ガレノス
『ユリアヌス論駁』
Galen, Adv Iulianum 4 (18a.257 K) = SVF. 1.132
言うまでもなく、これらの言説は最も輝かしい学者のものであり、その主張は方法論派の医師達がゼノン、アリストテレス、プラトンに従っているというものである。その反面、我々が忘れてならないのは、この人が、今挙げた哲学者達各々と同様、また後の人々と共にこう考えたことである。つまり、温冷乾湿のよい混合が健康で、今いった要素のいずれかが生活上超過したり不足したりすると病気になるというのである。また、体液も乾湿あり得るのであり、その温冷は病気になぞらえられるというのである。プラトンは彼の下にいた人々と、アリストテレスは逍遥派と、ゼノンやクリュシッポスは他のストア派の人々と友に、以上言われたように考えたのである。
Galen., Adv Iulianum 5 (18A. 268 K) = SVF.2.120
もし仮に、意見の相違は、独断家の無知蒙昧の十分な証拠にはならならないと思う人がいるなら、ほらここにストア派に都合の悪い問題がある。つまり、全ての哲学者達に異論を唱える人々の誰も、人間なみの知識にさえ到達できない、などと言う議論に説得される人がいるとしたら…
Galen., Adv. Iulianum 5 (18a.268 K) = SVF. 1.125
無論、我々の身体の本性は地水火風あるいは温冷乾湿が調和よく混合されてできたものであるということに関しては異論があるものの、テッタリア人がまるでバラバラであるほどではない。少なくとも、プラトン、ゼノン、アリストテレス、そして、テオプラストス、エウデモス、また、クレアンテス、クリュシッポスが(彼らはあるいはストア派、あるいは逍遥派あるいはプラトン派を自称しているが)多くの哲学者と共にこのことに関しては同意しているのであるから。
Galen., Adv. Iulianum 6 (18a.279 K) = SVF.2.355
包括原因についても他のところで語られている。そこで我々はその名称もその自体そのものも(それにこの名称は寄り掛かっているのだが)、ストア学派によるものであることを示しておいた。そしてまた、最近の医者達はこの種全体を正しく理解しておらず、名付け方も間違っているということも指摘しておいた。つまり、我々もしばしば彼等に従うのだが、それは名称について論争を挑んでいると思われないためであり、原因のうちには何かそういう風に呼ばれるものがあるということには同意するが、神かけて、それは端的にそうある事柄に関する限りではなくて、在ると受け入れられうる限りの事柄に限ってのことである。
(298)また実際、包括する原因について何か他の観念を持つことはできず、ただ、何かがこのものに関係して生じ、それと共に留まる、というだけなのである。他の所と同様にここでもまた突然自分は実はストア派の人間なのだと言うのでなければ。しかし、こういうことをしていては、それが病気だけではなく健康の原因でさえあると言う羽目になり、どうしてもある種の寒暖湿乾が病気であると言わざるをえなくなるのである。そんなことは言いたくないにも関わらず。もっと言えば、無駄な馬鹿話をしたり、ぎょっとすることを手を変え品を変え思い描いたりしていればよいのだ、ある時はストア派の教説を語り、ある時には自分達の教説を破壊する連中など。
Galen., Adv. Lyc. 3.7=SVF.2.230=LS.32G
つまり、まさしく、物事それぞれの差異を認識することに技術は成り立っているのだ。このことを最も詳しく述べているのは『ピレボス』におけるプラトンで、この著作のまさに冒頭にその箇所はある。しかし彼の思想はアリストテレス、テオプラストス、クリュシッポス、ムネシテオスも抱いている。そして、技術についてこの同じ言説を論じなかった者でこの思想を抱かなかった者はいない。
『魂の病について』
Galen, De Anim. Mor. 3 (4.777 K) = SVF. 1.285
またゼノンもこう言ったと言われている。きつい熱も水で冷やされると心地よくなるように、自分も酒で穏やかになるのだ、と。
Galen, De Anim. Mor 4.816 = SVF. 3.234
しかし驚くことに、この点でストア派の人々は全ての人々が徳の所有に適合した状態にあり、逸脱させられるのは立派には生きていない人々のせいだと思っている。……ひどく無能な人々である、彼等が言うには我々が逸脱するのは快楽のためでさえあり、このものは誘惑するものをたくさんもっているが、労苦は避けるに値するいやらしいものだという。
Galen, De Anim. Mor 4.820 = SVF. 3.235
というのは、ストア派の人々が言うように、外部から我々の魂に全ての悪徳がやってくるわけではなく、そのより多くを自分自身からもつのが劣悪な人々だから。外部からやってくるものは大抵これよりも少ないのである。
『魂の過ちを診断することについて』
Galen,De Animi Peccatis Dignoscendis 1 vol.5.p.58 K=SVF.3.172(?)
