アレクサンドリアのクレメンス


Clemens,Paedag.1.13.158=SVF.3.445(類感情)
 正しい理に反する全てのこのものが過誤である。それだから実際、哲学者たちは最類的な感情を何かこのように定義するのがよいと考えている。欲望は理に従わない欲求である。恐怖は理に従わない逸脱である。快楽は理に従わない魂の高揚である。

Clemens,Paedag.1.13.101.2=SVF.3.293=FDS.3(徳 哲学)
 (2)徳とは全生涯にわたって理に調和し魂に備わった性向である。そう、実際もっとも権威のある見解だが、彼等は哲学そのものを言理の正しさへの努力であるとしている。そして、必然的に、言理の逸脱によって生じた不協和音を全て過誤と呼んでいるが、それももっともなことである。

Clemens,Paedag.1.13.160=SVF.3.293(適宜行為)
 そして優れた実践活動とは洗練された使用に即した、理にかなった魂の活動であり、肉体がともに成長し働くことによって完成される。適宜行為とは生に調和するもののことである。そしてすなわち、優れた生とは理にかなった実践活動の何らかの体系であり、理によって教唆される事柄に関する不動の活動である。

Clemens, Pedag., 2.2.25.3.1(171St)=FDS.9
 なぜなら、完成された知恵とは神々と人間の事柄に関する知識であり、全ての事柄を内に把握しているからである。人間の群を監督する限りではそれは生に関する技術となり、我々が生きている限りこうした全ての群に共に現前し、固有の仕事、つまり善き生を完成させるのである。

Clemens,Paedag.2.224=SVF.3.730(?)
 ストア派の人々の一致した見解だが、指をどうにでも振ることさえ理は賢者にほしいままにさせないとしたら、智恵を追及する者たちがより一層なじんでいるものの部分を凌駕すべきでないということがあろうか。

Clemens,Paedag.2.247=SVF.3.276(自足の定義)
 十分さは親近な完成に過不足なく至る性向である。自足性は…必要なものを十分そなえ、恵まれた生に貢献するものを自ら供給できる性向である。

Clemens,Paedag.3.286=SVF.3.276
 無垢さは清浄で醜いことのない生活を作り上げうる性向である。他方、簡潔さは余計なものを除外できる性向である。

Clemens,Paedag.3.287=SVF.3.276(?)
 感じのよさは余分なものがない性向であり、理に即ことに関して十分なものに不足せず健全で恵まれた生に認められうるそれである。

Clemens,Paedag.3.303=SVF.3.276
 端正さは…互いに連続するもののうち確実なものを整え、立派に応答して行為し、徳を踏み越えない性向である。

Clemens Al,Paed.3.p288=SVF.3.354
 真の生まれの善さは魂に即した生来の立派さにおいて確かめられるのだが、奴隷は売買によってではなく、自由人にふさわしくない考え方によって規定されている。

『勧徳論』

Clemens, Protrept. 5.66.3 (58 Pott.) = SVF. 1.159
 ストア派の連中も措いておこうではないか。彼等は神性が全ての質量、それも卑しいものにまで行き渡っていると言っているのだ。彼等は無能な、哲学の面汚しである。

『ストロマテイス』

Clemens, Strom. 1.5.30.1(19Fr)=FDS.6
 しかし、一般教養がその「家の神」である哲学に貢献するように、哲学(愛知)そのものも知恵の獲得に役立つのである。というのは、哲学(愛知)は知恵に向けた努力であり、知恵は神々と人間、及びそれらの原因に関する知識だからである。それだから、知恵が哲学の女主人であるのも、あの哲学が予備教養のそれであるようなものなのである。

Clemens, Strom. 1.6.33.1 = FDS.92
 さて、多くの場合、必須のことを見て取る用意はあらかじめの訓練によって生じる。そして、叡智を訓練するものは叡智の対象となるものである。それらのあり方には三様であり、つまり量と大きさとレクトンにおいて見て取られうる。というのは、論証に基づく論はそれに従う者の魂に確固とした信念を植え付けるので、論証された事柄が別様であり得るとは思えないほどである。こうしたことは、我々が奇策を弄して欺瞞に走るなら起こり得ない。

Clemens Al,Storom.1.13.p158=SVF.3.445(主要感情)
 この正しい理に反することは全て過誤である。例えば確かに、哲学者たちは最高類の諸感情はおおよそ次のように規定されるべきだとしている。欲望は理に不服従な欲求である。恐怖は理に不服従な選別である。快楽は魂の、理に不服従な高揚である。

