは楽器と声の音楽のうちにあると考えていた。だから、エパミノンダスは、私の判断ではギリシャの指導者ということになるのだろうが、弦楽に合わせて見事に歌ったと言われている一方、その数年前テミストクレスが食事の席に竪琴があるのを嫌がった時には、彼は教養のない人だということになってしまった。故に、ギリシャでは音楽家たちが栄えてきたし、全ての人々がこれを学んだものだったが、無知な人は十分に学問に洗練されたとは見なされなかった。(2.5)彼等の間で最高の名誉に与ったのは幾何学であり、こうして幾何学者たち以上に高名なものは何もなかった。しかし我々は計量と計算に有益な程度にこの種の学芸を制限したのである。
(3.5)しかし逆に、我々が弁論家を迎え入れたのは早かった。それも最初は深い教養はないが話術に適した者としてだったが、しかし後には教養をそなえた者としてそうしたのである。つまり、ガルバ、アフリカヌス、ラエリウスは教養深い人達だったと伝えられている一方、年の上では彼等に先行するカトーは向学心のある人だったし、実際後にレピドゥス、カルボ、グラックスが続き、それから我々の時代に至るまで、ギリシャ人たちにかなり、あるいは全く引けを取らないほど偉大な方々が続くのである。哲学はこの時代に至るまでおざなりにされていたし、ラテン語の文芸がそなえている栄光も何らもっていなかったのである。これに光を当て呼び覚まさねばならないのは我々であり、そうすれば、我々が職務についていた際にいくらかでも市民の役に立てたのだとしたら、余暇にあってさえ可能ならば役に立てるのである。(3.6)この分野でなお一層我々は努力をせねばならないわけは、沢山のラテン語の著作が書かれてはいるがそれらは無造作にものされたのであり、作者も大変優れてはいたが十分に教養があったわけではなかったと既に言われているからである。なるほど、物事を正しく理解している人がその理解していることでさえ洗練された語り方で言い表せないというのもありうる事ではある。しかし、自分の考えたことを整えることも明白にすることも何らかの魅力で読者を引きつけることもできないのにそれを文字に刻んで本にするなどということは無闇やたらに余暇と文字を悪用する人のすることである。そういうわけだから、そういう人々は自分で自分の本を仲間と一緒に読んでいるわけだし、彼等と同じ出版の自由が自分には許されていると言い張る人でなければそんなことをしようとはしないのだ。だから、いくらかでも弁論に関わる名声を我々の努力にもたらそうとするのであれば、我々はなおさら熱心に哲学という泉を掘り起こすことだろう、あの名声もここから流れ出たものだから。
(4.7)さて、最高の能力と知識、豊穣さをそなえた方アリストテレスも弁論家イソクラテスの光栄に感動した後には若者達に話し方をも教え出し、思慮を雄弁に結びつけるようになったが、それと同じことで、我々にふさわしいのはこれまで語り方を探求してきたのを反故にせず、それどころかこのもっと大きく豊かな学芸にも携わることなのである。というのは、完成された哲学と私が常に考えるのは最大の問題を言葉をつくし修辞をこらして語ることができるもののことなのだから。この務めに我々はとても熱心に身を捧げたので、ついに対話というものをギリシャ人達のやり方で敢えてやってみようとしたほどであった。例えば、最近君が去った後もトゥスクルムには沢山の友人達が私と一緒にいてくれているので、そういったやり方で私ができることをしてみた。つまり、かつて私は法廷弁論を実際にしていたが(こんなことを私のように永くやっていた人はいない)、それと同じようなものでこれが私にとっては老境の弁論ということになる。人が聞きたいと思うだろうことを言ってくれるよう私は命じた。そしてそのことについてあるいは座りながら、あるいは散歩しながら論じたのである。(4.8)こうして5日間にわたる(ギリシャ人達がそう言うところの)対話を同じ巻数にまとめたのである。ともかく、意見を聞きたいと思う者が自分の見解を述べた後、次に私はそれに対して論ずるということが行われたことになっている。すなわち、これは相手の意見に対して論じるという古来のソクラテス的な論法様式である。というのも、こうすれば真理に近いものが容易に見出されうるとソクラテスは言っていたのだから。それはそうと、我々の論叢がより面白く繰り広げられるようにと、報告されるようにではなく問題が論じられているように表現しようと思う。だから、その冒頭はこういう風に始まる。
(5.9)死は悪いものだと私は思います。
亡くなった人々にかね?それともこれから死ぬべき人々にかね?
両方にです。
すると、悲惨なものだね、悪いものなのだから。
確かにそうです。
だから、死ぬということがすでに身に起こった人々も、これからそうなる人々も悲惨だというのだな。
私にはそう思えるのです。
そうなると、悲惨でない人などいないのだな。
全く、いません。
だとすると実際、君が首尾一貫しようと思うのなら、全ての人が、既に生まれた人であれこれから生まれる人であれ、ただ単に悲惨であるだけでなく「常に」悲惨でもあることになる。というのは、いずれ死なねばならない人々だけが悲惨だと君が言うのなら、生きている人々の誰一人君はもらさないではあろうが(全ての人はいずれ死ぬのだから)、それでも悲惨の終焉が死にはあるのかもしれない。そうではなくて、既に亡くなった方々も悲惨なのだから、我々は永遠に悲惨の中に産まれ出てくるわけだ。つまり必然的に、10万年前にこの世に生まれ出た人々も悲惨だし、とにかく生まれた人々は全てそうだということになる。
まさしくそう考えているのです。
(5.10)どうか言ってくれ。今、君はああいうものが怖いかね?冥界の3頭犬ケルベロスやコキュトスの轟音、アケロンの渡し、「顎で水面に触れているのに乾ききってヘトヘトのタンタロス」とか、それからあれだ
シシュフォスは転がす
岩を、ぐっしょり汗をかいて、でも全くの徒労に終わる。
とか?多分それからまた情け容赦ない裁判官ミノスとラダマンテュスも?この方々の下ではルキウス=クラッススもマルクス=アントニウスも君を弁護してはくれないし、ギリシャ人の裁判官の下で公判が行われるからといって、デモステネスを雇うこともできないよ。君自身が君自身を弁護して最大の観衆がいる中で訴訟を執り行わないといけない。このことを多分君は怖がっていて、それで死は永遠の悪だと考えているのだな。
(6.10)そこまで私が落ちぶれていて、そんなことを信じている、などと思うのですか?
それとも君はこうしたことを信じていないのかい?
全然!本当です。
おやおや、おかしなことを言うね。
なぜですか?どうか言ってください。
私はもっと雄弁になれるからね、こうしたことを反駁するとしたら。
(6.11)誰がそうじゃないものですか、こんなこと。それに、詩人たちや絵かきどもがこしらえたこうしたお化けを論駁することがどうして難事でしょう?
まぁでも、まさにこうしたことに反論した哲学者たちの分厚い本もあるじゃないか。
全く馬鹿馬鹿しいことです。だって、こんなものに動揺するほど気の触れた人なんて誰がいますか?
そうすると、冥界に悲惨な人などいないなら、そこには全く誰もいないのだな。
まさしくそう考えています。
ならば、君の言う悲惨な人々はどこにいるのだろう、そしてどこに住んでいるのだろう?
実は、私はどこにも彼等はいないのだと言いたいのです。
すると、まるっきりいないのか?
まさにそうです。しかし、彼等が悲惨なのは彼等が全く何ものでもないからに外ならないのです。
(6.12)いやはや…ケルベロスを怖がっている方がいいね、そんなことを無思慮に言うよりも。
ええっ!なぜですか?
「いない」と言っている人が「いる」なんて君は言っているじゃないか。君のトリックはどこにあるのかな?つまり、悲惨な人がいると君は言うのだから、いない人がいると言っていることになるよ。
そんなに僕はおかしくないですよ、そんなこと言おうと思ってないです。
それじゃ、どう言うのかね。
ものの例えに言いますと、マルクス=クラッススが悲惨だったのはあの幸運を死んで失ったからですし、グナエウス=ポンペイウスが悲惨だったのはあれほどの名誉を失ったからですし、要するに悲惨な人々はこういう栄光を損なっているからそうだというのです。
同じ所に帰ってくるなぁ。なぜなら、こういう方々が「いなければ」いけないだろう、もし悲惨なのなら。でも君は先程、亡くなった方々はもういないのだと言ったね。そうなると、いないとすれば何でもありえないよ。そして、全然悲惨でもないことになるな。
多分、分かってはいるんですが言えてないのですよ。つまり、かつていた人が亡くなっていなくなるというまさにそのことが悲惨の極みだと言いたいんです。
(6.13)何だって?かつて全くこの世に存在しなかったということよりも悲惨なのかい?つまりこういうことか、今まで生まれることがなかった人々は、今いないのだから、現に悲惨であるし、我々も、将来死んだら悲惨になる以上、生前は悲惨だった、と。でもね、私にはそんな記憶はないよ、生まれる前に悲惨だったなんて。君がもっといい記憶力をもっているのなら、君が覚えていることを知りたいものだよ。
(7.13)そうやってご冗談を。生まれてこなかった人々は悲惨で、亡くなられた人々はそうじゃないとまるで私が言っているようじゃないですか。
要するにそうだと君は言っているのだよ。
全然違います!かつていたけど亡くなってしまったから悲惨なのだと言っているのですよ。
そりの合わないことを君は言っているのに分からないのかい?これ以上齟齬することなんてあるかい、いない人が悲惨であるというだけじゃなくとにかく何ものかであるなんていうことよりも?それとも、カペナの門から出てカラティヌスやスキピオ家、セルヴィリウス家、メテルス家の墓を見ると、君はあの方々が悲惨だと思うのかね?
あなたが私を言葉で追い詰めるので、これからは「悲惨である」という言い方はしないでただ「悲惨だ」とだけ言います、彼等はいないのですから。
そうすると、「マルクス=クラッススは悲惨である」ではなくただ単に「マルクス=クラッススは悲惨」とだけ言うのか?
その通り、まさしく。
(7.14)ただそういう言い方をすればそれが事実そうで「ある」かそれともそうで「ない」かどちらかである必然性はないとでも言うようだね!それとも、君は弁証法を全く身に着けていないのか?というのも、最初にこのことは教えられるのだから。文は全て(こう今私はギリシャ語の「命題」を呼ぼうと思いついたのだが、もっといい語が見つかればそっちの方を用いようと思うがね)、ええっとそれで、真であるか偽であるかどちらかなのが命題なのだ。だから、君が「マルクス=クラッススは悲惨」と言うなら、この表現で君は「マルクス=クラッススは悲惨である」ということを言っていて、だからそれが真であるか偽であるか判断することができるのか、さもなくばてんで無意味なことを言っていることになるよ。
それでは、しょうがない、亡くなった方々は悲惨ではないと認めます、全くいない人が悲惨であることはありえないと認めるようにあなたが無理強いしたからですが。ではどうでしょう?我々は今生きていますが、いつか死なねばならないとしたら悲惨ではないでしょうか?つまり、人生に何の喜びがありえるでしょう、昼も夜もいつもいつも「死ななきゃならないんだぁ」と考えざるをえないとしたら。
(8.15)ともかく、そうなると、分かっているのか、人間が置かれている状況からどれだけの災悪を君が取り除いたかを?
え、どういうことですか?
というのはだ、既に亡くなった人々にとっても死は悪いものなら、全く終わることのない永遠の悪を我々は生きながらもっていることになる。でも今、ゴールは見えていて、そこまで走り切ってしまえばそれ以上恐れなきゃいけないものは何もないのだ。ところで、君はエピカルモスの言葉に、シケリア人はそういうもんだと言われているように鋭くて趣味の悪くない人だが、従っているように僕には見えるな。
どの言葉にですか?いや、分からないもので…
なら言ってあげよう、言えるものならラテン語で言おうか。というのは、君も知っての通り、ラテン語の話の中でギリシャ語を使うのは、ギリシャ語のそれの中でラテン語を使うのと同じくらい、私にとっては特別なことだからね。
えぇそれでいいのです。それはともかく、エピカルモスのその言葉というのは一体どれですか?
死んでしまうのは嫌だが、私が死ぬとしても何ということもない
あぁそれですか、ギリシャ語の方も分かります。それはそうと、私を追い詰めて、亡くなった人々は悲惨ではないのだと認めさせたのですから、死なねばならないということは悲惨なことでもなんでもないという御説を、できるものなら、仕上げてください。
(8.16)いやもう、こんなことは全然造作もないことでね、この私にはむしろもっと重大な問題があるのだよ。
どうしてこれが造作もないことですか?それなら、そのもっと重大なことというのは一体何ですか?
こういうことだ。死後何ら災悪はないのだから死はそもそも悪いことではない。死のすぐ後に来る時はもちろん死後期間だけど、そこには何の悪いこともないと君も認めるのだからね。こうして、死なねばならないとしてもそのことは全然悪いことではない。つまり、悪いものではないと我々も認めるものへと去っていくということなのだよ。
もっとその点を、お願いします。だって、この議論は微細すぎて同意する前に承認するよう私を無理強いするからです。それはそうと、何なのですか、あなたが取り組んでいるというもっと重大な問題というのは?
できるものなら、悪いものではないだけでなく、死は善いものでさえあると説くことなのだが。
そんなことまで論じてほしいとも思いませんが、でも聴きたくはあります。あなたのお望みのこのことは成し遂げないにしても、それでも死は悪いものではないという御説の方は仕上げてくださるでしょうし。とにかく、あなたを遮らないことにします。引き続きお話をうかがいたいという気持ちの方が強いです。
(8.17)どうだろう、君に何か質問をしたら?応えてはくれないかね?
それは実に傲慢なことですが、でも何か必要なことがないとしたらむしろそういうことを訊ねられるのは気が進みません。
(9.17)君の意に沿ったやり方をして、君の聴きたいことをできるだけ説明することにしようか。でもピュティアのアポロンみたいに、確実不動なことを私は語ったんだ、という風にではなく、その他大勢のつまらん一員として「確からしい」ことを推測によって探求するようにやりたい。「真理に近いと思われる」ということを越えて進むためのすべを私は持っていないのだから。確実なことを語るのは、そういうことを「把握」できると称し、賢者の一員と自認する人々だ。
あなたの流儀でいいのです。我々は聴く用意ができています。
(9.18)さてさて、非常に名高いものだと見える死そのものが何であるかということをまず見よう。つまり、魂が肉体から離脱することが死であると主張する人々がいるし、こういう離脱を全く認めず、魂と肉体は同時に潰えて、魂は肉体の中で朽ち果てるとする人々もいる。魂の離脱を認める人々にも、[魂は離脱後]即座に分解する、否長期間存続している、否永続する、と様々な人々がいるのだ。さらに、魂そのものが何であり、どこにあって、何に由来するのかということにも多大な異見がある。心臓自体が魂であると考える人々もいて、そこから「心ない連中」「邪な心の者たち」「心の友」といった言い回しがなされ、それからあの二度も執政官を務めた賢明なナシカが「心の広いお方」と言われたのもそうだし、さらには
甚だ心気高き人、鋭きアエリウス=セクストゥス
といったことも語られるというのだ。(9.19)エンペドクレスは魂を心臓を流れる血液だと考えている*。脳のある部分が魂の主導的な部位だと思っている人々もいる。心臓そのものや脳のある部分がそのまま魂だとは思わないが、魂の位置する場所は心臓であると言う人々もいたし、脳だという人々もいた。さて、魂とは気息であると、恐らく我々もそうだが、言う人々もいる。名がそれを表しているというのだ。つまり、「末期の息を吐き出す」「息を引き取る」「気力に満ちた人」「気のよい人」「気心のこもった言葉」とか我々は言うではないか。それはそうと、魂という言葉そのものも気息というそれから語られているのである。
*DK未収。理由不明。
↓
Cicero,TD.1.9.19=SVF.1.134
ストア派のゼノンは精神は火であると考えている。
↓
(10.19)しかし、今言ったこれらの説、つまり心臓であるとか脳であるとか、気息とか火とかいうのはありふれたものだが、それ以外の説は恐らく個々の人々が語ったことである。はるか*昔に古人たちが語ったように、さて最近ではアリストクセノスが、この人は音楽家であるとともに哲学者でもあったのだが、身体そのもののある種の緊張が魂であり、歌曲や器楽でギリシャ語の「調和」と呼ばれるものと同様だと言っている。このように、身体全体の本性と形態から様々な運動が引き起こされるのであり、それは歌曲で音声が発せられるのと同様だというのだ。(10.20)この方は自分の学芸[の立場]から一歩も譲らず、しかしそれでも何か意味のあることを説いたのである。そのことがそもそも何かということはずっと昔にプラトンによって語られ詳しく論じられてはいるが。クセノクラテスは、魂の形相などというものはなく、全く物体的なものでもないとし、むしろ数であって、その力は、既に昔ピタゴラスがそう考えたように、自然のうちでも最高の地位にあると考えた。この方の師匠プラトンは魂を3部分のものとし、その主導的部分、つまり理性、を天蓋のように頭に置き、残り2部分がそれに従うのを望んだのであり、それら、つまり気概と欲望、の場所を分けたのである。すなわち、気概は胸に、欲望は横隔膜の下に位置付けたのであった。
*底本通りmulto。
(10.21)ところが、ディカイアルコスは、設定場面をコリントにし3巻本の形で表されたあの議論で、第1巻では教養のある探求者たちを大勢話者としたのである。残り2巻ではプチアのある長老ペレクラテス、デウカリオンの末裔だと言われているが、を話してとして導き入れ魂などというものは全くないのだと言わせている。そして、「魂」というこの名は全く空虚なもので、「魂のあるもの」「霊魂をもつもの」というのも何の根拠もなくそう言われているにすぎないというのだ。人間の中には精魂も霊魂もなく、獣にもそうで、我々が何かをなしたり感覚したりする能力は全て、生きている間は全身に等しく散らばっていて肉体から分離されることができない。つまり、本性の混合によって活動し感覚するようになっている単一の肉体がなければ魂など全くなく、何ものでもないのである。
(10.22)アリストテレスは、才能と勤勉さにおいて全ての人(と言う場合プラトンは常に例外とされる)をはるかに凌駕しているが、周知のあの4類の原理を組み合わせ、それらから全てのものが生ずるとした後、ある第5の本性があると認め、それから精神があるのだとした。なぜなら、思惟すること、予期すること、教え学ぶこと、何かを見いだすこと、さらにたくさんのことを記憶すること、愛憎すること、欲求し恐怖すること、苦痛を感じたり喜悦したりすること、こうした類似のことはあの四つの類のうちのどれにも備わっていないと彼等は考えたからである。彼は第五類を名前のないまま用いて、魂そのものは「持続態」と新語を用いて呼んだのである。それが持続的で途切れのない運動であるかのように。
(11.22)仮に私が忘れているものがなければ、ほぼ以上が魂に関する諸説である。というのは、デモクリトスは、あの方も確かに偉大な人物だが、軽く丸い微粒子が何らか偶然に集積したのが魂だとしているので、放っておこう。と言うのも、あの方々の下には原子の寄せ集めからできたものしかないのだから。(11.23)こうした諸説のうちどれが真実なのかはどなたか神様が見てくださるだろう。真理に近いのはどれか、これが大問題なのだ。それでは、これら色々な見解の間で決着をつけた方がいいだろうか、それとも[死に関する]問題に戻った方がいいだろうか。
本心を言えば、両方してほしいです、できるものならば。でも、二つ同時にするのは難しいことです。だから、こうした諸説を論じないでも死の恐怖から我々が自由になりうるものなら、そっちをしましょう。魂に関するこうした問題が解明されなければそういうわけにはいかないというのなら、よければ、今はこっちの方を論じてあのことはまたの機会としましょう。
君がしてほしいことは分かる。そっちの方がむしろ好都合だと思う。というのも、論議をすれば明らかになることだから、以上述べたこうした諸説のどれが正しいかは。つまり、死は悪いものではないのか、それともむしろ善いものであるのかということは。(11.24)つまり、心臓や血液や脳が魂なら、これらは物体なのだから、間違いなく残りの肉体とともに滅びてしまうことだろう。霊気だというのなら多分四散するのだろう。火なら燃え尽きるだろう。アリストクセノスの言う調和だとしたら解消されるだろう。ディカイアルコスについては何を言えばいいのだろう、魂など何もないと彼は言うのだから。こうした見解によるとみな、死んだ後は誰にも何も残されえない。つまり、生命と同時に感覚も失われるのである。しかし、感覚をしないものには全く何の区別もなくなってしまうのだ。残りの人々の見解はまだ希望を与えてくれる、もしそういう言い方が君のお気に召すのなら。つまり、魂は肉体から撤退した後、空に、まるで自分の故郷に帰っていくように、帰還するということもありうるというのだ。
本当に、そういう希望があるものなら嬉しいです。まずそれがその通りであってほしいものです。次いで、たとえそうでなかったとしても、そう説得されたいものです。
それなら、何故我々の助けが必要かね?一体、我々が雄弁さでプラトンを凌ぐなどということができようか?彼のその本を、魂についてのものだが、丹念に繙いてみたまえ。それ以上君は何も足りないと思わないだろう。
はい、もうしました、何度もです。でも、どうしてかは分かりませんが、読んでいる間はなるほどと思うのに、本を置いて自分自身で魂の不死について考え始めるとあの気持ちは全部流れ落ちてしまうのです。
(1.11.25)ではこの点はどうだろう*。人々の魂は死後も残るか、さもなくばまさに死によって滅び去るかどちらかであるということは認めるかね?
*Quid hoc?と読む。無論大差はない。
もちろん認めます。
残るとしたらどうだろう?
幸福であると認めます。
滅びるとしたら?