そして、今も最高の支配権を握っている…過誤を一体何だと彼等が言っているかを言葉で詳論する私は、全てのギリシャ人がこの音声を用いるならわしになってさえいるということを示して。というのは、ある時には、判断に際して正しくは生じなかったことにおいて語り、魂の理知的部分のみに関わると言うが、またある時には、一般的に、無理的な能力にも関わるという意味合いで語っているから。…(かなりの欠損。ガレノスは「誤った信念に即して過誤が生じる」という教説を論じ、「弱い同意」を過誤の中に数え入れるストア派の人々に反対している、と思われる)…過誤に関わる同意が何かということは全員に同意されている。しかし、それが弱いそれでもあるということは決してそうではない。というのは、弱い同意を徳と悪徳の中間におくことの方がよりよいと思われる人々もいるのだから。彼等が同意を弱いものと呼ぶのは、我々が我々自身に何か次のような信念を真であると全く説得しなかった場合である。つまり何でもよいのだが「各々の手に5本の指がある」「2×2=4」など。おそらく、老人になるまで全人生を学問に費やしたならば君は見出すだろう、知識に基づく証明を貧弱にそなえているものの何らかに同意するということは本当の過誤に属することだと。事実、幾何学者の知識はエウクレイデスの原論で証明されたことに関するようなものであり、「2×2=4」に類似のものが沢山のものにある。…だから、早急に手を伸ばして確実でない同意を(これを「把捉」と名付ける人々もいるが)こうしたことにもつなら、このことが過誤なのだと認める人もいるだろう、幾何学に長じた人に明らかに関わることだというので。実際、人生において善いことや悪いことの認識、所有、忌避に関する事柄に誤るので、邪悪な信念と虚偽の同意あるいは性急なそれあるいは弱いそれが構成されるのである。するともうここからして、些細ではない危険、それと同時に最大の過誤があることになる、我々が善いもの悪いものの信念によって虚偽に同意をする時には。
Galen,De Animi Peccatis Dignoscendis 4 vol.5 p.77 K=SVF.3.28(過誤の原因)
さて、全ての過誤の原因なのは各人の生の目的に関する誤った把握である。つまり、何か根から生えてくるようにこのものから個別の過誤が生じてくるのである。また、目的に関する信念においては過ちに陥っていないが何らかの個別の過ちには陥るという人もありうる、彼が整合性を理解していない場合には。
『魂の病の認識について』
Galen,De Cogn. Animi Morbis 5.13 K=SVF.1.233
というのは、ゼノンは我々が全てのことを直後に教師に弁明できるほど確固としてなすのがよいと考えたからである。つまり、このようにあの方は多くの人々を称して隣人を評価する用意のある人々と呼んだのである、例え誰一人彼等を助けないとしても。…
Galen., De Constitutione Artis Medicae 8 (1.251 K) = SVF. 2.405
原理が全面的に変転しうるものだとすれば、原理は全部でいくつあるのかということを順序立てて詳論していこう。ここでも、明らかだと思われる事柄の何かを論議の原点としつつ。物事が変化するのに必要なことは、まず変化するものの何事かが接触し、それが変化をさせるということである。これは感覚が教え、物事の本性そのものが示すところである。というのも、ここにある炎によって何かエジプトにあるものが変化するなどというのは、我々が備え持っている観念に反することだからである。しかしながら、変化するものが接触を受けて変転するとすれば、そのものに対して、接触する物事の何らかの性質が実現するのでなければならない。こうしたもの全てを追求するのに何か支障があるだろうか。
さて、鋭いものは側にあるものを切り裂くが、そのものの本質を変えることはない。それは、重いものもそういうものを押しつぶしたりはするが、そういうことを受けるものの本質全体に全面的に変化を実現させることはないのと同様である。実際、固さも、他の形相に移行するという形では、側にあるものを変化させることはできないのである。しかしながら、熱や冷は側にあるものの本質全体を変えることができる。同様に、湿と乾も、今言ったものほど素早くではないにせよ、時間さえあればそれら自身がその基体を変えるのである。でははたして、他のものを変えることのできるものが他にあるであろうか。それとも、全部がこれらに含まれているのだろうか。つまり、これらだけを
Galen,De Differentia Pulsuum (2.4. 8.578K)=SVF.2.47(?)