Clemens,Strom.1...336=SVF.3.225(素質と徳)
 というのは、自然にではなく学習によって人々は善美になるのだから、医者や船頭と同様に。…ある人々は別の人々よりも徳に向かってよりよく生まれついているということは他の人々よりもそう生まれついている人々の営為が明らかにしている。しかし、徳に即した完成はよりよく生まれついた人々の本分として述定されているわけではない、徳に向かって悪く生まれついた人々も適切な教示に巡り合えばほぼ完全に善美に到達するのだから。また今度は逆に、優れた生まれつきの人々も怠惰によって悪くなったのである。さて、本性上協同的かつ義しい者として神は我々を創造したのだ。ここからして、正義は配剤だけから現れるのではないと述べねばならない。そして、十戒から創造の善は蘇るのだと理解せねばならない。学習によって魂が教育されたなら、最も立派なことがすすんで選択されるのである。

Clemens,Strom.1.p346=SVF.2.1040(神)
 しかし、ストア派の人々も…神は物体であって、全くなんの栄誉もない質量を通じて顕現すると言っている。

Clemens,Strom. 1.368=SVF.3.236
 しかし、賞賛も非難も、名誉も懲罰も義しいものではない、魂が衝動と反衝動の能力をもたず、悪徳は意図的なものではないというのであれば。…しかし、過誤を制御するのも選択と衝動であり、誤った把握が支配力をもつこともあり、無知と無学であるこのものから離れるとき我々は正しく物事をとらえるのだから、懲罰がなされるのももっともなことだったのだ。つまり、熱病にかかるのも意図的なものではない。しかし、自分のせいで、つまり不節制のために熱病にかかる人がいたら、我々はこの人の責任を問う。悪徳についても同様である、意図的ではないのだから。つまり、悪を悪として選択する人はいない。これに付随する快楽にまんまと騙されて善いものだと解し、取るべきだと考えるのである。

Clemens,Strom.1.20.97.2=SVF.1.376(アリストン)
 実際、我々がよく見てみると、徳は能力においては一つであり、その徳がある事柄におけるそれは思慮と、別のものにおけるものは節制、また他のものにおけるのは勇気や正義と呼ばれるということが生じている。そうして、同じ理屈で、真理も一つであるのだが、幾何においては幾何学的真理、音楽においては音楽的なそれ、正しい哲学においてはギリシャ的な真理があることになるだろう。しかし、勝義の征服されえない真理は神の独り子の下で我々が学んだそれだけである。(98.1)この意味で、我々はドラクマ硬貨を、同一のものであるが、船長に渡された時は船賃と、取税人の場合は税金と、地主の場合は地代と、教師の場合は謝礼と、商人の場合は売り上げと呼ばれると我々は言うのである。徳も真理も、同名異議的に呼ばれているのであり、個々の事例において成し遂げられることの原因になっているにすぎない。(2)しかし、幸福な生はこれらを実際に適応することにおいて生じてくるのである(なぜなら、我々は名前との関わりで幸福になるわけではないのだから)、我々は正しい生を幸福な生と、魂を徳に適って整えた人を幸福な人と呼ぶのである以上。

Clemens Al., Strom.2.19.3.438(Stahlin et al. ed. p122) = SVF.3.619(法 統治)
 すなわち、スペウシッポスは『クレオポン論駁』第一巻においてプラトンに似た事柄をこうしたことに基づいて書いているように思われる。つまり、もし王制が優れたものならば、知恵ある者だけが王であり統治者である。法律は、正しい理であり、優れたものである。これは、その通りだ。しかしまた、こうした事柄に従うことをストア派の人々は教唆している。彼らは、王制、司祭、預言、立法、富、立派さ、真実、高貴、自由を賢者だけに認めるのである。こんな人々に同意する者はほとんどいない。

Clemens,Strom.2.7.446=SVF.3.411
 然り、彼等は言う、恐怖は理不尽な変容、つまり感情であると。…
 しかし、それは哲学者たちが言葉に悪知恵を働かせる場合のことであって、そういう人々は法に対する恐怖を用心、つまり理にかなった変容と呼ぶ人々の一味なのである。ファセラのクリトラオスがこういう人々のことを「用語闘争家」と呼んだのだが的外れということもない。…
 さて、驚嘆は見慣れない表象に起因する恐怖、あるいは予期しない表象に対するそれである…神令に対するように。恐怖は、既に生じたことに関するにせよ現にあるものに関するにせよ、過剰な驚異である。…
 というのはつまり、畏怖は感情であるが、神霊に対する恐怖なのであるから。