悲惨ではありません、全く存在しないのですから。もうこのことはあなたに強いられてさっき同意しました。
では、どうやって、また何故、死が悪いものに思えるなどと言うのかね?それで、もし魂が死後も残っているなら、我々は幸福になるわけだし、そうでなくても、感覚がないのだから、悲惨なことにはならないよ。
(1.12.26)そう言うのなら説明して下さいよ。面倒でなかったらでいいです。まず、できるものでしたら、死後も魂があり続けるということをお願いします。次は、それがうまくいかなかったら(何しろ難しい問題ですから)、死には何も悪いことはないと、これは教えてくれないと困ります。というのも、この私が恐れているのはまさにこのことでして、つまり死は悪いことではないのか、つまり感覚がなくなるということではなくて感覚を失わなければならないということが災悪ではないのかということなのですから。
なるほど、君が固めたがっている意見には権威をそれも最高のものを用いることができるな。この、有力な権威を持ち出すということは、全ての場合に多大な力をもつべきものであって、またそれが慣わしでもあるのだが、実に古代全体が何よりもその権威として用いられるのだ。古代といえば、そもそもの始まりと神々の出自に近い生まれであればあるほど、真理であろうことを恐らくよりよく知りえたであろうから。
(1.12.27)こうして、まさにこの一点はあの古人たちに刻み込まれているのだ。彼等のことをエンニウスは「白髪の古人たち」と呼んでいるがね。つまり、死んでも感覚はあるのであって、人生から退出したからといっても人は何もかも拭い去られて、すっかり何もなくなってしまうということはないというのだ。このことは、他の沢山の証拠もそうだけど、神官法や埋葬の儀式によっても理解されることができる。そうでなければ、最高の才能を備えた人々がこれを大変な配慮を払ったり、取り返しのつかない罪悪感を盾にとってそれを汚さないように禁止したりはしなかったではないか、死は破滅ではなくて全てを滅ぼして拭い去りなどしないということが彼等の心にしっかりとなかったならば。むしろ、死は何か人生の移住や配置換えのようなもので、聡明な男女の場合には天への導主があるけれど、その他の人々は地面に留められて、しかしそれでもとにかく生き続けることにはなる、というのだ。(1.12.28)こうしたことから、また(エンニウスが言い伝えに従って語ったように)「ロムルスは天で神々とともに生を過ごしている」という我々の信条からも、まずギリシャで、次にはわれわれのところまで、そしてついには大西洋にまでその名を轟かせたヘラクレスはかくも偉大でこれほどまで優れた神とみなされているのである。ここからして、セメラの子リベルも、テュンダリウスの兄弟たちも、同じくらい名声のある言い伝えに与っているのだ。後者は、ローマ市民戦争で援軍となったばかりか伝令でさえあったとされている。ではどうだろう?カドモスの娘イノは、ギリシャではギリシャ語でレウコテアと名付けられているが、我々の下ではマトゥータと言われているのではないか?さらにどうだ?天のほとんど全体が、これ以上例を辿るのはやめよう、人間の種族で満員なのではないか?(1.13.29)もし実際に、古い言い伝えを調べ上げ、ギリシャの著作家たちが著したものを穿り返すつもりがあれば、主要な神々とされている方々も、この我々の下から天に向かわれた人々だといういうことが明らかになるのだ。ギリシャでどなたの墓が挙げられるか調べたらいい。それに、君は秘儀を受けたのだから、密犠によって何が伝授されるかを思い出すといい。そうすれば、このことがどれだけ広く行き渡っているかそのうち分かるだろう。しかしながら、長年経ってから人々が懸命に追求しだした自然学をまだ修めていない人々は自然という指示者(忠告者)から知られることだけしか信じられず、しばしばある種の視覚(表象)に動かされて、とりわけ夜のそれならなおさらのこと、他界された人々がまだ生きていると思ったのだ。
(1.13.30)さらに、神々が存在すると何故我々は信じているのかということにこの点が最も確かな論拠として用いられているように思われる。つまり、神々に関する考えが精神にしみこんでいないほど野蛮な種族もなければ、それほど愚かな者も種族には誰一人いないということだ。(多くの人は神々について歪んだことを考えているが、それは邪悪な習慣によって作り上げられるものであって、逆に全ての人々は神聖な能力や本性を認めているのだ。そしてそれは人々が相談したり同意を取り付けたりして作ったものでもなければ、制度や法規で固められた意見でもないのだ。それにも関わらず、全ての事柄に妥当することだが、全ての種族が同意するならそれは自然の法と言われねばならないのだが)そうであれば、身内の人々の死を嘆く理由がまず第一に、彼等は人生の様々な便宜を奪われると言われているからだというのではない人が誰かいるだろうか。この見解を除きたまえ。そうすれば悲嘆も君は取り除くことになるだろう。というのは、[その場合]誰も自分が不便宜を被るから嘆くわけではないのだから。彼等は恐らく苦痛にさいなまれ苦しんでいるだろう。しかしあの悲しい嘆きや悲嘆に満ちた嗚咽が生ずるのは、我々が愛した人々が人生の様々な便宜を奪われて生きており、そのことを実感していると思うからなのである。そして、こうしたことが本当だと我々が感じるのは自然に導かれてのことであり、何ら理論や教説に従ってのことではないのである。(1.14.31)実際、最大の論拠は自然そのものが魂の不死について、物言わぬながらも、判断していることであって、つまり全ての人々にとっての関心事それも最大のものは死んだその先に何があるのかということだということがそれなのである。「人が木を植えるのは次の世代に役立つようにとのことなのだ」と『若い仲間たち』の中でスタティウスが言っているように、そういうことをする人が念頭に置いていることは後の世代に役立つようにということでなければ何であろうか。故に、心配りのある農夫は木を植えるが、その実を自分が得ることは決してないのである。そして、偉大な人物は法規や制度や国家を植えるとは言えないだろうか。子供をもうけること、名前が続いていくこと、養子縁組をすること、細心の注意を払った遺言、そして墓に刻まれた碑銘そのものも、我々は将来のことまで考えているのだということでなければ何を表しているのだろうか。
(1.14.32)ではどうだろう。あのことをまだ君は疑うのか。[人間の]本性の模範は何か最高の本性から理解されるべきであるということを。だから、人間という種族の中でこれ以上優れた本性をもつ者がいるだろうか。自分が生まれたのは人々を助け、守り、保護するためだと考えている人々以上に。ヘラクレスは神々の元に行った。しかし、彼が人々の間にいた間にその道を自分で築き上げたのでなければ彼は決してそこに赴けなかっただろう。(1.15.32)この伝説はもう古いものだが、全ての種族がその宗教によって神聖視している。話をこの国家に移すと、あれほど優れたあれだけ多くの人々が国家のために実を捧げたのは何を考えてのことだったと我々は考えているか。彼等の名前が、人生を区切るその同じ限界で区切られたとでもいうのか。不死に対する大きな希望がなければ誰も自らを国家のために死に曝したりはしなかったであろう。(1.15.33)[もう国家に充分貢献したので]テミストクレスは余暇を許されてもよかったし、エパメイノンダスもそうだった。古い、異国の例を持ち出したくないので言うが、私だってそうだったのだ。しかし、何故かは分からないが、心には未来の世代の予兆のようなものが何かこびりついて離れないのである。このことは、最大の才能を備えた最も高潔な魂に最もよく現れているし、簡単に見て取ることができる。実際、これがなければ、常に労苦や危険の中で生きようとするほど馬鹿な者などいたはずがない。
(1.15.34)今私が言っているのは政治の指導者だが。どうだろう。詩人たちも死後に賞賛されることを望まないだろうか。そうすると、あの詩句は何に由来するのか。
見よ、おぉ市民たちよ、老エンニウスの描く姿の形を
この方は君達の祖国がなした最も偉大なことを詩に詠んだのだ
名誉という報いをこの人は求めているのだ、祖先が名誉を渇望した人々から。また同じ詩人によると
誰も私を涙で飾らないでくれ。弔いを嘆き声で
進めないでくれ。何故に?私は人々の口を飛び回り、生きているのだ。
しかし、何故詩人たちのこと[だけ]を言わねばならないのか。職人たちも死後に名声が広まるよう望むのである。というのも何故、ピディアスは自分の似像をミネルヴァの盾に描き込んだのか、名前を刻むのを禁じられた時に。ではどうだろう。我々の語る哲学者たちも自分の著作に、名誉をけなすためにそれを書いたのにね!、自分の名前を書き入れているのではないか。(1.15.35)しかしもし、万人の同意は自然の声であり、どこの人であれ全員が一致して、人生から退出した人々の持ち物が何かあるとするのであれば、我々もまた同じように考えるべきである。そしてもし、才能や徳の故に魂が卓越している人々は、我々がそう論じているように、最高の自然に与る以上、自然の最高の力を見分けるのであれば、真理に近いのは、誰であれ最高の人は後代への最大の名声を備えているのだから、こうした人が死後も感覚を持ち続けるだろう何かがあるということなのだ。
(1.16.36)さて、神々の存在を本性上我々が信じ、彼等がどのような性質のものであるかを理性で我々は認識するように、魂が永続すると我々が信ずるのも全ての民族の同意を通じてであるし、どんな座に魂が留まり、そこでどうなっているのかということも理性によって弁えねばならないのである。こうしたことに関する無知が地獄だのそうした恐怖だのを作り上げたのだ。君はこれを非難しているようだが、それはちゃんとした理由のないことではないのだよ。というのは、肉体が大地に倒れるとその人は土くれに包まれるのだが(そしてここから埋葬ということが語られているのである)、そこからして地下で死者達は余生を送っていると人々は考えたのである。彼等の見解を導き出したのも多大な錯誤であり、それを増長したのが詩人達だった。(1.16.37)つまり、劇場にいる大勢の観衆は、その中には少年少女もいるのだが、こうまで重々しい詩歌を聞いては動揺するのである。
私がここにいるのは、アケロンからようやっと着いたのだ、険しく厳しい道づたいに
おそろしく重くのしかかる荒々しい岩を積み上げた洞窟を通って
そこではどうしようもないほど濃密な暗闇が冥界を作りなしている。
この虚偽はこれほどの力をもっているのだ。しかし私にはもはや潰えたように思われるが。それで人々は、亡骸が荼毘に付されたことは分かっているのに、このことが冥界でも行われると思い描くほどなのだ。肉体がなければ起こりえないし考えられないことではあるが。というのも、人々はそれだけで生きる魂というものを心で理解することができないので、何か形や姿を求めてしまうのだ。こうしたことを基に、ホメロスの[ギリシャ語で言うところの]亡者譚が成り立っているわけだし、そしてまたこれを基にして私の友人アッピウス君も[ギリシャ語で言えば]『亡者の審問』を作ったし、我々に身近なところではアヴェルヌス君が『池』を書いたのだ。
そこから魂が沸き上がる、暗い影に覆われて、亡者の
亡霊が、アケロンの深い口、血の海から。
ところで、人々はこうした亡霊達が言葉を話すと思っているが、そんなことは舌や口蓋がなければありえないし、喉や胸や肺が形をもち働いてくれないとできないことだ。つまり、彼等は心では何も見ることができず、全てを肉眼に結びつけてきたのだ。(38)しかし、精神を感覚から引き上げ、思考を習慣から引き離すことは多大な才能のある人でないとできないのだ。何世紀にも亘って他の人々もこう言ってきたとは確かに私も信じているが、しかし文書から明らかな限りではシュロスのペレキュデスが最初に人間の魂が永続するものであると言ったのだ。確かに古い方だ。なにしろ、私の氏族が王位にあった頃のことだから。この見解を最も強力に主張したのは彼の弟子ピタゴラスである。この方は、スペルブスが王であった頃にイタリアに赴きあの大ギリシャを擒にしたのだ、その教説とともに*、さらにはその影響力にもよって。その後、多くの世代に亘ってピタゴラス派という名前はそれほど有力なものとなったので「ピタゴラス派にあらずば学者にあらず」と思われるほどだったのである。(1.17.38)それはともかく、話を古いピタゴラス派に戻そう。あの人々は彼等の教説にほとんど説明を与えることがなく、数や幾何学図形によって説明されうるものは何かということしか述べなかった。(1.17.39)言い伝えでは、プラトンはピタゴラス派と知り合うためにイタリアに赴き、彼等の全ての教説を学んだ後、魂の不滅について、ピタゴラスと同じ見解をもっただけでなく、それに初めて説明となる根拠をも与えた、ということだ。この説明については、君に異論がなければ、そのままにしておこう。そして、不死に対する希望も全てそのまま残しておこうではないか。
*ポーレンツに従う。ただし、ドゥーガン+ヘンリー等の提案でも大意に大差はない。
ではあなたは、私を最高の希望に駆り立てておきながら、放り出すのですか。神掛けて、私はプラトンと共に誤りを犯すことをむしろ望みます、たとえ正しいことでもあんな[魂の不死を信じない]連中と一緒に信じるくらいなら。プラトンをあなたがどれほどのお方とみなしておられるかは知っていますし、あなたからお話をうかがうと驚嘆するばかりです。
(1.17.40)そりゃいい!というのは、この私自身もまさにこのお方と誤りを犯すのにやぶさかではないからだ。それならどうして疑いを抱くことがあろう。他の多くのことならともかくも*。このことだけは全く疑う余地がない。つまり、学者達が説くところでは地球は宇宙の中心に位置していて、全天球という囲いに対していわば点のようなものを保持しているのだ。この点をあの人々はギリシャ語で中心点と呼んでいる。さらに、生成する物の本性は全部で4つであり、それぞれに運動法則が分け持たれ分割されているかのように、土の本性と水の本性はそれ自らの落下運動と重量で鋭角に大地や海に運ばれるのに応じて、残りの2つの本性(つまり一つは火のもう一つは気のそれ)は、あの上述のものが宇宙の中心部に重力や重さによって運ばれるように、逆にこれらは直角に天上に昇っていくというのだ。本性そのものがより高いものを求めるからなのか、本性上より軽いものはより重いものによって押しのけられるからなのか、それはともかくとして。以上の事柄がその通りだとすると、次のことは自明でなければならない。つまり、魂が肉体から退くと、それが気つまり気息の性質を持つにしろ火のそれを持つにしろ、上方に運ばれるのである。(1.17.41)だから実際、魂が本当に数だとすると(この説は明白な主張というよりはただ細かいだけのものだが)、あるいはあの第5の本性(これは未知のものというよりはむしろ今まで名前がなかったものにすぎないが)だとすると、これははるかに完全で純粋なものでもあるから、大地をはるか遠く離れて運ばれていくのである。だから、これらのどれかが魂なのである**。これほどまでに活発に活動する精神を心臓や脳や、エンペドクレスの言う血に縛り付けられたままのものとしないのであれば。(1.18.41)実際問題、ディカイアルコスや、彼の同世代人で弟子仲間でもあるアリストクセノスは、実際学のある人ではあるが、おいておこう。彼等の一方は、自分が魂を持っていることに気付かないとしても全く何の苦痛も感じない人であるようだし、もう一方は自分の音楽の調べに魅了されるあまり、それをこの問題にまで応用しようと思ったのである。しかし、音の感覚からなる調和を我々は知ることができない、それらの様々な組み合わせがさらに多くの調和を作り出すのだが。実際、手足の位置や体の姿勢が魂なしでどうやって調和を作り出せるのか、私は判らない。ともかく、この方は、どれだけ教養深い人であろうと、まぁ実際そうなのだが、こうした問題を師匠のアリストテレスに譲って、自分は音楽のことを教えてもらいたい。というのも、ギリシャ人のあの諺からうまい忠告が得られるからだ。「各人が修めている技術に励むがよい」(1.18.42)全く、分割不可能な軽く丸い物体(原子)が偶然に邂逅するというあの見解をすっかり片付けておこう。デモクリトスは燃えさかる気状の、つまり気体の(呼吸に関わる)原子だと主張してはいるのだが。
*文脈を反映させようとすれば、解釈によって様々な意味にとりうるが、とりあえずそのまま訳しておく。
**est等を補う提案に従うが、そのままでもこう読めないことはない。
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Cicero,TD.1.18.42=Panaetius 82Straaten
しかしそうだとしても、この精神がそれらから全てのものが成り立っていると言われる[原子の]これら4つの種族に属すなら、魂は燃えるそれから成り立っており、とりわけパナエティオスにはこう思われたように思うが、必然的により高いところを熱望するのである。なぜなら、これら2つの種族は何ら沈下するものをもたず常により高いものを求めるからである。
↓
そういうわけだから、魂が四散するとしても、大地から遠く離れてそのことは起こるだろうし、あるいは留まってそのあり方を保つとしたら、より一層必然なことはこのこと、つまり魂は天空に運ばれて、大地に最も近いこの厚い凝縮した空気はこれによって分け入れられ分かたれるということなのだ。なぜなら、魂[の原子]はこの空気よりもより熱くもっと熱を持ったものだからだ。「この空気」というのは先程「熱い凝縮した空気」と言ったもののことだが。このことは次のことから知ることができる。つまり、我々の肉体は土的な種の原子から成り立っていて、それが魂の火によって熱せられているのだ。
19
(1.19.43)これに加えるに、魂がもっと容易にこの空気(もうしばしばこう言っている[からこの語を用いることにするが])から逃れてそれに分け入る理由はこうだ。魂よりも速いものは何もなく、魂の素早さと対抗しうる素早いものも何もないからである。それが不滅なままであり、自分自身に似たものであり続けるなら、必然的に、それが運ばれるとこの空(気)全体に分け入ってそれを分かつのである。この空の中で雲や雨や風が駆り立てられるのだが、この空が湿って霧に包まれているのも大地の呼吸のためなのである。
この領域を魂は超え出て自分に似た本性に達しそれを知るのであるから、微細な魂に由来する火と穏やかな熱を持つ太陽からのそれが一つになるところに留まって、そこをより高みに向かうことの終点とするのである。つまり、自分に似たもの、つまり軽く、暖かいものを得る時、あたかも秤にかけられたけれども重さが等しいのでどちらにも傾かない場合のように、それが魂にとってついに自然な座席となるのである、自分に似たものの中に入っていくのだから。そこで、何も欠くことなく、天体も維持され養われているのと同じもので養われ維持されるのだ。
(1.19.44)また、我々は肉体という松明に焚き付けられてほとんど全ての欲望に向かうのが常であり、我々が持ちたいと思うものを持っている人に対抗意識を燃やすほどより一層燃え上がるものであるから、肉体から解放されて欲望や対抗意識と無縁なものとなるなら、全く幸福なことだろう。煩いから解き放たれた時、その時にこそ我々がすることもあるのであって、つまり何かを観察し見てみたいと思うのである。まさにその時に我々はこのことを最も自由になすのであり、我々に関わりのあること全てを物事の観想と観察に置くであろうが、それはまさに本性上我々の精神の中に、真理を見ることへの飽くことのない欲求が内在しているからであり、さらには我々がいずれ入るであろうあの場所の領土が認識へのより大きい欲求を与えてくれるからなのである、天体の認識が我々にとってより容易になればなるほど。(1.19.45)つまり、この[天体の]優美さが大地においてさえ、テオプラストスも言うように、あの「父祖伝来の」「祖先から受け継いだ」哲学を認識の欲求によって燃やして駆り立てたのである。まさしく、この哲学を教授したのも主として、この地上に住み闇に囲まれた時にさえそれでも鋭い精神で物事を見通そうという欲求を持つ人々だったのだ。
(1.20.45)さて、ポントスの門や、
アルゴスよ、選び抜かれたアルゴスの男達がその中に
運ばれて黄金の羊の毛皮を探し求めたのだから、
こう呼ばれるその[舟]が通ってきた海峡を見た人々、あるいは「エウロパとリビアを、切り裂く水が分けるところ」、大洋のあの荒波を見た人々が何か大変なものを手に入れたと言い張るのなら、一体どんな光景があると我々は言ったものだろうか、地球全体を見ることができるようになり、その位置や形、限界とともに、人の住める地域も、逆に暑さや寒さが猛威を振るうために全て耕作がなされないところも見られるとすれば。(1.20.46)というのも、我々は今でも、見ているものを目で見ているわけでは全くないからである。つまり、肉体には何ら感覚[そのもの]はなく、自然学者だけでなくこうしたものそのものを開いてあからさまに見ている医者達もまたそう説くように、むしろある種の通路が魂の座から目や耳や鼻へと開けられている[だけな]のである。そして、病的な思考や病気の何らかの力に妨げられると、目や耳が損なわれておらず開いていても我々は見も聞きもしないが、丁度それと同様のことだと容易に理解できるだろう。精神が見たり聞いたりするのは精神の窓のようなものであるあの部分によってではないのだ。そういうものによっては魂は何も感覚できず、精神がそのことに臨んで作用せねばならないのだ。ではどうだろう、同一の精神によって我々が、色、味、熱、匂い、音と異なるものを把握するということはどうだろうか?こうしたものを精神はこの5つの伝令によって認識するわけでは決してなく、全てのものは精神に結びつけられねばならず、この精神こそが万事の唯一の判断者でなければならないのだ。そして間違いなく、こうしたものがはるかに純粋にかつ明白に認識されるのは、自然が許す範囲で、魂が自由になる時なのだ。(1.20.47)さてつまり実に、肉体を通じて魂に通じているあの穴を非常にすばらしい技量で自然は備え付けたのだが、しかしながら肉体は土的であり分厚いのでそれによってある仕方で妨げられるのである。だが、魂以外に何もないということになれば、じゃまだてするものが妨げるということもなく、何であれあるがままを認識することができるのである。
(1.21.47)できるだけたっぷりとこうしたことを語ろうじゃないか、事情が許すならばね、どれほど多くの、どれほど色々な、どんな光景を魂は天という場所で得るだろうかということを。実際、こうしたことを考えると私はいつも驚くのだが、奇矯なことをする哲学者たちもいないわけではないのだ。彼等は自然に関する認識に驚嘆し、それを考案して治める者に感謝して舞い上がり、このものを神の如く褒めそやすのである。というのも、彼等の言うところでは、彼のおかげで[神という]最も過酷な主人から自由になり、終わりのない恐怖や日夜の憂いから解放されたからというのだ。どんな恐怖から、どんな憂いから解き放たれたというのか?老婆だってそんなに浅はかなものだろうか?自然学を学ばなかったら間違いなく君等が恐れるようなものを恐れるなどということがあるか?「アケロンの高い冥界神殿。死に青ざめた、闇に覆われ雲深い所」とか。大体恥ではなかろうか?哲学者が「こんなものは怖くない」だの「そんなものは偽りだと認識した」だのと得意になるのは。ここからして元々自然なままでも人々がどれだけ鋭いか分かるというものだ。こんなことなんか教義を教わらなくても納得するだろうからね。(1.21.49)ともかく、なぜだか知らないが、人々は明白な事実を手に入れているのだ。死の時が近付くと人々は全ては滅びるであろうと自ら学ぶということを。それがそうだとしても(というのも私に異論はないからね)、どうしてこんなことが悦に入ったり得意になるほどのものか?ところが確かに、ピタゴラスやプラトンの教説が真実でない理由が私には全く思い浮かばない。というのも、プラトンが何の説明も与えなくとも(この人に私が何を帰せばよいか見てくれたまえ)、このお方はその権威だけでも私を畏怖させるのだ。ところが、このお人はかくも沢山の理論をもたらしてくれた。それは他の人々を説得したいと思ったからであり、彼自身は確かに説得されてしまったようだ。
