ガレノス『ヒポクラテスとプラトンの学説について』 第2巻 Galen, PHP. 2.2.9=SVF.2.895=LS.34J  しかしながら確かなことだが、「私」という音声について『魂論』第1巻で指導的部分を論じた際にクリュシッポスはこういうことを書いたのだ。…(10) 「「私」という語を語る際も我々はこうする。つまり、我々はそれが知性であると言われる所において我々自身を指示するのである。こうすれば指示は自然にかなって親近になされるから。また、このように手で指示するということがなくても、我々は「私」と言う際に自分たちの方に向かって頷くのであるが、それは「私」という音声がまさにそのようなものであり、後に素描されるような指示に基づいて発音されるからである。(11)つまり、「私」の第一音節を発音する際、我々は唇を下に引いて自分たちの方を指示する。そして、顎を動かして胸の方に頷くというこのような指示に続いて後の音節は発音されるのである。その際、「あれ」という語の場合に起こるような、遠くのものを表すということは全くない」 …(21)しかしではなぜなのか。「同意の際に肯首するのは、その部分をもっていくその先に魂の主導部があると示すため」が何よりであり、つまり動かしている部分にあるのではないというためである。 Galen., PHP. 2.3.8 = FDS.73  (8)この方途から外に出てくるものは全て余計でそれこそ「疎遠な」ものである。そして、このやり方で、学問知識の陳述は弁論による論証や、訓練のための論、詭弁から区別されているのである。後者の事柄に関しては彼等自身の方法も訓練法も何ら説かなかったのがゼノンとクリュシッポスの取り巻き連中である。(9)ここからして、彼等の書物では全てのことが次々とごちゃごちゃに混ぜ合わされて、しばしば、たまたまそうなれば、弁論述による試論が導き入れられ、この後には訓練用の議論と弁証によるそれが続き、それから、続いて学問知識のそれになり、その次は、たまたまそうなれば、詭弁による議論になるのであるが、それもこれも彼等が無知で、学問知識に関わる陳述は探究されている事柄の本質を対象とし、それを目標にするということが分っていないからなのである。(10)しかし、他の全てのことは外からのものなので… Galen, PHP. 2.3.18 = SVF.3 Ant.31 = LS.36H  さて、二つの仮定からなる推論もある仕方で分析されるし、常に変わらずに真を帰結する(恒真的な)それらもある仕方でそうされるし、あるいは第二あるいは第三の規則を合わせ用いる他の同様の推論もそうである。こうしたことに精妙な訓練を積んだ沢山の人々に会うこともできる。もちろん同様に他の人々にも出会えるが、彼等の場合は第三第四の規則によって推論を分析する。(19)しかしながら、そうした推論の大部分を別の仕方で、しかもより簡潔に、分析することが可能である。それはアンティパトロスが書いた通りである。そして、彼にとっては、この種の推論を形成することは全て、無用な問題にちょっとやそっとではない過度の厳密さを払うことだと思われたのである。それはクリュシッポスその人もかれの仕事によって証左するところである。つまり、彼は自分の著作のどこでも、自説の論証のためにああした推論を要していないのである。 Galen., PHP. 2.3.20 = FDS.74  (20)どのようにして、学問的知識の前提を認識し、それを弁証法のあるいは弁論術やや詭弁論法のそれから区別するべきかということに関して、クリュシッポスの一派は語るに足ることは何もかかなかったし、明らかに、論じてさえいなかったのである。(21)それどころか、手を胸の方に運ぶことによって我々は我々自身を指し示すのである、とか、「私」という語を発する時我々は顎で下の方に頷くが、これは胸が魂の原理であるということを示している、とか恥知らずにも書いているのであるが、彼等の言うところの「直示」は、魂の主導者が胸にあるということと同程度に、鼻や眉間にあるということも示すし(というのも、人ということでこうした場所もしばしば指し示されるから)、肯首にしても、それが頭よりもむしろ胸の方を示すということはないのである。(22)また、Eという音[に関する彼等の論(「私」(ego)という語を発音する際「E」のところで顎の動きが心臓を指す、だから「私」は心臓にある、という理論)]がどれほど馬鹿げているかということは、『名の正しさについて』の第二巻で指摘しておいた。  (23)それだから、誰か前提の区別の発見と認識をを立派に修めた人がいれば、彼に対抗するのにはもっと長い反論など必要ではないだろう。逍遥派の連中に対抗するにも必要ないように。(24)というのも、彼等固有の教説に従って言うなら、彼等に対抗する論としてがもっているものは、魂の主導的部分の原理は脳にあり、気概的部分は胸に、欲望的部分は腹部にあるというもの以上だからである。(25)しかしながら、ストア派の連中に対してはどうしても長い論を展開せねばならない。連中は、論理学の訳に立たない領域においてもう沢山というほど理論を鍛えているのであるから。そして、有用な領域においては訓練をさぼり、よこしまなやり方による奇論で育て上げられているからである。 Galen, PHP. 2.5.7 = SVF. 1.148  (2.5.7)また、ストア派の人々に驚嘆された、ゼノンの言説は、バビロニアのディオゲネスが魂の主導的部分に関する書の中で何よりも最初に書いているものだが、今しがた述べた他の命題以上に驚嘆に値するものなど実は備えていない。(8)明白に知って頂くには、言説そのものをここに引いてくればよい。つまり、こういう言説である。「音声は期間を通って放たれる。さて、もし仮に脳から広まるのであれば、期間を通るということはありえない。ところで、言語が通り出てくるところを音声も通って出てくるのである。さらに、言語は思考から生じてくる。従って、思考は脳にはない」 Galen, PHP. 2.5.35 = SVF. 1.151  (2.5.35)また、ゼノンとクリュシッポスは彼等の集まり全体と共にこう主張してさえいるのだ。つまり、外部から体の部分に加えられて生じた運動が魂の主要部分に伝わり、そうして動物は感覚をするのだ、と。 Galen, PHP. 2.8.48 = SVF. 1.140; 521(Cleanthes)  しかし、もしクレアンテス、クリュシッポス、ゼノンに従うのであれば、彼等の言説では魂が肉から栄養を得ており、魂の本質は気息だという以上、どうしてまだ魂を養うものと動かすものが同じだなどといえるのか。養うのは肉で、動かすのは気息である以上。 第3巻 Galen, PHP. 3.1.21 = SVF. 2.886 = LS.65H  (21)でははたして、クリュシッポスは実際この通りにしたのであろうか、それとも全く反対に、自分でも書いたことを忘れてしまって、プラトンの思想について何事かを書いたことなどこれまで全くなかった、というようなふりをしているのであろうか。ともかく、クリュシッポスは、前提の一種、証人や多数者の意見によって信じられるべきであり、物事の本質によってではない、そういう種から論じ始めている。(22)彼の書いたことそのものを引用しておこう。大体このようになっている。「これから我々が探究する事柄に関して言えば、それはあたかも、共通の傾向性から発した我々が、その傾向の下で語られている言説を追求しているようなものである」(23)ここで「共通の傾向」とクリュシッポスが言っているのは、全ての人々に共通に思われている事柄のことである。それからさらに進んでこう言っている。「そして、そうした言説に基づくと、初めからどうしても我々の主導的部分は心臓にあるというふうに考えざるを得ないということは十分明らかである」(24)そしてさらに続いて、既にこれまで論じてきたことそのものに依拠しつつ、大体次のようなことを書いている。そのまま引用する。(25)「一般に、多くの人々は次のような見解に導かれるように私には思われる。つまり言うならば、人々は知性的な情態変化を彼等の胸のあたり、とりわけ心臓が位置している場所付近でひとまとめに感じ取っているというのだ。これはとりわけ苦痛や恐怖や怒りや何よりも発憤の場合にそうだというのだ。というのは言うならば、発憤は心臓から沸き上がってどこかその外に押し寄せ、顔と手をパンパンにするので我々に知られることになるからである」 Galen, PHP. 3.5.4 = SVF. 1.282  また、ゼノンは、「あなたが尋ね求めているものにしたって、全部結局は胃袋にいたりつくんだろう」と非難している人々にこう言った「でも全部を飲み込んでしまえるわけではないんだよ」と Galen, PHP. 3.5.27 = SVF. 2.895  (27)こうした試論に似ているのが「心臓」という語の語源に関する諸考察なのだが、上述のことに続いて、クリュシッポスは魂に関する論考の第一巻で、次のようなことを書いている。(28)「こうしたこと全てに調和することだが、心臓がこの名をもっているのはある支配力にちなんでのことで、魂を支配し統括する部分がそこにあるということから来ている。その部分は「支配的部分」と呼ばれてよい」 …(31)こうしたことを述べた後でクリュシッポスは次のように書いている。「この部分において我々は衝動し、この部分によって同意し、全ての感覚器官はここに伸びている」 … (45)我々は、こうした全てのことを言ったのはクリュシッポスだと言うであろうし、それで正しい。また、我々は、この人達には、彼と彼が言ったことを覚えているようにとお願いするであろうし、 ↓ Galen, PHP.3.5.45 = SVF.1.210; 572 (Cleanthes)  さらに、我々の場合、恐怖や苦痛や類似の感情が心臓付近で起こっているということのために他の論証を求める必要はないのである。(46)しかし、このことは彼等ストア派の間では同意済みのことと理解されている。つまり、クリュシッポスだけでなく、クレアンテスやゼノンもすすんでこのことを認めているのである。 ↓ しかし、あのお方はただ、全ての疑問が生じているのはどこでなのかと考えてみるべきだった。理性判断をする部分もそこにあると言うのであれば。 第4巻 Galen,PHP.4.1.14=SVF.3.461  (14)さて*『心魂論』の最初の巻でクリュシッポスは、魂には欲望的能力も気概的能力もないと反論するだけでなく、それどころかそれらに生ずる感情を事細かに説き教え、肉体の一つの場所をあてがっている。しかし、『感情論』(感情に関する理論的探求を追及する3巻と、さらに、倫理的な巻と書き記した人々もいるが、治癒的な巻からなっている)全体に亘って、もはや同様の認識をしていないのが見出され、むしろどっちつかずのようなことを書くこともあれば、魂には欲望的能力も気概的能力もないと考えているかのようなこともある。