Clemens, Strom. 2.9.41.2.450 = SVF. 3.292
 (2)さて、愛(agape)とは理と生活と様式を共にする人々の共和であろう。あるいは手短に言えば、生の共有だと彼等は言っている。あるいは、友愛を熱望すること、つまり仲間と付き合う際に正しい理と共に抱く好感である。仲間は別の自己である。…(3)愛に近いものには友好があり、偉人たちと付き合う際のある注意深さである。…(6)人間愛もまた…人々との友愛に満ちた交際である。好感もまた友人や親類を愛することに関するある種の注意深さである。方や、愛情は行為や愛を見守ることである。愛は完全な証明であるが…共和によってなされ、それがまた共有の善いものに関する知識である。

Clemens,Strom.2.13.59.460=SVF.3.377
 さて、衝動は何かに向かってかあるいは何かからの思考の動きである。感情は過剰な衝動あるいは理に即した限度を踏み越えるそれである。あるいは、逸脱して理に従わない衝動である。こうして、理に従わないことによって自然に背いた魂の運動が感情である。

Clemens,Strom.2.466=SVF.3.433
 というのは、一方で彼等は歓喜が理にかなった高揚であると認めている。賛美もまた立派な人々に喜びを感じることである。他方、同情は被る必要のない災悪を被った人に対する苦痛である。こうしたものは魂の変容であり感情である。

Clemens,Strom.2. .482=SVF.3.9
 ここからしてストア派の人々も「自然に調和して生きる」ことが目的であるということを教説にしたのである、「神」を「自然」に言い換えたのは不適切ではあるが。なぜなら、自然は植物にも、種子にも、樹木にも、石にさえも行き渡っているのだから、というのである。

Clemens, Strom.2.19.483 = SVF. 3.723
 さて、3種の友愛があると我々は教えられており、そのうち第1の最善のものは徳に則すそれである。なぜなら、理性による愛は堅固だから。第2の中位のものは交換に基づくものである。これは公共的であり分け与えられ、生活に役立つ。というのも、好意による友愛は公共的だから。我々にとって最後の第3のものは、生活を共にすることから生ずる。ところで、快楽に基づくそれは転じやすく変りやすいと言う人々もいる。

Clemens,Strom.2.20.486=SVF.1.370(アリストン)(感情治癒には鍛錬が必要)
 アリストンの言うところでは、ここからして、この4弦全体、快楽、苦痛、恐怖、欲望、に対抗するには多くの鍛錬と戦いが要される。

Clemens,Strom.2.20.491=SVF.3.405
 というのは総じて、快楽という感情は必然的なものではなく、何らかの自然の要求、つまり空腹、乾き、寒さ、性交など、に伴うものだからである。というのも実際、この快楽を感じずに飲み物を飲むことや、食べ物を採ることや、子供をもうけることができたなら、それ以外の必要は何ら示されなかったであろうから。なぜなら、何か我々の機能でも性状でも部分でも快楽はないからである。むしろ、それは補佐のために生に関わってくるものであり、丁度塩が食べ物に味を付け加えるためのものだと言われるようなものである。しかし、それが反抗し家を掌握すると、最初の欲望を産み出し、これはそれ自身に喜ばしいものに対する理不尽な傾きや欲求なのである。

Clemens,Strom.2.21.496P=SVF.1.180=EK.186=Theiler 428
 しかしまたストアのゼノンの方は目的を徳に即して生きることと考えている。

Clemens,Strom.2.21.129.497P=SVF.1.552=EK.186=Theiler 428
 一方クレアンテスは、自然に一致して生きることと考えた。*
*ステーリンの提案に従う。

Clemens,Strom.2.21.179S.1.497P=SVF.3.Diogen.46=EK.186=Theiler 428
 *また他方、バビロニアのディオゲネスは、自然に即したものの選別において**よく理性を働かせることにあると理解していた。
*ステーリンの提案に従う。
**hoを削除する読み方に一応従っておく。

Clemens,Strom.2.21.179S.5.2.497P=SVF.3.Antipat.58=EK.186=Theiler 428
 また、アンティパトロスは、彼の学友であるが、目的は途切れることなく不変に自然に則すことを選別し自然に反することを除去することにあると理解している。

Clemens,Strom.2.21.179S.5.1.497P=SVF.3.Archedemus 21=EK.186=Theiler 428
 またさらに、アルケデモスはこう考えた。目的は自然に則す最大最重要のものを選別しながら、決して逸脱しえない者として生きることである、と。