(1.22.50)しかし、多くの者達は反対のことに躍起になって、自分の首で罪を償う者のように魂を死刑にするのである。何のことはない、彼等にとって魂の永続が信じがたいのは、他でもない、彼等は肉体のない魂というのがどのようなものか理解できず、考えを働かせて把握することもできないからにすぎない。全く、まさにその肉体の中にあればどんなものか分かるとでもいうようだ。形も大きさも場所も、それならば分かるというのだ。例えばどうだ?生きている人において、今は隠されているものがもう全て認められるとしたらどうなる?魂は目に見えるところに現れるだろうか?それとも、視覚を逃げるほどそれは微細なのだろうか?こういうことをその人達は考えるべきだろう。魂は肉体なしでは理解できないというのであれば。実際、魂の本性を探求している私にははるかに晦渋で曖昧模糊とした問題のように思えるのだ。よその家のような肉体の中にある魂がどのようなものかなどということは。肉体を離れて、自分の住処のような自由な空にある時、魂はどのようであるかということの方がまだ分かりやすい。というのも、全く見たこともないものが一体どのようなものか理解できないとしても、それこそ神様や、肉体から解放された神の如き魂を我々は思考を働かせて捉えることができるのだから。実のところ、ディカイアルコスやアリストクセノスは、魂が何でありどのようであるかということの理解が難しかったものだから、魂など全く存在しないと言ったのだ。(1.22.52)まさしく、魂が魂自身でものを見ているというあのことはあるいは最も大事なことなのだ。そして疑いなく、アポロンの教えもこういう意味をそなえている。それは、誰であれ自分のことを知るように説いているのだ。つまり、思うに、この教えが説くのは我々の肢体や身長、体形を知れなどということではない。肉体が我々なのではないし、こういうことを君に話しているこの私も君の肉体に話しかけているのではない。だから、「汝を知れ」と言われる場合、言われているのはこういうことだ。つまり、「君の魂を知れ」ということである。要するに、肉体は魂の入れ物あるいは受け皿なのだ。君の魂から何ごとかなされるなら、それが君の行為なのである。だからここからして、神的なものを知りえなかったならば、誰でもいいがもっと鋭い魂の持ち主のこの教えが神に捧げられることもなかったろう。
(1.22.53)しかし、魂がどのようなものかを他ならぬ魂が知らないとすれば、どうか言ってくれたまえ、魂は自分が在るということも動いているということも全く知らないのではないのか?ここからプラトンのあの教説が生まれたのだ。それはソクラテスが『パイドロス』の中で詳しく述べているし、私も『国家論』の第6巻にそれを述べた。(1.23.53)「常に動いているものは永遠である。しかし、他のものに運動をもたらすものや自らが他のものから動かされるものは、運動が終わる時、その生命も終わるのが必然である。それ故、自分自身を動かすものは、自分自身から見捨てられない以上、いかなる時も動くのをやめることがない。いやむしろ、他の動かされるものにとっては、このものこそが運動の源泉であり始源なのだ。(1.23.54)しかし、始源には何の始まりもない。つまり、万物は始源から生ずるが、始源そのものが何か他のものから生じるということはありえない。なぜなら、他のものから生じたのであれば、それは始源ではなかったろうから。生じることが決してないとすれば、滅びることも決してない。なぜなら、始源が滅びたら、始源そのものが他のものから再生することはないだろうし、自ら何か他のものを生むこともないだろうから、万物が始源から生じるのが必然だとすれば。自らが自分から動かされるものから最初の運動は成り立つということになる。しかし、このものは生まれることも滅びることもありえず、必然的に全天空が一緒に滅びるか、全ての自然が成り立ってはいるが、最初に突き動かされたものを動かした力に遭遇することがないということになる。それ故、自分自身を動かすものが永続するのは明らかである以上、誰がこの本性を魂に帰すのを拒むだろうか。というのも、外からの刺激で動かされるものは生命のないものだが、しかし生命をもつものは自らの内部の運動で動かされるからである。つまり、このことが魂の本性であり能力であるのだ。これが全てのものの中でも自分で自分を動かす唯一のものだとすれば、それが生み出されたものではなく永遠のものなのは確かである。(1.23.55)俗物哲学者たち(というのはつまり、プラトン、ソクラテスやその学派から離反した人々はそう呼ばれてよいように思われるからだが)が全員隊伍を組んで挑んでくるのならそれでもよかろう。しかしそれでも、彼等は何事もそれほど優雅な文体で議論することもないばかりか、まさにこのことがいかに精妙に結論付けられているかということも全く分からないだろう。ともかく、魂は自分を動かしていることを感じ取っているのだ。それを感じ取る時には、自分が自分の力で動かされていて外のそれによってではないこと、己が自分自身から見放されるなどということは決して起こらないことも同時に感じ取っているのである。こうして、魂が永遠に在るものだということが論証されるのだ。これに君が何か異論を抱かないのであれば。
私は全くたやすく認められそうですが、私の心の中には何の異論も浮かびません。それほどこの説は気に入ってます。
(1.24.56)ではどうだろう。果たしてこのことは今やもっと容易に認められるかね。人間の魂の中には何か神的なものが備わっているということだが。それがどうやって生じたか私が分かったとすれば、それがどうやって滅びるかということも分かったことだろうよ。つまり、血や胆汁や粘液や骨、筋、血管、さらには四肢や全身の全ての全ての形態はどこから作り出されどうやって形作られたか言うことができると思う。魂そのものはそうではない。その中に、我々の生存を成り立たせるもの以外何もないとしたら、人間の生が成り立っているのも葡萄蔓や樹木のそれと本性上同じことだと考えただろう。こういうものも生きてはいると我々は言うのだから。同様に、人間の魂が欲求と忌避以外に何ももたないなら、そんなことは獣ももっていることであろう。(1.24.57)魂はまず何よりも記憶を具えているし、数え切れないものを限りなく記憶している。実際、プラトンはこれを前世の想起だと考えている。つまり、あの著作、『メノン』という表題を付けられるのが常だが、そこでもソクラテスはある少年に正方形の計測という幾何学の問題を問うている。この問題にあの少年はいかにも子供のように答えているが、質問が非常に分かりやすいものなので徐々に答えながら彼は幾何学を学んだのと同じ所に至ったのである。ここからの結論とソクラテスが説くのは、学ぶことは想起することに他ならないということである。この論題をさらにもっと念入りに論じているのがあの、ソクラテスが人生から退出しようというその日にもたれた対話である。つまり、何にも通じていないように思われる人であっても、うまく質問する人に答えていくことで誰でも自分はそうしたことを学んだのではなく思い出して再認したのだと言うことになる、と説かれているのだ。また、それほど多くのまたそれほど重大な事柄の概念(ギリシャ語の「内在観念」というものだ)が幼い頃から魂の中に植えつけられ、言うならば封印されてきたので、我々がそれをもっているなどということはとうていありえないことで、魂が肉体に入る以前に事物の認識の中で力をもっていたのでなければならない、ということも説かれている。(1.24.58)何ものも[真実には]存在しないのだから、*そうプラトンは至る所で説いたのだが、つまりこの方の主張では生成消滅するものは何も[真には]存在せず、存在するのは実際そうあるそのように常にあるものだけなのであるから(それをあの方はギリシャ語でイデアと、我々は形相と呼んでいる)、魂は肉体の中に閉じこめられるとこのものを再認できず、認識済みのものをもたらすだけなのである。ここからして、これほど多くの物事を認識するということの驚きは払拭される。それら形相を魂は明らかには見られないのだ、ひどく不慣れでこれほどまでに混乱した住居に突然移住したときには。しかし、己だけで固まって復活するならば、その時にはそれらを想起して再認するのである。こうして、学習は想起に他ならないのである。(1.24.59)それはともかく、この私はむしろ記憶に何かもっとより一層驚嘆するのだ。というのも、我々がそれによって記憶するあのものは何だろうか?また、それはどんな力をもち、どこから生まれたのだろうか?私が訊きたいのは、シモニデスがどれほどの記憶力を持っていたと言われているか、などということではない。テオデクトスはどれほど、ピュロンが元老院に遣わし使節となったキネアスはどれほどか、などということでもない。最近の人ではカラマダスや、最近まで御存命だった懐疑派のメトロドロスや、我らがホルテンシウスはどうだったか、などということでもない。**また、人間一般の記憶力について言っているのでもなければ、ましてや何かもっと重大な学芸に励んでいる人々のそれでもない。確かにそうした人々の精神がどれほどのものかは説明しがたいが。とにかくこうして人々は多くのものを記憶しているのだ。
*欠落が認められているようである。そのままで読めないこともない。
**分の繋がり方が少々疑問だが、そのままつながるように読んでみた。逆説的につながる読み方(「そうではなくて…について言っているのだ」)をする者もある。
(1.25.60)そうすると、この議論はどこを目指して考察しているのか?あの力が何であり、どこに由来するかは分かったはずだと思う。確かに、心臓や血液や脳や原子にはない。息なのか火なのかは知らないし、知らないことを知らないと認めることを私は、あの人々のように、恥だとは思わない。しかし、こうした曖昧模糊とした問題について何か他のことを断言できるとしたら、あのことは誓ってもいい。つまり、魂が息だろうが火だろうが、それがとにかく神的なものであることは誓いを立ててもいい。というのも、君に真面目に訊くが、この地上の雲深く霧深い空から、これだけの力のある記憶が生え育ったと、あるいは組み立てられたと君は思うだろうか。これが何なのか分からないにしても、どういうことかは分かるはずだ。それもだめだとしても、どれほどのことかは確かに分かるはずだ。(1.25.61)ではどうだろう?一体どっちなのか?魂には何か空隙があって、我々が記憶するものはまるで何か器に流れ込むようにそこに注がれると、我々は言ったものだろうか?これは実に馬鹿げている。なぜなら、魂の底とか、形とかいうものは理解不可能だし、全くそれほどの空隙というのは何なのか訳が分からない。あるいはそれとも、魂は密蝋のように刻印をされると言ったものだろうか?そして、刻印されたものが心に残した跡が記憶だと言えばいいのか?しかし、言葉やものそのものの跡なんてものがありうるのか?もっと言えば、それほど多くのああしたものを形作れるほどの膨大な量とは何なのか?
(1.25.62)どうだろう?要するに、隠されたものを追求するあの力は何なのか?それは発見とか創意とか言われているのだが。この地上の死すべきはかない本性からこれが作られたと君には思えるかね?あるいは、最初に全ての物事に名前を与えた(それこそ最高の知恵にふさわしいとピタゴラスには思われたのだが)者はどうか?あるいは、散り散りだった人間達を集め、社会生活を招来した人は、無限にあるだろう音声を文字という僅かな記号に限定した人は、惑星の軌道や運行や停止を記録した人はどうか?全て偉大な人々だ。もっと前の人々はどうだ?果実や衣服、家、生活文化、野獣に対する防備を発明発見した人々は?彼等にたしなみを受け、文化を教えられて我々は必要不可欠な技術からより優雅なものへと寄り至ったのだ。つまり、耳の大きな楽しみも音の本性を見出し多様さを制御することで生み出されたのだし、我々が星を、あるところに留まっているものもそうだし実際にはそうではないが呼び名上は惑っているそれらもそうだが、見上げるのだってそうだ。それらの周回や全ての動きを魂で見た人は、自分の魂はこれらを空にお作りになった方の似姿だと説いたのだ。(1.25.63)つまり、アルキメデスが月や太陽や5つの惑星の運行を天球に繋ぎ止めた時、彼がなしたことは『ティマイオス』で世界を築かれたあの方、つまりプラトンの神がなさったのと同じことなのである。彼は、全く異なる運動を一つの軌道が遅速によって統べるようにしたのだ。このことがこの世界で生じるのに神が不可欠だったとすれば、天空において同じ動きをアルキメデスがまねたのも神的な才能なしにはありえなかった。
(1.26.64)実際、このもっと名高く輝かしい事柄が神的な力を欠いているとは私には全く思えない。その思いがどれほど強いかといえば、詩人が重厚で濃密な詩歌を生み出すのも天空知性の何か刺激なしではないのだと他ならぬこの私が主張したいくらいだし、豊穣な流暢さが音声を放つ言葉や豊かな文章を伴って流れるのも何かより大いなる力なしではないと言いたいほどなのだ。実の所、哲学は、これは全ての学芸の母なのだが、プラトンが言うように神々の賜物、あるいは(私はそう思うのだが)神々の発明でないとすれば何であろう?彼女こそ我々をまずあの方々の崇拝へ、次いで人間に備わる正義へ(これは人類の社会に据えられている)、さらには魂の大度と節制へと教え導いたのだ。そしてこの最後のものによって魂からは、目がそうされるように、闇がはらわれ、全てのものを「より上のもの」「より下のもの」「最初のもの」「最後のもの」「中間のもの」と我々は見られるようになったのである。(1.26.65)全く、この力こそ神的だと私には思える。これはこれほど多くのこれほど偉大なものを作り上げたのだ。では、物事や言葉の記憶はどうであろうか?さらに、創意はどうであろうか?全くもって、これ以上のものが何か神にあるなどということは理解しがたい。なぜなら、神糧や神酒、あるいは酒杯を捧げもつ青春の女神を神々は喜ばれるのではないと考えるからだ。ホメロスの言うことも私は聞かないよ。彼はガニメデは容姿端麗だったので神々の下から略奪されたのだが、それはユピテルに酌をするためだったというのだ。それに、ラオメドスたちがあれほどの不正を加えられたのに正当な理由などなかったのだ。こうしたことをでっち上げたのはホメロスであり、彼は人間的なことを神々に移し換えたのだ。私は神的なことを我々にそうする方を望むがね。しかしそうすると、神的なものとは何だ?活力を持つこと、知ること、創意すること、記憶すること、これである。故に神的なものである(他ならぬ私がそう言っているのだ)魂は*、エウリピデスは敢えてそう言ったのだが、神である。また実際、神が気息あるいは火なら、人間の魂も同じである。つまり、あの天上の本性が土や水をもたないように、人間の魂もこの両者とは無縁なのだ。しかしもし、アリストテレスが最初にそう説いたのだが、何か第5の本性があるのなら、これこそ神々の、また魂の本分である。我々はこの見解に従いまさに次のような言い方で『慰め』でこのことを表現したのだ。
*ポーレンツ等欠落を認める諸子は、ではどうしろというのかはっきりしない。「…」を無視して読んだ。
(1.27.66)「魂の起源を大地に見出すことはできない。なぜなら、土から生まれたもの土から作られたものは魂に混ぜられ混合されていないと思われるからだ。また、魂は水の性質も空気や火のそれも全くもっていない。というのもこうした本性の内には、魂が持つ記憶や指向の働きをもっているものなど何もないからだ。まさにこうした能力が過去を保持し、未来を予見し、また現在をとらえうるのだが。こうしたものだけが神的であって、これが神から来たのでなければどこから人間に至れたのか全然分からない。それだから、何であれ魂の性質と能力は独特のものであって、今言ったようなありふれたつまらない本性とはかけ離れている。こうして、感覚し知り生き活動するものが何であるにせよ、それは天上の神的なものであり、その故にこのものは必然的に永遠なのだ。実際、我々が知性でとらえる神そのものは、魂が何らか解放されて自由となり、死すべき全ての混ぜものから離れ、全てを知り自分自身で動き、永続する運動を備えるのでなければ認識され得ない。人間精神はこの種族とまさにこれと同じ本性からなっているのだ」
Cicero,TD.1.31.77=SVF.2.822
しかし、ストア派の人々は我々にカラス程度の財産しか認めてくれない。魂が長期間存続することは彼等も認めるが、永続することは否定する。
Cicero,TD.1.32.79=Panaetius 83;56
(32.79)だから我々はパナエティオスについて、彼自身のプラトンと反目していると考えるべきだろうか。というのも、全ての箇所で神のような人、最高の賢者、最も神聖な者、哲学者のホメロスと彼が呼ぶこの方の魂の不死に関するこの一つの教説をよしとすることはなかったのだ。つまり、彼が主張するところでは何であれ生まれたものが亡びるということを誰も否定しないのである。さて、魂は生み出されたものである。このことは産み落とされたものがそなえもつ[産んだ者への]類似が明らかにすることであり、その類似はただ肉体においてだけでなく性格においても表れている。さて、彼は別の論証をも持ち出すのだがそれは、苦痛を感じるものは病んだものでもありうる。さて、病に陥るものはいつかは滅ぶ。ところで、魂は苦痛を感じる、故に滅びもする。
(33.80)これらは論駁されうる。つまり、こうした論証は次のことに無知な者がすることである。魂の永世が語られる場合、全ての無秩序な運動を常にもたない精神について語られているのであって、苦痛や怒りや欲望がその中で渦巻く諸部分について語られているわけではないのである。こうしたものをこの方は、彼に対抗してこれらの議論は述べられたのだが、精神から引き離され別たれたものだと説いている。
Cicero,TD.1.33.81=Panaetius 11
パナエティオスがここにいられたらよかったのに。彼はアフリカヌスと親密に生活したのです。
Cicero,TD.1.45.108=SVF.3.322(葬送)
人間の種族には色々な誤りが見出されるというのに何故私は個々の人々の意見を考慮するべきなのか。エジプト人どもは死体を埋葬して家に置いておくが、ペルシャ人どもは死体を蝋で包んで埋葬する。死体ができるだけ長期間長持ちするようにとのことである。マゴス人どもの風習はあらかじめ獣どもに食いちぎられない限りは死者の肉体を埋葬しないというものである。ヒュルカニアでは大衆は犬どもを市民として養っているし、貴族は家族としてそうしている(ところで周知の通りこれがあの有名な犬どもの飼育制度なのである)。しかし、それぞれの人は自分の能力に応じてそいつらを手に入れるし、そいつらはそいつらで飼い主にぶち殺されるし、飼い主たちは自分たちが最善だと思う埋葬をしてやるのだ。クリュシッポスは全ての調査において興味を引くそうした他の非常に多くのことを収集している。しかし、その各々はあまりに異様なので言葉の方が震え上がって逃げ出すほどである。
第2巻
Cicero, TD. 2.29 = SVF.1.185
彼(ゼノン)は言う。「汚涜・過悪でなければ何ものも悪ではない」…また言う。「(苦痛に関して)幸福に生きることに関わりうるのは、唯一の徳のうちにおかれるものだけである。しかし、それはそれでも避けるべきである」なぜか?「粗野で、自然に反し、堪え難く、陰鬱で頑固である」から。
Cicero, TD. 2.25.60 = SVF. 1.432 (Dyonisius); 1.607 (Cleanthes)
ではどうしろというのだ、平時には、家にいるときには、寝椅子に横たわっているときには。私を哲学者たちの中に招き入れようというのだな。彼等はあまり前線に出陣しようとしないのだし、意志の弱いヘラクレアのディオニシウスも確かにその1人なのだ。彼はゼノンから勇敢であることを学んだのに、苦痛から逆のことを教えられたのだ。つまり、彼は腎臓を患っていた時にまさに苦悩しながら、苦痛を味わう以前に自分で正しいと思っていたあの説はまちがっていたと言った。同門のクレアンテスが彼に訊ねて一体どういう理由で師の説から離れたのかと訊いたところ、応えて言った。その理由はこうだ。哲学に大変な関心を払ってもそれでも苦痛に耐えられないとしたら、それで苦痛が悪であることの論証には十分であろう。さて、私は多くの年月を哲学に費やしたが、耐えられない。故に、苦痛は悪である、と。そこでクレアンテスは、足で地面を蹴って、エピゴニスの詩を読んだと言われている。
この声が聞こえるか、地の下に隠れたるアンピラオスよ
彼はゼノンのことを言っていたのである。ゼノンよりもあの者が劣っているのが苦々しかったのである。
第3巻
(3.6.12)賢者にも苦悩は起こるように思われると君は言ったようだが。
ええ、確かにそう言いました。
人であれば仕方ないことだな、君がそう思うのも無理はない。我々は岩から生まれたわけではないのだし、魂のうちには自然と何か柔弱で柔らかいものがあって、嵐に見舞われたように苦痛によって揺り乱されるのだ。あのクラントルも、我らがアカデメイアでももっとも気高い地位にあった人と言ってよいのだが、こう言っているが、愚かなことでも何でもない。「私は全く同意しないが、ある人々は「無苦痛」とかいうものを何だか知らないがやたらに賞賛している。こんなものはあるはずがないし、またあってはならないのだ。無病息災にはなりたい。しかしもし」彼は言う「病気になることがあるとしたら、そこには感覚があるわけだし、何が切られているかとか、何が体から切り取られるかとかも分るのだ。つまり、あの「苦痛を感じない」ということは、魂には人でなしの惨さ、肉体には厚顔無恥を得ることとひきかえでなければありえないのだ」
Cicero,TD.3.7.14=SVF.3.570
勇敢な人は楽天家でもある。*というのも、「楽天的である」という表現はひどい言葉遣いの習慣のために悪い意味で用いられているけれども「信用する」という称賛に値することから派生した言葉だからである。*そして、楽天家は自信に満ちており恐れない。すなわち、憶病と楽天との間には断絶があるのである。悲嘆が生じる人には恐怖も生じる。すなわち、現前すると我々を悲嘆に陥れるものが、脅かすのではないか、やってくるのではないかと我々は恐れるのである。だから、勇敢さと悲嘆は両立しないことになる。従って、悲嘆が生じる人に恐怖や精神薄弱や精神低落が生じるのもありそうなことなのである。こうしたものが生じうる人にはそれに隷属するという、あるいはそれに征服されてもかまわないという[気持ち]が生じる。こうした気持ちになる人は、恐怖や倦怠も仕方ないという気持ちになる。しかしこのようなことは勇敢な人には起こらない。従って、悲嘆もない。そして、勇敢でない賢者は一人もいない。故に、賢者に悲嘆は起こらないのだ。(15)さらに必然的に、勇敢な人は大きな心の持ち主である。大きな心の持ち主は不屈である。不屈の人は人間並の事柄を見下し、自分の下にあるものとみなす。しかし、誰にも見下せないものによって人は悲嘆を被りうるのである。しかし、賢者は全員勇敢である。従って、賢者に悲嘆は生じない。そして、調子の悪い両目はその機能を全うするだけの正常な状態にないのと同様、また残りの体の部分や体全体も[本来の]状態から動かされている場合には己の義務や勤めを欠いているのと同様、乱れた魂も己の機能を遂行するに値しない。ところが、魂の機能とは善き理性を行使することであり、賢者の魂は最善の理性を行使できる情態に常にある。従って決して感情に冒されない。しかし、悲嘆は魂の感情である。だから、賢者は決してこんなものをもたないだろう。