(15)つまり、感情の定義を展開する際には、魂にある何か理不尽な能力が感情の原因だと表明している。すぐ後で彼自身の言うことをお目にかけようと思うが、そのように。しかし他方これに続く論述では、**感情は判断に後続するのかどうかという問題を探求して、明らかにプラトンの教説から出発している。しかし、少なくともこのクリュシッポスは最初に問題を分割するに当たってこの教説を想起する必要さえも認めなかったのだが。(16)さてしかし、この点をまず糾弾する人がいるかもしれない、この人は分割をやり残したことでもうダウンしているのだといって。というのは実際、感情、例えば愛欲、は何らかの判断であるか、さもなくば判断に後続するものか、さもなくば欲望的能力の逸脱した運動か、どれかだからである。同様に、苦渋も判断であるか、さもなくばそれに続く何らかの理不尽な感情であるか、気概的能力の過激な運動か、どれかである。(17)しかし少なくともこの人は、このように問題が3つに分割されるのを認めようともせず、議論を論証しようとしている。つまり、それら感情を判断と理解し、判断に後続するものとしない方がよりよいというのだ。その時彼は自分自身が『心魂論』第1巻で書いたことを忘れているのである。愛欲は欲望的な能力に、苦渋は気概的なそれに関わると言っていたのに。 *men ounと読む。 **ミューラー案を採らない(意味は大差ない)。 ↓ Galen,Plac.4.2.1=SVF.3.463=LS.65D  (2.1)こうした事柄において隠蔽し、そして自分で書いた事柄にも、古人たちの教説に反対するにもふさわしくないと思ったのと同様に、第一に提示した類的諸感情の定義において彼は彼等の見解から完全に離れるのである。彼は苦痛を現前する悪に関する新鮮な信念と、恐怖を悪の予期と、快楽を現前する善に関する新鮮な信念と定義しているのだが。(2)[「離れる」]というのは、これらの定義において彼は完全に魂の理性的部分だけを念頭に置いており、欲望的部分や気概的部分は無視しているからである。なぜなら、思惑や予期は理性的部分にのみ含められるのが常であるから、というのである。(3)確かに、彼は欲望を理不尽な欲求であると言っているのだが、その定義に従うと、彼はある意味では魂における非理性的な能力という言い方で意味されている限りのことを保持してはいるのだが、ここでもその意味をの詮索して離れてしまうのである、もし欲求も、彼はこれも定義に従って理解しているのだが、理性的な能力に関わるのでありさえすれば。(4)実際まさに、彼は欲求をどの程度まで喜ぶべきかということにおける理にかなった衝動であると定義しているのだ。 かくして実際、これらの定義の中で彼は衝動や信念や判断が感情であると考えているのに、その後に述べられることのいくつかによると、自分自身の説よりもむしろエピクロスやゼノンに調和することを書いている。(5)というのも、彼は苦痛を定義して、避けるべしと思われるものにおける萎縮であると言っているし、快楽は選択するべしと思われるものにおける膨脹であると言っている。(6)そして実に、萎縮や膨脹や収縮や弛緩は(実際彼はこれらにしばしば言及している)信念に続いて生じる、理不尽な能力の受動状態なのである。しかし、このような性質のものと感情の本質を理解しているのはエピクロスやゼノンであって、彼ではない。(7)この人について私があきれることは、この人の言うことの中では理性的な能力に関する教示が明確であると同時に不明確であるということである。 ↓ Galen,Plac.4.2.8-19=SVF.3.462=LS.65J  (8)そして実際、こうした論述に従うと彼自身自らと齟齬するのが明白なばかりではない。感情に関わる定義について書く際には、それ[非理性的なもの]は魂の理不尽で不自然な運動であり過剰な衝動であると言っていたが、その後では、非理性的なものは理性や判断を欠いたものであると言われていると論を尽くして言っており、過剰な衝動の典型として「走りすぎる人」を採用している。この二つは両方とも、感情は判断であるということと相反する。(9)彼の言葉そのものを書き加えることにしたらより効果的だろう。一方ではこうなっている。  (10)「第一に留意すべきことは、理性的な動物は本来理性に調和するものであり、あたかもそれが指導者であるように理性に従って行為するものであるということである。(11)しかし、しばしば理性的動物は理性に背き過剰につき動かされて何かに向かってあるいは何かからさまざまに動かされる。二つの定義とも次の運動に言及している。つまり、このように理性に反して生じた、自然に反する運動、および諸衝動における過剰にである。(12)というのは、ここで言う理不尽とは「理性に従わないもの」「転倒した理性」ということであると理解するべきであるから。日常的にも、我々は何かがつき動かされるとか理性の判断を欠いたまま理不尽に運ばれるとこの運動に言及しつつ言っているのである。すなわち、誤って振舞う人や何か理性に従うものを見落としている人のことを我々は言っているのではなく、概要を述べた運動のことを言っているのである。理性的な動物はこのような仕方で魂に従うのではなく、理性に従うのが本来だからである」  (13)ところで、提示されたクリュシッポスの別の説が感情の第一の定義をここで補完するようだ。別の定義が提示される残りの教説は『感情について』第1巻によると引き続いて次のように書かれているのだが、それを今君にお見せしよう。  (14)「このことに即して、衝動の過剰ということが語られる。それは衝動の適度で自然な調和を踏み越えることによるのである。(15)言わんとすることは次の比喩によってより分かりやすくなるだろう。たとえば、衝動に従って歩いている場合、両足の運動は過剰にならず衝動にかなり調和している。それ故、その気になりさえすれば止まることも向きを変えることもできる。(16)しかし、衝動に従って走っている人の場合にはこのようなことは起こらない。むしろ両足の運動は衝動を越えてしまい、走り始めるや否や運び去られてしまい、かのように聞き分けよく向きを変えることはできない。(17)理性に従った調和を越え出ることによって、これによく似たことが衝動にも起こるように思われる。その結果、衝動をもつと理性に従わない状態になるのである。走行の場合、過剰は「衝動に反する」と言われるが、衝動の場合は「理性に反する」と言われる。(18)というのは、自然に即した衝動の調和とは理性に従った調和であり、理性がよしとする範囲での調和であるから。それで、このようにこのことに即して超過が生じる場合に、過剰な衝動や自然に反し非理性的な、魂の運動があると言われるのである」  (19)クリュシッポスの説はこの通りである。ではもっと明白にこの各々を考察しよう、先のものから始めて。それに従って、どういう意味で感情は理不尽で不自然な魂の運動だと言われるのかということを彼は説いたのである。(20)つまり、彼は「アロゴス」という音声に対応する二つの意味を知っており、そのうち一方だけが定義に従って「判断を欠くもの」と明らかにされるのを望んでいるのだから、曖昧さを残さないようにするのが正しいというものだが、むしろ彼自らが明らかにしたことは、感情に従った衝動が理不尽であると言うのはそれが理に背いて従わず判断なしに生じるという限りでだということなのだ。(21)そうすると、「理に反する」と言うことで彼は魂や理性を欠く動物から感情に従う理不尽な運動を取り除いたのである。(22)というのは、石や木も時には動かされるし、魂のないその他のものもそうだが、それは理に背くからでも、従わないからでもないのだから。つまり、従うことや服することの原理を内にもたないものが一体どうやって理に従わなかったり背いたりできようか。むしろ、理など要しないと言われているが、それで恐らく正しいのだろう。(23)背くとか従うとか言われるのは、本性上従うことも背くこともできるが自然から逸れて違う方向に運ばれることもあるものなのである。しかし、こうした事柄から示されたのは、魂や理性を欠く動物には感情は魂に関わるものとしては生じないということである。(24)しかし、彼が書いていることと言えば、感情に従う運動は理や判断を欠いて生じるということであり、続いてその後で言っていることと言えば、「何かを理に従っていると見遣りつつ誤っているというのでなければ」とか「自分自身に反して従わないというのでなければ」ということだから、彼は感情を過誤に属し大いに不完全なものと定義しているのだ。(25)すなわち一方で、過誤は邪悪な判断であり真理を踏み外して誤った理性なのである。ところが他方、感情は、今度は誤ったものでも算段から他所見したものでもなく、理に従わない魂の運動なのである。 Galen,Plac.4.3.1=SVF.1.209=EK.34=Th.407=LS.65K  (1)次に感情を何らかの判断とみなすべきか、判断に後続するものとするべきかと論じる時、どちらにしても彼は古人たちから離れるのだし、この選択肢のうちより悪い方を信じるという点ではもっと悪い。(2)すなわちまた、少なくともこの点に関する限り、ゼノンにもまた自分自身と他の多くのストア派の人々にも反目している。ストア派の人々は魂の諸感情を判断そのものであるとはせずにむしろ判断に続く理不尽な収縮、萎縮、飛翔、昂揚、膨脹であると理解している。(3)ところが、ポセイドニオスはこの両方の見解から完全に離れている。感情は判断でも判断に伴って生ずるものでもなく、気概的能力と欲望的能力によって生ずるのだと、古い説に全面的に従って、考えている。(4)そして、クリュシッポス派の人々に少なからず自分の『感情論』の議論において問いただしさえしている、過剰な衝動の原因は何なのかと。というのは、理はそれ自身の行為と限度を乗り越えることが可能ですらないからである。(5)こうして明らかなように、何か別の理不尽な能力が、理の限度を越える過剰な衝動の原因なのであり、それは丁度、判断した限度を越えて走路を越え出る原因が理不尽なもの、つまり体の重量であるのと同様なのである。 ↓ Galen,PHP.4.3.6=SVF.3.462=Th.407  (6)しかしこのことが驚くべきことなのではない、たとえ多くの人々に反することをクリュシッポスが言うとしても、彼が真理から逸脱したということと同様に。というのは、酌量の余地もあるだろうから、彼も人間であり誤りうることだし。否むしろ、驚くべきことは、個人下に語られていることを全く粉砕しようともせず、さらに自分自身にも矛盾していることなのである。つまり、感情が理と判断なしに生じると認めたかと思うと、今度は判断に後続すると言うばかりかむしろこれそのものが判断であるとさえするのである。