Clemens,Strom.2.21.129.4-5=Straaten 96=EK.186=Theiler 428=LS.63J
 彼等に加えて、さらにパナイティオスは、自然から我々に与えられた始点に従って生きることを目的だと明言した。彼等全てに加えて、ポセイドニオスも、全宇宙の真理と秩序を観想しつつその実現にできるだけ手を貸し、魂の理不尽な部分に決して引きずられずに生きることをそれだと言った。しかし、もっと後代のストア学徒には、目的は人間の構造に調和して生きることであるとした者もいる。

Clemens,Strom.2.21.497=SVF.1.360(アリストン)
 ではアリストンのことは君にどう説明したらいいだろうか。この人は目的を善悪無記な態度だと言った。そして、善悪無記なものを端的に善悪無記なままにしている。

Clemens,Storom.2.25.166.420(Stahlin et al.ed.p104)P=SVF.3.332(法 政治)
 この点に関して、ある人々は有益な考えに明確に従って、法とは正しい理であると言った。それはなすべきことを命令し、なすべきでないことを禁止するというのだ。(26)(モーゼ、パウロなどに関する論述)実際、彼は善い国制をもたらしたのだ。国制とは共同に基づく麗しい「人々の世話」である。さらに、彼は律法を司った。これは過誤を犯した人々を正義のために矯正する知識である。これに関連するものとして懲罰術があるが、刑罰上の規則についての何らかの知識である。刑罰は魂の正しい矯正である。(モーゼに関する論述が続く)実際、哲学者たちは賢者だけが王であり、立法者であり、将軍であり正義漢であり敬虔者であり神愛者であると表明している。(モーセに関する論述)従って、飼育術が家畜たちのことを見守ると我々は言うが(「善い羊飼いは羊たちのために命を投げ出す」)、そのように立法術も人々の徳を形作るのだと我々は言うのであり、それは能力にとどまっている人の善いところを照らし出し、人々の群れを指導し守るのである。

Clemens, Strom. 2.450 = SVF.3.292
 愛とは理や生や生き方に関わる事柄についての同意である。あるいは手短に言えば、生の共有である。あるいは、友達との交際に際して正しい理をもって友愛や温情を求めることである。…愛に近いものとして異人好きがあるが、これは外人との交際についての熟達である。

Clemens, Strom. 2.451 = SVF. 3.292
 また人間好きというのもあり…人間たちに関わる友好的な交際である。また温情というのもあり、これは友人たちや身内の者を愛護することに関する一種の熟達である。また、愛護とは好意や愛情を守ることである。愛情とは、共通の善いものについての知識としての合意によって…何もかもを打ち明けることである。

Clemens Al,Strom.2.p470=SVF.3.275(徳の相互随伴 勇気)
 そして、勇気を怖いことと怖くないことと中間のことの知識と彼等は規定している。また、節制を、思慮に関わる判断事項を選択と忌避によって保持する性向であるとしている。勇気に並べ置かれるものには堅持もあり、これはいわゆる忍耐で、止どまるべきこととそうでないことの知識である。また、大心もそうで、これは起こることを超克する知識である。他方、節制に並べ置かれるものには用心があり、理を伴った選別である。…[彼等は言う]一つの徳を持つ者は…相互随伴によって全ての徳をもつ、と。例えば、忍耐は正しい理に即しているのが明らかなことを踏み越えない性向である。さて、正しい理に反する衝動を抑制する人は自ら忍耐するのである。あるいは、この人は正しい理に反して衝動しないように自己を抑制するのである。

Clemens,Strom.2..503P=SVF.3.163
 さらに、ストア派の人々によると結婚も子育ても善悪無記である。

Clemens,Strom.4.5.572=SVF.3.150(健康の価値)
 しかし、驚愕に値するのはストア派のある人々の言うことである。魂は肉体によって何らかの性状にもたらされることはなく、病気によって悪徳に至ることも、健康によって徳に至ることもないというのだ。むしろ、こんなものは善悪無記であると彼等は言う。

Clemens,Strom.4.6.575=SVF.3.221(徳への改心)
 神的なものへの向け換えは、魂が知恵に向け換えられるときに、その向け換えから生ずるとストア派の人々は言う。

Clemens Al.,Strom.4.6.576=SVF.3.765(自殺)
 優れた者にとって生からの退出がもっともな理由を持つことに哲学者たちも即座に同意している、もし自分自身から行為の機会を何らか奪い、実践への希望がもはや残されていないというのであれば。