*SVFではこの間が脱落している。
↓
(8.16)
Cicero,TD.3.8.18=SVF.3.570
従って、慎ましい、あるいはそっちの方がお好みなら中庸なとか節制のあるとか言ってもよいが、そういう人は必然的に堅固な人でもあることになる。さて、堅固な人は平静な人である。平静な人は、全ての感情がなく、従って苦痛も持たない。そして、このようなことが賢者の特徴である。故に、賢者には苦痛がない。
↓
Cicero,TD.3.9.18=SVF.1.434 (Dionysius)
そのように、ヘラクレオンのディオニシウスもたどたどしくはない仕方でアキレウスが嘆いたことについて論じている。その嘆きは、思うに、ホメロスによると次のような文句で表されている(『イリアス』第9巻646行)。
俺の心はパンパンに膨れ上がる、陰鬱な怒りで
俺がほうびや名誉を全部取り上げられたのを思い出すとき
(9.19)はたして腫れ上がった時手は正しい状態であるだろうか。また、果たして何であれ腫れ上がったり膨れ上がった他の四肢が悪い状態にないことがあろうか。従って同様に、腫れ上がり膨れ上がった魂も悪い状態にあるのである。しかし、賢者の魂は常に悪を持たず、決して膨張せず、決して膨れ上がらない。さてまた、怒った魂もこの類である。従って、賢者は決して怒らない。なぜなら、もし怒るとしたら争いもすることになる。すなわち、怒る人の特徴は、自分に苦痛を与えたと思われる人に可能な限り最大の苦痛を加えたいと思うことである。反面、こういうことをんを願う人はその願いが満たされると必然的に大喜びすることになる。ここからして、他人の悪事に喜ぶことになるわけだ。こんなことは賢者には起こらないので、怒るということも決して起こらないのだ。しかし、賢者に悲嘆が生ずるとすれば、怒りも生ずるであろうが、怒りを欠いているので悲嘆も欠いているということになるだろう。(9.20)また、賢者が悲嘆に陥りうるとしたら、同情にも羨望にも陥りうることになってしまう。
↓
(10.21)
↓
Cicero,TD.3.10.21=SVF.1.434
つまり、他人の逆境を苦々しく思う人は他人の順境にもそう思うものである。例えば、テオプラストスは自分の友人カリステネスの死を嘆く反面、アレクサンダー大王の幸せな境遇を面白く思わなかった。彼が言うには、カリステネスは最高の能力と幸運の持ち主の一人だったが、順境をどう利用すればよいかということに無知な者でもあった。また、同情が他人の逆境による悲嘆であるように、羨望は他人の順境による悲嘆なのである。従って、哀れむことが生じる人には羨望することも起こる。しかし、羨望することは賢者には生じない。故に、哀れむことも決してない。すると、賢者が常々悲嘆する者だとすると、常々哀れむことにもなってしまう。故に、賢者には悲嘆はない。
Cicero,TD.3.11.24=SVF.3.385
従って、全ての原因は信念にあるが、実は苦悩のものだけではなく他の全ての惑乱のそれもそうなのだ。それらは類としては4つだが、細かい部分はもっと多い。つまり、全ての惑乱は魂の、理性に与らないか理性を拒絶するか理性に従わない運動であり、この運動は善に関わる信念か悪に関わるそれかによって2通りに動かされ、4つの惑乱が等しく分割されるのである。すなわち、2つのものが善に関わる信念から生ずるが、そのうち一方は野放しの快楽、つまり過度に高揚した喜悦であり、何か多大な善が目前にあるという信念に基づく。もう一方は、多大な善と思われるものへの度を越した欲求であり、理性に従わず、欲望・強欲と言われうるがそれで正しい。(11.25)故に、この2つの類、野放しの快楽と欲望、は善いものに関する信念によって撹乱されているのだが、同様に残りの2つ、恐怖と苦悩は悪いものに関わる。つまり、恐怖は脅かす多大な悪に関する信念であり、苦悩は目前にある多大な悪に関する信念であり、さらにまたそのような悪に関する新しい信念で、それで委縮するのは正しいことだと思われるというものである。つまり言い換えれば、苦悩する人は苦のするのがふさわしいと信じているのである。
Cicero,TD.3.22.52=SVF.3.417(感情と予期)
キュレネ派の人々の説が残っている。彼等の考えでは、苦痛があるのは思いがけず何事かが生じた場合である。実際このことが重要なのは上述の通りである。クリュシッポスにもこう思われたのを私は知っている。つまり、前もって予見されていないことは甚だしい衝撃を与えるとしている。
Cicero,TD.3.25.59=SVF.3.487
それだからカルネアデスは、我々のアンティオコスがそう書いているのを見たように、クリュシッポスをいつも非難していた。クリュシッポスはエウリピデスのあの詩歌をほめたたえていた。
死すべきものの誰もが関わらずにいられないのが苦痛
と病なのだ。多くの人々にとって子供は埋葬に伏されねばならず、
新たにもうけねばならないのだ。死は終わりである、あらゆるものにとっての。
それは人の種族を押えつけるが、それも無為なことだ。
土くれは大地に帰るもの。命というものはあらゆるものどもにとって
刈り取られるべきものなのだ、果実のように。こう必然の神は語る。
(60)カルネアデスは、こんなものの言い方をしたところで苦痛を和らげるには何の役にも立たないと言っていたのだ。
Cicero,TD.3.25.61=SVF.3.485=FDS.672
つまり、あらゆる手段で支えられねばならないのだ、甚だしい苦痛のために倒れ自己を保てない人々は。ここからしてまさにこの苦痛とギリシャ語の苦しみはあたかも人間全体の解消のように呼ばれたのだとクリュシッポスは説いている。
(3.28.70)しかしながら彼等は、自分達が愚かさ(これ以上悪いものは何もない)のまっただ中に留まっていることは分っているものの、それでも苦痛に押しつぶされてはいない。なぜなら、何も苦痛に相応しい事柄は彼等の信念に混入していないからだ。どうだろう?嘆くべきではないと説くのはどの人々か?執政官の地位にあった子息を葬送したクゥイントゥス=マクスムスのような人、わずかな間に二人の子息を失ったルキウス=パウルスのような人、法務官に選ばれた子息の死に立ち会ったマルクス=カトーのような人、同様のその他の人々がそれだ。そのような人々を我々は『慰め』の中で集めて挙げたのだが。(71)一体他の何がこの人々に気に入るというのか?「悲嘆や嘆きは男子たる者に相応しくない」と言うことがそうでないのならば。それ故、別の人々は、それが正しいと考えて、自らを苦悩に委ねてしまうのが常なのだが、この人々はそれを愚かなことだと考えて、苦悩をはねのけるのである。ここから分ることだが、苦悩は自然においてあるのではなく、信念の中にこそあるのだ。
(29.71)これに対してこういうことが言われている。曰く、おかしいんじゃないのか?人が自ら進んで嘆くなんてことがあるものか?、と。自然が苦痛をもたらすのであり、実際君達のクラントルも、それゆえそれを受け入れるべきだと説いていると言われている。こうして、ソフォクレスのあのオイレウスも、かつてはアイアスの死に際してテラモネスを慰めたものの、自分の息子の死を聞いた時には、千々に乱れたのである。この人の心持ちが変わったことについてはこう書かれている。
実はそれほどの知恵は持ち合わせていなかったのだ
他の人々の苦難を言葉でやわらげた人は
この人ではない。運勢が変わって、彼の心持ち(衝動)を
変えてしまった時に、己の突然の害であまりに乱れ、
他の人に向けた言葉や教えをなくしてしまったのだ。
彼等がこのようなことを論じた際に一生懸命論証しようとしたのは、自然に対抗することはどうやっても不可能だということだ。しかし、この同じ人々も認めていることだが、人間というのは苦痛を受け取っては自らよりひどいものにし、自然がしいる以上のものにしてしまうのだ。では乱心というのは一体何なのだ?我々が問われたのと同じ問いをあの人々にも応えてもらおうじゃないか。
(72)さて、いくつもの原因で、我々は苦痛を容認してしまうのだが、その第一はあの、害悪に関する信念である。これを見て、説き伏せられると、苦痛はもはや必然的に続いて起こるのだ。さらに次に、亡くなった人々に気に入るようにするには、彼等に対して激しく嘆けばいいのだ、と人々は考えている。さらに、何か女々しい迷信がこれに加わる。つまり、不死の神々にたやすく気に入ってもらえるようにするには、自分達は神々の圧倒的な打撃によって打ちのめされて大の字になっていると認めればいい、と思っている。しかし、こうした事柄がどれほど相矛盾しているか、大多数の人々は分っていない。というのも、彼等は平らかな心持ちのまま逝った人々を賞賛しているからだ。しかし、他人が逝くのを平らかな心持ちで耐え忍ぶ人々は叱責に値すると考えている。まるで、ある仕方で、恋愛に関する議論の中で常々言われていることだが、人は自分よりも他人を愛するということが起こりうるということのようだ。(73)それはとても麗しいことだし、事実、正しくまた真実なことでもあるのだ。つまり、我々に最も親愛なはずの人々を我々同然に等しく愛するということだが。しかし実に、我々以上に愛するというのはどだい不可能なことだ。つまり、友愛には全く相応しくないことなのだ。友人が私を彼以上に愛するということも、私が彼を私以上に愛するということも。もしそれが相応しいことで選択に値するのであったなら、それは人生を掻き乱すこと、また全ての義務をそうすることになったであろう。(30.73)しかしこの問題については別のところでしよう。今はこう言っておけば十分だ。つまり、友を失ったことに我々自身の不幸を付け加えることはない。つまり、もし彼等がそういう感覚を持っているとしてのことだが、彼等自身が望む以上に彼等を愛することはないし、またそんなことをすれば、確実に我々が我々自身を愛する以上に彼等を愛することになろうが、そんなことをすることもないのだ。
さて、慰めによって苦痛が和らぐ人など全然いないと言われているし、加えるに、慰めを与える人々自身、運命が自分の気持ちを彼等に向けた時には、悲惨なものとなると認めている、とも言われているが、どちらも何でもないことだ。というのは、こうしたことは、自然がもたらした害悪ではなくて、我々の過失によるものだからだ。そこで、この愚かさをどれだけたっぷりと糾弾してもよいくらいだ。つまり、苦痛をやわらげない人々は、自分を悲惨に招き入れているのであるし、自分の不幸を耐えるにしても、自分がかつて他人に忠告したのとは違う仕方でそうする人々は、ほとんど大多数の人々よりは邪悪ではないというだけなのである。人々は、欲張りのくせに欲張りをけなし、名声を得ておきながら、名声を欲しがる人々を非難しているのであるが。つまり、愚かさの特徴は、他人の悪には気付くのに、自分のは忘れるということなのだ。(74)さて、このことを一番強調せねばならないのは間違いないのだが、古くなることによって苦痛がなくなるということに意見の一致があるにしても、その働きは日日にあるのではなくて、考え続けることにこそあるのだ。つまり、事柄そのものも同じで、人も同じだとしたら、もし苦痛を感じる理由も苦痛を感じる相手も何ら変わらないとしたら、苦痛の何が変わりうるというのか?それだから、「実際悪いことは何もないのだ」と考え続けることが苦痛を癒すのであって、時間さえ経てばよいというものではないのだ。
31
(31.74)ここで、彼等は「中庸」を私によこすのだ。それが自然に適うことならば、なぜ慰めなど必要だろうか?それならば、自然自身が限度を定めるだろう。だがもし、信念によるものだとしたら、信念が根こそぎ捨てられねばならない。
↓
Cicero, TD. 3.31.74 = SVF.1.212
それで十分よく論じられていると思うのだが、苦悩とは目前にある害悪に関する信念であり、その信念には苦悩するのを認めるべきだということが含まれている。
(75)ゼノンはこの定義に、目前の害悪に関するあの信念は「新しい」ものであるということを加えているが、それは正しい。
↓
さて、この言葉を彼等はこう解釈している。つまり、ああした信念が「新しい」というのは、生じてからまだ少しの時間しか経っていないからというだけではない。それに加えて、ああした害悪について信念を抱くことにおいてある力が備わっており、その力が生き生きとしており、一種の青々しさを備えている限りは、「新しい」と呼ばれるのである。例えば、あのアルテミシア、カリアの王・マウソルスの妃で、ハリカルナソスにあの名高い墓碑を立てたその彼女だが、生きていた間は同じ悲嘆の中で生き続け、疲れ果てやつれ切っていった。彼女にとっては、あの思いは日々「新しかった」のである。そして、それがついに「新しい」と呼ばれなくなるのは、年老いてひからびた時なのである。
従って、これが慰めをなす者の務めなのである。つまり、苦痛を根こそぎ取り除くか、鎮静させるか、できるだけたくさんむしり取るか、あるいはそれ以上感情に捕われないように押さえ付けるか、あるいは何か他のものに転じないようにするか、そういうことである。
↓
Cicero, TD. 3.31.76 = SVF. 1.576
(3.31.76)慰める者が唯一なさねばならないことは、あの悪というものは全く存在しないのだと説くことだ*、と主張する人々もいるし、クレアンテスの説もそうである。
*ランビヌスに従いdocereを補う気持ちで読む。
↓
「大きな悪はない」とする人々もいる。例えば逍遥派である。悪いことから善いことへと導く人々もいる。例えばエピクロスである。予期せぬことは何も起こらない、つまり何も悪いことは起こらない、と示せばそれで十分だとする人々もいる。例えばキュレネ学派である*。
*ややテキストに乱れがあるが、大勢には影響ない。
↓
Cicero,TD.3.31.76=SVF.3.486
しかし、クリュシッポスが慰めにおける主要事と考えるのは、悲嘆する者のあの信念を除去することである。その信念に基づいて人は自らしていることを義務に適い、義しく、当然すべきことだとみなすのである。
↓
また、慰めの際にこれら全ての種類を混合する人々もいる。人はそれぞれ違った風に動かされるものだからというので。我々も『慰め』においては全てを慰めという一つの目的にまとめあげたのだが、ほぼそれと同じである。というのも、あの時は精神が膨れ上がっていたので、その治療のためにあらゆる手段を試みたのである。だが、しかし、時宜を得るということが、肉体の病気に劣らず魂の病気においても重要である。アイスキュロスのあのプロメテウスの通りであって、つまり彼がこう言われた時、
ともかく、プロメテウス、このことは覚えていると思うが、
激怒を鎮められるのは理性なのだ。
こう応えた。
確かに。時宜正しい治癒を用い、
手を重くして傷に当てるのでなければ。
32
(32.77)したがって、慰めにおける一番の薬は「何も悪はない」あるいは「あってもごく僅かだ」と思うことであり、別の薬は人生に関する一般的な状況について、また嘆いている人自身について何か重大なことがあればその個別の事柄について論じることであり、三つ目は、所詮無益でしかないと分っている以上、何の理由もなく悲嘆して憔悴するのは愚の骨頂であるとすることである。
↓
Cicero, TD. 3.32.77 = SVF. 1.577 (Cleanthes)
なるほど、クレアンテスも賢者を慰めているが、賢者には慰めなど不要なはずである。つまり、汚涜でなければ全く悪ではないと、君が嘆いている人を説得したとしよう。しかし、君がその人から取り除くのは、嘆きそのものではなくて、愚かな考えに過ぎないだろう。教えを説く時期が適切ではなかったのだ。それどころか、クレアンテスもこの点を十分理解していたようには私には思えないのだが、時に苦悩はクレアンテス自身が最大の悪と認めるものからも生じうるのだ。
↓
これから言うように、ソクラテスがアルキビアデスを説き伏せた時、そう我々は理解しているのだが、こう説いたのだ。アルキビアデスはいまだ何者でもなく、最高に生まれの高いアルキビアデスとそこいらの人足との間には何の違いもない、と。そして、アルキビアデスは打ちのめされて、涙ながらにソクラテスに跪いて徳を乞い、愚かな思いなしを払拭してくれるよう頼んだのである。クレアンテスよ、我々は何と言うべきか?この場合、アルキビアデスを苦悩に落とし入れた事柄のうちには実は何も悪いことはないのだ、と言えばいいのか?(78)ではどうだろう?リュコンのあの言葉はどうだろうか?苦悩というものを噛み砕いてこう言った人だが。つまり、それはごく些細なもの、不運や体の不都合によって動かされるが、魂が悪くなっても生じることはない、と。それではどうだ?アルキビアデスが苦痛を感じたあのものは魂の害悪と悪徳からなっているのではないのか?エピクロスによる慰めに対しては十分既に語られている。
(3.33.79)あれは確固とした慰めでは全くないのだ。ありきたりのもので、時々役に立ちはするが。「これは君だけではないのだ」既に言ったように、この文句は確か荷役に立ちはするが、いつもそうだというわけでも、誰に対してもそうだというわけでもない。というのは、こういう文句を突っぱねる人もいるからだが、しかし重要なのは、慰めがどのようになされるかということなのだ。つまり、知恵をもって耐えた人々の各々がそれを耐えたということが語られねばならないのであって、その人それぞれがどんな不具合にさいなまれたかということではないのだ。クリュシッポスのものは心理に近いのは間違いないのだが、苦悩が感じられているその時に用いるのは難しい。嘆き悲しんでいるその人に、その嘆きはその人自身の判断によるもので、その人自身が「自分は嘆くべきだ」と判断したからなのだ、と納得させるのは大変なことだ。それゆえ何も驚くことではないが、訴訟においても我々はいつも同じ点に依拠するのではなく(それを我々は議論の型と呼んでいるわけだが)、時や、人や、議論の性格、に応じて適宜対応していくように、苦悩をやわらげる際にも、各々はどんな治癒を処方できるかということを見なければならないのだ。
(80)それはともかく、どうしてかは知らないが君が提示してくれたところから論議は逸れてしまった。というのも、君は賢者について訊ねたのだったから。この賢者にとっては、汚涜を欠いていれば何ものも悪とは到底思われず、また悪は非常に些細なものなので知恵に覆い隠されてやっと現れているようなものなのだ。また賢者は、思いなすことで苦痛に何かを付け加えたり足したりは何らせず、また、あらん限りに自分を苦しめることも、悲嘆で疲れ果てることも正しいこととは思わず、最高にひどいことだと考えている。しかしながら、この議論が説いてきたところでは、ともかく私にはそう見えるのだが、「同時に汚涜と言われ得ない悪というものがあり得るのか」というこの問いはつまるところ今まだ問われていないのではあるが、しかしながら、我々が見たところ、どんな悪が苦悩のうちにあるにせよ、それは自然によるものではなくて、自分からなした思いなしと、その思いなしの誤りによるのだ、ということは論じられたのだ。(81)しかしまた、我々が論じた苦痛の種類はたった一つだが、それは全てのうちで最大のもので、それさえなくなれば、残りの治療はそれほどいらなくなると見込んでのことだった。
(34.81)というのも、ある慰めは貧乏に、またあるものは名誉も名声もない人生について語られるが常であるし、また別々に、ある論考は追放に、あるものは祖国の崩壊に、隷属、無力、失明、また害という名が常々つけられる全ての場合についてある定まった別々の慰めがあるからである。これらをギリシャ人達は個々別々の論考に分け、個々別々の書物を費やして論じている。彼等は主題そのものを探究していたからだ。しかしながら、複数の議論が単に楽しみのためになされている。しかしながら、医者が体全体を治療する際に、苦痛さえあればどんなに小さい部分でも治療するように、哲学も、苦痛全般を取り除こうとするならば、どんな錯誤がどこから出てこようともそれを治療するのである。つまり、貧乏でキリキリしようが、不名誉に貫かれようが、追放がどんな闇をかぶせようが、今さっき言ったことの何が起ころうが、そうするのである。要するに、個々の事態それぞれに見合った慰めというものがあるのだが、それらについては、君さえ聞きたければ聞けるだろう。しかし、同じ源泉に戻らねばならないのであって、それは、全ての苦悩は賢者から程遠いということである。そのわけは、苦悩などというものは虚ろなものだからであり、そんなものを持ったところで何にもならないからであり、そもそもそれは自然によってではなく、判断や思いなし、つまり苦痛へと何らか誘い込むことによるからである。苦悩が生じ得るほどに萎縮すべきと我々が思う時に、それらは生じる。(83)このものの全てが自発的なものだが、それが取り除かれると、ああしたものを嘆いていた苦悩もなくなるではあろうが、痛みそのものや、一種の精神的な軽い憂鬱は残る。彼等はこれを全く自然なものだと言う。苦悩という嫌な重苦しく致命的な名前はそこにはないから、というのだ。苦悩の方は、先ほども言ったように、知恵とはどうやっても同居できないのだが。しかし、苦悩の根はどのようなものか?どれだけ多く、どれほど苦いことか!これらは、幹そのものが切り倒されたなら、根こそぎ引っこ抜かれねばならないし、その必要があれば、個別の議論によってそうせねばならない。というのも、我々にはこの余暇があるからだ。どういうものかはまぁよいとしても。
↓
Cicero,TD.3.34.83=SVF.3.419(個別感情の定義は空疎)
さて、全ての苦痛の理は一つだが名前は数多い。つまり、苦痛には妬むことも競争心を抱くことも誹謗することも同情することも苦悶することも悲嘆することも嘆くことも労苦を被ることも悲哀することも煩悶することも心痛を感じることも苛立ちのうちにあることも不調を感じることも絶望することも属している。(84)こうした全てのものをストア派の人々は定義しているが、上述の個々の言葉は個別の事態に対応してはいるが、見たところ自体そのものを表してはおらずただ違う定義を与えているにすぎない。
第4巻
Cicero, TD. 4.3.5=SVF.3 Diogenes 10=FDS.166
彼等が若かった頃、ストア派からはディオゲネスが、アカデメイア派からはカルネアデスが元老院にアテナイ人からの使節として派遣されたことは知っている。彼等はこれまで全く国事に参画していなかったし、方やキュレネ人、方やバビロニア人だったので、こうでもなければ決して彼等の学園から召喚されもしなければ、あの任務に選ばれもしなかっただろう。つまりあの頃そうした指導者達に向学心がなかったらそんなことはなかったのだ。
Cicero, TD. 4.3.6=FDS.248
このように、あの真正で気高い哲学者たちには(彼等はソクラテスに発して、逍遥派の中に今まで存続しているし、同じ思想は違う語り口でストア派の人々も語っている。というのは、アカデメイア派の人々は彼等との論争にそう決着をつけたから)ラテン語の記録は全くないかあったとしても非常に僅かしかなかった。
Cicero,TD.4.5.9=SVF.3.483=FDS.42(ストア感情論は空理)
なぜならこういうことだからだ。クリュシッポスとストア派の人々は魂の惑乱を論じる際に大部分それらを分割し定義することに費やしてしまった。彼等のあの論述の非常に僅かな部分でしか、どのようにしてそれらが魂から治癒され、それらがかき乱すことに耐えられないのかということを論じていない。しかし、逍遥派の人々は魂を鎮めることに多くを費やすが、分類や定義に関する詮索はおいておくのである。それだから、私はどちらにすべきか尋ねたい。ただちに論述というこの航海を進める方がよいだろうか、それともその前に細々したことを弁証という櫂で取り除けた方がいいだろうか?
