エウセビオス『福音の準備』 (14)数えきれないほどの人々が沢山の論議を費やして占師達をやっつけようとし てきたが、これから言うことの傍証としては、 ↓ Diogenianus ap. Euseb. PE. 4.2.14(136) = SVF.2.939 私見では、これらのうちの一つを引いてくればそれで十分であると思う。それは クリュシッポスの論議に向けられたもので、その中で彼は運命について論じた際 に占師達の予言があり得るということを論立てようとしているのである。そし て、この著者はクリュシッポスに抗して論じる際に、クリュシッポスは占師達を 元にして運命の存在を証拠立てているがその議論はひどい、と論駁している。… Diogenianus ap. Euseb. PE. 4.3.1 (136) = SVF.2.939  (3.1)さて、また別の論証を上述の書物(『運命論』)の中で彼は持ち出して いる。それは何か次のようなものである。「実際、もし全ての物事が運命の中に 含まれていないのであれば、占師が予言したことが真実であるかどうか述べるこ とはできない」つまり、いわゆる占師達の予言したことが全て実現するというこ とが明らかでもあるかのように、いやもっと、全ての物事が運命に従って生じる ということに誰かの同意があるかのように…(2)そう、クリュシッポスはこの論証 を我々に遣わしたのだ。それぞれの主張を互いにつなぎ合わせて。つまり、方 や、全ての物事は運命に従って生じるということを、予言というものがあるとい うことから論証しようとしているのだが、他方しかし、予言というものがあると いうことは、全ての物事が運命にしたがって生じるということを前提としない と、論証のしようがないのである。  (p.138)そして、前提に従い、卜占の術は未来の全ての事柄を予見し予言でき るということが真だとすると、運命に従う全てのことはその通りに実際もあると いうことが共に導かれはするが、もちろん、それが有益であり人生のためになる ということはまだ証明されてはいない。それだから、クリュシッポスは何よりも また卜占の術を讃えているように思えるのである。…つまり、卜占の術が有用で あるということを保証されるのは、予防をしなければいずれにせよ手に負えない 事態になるであろうことを予言することによってであると言う人がいたとして も、全ての物事が運命にしたがって生じるということの論証にはならないだろ う。予防をするかしないかということが我々の権内にあるからである。というの は、しかしこのこともまた必然的なのだと誰かが言うとしたら、運命は全ての物 事に力を及ぼすのだからと言うわけだが、今度は予言の有用性が損なわれるから である。つまり、そういう運命にあるのであれば我々は予防をするであろうし、 当たり前なことだが、そういう運命にはないということになれば予防などしな い、ということになろうからである。もし全ての占師が我々にこれからあること を予言するとしたならば。  クリュシッポスその人も言っている。実際、オイディプスと、プリアモスの息 子アレクサンドロスは、親は子を殺すこと為に沢山のことを企んだにも関わら ず、もちろんそれは占師達から彼等に予言された不吉なことを予防するためだっ たのだが、適わなかった、と。彼はこう言うのだ。かくのように、悪いことが起 こると予言しても彼等には全く何の役にも立たなかったが、それは運命という原 因によるのである、と。 Diogenianus apud Eusebium,Praep.Evang.6.264b=SVF.3.324(現行法)  現行の法律が全ての国制さえも誤らせるとあなたが言うのはどういう意味か。 Diogenianus apud Eusebium,Praep.Evang.6.264b=SVF.3.668(賢者と愚者)  それでは、賢者でなければみなオレステスやアルクマイオンと同じくらいに 狂っていると自分には思える、などと君はどうして言えるのか。1人か2人だけ が賢者になるのであって、既述のことから言って他の人々は無思慮の故に皆一様 に狂ってしまっているなどと君は言うのか。 Diogenianus apud Eusebium, Praep. Evang. 