Clemens,Strom.4.6.581=SVF.3.114(善悪と素材としての中間物)
 実際、それ自体それ自身で善いものが一方にある。他方、善いものに与るものもある、立派な行為を我々が呼ぶ場合のように。しかし、質量の地位を占める中間のものがなければ善い行為も悪い行為も成り立たない。[中間のものとは]例えば、生命、健康、他の必然的なものあるいは状況のことを言っているのだ。

Clemens Al.,Strom.4.8.590=SVF.3.254(徳)
 あらゆる種族にみな同じ本性があり同じ徳があるという点で彼は我々と意見を同じくする。つまり、人間性に関して女は女の本性を、男は男のそれをもっているように見えるがそうではなく、実は同じ本性をもっているのである。従って徳も同じものをもっているのだ。

Clemens Al.,Strom.4.8.592=3.254(哲学の資格)
 だから、男と同様に女も哲学するべきである。

Clemens,Strom.4.8.594=SVF.3.46
 すると、善悪無記なもののうちにそのような名誉を受けるものがあり、選択に値するものと不本意な人々もいるにも関わらず思われるとしたら、徳はなおより一層争って渇望されるものだとみなさねばならない。何か他のものに注目するのではなく、立派になされうるものそのものに注目するとすれば、他の人々にそう思う者がいようといまいとに関係なく。

Clemens,Strom.4.18.617=SVF.3.442(欲求と欲望)
 こうして、こうした事柄に恐るべき人々は欲求を欲望から区別している。そして後者を快楽と放埒に割り当てている、理不尽なものとして。他方、欲求は本性上必然的なことにそうした、理にかなった運動をそなえているものとして。

Clemens,Strom.4.22.627=SVF.3.240(徳の喪失 性向 夢)
 こういう人は失われうる徳を決して持たないであろう、目覚めていようが眠っていようが、ある種の幻覚にとらわれていようが。性向は性向であることをやめない以上己から反れることは決してないのであり、それで性向は叡知であるとか固定状態だとかいうことが語られるのであろう。というのも、変な考えが知らない間に入り込むということがないので、中庸にあり変化を被らない指導的部分は何か妙な表象を受け入れることはないから、昼間の間の運動によって引き起こされた幻を夢に見ている場合でさえ。

Clemens Al.,Strom.4.26.642=SVF.3.327(宇宙国家)
 すなわち、ストア派の人々は宇宙が本当の意味での国家であると言っている。この地上にあるのはそもそも国家などではないというのだ。というのは、国や区は何らかの優れた洗練された統合体であるのに大部分の人々は法律によってばらばらに生活しているからだというのである。

(3)なぜならその力とは「名声を得ている人々のなかで最も信頼できる人が、守る術を知っている」ものだからであり、また「正義は、偽りの作り手また証言者を捉えるであろう」とかのエフェソスの人が言っているからである。

Clemens,Strom.5.1.9.4=SVF.2.630(大燃焼)
 (4)つまり彼もユダヤの哲学から学んで、悪しき人々に対する火による浄めを知っていたのである。この浄めとは、後にストア学派が「大炎上」と呼んだものである。また彼によれば、この人々は、個々人がなんらかのあり方で復活するということを教説として定めたのだという。(秋山学訳)

Clemens,Strom.5.3.17.6=SVF.1.559(クレアンテス)(名声)
 (6)またストア学徒の哲学者クレアンテスの詩は、同様の事柄を次のように記している。
「評判を気にかけるべきではない。あなたがすぐにも
 知者となることを望むのであれば。また、大衆の
 無定見にして無恥なる評価を恐れてはならない。なぜなら
 愚衆の判断には、思慮も正しさも美しさもともなっていないのだから。
 むしろあなたは、実にわずかな人々にしかそれを見出さないだろう」(秋山学訳)

Clemens,Strom.5.8.48.1=SVF.1.502(クレアンテス)(太陽)
 (1)だがこれらの人々は、哲学者クレアンテスの著作を読んでいない。彼は太陽をはっきりと「撥」と呼んでいるのである。日の出のとき太陽は、いわば地球を打つように輝きを維持し、調和の取れた道筋に光を導く。(秋山学訳)

Clemens,Strom.5.8.48.2=SVF.2.447(スフィンクス)
 (2)一方スフィンクスとは、万物の絆でもなければ詩人アラトスの言う宇宙の回転でもなく、おそらくはむしろ宇宙を貫き世を包含する霊的な力であろう。(3)霊気とは万物を包容しつなぎ合わせるものだと理解するほうがよかろうからである。エンペドクレスは次のように述べている。(秋山学訳)

