ディオン・クリュソストモス
Dio Chrysostom,Or.1§42=SVF.3.335(宇宙国家 法)
だから、全世界の統治について述べるのがいいだろう。つまり、この世界全体は、常に幸福で知恵あるのであり、途切れることなく無限の時間の中で無限の時間に亘って広がっており、善き魂とそれにふさわしい神霊と配慮と最も正しい最善の統治を備えているのだが、一体いかなるものとして我々を[互いに]似たものとするのか、また世界そのものと我々に共通の本性に従って一つの制度と法の下に整えられたものとするのか、またまさにこの国制に与るものとするのか、ということをである。この国制を称賛し遵守し、反対することを何らなさない人は法にかなう人であり神々に愛される人であり端正な人なのである。しかし他方、自らにできる限りでそれを乱し、背き、配慮しない人は不法でありしまりのない人である。これはその人が一私人と呼ばれようが支配者とさえ呼ばれていようが変わらない。
Dio Chrysostom,3.43=SVF.3.331(徳と政治)
というのも、徳は「人々を法に従って治めること」「法に基づいて人々を見守ること」と言われているから。
Dio Chrysostom,7.102=SVF.1.562
というのも、まさにこの同じ詩句に反対意見を述べた者には、非常に知を愛する哲学者のある者がいたからだ。この方が対抗意識に駆られてこの詩句や、またソフォクレスが富について語ったことに反対したなどとは、私が思うに、誰も言えないだろう。この方は、前者には手短に、ソフォクレスのにはより長く語っている。長いと言っても今我々しているほども長々とではないが、それも今現在豊富な才能を駆使して詳論しているのではなくて、書物を書きながらそうしていたからなのだ。
Dio Chrysostom,7.134=SVF.3.727
彼等は人間であれ神々であれ誰をも畏怖しない。出生神ゼウスも、婚姻神ヘラも畏れない。
Dio Chrysostom,14.16=SVF.3.356(自由 奴隷 刑罰)
だから要するに、劣悪なこと、無茶苦茶なこと、無益なことをなすことは不可能なのだと、むしろ、正しいこと、有益で善いことがふさわしいことでありなしうることなのだと言うべきではないのか。
とにかくそのように私には思われます。
従って、誰にとっても劣悪なことや無益なことをしておきながら刑罰を受けないでいることは不可能なのだ、ギリシャ人であろうと夷狄であろうと…、誰かに金銭で買われた人であろうと。
たしかに不可能です。
しかし、その逆のことは万人に等しく許されており、許されたことをする人は刑罰を受けないままであるが、禁じられていることをする人は刑罰を受けるのである。すると、許されることをする人はそれを知っている人に違いないのではないか、またそれと逆のことをする人はそれを知らない人に他ならないのではないか。
そうに違いありません。
そうすると、思慮のある人々にとっては自分たちが望むことを何でもしていいことになる。しかし、無思慮な人々が望むことをしようとすることは許されない。従って必然的に、
思慮のある人々は自由であり、したい通りのことをしてもよいが、無知な人々は奴隷でありしてはいけないことを*するのではないか。
おそらくそうでしょう。
それならば、許されることと禁じられていることの知識を自由と、してもよいことと善くないことの無知を隷属と言うべきである。
*句読点はSVFに従う。
Dio Chrysostom,15.31=SVF.3.365(自由 奴隷)
従って、徳に関して立派に生まれついているのであればその人を高貴な人と呼ぶのがふさわしいのだ、たとえ彼の両親や先祖を誰も知らなかったとしても。
ところがしかし、善い生まれでない者は誰であれ高貴な者ではありえず、善い生まれでない者は自由でもありえないのだ。従って、卑しい生まれの者は全て必然的に奴隷なのである。
(53)さて、君達にある話をしたい。多分君達もどこかで聞いたことがあるものだが。
↓
Dio Chrysostom, 33.53=SVF.2.10a
(cf. DL.7.173)
こういう話だ。かの地の恐るべき人々の一人がある街にやって来た。その人がまさに自分の仕事としていたのは、あらゆる人の性格を直ちに知り、その人に備わる性格を事細かに述べるということで、しかも全く誰一人として外したことがないということだった。ところでそれは、我々が動物を見て、まぁ何でもいいのだが、これは羊だ、とか、これは犬だ、とかこれは馬だ、これは牛だとか分かるようなものである。そんな風に、その人物も人々を見ただけで分かり、この人は勇敢だ、とか、この人は臆病だ、とか、この人は嘘つきだとか、この人は放蕩だとか淫乱だとか姦夫だとか、言うことができるのだった。(54)それで、この人は恐るべき能力を実証して、全く誤らなかったので、人々は彼のところにこういう者を連れてきた。その男は、頑丈な体つきで眉毛がつながっており、みすぼらしいガサガサの身なりで、手にはタコがあり、薄汚れたボロボロの上着をまとい、踵までボサボサの髪の毛は切ってはあったがその切り方がまたひどかった。そして、彼はこの人がどういう人間か言わねばならなくなった。しかし彼は長い間この男を見ていたが、思うに、頭に浮かんだことをいいあぐねたあげくに、分からないと言い、そしてこの男に行けと命じた。そして去ろうとしたその時、その男はくしゃみをした。そこで、あの人はただちに声を張り上げた。「淫売だな」