というのも、私はこの名前をどのギリシャ人の下にも見出さなかったからだ。それだから、アルキゲノスが定めた問題も知らないし、特有の論議についてこうしたことを著作した人の本も知らない。そうした問題についてクリュシッポスは名前の弁証法に則って事を定めているのだが。
Galen,De Differentia Puls. 10(3.30 Bas,8.631 K)=SVF.2.24
しかし、さらにこのことはまさに彼等の学派の曾祖父クリュシッポスの下にある。というのは、この人はものの言葉(名辞)について非常に多くの法規を定め、それはソロンがアテナイ人たちに木表で定めた慣習法よりも多かったが、彼自身がこれを混乱させる最初の者となったからである。…今やこの恐るべき人は、アテナイ人の子でもなくアテナイ人に養われたわけでもないが、昨日だか一昨日だか自らキリキアからやって来て、ギリシャ語の音声がいくつあるかということを自分で明白に学んでもいないのに、アテナイ人に言葉(名辞)で法規を定めようとしているのである。…さて、クリュシッポスがアテナイ人の言葉に対して傲慢の限りをつくした内容を恐らくいつかまた我々が詳論することになるだろう。
Galen,De Differentia Pulsuum 3.1(8.642K)=SVF.1.33
というのも、こうしたいわゆる気息派の人々全員がストア派の教説に歓迎されているからである。それだから、クリュシッポスは哲学における名称について彼等に論争するのを常としたので、この人々も医術におけるそれについてそうするのにやぶさかではないのだ。またそれ以前には、キティオンのゼノンが敢えて新語を開拓し、名称におけるギリシャの習慣を踏み越えたのだった。
Galen, De Dignoscendis Pulsibus I.5 (vol.8 p.793) = SVF.2.79
つまり、我々の身体において感覚されうる第一のものは情態であり、第二はそれらの情態を作り出しうる外界の実在物である。
Galen, De Elementis sec. Hippocr. 1.6(1.469 K) = SVF.2.408
つまり、究極的な熱は火よりももっと基礎的であるということ、また、このものが物体に生じると火を作り上げること、このことについては全ての哲学者達が合意している。アテナイオスは彼等に追従しようと躍起なのである。加えるに、火が生成する起源は、全ての基本原理の基盤になっている無性質の物体であり、あるいは、物体に生じる究極の熱であるということ、このことにも同様に合意がある。また、永劫にあり続ける物体は生成消滅しないが、それに備わる、生じ消えるものが性質なのであるということもそうである。また、基本原理は、それが基本原理である限りにおいては、種において単一でなければならないということもそうである。つまり、この点において基本原理は原理とは異なっており、原理はそれが備わる物体と種を同じくせねばならない必然性はないが、基本原理は全く種を同じくするのである。
『ヒポクラテス『体液論』注解』
Galen, In Hipp. Humor 1 (16.32 K) = SVF. 1.92
キティオンのゼノンも性質と本質はそのように徹底的に混合していると考えた。
Galen, In Hippocr. De Humoribus 1. vol16. p.174 K = SVF. 3.420(?)
義憤と不機嫌は魂の感情である。しかし、義憤と怒りは不機嫌や苦痛とは機能において異なっている。というのは、怒りや義憤においてはそれに元々そなわっている熱が膨張するからである。そしてその時に胆汁が生じて増加するのである。しかし、苦痛と不機嫌においては冷たいものにせよ熱いものにせよ?が集中してそこから発生するのである。
Galen,In Hippocr. De Humoribus 2.vol16.p303 K=SVF.3.260
しかしながら、魂の本質は一つであるという人々もいる。彼らの主張では、徳は各人の本性の完成である。さて、徳が何かこのようなものであるなら、それが一つであるのは、完成も一つである場合であろう。そしてこうして、魂の理知的部分において必然的に徳は知識だということになる。そして、このもの、つまり理知的なもの、だけしか我々の魂にはないとしたら、多くの徳を探求する必要はない。
Galen, In Hippocr. de Medic. Officina vol. 18B p. 654 = SVF.2.75