Clemens,Strom. 5.9.58.2 = SVF.1.43 = LS.67E = FDS. 127A
 (2)正しく哲学しているかどうかを前もって示していない学徒にはおいそれと読ませない内容のことを何かしら最初のゼノンは書いた、とストア派の人々は言っている。

Clemens Al.,Strom. 5.11.76.1.691=SVF.1.264(ゼノン『国家』)
 (1)ストア派の設立者ゼノンも『国家』という本の中で言っている、神殿も神像も造ってはいけない、と。すなわち、造りものは神々には全然値しないということを彼はまさにこういう言葉で物怖じせずに書いているのである。また祭壇も造ってはならない。祭壇など何の価値もなく、神聖なものとみなすべきでもないのだから。大工や金物屋の作ったものなど全然無価値で神聖でないのである。

(89.1)では次に、ギリシア人がギリシア以外の哲学から行った剽窃を、よりいっそう明確に提示しかつ証明しなければならない。

Clemens,Strom.5.14.89.2=SVF.2.1035
 (2)まずストア学派の人々は、神とは物体的なものであり、その本質において息であって、それはもちろん霊魂と同様であると述べている。(秋山学訳)

Clemens,Strom.5.14.92.4=SVF.2.574(宇宙創造)
 (4)ストア学派の人々もまた、宇宙は創られたものであるとしている。(秋山学訳)

Clemens,Strom.5.14.95.1.703=SVF.3.6
 (1)哲学の目的を、ストア学派の人々は本性に従って生きることだと語り、プラトンは神の似姿となることだと言ったのは、ここにその論拠を有している。

Clemens, Strom. 5.14.95.2 = SVF. 1.223
 (2)ストア学派のゼノンは、プラトンに倣いまたギリシア以外の哲学に立脚して、「善き人々はすべて、たがいに友愛で結ばれている」と述べている。(秋山学訳)

Clemens, Strom. 6.7.54.1(459Fr)=FDS.7
知恵は神々と人間の事柄に関わるしっかりした認識であり、ある種の堅固で不変の把捉であり、現在ある事柄や過ぎ去ったことや未来の事柄の把握である。

Clemens,Strom.6.12.789=SVF.3.110(善い人と悪い人の選択)
 今や悪い人は本性上過誤を犯しかねない人であり悪徳によって劣悪なものとなったままの状態にあるのだが、彼のそなえもっているものは彼が自ら選択したところなのである。そして、過誤を起こし兼ねない人である以上、行為に際しても過誤を犯すのである。また反面、優れた人は正当行為する。だから、徳目だけでなく立派な行為も善いものであるとわれわれは呼ぶのである。そして、我々も知っているように、善いもののうちにはそれ自体の故に選択に値するものもある、智恵のように。というのも、それが身近にあるときには我々はそれから何ら他のものを追い求めず、むしろただそれが身近にあることしかそうしないのだから…。他方他のものの故に…

Clemens,Strom.6.14.796=SVF.3.515(中間適宜行為 正当行為と適宜行為)
 ただ単に救済するだけのことならばそれは中間のことに属する。しかし、正しくしかるべくそうすることは正当行為である。それと同様に、智恵のある人のなすことは全て正当行為であるが、ただ単に信念しかない人のそれは中間の行為と呼ばれてしかるべきである、まだ合理的に完遂されておらず、注視を伴って正当行為されていないのだから。すなわち、書物が提示しているものは、ただ単に善く行為することだけではなく、何かある目標に向かって行為すること、つまり適宜行為を合理的に実現させることでもあるのだ。

Clemens,Strom.6.15.121.4=SVF.2.102
 さて、探求は把捉することに向かう衝動であって、この衝動はある印を通じて基体を見出すのである。そして、発見が探求の終局であり終点なのであるが、視点は把捉にある。

Clemens,Strom.6.17.822=SVF.3.673
 だから、善い人々にも悪い人々にも共通のものがたくさん、有用なものにはあるが、しかしながら有益なものは善く優れた人々にしか生じない。

Clemens, Strom. 7.3.17.2(12Fr)=FDS.13
 なぜなら、叡知的なものに関わる堅固な認識と把捉が知識と呼ばれうるのは当然だからである。神的なものに関するかぎりで、その働きは、第一の原因が何であるかを考察すること、また他方「全てのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(『ヨハネ伝』1.3(共同訳))という原因が何であるかを考察することである。さらにまた、浸透するそれは何であり、包摂するそれは何であるか、また
連鎖的なもの、選言的なものは何であるかを考察することである。そして、これらのそれぞれがどんな秩序、機能をもち、各々がどんな働きをもたらすかを考察することである。(3)さて他方、人間的事項においてこの知識は、人間そのものが何であるか、またこの人間にとって何が自然に適い何が自然に背くか、こういうことに関わる。