Dio Chrysostom,36.20=SVF.3.329=LS.67J(国家)
彼等は国家とは同じところに住む沢山の人々が法によって庇護されたものである、と言っている。
Dio Chrysostom,Or.36.23=SVF.3.334 (宇宙国家)
すなわち、間違いなくこの一つのものを幸福な国制あるいは国家と呼ぶべきなのだ。つまり神々同士の共同を。というのも、誰であれ理に与るもの全てをも含めるならば、人間たちは神々に数え入れられるからだ。子供にしても大人とともに国家に与ると言われるではないか。しかもそれは本性上市民だからであって、国事を思慮したり行ったりするからでも法に与るからでもない。大体子供たちはそんなものを理解できない。
Dio Chrysostom, 47.2 = FDS.126 = SVF. 1.28
この私もかつて驚いたのだが、哲学者達の中には、そうせねばならない必然性も全くないのに、自分達の祖国を捨てて、別の国の人々と生きることを選び、しかし、祖国を敬わねばならないし大切にしなければならない、だの、公共のことをし政治に参加するのは人間の本性にかなうことなのだ、などと言ってのけるのもいる。例として挙げたいのは、ゼノン、クリュシッポス、クレアンテスで、彼等の誰一人祖国に留まらなかったにもかかわらず、そういうことを言っていたのである。
Dio Chrysostom, 53.4
哲学者ゼノンも『イリアス』や『オデュッセイア』また『マルギテス』について著作したのである。つまり、この作品はホメロスがまだ若い頃に、詩作に対する自らの資質を確かめようとして作ったと思われるのである。さて、ゼノンはホメロスの作品に付いては何一つけちをつけないが、同時に、こう論じ教えることもしているのである。つまり、ホメロスが書いていることには単に思惑に則っていることもあれば、真理に基づいていることもある。自己撞着を起こして、何か思惑に則った事柄において相反することを言うことがないように、と説いていたのである。(5)この言説はアンティステネスが既に言っていたことである。つまり、彼もまた、詩人は思惑に基づいて語ったこともあれば、真実に則して語ったこともあった、と言ったのである。しかしながら、アンティステネスの方はこの言説を実際に仕上げることはしなかった。つまり、個々の詩句に踏み込んで自説を検証することはしなかったのである。
Dio Chrysostom,69,4=SVF.3.584
(4)しかし、もし魂が思慮あるものとなり、理性も善いものとなって、自分自身や他人の事柄を正しく行うのに十分なものとなったなら、この人々は必然的に、幸福に生きることとなろうし、法に適った人間となって善い神霊に巡り会い、神々の友人となるだろう。というのもありそうにもないことではないか、思慮ある人々と人間に関わる事柄の経験を積んだ人々とが別であるとか、人間について知識を得ている者と神々についてそうしている者が別だとか、神々に関する知識を持っている者と敬虔な者が別だとか、敬虔な者と神に愛される者が別だとかいうことは。神に愛される人と幸福な人は別々ではない。無思慮な人間達と、自分自身に関わる事柄に無知な者も別々ではない。彼等自身の事柄に無知な者は神に関することも知らないのである。神々について劣悪な理解をしている者が不敬虔でないことはない。不敬虔な人々は神々の友人ではありえないし、神々の友人でない人々が悲惨でないことも不可能である。
Dio Chrysontom,71.5=SVF.3.562(知恵)
そうした点では確かにヒッピアスとオデュッセウスは多分狡猾だったのだろう。しかし、私が言いたいのは、哲学者は全ての技術を知ることはできないということなのだ。なぜなら一つの技術をきちんと勤めることだって難しいのだから。確かに、何をすることになっても全てのことをほかの人間よりはよりよくなすだろう。色々な技術に従う事柄でもそうだというのだろう。しかし、それでは何かそのような技術の一つに手をつけなければならないということになると、その技術に従うと何の違いもなくなるのだ。つまり、こういうことは不可能ではないか。単なる一個人が大工よりも大工術に従って何かよりよいものを作るとか、農夫でない者が農夫よりも何か農作業においてより経験を積んでいるように見えるとかいうことは。
ではどこが違うのだろうか。利益になるようになしたりなさなかったりするということ、なすべきことと時と場所を職人よりもよく知っており実行できるということである。
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