ポルピュリオス『入門論』分析
哲学者、不屈のダヴィドゥス



第一章

 (2.4)神を通じて、これから論考をはじめようとするのであるが、論者は通常これらの項目を、それらは8つあるように思われるが、望むものとされるのである。つまりこれらのことである。正しい判断、有益であること、表題の理由、主張の正しさ、項目の分割、順序、教示の方法、個々の部分に対する対応、である。というのは、これらのことをしても章は全く余計にならないどころか、(10)かえって読者に意欲を鼓舞することになるからである。彼等は著作の意図を求めているのであるから。つまり、これが簡潔な形に自ずから、問題となっている著作の構成全体をまとめているのである。実際、有用性が追求されるのも、当の著作がどのような必要に向かっているかを知って、さらに購読への熱意を持つようにとのことなのである。表題の原因が追求されるのも同様である。というのは、表題は意図に一致しておりしかも著作に簡潔な名を与えねばならないのはもっともだが、しかし、どこかに不確かなことがあるならば、解明して探究せねばならない。(20)アリストテレスが『範疇論』『解釈論(命題論)』『分析論』という名を与えた際も同じことが言える。というのも、多くの人々は知ることができないのであるから。(4.1)どのような意図が著作の前に提示されているのかということを。
 (4.3)さて、我々も述べたように、しばしば表題というのは不確かである以上、それを探究する必要がある。事実、探究されるのは真理である。また、ここにあるのは本物の著作かどうかということは分っているからこそ、知恵の名誉に与っている教師の著作を我々は進んで読むのである。そういうわけは、多くの人々は真偽や益無益を区別できないので、教師の名声や名誉の故に進んで読書をするのがよいと思っており、教師がよいと思うその通りに、彼の意見に従うのがよいと考えているからである。
 (4.13)またこのためにこそ、我々は今問題となっている著作が真正のものかどうかということを追求しているのである。しばしば偽物の著作が見い出されるだけになおさらである。
 (15)さて、偽の著作が生じる仕方には四通りある。まず、同名性による場合がある。つまり、一つには、著作の名が同じであること、また、著者の名が同じであることによることもある。後者は例えば次のような場合である。つまり、誰か二人の同名の人物がそれぞれ別に著作を執筆した。一方は『霊魂論』、もう一方は『天空論』であった。しかしそこで、著者の名前が同じであるために、誰も区別ができず、両方の著作が一人の人物によるものであるとみなされてしまうのである。方や、著作の名前が同じであることによるというのは、次のような場合である。二人の人がいて、彼等が異なる名前を持ちつつも、一つの物事についてそれぞれ著作をものした。それは、『霊魂論』でも『天空論』でも何でもよいのだが。しかしそこで、誰も区別がつかなくなってしまい、一方を他方の著作とみなしてしまったり、その逆が起こったりするのである。
 (29)第二に、その名を受け取ることによって(30)そうなった偽作というものがある。つまり、これは名誉欲によるのである。というのは、名誉も名声もない者達には、理論の名によって自分の著作が尊敬されるのを欲して、自分の著作に誰でも有名な教師の名前をつけるのがいるからである。
 (35)第三に、金銭欲によって偽作が生じることがある。そのようなことは、シチリアの(6.1)僭主ペイシストラトスの治世下で起こった。というのは、彼の治世下、なおも時折ホメロスの叙情詩なるものが発見されるということがあったので、彼のもとにホメロスの詩歌全てを集めたいということになり、また、持参者には多大の報酬を与えると公言した。このため、多くの人々が詩をでっち上げて王の所に持ってきたのである。あたかもホメロスの詩であるかのように。言うまでもなく、自分の利得のためにである。
 (6.7)第四に、弟子達が愚直なほど彼等の師を愛するために偽作が生じる。しばしば彼等は何か作品を執筆すると、師の名前をつけてしまうのだ。例えば、プラトンは自分の作品の表題にソクラテスの名をつけた。また、ピタゴラスの徒達は「金言」と呼ばれる寓話集にピタゴラスの名をつけた。
 (12)こうして、偽作があるために、手許にある作品全てについてまさに我々はそれらが真作かどうかを追求するのである。
 (82.20)(A6.15)しかしながら、著作が[偽作と、あるいは]真作と判別されるのは、内容によることもあれば形式によることもある。内容によるというのは、叙述、つまり語る事柄によるということである。他方、形式によるというのは、つまり、思想によるということである。つまり、語られる事柄と思想形式によって、我々は作品が本当にその著者のものかどうか知るのである。言い換えれば、語られる事柄と思想形式が当の著者に収束すると見られれば、その作品がその著者のものであると我々は知るのである。
 (82.25)さて、章の分割が追求されるのは理にかなっている。章において語られる事柄を知れば、我々は全体を厳密に知ることになるのだから。つまり、どのような部分から人間は成り立っているかを知るならば我々は人間を全体として厳密に知ることになるのだが、それと同様にして、章において語られる事柄を知るならば、我々は全体を厳密に知ることになるのである。また、[著作の]順序が追求されるのも理にかなっている。それは、最初に読むべき事柄を最後に読む羽目になったり、反対に、(83)最後に読むべき事柄を最初に読む羽目になったりしないためである。さらに、教授の方法が追求されるのも理にかなっている。どのような教授方法を用いるべきか我々が知れるためにである。というのも、以下で知ることになるのではあるが、教授法は数多くあるからである。さらにまた、[学の]どの分野に関わっているのかということが追求されるのも理にかなっている。観想的な事柄について論じられていることを実践的な事柄についてそうされていると思い込んだり、実践に関することを観想の問題だと思ったりしないためである。以上の事柄における神の加護と共にこの章を終える。


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