(7)つまり、判断に全く関係がないということは、実に、感情が判断であるということの正反対である、神かけて誰か彼を弁護する人がこう言うのでもないならば。つまり、判断という言葉は多義を背負っていて、定義を論じる際には「全考慮」と言われうる判断のことを言っていたのであり、その場合「判断を欠いて」ということは「全ての事柄を考慮することはしないで」ということに等しいが、他方「感情は判断である」と言う際は信念と同意のことを判断と名付けたのだ、とでも言わない限り。(8)しかし、このことを誰かが受け入れたとしても、感情は過剰な「同意」ということになるだろうし、再びポセイドニオスが過剰の原因を訊ねることになる、クリュシッポスのせいで教示を受けて最大の過ちを誤ってしまったということに加えて。(9)つまり、教説の要がこの点、つまり一語多義による曖昧さに決着を付け、どういう意味で感情は判断を欠き、どういう意味で判断であると言われたのかを示すことにあるならば、そして、感情について著作した4巻本のどの巻でもそれをしていないとすれば、どうして誰が彼を糾弾しても正当でないことがあろうか。 Galen,PHP.4.4.1=SVF.3.464  (4.1)彼が自分自身に反対する論述を自分でしているのに全然気付いていないことに関してはさらに数え切れないほど言うべきことがある。それらを多分今後、十分長い余暇が得られれば、全部の問題点を一まとめにして別の著作として残すであろうが、今目前にある問題に親近な事柄だけを考慮することにする。(2)ところで、『感情論』第1巻で欲望を理不尽な欲求と定義しておいて、今度はその欲求そのものを類レベルの定義の第6番目で、何か快いものにどの程度まで快を感じるべきかということに関する*理にかなった欲求と言っている。同様にそれを『衝動論』でも定義している。 *ドレイシーの提案に従う(意味の大差はない)。  (5)というのは、何かこのようなことをクリュシッポスも要求するだろうが、魂の感情は判断を欠いて生じると彼が言う時には、しかし彼は我々にそれが判断の後に生じかつ判断であるという見解を聞き入れるよう要求しているのだ。他方、それが理を欠き理不尽だと言う時には、理不尽でないものであって魂の何か理不尽な能力においてではなくむしろ理性的なそれにおいて生じる理性的なものだ、判断することはこの能力の働きだから、というのである。 ↓ Galen,PHP.4.4.6=SVF.3.462  (6)理に従わずに背いてそれが生ずると言う時には、魂のうちに何か別の能力を全く探し求めないよう要求する、それに動かされて感情が理に従わずに生じるようなそれを。なぜなら、何かそのようなもの、そう理解している哲学者もいるように、欲望的なそれと気概的なそれを呼ばれるもの、など何もないのであるから、人間の指導的部分は全体が理性的なのである以上。 Galen,PHP.4.4.8=SVF.3.440  (8)[クリュシッポスは]恥じるということと慎むということを同じことについて語ることを許さず、快楽を感じることと歓喜することもそうしたのであり、むしろ自分自身語用に至るまでも全てを著作においては厳密にするべきだとしていた。 Galen,PHP.4.4.=SVF.3.476  …(16)クリュシッポス自身も次のような表現でこのことを明言しているようだ「恐怖や欲望や類似のものにおいてそうであるように、魂の感情とは反自然な運動であるということを言う人々もいるが、従って、それは場違いではない。(17)というのは、このような運動や状態は全て理に従わなずそれに背くものであるから。それ故、このような状態の人々は理不尽に動かされているとも我々は言うのであるが、その意味は、理にかなった状態と反対の状態にあるという意味合いで語られるような意味で悪く思慮を働かせているということではなく、理をそもそも拒絶するという意味合いにおいてなのである」(18)こうした箇所でクリュシッポスは「アロゴス」という音声に備わる2つの意味を明白に示している。それは実際にギリシャ人たちの間にもあったものだが、1つは理に適うということの反対であるということに関わり、もう1つは全く理に与らないということに関わる。(19)さて、適理に対立されたものは過誤であり邪悪な判断である。もう1つの理を全く欠いて生ずるものは感情的な衝動や運動である。(20)もし「理不尽」という語の意味がさらにたくさんあったとしても、それらについて語ることを彼はためらわなかったろうが、それでもこうは論証したであろう。つまり、魂の感情はそれらの何か一つの意味に従って理不尽だと言われるのではなく、理の拒絶によって生じるものと彼が名付けたものにあくまで則してそう言われるのだ、と。(21)というのは、だれかが悪く判断したことは理を拒絶しているわけではなく、理に則しつつ誤っているのであるから。しかし、理を用いず憤激や欲望に従って出来上がった衝動、まさにそれらを彼は理不尽だというのである、「アロゴス」という言葉の意味のうちのあの一つに従って。「ア」という音がそれを付けられた語の意味を否定し打ち消すと言われているその意味合いで。(22)すなわち、理に従わない魂の運動が理不尽だと言われるのは、理を用いるということを全く含まないというこの意味においてである。(23) なぜなら、そのような運動の際も我々が理を用いるとしたら、クリュシッポスが『感情論』第1巻で「何かが理に適っていると見誤って間違って運ばれるのではなく」むしろ「この理に背いて従わずに」そうするといっているのは正しくないことになる。また、『感情の治癒』においても間違っていることになる。少し前に私はそれを彼の言っていることの中から抜き書いておいたのだが、その中で感情の定義の際に彼は理に適うあり方の反対のあり方という意味で理不尽ということを意味して言っているのではなく、もう一方の、理への不服従と拒絶ということを言っているのである。(24)実際、彼は次のことを加え語っている。「… Galen,PHP.4.5.12=SVF.3.479  (12)つまり、下り坂を駆け下りる場合、その人の意向と同時に体の重さも運動の原因であるように、魂の感情においても同様に、限度を超えた、あるいはクリュシッポス自身が常々そう呼ぶように、運び去られた運動の原因として加わるものが理知的能力以外のいったい何であるのかということを彼自ら詳論するべきだった。(13)しかし実際には、感情治癒の書における叙述はこうなっている。「感情が過剰な衝動と言われるのは真実に親近である、運び去られる運動についてそれを過剰な運動と言う人もいるように。前者において、過剰になるのは理の拒絶に基づき、過剰でないものはそれを遵守しているのである。(14)つまり、理を踏み越えてそれの下からあっという間に運び去られる衝動が過剰になっていると語られるならそれは事実に親近なのであり、そしてこの故にそれは反自然で理不尽なものとなるのである。以上はあらかじめ述べた通りである」 Galen,PHP.4.5.19=SVF.3.480=LS.65L(クリュシッポス『感情論(治癒編、倫理編)』(感情と判断 感情の発生)  (19)同じ齟齬は「魂の感情は判断である」と言うとともに「感情は判断なしに生ずる」と説くことにもある。(20)実際、『感情論』第1巻からの発言を、そこで彼は感情が判断なしに生ずると言っているのだが、私は先程提示しておいた。彼の『(感情論)治癒編』という書物においても、それは『(感情論)倫理編』という名称ももっているのだが、彼が同じ考えを取っているということは、次の言葉から分かる。(21)「というのは、これらの感情が変容と呼ばれるのは個々のものを善いものだと判断することにおいてではなく、自然に則すことを越えてそうしたものに過剰に没入してしまうことのゆえになのだから」(22)しかし、こう言う人がいるかもしれない、この発言においてクリュシッポスは変容が判断の一種である可能性を払拭したわけではなく、ただ、変容の発生を誤った判断そのものの内にのみ認めるのではなく、過剰に突進するということでもあると言っているのだ、と。そう論じてくるとクリュシッポスの考えも明白になるだろう。「そこからして、女気違いとか鳥気違いいとか言われる人々がいるというのも理不尽なことではないのだ」(23)そうするとこういうことになる、「狂い」という言葉を変容という呼称に込めることが無意味でないならば、そして狂気は理性とは関係のない身体機能によって引き起こされるというならば、変容ほど合理的なものは何もない。  (24)しかし神かけて、恐らくこう言う人もいるだろう、すなわち、狂気情態は理不尽な能力によって生じるのではなく、むしろ判断つまり信念がふさわしい以上に過剰に運ばれてしまうことによるのだ、と。まるで、魂における変容は何事かについてそれらが善いとか悪いとか誤って受け取ることに全面的によるのではなく、それらを非常に大きいものと見積もることによるのだ、と言いたいかのようだ。(25)というのも、財産についてそれらが善いものだとする信念はまだ変容ではなく、むしろ誰か人がそれを最高の善だと認め、財産を奪われた人にとっては生きる意味などない理解した後に[初めて変容になる]のであるというのだから。つまり、こういうことの内で財欲や金銭欲は形作られるのであり、それが変容だというのだ。(26)ところが、このようなことをいう人にはポセイドニオスがおおよそ次のようなことを述べて反論しているのである。「クリュシッポスの説がこのようなものならば、困惑する人が出るであろう、まず第一に賢者たちは、全ての善美な事柄を最大限に認めはするが過剰に評価はしない人々なのだが、こうしたものに感情的に動かされることはなく、それは彼等が欲求するものを欲望する時でも、それらを手に入れて上機嫌になる時でも変わらないというが一体どうしてそういうことが可能なのか、と。 Galen,PHP.4.6.1(147.376M)=SVF.3.473=LS.65T  (1)クリュシッポスが1度や2度ではなく非常にしばしば自分で同意していることだが、人間の魂における理知的部分の何か別の能力が感情の原因だというのだ。我々はこのことを次のような説から理解できる。その中で彼は魂の弛緩や貧弱さのせいで正しくないことがなされるとしたのだ。すなわち、このものは緊張や強壮さの対立物だという風にも言われる。(2)つまり、人々が誤ってなすことのうちには邪悪な判断に起因するものもあるし、魂の弛緩や貧弱さに起因するものもある。同様に、人々が正当行為することのうちには魂における緊張を伴った正しい判断が導くものも少なくともあるというのだ。(3)ところでこのような理論が語ることは、判断が理知的な能力の働きであるのと同様に緊張は理知的なもの以外の別の能力、つまりクリュシッポス自身が呼ぶところの張力の力であり徳であるということである。