間違いなく後の方です。なぜなら、私がお訊ねしていることは全部、どちらからでも成し遂げられるでしょうから。
Cicero, TD. 4.11 = SVF.1.205
(11)それで、ゼノンの定義はこうなっているのだ。つまり、惑乱(とはあの方がギリシャ語で感情と言っているもののことだが)とは正しい理性に背く反自然的な、魂の情動である、と。もっと手短に、惑乱とは過剰な欲求であると言っている人々もいる。
Cicero,TD.4.6.12=SVF.3.438(善情)
すなわち、本性上全てのものは善いものに見えるものを追い求め反対のものを避ける。事物から直ちに引き起こされた表象が何であれ善いものに見えるものに関わる場合には、本性そのものがそれを獲得するように命令するのである。このことが調和し思慮にかなう仕方で生じた場合には、このような欲求をストア派の人々は「意欲」と呼んでいるが、我々は本意と呼ぶことにしよう。かの人々はこのものが賢者にのみあると考え、次のように定義している。本意とは何かを理とともに求めるものである。しかし、理に反してあまりに激しすぎる仕方で引き起こされたものは欲望とか無制御の欲求であって、全ての劣った人々に見出される。(13)同様に、我々が何らかの善いことのうちにあるように動かされるなら、それは2通りの仕方で起こる。つまり、精神が理に即して穏やかにかつ調和した仕方で動かされる場合には、それは喜悦と呼ばれる。しかし、精神が無駄に無秩序に高揚する場合には、ふしだらな快楽とか行き過ぎた快楽とか言われうるのだ。このものは、魂の理不尽な高揚という風に彼らは定義している。本性に従って善いものを欲求するように、本性に従って悪いものを我々が忌避する場合、それは理を伴った忌避として生ずるので、用心と呼ばれ、賢者においてのみあると考えられるのだ。しかし、理を欠き、卑屈な萎縮を伴い、貧弱なそれは恐怖と名付けられる。従って、恐怖は理に反する用心である。(14)しかし、悪いことが目前にあっても、賢者には何の感情もないが、劣った人々には苦悩がある。劣った人々はこのものによって思い描かれた悪いことのうちにあるように感情を害され、理に従わないままに精神を消沈させ虚弱させるのである。この感情の第一の定義は、苦悩とは魂の、理に反する収縮である、というものである。以上のように、4つの感情と、3つの平静があるのだが、それは苦悩に対立する平静がないからである。
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Cicero,TD.4.7.14=SVF.3.380(感情と信念の関係)
(7.14)しかし、全ての惑乱は判断や信念によって生ずると彼等は考えている。このように、これらを彼等はより緻密に定義しているが、それはそれがどれだけ劣悪かだけでなくどれくらい我々の権内にあるかということが理解されるようにとのことなのである。
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Cicero,TD.4.7.14=SVF.3.393(類的感情の規定)
すると、苦悩は目前にある悪いものに関する新しい信念であり、そこでは落ち込んで委縮することが魂にとって正しいことだと思われている。喜悦は目前にある善いものに関する新しい信念であり、そこでは高揚するのが正しいことだと思われている。恐怖は脅かす悪いものに関する信念で、そのものは耐え難いと思われている。欲望は来たるべき善いものに関する信念で、それが目前や手許にあることは得になるというものである。
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Cicero,TD.4.7.15=SVF.3.380=FDS.372(信念と感情の帰結との関係)
(7.15)しかし、惑乱に関わる判断や信念と彼等が言うもののうちに、彼等は惑乱があると言うだけでなく、惑乱によって引き起こされるあのものも実際そうだとしている。つまり、苦悩はいくばくかの苦痛を引き起こすし、恐怖は精神の何らかの退却と逃避を、喜悦は過大な上機嫌を、欲望は野放しの渇望をそうするというのだ。さて、信念を上述の全ての定義に我々は含ませているが、彼らの主張ではこれは弱い同意だということだ。
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(4.7.16)しかしまた、個別の惑乱によって数多くの下位部分が同じ種類の下に置かれる。例えば苦痛の下には嫉妬(こんな語彙を使うのも、事柄を明白にするためにあまり使われない言葉を用いねばならないからだ。なぜなら、妬みという語は嫉妬している人だけではなく、嫉妬されている人についても用いられるのだから)、対抗心、軽蔑、同情、心痛、悲嘆、号悲、苦難、悲痛、悲泣、孤独感、嫌悪感、身痛、絶望、及びこの同じ種類に属すもの、が含まれる。さて、恐怖に下属するものは、怠慢、恥じらい、恐怖感、怖れ、狼狽、逼迫感、錯乱、畏怖であり、快楽には、悪意(つまり他人の被った悪に喜ぶこと)、喜悦、虚栄、その他類似のもの、欲望には、怒り、激怒、憎しみ、敵意、反感、切望、強欲、その他この種のものが含まれる。(4.8.16)さて、これらを彼等は次のように定義している。
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Cicero,TD.4.8.16 = SVF.3.415
妬みとは他人の順境、しかも嫉妬する者には何ら害をもたらさないものの故に生じた苦痛である。(4.8.17)というのはもし、彼の順境に苦痛を感じる人自身が前者から害を受ける場合、後者が妬んでいると言われるのは正しくないから。例えば、アガメムノンがヘクトルに対する場合のように。しかし、他人の得が何一つ害をもたらさない人がそれでもこの人の繁栄に苦痛を感じるならば、この人は確かに妬んでいるだろう。ところで、あの競争心は2重の意味合いで語られている。つまり、この名は賞賛にも邪悪にもあるのである。すなわち、得の模倣も競争心といわれるし(しかし、我々はここでこの意味では使わない。というのはそれは賞賛に属することだから)、また、競争心は欲求しているものが他人には備わっているが自分には欠けている場合の苦痛でもある。(8.18)ところで、誹謗は、ギリシャ語の嫉妬をこう理解しようと思うのだが、自分が欲求したものが他人にも備わっていることによる苦痛である。同情は苦労している他人に降りかかった不幸な害悪から生ずる苦痛である。というのも、父親殺しや裏切者に加えられた刑罰に対する同情によって動かされる人など誰もいないのだから。苦悶は押さえつける苦痛である。悲嘆は親愛だった人の突然の他界による苦痛である。嘆きは涙させる苦痛である。労苦とは苦闘を強いる苦痛である。心痛とは責めさいなむ苦痛である。悲哀は号泣を伴う苦痛である。煩悶とは思案を伴う苦痛である。苛立ちは持続する苦痛である。不具合は肉体の煩悶を伴う苦痛である。絶望は何一つより善いことを期待できない苦痛である。
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Cicero,TD.4.8.19=SVF.3.410
さて、恐怖の下に下属するものを彼等は次のように定義している。怠惰は後に続く労苦に関する恐怖である。恥は血を充散させる恐怖である。脅威は動揺させる恐怖であり、ここからして、恥が赤面をそうするように、脅威は顔面総白や震えや歯がガタガタすることを伴うということになる。不安は迫り来る悪に関わる恐怖である。呆然は精神の地位を動揺させる恐怖である。ここからしてエンニウスのあの句が語られる。
その時呆然は全て知恵を消沈した私から追い出す
消沈は呆然に下属する同伴者のような恐怖である。混乱は思想を揺すり出す恐怖である。怯懦は巣くった恐怖である
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Cicero,TD.4.9.20=SVF.3.403
(9.20)快楽の諸部分を彼等は次のように叙述した。不謹慎は自分に何の徳もないのに他人の不幸から得られる快楽である。悦楽とは甘美な聴覚によって精神を魅了する快楽である。そして、耳に関わるこれらと同様の性質のものが目にも触覚にも嗅覚にも味覚にもあり、これらは全ていわば精神を水浸しにするために液体化された快楽という一つの類に属する。虚栄とは有頂天で常軌を逸してのぼせ上がった快楽である。
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Cicero,TD.4.9.21=SVF.3.398=FDS.789(欲望の下属種)
さて、欲望に下属するものを彼等は次のように定義している。怒りは害を加害したと思われる者に復讐することの欲望である。激昂は沸き起って即座に表れる怒りであり、ギリシャ語では激怒と言われる。嫌悪は根付いた怒りである。敵対は復讐の時を待ちかまえている怒りである。不平は精神や心の最も深いところにつかまれたより鋭い怒りである。不満は満たされない欲望である。恋しさは今この場にいない人に会いたいという欲望である。彼等はまたああしたものを区別してこう言っている。欲望は何らかのものあるいはものどもについて語られるそのこと(弁証家たちはギリシャ語で述語と読んでいる)に関わる。例えば富を持つこと、名声を得ること。不満は物事そのものに関わる、名誉や財産といった。
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Cicero,TD.4.9.22=SVF.3.379(感情の源泉としての無節制)
さて、全ての惑乱の源泉は彼等が言うには無節制であり、これは精神全体及び正しい理からの離反であり、それが理性の命令に背くあまり全く精神の欲求は制御も抑制もされ得ないのである。従って、節制が欲求を落ち着かせ、またあの正しい理に服従し、精神の熟慮された判断を堅持するようにするように、これに敵対的な無節制は精神の全ての状態を燃え上がらせ混乱させ煽動するのであり、こうして苦痛や恐怖や残りの全ての惑乱がそれから生じるのである。
Cicero,TD.4.10.23=SVF.3.424
(10.23)血が悪くなった時や粘液や胆汁が多すぎる時に肉体に病気や病状が生じるように、歪んだ信念の混乱や自己撞着が精神から健康を奪い、病で惑乱させるのである。さて、惑乱からまず病(これをあの人々はギリシャ語で病的状態と呼んでいる)と並んでこの病に対立し特定の事柄に対する悪い反感と嫌悪をそなえたものがもたらされる。続いて、ストア派の人々がギリシャ語で変容と呼んでいる病状とともに、これらに対立する反対の反動が生じる。ここに多大な関心がストア派の人々、とりわけクリュシッポスによって払われたのだ、肉体の病に精神の病が似ていることを比較する際には。こうした全く不必要な論述は無視して、我々は問題に関係のある事柄を扱うことにしよう。(24)従って、理解されるように、惑乱は不整合で混乱しているのがあらわな信念によって常に運動しているのだ。さて、この熱と精神の煽動が根付いて言わば血管や脊髄に居座るとその時に病や病状や反感、これは病や病状に対立するものだが、が表れるのである。(11.24)私が言っているこうした思考は互いに異なってはいるが、しかし欲望や喜悦から生ずることに結びつけられてはいるのだ。つまり、財産が欲望され、あたかもソクラテス的な薬のようにこの欲望を治癒する理性が持続的にあてがわれないならば、この悪は血管に留まり内臓に巣くって、病と病状が表れ、根付いて除去不能になってしまう。この病の名前は強欲である。(25)他の病、例えば名声への欲望、ギリシャではギリシャ語で色欲と呼ばれる女好き、も同様であって、残りの病と病状も同じように生ずるのである。他方、これらの反対のものもあって、恐怖から生ずると考えられている。例えば女嫌い(アティリウスの『女嫌い』にあるような)や、人間一般に対する嫌悪(ギリシャ語で「人間嫌い」と呼ばれたティモンがそうだったと我々は聞いている)や不愛想のように。こうした全ての病状は避けたり嫌ったりするものへの恐怖感から生ずるのである。
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Cicero,TD.4.11.26=SVF.3.427
さて、彼等は精神の病状を、欲求すべきではないものをまるで強く欲求すべきものであるかのように思う過剰な信念が巣くい深く居座ったもの、と定義している。そして、障害から生じたものは次のように定義する。避けるべきではないものをあたかも避けるべきものであるかのように思う過剰な信念が巣くい深く居座ったもの、と。ところで、この信念は、知らないことを知っていると思う判断である。さて、病状には何か次のような種のものが下属している。強欲、野心、色欲、強情、食道楽、酒浸り、大食、これらに類似のもの。さて、強欲は金銭をまるで強く求めるべきものであるかのように思う過剰な信念が巣くい深く居座ったものであり、残りのものにもこの種の類似の定義が当てはまる。ところで、障害の定義は次のようである。不愛想は親切は強く避けねばならないという過剰な信念が巣くい深く居座ったものである。ヒッポリュトスのような女嫌いやティモンのような人間嫌いも同様に定義される。
Cicero,TD.4.12.27=SVF.3.423
別の人々はそれぞれ別の病気に傾いているように(つまり、我々はある人々を風邪をひきやすいと、また別の人々は腹痛を起こしやすいというが、それは既にそうなっているからではなくしばしばそうなるからなのである)、ある人々は恐怖に、別の人々は別の惑乱に傾いている。こうしたことから、ある人々においては不安が語られ、そこから不安な人々が語られるが、別の人々においては怒りっぽさが語られ、これは怒りとは異なっている。また、怒りっぽい人と怒った人とは別であって、不安が不安感から区別されるのと同様である。というのは、不安な人々全てがいつか不安にさいなまれているわけではなく、不安な人々は常に不安にさいなまれているわけでもないから、酩酊と酒浸りの間に差異があり、恋愛しやすい人と恋愛している人は別であるのと同様に。
Cicero,TD.4.13.29=SVF.3.425=LS.61O
(13.28)さて、肉体に病、病状、悪調があるように精神にもある。彼等が呼ぶところでは、全心の悪化が病であり、弱さを伴う病が病状であり、肉体の部分が互いに調和せず部分の不調・歪み・奇形が生ずる時が悪調である。このように、あの2つ、病と病状は身体全体の健康の動揺と惑乱から生ずるが、悪調は健康が損なわれていなくてもそれ自体で認められる。しかし、精神において我々は理論上病を病状から区別できるだけである。ところで、邪悪さは全人生を通じて一貫せず自分自身に同意しない性向あるいは状態である。こういうことになる。つまり、悪くなった信念から病と病状が引き起こされることもあれば、不調和と齟齬が生じることもある。すなわち、全ての悪調が等しい不和をそなえているわけではない、知恵からそう遠く離れてはいない人々のあの状態が自己分裂を起こしていて、しかし他方、無知ではあるがねじ曲がっても歪んでもいないということがあるように。さて、病と病状は劣悪さの部分ではあるが、惑乱がその部分であるかどうかは疑問である。(30)というのも、悪徳は居座る感情であるが、惑乱は運動であり、居座る感情の部分ではありえないから。
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Cicero,TD.4.13.30=SVF.3.279
さらに、悪においても肉体との類似が精神に及ぶように、善においてもそうである。つまり、身体における主要な健全さは、美しさ、力強さ、耐久力、敏捷さであるが、魂においても同様である。すなわち、肉体の調和は、我々を成り立たせるものが相互に一致する時、健康となるのだが、同様に魂のそれもそれがなす判断や信念が調和するときにそう呼ばれる。
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そして、魂にそなわることものが徳であり、それを節制そのものだと言う人々もいるが、節制の忠告に従い、服従して独自の種をなさない魂だと言う人々もいる。しかし、後者であれ前者であれ、賢者にのみあるということであるが。他方、魂のある種の健康は賢者でない者にも生じるが、それは医者たちの治療によって魂の混乱が取り除かれるときである。
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Cicero,TD.4.13.31=SVF.3.279
また、肉体の諸部分のある適合した形態が何らかの快い色彩を伴ったものが美しさと呼ばれるが、そのように魂において信念や判断の一様さと一貫性が何らかの堅固さと不動さを伴い、徳に服従するか徳の力そのものを保持する場合、美しさと呼ばれる。同様に、肉体の力や神経の働きに類似のものとして類似の語彙で魂の力も名付けられている。肉体の敏捷さは素早さと呼ばれるが、この同じものは性格にもそなわり、魂が沢山の物事を短い時間で走査できる故に賞賛を保つのである。
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Cicero,TD.4.14.31=SVF.3.426
あの点に精神と肉体の違いはある。つまり、健全な魂は病にそそのかされ得ないが、肉体にはそれがありうる。しかし、肉体の障害は非難なしに受け入れられるが、精神のはそうではない、その全ての病と惑乱は理性の軽視から生ずるのだから。それ故、人間だけに生ずるのである。つまり、獣も何か同じようなものを起こしはするが、惑乱に陥ることはない。
Cicero,TD.4.14.32=SVF.3.430
精神の病状と病気は殲滅しうるにしても困難であり、徳の対立物であるあの最高の悪徳以上であると彼等は説く。というのは、病気が留まっているのに悪徳が取り除かれるということがありうるが、それはあの悪徳が破壊されるよりも早く病は治癒されないからである。
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Cicero, TD. 4.14.33=FDS.42
(4.14.33)君が手にしているのは、惑乱についてストア派の人々が素っ気なく論じたことなのだ。それを彼等はギリシャ語で「論理学」と読んでいるが、それは論じられ方が煩瑣だからなのだ。
Cicero, TD. 4.15.34 = SVF. 3.198 = Pearson,Z.117
徳については他のところでも論じたしこれからもしばしば論ずるべきだろう、なぜならたくさんの問題が徳と性格に関わっており徳という泉から流れてくるのだから。従って、徳は魂の一様し一貫した状態であり、徳が内に備わるものを称賛に値するものとし、それ自身によって、つまり有用さを度外視してもなおそれ自体で、徳それ自体を称賛に値するものにするのだから、これらから全ての立派な意志や言葉・行為を正しい理が押し進めるのである。徳そのものが、ごく手短に言うならば、正しい理だと言えるのではあるが。
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従って、こうした徳の反対のものが邪悪さである(つまり、ギリシャ人がギリシャ語で「悪徳」と呼ぶものを私は悪意と言うよりはこのように呼びたいのだが、それは「悪意」というのはある個別の悪徳の名であるのに、「邪悪さ」というのは全部の悪徳を言い表すからなのだ)。
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Cicero,TD.4.15.34=LS.61O
ここから引き起こされるのが感情であって、ちょっと前に論じたように、これらは魂の駆り立てられ混乱した運動であり、理性に背き精神と人生の平静さに敵対するものなのである。すなわち、これらは悲嘆やつらい不安を持ち込んで魂を圧迫し恐怖によって弱らせるのである。この同じものは果てしない欲望(我々がときに欲求ときに強欲と呼んだものだが、節制や抑制から遠くかけ離れた、魂の何らかの不能のことである)によって魂を燃え上がらせるのである。(15.35)求めていたものをこうしたものが手に入れると必ず喜悦で高揚してしまうのだ。感情がなすことには「何の定めもない」、こう言うあのお方は「限度のない喜びは魂の最大の過ちである」と述べている。従って、こうした悪の治療はただ徳だけにある。
Cicero, TD.4.21.47 = SVF.1.205
惑乱の定義については、ゼノンのそれが正しいと思う。つまり彼はこう定義している。惑乱とは、正しい理性に背く反自然的な、魂の情動である、と。あるいはもっと手短に、惑乱は激烈すぎる欲求である、と。さて、「激烈すぎる」というのは自然本来の成り立ちからすぐにそれるということだと理解していい。
Cicero,TD.4.24.53=LS.32H
(24.53)そうすると我々は不健全な精神を有益だと言うべきなのだろうか。勇気の定義を考察したまえ。癇癪など不要だということが分かるだろう。
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Cicero,TD.4.24.53=SVF.1.628;3.285=FDS.312; 147A=LS.32H
従って、勇気とは踏みとどまるべき事柄において最高の法に従う、魂の状態である。あるいは、恐ろしいと思われる事柄に向かっていったり退いたりすることにおいて確実な判断を保つこと、あるいは、恐ろしいことやその反対のことや全く無視すべきことに関わりこうした事柄に関する確実な判断を保つ知識、あるいはクリュシッポスが言うようにもっと簡潔な定義もある。(すなわち、前に挙げた定義はスパイロスのものである。ストア派の人々の言うところでは彼はうまく定義を定めた最重要の人々の一人である。つまり、定義は全部ほとんど似通ってはいるが、通念に沿って語られる度合いには差がある)すると、クリュシッポスはどのように言っているのか。勇気とは、彼は言う、耐えるべき事柄についての知識である、と。あるいは、耐えることや持ちこたえることにおいて恐れを抱かずに最高の法に従う魂の状態である、と。カルネアデスが常々そうだったように我々はいつもこの人々に反対しているとはいえ、もしかしたら彼等だけが哲学者ではないかとも思うのだ。というのは、こうした定義のうちに我々の持つ概念を明白にしないものがあるだろうか、我々全員が隠し持って内に秘めているそれを。こうしたことが明らかになったなら、兵士や将軍や弁論家に何か他のことを要求する物がいるだろうか。狂気がなければ誰も勇敢に振る舞えないなどと考える者がいるだろうか。