6.264c = SVF.3.668(賢者)  というのもまず第1に、君自身が賢者になるとは君は決して言わないのだし… Numenius apud Eusebium, PE.14. p.728a = SVF.2.20  ストア派の人々の理論は不一致を起こしてきて、それは創始者たちから始まっ て今でもまだ終わっていない。彼らは敵対的な論駁に気に入られて論駁し、自ら の見解に最早留まらない者もいれば、早速態度を変える者たちもいた。そうし て、最初の人々はより寡頭的な人々に取って代られ、彼等は離反してしまったの で、後の人々に対してより先代の人々にも、また互いの間にもどちらがどちらよ りもよりストア的かという非難の起こる原因となったのである。そして何より も、なお一層技巧に走った人々は細かい議論を弄する人々とみなされた。という のは、彼等自身が他の人々を沢山の問題をふっかけて?圧倒していたのでより素 早く非難を行ったのだから。 Eusebius, PE. 14.5.11 (ex Numenio) = FDS.110 = SVF. 1.11  ポレモンの弟子になったのが有名なアルケシラオスとゼノンだった。「有名」 だというのは、彼等のこともまた私は終止ふれていくであろうからである。とこ ろで、ゼノンのことを語るにあたって忘れてならないのは、彼がまずクセノクラ テスに師事し、その後はポレモンに、しかしそれにもかかわらず他方犬儒派のク ラテスにも従ったということである。そしてついには、スティルポンとも交わ り、ヘラクレイトスの言説の分け前にも与ったのである。(12)というのは、同輩 達とポレモンの下で学んでいた頃、彼等は互いに競争心に駆られてしまって、ヘ ラクレイトスもスティルポンも、またクラテスも同時に、競い合いに連れ込んだ のである。つまり、彼等のある者はスティルポンの影響を受けて好戦的になり、 方やヘラクレイトスの影響で厳粛になり、方やクラテスの影響で犬儒派になった のである。しかし、アルケシラオスはテオプラストス、プラトン派のクラント ル、ディオドロス、それからピュロンの下に留まったのである。 Eusebius, PE. 14.6.9 (ex Numenio) = FDS. 114 = SVF. 1.56  すると、この二人が公然と仲違いをしてぶつかり合ったというのではなく、む しろ、アルケシラオスがゼノンに異を唱えたというのが正しいのである。という のは、ゼノンは真面目に戦いを挑むに値する重大なことを何か備えていたのであ るが、それは弁論家ケピソドロス以上のものではなかったからである。つまり、 このケピソドロスという者は、自分の師イソクラテスをアリストテレスが攻撃し ているのを目の当たりにして、自分はアリストテレスその人よりも教養も経験も 劣っているのに、アリストテレスはプラトンに属する通念を題材にプラトンに即 して哲学をしていると思い込んでしまい、アリストテレスに敵対しつつも、実際 に攻撃したのはプラトンだったのである。そして、まずはイデア論を断罪し、つ いには、自分ではそのこと自体を知っているわけではないにもかかわらず、人々 にそう思われていることをねたに批判をしたのである。その人々にしても、多分 分っているのだろうと言われているだけなのだが。(10)以上のようなことを別と しても、ケピソドロスは、敵対している者に喧嘩を売られてもいないのに、それ どころか、敵視しようとも思ってもいない人間に挑みかかっていたのである。 翻ってゼノンは、アルケシラオスから解放された後、プラトンと張り合うことは なかったにしろ、思うにとても貴重ですばらしい仕方で哲学をなしたのである が、それにはこういう平和な状態を導くという目的が少なくともあったのだ。し かしもし、反論として書かれたものを元に論駁を行う場合のように、アルケシラ オスの言説に無知だというのでないならば恐らく、またプラトンのそれに無知で なければなおさらのこと、自分自身反対のことをなしたであろう。つまり、自分 の知らない事柄について叩いたり、その必要もないことをほめられた風でなく恥 知らずにも驕り高ぶって論じるということはなかったであろう。そんなことは、 犬連中にお似合いのことよりももっとはるかにひどいことなのである。