また、彼が言うには、我々は正しく判断されたことから離れるときがある。それは魂の張力が不足しており理知的部分の命令を完全に助けるまで維持されない場合である。(4)こうした箇所においては感情とはどのようなものであるかを彼は明白に示している。さて、『感情論(倫理編)』にはこういう箇所がある。  (5)「さらにおそらく、この理論に従うと、肉体における張力、緊張、弛緩は神経において語られ、そのようなものどもによってなしとげられる働きのうちに我々があることができるか否かに関わっている。また魂における張力も緊張と弛緩として語られる」  (6)そしてそれに続いて「まるで走行や誰かとの対立や神経によって働かされる類似の事柄のうちにあるように何らかの完遂あるいは放棄されうる状態があるのである。それは神経が解き放たれ抑制を解かれるときに生じる。これと類比する仕方で魂にもこのような神経がある。そこに即しかつ転義によって、我々はある種の人々を無神経だとか神経質だとか言うのだ」  (7)これに引き続いてまさにこの論点を導入しつつこうも書いている。  「降りかかった恐怖にしり込みした人もいるし、もたらされた損得に疲弊し降伏した人もいれば、すくなからぬ他のこのようなことにおいてそうした人もいる。(8)つまり、あらゆるこうしたものは我々を攪乱し隷属させるものなのだ。こうしたものに降伏した友人であれ国家であれを欺き、他のものへの突進へと開放されると、こうしたものどもを多くの醜い活動にたたき込むのであるから。たとえば、エウリピデスの作品においてもメネラオスが表したごとく。(9)つまり、武器を取りヘレナを亡きものにしようと向かっていったが、彼女を見てその美しさに驚愕して武器を投げ捨ててしまった。しかし抑えることができなかったので、非難の言葉が彼自身にこう語りかけた。   女の乳房を見るや、へなへなと刀を落とし   くちづけを受けた、売国奴の牝犬におぬしの方から尾を振って」 以上クリュシッポスの言うことは全部正しいが、感情が判断であるという見解とは齟齬している。(10)つまり、メネラオスはヘレナを亡き者にしようと判断し剣をとったのだが、彼女のそばに近づくと心に張りがなく柔弱なため美貌にうたれてしまい(このことが、議論全体に亘ってクリュシッポスが構築する論点なのだが)剣を棄てたばかりかこの女にくちづけまでし、どんな言葉にも説得されず自らを奴隷に引き渡したのだと人が言うように、他の判断を持つこともなく、かえって軽率かつ理不尽にも最初に判断したのとは反対のところに衝動的に向かってしまったのだ。(11)ここからクリュシッポス自身はこのようなことを導いて語る。  「だから、このようなことをする全ての劣った人々はたくさんの理由に基づいて同時に反抗的かつ友好的に、しかしやはり貧弱かつ劣悪にあらゆることをなすのだと言われてよい」  …すなわち、知恵ある者が誰かいるとすれば、感情に関わる論述をこのように続けさせるものなど何も見出さないだろうし、ましてや治癒論など思いも寄らないだろう。治癒論においてかようなことを彼が書いたのは感情に流されるまま何事かをしてしまう人があらかじめの判断を放棄するその原因を全て知るためであった。しかしクリュシッポスは全てのことを明白に説くに当たって何よりもこのことをしないのであるから、今説かれているまさにこの論点をはっきりとはさせなかったのだ。  …メデイアは少なくとも憤怒に無理やり動かされたのだが、その彼女についてエウリピデスの言葉にまさにここで言及しながらどうしてクリュシッポスがことを分からなかったのか分かる人はいまい。 Galen,PHP.4.6.23=SVF.3.475  (23)しかしクリュシッポスはこうした論述における齟齬に気付かず、数え切れないほど別のこうしたことを書いているのである、彼がこう言う時のように。「思うに、まさにこの理不尽で理性に背いた運動は非常に普遍的なもので、これに基づいて我々は人が激怒によって運ばれるなどと語るのである」(24) そしてまた「それだから、感情に陥ったこうした人々に対しては、ちょうど気のふれた人々にそうするような態度を我々はとるし、また理を踏み越えて己の下になく、自分自身の内にない人々に対するようにするのである」(25)そしてその後またまさにこの点を詳論して「この逸脱、己からの離反が生ずるのが他ならぬ理に背く際であることは既述の通りである」(26)実に、「激怒に運ばれる」とか「気がふれる」とか「己の下になく、自分自身の内にない」とかこうした全ての表現は、感情が判断であり魂の理知的な能力に存するということへの明白な反証となっている*、次のような論述と同様に。(27)「それ故、次のような発言を聞くことができるのは愛欲やその他強烈な欲望に陥った人々の場合も、激怒に駆られた人々の場合も同じである。つまり、こういう人々は激情に悦楽を欲して、それが善いものであろうとなかろうとこれらのなすがままにさせて何も言わず、まるで万事それがなすべきことであるかのような有様である、たとえ正道を踏み外し自分自身にとってさえ得にならないとしてさえ」 *ドレイシー(marturei)でもこう読めることは読めるが、katamarturei, antimartureiなどの方がいいかもしれない。  (28)つまり、クリュシッポスによるこうした発言も気概的能力が理知的なそれとは何か異なるものであることを論証し、動物の衝動が時にはあの能力に統べられ、時には欲望的なそれによるのであり、後者は感情の内に据えられた場合であって、ちょうどそれに対応するように感情から離れると今度は理知的なそれに統べられる、ということを教えているのである。(29)さて、先に引かれた論述に、こうしたクリュシッポスの発言も類似しており、次のようなそれも同様である。「何よりもこうした動きを恋愛者は自分の恋人たちに対しもつべきだと考え、無思慮かつ理知的な反省をしないまま、さらには自分自身に忠告を与える理を踏み越えて、それどころか何であれこういうものには全く聞く耳を持っていられないのである」(30)つまり、こうした全ての論述は古の思想を傍証するものであるし、これらに続く次のものも同様である。「彼等は理に大幅に背いて、何であれこういうものには聞く耳を持たずに無視するほどなのである。だから、少なくとも彼等について次のようなことを言うのも場違いなことではない。(エウリピデス断片341)  というのもキュプリスは忠告を与えられたのにあきらめないのだ。  なぜなら、無理矢理止められれば、なお一層手を伸ばそうと欲するのだから。  (エウリピデス断片668)忠告されれば愛欲は  なお一層重くのしかかる」 (31)すなわち、こうした論述は次に挙げる発言と共に、感情の発生に関する古の教説への証言となる。「また*、時宜に無頓着で、愛欲における出来事に容赦のない懲罰人をそうするように、彼等は理を遠ざけるのであり、それは、神々も彼等に偽証の予知を許した時でさえ時宜を考慮せずに忠告を与えると思われる人物をそうするのと同様である」(32)また、これに続くものもなお一層そうである。**「彼等は言う、自分たちが欲望に従って生ずるがままをなせるようにと」 *etiと読む。 **区切り方などドレイシーの通り。 Galen,PHP.4.6.34=SVF.3.478  (34)そしてさらに加えて、彼がメナンドロスの詩句を想起する時も、その中でメナンドロスはこう言っているのだが  思慮を手に持ちながらも  壺の中にしまってしまった 明らかにここでも古の思想の証人となる発言を表しているのである。また、「己の下になく、自分自身のうちにもない」ということを念頭に置きつつ次のように言う際も同様である。(35)「このように怒っている人々が「運ばれている」とも言われるのは事態に親近な言い方である。走者のうち前に運ばれる人々にも「過剰な状態にある」という点では似ている。一方は走行の際の衝動に反し、他方は自分固有の理に背いているのである。というのも、こういう人々は、最低でも運動を自制している人々のようには自分自身に基づいて動かされていると言われえず、むしろ彼らの外部の何らかの強制力によってそうなっているのだから」(36)ここでも彼は、感情に陥った人々には何らかの強制力があり、それが衝動を引き起こしているということに同意しているが、その認識は非常に正しい。ただし、その強制力が人々の外部にあると言ったという点は違う。外部ではなく人間の内部に備わっていると言わねばならないのだ。(37)つまり、何の故に我々は彼らが自分自身の外におかれており自分自身のうちにないと言うかといえば、それは彼らを感情的な衝動に強いるものが外部にあるからなのではなく、むしろ彼らが自然に反した状態にあるからなのである、少なくとも、魂の理知的部分は自然に従うなら他のものを制御し支配することができるのに、この時は制御せずむしろ魂の理不尽な能力によって制御され支配されているのだとすれば。(38)思うに、このことをこのような例によってクリュシッポスは自ら提示していると気付かなかったのである。それが証拠に、彼はエウリピデスの筆によるヘラクレスとアドメトスの対話を引いている。それはこうなっている。  いつまでも嘆いていたいというならきみに訊きたいが、それでどういう得があるというのだ。(『アルケスティス』1079) こうヘラクレスが言うが、他方アドメトスは応えて  そのことは私にも判っている。しかし止むに止まれぬ気持ちがそうさせるのだ。(松平千秋訳) (39)つまり、明らかに、理知的なそれではなく欲望的能力の感情である愛情が魂全体を駆り立てて人間を最初に下した判断とは反対の行為に導くのである。(40)また、アキレスがプリアモスに言ったことも引かれている。  耐えよ、いつまでも心に嘆くことをやめよ。  良きわが子を悼んだとて、所詮それは甲斐なきことで、  生き返らせるわけにはいかぬ。それより早く他の不幸に遇うであろう。(『イリアス』24.549-551小川政恭訳) (41)クリュシッポスが言うには、アキレスがこういうことを語ったのは「自分自身の下にある対話者として」*であり、つまりそうクリュシッポス自身の言葉で書いたのであるが、しかしアキレスが不測の事態においてこうした自分の判断を翻すのはまれなことではないし、感情にうち負かされて自分を制御できないこともそうである。(42)つまりそうすると、ここでも「判断を翻す」とか「自分を制御できない」こととか「自分の下にある時とそうでない時とがある」ことやこうした全てのことは明らかに現象と、感情や魂の能力に関する古の思想には調和するが、実のところクリュシッポスの立てた前提にはそうではない。(43)同じような意味合いで、次のようなことが『感情論』という本の中でも語られている。