↓
Cicero,TD.4.54
どうだろう。ストア派の人々は、賢者でない者は全員狂っていると言うのだが、こうしたことを結論付けないだろうか。惑乱、何よりも苛立ちを取り除け、そうすればもう彼等がすごいことを言っていると分かるだろう。さてところで、彼等の言うことはこうである。愚者は全員狂っていると言われるのは、汚いものが全て悪臭を放つというような意味である。しかし常にそうだというわけではない。奮起してみよ、そうすれば分かる。イライラしている者がいつも怒り狂っているわけではない。自分を駆り立てよ、その時君は自分が怒り狂っていることに気付くだろう。
Cicero,TD.4.26.56
しかし、対抗意識を燃やすこと、誹謗すること、同情することも有益であるというのだ。それならなぜ、そうできるにもかかわらず、君は力を貸すことよりもむしろ同情するのか。それとも、同情なしには我々は寛大な自由人ではありえないというのか。というのは、我々は他人のために自分の身に苦痛を引き受けるべきなのではなく、むしろ、それが可能なら、他人の苦痛をやわらげてあげるべきなのだ。
Cicero,TD.4.29.62=SVF.3.488(全哲学に共通の治癒論述)
(29.62)だから、全ての哲学者たちには、既に言ったように、治癒の理論が一つしかない。つまり、魂を惑乱させるものについてはそれが何であれ語らず、惑乱そのものについて語るべしということである。
それだから、まず欲望そのものにおいてはただひたすらそれを滅することが問題である以上、欲望を動かすあのものは善なのかどうかということを問うてもしょうがない。むしろ、欲望そのものが滅されねばならないと論ずるべきであり、それは、最高善が美徳だけであろうと、快楽であろうと、これら両者の混合であろうと、あの3種の善があろうと、さらに仮に徳そのものへの強烈な欲求であろうと、それを抑圧するために全ての哲学者が同じ論述を用いねばならないためなのである。
Cicero,TD.4.29.63=SVF.3.484
そして、クリュシッポスが、いわば魂の高揚である新鮮なものに対して治療とすることを禁じたことを我々はしたのであり…
Cicero, TD. 4.33.70 = SVF. 3.653
徳の教師たち、つまり哲学者たちの下に赴こうではないか。彼等は愛は恥ずべきものではないとしているのだ。そしてこの点でエピクロスに異を唱えている。エピクロスは、全部が全部ではないが、私の見解では、嘘つきである。というのも、友情に関わる愛というのはいったいどういうことになるのか。…
Cicero, TD. 4.72 = SVF. 3.652
実際、ストア派の人々は賢者も愛情を抱くだろうと言っており、愛情そのものは美しい外見から友愛を作ろうとする努力だとしている。
第5巻
(1.1)この第5日で、ブルトゥス君、トゥスクルム論叢も終わることになるだろう。この日我々は君が何よりも最もよしとする問題について論じたのだ。というのはつまり、君の気に入ったということを私はしっかりと感じとったのだから、君が細心の注意を払って著作して僕に献じてくれた書物からも、君の沢山の弁舌からも、徳は幸福に生きるにはそれだけで十分だということが。これほど様々なまたこれほど沢山の運命の責め苦のせいでこのことを証明するのが困難だとしても、それでも努力するに値することなのだ、より分かりやすく論証するためには。つまり、哲学で論じられている全てのことのうちこれほど重厚で威厳に満ちたものは何もない。(1.2)哲学の探求に実を捧げた最初の人々を衝き動かした動機は、あらゆるものを些細なものとして全く自らを人生の最高の状態の追及に据えることだったが、彼らは幸福に生きることを期待して本当にこの探求にあれほどの注意と努力をおいたのだ。そして、この方々によって徳が見出され完成されたのであれば、また徳には幸福に生きるための十分な守りがあるとすれば、あの方々が据え、我々が受け継いだ哲学の営みを明白に論じない者が誰かいるだろうか。しかし、もし徳が様々の不確かな偶然に屈伏し運命の下僕になっていて、自分自身を守る力ももたないなら、幸福に生きることを希望して我々が徳の堅固さを頼りにするのも、祈りを捧げることと大差ないのではと不安になる。(1.3)実際、諸々の偶然の中で運命は私を激しく翻弄したのだが、それを私自身自分で考えてみると、こうした教説に時折不信を抱き始めることもあれば、人間という種族の脆さと儚さが怖くなることもある。つまり、不安になるのだ、自然は、我々に弱い肉体を授け、それに不治の病や耐え難い苦痛まで加えたのだから、魂も、肉体の苦痛に巻き込まれるものを、またそれを別としても魂自身の苦悩と惑乱にさいなまれるものを与えられたのではないかと。(1.4)しかし、こういう時私は私自身を責める、他人のそして多分我々の弱さから徳の強固さについて考え、徳そのものからそうしなかったと。なぜなら、あの徳というものは、もしそれがあるとしたら(この疑念を、ブルトゥス君、君の叔父さんが転覆させたのだが)、人間を見舞いうる全てのことを自分より下に置き、それらを軽視して人間の偶然を非難し、全く無実のままで自分自身以外のことは自分には何の関係もないとみなすのだから。しかし正反対に、我々は未来への恐怖とそうかと思えば今現在の苦悶に膨れ上がり、我々の過ちよりも自然の本性の方をむしろ糾弾しようとするのである。
(2.5)しかし、この過ちと我々のその他の悪徳や罪過の矯正は全て哲学から求められねばならない。我々は意欲してその懐へと生涯最初の頃に我々を駆り立て、探求させたのだが、このひどく重くのしかかる不運の中、我々がかつて出航した同じ港に、ひどい嵐に翻弄されたあげく逃げ戻ったのである。おぉ人生の導師、哲学よ、おぉ徳を追い求め悪徳を追い散らすお方よ!我々だけでなく、そもそも人生もあなたなしでどうして有り得ましょう。あなたが都市を整え、あなたが散り散りの人間たちを社会を営む人生へと召集し、あなたが彼らを互いに最初は共同生活で、次は血縁のつながりで、さらには文字と言葉の共有によって結びつけたのであり、あなたは法の創始者、生き方や規範の教師だったのだ。あなたに我々は逃げ込み、あなたに助けを求め、あなたに我々を、かつてはそのほとんど[の時間]をそうしたように今度はすっかり全てを捧げたのだ。それどころか、あなたの忠告に従って善く過ごされた一日は、過ちに満ちた永遠よりも上におかれるべきである。(2.6)だから、誰の助けをあなたのものより以上に用いたらいいのだろうか。あなたが人生の平静を我々に惜しみなく与え、死の恐怖を取り除いてくれたのに。しかし実際には、人々の人生に役立つものだというので賞賛されるなどということにはおよそほど遠く、多くの人は哲学をないがしろにし、たくさんの人々はけなしさえするのである。一体誰が人生の親をあえてけなし、この親殺しによってわざわざ自分を汚すだろうか。またこれほど不敬虔な恩知らずでいる者がいようか、たとえよく知ることができないとしても本来敬意を払うべきものを非難するというほどに。しかし、思うに、こうした過ち、つまり教養のない人々を覆う闇がある理由は、それほど古く過去を振返れず、人間の生活に最初のものをそなえた人々が哲学者たちだったことを認めないからである。(3.7)哲学がどれだけ非常に古いものであるかということを我々は分っているが、しかし名前は最近できたものだということも我々は認めている。というのは全く、「知恵」というものそのものが実質としてだけ古のものであるだけでなく、名前としても古いものであることを否定する者が誰かいるだろうか。これは神々や人間に関わる問題や、またどんなものであれその第一の原因の認識することでこの最高に麗しい名前をギリシャ人達の下で得たのである。こうして、ギリシャ人が彼等の言葉で「賢者」と呼ぶあの7人の方々が我々によって賢人とみなされそう名付けられたのである。また、たくさんの世代を遡って、リュクルゴスや(彼の時代にはホメロスがまだ生きていたのであり、それはこの都市が建設される以前のことだと伝えられている)、さらに英雄時代にはユリシーズやネストルも賢者でありそうみなされていたと我々は理解している。(3.8)実際には、アトランが天を支えているとか、プロメテウスがカウカスによって縛られたとか、ケフェウスが妻や婿や娘と共に星になったとかいうお話は、天体に関わる神々しい探求がこうした名前をお伽話という誤謬に帰さなければ伝えられなかった。そういう人々からずっと世代を下って、物事の観想に努力を払った全ての人々は賢者とみなされそう名付けられたのであり、彼等の拝領したこの名前はピタゴラスの時代まで流れてきている。
プラトンの弟子、ポントスのヘラクレイデス(第一級の学者だ)が書いているところでは、ピタゴラスはフィリウスに赴いて、フィリウス人たちの長、レオンと何ごとか学識に富んだ論議をたっぷりしたということだ。ピタゴラスの天才と雄弁さに驚嘆したレオンは彼から、どの学芸にもっとも信頼を置いているか聞き出そうとしたそうだ。「実の所、自分は何の技術も知りませんが、愛知者(哲学者)ではあります」と応えたということだ。「愛知者」という語の目新しさにびっくりしてレオンは、「愛知者」というのは何者で、他の人々と何が違うのか訊いたということだ。(3.9)しかしピタゴラスは、人生はお祭りに似ていると思う、と応えたのだ、最大の競技を備え、全ギリシャの群衆を集めて有名なあのお祭りに。つまり、あそこでは、肉体を鍛えて栄冠という名誉と名声を追い求める者もいれば、売り買いの利得に引き寄せられた者もいれば、しかし喝采も利益も求めずむしろ観るためにやってきて何がどう行われるのか熱心に観察する人々の、つまり最大の才能の持ち主たちの、そういう類もある。それと同様に、群衆がどこかの街から何かお祭りにやってくるように、我々も別の生涯と本性からこの人生に向けて出発したのだが、名誉に仕える者もいれば、金銭に仕える者もいれば、まれではあるが、他のものは何でもないと見なして物事の本性を熱心に観察する人々も確かにいるのだ。こういう人々は知恵に熱心な者と自称するのだが、それがすなわち「愛知者(哲学者)」ということなのだ。そして、あの場合に最も自由人にふさわしいのは自分には何も求めずに観戦することなのだが、そのように人生においては全ての熱意を凌駕するのが物事の観想と認識なのである。
(4.10)実に、ピタゴラスは名前を作っただけでなく内容そのものをも豊かにした方なのである。フィリアでのこの会話の後、彼はイタリアに赴いてギリシャ(当時「大」をつけて呼ばれていた)を、公のことについても個々人のことについても、非常に優れた制度と技術で飾ったのである。彼の教説についてはいつか多分話す機会があるだろう。しかし、古い哲学からソクラテス(アナクサゴラスの弟子アルケラオスの話を聞いたということだ)までは数や運動が考察されて、全てのものはそこから生まれそこへと帰るとされ、それらの他には星々の大きさや間隔や行路、星に関わる全てのことが追求されていたのである。
しかし、ソクラテスは哲学を空から呼び出して町中に据え、家の中にまで連れ込んで無理矢理性格や善悪の問題を探求させた最初の人なのである。(4.11)色んなことを取り上げる彼の話し方や問題の豊富さ、偉大な天才はプラトンの記憶と書き物によって不朽のものとなり、意見を異にする沢山の哲学学派を生み出したのである。さて、それらのうち最も有力なものに我々は従っているのであり、その学派の流儀をソクラテスも用いたのだと我々は論じているのである。つまり、我々自身の見解は隠しておいて、他の人々を誤りから解放し、全ての議論において真理に近いものを追求するのである。この方法をカルネアデスは最も鋭くまた最も豊かに遵守したのだが、我々は他の機会にもしばしばそうしたし、今もトゥスクルムでそうしているのである、いつものやり方で論じているのではあるが。さて、4日間の会話はこれまでの諸巻という形で既に書き上げて君に送ってしまったが、そこで第5日目だが、同じ場所に我々は腰を下ろして、問題といえば次のようなことであった、それについて我々はこう論じている。
(5.12)幸福に生きるためには徳は十分な力があるとは思えません。
おやおや、でもブルトゥス君にはそう思えるのだよ。私としては彼の判断を、はばかりながら言わせてもらうよ、君のよりももっと高くかっている。
そうでしょうよ。そんなことが問題じゃないんです。あなたがあの方をどれだけ愛しているかなんてことではなくて、私には正しいと思えると言ったこの説がどうかということをあなたに論じてほしいんです。
ふむ、幸福に生きるために徳は十分な力がないと本気で思うのか。
真面目にそう思います。
ではどうだ。正しく、立派に、賞賛されるように、総じてよく生きるためには徳のうちにあるだけでは十分じゃないだろうか。
確かにそれで十分です。
それではどうかね。悪く生きている人が悲惨でないと言えるかね。あるいは、善いと評価される人が幸福に生きてはいないなどと言えるかね。
どうしてそんなことが言えますか。だって、拷問されていてさえ正しく、立派に、称賛に価するように、要するに徳というこのものから善く生きることができるのですから。今私が「善く」と言っていることをあなたが分かっているとしての話ですが。つまり、私が言っているのは首尾一貫して、厳粛に、知恵に適って、勇敢に、ということです。(5.5.13)この徳というものは拷問具の上に投げつけられることもありますが、こんなものに幸福な人生は近付くことはないのです。
それではどうだろう。この問題はどうかね。幸福な生だけが牢獄の入り口や玄関の外に留まっているのだろうか。一貫性や厳粛さ、勇気、知恵やその他の徳は拷問でずたずたにされるし、死刑や責め苦を拒むこともないというのに。
あなたともあろう人が!この先何か論じるつもりでしたら、なにか新しい論じ方を見付けて下さるべきです。今のお話になんてちっとも動かされませんよ。大衆向けだからというのではなく、もっと別の理由からです。軽い酒を水に注いでも効き目がないようなもので、ストア派の人々のこうした論法も生のまま味わって楽しむものでして、水で割ってガバガバ飲んで酔っぱらうものではないのです。あるいはこう言いましょうか。この徳の大合唱団が拷問台の上に置かれると目前にすごい情景を作り出してくれるのですが、その情景はすばらしい威厳をもっているので、それに向かって幸福な生はまっしぐらに走って行き、そんなもの関係ないなどと言わせないように思えるほどなのです。(5.5.14)でも、心を徳にまつわるこうした絵空事や空想から事実と真実に移すなら、残るのはこの赤裸々な問題です。つまり、どれだけ永く拷問されようとも幸福であるなどということが一体ありうるのかどうかということです。だから、この問題を今は論じましょう。徳が幸福な人生に置き去りにされたと訴えて文句を言うのではないかなどという危惧は無用です。というのも、思慮なしには徳は全くありえないのであれば、思慮そのものはこういうことをちゃんと見ているのですから。つまり、善い人が全て幸福であるわけではないということを。マルクス=アティリウス、クイントゥス=カエピオ、マニウス=アキリウスについて沢山のことが記されていますし。幸福な生は、もし事実そのものではなくて空想を引き合いに出す方がお気に召すのでしたら、依然拷問台にすすんで向かって行くものですが、思慮は幸福な生には苦痛や苦悶と共通なものなど何もないと言うのです。
(5.6.15)まぁいいだろう、君はそういう論じ方をしてもよい。こう論じてくれと君の方から指図されるのは公平ではないけどね。それはともかく、この点はどうかね。これまでの数日で何かはかばかしい成果はあったのだろうか、それとも全然無意味なことを論じていたのだろうか。
それはもう論議は十分なされましたし、実際かなりの成果もあったのです。
それなら、もしそうだとしたら、こうした問題はほとんどかたがついていて、もう出口目前なのではないかね。
どうしてそういうことになるんですか。
人々の魂に不安定な動きや動揺があると、思慮のない扇動と衝動で高揚して理性を全部ひっくり返し、幸福な生のひとかけらも残さないのだから。なぜなら、死や苦痛を恐れる者が、前者はしばしば迫ってきて、後者は常に邪魔だてするのだが、悲惨でないことがあろうか。どうだろう、普通によくあることだが、この同じ人が貧乏や屈辱、不名誉を恐れるなら、貧弱や盲目ならどうだろう、それから個々の人々には関わりがないがしばしば有力な国家をもみまうもの、隷属はどうだろうか。(5.6.16)こうしたものを恐れる人が一体幸福だろうか。どうだろう、こうしたものが将来起こることだけでなく、現にあるのを耐えて持ちこたえている人は。この同じ人に国外追放や悲嘆、身内の不幸を加えてもいい。こうしたことに翻弄されて苦痛にさいなまれている人が悲惨でないことがあろうか。実際どうだろう。欲望に燃え上がって狂っているように見えるあの者は。満たされない欲望を抱えて全てのものを狂ったように欲望し、がめつく快楽をあらゆるところから引っぱり出すほどになおさら熱烈に乾きを呼び起こす者は。この者を君は最も悲惨な者と言えば正しいのではないか。どうだろう。あのように軽薄にものぼせ上がり、虚ろな快楽に高揚して愚かにも有頂天な者は、自分でより幸福だと思うだけもっと悲惨なのではないか。それ故、こうした連中が悲惨であるように、逆に幸福なのはあの人々なのである。彼等はどんな恐怖にも脅かされず、どんな苦痛にも征服されず、どんな欲望にも動揺されず、どんなのぼせ上がった空しい快楽にもつまらない快楽で溶かされることがないのだ。だから、海が穏やかだと考えられるのは全くどんな小さい風もなく波が立たない時であるように、魂の穏やかで平安な状態が認められるのも何ら惑乱がなく乱され得ない時なのである。(5.6.17)それでもし、遇運という力や全ての人間的なことを、こうしたものは誰にでも生じうるものだが、耐えうるものと考える人がいれば、そしてそこからはもう恐怖も悲嘆も彼には及ばないとすればどうだろう。またこの同じ人が、何も激しく欲望せず、また魂の虚ろな悦びに全く運ばれることがないならばどうか。この人はどうして幸福でないことがあろう。また、こうしたことを引き起こすのが徳だとすれば徳そのものがそれだけで人々を幸福にしないことがあろうか。
(5.7.17)いや、異論はありません。何ものも恐れず、悲嘆することもなく、欲望も抱かず、喜悦に運ばれることもありえない人々が幸福であるというのは、それはその通りだと認めて差し上げましょう。しかし、もう一つの点もまだ全く手つかずというわけではないですね。というのも、これまでの論議の成果が、賢者は魂の全ての惑乱を欠いているということなのですから。
(5.7.18)それなら間違いない、問題は解かれたのだ。出口に至ったように見えるからね。
まさにその通りです。
しかし確かに、他ならぬこの議論は数学者達の流儀ではなく哲学者たちのそれによるものなのだ。つまり、前者は何か幾何学の問題を証明しようとする場合、以前に証明されたもののうちにこの問題に関わりのあるものがあるならばその承認済み、証明済みの事柄に関係付けて当の問題を取り上げ、それまで明文化されていなかったことをそうやって説明することしかしない。哲学者は、問題を手にしている時ならいつでも、その問題に役立つことは全て集めるのであり、それは他のところで議論済みであっても変わらない。そうでないわけはない。なぜならどうして、ストア派は、幸福に生きるために徳は十分であり得るかどうかと訊ねられこれだけ沢山のことを言えたものか。こう答えればストア派にとっては十分だったろう。「美徳に適わないものは何ら善ではないということは論証済みである。このことが証明されれば、幸福な生には徳で十分であるということが帰結する。そして、こうしてこのことがあの前提から帰結するが、逆も真であって、あの前提もこの命題から帰結するのであり、つまり、幸福な生には徳で十分であるなら、美徳に適うものでなければ何も善でないのである」と。(5.7.19)ところが、彼等はそういう風に論じているわけではないのだ。なぜなら、美徳と最高善について別々の書物があるし、こうした論述から、幸福に生きることに十分大きい力が徳にはあるということが帰結するとしても、それでもなお彼等はこのことについて独立した論考をなしたのであるから。つまり、それぞれに適した論議と推奨によって扱われねばならないということはどんな問題にしてもそうなのだが、この問題は特にそうなのだ。というのも、よく気を付けてほしいからだ。哲学にはもっときらびやかな発言が何かあるはずだとか、もっと豊かで重大な前提が哲学にはあるはずだとか主張しないようにしてくれたまえ。それなら、哲学が公言するのは何なのだろう。おぉ、善良なる神々よ、哲学は自ら確証することだろう、その法規を遵守する者が遇運に対して常に臨戦状態にあることを、己が善く幸福に生きるための庇護を全て備えていることを、そしてそれ故に常に幸福であることを。(5.7.20)しかし、この論法がどれほどの効力をもつかはいずれ見ることにしよう。差し当たり、そこで約束されていることそれ自体は高く評価しておくがね。と言うのも、事実ペルシャ大王クセルクセスは運命からもたらされた外的善という供物や捧物に取り囲まれていたのに騎馬兵にも歩兵にも、膨大な船団にも、際限のない重さの金にも満足せず、新しい喜悦を見付けた者がいればその者に褒美を出したのである(もっとも大王はそれにさえ満足はしなかったのではあるが。というのも、欲望は限界など全く見出さないのだから)。我々は、こうしたことをより堅固に信じさせてくれるものを何か与えてくれる人がいたら、報酬を与えてその人を引っ張って来られるとよいと思う。