また実際、次のような理論を著している人々もいる。彼等は言う。「見ることができ、触ることができ、聞くことができる」ということは「視覚、聴覚、触覚によって感覚されうる」ということと同じことを表してはいない。というのは、見る・触れる・聞くということは把捉的でなくともありえるが、感覚するということは把捉的でないことがありえないからである。感覚に関するこの理論はストア派のシミアスのもので、それからまた、コイントスの弟子、イピキアノスもこの見解に加担していたが、彼はストア派の哲学の愛好者だった。ところで、彼等の主張は以下の通りである。方や、論述のある部分は、我々の系統立った理解が生じるところの物事についてその類としての側面だけを説き、方や別に、そのことについての詳細や信念を説く部分もある。それは、彼等がこう著した通りである。「診断は、病人の体において自然に従う事柄に類似するあるいは類似しないように表れる事柄から下すのがよい。すなわちそれは、感覚される事柄であるが、それもそのうち見られなかったり、聞かれなかったり、総じて何らかの感覚において感覚されないような事柄ではなくて、しっかりと把捉的に各々の感覚によって感覚され認識される限りの事柄である」実際、彼等が言うには、ヒポクラテスも感覚の声を判断に基づいてあわせ用いているということだ。
Galen, Instit. Log. 4.1 = FDS.951 = SVF.2.208
(1)さて、このような性質を持つ事態は完全な齟齬を表すが、別のものは不完全な齟齬しか表さない。例えば、我々が「もしディオンがアテナイにいるなら、彼はイストゥミアにはいない」と言うような場合である。(2)つまり実際、齟齬というものは、齟齬する事柄は共に在りはしないということを共通のものとして持っているが、しかし差異はあるのであって、つまり一方は、事柄が共に在り得ないということに加えて共に棄却もされ得ないのに、他方はそれがあり得るのである。それで、共に在るということだけがないのであれば、それは不完全な齟齬であるが、共に無いということもないのであれば、それは完全な齟齬である。なぜなら、それらの事態のいずれかは無いのが必然であるから。(3)そして、これらにある推論形式も二通りである。つまり、一つは、「昼である」という前提がとられて、「夜でない」という結論で終わるが、もう一つは、「昼でない」という前提に「夜である」である。さて、不完全な齟齬に際しては、齟齬をきたした際にいずれかを棄却する事柄のうちどちらか一つだけが前提としてとられうるのである。このような形で前提とされる命題が何であれ、それが「付加想定」と呼ばれるのは適切である。(4)それで、不完全な齟齬の場合、ギリシャ人達はこう言うのが慣わしである。「ディオンがアテナイにいて、かつイストゥモスにもいる、ということはない」そして、不完全な齟齬に与りうる限りのものはこの表現をもって表されうるであろう。しかし、整合する帰結もなければ、互いに齟齬もしない事柄がこのいずれかの表現で述べられたならば、我々はそのような命題を結合文と呼ぶであろう。例えば「ディオンは散歩しており、テオンは対話している」という場合のように。つまりこの場合、齟齬もしなければ整合もしない事柄が、一まとめにされて理解されているのである。(5)それだから、こうした文を否定する際はいつでも、あのような文を我々は、否定的な結合文とかあるいは結合された否定命題とか言うであろう。つまり、差し当たりどちらの呼び方をしても違いはないのであって、人があらゆる発言において目標とするのは何であれ自分が考えていることを周囲の人々にはっきりと明らかにすることなのである。
↓
Galen, IL. 4.6 = FDS.235 = SVF.2.208
(6)しかし、クリュシッポスの学徒たちはここでも事柄そのものというよりは表現により関心を払っていて、いわゆる連言的な接続詞によってつなげられた文を全て、相互に齟齬する節からなっていようが整合した推論をなすそれらからであろうが、結合文と呼んでいる。教示の何らかの明証性がその中にあるというのだが、その際彼等は言葉を無造作に使っているのであって、その言い方だと音声は違うものを指示しないのことになって、つまり彼等は自分達に特有の意味を要求しているのである。しかし、こんな言葉遣いをしなくてもよかったであろう、もし正しいギリシャ語を使い、聴衆に明確であろうとさえしたならば。
Galen,De Libris Propriis 11(vol.19 p.40 K)=SVF.2.46
私が言っているのは、哲学者達は論理学に関わる観想において互いに異なっていて、逍遥派、ストア派、プラトン派は相互に不一致であるが、しかし学派内では自学派そのものに属する人々はあらゆる学問において逆である(異なっていない)ということである。そして、逍遥派の人々の不調和はある意味小さいが、ストア派とプラトン派の人々のそれは大きいのである。
『感情の場について』
Galen,De Locis Affectus 1.3.vol.8 p.32 K=SVF.3.429
生成の際の運動には2種類あり、つまりそれは変容と移動なのであるが、変容が確固とした性状に至る場合、それは病と呼ばれる、明らかに自然に反する性状なので。しかし時に誤用から我々はそのような性状を感情と名付けることもある。
Galen,De Locis Affectus 3.1 Bas.3.270 K.8.138=SVF.3.457