「というのは、すると我々のうちにある舞い上がって逸脱したもの、理に従わないものは快楽においても劣らず生ずるのだから」(44)さらにまた「なぜなら、こうして我々が己を翻し、自分自身の外にでてしまい、困惑の中で全く盲目になったあげく、時には、手に海綿や毛綿をもっているならそれをちぎって投げつけることもあるほどである、まるでそうすれば何か成し遂げられるとでも言うように。また、たまたま短剣や何かそういうものを持っていたなら、それを同じような仕方で使ったであろう」(45)そして続けて「しばしばこうした盲目の中で我々は扉がすぐ開かない時には鍵に噛み付いて戸をぶん殴り、石につまづいた時にはまるで報いを与えるかのようにそれを砕いてどこかに投げつける。そしてあらゆるこうした場面で訳の分からないことを口走っている」(46)その後で言うことも同様である。「このような事柄から人は気付くことができる、こうした感情における理不尽さと、またこうした機会に我々がどのように盲目になるかということ、あたかも以前に問答をしていたのとは何か違う人間になってしまったかのようなのはどうしてかということを」(47)総じて、『感情論』という書物において彼が語ったことで彼自身が前提とした教説には齟齬するが現象とプラトンの思想には明白に調和する限りのそういう叙述を今誰か収集したら、この本の長さはひどく膨大なものとなるだろう。(48)というのは、この書物はこうしたもので満載だからだ、判断に背くことや、かつて問答をしていた状態から激怒や欲望や快楽や何かその類のもののせいで狂ったように動かされ自分自身のうちになく己の下にもないことや、思考が盲目になることや、理不尽に運ばれることや、こうした全てのことを彼が語る時には。 *引用符のかけ方等ドレイシーに従う。 ↓  (7.1)それでは、彼のこうした論述を暇に任せてかき集めるのは誰かにお任せしよう。こうした叙述が問題としている論題はもう明らかにされたのだからそれでよい。それはおいておいて、ポセイドニオスがクリュシッポスに対して反論したいくつかの事柄に進むとしよう。 ↓ Galen,PHP.4.7.2=SVF.1.212;3.481  (2)ポセイドニオスは言う「実際感情に関わる他の多くの定義と同様、迷妄に関するこの定義は、ゼノンが語りクリュシッポスが書き留めたのだが、明らかに彼自身の考えを反駁している。(3)つまり、自分の下に悪いものが現にあるという新鮮な信念が苦痛であると彼は言っている。ここで彼等はもっと切りつめた言い方をしておよそこういう表現をすることもある、苦痛とは現にある悪いものに関する新鮮な信念である、と」(4)ポセイドニオスが言うには「新鮮な」とは時間的に新しいということであるが、そうすると他方、悪いものに関する新鮮な信念は魂を萎縮させ苦痛を引き押すが、時間が経つと全く萎縮させなくなるかあるいは以前と同じほどにはそうさせなくなる、そのことの原因を彼等は語るべきだとみなしている。(5)実に、「新鮮な」ということが定義に含まれるべきではなかったのだ、もしクリュシッポスの言うことが真理ならば。なぜなら、彼の考えに従うなら、多大な悪いものあるいは耐え難いそれ、または彼自身そう呼ぶのが常であるように、自制できないほどのそれに関する信念が苦痛であると言うべきだったのであり、そのほうが「新鮮な」それというよりもましだったのだ。  (6)ここでポセイドニオスはクリュシッポスに対し挟み撃ちの反論をしている。この第2の定義について彼が賢者と向上者に言及しているのは先述の通りである。つまり、前者は最大の善いもののうちに、後者は最大の悪いもののうちに自分たちはあると理解しているのだが、しかしこのことによって感情に陥ることはない。(7)方や第1の定義については、苦痛を引き起こすのは悪いものの現前に関する信念ではなく、新鮮な信念だけなのであるということの原因を問うている。 ↓ Galen,PHP.4.7.7=SVF.3.482  そして何によるのかと言っている、およそ備えのないもの、突然ふりかかった馴染みがないものは驚かしてかつての判断から逸れさせるのに、予め訓練され慣れ親しんでいる時間の経ったものは、感情の下で動かされるように逸脱させるということが全くないか、ほんの些細にしかそうしないということは。だから彼は予め馴染んでおくということや、まだない事柄をあたかもその場にあるように扱うということを語るのである。(8)「予め馴染んでおく」という言葉でポセイドニオスが意味するのは例えば前もってやっておくとか、自分に将来生ずることがらを予め刻み込んでおくとか、要するにまるで既に起こったことに対するように何らかの慣れを作っておくということである。(9)だから、彼はアナクサゴラスの言葉をここで歓迎したりもしたのである。誰かが彼に御子息が亡くなったと伝えた時、アナクサゴラスは非常によく身を持してこう言ったということだから。「分かっておる、いずれは死ぬ者を私は生んだのだ」また、エウリピデスがこの考え方を受け入れてテセウスにこう言わせたやり方もよしとしている。(エウリピデス断片392N)  (10)しかしこの私はある賢者から学んで  思慮と不運に心を向けた  我が祖国からの逃亡を我が心に描き  また早すぎる死と、他のつらい道行きをも  そうすれば、かつて思い浮かべたことの何を被ろうと  我が身に新たに降りかかるわけではないし、魂をさいなむこともないだろう。 (11)次の詩句も同様のことを語っているとポセイドニオスは言う。(断片818N)  この日が我が心の責めさいなまれる最初の日なら  そして、しかるに私が苦悩の海を長らく漕ぎ渡ってきたのでないなら  きっと飛び込んだことだろう、新しく軛に繋がれた  駿馬のように、たった今馬銜を受けて。  だが今は鈍らされてしまった、災悪を身にまとって こういう詩句が引かれることもある。(『アルケスティス』1085)  今は傷がまだ新しいが、やがては時が痛みを和らげてくれるだろう。(松平千秋訳) Galen,PHP.4.7.12=SVF.3.466=EK.150a;165=LS.65P  (12)時間とともに感情は和らぐ、何か悪いことが自分たちに起こるという信念はそのままでも、ということについてはクリュシッポスも『感情論』第2巻で証言しているが、次のように書いている。(13)「苦痛の弛緩について探求する人がいるかもしれない。どのように起こるのか、何か信念が動かされるときにそうなるのか、それとも全てがそのままでもそうなるのか、[後者だとすれば]何故このことがあるのか、ということを」(14)さらにこう続けて言っている。「私にはこう思えるのだが、今あるこのものが悪いものであるというこの信念はそのままだが、古くなってくると委縮が和らぎ、思うに、委縮に基づく衝動もそうなるのだ。(15)しかし時折、このものがそのままなのに、その後のことが従わないということもあるが、それはある種の別の後続する性状のせいであり、こうした事柄が生じることになかなか結論を下さない*からである。(16)実際こうして、人々は泣きやんだり、泣きたくもないのに泣いたりするのだが、それは与えられた事柄が似た表象を作りなすわけではなく**、何かが間に入ったりそうでなかったりするからなのである。(17)つまり、このような仕方で悲嘆や泣くことの休止が生ずるのであり、こうしたことがあの諸感情にも生じるのは理にかなったことである、物事は最初により大きく何かを動かすのであるから。笑いを引き起こすものの後にそういうことが生じると言ったし、こうしたものに類似のものもそうであると言ったが、そのようにである」 *ポーレンツによりdussullogistonと読む。 **meを削らない。  (18)さて、信念がそのままでも時間とともに感情はやむということはクリュシッポス自身同意している。ところが、どういう原因でこのことが起こるのかは結論を出しにくいと彼は言う。(19)さらに続いて、類似の仕方で生ずる他のことについて彼は書いているが、それらに関しても原因を知らないことを明白に告げている。しかし、クリュシッポスよ、ポセイドニオスさえもこうしたことの原因を知らないと言っており、古人たちの言ったことを(これは後で書こう)賞賛し受け入れている。(20)ところがあなたは、あの方々に言及もしないで、そうかといって自分で別の原因を述べることもなく、原因を知らないと同意すれば探求事項は解決されると思っている。(21)しかし言いたいのは、感情の理論的探求にせよ治癒にせよ、問題事項全体を、まとめ上げるものは、感情が生じたり止んだりする原因を見出すことに外ならない。(22)というのは、思うに、こうして人は感情の発生を制止し、生じた感情を止めることができるであろうから。つまり、思うに、原因とともに問題事項の発生と存続が潰えるということは理にかなったことである。(23)実際、この点を『感情論』のある巻であなたも難問としているのだ。そして我々にどのようなことを書いてくれたかといえば、それに意を用いながら我々は個々の感情が生ずるのを防ぎ、またもし生じたならばそれを治癒するべきであるそのことだったのだ。実際に、プラトンもこうした問題について驚嘆すべき仕方で著作したということはポセイドニオスも証言している通りである。ポセイドニオスはこの人に驚嘆して、神の如き人だとさえ言っているくらいなのだ。そして、感情に関するプラトンの説や魂の能力に関するそれを一番だと言っているくらいなのだ。その説というのは、魂の感情などというものはそもそも生じない、あるいは生じたとしても即座に静まるということについてプラトンその人が書いたものである。(24)さて、ポセイドニオスはこう言っている、徳に関する教説も、目的に関するものも、総じて倫理の哲学の教説全体はこのことに結びついている、つまり、一本の紐で結ばれているように、魂に備わっている能力に関する知に結びつけられている、と。また、この人は、感情は気概や欲望によって生ずるということを証明しているし、自分に悪いものが現にあるあるいは起こったという信念や判断はそのままなのに時間とともに感情が静まるのはどういう原因によるのかということも論じている。 ↓ Galen,PHP.4.7.25=SVF.3.467  (25)さて、この点に加えてクリュシッポス自身を証言として用いている。彼は『感情論』第2巻で何か次のようなことを書いている。(26)「苦痛に際してそれに見舞われたのと同じようにして離れる人びともいるが、丁度パトロクロスを嘆くアキレスを詩人はこのように語っている   こうしてわしが身を捩じながら心ゆくばかり泣いた後(『オデュッセイア』4.541)   気持からも体からも悲嘆の情が消え去ると(『イリアス』24.514共に松平千秋訳) 彼はプリアモスを勇気づけようと衝き動いたのだ、苦悩の理不尽さを自分自身に示しながら」(27)さらに続いてこのようにも論じ進める。