Clemens,Strom.7.3..839=SVF.3.224(徳の獲得手段)
 というのは、我々は徳を生まれつきもったまま生まれてくるのでもなければ、何か体の部分のように生まれた後でひとりでに生じてくるわけでもないのだから。もしそうだったら、本意にかなうものでも賞賛に値するものでもなかったであろうから。また、出来事に後から親しむことによって成り立つわけでもない、会話がそうであるように。というのは、ほとんどこういう仕方で生ずるのが悪徳であるから。また実に、食いぶちの獲得に関わるにしろ身体の世話に関わるにしろ何か技術によって認識が生じるわけでもない。かといって、一般教養からでもない。…

Clemens,Strom.7.7..853=SVF.3.176(衝動の対象は動詞)
 さて、欲求や欲望や総じて衝動が関わるものに祈りも関わる。だから、誰も飲み物を欲せず、むしろ飲み物を飲むことを欲するのである。また実に、相続を欲するのではなく、相続することを欲するのである。また同様に、認識ではなく認識することを欲するのである。つまり、正しい国制ではなく、国制を与ることを欲するのである。すると、祈りが関わるものは請願が関わるものでもある。請願が関わるものに欲望も関わる。そして、祈ることと欲求することは互いにつき従って生じ、善いものと目前におかれた利益を所有することに関わる。

Clemens,Strom.7.7.858=SVF.3.639
 我々にとってこの人は厳格ではあるが、不滅のものに関して厳格であるだけではなく、体験されえないことに関してもそうなのだ。なぜなら、快楽にも苦痛にも導き入れられたり捕えられたりしないよう魂を保っているのだから。いわば判決者として、揺れ動かず、いかなる点でも感情を受け入れることのない者として、変ることのない足取りで、正義が本来歩いていくところに歩いていく者なのである。…徳を失うことがない者。

Clemens,Strom.7.10.867=SVF.3.511
 実際、ある事柄が智を得ていない人々からさえも正しくなされるが、しかし理にしたがってではないということがあろう。たとえば勇気におけるように。つまり、元々自然と気概に満ちた人となり、後々理を欠きつつもこの性格を養い、理を欠いてはいるものの、勇敢な人々がするのと同じことを衝動してなす、そういう人々もいるのだから。そうして、こうした人々が同じ事柄を正当行為することもあるわけである。たとえば、拷問をじっと耐えるといったことを。しかし、智のある人と同じ原因からそうしているわけでも、同じことをねらっているのでもないのであり、つまりは全身全霊を傾けていないのである…
 こうして、全て、知識のある人によってなされた行為は善い行為であり、逆に知識のない人によるそれは悪い行為である、行為の目標を保っているとしても。なぜなら、後者は理性算段から勇敢するわけでもなければ、徳からまた徳へともたらされるものがもつ何か有益なものに向けて行為を導くわけでもないからである。
 同じ理屈がその他の徳にも当てはまる。

Clemens, Strom. 7.11.61.4=FDS.70
 つまり、我々は音声を聞き、物体を観る。しかし他方、神は音声を放つことや観察することがそこから成り立つ事態をも吟味する。

Clemens, Strom. 7.12.70.5(50sq.Fr)=FDS.8
というのも、知識に適って善を所有することは土台がしっかりしており不変不動だからである。つまりそれは神々と人間の事柄に関する知識なのである。

Clemens,Strom.7.14.886=SVF.3.250
 というのも、ストア派の人々のように同じ徳が人にも神にもあるなどと全く神に背くことを我々は言わないのだから。

Clemens,Strom.7.17.893=SVF.3.490(傲慢の治癒法)
 3様の治癒が傲慢にもある、全ての感情にもそうであるように。つまり、原因の学習と、どのようにしてそれが除去されるかということのそれ。そして第3には、魂の訓練と習慣づけであるが、これは判断されたことに正しく調和できることに向けられる。

Clemens, Strom. 8.4.13.1=FDS.69(意味は生物ではない)
 「胎児」という語の意味は決して動物ではなく、むしろあの非物体であるレクトン、(意味される)事態、思考されるもの、とにかく生き物以外のものである。