(5.21)実際そう望みたいものです。ところで、少々お訊ねしたいことがあるのですが。と言いますのも、あなたがお話になったことが一つ一つ理論的に整合しているということには私も同意いたします。たとえば、美徳だけが善ならば、そこから帰結するのは幸福な生が徳で規定されるということですが、丁度そのように、幸福な生が徳の内にあるのなら、徳でなければ善ではないことになる、といったことです。しかし、あなたのブルトゥスはアリストゥスやアンティオコスを引き合いに出して、そうは考えないのです。というのも、たとえ徳以外に何か善があったとしてもそう主張するのには変わりがない、というのですから。
(5.22)だったらどうした。この私がブルトゥスに反論してくれとでも言うのかね。
いやいや、お好きなようになさって下さい。指図するのは私のすることではありませんから。
それなら、何が何に整合するかなどということは別の機会にしよう。というのも、まさにこうした問題でしばしば私とアンティオコスは同意しなかったし、最近ではアリストゥスともそうだったのだから。あれは、アテナイに名誉司令官として赴いて、彼のところに留まっていた時のことだったな。つまり、災悪の中にあるならば誰であれ幸福ではありえないと私には思えたのだ。ところで、賢者も災悪の内にあることはないわけではないのであって、肉体や外的な遇運の点で何か災悪がある場合にそうなるだろうというのだ。一般にそう言われており、アンティオコスも沢山の箇所でそう書いているのだが、徳そのものはそれだけで幸福な生を作り上げることはできるが、それでも最高に幸福なものにすることはないというのだ。こうして、より多くを占める部分に基づいて名付けられるものがたくさんあるのであって、そういうものはたとえいくつかの部分が欠けていてもそう呼ばれるのだ。例えば、力、健康、富み、名誉、栄誉等はそういうものであって、これらは数量ではなく類に基づいて判別されるのだ。幸福な生もそうであって、たとえ何らかの部分で不足があったとしてもより多くを占めるその他多くの部分からその名を堅持している、というのだ。(5.23)今こうした見解を詳しく検討する必要はない。ともかく、首尾一貫した説だと私には思えないが。というのも、幸福な人がさらにより幸福になるのに何が必要なのか、そんなこと知ったことではないから。なぜなら、何か欠けているものがあるなら、その人は全然幸福ですらないのだから。そして、より多くを占める部分からそれぞれ個々のものが名付けられそう見られると言われていることが、まさにそういう仕方で効力をもつ場がどこかにあるのである。実際、災悪には3つの種類があると言われるのだから、そのうち2種に属するあらゆる災悪に圧迫される人、つまり運にあっては全てが逆境となり肉体は全ての苦痛に押しつぶされ消耗させられる人は幸福な生にも何かちょっと欠けていると我々は言うのではないか。最高に幸福な生に届かないのは言うまでもなく。
(5.24)これがテオプラストスが維持できなかったあの見解なのだ。つまり、彼の説では、打擲や拷問、虐殺、祖国の滅亡、国外追放、身内の不幸は大変な力をふるって人を劣悪で悲惨な生に導くのである以上、敢えて高尚に堂々と語ることはしなかったのである、こういう見解は下賤で卑俗なものだと思ったので。どれだけ立派なよい見解かということは問題にしないとしても、とにかく一貫した見解であることは確かだ。こんな風に一貫性の点で批判をするのは普通私の好みではない、最初の前提を君は認めているのだから。しかし、全ての哲学者達の中で最も優美で雄弁家だったこの方は、善に3種あると言った時にはそれほど非難を受けなかったが、『幸福な生について』という書物では初めて全ての人々から攻撃されたのだ。つまりその中で彼は沢山の論議をして、拷問されたり虐殺された人が幸福でありえないのはなぜかということを論じているのである。その本の中で彼は車刑台(つまりギリシャ人達の拷問法の一種なのだが)に幸福な生が登ることはないとまで言っている、と言われている。実は彼はこんなことを全くどこでも言っていないのだが、しかし彼の主張が意味するところは同じことである。(5.25)だから、肉体の色々な苦痛や、運勢の「難破」を悪いもののうちに入れることを私が誰かに許すならば、「全ての善い人は幸福である」と言う人々にこの人を含めることができるであろうか。あの人が悪の中に数え入れるものは全ての善い人に降りかかりうるのだから。同じテオプラストスは、全ての哲学者の書物や講義によって攻撃されているのだが、それもこれも彼の『カリステネス』という本の中であの文句を称揚しているからなのである。
人生を支配するのは運であって、知恵ではない
哲学者がこんなお粗末なことを言ったことはなかったというもっぱらの評判である。それはそれでもっともなことだが、[テオプラストスが]これ以上一貫したことを言い得たかどうかは私は分からない。というのも、肉体にこれほどの善いものがあり、肉体の外にもそれほど多くのものが偶然や運のうちにあるとしたら、より首尾一貫した見解ではないのだろうか?運が、外的なものや肉体に関わるものの女王であって、思慮よりも大きい力をもっている、ということは。
(5.26)それとも、エピクロスの方を真似ようとすればよいのか?この人も時々は立派なことを言うのだ。[「時々」]というのは、どれだけ自分に首尾一貫した整合的なことを言っているかということに彼は無頓着なのだから。彼は質素な生活を誉め讃えている。そうするのが哲学者の本分なのは確かだが、ソクラテスやアンティステネスがそう言えばよかったのだ、究極善を快楽だと言った人ではなくて。誰であれ快適に生きられるには立派に、知恵に適って、義しく生きなければならない、と彼は言う。しかし、これ以上厳粛で、より哲学に相応しいことは言えないだろう、「立派に、知恵に適って、義しく」というまさにそのことを快楽にも応用するのでなければ。「運命は賢者には大した妨げにならない」これ以上よい文句があろうか。だが、この文句をあの人は言えるだろうか。苦痛を最大の悪であるというだけではなく唯一の悪であると言った以上、運命に全面的に逆らって毅然とした態度をとるなら、ひどく激しい苦痛に全身を圧迫されかねないではないか。それと同じことをメトロドロスはもっとよい言葉で語っている。(5.27)「運命よ、私はあなたを捕まえ縛り付けた。あなたが近付いてきても閉め出してしまうので、近寄ることはできない」
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Cic,TD.5.9.27=SVF.1.185;362(Aristo)
立派な言葉だ。しかし、キオスのアリストンか、あるいはストア派のゼノンがそう言えばよかった。彼は汚涜でなければ何ものも悪ではないと説いたのだ。
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メトロドロスよ、まさしく君は全ての善を肉と腹に置き、究極善を肉体の確かな状態とそれへのはっきりした期待で規定したのだから、運命の接近を閉め出せたのか?どうやってだろう?というのも、まさに君の言う善によってたちまち払拭されうるではないか。
(5.10.28)そして、こうした見解は思慮の経験が足りない人々を捕らえているし、まさにこうした教説のせいでこの派の人々は大勢いるのである。しかし、各々が何を語っているかということではなく何を語らねばならないのかというあのことを論じるべきなのは、鋭い議論をする人なのである[、エピクロス派ではなくて]。例えば、この論議で我々が述べた教説の中でも、「全ての善い人々は常に幸福である」ということを我々は強く主張しているのだ。誰のことを「善い人々」と言っているかは明らかである。つまり、全ての徳を修め備えた人々を我々は時には知者(賢者)と時には善い人々と言っているのである。誰を幸福な人と言えばよいか見よう。とにかく、私がそう言うのは善いもののうちにあって何の悪いものも加えられていない人のことである。「幸福な」と言った以上、この言葉には何の隠された意味もない。悪いものとは全く無縁の、善いものの完全な集合というだけのことである。徳は、おのれ以外の何かが善いものならば、これに至ることができない。ああいったものを悪いものと言うならば、災悪の大群が押し寄せてくるだろうから。貧乏、無名、下賤な家柄、孤独、身内の不幸、激しい肉体的苦痛、健康が損なわれること、身体の不能、盲目、祖国の滅亡、追放、最後に隷属といったものを。こうした、これほど多くのまたこんなにひどいものの中にさえ(いやそれどころかもっと沢山のものだって降りかかりかねないのだ)賢者はあることもあるのだ。というのも、こういうものを押しつけるのは遇運であって、それは賢者に突進することもできるのだ。しかし、こういうものが悪いものなら、誰が公言できよう、賢者は常に幸福なのだなどと、こうした全ての災悪の中に一遍に陥ることもあり得るというのに。(5.10.30)だから私はたやすく認めるわけにはいかないのだ。我がブルトゥス君にせよ、我々共通の師にせよ、あの古人たち、アリストテレス、スペウシッポス、クセノクラテス、ポレモンにせよ。私が先に挙げたものを悪いものに数え入れながらも、その同じ人々が「賢者は常に幸福だ」と言う、などということは。彼等をこの輝かしく麗しい名称(ピタゴラス、ソクラテス、プラトンに最もふさわしいものだ)が喜ばしたのであれば、彼等はこう決心するべきなのだ。つまり、魅力で人々を擒にするあのもの、力、健康、美しさ、財産、名誉、富を軽蔑し、これらに反対のものは何でもないものとみなすべきなのだ。その時こそ、最も大きい声で自らこう認めることができるのだ。運命の攻撃にも大衆の意見にも苦痛にも貧乏にも脅かされず、自分に関わりのある全てのものは己の権内にあり、自らの権内にないものは何であれ善いものに含まれると考えない、と。(5.10.31)さて、誰であれ偉大で崇高な人々に属すこうしたものについて語りつつ、同時に俗人と同じものを善いものや悪いものに数え入れるなどということはいかにしても認められ得ない。この高名に感動してエピクロスは浮かれ上がったのである。いやはや!、彼にだって賢者は常に幸福だと思えたのだ。この説がこれほど威厳をもっているのに彼は擒になったのだが、しかし彼は自分で自分の言うことを聞いていれば決してそんなことは言わなかっただろうね。と言うのも、こんなに辻褄の合わないことなどあるかい。最高のあるいは唯一の悪は苦痛であるなどと言っておいて、その当のお方が考えるに、苦痛にさいなまれている最中に賢者は「こりゃなんと結構だ!」と言うだろうというのだよ。だから、ここの発言によってではなく、破綻のなさと首尾一貫性によって哲学者というものは吟味されねばならないのだ。
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Cicero,TD.5.11.32=FDS.251
(5.11.32)誘導ですよ。あなたに同意させようというのですね。それはともかく、あなたの方も気を付けて、首尾一貫性が損なわれないようにして下さい。
どういう意味かね。
と言いますのも、つい最近あなたの『究極[善悪]論』の第4巻を読んだからです。私見では、そこであなたは[小]カトーに抗弁してこう論証しようとしていたように見えるのです(そして実際その論証は妥当だとも思うのですが)。つまり、ゼノンと逍遥派の間には用語の目新しさを別とすれば何の懸隔もないというのです。もしその通りだとすると、何の理由があるでしょう。もし、幸福に生きるための力が徳の内に十分にあるという説がゼノンの教説に首尾一貫するなら、逍遥派が同じことを言ってはいけないことがあるでしょうか。なぜなら、思うに、字面ではなく事柄そのものに注目すべきですから。
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(5.11.33)君は封印した文書を立てに私を訴えて、私がどこかで言ったり書いたりしたことを証人にするのだな。そんなやり方の議論は、布告された法律について喧々囂々やっているあの連中としたまえ。我々は日々を生きているではないか。蓋然性を伴って我々の心に当たったものはとりあえず言ってみるのだ。そうやって我々だけが自由であるのだ。ともかく実際、ちょっと前に首尾一貫性を話題にしたのだから、私としてはここでそんなことを問題にすべきだとは思わない。つまり、ゼノンの説や彼の教えを聴いたアリストンの説、美徳だけが善であるという見解が正しいかどうかなどということではなくて、*もしそれが現実にそうなら、幸福に生きるというこのこと全体を一つの徳におくのは首尾一貫した説になるのかどうかということが問題なのだ*。(5.11.34)だから、よければ、ブルトゥスにこの点を認めてやろうじゃないか。賢者は常に幸福だということにしておこう(これがどれだけ調和しているかということは彼自身見ればよい。まったく、この見解の名誉にふさわしいのはあの方をおいて誰がいようか)。それはともかく、我々としてはこの同じ者が最も幸福であるという点は堅持しよう。
*…*ポーレンツに従う。色々読みの案はあるが、特に大意に大きな違いはない。
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Cicero,TD.5.12.34=FDS.248A
(5.12.34)そしてもし、キティオンのゼノンが、何というか移民であって下らない用語鍛冶屋だが、古来の哲学に潜り込んだように思われるとすれば、彼の教説の威厳はプラトンの権威の焼き直しなのだ。プラトンの下でも、徳以外は何も善と言われないというこの教説はしばしば説かれていたのだから。
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例えば、『ゴルギアス』の中でソクラテスは、「ペルディッカスの子アルケラオスは(最も幸せな者と思われているのだが)幸福ではないのか」と尋ねられて、こう言うのである(470d-)。
(5.12.35)「全然知らないね。というのも、彼と話し合ったことがないんだから。
何ですって?そうしないと分からないというのですか?
他にどうしようもないね。
では、ペルシャ大王も幸福かどうか全く言えないというのですか?
この私にできるものかね?知らないのだよ、彼がどれだけ教養ある人か、どれだけ善い人かを。
何ですか?あなたはそこに幸福な生はあると言うのですか?
まさにそれが僕の主張だよ。善い人は幸福で、愚か者は悲惨なのだ。
そうすると、アルケラオスは悲惨なのですか?
そうだ、彼が不正な者ならばね」
(5.12.36)このお方が幸福な生全体を一つの徳においているのはあきらかではないかね?では実際どうだろう?葬送演説の中ではこの同じ方はどう言っているかね?こう言っているよ。
「つまり、幸福に生きることに導く全てのものが自分に備わっている人、他の人に何かが降りかかった際にも他の人々の良運や逆境に左右されるものがのしかかることがなく、無理矢理過ちに陥れることもない人、こういう人には最も善く生きるための理法が完備しているのだ。この人こそあの節度ある人、この人こそ勇者、この人こそ知者であり、この人は、その他の善いものなかんずく子供達が生まれようが亡くなろうが、あの古人の教え[「何事も度を超すなかれ」]に服し従うだろう。すなわち、この人は決して度を超して喜んだり悲しんだりはしないだろう。自分自身に対する希望が常に自分自身のうちにあるからである。だから、このプラトンというまるで神聖で神々しい泉から我々の論議は全て流れて来るであろう。
(5.13.37)それだから、我々共通の母である自然から始めるより他にどこからすれば我々はより正しくできるだろうか。彼女、自然は自分が産みだしたものは何であれ、動物だけでなく、大地から生じ自分の根で成長するものも*、己の種の中では完全であるよう望んだのだ。だから、樹木であれ蔓であれ、地に這いつくばり自分で自分を高く持ち上げることができないものであれ、或るものは常に青々とし、或るものは冬は裸になるが春になって暖められると葉を茂らせるが、一種の内的運動と自らのうちに含まれた種子とによって力を発揮して実や果実や種を作り出す。そうしないものは何もないのである。つまり、全てのものは全てにおいて、己の権内にある限りでは、妨げる力さえなければ完全になるようになっているのである。(5.13.38)動物ならばさらに容易に自然そのものの力を認めることができる。動物達には感覚が自然から与えられているからだ。つまり、海の住民となって泳ぐように望まれたものもあれば、飛翔して自由な空を享受するものもあれば、地を這うものも、足で歩くものもあるのである。歩くものの中でも、孤独に歩くものもあれば、群れるものもある。野生のものも、他方飼い慣らされるものもある。地面に潜み隠れるものもないわけではない。さて、これらの各々は己の務めをもっており、異なる動物の生に転じることはできないので、自然の法の内に留まるのである。そして、動物達にはそれぞれに見合った特性が自然から与えられており、それを己のものとして持ち続けて離れないが、同様に人間には遙かに優れたある特性が備わっているのである。優れたものと呼ぶべきではあるがある種の比類を許すとすれば、人間の魂は心的な精神を集めてできたものであるから、こう言ってよければ、神御自身とでなければ何ものとも比類され得ないのだ。(5.13.39)だから、このものがよく養われるならば、またその鋭さが過ちによって曇らされないように心がけられるならば、それが完全な精神となるのだ。それはすなわち絶対的な理性であり、同時に徳でもある。そして、何も欠かないもの、己の種族の中で満たされ完成されたものが全て幸福に値するものであり、それが徳の特性でもあるならば、徳を備える人々は全て間違いなく幸福であるのだ。
*ラテン語には「植物」にあたる語彙がないらしいということである。
そして実際この点は私とブルトゥス君に共通している。ということはつまり、アリストテレス、クセノクラテス、スペウシッポス、ポレモンとも共通しているということだ。
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Cicero,TD.5.13.40=LS.63L
しかし、私見では[徳をそなえた者は]最も幸福な者でもあるのだ。というのも、自分に備わる善いものに確信を持つ者が幸福に生きるために何を欠いているだろうか。別の言い方をすれば、そういうことに自身のない者が幸福でありうるだろうか。ところが、こういうことに不信を抱かざるをえないのが善いものを3つに分ける者なのである。(5.14.40)つまり、誰が肉体の堅固さや運の確固さを信用できるものか。それどころか、確固とし定まった不変の善を欠いたままで幸福であり得る者などいない。しかるに、あのような類のものの何が当の彼等に備わっているか?それだから、スパルタ人のあの諺が彼等にあてはまるように私には思われるのだ。何とたくさんの船をありとあらゆる海岸にばらまいたことかとえらく自慢げなある貿易商にその人はこう言ったという。「全然ほしくないね、船縄につながれた幸運なんて」と。失われうるものならば、幸福な生を作り上げるものの類には実は何も含まれてはいないのではないかという疑いがないだろうか?つまり、幸福な生が存するものの何一つとして潰えてはならないし、取り除かれてはならないし、失われてもいけないのである。すなわち、こうしたものの何かが失われるのではないかと恐れるならば、その者は幸福にはなりえないだろう。
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(5.14.41)というのも我々の見解では、幸福な人は全く安全で難攻不落、防壁に囲まれ、鎧に覆われているので、全く恐怖をもたず、ちょっとは恐れるというどころではないのだ。つまり、彼は潔白な者と言われ、わずかに加害をなすということはなく、むしろ全く加害をなさないのだが、同様に、彼は恐怖のない者とみなされるべきであって、わずかに恐怖を感じるということはなく、むしろ全く恐怖を欠く者であるのだ。というのも、勇気とは来るべき危険や苦労、苦痛に耐えるとともに全ての恐怖から離れている、魂の状態に他ならないではないか?ところで実に、善の全体が唯一の美徳に成り立っていなければ、こうしたことは事実ではなかったろう。(5.14.42)しかし誰があの最高に望ましくまた求められる平安を(ところで平安と今私が言っているのは苦悩がないことということであって、その中に幸福な生は置かれているのだが)、それを誰がもちうるものか、その人に災悪の大群が迫っている、あるいは迫りかねないとすれば?また、誰が上を向いて背筋を伸ばし、人間に起こりうる全てのことをつまらぬことと考える者でありうるものか(賢者というのはそのようなものだと我々は言うのだが)、その人が全てのものを自分の権内にあると考えない限り。ピリッポスが文書で「汝らがしようとすることは全て禁止する」と脅迫した時、スパルタ人達は「まさか死ぬことまで禁止じゃないでしょうね!」と尋ねたということだが、我々が探し求める人物はむしろこういう魂の持ち主として見出されるのが容易であり、市民一般[世界市民?市民全体?]であることはもっと希なのではないか?ではどうだろう?今話題の勇気に節制が加わるならば、後者は全ての激動の抑制者であるから、幸福に生きるには何が欠いているだろうか、その人を勇気が苦悩や恐怖から離すと保証し、節制は欲望から引き離し、度を超した喜悦に舞い上がるのを禁止するとしたら?こうしたことをもたらすのは徳であると私は論証しよう、もしこれまでの日々[の対話]で説明が尽くされていないならば。(5.15.43)さて、魂の惑乱が悲惨を、方や平静が人生を幸福にするのであり、惑乱には2つのあり方があって、苦痛と恐怖は悪いものと思われるものに関わり、善いものにおける錯誤に向かうのが上機嫌の喜悦と欲望であって、これら全ては思慮と理性に齟齬する以上、これほど重い動揺やこれほど互いに食い違いバラバラなそれらをもたず、それらから解放され自由であると見える人を幸福だというのを君は疑問に思うだろうか?しかし、賢者は常にそのような精神情態にあるのである。それ故、賢者は常に幸福なのである。
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Cicero,TD.5.15.43=SVF.3.37