「こうした論拠に基づいて、人は希望を捨てようとしないでいられるのである、問題事項が時間を経て感情的な熱狂が四散すると、理性は這い戻ってきて言わば居場所を得、感情の理不尽さを示すということに。(28)つまり、明白にこうした箇所でクリュシッポスが同意しているのは、感情的な熱狂が時間とともに四散し、把握と信念がそのままでも依然そうであることと、人々は感情的な運動で一杯になり、そしてそのために感情は何らかの休止を得て穏やかになって、理性がより強いものになるということなのだ。(29)こうしたことは確かに真実である、何か他にもそういう点があるとしても。しかし、彼自身の前提には齟齬するのである、論じ進められることが次のようであるように。(30)「このような事柄もまた感情の変転に関して語られているのだ   ここも凍る悲泣の涙は、そういつまでも続くわけではないからな(『オデュッセイア』4.103松平訳) またさらに次のような事柄は苦悩の際のしのぎ方に関わっている。   不運に見舞われた者にとってはある意味   喜びなのだ、泣き叫んで運命を嘆くことは(エウリピデス『オイネウス』(断片563に類似)) (31)そしてさらにこうした詩句に続けて   こういうと、その言葉に亡き父を悼む気持が掻き立てられ(『オデュッセイア』4.113松平訳) また   何という悲しみに、あなたはこうまでも   身を細らせて、飽かず嘆き続けているの、」(エウリピデス『エレクトラ』125-6大芝芳弘訳) (32)さて、無論、数多くのその他このような証言を詩人たちからかき集めてくることはできる、苦悩や涙や嘆きや号泣や勝利や名誉やこの種の全てのものに人々は満たされるということについて。これらにおいて結論を出すのは何ら難しいことではない、時間とともに感情がやみ、理性が衝動を支配する理由について。(33)というのは、魂の感情的なものはそれに親近な何らかの欲求対象を追及するが、丁度そのように、何でもいいからこういうものに満たされると、このことで自分自身の運動を止めるのだが、そうするものは動物の衝動を支配し、どこに逸れていたのであろうと、自分自身で導くのである。 (39)すなわちアリストテレスやプラトンだけがそう考えたのではなく、それ以前にもそう考えた人々はいたのであり、ピュタゴラスもそうである。ポセイドニオスが言うところでは、確かにそういう説を語ったのはあのピュタゴラスが最初だが、プラトンがこういう考えを完成させより完成された形に作り上げたのである。(40)それはそうと、その故に性格と時間一般は感情的な運動に関して最大の影響力をもつのが明らかなのである。(41)すなわち、魂の非理性的能力はその中で養われていた性格にたちまち馴染むけれども、上述した通り、時間とともに感情の停止が生ずるのであり、それは魂の非理性的能力が以前に欲望していたもので満たされた場合に起こるのである。(42)しかし、理論的な認識や判断、総じて知識や技術一般は、ただ単に時間が経ちさえすれば崩壊してなくなってしまうようには思えない、感情に伴う性格のように。また、それらはそうやって変わったり停止したりするようにも思えない、苦痛や他の感情のように。(43)なぜならば、「2×2=4」という信念に納得していながら、時間が経ったからといってそれを捨てたり考えを変えたりする人がいるだろうか。あるいは、「円の半径はどこでも等しい」という信念をもちながらそんなことをする人がいるだろうか。(44)他のあらゆる公理命題についてもこうであって、納得しているのにその元々あった信念を放棄する人などいない。それは、泣くことや苦悩することやうめくことや嘆くことや悲しむことをやめることとは話が違う。こういうことをする人々は、悪いことが起こったということに関する理解がそのままであるにもかかわらずそういうことをやめる。  (45)さて、以上でもクリュシッポスが魂の感情について書いたことが正しくなかったその諸点を示すには十分だとしてよいし、そうした感情を作り出す能力に関してはさらにもっとはっきりしたとしてよい。 第5巻 Galen,PHP.5.1.11=SVF.3.464  (11)さて、全ての人々に明白なことに対するこうした厚顔無恥はソフィストのすることであるが、前提としたことさえ弁護できずそれどころか自分の言ったことと反対のことを書くなどということは言論に鍛錬の足りない人間のすることである。そういう人間だと、もう驚きあきれるしかないクリュシッポスも、非常に多くの問題においてはそう判明している。しかし、別の問題に転じよう。 Galen,PHP.5.1.4=SVF.1.209;3.461  (4)さて、クリュシッポスは『感情論』第1巻で理知的なものの何らかの判断が感情であると論証を試みたが、ゼノンは判断そのものではなく、むしろそれらに続いて起こる魂の委縮や膨張、高揚と沈滞が感情であると説いた。  (2.1)さて、魂の感情について、それは理性的能力の働きではないということは、既に私はこれの前に書いた本も彼自身が無意識に(自ら進んでではなく)同意していることで満たしておいたが、この本もそれに劣らないくらいそうしたい、最初に次の点から始めて。 ↓ Galen,PHP.5.2.2=SVF.3.465  (2)魂の感情が自然に反した理不尽な何らかの運動でありうるということには、古人たちだけでなく、クリュシッポスも同意する。すると、一方では、運動そのものが、洗練された人々の魂には生じないということも、両者によって同意されるだろう。(3)しかし他方、劣者の魂が感情に際して、またその前にどのようであるかということに関しては既に同様の考え方をしないのである。つまり、クリュシッポスは熱や下痢や何かこのような性質の他のものに些細な偶然の原因で陥りやすく向けられている肉体にこれが類比できると言っている。 Galen,PHP.5.2.13=SVF.3.465  (13)しかし、クリュシッポスはもっと目茶苦茶に、何か周期的に居座る病、例えば3日熱や4日熱のような、にも魂の病は似ていないと認めて、(14) 実際次のように書いている。「それで、こう論ずるべきである。魂の病は熱っぽい肉体の状態に最も似ているが、それもそこで熱や冷気が周期的ではなく無秩序に、しかも性状からそうなるとは異なって些細な原因に続いてそうなるものに似ている」(15)この人が一体全体どういうことを考えているのか分からないが、病に親しい状態にある人々は既に病気だが、既に病気の人々は全く病気ではない、と言うのだ。 Galen,PHP.5.2.20=SVF.3.471  (20)しかし、神に誓っておそらくストア派の内には、実際そう言われているように、感情・疾病・健康には肉体対魂というのと同じ類比があてはまらないと言う者もいるかもしれない。(21)では、おぉ最も優れた人々よ、一体全体どうしてこの我々が彼等の代わりに言わねばならないのか、君達は肉体における受動状態や病気に魂の感情をたとえるのではないのか。ではなぜクリュシッポスは『感情論(倫理編)』で次のことを書いたのか。  (22)「すなわち、病んだ肉体に関わる何らか特定の技術があってそれを我々は医術と呼んでいるのに、病んだ魂に関わる特定の技術はないということはないし、観察および治癒の部門においても後者を前者の下位に置いてはならない。(23)従って、肉体の医者にはその肉体に生じた情態の(こう普通言われるように)内にあって各患者に適切な治癒のうちにあることが相応しいのだが、ちょうどそのようなことが魂の医者にもあてはまる。つまり上記2つのことの内にあって、一つ一つの魂にとって可能な限り最善にそうするのがそれである。(24)そして、このような具合だと人は理解するだろう、あらかじめこうしたこととの類比が提示されているのだから。つまり、思うに、このことと並行する類似性は様々な治癒が似ていることと、さらには両方の分野における治癒者が互いに類比していることをも示してくれるだろう」(25)さて、魂における事柄と肉体に関する事柄の間に何らかの類比があると彼等が主張していることは明らかになったと思う。それは上記の言葉からだけではなく、これに続いて書かれていることからも分かる。それは次のようになっている。  (26)「すなわち、肉体の場合にも強壮と貧弱、張りと弛みが見出されるが、これらに加えて健康と疾病、好調と不調がある」そして、これらと並び称される他の受動状態や変調すなわち疾病もあるのだが、彼が言うには「ちょうどこれら全てに何らか同様に類似する仕方で、理性をもった魂のうちにもそれらは生じ名前をつけられているのだ」  (27)さらにこれに続いて次のように言っている。「このような類比と類似、こうしたことのうちに生じた同義性からそう思われるのだ。そして実際に、何らかの魂にも強壮であることと貧弱であること、張りがあることと弛んでいること、そしてさらに病んでいることと健全であることがあると我々は言っているが、何らかこれと似たことは諸感情すなわちいわゆる魂の変容あるいはこれらによく似たことにもある」  (28)つまり、明白にこうした論述でクリュシッポスは魂にあるものと肉体におけるものとの類比を維持しようとしている、[前者の]感情と[後者の]受動との、変容と変容との、病気と病気との、健康と健康との、好調と好調との、強壮と強壮との、貧弱と貧弱との、総じて言って同名に語られる全てのものと全てのこととのそれを。というのは、同じ名前と理がそれらにはある、少なくともそれらが同義ならば、と言われているから。(29)こうして、肉体における病気に誰がどのような定義を一般的に与えようとも、必然的にこの者は魂におけるそれも同じ仕方で定義せねばならないのである。  さて、クリュシッポスにとって問題なのは類比を全面的に詳論し確証することだというのが以上のことから明らかである。(30)しかし、もしこのことをねらったけれども目標を達しないならば、類似性に背を向けるべきではなくむしろその教説を真実ではないと非難すべきである。このことは以下に挙げる『感情論(倫理編)』の全ての言葉にも同じくらいにあてはまる。  (31)「故に、この方向においてもゼノンの理論は優れていた。魂の病は肉体の乱調と類似している。肉体の病は温と冷のまた乾と湿のそこにおける不均衡であると言われている。  (32)そして少し後では「そして肉体の健康は上述のもののある種の均整と均衡である」  またそれに続いて「というのは思うに、肉体の好調とは上述のものの最善の均整であるから」  (33)またその後で「しかし同じことが肉体におけるような仕方で語られるわけではない。なぜなら、温と冷、乾と湿のうちに生じた均衡または不均衡は健康もしくは疾病だが、弦における均衡と不均衡は強壮と貧弱、緊張と弛緩であるし、音調におけるそれは美と醜であるから」 Galen,PHP.5.2.47.