さて、このような事柄はある意味より理にかなっていると彼は言った。と言うのは、真に理にかなったものとは有用さを越えて進み、物事の本性、つまり固有の本質に即してそなわっているのは一体どのようなものかということを観得するのだから。実際このように、哲学者クリュシッポスも『魂の感情について』の一つの巻、つまり治癒の巻を書いたのであり、それを我々が求めるのはなによりこうした感情を癒すためなのである。他方、他の3巻は理論的な探求に費やされている。
『医学方法論』
Galen, Meth. Med. 2.5 (10.111) = SVF. 1.131
つまり、病的な気質には多くの種類があるということ、またそれぞれの治療法が異なっていることについては、ヒポクラテスだけではなく、他の全ての医者、またプラトン、アリストテレス、テオプラストス、ゼノン、クリュシッポス、そして全ての哲学者の理論が証言者となってくれるのである。また、肉体の本性を厳密に見い出していくことなしには、病気の差異を見い出すことも、適切な治癒法を得ることもままならないということについても、今言った哲学者や医者はもちろん、指針を与えてくれるだけではなくて…論証を与えてくれるのである。
Galen,Methodi Med.2.7(vol.10 p.155)=SVF.2.322=LS27G
というのは、名前に関する細かな詮索、それを過度に整備した哲学者たちもいたからである。…今述べたいと強く思う。…私が細かい詮索と言うのは、「存在するもの」と「存立するもの」を類として分割することのことである。
『最高の医者は哲学者である』
Galen,Optimum Medicum Esse Philosophum 1.61=SVF.3.296
こうして他の徳をも必然的にこの者は持っているのである。というのは、全ての徳は相互に随伴し、どれか一つを持ちながら、直ちに随伴する他の全てを持たないでいることは不可能であるのだから。徳は束ねられた1本の紐のように随伴するのだ。
『魂に固有の感情の治癒について』
Galen,De Proprium Animi Affectuum Curat. 1.vol.5 p.3 K=SVF.3.461
さて、クリュシッポスとその他大勢の哲学者によって魂の感情の治癒に関する書物が書かれた。
『勧徳論』
Galen,Protrept. 7 p.8,22 Kaibel=SVF.2.1b
というのは、アリストテレスによらなくても、スタゲイラの人々の言葉は何かあったろうし、アラトスやクリュシッポスによらなくても、ソリの人々のはあったであろうから。
『非物体の性質について』
Galen, De Qualitatibus Incorporeis 1 (19.463 K) = SVF. 2.377
性質に関する議論は全ての属性に関するものでもあるのだが、それをストア派のお子さま連中は物体だなどと言っている。
Galen, De Qual. Incorp. 2 (19.467 K) = SVF.2.384
同様の論拠は残りの遇有性にも当てはまる。色、味、嗅覚や聴覚の対象、音、比率、笛の音、呻き声、口笛、嘆き声、しわ、いびき、ブウブウ音、耳鳴り、雑音などである。さてもし、こうしたものや、これらに類似のもの全てが、ある仕方で打撃を受けた気息であると言う者がいたら、そいつにメナンドロスの詩句を引いてやるのはよいことだ。つまり、
これらをお主が台無しにしたのだ、ひどい奴め
物体から離れては考えられないものがこうしたものなのだ。…こうして、気息の打撃は、気息ではないのである。
Galen, De Qualit. Incorpor. 3.4 (19.471 K) = SVF.2.382
しかし、もし物体の高さ・幅・奥行きもまた物体であるならば、理論の行き詰まりはもっとひどくなる。つまり、物体の無限が又無限になってしまうだろう、感覚にとっては何とかつかめるような小さい場においてさえも。こうした大量のものの、いやむしろ、無限の物体の量というのはそうすると永遠ではないのだろうか。そうすると、さらなる問題として、彼等は一体どうやって、最初の本質は無性質であるなどと言えるのだろうか。彼等が言うには、このものからして宇宙と、部分としての個別の種が生まれたというのだが。
Galen., De Qualit. Incorpor. 4 (19.473 K) = SVF. 2.386
しかしもし、光も物体であり、また白さや暖かさもそうであり、さてしかし、全ての物体が性質と量を持ち、増大しうる本性を有するなら、水が太陽に照らされて暖かくなると、それは数も量も多くなるのだから、そのためにより多くの場所を要する、ということにはならないのか。
Galen, De Qualitatibus Incorporeis 5(19.476K)=SVF.2.323