Clemens,Strom.8.5.16.1=SVF.2.121(判断中止)
 ピュロン主義者達に抗して。(2)判断中止が何ものも確実ではないということであるなら、明らかにまず判断中止それ自体からしてそれ自身を無力化するものである。(3)実際、何かが真であり全てのことに判断中止すべきではないということを認めるか、さもなくば判断中止とは何ものも真ではないということであるという点に固執するあまり明らかにそれ自体の真性が損なわれることになるかどちらかである。(4)つまり、判断中止そのものは真であるか真でないかどちらかである。さて、真であるなら、その意に反して何かが真であると認めることになる。もし真でないなら、退けようとした事柄が真のものとして残ることになる。(5)なぜなら、打倒論としての判断中止が偽であると判明した限り、打倒されたはずのことが真であると判明するのであるから、ちょうど「全ては夢だ」と言う夢のように。(6)すなわち、自分自身を否認することで他のことを確証するものとなるのである。
 そして総じて、もし判断中止が真ならば自分自身から始めるはずであり、それは他のことに対する判断中止ではなくまず自分自身に対する判断中止となるだろう。(7)そうすると、誰かが自分を人間であると理解しているかさもなければ判断中止しているかどちらかであるとすれば、明らかに判断中止していない。(8)全てのことに対する判断中止を疑問とするために始点とすることに彼はそもそもどうやって到達しうるのか。彼はこの疑問にそもそもどのように応えうるのか。(9)つまり、このこと自体には明らかに判断中止をしていないのである。さらに実際、「判断中止している」と表明さえしているのである。
 そして、彼等にこのことを説得されて全てのことに判断中止をせねばならないとしたら、我々はまず判断中止そのものを判断中止するであろう、それに従うべきであるにせよそうでないにせよ。
 (8.5.16.1)さらに、真理を知ることはできないというまさにこのことが真理であるならば、そもそもあの真理の下で何も真理とされないということになる。しかし、真理を知らないというそのことも疑義のあるものだと言うとすれば、このことに関する判断中止を明らかに確証していないというその限りで、真理が知られうるものであるとしていることになる。
 (2)さて、学派というものが教条への傾斜だとしてみよう、あるいはそういう人々もいるのだが、相互のまた現象との一貫性を備え、よく生きることを目指す教条への傾斜だとしてみよう。さらに、教条とは何らかの理にかなった把捉である。また、把捉とは精神の性向と同意である。[そうすると]判断中止をする者たちの学派などありえない*。(3)[というのも]実際、判断中止をする者たちだけでなく、教条家も全て何らかの判断中止のうちにあるのが常だから、意思の弱さによるにせよ、事柄の不明確さによるにせよ、理論がなにごとにも平等の力を持つことによるにせよ。
*アルニムに従い補う。

Clemens, Strom. 8.9.25.1 (2.929 Pott)=SVF.2.346
 (1)原因には、直前原因、包括原因、補助原因、不可欠原因がある。(2)直前原因は、何かが生じることに最初に始点を与える原因である。例えば、美貌が放埒な人々に対して愛欲の原因であるようなものである。つまり、それが彼等に見られると、愛欲に染まった性情を作り出すが、絶対にそうなるというわけではない。(3)

Clemens, Strom. 8.9.25.5 (2.929 Pott)=SVF.2.344
 しかし、本来的な意味で主導因と呼ばれるのは何かを活動させるそれのことである。というのは、我々はナイフを切れると言うが、それは切っている場合だけではなく、切っていない場合でもそうなのだから。それと同じように、「主導的」というのも二通りの意味を表している。つまり、実際に活動させているという意味と、まだそうではないが活動させる能力は持っているという意味である。

Clemens, Strom. 8.9.26.1 (2.929 Pott)=SVF.2.345
 そして、原因は物体に属すると言う人々と、非物体に属するという人々とがいる。一方は、本来的な意味の原因は物体であると言い、非物体がそう言われるとしてもそれは言葉の誤用であり、疑似原因に過ぎないと言う。しかし他方は逆に、本来的な原因は非物体であると言い、物体がそう言われるのこそ言葉の誤用であると言う。

Clemens,Storom.8.9.26.3-4=LS.55C
 だから、成ることや切られることは、原因がそれに関わるものなのだが、活動である以上非物体である。

Clemens, Strom. 8.9.26.5=LS.33N  さて、「格」は非物体であるという同意がある。それだから、あの詭弁はこう解消される。「君が話すことは君の口を通って出てくる」そしてこれは真実である。「さて、君が「家」と言う。すると、家が君の口を通って出てくるのだ」これは虚偽である。なぜなら、我々が語る家は物体であるが、格は非物体であり、家はそれに与るだけなのであるから。
最初のページに戻る