(160.420M)=SVF.3.471a  (47)しかしこの少し前に提示した言葉の後で彼はこのように書いている。「故に、立派な魂や醜い魂は次に挙げる何らかの諸部分の均衡と不均衡に即して語られるであろう」(48)さて、魂の何かこうした部分の均衡と不均衡に即してこのものが美しいとか醜いとか健全だとか病気だとかいうことになると言うべきだと、クリュシッポスは正しく語っている。しかし、ただ一つのものすなわち理性的部分にのみ存するというのでは魂のそうした部分が何であるか言うことができないので、また魂の健康と疾病、立派さと醜さをあるとしてしまったのだから、理論を噛み合せ、魂の諸活動に部分として言及せねばならないのだ。(49)上で挙げた言葉に続いて次のように書いている。  「魂の部分があり、それらによって魂に備わる理と性向が構成されているのだ。そして立派な魂や醜い魂は固有の分割にしたがってかくかくしかじかの状態にある指導的部分に即してそうあるのだ」  (50)おぉクリュシッポスよ、固有の分割とはどのようなものかということを続いて加え述べるならばあなたは我々を難点から開放するであろうに。(51)しかし、ここでは何も述べ加えなかったし、あなたの著作のどこでも述べなかった。それどころか、あたかもこの点には感情をめぐる論題の中心はないかのように、ただちに自らの教説から離れどうでもいいことに長々と議論を費やしているのだ。魂の理知的部分の部分とは一体全体何かという点に踏み止どまり論証すべきなのに。 Galen,PHP.5.3.13(161.425M)=SVF.3.472  (13)しかし、治癒の論において彼は病気という概念を保ったのだが、自分自身に齟齬する論を展開していることに気付いていない。そして、魂の病気と、肉体に類比的なものとしてそれに備わると彼が言うその他のものにおけるそれを、彼が約束したようには、詳論することが全くできなかった。それに加え、魂の健康と立派さを同じものにまとめあげることもできない。(14)というのも、彼は肉体においてさえこのことを明白に規定できたわけではないから。彼は健康は諸要素の均衡にあるとしたくせに、立派さは諸部分のそれにあるとしたのだ。(15)すなわち、彼は少し前に書かれた言葉によってこのことを明証したというのだか、その中では肉体の健康は温冷乾湿における均衡であると言う反面、実際これらは明らかに肉体の要素である、しかし立派さは諸要素における均衡にではなく諸部分の均衡に与ると考えているのだ。…  (21)すなわち、理の固有の分割に応じて魂は立派なものになったり醜いものになったりすると彼は言った。しかし、魂がいかにして立派になったり醜くなったりするのかという点は彼は論じないままにしたのだ。どちらも同じことにまとめあげたいのだと思うが、しかしそういう事柄について彼は明白かつ決定的にそれを述べることができない。 Galen,PHP.5.5.1=SVF.3.229a=EK.169  (5.1)では、我々の前におかれた問題に関する最も必要な限りの事柄を詳論しよう。そしてそれらのうちまず最初に、子供たちを制御するものに関する問題を扱おう。(2)というのは、彼等の衝動が理性によって監督されるなどとは言いえないし(なぜなら彼等はまだ理性を持っていないから)、彼等は激怒しないとか苦しまないとか喜ばないとか笑わないとか嘆かないとかこの種のその他数えきれない感情をもたないなどとも言いえないのだから。その上、子供の感情は完成された人々のそれよりもはるかに多くまた激しいのでもあるから。(3)しかし、こうしたことはクリュシッポスの教説には調和さえしない、本性上快楽への親近も苦痛への疎遠も存在しないという見解と同様に。なぜなら、教育されないなら、全ての子供は快楽に突進し、労苦には背を向けて逃げるのだから。(4)また、我々も見る通り、彼等は激怒もするし蹴ったり噛付いたりもするし、同じような者たちを打ち負かして勝利しようとするのはまるである種の動物たちのようであるし、勝利そのものの他に何の報酬も投げかけられていなくても変わりはない。(5)またこういうことはウズラや雄鶏やイワシャコやマングースやサルやワニやその他数え切れないものどもにおいても明白に認められる。(6)そして、こうして子供たちも快楽と勝利に親近になるように思われるが、それは後に年を経てから立派なものに何らかの自然な親近を持つのと同じようなことなのである。(7)つまり実際、彼等が年齢を経ると、過誤を犯すと恥じ、立派な行いには喜び、正義やその他の徳を競い合い、沢山のことをこうした徳に関する観念に従ってなすのであるが、それまでの年がまだ幼い間は、感情に即して生活していて理性から命令されたことを何ら思慮していないのである。(8)こうして、これら3つの親近性が我々に本性上備わっており、それは魂の各部分に対応していて、快楽に対しては欲望的部分により、勝利に対しては気概的部分により、立派さに対しては理性的部分によるのだが、エピクロスは魂の最悪の部分の親近性だけを見た一方、クリュシッポスは最高の部分のそれに注目し、我々は立派なものだけに親近になるのだがそれが善でもあるのは明らかだと言ったのである。しかし、3つの親近性全てを見てとりえたのは古い哲学者たちだけであった。  (9)そして、クリュシッポスは2つを放置したので、悪の発生に困惑する*のももっともなことであるし、その原因や成立の仕方を言うこともできなければ、子供がどうやって過誤を犯すのかを見出すこともできないのである。思うに、こうした点全てについてポセイドニオスが彼を非難して論駁しているのは妥当なことである。(10)というのはそうなると、生まれてすぐ立派なものに子供が親近になるということだとすれば、悪徳は内側からでも彼等自身からでもなくただ外部から彼等に生じたのでなければならなかったであろうから。(11)しかし実際に見られるところでは、たとえ最善の人柄へと養われふさわしい教育を受けたとしても、人は間違いなく何か過誤を犯すのだし、まさにこのことはクリュシッポスも同意している。(12)ところが、彼は明白な事実を看過したので、彼にできたことと言えば独り善がりな想定に辻褄の合うことを同意するだけだった。つまり、子供がきちんと指導されたなら時が経てば彼等は完全に賢者になると言うのである。(13)しかし、少なくともこの点では彼は現象を会えて偽ろうとはしなかった。それどころか、ただ哲学者の下でだけ養われ悪の見本を一切見聞きしなかったとしてもそれでもこの子供が必然的に哲学をするわけではないというのである。(14)というのは、逸脱の原因が2つあるからである。一つは多くの人々の言うことを聞くことに起因し、もう一つは事柄の本性そのものによる。しかし、私はこれらのそれぞれについて疑問をもっているが、まず隣人たちから生じるものを問題にしたい。(15)というのは、何故に悪徳の例を見聞きした者が、これに何も親近を持っていないのに、それを嫌わず避けもしないのか、という驚きの念が私に生じるのだが、それ異常に驚くのはそういうものを見聞きもしていない者がこうしたものそのものの方に欺かれる時である。(16)つまり、何の必然があって子供達は快楽に、まるでそれが善であるかのようにそそのかされるのであろうか、それへの親近を何らそなえていないのに。また労苦には背いて避けるのであろうか、それへは本性上疎遠であるというのでなければ。(17)また、何の必然があって賞賛と名誉には飛びついてこれを悦び、非難と不名誉は嫌って避けるのであろうか、これらのものに対する何らかの親近と疎遠が本来そなわっているのでないならば。(18)言っていることの外面はそうでなくてもそれでも内容ではクリュシッポスは同意しており、我々には上述のものそれぞれに対する何らかの親近と疎遠が本性上あるというのだ。(19)というのは、彼が言うように、善いものと悪いものに関する逸脱が劣悪な人々に生ずるのは現象のもっともらしさと聴従によるとしたら、彼が問われるべきは何の原因によって快楽はあたかもそれが善であるかのようなもっともらしい表象を投げかけ、苦痛はあたかも悪いものであるかのようにそうするのかということだから。(20)また同様に、何故オリンピアでの勝利や銅像を立てることが大衆にとっては賞賛され祝福されることを耳にし、敗北と汚名が悪であると我々は納得するのであろうか[とも問われるべきである]。(21)そして実際、この点に関してもポセイドニオスは[クリュシッポスを]批判し、次のようなことを証明しようとしている。つまり、理論的な事柄における全ての誤った理解の原因は無知によって生じるが、実践的な事柄におけるそれは感情的な牽引によるのであり*、判断に際して理性的能力が貧弱な場合この牽引には誤った信念が先行するのである、と。というのも、動物の場合、衝動は理性的能力の判断の下に生ずることもあるが、感情的能力の運動の下に生ずることもしばしばあるからである。 *ディールスによりaporei peri。 **原文に問題あり。See Kidd(1971) in Ploblems of Stoicism n.14  (22)ポセイドニオスはこうしたことを述べる際に体型論的な現象に注目しているが、もっともなことである。というのは、動物でも人でも、胸が広く体温も高いのは皆気概に富んでいるのに対し、腰が広く体温の低いのは憶病であるから。(23)人々は憶病と大胆、あるいは快苦の好みに関して居場所に応じても性格の点で少なくない違いを生ずるのであるが、それは魂の感情的な運動は常に身体の性向に従うからであり、身体的性向はそれが交わる環境に応じて少なくない変転を被るからである。(24)つまりこれに加えるに、彼が言うには、血液も動物においては熱さ冷たさ、濃さ薄さ、その他の*少なからぬ違いによって異なっているのだが、こうしたことをアリストテレスは最大限に詳論したのである。(25)しかし我々はそれに適した時に議論の進行に従ってこの問題を想起することにしよう、つまりこうしたことに関するヒポクラテスとプラトンの言説そのものを取り上げる際に。(26)しかし、目下クリュシッポスの取り巻き連中に私の論述は関わっているのだが、彼等は感情に関する事柄以外には認識不足で、肉体の混合がそれ自身に親近な感情的運動を働かせるということも知らない。「感情的運動」というのは、つまり、そのようにポセイドニオスが名付けるのが常だったのである。(27)一方、アリストテレスは直裁に動物の魂のこうしたもの全てを性格と呼び、どのような仕方で異なった混合からそれらが成り立つかを考察したのである。(28)思うにそれ故、魂の感情の癒しはある人々の場合何でもなく容易だが、それは彼等の感情的運動が強力でなく理知的部分も本来脆弱でも無能でもないからであり、むしろ無学と劣悪な習慣によって感情的に生きるよう強いられるのがこうした人々だからなのであるが、他方困難を極め耐え難いこともあり、それは感情に即した運動が肉体の機構故に必然的に大変に大きいものになっていてそれが強力であると同時に理知的部分は脆弱で無能なのが本来である場合である。