私が今言った笑止な点に加えてさらに、ひとまとまりの存在が実在するなどとも言ってはならない。…それをストア派の人々は第一の質量とか第一の存在とか言ってもいるのだが、彼等が言うにはそれから宇宙やその中にある個々の事物を神が作ったというのである。しかし、物体が性質のようなものだとすれば、それそのものが性質であるかあるいは少なくともそれ自体性質を持っているということがどうしてないのか?また、それが他の性質を持たず、それどころか全くの量としてしか実在しないのであれば(しかし量を彼等は物体に固有のものと言うではないか)、どうして彼等は第一の存在は混合されたものではなく単純なものであるとまで言うのか?だが、それが限界付けられ、つまり限を備えもつものだと彼等が言うとすれば、それが形態をもっているのは明白であるし、それ固有の限によって限度付けられた物体が全く形態をもっていないというのは実に笑止なことである、このことがそもそもそれ自体過程に従っているとは考えないのであれば。それだから、ともかく今言った全てのことが質量に関わるとすれば、それらは物体であり、彼等自身もそう言っているのである。無論、質のないものでも単純なものでもない。…また、それには何も混ざっていないということも彼等の主張なのである。
Galen, De Qual. Incorp. 5(19.477)=SVF.2.327
重量はないがかといって空虚でもないものが実在するなどということは考えがたいが、それに劣らず笑止なことである、もし誰かがこの両方の状態が保たれ、しかもそれが同一のものに関わり別々に判断されているのではないなどと言うとすれば。つまりは、あのようなあり方のものの存在(本質)が性質を欠いており、しかしながら彼等が言うところでは、このものから生じた4つのもののうち最初のものがそれぞれ性質を持つ、などと言っているのだから。…しかしもしもそれそのものがあの天空の火をもたず、仮定に即してこうしたもののどれ一つとしてもそうでないとすれば、しかしそれから4原や宇宙が作られたと彼等はいうのだが、どうしてこうしたものが創造されたものや、作り出されたもの、行為の結果でないことがあろうか?
Galen, De Qual. Incorp. 6(19.478)=SVF.2.323a
さて、医者はありとあらゆる薬剤から個々の薬を調合するのであり、つまりありとあらゆる性質を持つ素材から独特の性質をそうするのだが、要するに個別の性質を混合することで作り出しているのであって、神に誓って彼等もそう言うのだが、第一の存在に形態性や量、また何でもいいがその他のものの何らかの性質を混ぜているのではない。しかし、こういったものを(明らかにそれ自体存在し、永遠なものだが)混ぜているのだとすれば、どうして彼等は第一の無性質な質量だけが永遠なものであり、その他の性質や全て偶然に生起するものはそうではないなどとまで言うのか。つまり、彼等が言うところでは、神は何か手工業者のような制作者ではなく、全体が質量全体に浸透するのが万物の創造主だったのである。神的な火がどのくらいの期間永らえているかということ、またその期間のどの部分に今あるのかということ、またその火の長さ、幅、深さ、それに加えてその理性や幸福を、存在ともし彼等が言い、それらは物体的なものであると言うつもりならば、明らかに神は物体からなっているのであり、決して単純なものではなくむしろ合成されたものである。しかし、それらの…本性が存在はしないものだと彼等が言うつもりなら、我々の語ることは、偶然に生起するものが物体的な本性や性質を持っていないことを確証する。
Galen., De Qual. Incorp. 6 (19.480) = SVF.2.385
さらにここでもまた、負けず嫌いの連中にはおかしなことではないのだろうか。つまり、運動も、これは物体に加わり、また、離れたりするものではあるが、物体なのだと彼等は言うのである。…しかしながら、比喩的な意味合いで物体をそう呼んでいるのであれば、これは彼等にとってはそう困難なことではなかったろう。…しかしもし、第一義的な本来の意味でそう言っていたのであれば、彼等は正道から外れている。
Galen., De Qualitate Incorporeis 10 (19.483 K) = SVF.2.381
もし個々あらゆる遇有性もまた物体なのであれば、物体だけが無限分割されると主張する人々は一体何のことを言っているのか。形、そして例えば甘さとかその他個々諸々のものではないとしたら。つまり、複合によってそうなっているもの、すなわち、通念上物体と呼ばれているものに言及することによるものではなくて、直接的な意味合いにおけるそれのことを言っているのだが。さて、一体何故に、先ほど言ったように、物体だけにこの定義が当てはまると彼等は言うのか。つまり、固さを持った、三次元に分割可能なものというものだが。何故、色や味や味覚、その他個々の遇有性もそのように定義されないのか。そしてもし、物体とはそのようなものだと彼等が言うのであれば(つまり、種類の違いはあっても、一般的に全ての物体はそういうものだと言うとすれば、ということだが)、…個々それぞれの遇有性を定義する際、物体の本性は「過多さを持つ、三次元に分割可能なもの」だと言うことになるのである。