(11)さら に、彼がアルケシラオスから離れたのは度量の大きさによるものですらあったと いうのも明らかである。というのは、あの方の言説に無知だからというのでなけ れば、ストア派の人々が恐れていたからというので   痛々しい戦が大口広げて(『イリアス』10.8) 他に転じた、つまりプラトンに向かったのであるから。ところで、ゼノンの弟子 で、ひどいことに全く何の慎みもなくプラトンに転向してしまった人々について は、私はまたいつか述べることだろう。哲学史に費やす時間の余裕があったら。 もっとも、言うまでもなく私にそんな暇はないのだが。お遊技ではあるまいし、 そんなために費やす時間などないのである。(12)さて、しかるにアルケシラオス はゼノンを商売敵であり、争う意味のある人物とみなして、あの人から返された 論議を粉砕し臆するところがなかったのである。(13)アルケシラオスがあの方を 攻撃した他の論点に関しては多分言うべきこともないだろうし、仮にあったとし てもそれを今言及する必要はない。さて、ある教説、そういう概念そのものも名 前もゼノンその人が最初に発明したのだが、それがアテナイの人々の間で評判が よいのを見て、アルケシラオスは万策を尽くしてそれに向かっていったのであ る。つまり、把捉的表象に、である。そして、ゼノンは体も弱っていたことだし 静かに暮らしていたのだが、今さらひどい扱いを受けることもできないので、ア ルケシラオスには関わらないで、言うべきことは沢山あったのにそれを言おうと はしなかった。多分もっとよい態度が他にあったろうが。それどころか、ゼノン は、生きている人々の間には最早いないプラトンを相手に虚拳をふるい、荷台一 杯のありとあらゆる口汚い文句を吐きつけたのである。つまり彼はこう言っての けたのだ。プラトン自身は弁護して自分を守ることができないし、アルケシラオ スの関心事である以上、他の人はプラトンのことなど気にもかけないのだから、 プラトンその人が自分からアルケシラオスに対峙すればプラトン自身の得になる と思う、と。 Eusebius, PE. 14.8.10 = SVF.3 Antipater 6 = FDS. 174A  (10)ともかく、カルネアデスの思想は全て唯一無比のものであって、どれもそうとしか言いようのないものだった。論争を挑んだ人々も弁があまり立たなかったからである。(11)事実、彼の同時代人だったアンティパトロスは論争を張り合う書を何か書こうとしたが、カルネアデスが日々なしている議論に対しては、講議の中でも、まして逍遥中には、何も公にしなかった。つまり、何も言わず、口に出しもしなかったし、彼から何か聴いた人もいない。要するに、一言も言わなかった。そう言われている。それでも、彼は反論を書いてそれを突きつけ、瑣末な点を取り上げては書を後の者たちに残したのであるが、それは、当時の人々にはかくも偉大に見え、またそう思われていた人物、カルネアデスに対抗することが、今もなおできないのだが、ましてその当時はできないどころではなかったからである。しかしそうとはいえ、この人自身もストア派の名誉欲から露骨に物事を混乱させ、自分の仲間たちには内輪の言葉で迎合して本当のことを言い自分の見解を述べていたのではあるが、内容は他の人なら誰でも言えそうなことだった。 Eusebius, PE. 14.9.3 (ex. Numenio) = FDS. 172A  ピロンの弟子になったのがアンティオコスで、新アカデメイア派を始めた人で ある。実際、この人はストア派のムネサルコスの下で学んだ後、師のピロンとは 正反対の思想を抱き、元々アカデメイア派のものではない思想を山ほど付け加え たのである。 Porphyrius de anima apud Eusebius PE. 813c (15.11.4) = SVF.2.806  また、どうしてこれが恥知らずな教説の宝庫でないことがあろう。気息を、あ る容態にある魂と、あるいは、知的な火と、あるいはまた、鍛えた鉄を水に浸け るようにして冷却され緊密になり硬化した気息、等と論ずる人は。 Eusebius, PE. 15.13.6 = FDS. 118  ストア派の学派にも移ることにしよう。(7)さて、ソクラテスの聴講者となっ たアンティステネスは、思想において何か大変ヘラクレス的な人物で、快楽を得 るくらいなら狂った方がましだと言ったのである。