さらにまた、全ての善は喜ばしい。さて、喜ばしいものは誉められるべきであり、公に価値を認められるべきである。さて、そのようなものは光栄なものでもある。実に、光栄なものは間違いなく称賛に値する。さて、称賛に値するものが立派なものでもあるのも確かである。従って、善とは美徳に適うもののことである。
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(5.15.44)しかし、当のその人々はこうしたものを善いものに数え入れるが、それらを美徳に適うものとは全然言わない。それ故、善はただ美徳のみである。ここからして、唯一美徳によって幸福な生は成り立つということになる。それだから、それを豊富にもっていても不幸でありうるものを善いものと言うべきではないしそう考えるべきでもない。(5.15.45)それとも君は不審に思うだろうか?健康や体力、容姿、非常に鋭い完全な感覚に人が秀でていたとしても(お好みとあれば速さや敏捷さを加えてもよいし、富や名誉、権力、軍力、名声を与えてもよかろう)、もしこういったものの持ち主が不正で放埒、臆病で、才能も鈍いかあるいはむしろ全然才能がないとあれば、その人を不幸な者と言うのに君は訝るだろうか?それだから、持ち主が非常に不幸でありうる善いものとはどんなものだろうか?見てみようか。丁度、同じ種類の穀物の山のように、幸福な生もそれに似た部分から生じねばならないのではないか、と。もしそうだとすると、善いもの(とは美徳に適うものに限るのだが)から人は幸福になるのである。善いものが似ていないものを混ぜられているなら、それらからは美徳に適うものなど何も生じ得ないのだ。そして、この美徳が取り除かれるなら、一体何が幸福であると理解され得るだろうか。
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Cicero,TD.5.15.45=SVF.3.37
それというのも、何であれ善いものは希求されるべきものである。さて確かに、希求されるべきものは価値を認められるべきである。実に、君が価値を認めるものは、それを迎え受け入れるべきものと考えねばならない。従って、重要さもそれには賦与すべきである。そのようである以上、称賛に値するものであるのは必然である。従って、全ての善は称賛に値する。ここから帰結するように、立派なものそれだけが善である。
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(5.16.46)このことをその通りだと我々が認めないならば、多くのものを我々にとって善いものと言わねばならないだろう。私は富を除外している。というのも、例えふさわしくなくても誰でも持てるものなど私は善いもののうちに数え入れないのだから。生まれの善さや、愚かな馬鹿者達の一致した見解に持ち上げられる俗な評判も私は無視する。実につまらないものをそれにも関わらず善いものと呼ばねばならないことになるからだ。美しい白い歯だの、かわいらしい目だの、感じのよい顔色だの、それからあれだ、アンティクレアがオデュッセウスの足を洗いながら誉め讃えた
滑らかな弁舌、しなやかな肉体
だのを。もしこういうものを我々が善いものと考えるならば、哲学者の真面目な議論の中には何があるというのか、俗人の意見や愚か者の大群の中でそう言われるものよりももっと重大で重要なものなど。(5.16.47)というのもしかし、同じものをストア派の人々は「優先されるもの」とか「より押し進められるもの」と言い、それを善いものと言うのがあの人々なのである。実際、前者はそういう言い方をして、幸福な生がそういうもので満たされるということを認めないのであるが、しかし後者はこうしたものがなければ何ら幸福な生はないと言い、仮に幸福だとしても最高に幸福であるということは頑として否定するのである。だが、我々の主張では最高に幸福なのであり、こういう我々の見解はあのソクラテスの結論によって確かめられるのである。つまり、あの哲学の首領はこう言っている。誰であれその魂の状態がそうあるように人はあるのである。さて、人そのものがそうあるようにその人の言説はある。さてまた、行為は言説と、生は行為と同様なのである。ところで、善い人の場合魂の状態は称賛に値する。それ故、善い人の生は称賛に値する。故に、美徳に適うのだ、賞賛されるものである以上。こうしたことからして、善い人々の生は幸福であると結論される。(5.16.48)さて実に、神々と人間達の信義に誓って!、どうだろう?我々がこれまでしてきた論議でもなかなか分からなかったというのだろうか?あるいは、慰みと暇つぶしのために話されたのだろうか?賢者が魂の全ての動揺(それを私は惑乱と言っているのだが)をもたず、常に彼の魂にはとても穏やかな平安があるということは?そうすると、節制のある人、首尾一貫し恐怖も苦痛もなく、空しい喜悦ももたず、欲望も抱かない人は幸福ではないだろうか?ところで、賢者は常にこういう状態である。故に、常に幸福である。
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Cicero,TD.5.16.48=SVF.3.59
いや全く、どうして善い人が全てのことを称賛に値するものに関わらせられないことがあろう、何をするにしても、何を感じるにしても。いや、彼は万事を幸福に生きることに関わらせるのである。だから幸福な生は称賛に値する。また、なんであれ徳を欠いては称賛に値しない。だから、幸福な生は徳によって完成される。(5.17.49)そしてこのことは次のようにしても論証される。悲惨な生には光栄なものも栄誉に値するものもないし、悲惨でも幸福でもない生もそうである。そして、むしろ何か他の生に光栄なもの、栄誉に値するもの、称揚さるべきものがあるのである。丁度それはエパメイノンダスにあるのように
我らの謀り事にて刈り取られしはラケダイモンの栄誉
とか、あるいはアフリカヌスの言うように
マエオタエのぬかるみのかなたから昇る陽の下より
我が所行に比べうる者はなし
(5.17.50)何かそういうものがあるとすれば、幸福な生こそ栄光に値し、光栄で、称揚さるべきものなのだ。なぜなら、他に光栄で称揚さるべきものなど何もないからだ。こう立論すれば、結論がどうなるか分かるだろう。とにかく、美徳に適うものでもある生が幸福でないなら、何か幸福な生よりもより善いものがなければならない。というのも、美徳が確かにより善いものであることは認められるだろうから。しかるに、幸福な生よりももっと善いものが何かあることになる。これ以上ひねくれた言い方を何かできるだろうか。
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ではどうだろう?悪徳の内には悲惨な生に導く力が十分に認められる以上、徳の内にも幸福な生へと導く同じ力を認めるべきではないか?相矛盾する前提からは相矛盾する結論が生ずるからである。
(5.17.51)ここで私は尋ねたい。クリトラオスの言うあの天秤はどういう意味を持っているのか?彼が言うには、魂に関わる善いものを天秤の片方の皿に乗せ、もう片方には肉体のそれや外的なものをそうするなら、魂の善いものを乗せたあの皿はものすごく傾き、大地や海を圧迫する程なのである。(5.18.51)そうすると、この方やまた哲学者の内でも最も重大なあのクセノクラテス(この方はあまりにも徳を持ち上げた挙げ句、その他のものを軽視して投げ捨てたのである)が徳の内に幸福な生だけでなく至福の生をもおくことを禁止するものなど何があろうか?(5.18.52)万が一実際こうならないとすれば、徳の破滅につながるであろう。というのも、苦悩に見舞われる人がいれば、その同じ人は恐怖にも見舞われるのが必然だからである(なぜなら、恐怖は未来の苦悩に関わるビクビクした期待だからである)。さて、恐怖に見舞われるならば、その同じ人を畏怖や怯懦、倦厭、倦怠が見舞うのも必然である。それ故、まさにこの人は時に征服され、アトレウスのあの忠告が自分に関わりがあると思わないほどである。
人生においては万全に備え、打ち負かされることを知らないほどにせよ
さて、先に言ったようにこういう人は打ち負かされるのだが、ただそうされるだけではなく隷属までするのである。ところが、この私達は徳が常に自由であり常に不敗であると主張するのである。もしそうでなければ、徳は既に滅んでいるのだ。(5.18.53)そしてまた、善く生きるための十分な助けが徳にはあるのなら、幸福に生きるのにも十分である。というのも確かに、我々が勇敢に生きるためにも徳には十分なものがあるからである。勇敢に生きるのにそうだとすれば、大度をもってそうするのもそうであり、何ものにも決して脅かされず常に不屈に生きるのにもそうである。従って、何にも悲しまず、何も不足せず、何にもじゃまされずにそうするのにもそうだということになる。故に、全てを流暢に完璧に首尾よくなし、それ故幸福なのである。さて、徳は勇敢に生きるのに十分な力がある。故に、幸福に生きるにも十分である。(5.18.54)というのも、愚かさは例え自分が欲望していたものを手に入れたとしても決して己を満足したとは思わないように、知恵は常にその場にあるもので満足し、自分で自分を嘆くことはない。
(5.19.54)ガイウス=ラエリウスが一度だけ執政官だったのもこれに似ていると思わないかね?実際彼は落選したのだが(もし善き人・賢者でありながら(あの方はそんな人だったよ)投票の結果任命されなかったとすれば、落選を耐えるのはあの方ではなくむしろ民衆の方だ*)、しかしながらどちらを君は望むかね?もちろんそうできるとしての話だが、一度だけの執政官をラエリウスのように務めることか、それともキンナのように4度務めることか、どちらであろう?(5.19.55)君が何と答えるかに疑問の余地はない。私が誰を相手にすればよいのかもこうして分かっている。誰にでもこの同じことを訊こうとは思わないよ。というのも、4度執政官になることを一度のそれよりも優先するだけではなく、キンナの一日を多くの輝かしい人々の全生涯よりもそうするだろうと応える人もいるだろうから。ラエリウスは誰かに指で触れただけでも罰に甘んじた。しかしキンナは自分の同僚である執政官グナエウス=オクタヴィウスに斬首刑を命じた。彼が死刑にした中にはこういう人もいる。プブリウス=クラッススとルキウス=カエサルは非常に名誉のある人で、彼等の徳は平時でも戦時でも有名だった。マルクス=アントニウスは私が聴いた中でも最も雄弁な人だ。ガイウス=カエサルには人間性や機知、心地よさや気持ちよさの見本があったと私は思う。そうすると、彼等を殺した者は幸福なのか?逆に私はこう思うのだ。この者が悲惨なのは、彼がそういうことをしたからだけではなく、自分はそういうことをして当然だという風に振る舞ったからでもある、と。罪を犯してもよい者などいないが、我々は言葉の誤用によって誤るのである。つまり、誰であれ自分に認めたことはしてもよいのだと我々は言う。(5.19.56)では言ってくれたまえ。ガイウス=マリウスはどちらの時の方が幸福だったのだろうか?キンブリアでの戦勝の栄光を同僚のカトゥルスと分かち合った時か?(このカトゥルスはほとんど第2のラエリウスと言ってよい人だった。と言うのもこの人はあの人にとてもよく似ていたと思うからだ)それとも、内乱で彼が勝利したことに怒り狂い、カトゥルスの友人達が嘆願するにもかかわらず一度ならず何度も「彼は死ぬべきだ」と答えた時の方が幸福だったか?この不埒な物言いに甘んじたあの方の方がかくも不埒な命令を下したこいつよりも幸福だったのはこの点にある。つまり、不正はなすよりもそれを受けることの方が望ましいのであるから、まさに迫り来る死そのものへ僅かながら道を進めることの方が(カトゥルスはそうした[自害した]のだ)、マリウスのしたこと、すなわちこれほどの人物の死で己の6度目の執政官を曇らせ、[カトゥルスの]臨終を汚すこと、などよりもよかったのだ。
*色々提案はあるがポーレンツのまま読んだ。
(5.20.57)38年間シュラクサイの僭主だったのはディオニュシオスだが、それは彼が25才で支配権を得た時以来ということである。どれほど美しい街を、どれほど富んだ国家を隷属で押しつぶしていたことか!しかしながら、この人について有力な権威にはそう書かれているということだが、彼の生活には最高の節制があり、行いにおいても熱心で勤勉な人だった、ということだ。しかし、この人の人柄は(本性上)邪悪で不正だった。真理を善く見て取っている人なら誰でも、ここから彼がこの上なく悲惨だったと思わないわけにはいかない。(5.20.58)彼は善い両親の下、立派な身分に生まれ(しかし実際にはこのことを別々の人がその人なりに伝承している)、同年代の者とのつきあいや近親者との交際も豊富に持ち、愛で結ばれた少年達までギリシャ風にいくらか持っていたが、しかしながら彼等のうちの誰も信用していなかった。それどころか、彼は金持ちに付いていた召使いから奴隷を選んでは自ら彼等から奴隷という名を取り去り、何か移民や野蛮人、よそ者に身辺警備を委せていたのだ。こうして、不正な欲望に支配された彼はある意味、自分で自分を牢獄に閉じこめたのだった。いやまだそれだけではない。この人は床屋に自分の首を剃らせず、自分の娘にそれを命じた。こうして、王女は下女の卑しい手仕事に身を染め、まるで女床屋のように父親の髭や髪の毛を刈ったのである。ところがさらに、彼女たちがもう大人になると、彼女たちさえからも剃刀を取り上げ、白く輝くクルミの殻で自分の髭や髪の毛をつまむように命じたのだった*。(5.20.59)彼には2人王妃がいた。アリストマケは自国市民であり、ドリスはロクルス人である。だが、夜彼女たちの下に通うのも前もって万事を確認し調べ上げてからであった。それに、寝室の寝床の回りには深い溝を張り巡らし、小さい木の橋でその溝を渡っていたのだが、寝室の扉を閉めるとその橋さえもはねのけていたのだ。この人は、公の眼に触れる演台に立つのも嫌がったので、高い塔の上からいつも演説していた。(5.20.60)さて、彼はボール遊びをしようと思って(彼はそれに熱中していたのだ)上着を置いた時、お気に入りの小姓に刀を渡したと言われている。そこである仲間が面白半分に「しかとこの者に御命をお預けになりましたね!」と言い、小姓は笑った。その時、彼は両方とも死刑だと命じたのだ。片方は自分を殺す方法を示したからであり、もう一方はこの発言に笑うことで賛同したからだ、ということである。しかし彼はこの行いに苦悩し、それは生涯これ以上耐え難いことはないというほどだった。というのも、非常に愛していた者を殺めたのだからである。このように、自制の利かない者の欲望は正反対の方向に引っ張られる。こちらに譲歩するならあちらには反対せねばならない。
*何のことかよく分からないが、「白熱した殻で髭を焼く」ではそっちの方が危ない気がする…。
(5.20.61)しかし実にこの僭主は自分では、どれほど幸福なのかと考えた。つまり、(5.21.61)彼の追従者の一人ダモクレスが演説の中でディオニュシオスの財力、軍事力、威厳ある統治、豊かな物力、王宮の壮麗さに言及し、これ以上に幸福な者は誰もいないと言った時、ディオニュシオスはこう言った。「それならば、ダモクレスよ、そなたにはこの生活がお気に召したようだから、自分でこれを味わって、私の幸せを体験してみないかね?」あの男がぜひそうしたいと言ったので、王は命じてこの男を、非常に美しく織られ壮麗な刺繍で色とりどりに飾られた覆いのかかった黄金の椅子に座らせ、沢山の飾り棚を金銀の彫り物で飾り立てた。その時、王卓にはたぐいまれな容姿の少年たちが選り抜かれて立っており、彼等はあの男の肯首を注意深く見守ってお仕えするように、そう僭主は命じたのである。(5.21.62)香油や花輪もあったし、香も焚かれた。卓には特選料理の数々が積み上げられていた。ダモクレスは自分が幸せだと思っていた。こうした準備の真っ最中に、ギラギラした剣を天上から馬の鬣で結んでぶら下げるように王は命じ、あの幸せ者の首にかかるようにした。そんなことになったので、彼はあの美しい給仕達も細工をこらした銀飾りも目に入らず、卓に手を延ばすこともしなかった。もう花輪さえ滑り落ちていた。ついに彼は僭主に、どうか退出させてくれるよう願い出、もう幸せになろうなどとは思いませんと言った。これで十分ではないか。ディオニュシオスは、常に何かの恐怖におびえている者は全然幸福ではないと明言したのだ。しかし、彼は正義へと帰郷することも、市民に自由と正義を返すこともできなかった。なぜなら、この者は向こう見ずな青年時代には過ちで自らを傷つけ、健全な者になり始めた頃にはもう救いようのないほどそれを犯していたからである。
(5.22.63)実は彼がどれほど友人を求めていたかを(彼等の裏切りを恐れてもいたが)明らかにしたのはあの2人のピタゴラス学徒の事件だった。王は彼等の一方を死刑の証人として申し受け、もう一人は彼の承認を解放するために定められた死刑の時間に間に合わせたのであるが、その時こう言った。「願わくばこの私も第三の友人として君達に加え入れたいものだ!」この人はどんなに不幸だったろう。友人達との交際も、生活を共にすることも、親しい会話一般、特に少年時代から教養を積んで自由人らしい学芸を身に付けた人や実際に歌舞音曲に研鑽を積んだ人もかれは持たなかったのだ。*王は悲劇詩人でもあった。王がどれだけよい詩人だったかというのは問題ではない。というのも、なぜだか知らないがこの分野においては他のものにおけるよりも一層、誰にとっても自分の作品が美しいのであるから。これに関しては、自分が最高だと思わなかった詩人を私は知らない。(なるほど、私にはアクィニウスとのつきあいがあった)これが現実である。君には君のが、僕には僕のが気に入るのだ。それはともかく話をディオニュシオスに戻そう。人間たる文化や生活法を彼は全く欠いていた。彼は逃亡奴隷や罪人、野蛮人と一緒に生活していた。自由に相応しい人も、全く自由になろうとする人も、誰一人自分の友達であるとは思わなかった。
*この前後の読みは諸本によって様々だが、ポーレンツに従ってある。異読は「〜自由学芸を修めた者も欠いていた。王は歌舞音曲にも研鑽を積んでいたということであり、悲劇詩人でもあった云々」というものが多い。
(5.23.64)この者の人生以上に恐ろしく、悲惨で厭わしいものは考えられないが、もう私はこんなものとプラトンやアルキュタスの生涯を比較しようとは思わない。後者は教養深い人々の一員であり、全くの賢者でもある。同じ都市から身分の低い小男をそれこそ「埃と杖で」引いてきたい。何年も後の人物だが、アルキメデスのことである。彼の墓は、シュラクサイの人々もそんなものはないと言うくらいだから、彼等にも知られておらず、四方から茨の茂みや藪で囲まれ覆い隠されていたのだが、それを探しに行ったのが他ならないこの私だ。というのも、彼の碑銘に刻まれていると言われているイアンボス調の詩句を私は覚えていたのだが、その詩句は墓のてっぺんに球と円柱*が置かれていることを表していたのである。(5.23.65)私は自分の目で全部の墓をよく調べ(と言うのもアグリゲンティナの門のところには多数の墓が集まっていたからだが)、茂みからそう際立っていない小さな柱に気付いたが、その上には球と円柱の姿があった。そうしてこの私はすぐにシュラクサイ人達に(そこの主導者たちが私といたのだが)、探していたのはまさにこれに違いないと言った。沢山の者達が鎌で茨を払い、その場所を開いたのだった。
*円錐のことかもしれない。アルキメデスには球と円錐に関する論考があったらしいから。
Cicero, TD. 5.25.72=FDS.78
続いて第3には、知恵の全ての部分を通じて流れ広がる学がある。これは事柄を定義し、類に分割し、帰結を加え、結論を完全なものにし、真と偽を判別する、物事を論ずることに関する理論と学問なのである。ここから生ずるのが、物事を裁量するにあたっての最高の有益さと共に、知恵に全く本来備わっておりそれにふさわしい歓びなのだ。
Cicero,TD.5.81=LS.63M(目的 善情)
しかし、[有徳な人は]この上なく幸福だとさえ私には思える。というのも、自らの善に信をおく人にとっては幸福に生きるために何が欠けているのだろうか。あるはむしろ、信をおいてない人については、そのような人の誰が幸福でありうるのか。しかし、善きものどもを3つに分ける者は必ず信をおけなくなるのだ。なぜなら、誰が肉体の不滅や運命の不動に信をおけるものか。しかし、不動で堅固で永続する善なしでは誰一人幸福ではありえない。…すなわち、そのようなものの何かが失われるのではないかと恐れる者は幸福ではありえない。なぜなら、我々は幸福な者が平安で難攻不落で城壁に囲まれていることを望むのだから、少しは不安をもつというのではなく全く不安をもたないように。
Cic,TD.5.30.85=SVF.1.363(アリストン)
この教説はいくらかの堅固さをもっている。というのは、アリストン、ピュロン、ヘリロス、及びその他ごく少数の者たちのは消えうせたのだから。最も高名な哲学者たちもその中で自分の生涯を過ごしてきたのだ。クセノクラテス、クラントル、アルケシラス、ラキュデス、アリストテレス、テオプラストス、ゼノン、クレアンテス、クリュシッポス、アンティパトロス、カルネアデス、クレイトマコス、ピロン、アンティオコス、パナイティオス、ポセイドニオス、その他数え切れないほどの、一旦移住したまま二度と祖国に帰らなかった人々がそうだ。
Cicero, TD. 5.37.107 = SVF.3 Antipatros 3 = FDS.124
さて実際、国外追放は、もし我々がその不名誉な名前ではなく事柄の本質を調べるのであれば、どうだろうか、ずっと続く外遊とどう違うのだろう?その中で障害を送った人々には高名な哲学者たちもいたのだ。クセノクラテス、クラントル、アルケシラス、ラキュデス、アリストテレス、テオプラストス、ゼノン、クレアンテス、クリュシッポス、アンティパトロス、カルネアデス、クレイトマコス、ピロン、アンティオコス、パナイティオス、ポセイドニオス、その他数えきれないほどの人々がそうだ。彼等は一旦故郷を出てから二度と戻らなかった。
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