Galen, Sophsmatis ex Elocutione 4(14.595.8) = SVF.2.153 = LS.37Q
さて、ストア派の人々もこうした事柄について何事かを述べている。この問題を彼等は詳細に渡って考察しており、見たところそれは正しい、上述の問題のいくつかが考察からもれているとしても。この議論はある意味では帰納的なものであろう。しかし、また別の意味では、賞賛されている人々の考えを一つも余計なこととは思わないということも正当なことである。
さて、両義性の規定を、我々のものとは多くの点で対立するように思われるにしても、今ここで取り上げねばならない。なぜなら、この人々が考察していた問題は別のものであったということもあるからである。
では、いわゆる両義的命題の区別をとりあげねばならない。より洗練された人々によると、とにかく数的には8つあると言われている。一つは、分割された表現とそうでないそれに共通にあてはまるものと、彼等が言うところのもので、例えば「auletris pesousa」である。つまり、この文はauletris(笛女)という語にも、分割された語(aule tris「笛が三度」)にも共にあてはまるのである。第二のものは、そのままのただの表現に自然にある多義性によるもので、例えば「andreios」というのはそういう語である。つまり、この語は着物にも(「男性用の」)人間にも(「雄々しい」「勇敢な」)にもあてはまる。第三は、複合された語にある多義性によるもので、例えば「人間がある」である。というのは、この文は両義的であって、「人間」という実在物も、「人間が」という格も表しうるからである。第四は、省略によるもので、例えば「君は誰のか?」である。つまり、この命題は間にある語が省略されていて、それは例えば主人でも父親でもいいのである。第五は冗語表現によるもので、「彼に航海しないのを禁じた」というようなものである。つまり、前に置かれた(虚辞の)meが文全体を両義的にしているのであり、航海することを禁止しているとも、航海しないことを禁止しているともとれるのである。第六は、
*断片全体にかなりの乱れがあるので、ロング&セドリーに従った。
Galen., Synopsis Librorum de Pulsibus 9 (9.458 K) = SVF.2.356
無論、包括原因とかいう名があると我々が言うのがいかなる意味においてかということを何よりもまず忘れてはならない。なぜなら、本来的な意味ではなく、過った呼び名で用いられているからである。つまり、本来的な意味で包括原因と呼ばれているものは、ストア派以外の誰かがそう名付けたわけではないし、そういうものがあるという同意があったわけでもない。他方、我々以前にある意味では包括的な原因と呼ばれていたものは、ある種の生成に関わるものであって、実在に関わるものではなかった。
Galen,peri; t. t. yuch` hjqw`n Bas.1.351 K.820=SVF.3.469
このことの故に(ポセイドニオスは)少なくとも感情に関する問題においてクリュシッポスと正反対のことを考えたのであり、徳目の差異に関するそれにおいてもそうである。こうしたことの多くをクリュシッポスは魂の感情に関する理論的な探求の中で述べており、それが批判されている。さらにまた、徳の差異に関する論考の非常に多くの点もそうである。
偽ガレノス
『医学定義集』
Galen., Def. Med. (19.348) = LS.32D
こう定義する人々もいる。「定義とは分析的に適切に表現された言論である」あるいは「短い言及を通じて、その音声をあてがわれている対象の観念に我々を導く言論である」
Galen., Def. Med. 7 (19.350) = SVF.2.93
知識とは、確固とした把捉であり、不変となるように理論付けられたそれである。また、知識は、理論付けられて落ち度のない信念を表象から提供できるような不動の性向である。(8)技術とは、生活上の物事をよくはからうという目的に向けて鍛えられた把捉からなる体系である。あるいはこうも。技術とは、一つの目的に向けて関わりを持つ把捉から鍛え上げられた体系である。
Galen., Def. Med. 94 (19.370) = SVF. 1.128
さて、キティオンのゼノンはこう定義している。人間の種子(精子)は、魂の部分が取られ親の種と混ぜられたものを湿り気を加えて放出したものである。それ自体としてあるとも、混合されたものであるとも言える。
Galen., Def. Med. 126 (19.381 K) = SVF.2.89
思考とは知性認識が蓄積されたものである。知性認識とは理知的な表象である。
『哲学史』
[Galen.], Hist. Philos. 3 (600, 4-11 Diels) = FDS. 119 = SVF. 3. Diogenes 1; Antipatros 2