それだから彼は、物事のよく 分った人なら、快楽のために指を延ばすことさえ全然しないのだと、説いたので ある。(8)次に、この人の聴講者となったのが「犬」のディオゲネスで、この人 はひどく粗野な思想をもっていたと思われてはいたが、多くの人々を指導したの である。この人を継いだのがクラテスであった。そして、クラテスの弟子になっ たのがキティオンのゼノンだったのである。この人がストア派哲学者の学派の始 祖となったのである。(9)その後、ゼノンを継いだのがクレアンテス、クレアン テスを継いだのがクリュシッポス、そしてこの人を別のゼノンとそれに続く人々 が継承したのである。この人達は皆、厳格な生き方と弁証法に桁外れの注意を 払っていると言われている。 Aristocles ap. Eusebius, Praep. Ev. 7.816d (15.14.1-2) = SVF. 1.98 = LS. 45G; 46G  彼等は、ヘラクレイトスのように、火が一切の存在するものの基本要素であ る、と言い、プラトンのように、質量と神がそれの原理である、と言っている。 だが、プラトンが、最初に能動する原因は非物体的なものである、と言うのに対 して、ゼノンは、能動するものと受動するものの両方とも物体である、と言って いる。  その後、一定の運命づけられた時間に従って全世界は焔化し、その上でまたも う一度、世界が形成される。さて、根元の火は、あたかもある種子のようなもの で、万物の様々な理を含み、生成したもの、生成しつつあるもの、生ずるであろ うものの様々な原因を含んでいる。ところで、これらのものの結合と継起とが、 存在するものの避けること、免れることのできない運命であり、認識であり、真 理であり、定めである。これによって、世界の内部における一切のものは、あた かもある最も善く定めに従って治められている国制におけるように、極めて善く 支配されている。(岩崎允胤訳) Arius Didymus (Eusebius, Pr. Ev. 15.15.3-5) = SVF. 2.528 = LS. 67L  彼等によると、ありとあらゆるものからなる性質が永遠の神的な宇宙である。 宇宙は天空と大気と大地と大海とそれらのうちにある自然からなる構成物である と言われている。また、宇宙は神々と人々の居住地であり、神々と人々からなり 彼らのために作られた構成物であると言われている。国家は二通りの意味合いで 語られている。つまり、居住地としてと、同胞市民と共に住む者からなる構成物 としてと。それと同様の仕方で、宇宙も神々と人々が寄り集まった国家のような ものである。そこでは神々は指導者としてあり、人々は服従者としてある。(5) 共同が生ずるのは理に与ることによってであり、理とは自然における法である。 そして、他の全てのものは神々と人々のために生じているのである。 Eusebius, PE. 15.15.7 = SVF.1.499  宇宙の指導的部分は、クレアンテスが言うには、太陽である。その理由は、太 陽は星々の中で最大のものであり、宇宙万有の統治に非常に大きい貢献をしてお り、日々・年々その他の季節を作り出すからである。 Eusebius, PE. 15.18.3 = SVF. 1.107  つまり、ストア派の哲学者達の説では、有全体は、種子にかえるように、火へ と転化し、また再び後者から前者へと、かつてあった所の組成を全うするのであ る。この学派の教説であるこの思想に至ったのは最初の最も古い人々、つまりゼ ノン、クレアンテス、クリュシッポスであった。 Arius Didymus fr. 37 Diels (Eusebius, PE. 15.19.1) = SVF.2.599  共通の理がそれほどまでになると、より偉大で大きい共通の本性となり、全て を干上がらせ自分自身へと集める終末が全ての本質存在に生じる。この終末は最 初に語られた理へと帰って再び起こり、偉大な期間を作り上げる。その中で、た だ己から、また再び己へと、回帰が生じるのである。そして、その終末は、世界 が始まったのと同じ状態で退却し、理に即して再び同じ状態を作り上げる。