思うに、ソクラテスの徒というのはとても大勢いたが、その中でもアンティステネスは誰にもひけをとらない人物であった。この人が犬儒派を生に導いたのである。彼の追従者がディオゲネスで、彼はアンティステネスと同じようなことをやっていた。このディオゲネスに聴講したのがキティオンのゼノンで、彼がストア哲学を考案した。彼の言説を受け継いだのがクレアンテスである。そして、この人の聴講者だったクリュシッポスが類似の理論を受け継いだ。さらに、バビロニアのディオゲネスがこの人の聴講者となり、また、アンティパトロスの師となった。ポセイドニオスが聴講したのはこの人である。
Galen, HP. 16 (DG. 608) = SVF. 1.153
プラトンも、ストア派のゼノンも確かに神の本質について詳しく論じたが、同じことを考えたわけではなかった。プラトンは神を非物体だとし、ゼノンは物体だとしたが、両者とも神の形態については何も言っていない。
Galen, HP. 24 = SVF. 1.136
魂の本性を、プラトンのように非物体であると言った人々もいたし、ゼノンや彼に続いた人々のように、共同して働く物体だと言った人々もいた。つまり、この人々は魂は気息ではないかと考えたのである。
Galen, HP. 27 (DG. 616.2) = SVF. 1.91
ストア派のゼノンは、色とは質量の表面にあるものに過ぎないと理解した。
Galen, HP. 56a (DG. 624.22) = SVF. 1.508
クレアンテスは[星々を]円錐形だと考えている。
Galen, HP. 58 (DG. 625.9) = SVF. 1.507 (Cleanthes)
アナクサゴラス、デモクリトス、クレアンテスは、星々は上昇から下降へと導かれると考えている。
Galen, Hist. Philos. 93 = SVF.2.54
クリュシッポスは次の4つのものは相互に異なると言っている。さて、表象は魂に生じた受動状態であって、それを作り出したものをも自らのうちに示している。例えば、視覚を通じて白いものを我々が見るとき、魂の中には見ることを通じて受動状態が生じているのだ。そして、我々がこのものを受動状態と呼ぶことができるのは我々を動かす白いものがその下に置かれているからなのである。触覚や嗅覚を通じても同様のことが起こる。…表象は光に比類する形で語られる。というのも、光がそれ自体とそれの内に包まれている他のものとを示すように、表象もそれ自身とそれを作り出したものとを示すからである。
表象対象は表象を作り出すものである。例えば、白いものや冷たいものや、魂を動かすことのできる全てのものは表象対象である。
妄想は空疎な牽引であって、表象対象から魂の内に生じたものではない受動状態である。丁度、シャドーボクシングをする人や虚空に手を伸ばす人にこういうことが生じる。つまり、表象の下には何らかの表象対象が置かれているが、妄想には何も対応しない。
妄想対象は空疎な牽引である妄想に従って我々が引かれていくその対象である。黒胆汁で歪んだ人々や狂人にこういうことは起こる。実際悲劇作家もオレステスにこう語らせる時そういうことを述べるのだ。
おぉ母よ、お願いだ、私に押し寄せないでくれ
血に汚れた、蛇のような娘たちを。
彼女らは、彼女らはもう私に飛びかかりそうなのだ
オレステスはこうしたことを語る時狂っているのであって、実は何も見ておらずそう思っているだけなのだ。だから、彼にエレクトラはこう言いもするのだ。
寝ていなさい、おぉ可哀相に、静かにあなたの寝台に
実は何も見ていないのですから、はっきり知っていると思うことでも
ホメロスでもテオクリトスが同じようなことを言っている(『オデュッセイア』20.350)。
Galen, HP. 108 = SVF. 1.128
種子(精子)は物体であるか。
レウキッポスとゼノンは物体であると言っている。魂の断片であるというので。ピタゴラス、プラトン、アリストテレスは種子の働きは物体ではなく、物体の素材を提供しているだけだとする。ストラトンとデモクリトスは、可能性としては物体なのだとする。
Galen, HP. 109 = SVF. 1.129
女性は種子を放出するか。
ピタゴラスとデモクリトス、エピクロスは女性も種子を放出すると言っている。補助的な役割を果たすというので。それだから、女性は関係をもちたがるのである。アリストテレスとゼノンは、湿った質量を出すし、汗を流して懸命になりはするが、種子を出すことはないと言っている。
Ps. Galen, Prosgnostica ex Mathem. Scientia 1 (19.529K) = SVF.2.98
数学的な知識が実在するということについてはストア派の哲学者達の意見だけで十分である。この人々は、言論について手を尽くして調べあげ、人生についてもそれがなんであるかを示したのである。
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