そし て、このような期間の繰り返しは止むことなく永遠に続く。つまり、本質には開 始も終結もありえないし、支配原理も同様である。つまり、生成するものには、 全ての変化を受け入れられる本性を持った本質が基盤となっていなければならな いし、それはまた己からの創造を可能にするものでなくてもならない。我々の内 にあるのと同様に何らかの本性が、必然性に従って在る何であれそのようなもの を製作するものとして、自らは生成しないながらも、宇宙の中にあるのである。 というのも、このような本性に関して、生成に始源はありえないのだから。そし て、生成しないのと同様に、滅ぶこともなく、それは己で己をそうすることもな ければ、外部から何かが滅ぼすということもないということである。 20:魂についてストア派の人々はどう考えているか Eusebius, PE. 15.20.1 = SVF. 1.128  「ゼノンの言うところでは、種子(精子)とは人が湿り気とともに気を放った もので、魂の部分でありその断片で、親から受け継いだ種子と[自らの]魂の部 分とを混合し混ぜ合わて放出したものである。つまり、規定に従うと、これは次 のものと同じ理法を備えている。つまり、[父親の種子が]母親の体内に放た 時、女の魂の部分が他の気息と一緒になり、表に現れないものの共に成長し、本 性に従って動き、あの[父親の]気息によって呼び覚まされると湿り気へと加え られ続け、自ら成長するのである」 ↓ また、直後にこう加えている。 ↓ Eusebius, PE. 15.20.2 = SVF. 1.141  (15.20.2)「魂に関するクレアンテスとゼノンの教説を、他の自然学者達との 比較のために引いた人によると、魂とは感覚能力をもった蒸気であって、これは ヘラクレイトスと似ている。というのも、魂というのは常に蒸発する知的な蒸気 であるということを強調しようとして、魂を川に喩えてこう言っているのであ る。「流れる川は同じであるが、そこを流れる水は常に異なる。魂も、湿ったも のが蒸発してできたものである」(3)しかるに、ゼノンが魂を蒸気だと言ってい るのはヘラクレイトスと同様だが、感覚能力があると言ったわけは、存在するも のからの刻印を魂の主導的部分が受けられるからであり、また、実在するものの 刻印を感覚器官を通じて受け取れるからである。つまり、このことが魂特有のこ となのである」 Eusebius, PE. 15.21.3 = SVF. 1.139  ゼノンとクレアンテスに腹を立てる人がいるかもしれないが、それも義しい。 彼等はこの問題について乱暴に議論を戦わせ、両人とも同じことを述べたのであ る。固い物体から蒸発したものが魂である、と。 Eusebius, PE. 15.62.7 = SVF. 1.353 (Aristo)  ところで、こうしたことをソクラテスは説いた。この人の後にはキュレネ派の アリスティッポス、それからさらに後にはキオスのアリストンが倫理学だけを哲 学するべきだと言おうとしたのである。というのは無論、この学は可能であり有 益だからというのだ。言うまでもなく、自然に関する言論はこれとは全く逆で把 握されうるものでもなければ、仮に観得されたとしても何ら利益をもたないから である。つまり、我々により多くのものがあることにはならないだろう、例え持 ち上げられてペルセウスよりも高尚な者となった我々が  海流やプレアデスをも超えて まさにこの目で在るものと全宇宙の本性が一体何であるかを見てとったとして も。つまり無論、こんなものでは我々はより思慮深い者にも、より正しい者にも より勇敢にもより節制ある者にもならないだろうし、より強くも立派にも豊かに もならない、これらから幸福は分離されえないのだが。ここからして、ソクラテ スは在るもののうちあるものは我々の能力を超えており、あるものは我々のため にならないと言ったが、それで正しかったのだ。つまり、自然に関する事柄は我 々の能力を超えており、死すべきものの背後にあるものは我々のために何らなら ず、我々に役立つのは人間に関わる事柄だけなのである。かのこと、つまりアナ クサゴラスとアルケラオスの自然学説に別れを告げた上でこの方は  メガラの人々が善悪として作り上げたものを 探求をしたのだという。