(29)つまり、この後者が真理に関する知識を得ねばならないとともに、感情に即した運動は優れた活動によって習慣付けられて鈍らされねばならないのである、誰かが人を人柄の点でより善いものにしようとしているならば。  (30)このように、まず第一に人を最善に向けて形作らねばならないが、最初に全ての精子そのものを先慮し、その次に養育をそうせねばならない。妊婦が養育を養育するのは飲食や運動と安静、睡眠と覚醒、欲望と激情、そしてその他類似の事柄においてであるが、こうしたこと全てについてプラトンは最も明白に詳論したのである。(31)他方クリュシッポスは自分自身でも何一つ適切なことを言わなかっただけでなく、彼に続く人々の誰にも発見の始点を残さなかったのである、彼が言論で基礎工事したのは劣悪な礎でしかないから。 Galen,PHP.5.5.36=SVF.3.257  (36)こうした教説の直後に徳に関する論述が続くのだが、これそのものが二重の誤謬をもっており、彼が全ての徳を何らかの知識としようが能力としようがそれは変わらない。(37)魂の非理知的部分の徳が非理知的であるのは必然であり、理知的部分のそれだけが理知的であるのもそうである。従ってもっともなことだが、あの部分の徳は能力であり、知識は理知的部分だけの徳である。(38)そして、クリュシッポスは重大な誤謬を犯しているが、それはいかなる徳をも能力としなかったことにあるのではなく(なぜなら、この誤謬は重大なものではなく、我々もこの点に異を唱えようというわけではないのだから)、むしろ沢山の知識と徳があると言いつつも魂の能力を一つだけとしたことにある。(39)なぜなら、一つの能力に多くの徳が備わることは不可能であるから、多くの完成が一つの事物にあることはないとするならば。つまり、あらゆる在るものには固有の感性があるのであり、彼自身も同意するように、徳も各人の本性の完成である。(40)だから、キオスのアリストンの方がもっと立派であって、彼は魂の徳が多数あることを否認し、それは一つだけであって善いものと悪いものに関する知識がそれであると言った。また、感情に関しても、クリュシッポスのように、自分自身の想定に対立することを書いてなどいない。 ↓ Galen,PHP.5.6.1=EK.30  (6.1)しかし、徳については後に論ずることにしよう。このことに関してもクリュシッポスはプラトンに恥をかかせるようなことを言っているからである。実は今はある論理的な帰結に従ってこれらを念頭においただけなのである。というのも、徳に関する論も必然的に感情に関する論に付き従うからである。ポセイドニオスもこのように言っていて、『感情論』第1巻の巻頭まもなくの箇所で大体そのようなことを次のように述べている。彼の言葉自体は次のようなものである。(2) 「というのは、私はそう考えるのだが、善いものと悪いものに関する考察も、目的に関するものも、徳に関するものも、感情に関するそれに依存しているというのが正しいのだから」 ↓ Galen,PHP.5.6.3=SVF.460=EK.187=LS.64I  (3)さて、徳に関する正しい考えが感情に関するそれに明らかに結びついているということは十分に証明されたと私には思える。善いものや目的に関するそれもそうだということは次のようなポセイドニオスの一節を引いておけば十分であると私は思う。(4) 「実に、感情の原因、要するに不調和と悲惨な生のそれは己の内にある心霊に全ての場合に従うわけではないということなのである。心霊は持ち主に親しいものであるとともに、全宇宙を統べるものと同じ本性をもっているというのに。人々はそうせずに、時により劣った獣的な能力に傾倒し運び去られてしまい、それが感情の原因となるのである。(5) このことを見落とす人々はこうした問題において感情の原因について改善案を出すことはないし、幸福や調和に関する議論において正しい見解を述べることもない。というのも彼等は気付かないからだ、この問題における一番の要点はいかなる場合にも魂の非理性的で悲惨で反神的な能力に引きずられないということだということに」(6) こうした論述で明白にポセイドニオスが説いたのは、どこまでクリュシッポス派の人々が誤っていたかということであり、それは感情に関する理論だけでなく、目的に関するそれにまで及ぶというのだ。(7)というのは、あの人々が言うような意味ではなく、プラトンがそう説いたような意味なのだから、「自然に調和して生きる」ということは。 ↓ (8)なぜなら、我々には魂のより善い部分も、より悪い部分もあるのであって、善い方に従うなら自然に調和して生きていると言われうるのだが、むしろ悪い方に従うなら調和せずにそうだと言われうるのだから。そして、後者は感情に即して生きる人であり、あの人は理に従う人である。 ↓ Galen,PHP.5.6.9=SVF.3.12=EK.187=LS.64I  (9)こうした点に満足せずポセイドニオスはより明白かつ激烈にクリュシッポスの学派に反対し、彼等は正しく目的を考えていないと言っている。(10) 彼の言葉はこうなっている。「そして、こうした点を見落としてある人々は「自然に従って生きる」ということをおとしめて「可能なこと全てを第一の自然のためになす」ということにまでしてしまい、この目的を快楽や無苦痛や他の何かそういった類のものを目標とすることと同じものにしてしまっている。(11)陳述そのものに即しても齟齬は明らかであるし、何ら立派なものも幸福に値するものもない。というのは、こうしたものは必然的に目的に伴うものではあるが、目的ではないのだから。(12)しかし、この点が正しく区別されたならば、このことをソフィストたちが提示した難問を解決するために用いることも可能であるが、無論「自然全体に即して起こることの経験に即して生きる」ということはその役には立たない。これは「善悪無記なものを得るのに些細ではない程度に導いている場合に、調和して生きる」ということと同じ効力をもつのである Galen,PHP.5.6.17=EK.161=LS.65N  (17)「感情の原因が見出されたならば、選択すべきことと忌避すべきことにおける歪曲の原因をも我々は学ぶことになる」(18)というのも、魂の非理性的な能力に親近なものを端的に親近なものと説いている人々もいるが、彼等は誤っているのであって、解ってないのだ、快楽を得ることや勝利することは魂の半ば獣的な能力の欲求対象であるが、知恵及び善美な限りの全てのものは理性的であると同時に神的でもある能力のそれであることを。 ↓ Galen,PHP.5.6.19-22=EK.168  彼は言う「感情の原因が分かったならば、馴致のあり方も規定されることになる」(20)つまり、ある人々はある一定の韻律と調律と作品の中で訓練されるように、また別の人々はそれに見合った別のそれの中でそうされるように我々は命ずるであろうし、それはプラトンが我々に説いたところでもある。具体的に言えば、愚鈍で怠惰で生気のない人々を激しい韻律と、魂を強く動かす調律と、そのような種の作品の中で訓育するし、激情に走りやすくやや気違いじみた行動をする人々は反対のそうしたものの中でそうするのである。(21)というのはこういうことがあるからだ。神々に誓ってこれはいったいどういうことなのか、本当にこのことをクリュシッポスの後継者連中にも尋ねてみたいところだ。ある若造どもが酒に酔って何かおかしなことをしでかしていたとき笛吹き女はフリュギア調の曲を吹いていたのだが、音楽家ダモンは彼女にドーリア調の曲を演奏するように命じた。するとそいつ等はたちまちおかしな振る舞いをやめたのである。(22)ここで確かに言えることだが、こいつ等は理性的能力にかかわる信念を笛曲から学んだわけではなく、魂の感情的部分は非理性的なのだから、奴等は非理性的な運動によって呼び覚まされつつなだめられたのである。すなわち、非理性的能力が利害を得るのは非理性的なものを通じてであり、理性的なそれは知識と無知を通じてなのである。 Galen, Plac. 5.6.34-7 = SVF. 1.571 (Cleanthes) = EK.33,166 = LS.65I  さらに、ポセイドニオスは後に次のことも示している。つまり、[クリュシッポスは]現象にのみならず、ゼノンやクレアンテスにも背いている、と言うのである。魂の感情的部分に関するクレアンテスの見解は次の詩句に現れていると[ポセイドシオスは]言う。   何を望むのか、気概よ。それを私に言ってくれ。   私が何を望むかだと、理性め。すべてをなすことを私は望むのだ。   まことに王のようだ。しかしなお今一度言ってくれ。   私が欲する通りに事が起こってほしいのだ。 ポセイドニオスが言うには、クレアンテス作のこの対話詩は魂の感情的部分に関する彼の見解を明白に示している。彼は理性が気概に対して各々別個のものとして対話しているように作詞したからである。しかしクリュシッポスは、魂の感情的部分と理性的部分は別個のものではないと考え、明らかに欲望や気概に支配されている動物どもから感情を取り去るのである、このことについてポセイドニオスも詳しく論じているように。 Galen,PHP.5.6.44=SVF.3.458  このことは、クリュシッポスが書いた『感情論』の諸巻からさえも学ぶことができる。(45)つまり、このように4巻の膨大な書物が彼自身によって書かれ、その各巻が我々の書物の2倍であるほどで、しかしながら我々は2つの巻全体に亘っては感情に関する彼自身の意見を精査することもできなかった。 Galen,PHP.5.7.27=SVF.3.441  (27)君が「許容する」「忌避する」と言おうが、「追及する」「ねらう」と言おうが違いはない、「意欲する」「欲求する」「求める」「欲望する」がそうであるように。(28)つまり、こうした語彙の差異は目下の考察に何の寄与もしないで、それどころか正反対に時宜にそぐわず、また事柄そのものに関する考察を語彙に関する詮索に誤導するのである。(29)それだから、何の決着も付けないように見事に策を弄してあらゆる語彙に反対した人々もいたのである。*喉の渇いた人が飲み物を欲求すると君が言うならば、彼等は「欲求する」と言うことを許さないのだ。欲求は何か洗練されたことで賢者にだけそなわり、実際快楽を感じるべき何かその程度にそうする理にかなった衝動でそれはありうるというのだから。*しかし、「欲望する」と言っても彼等はそう名付けることを許さない。なぜなら、乾きは劣者だけにあるのではなく洗練された人々にも生ずるのであり、欲望そのものは劣悪なものであり劣者にだけ起こるもので、何にでも性急に傾く欲求だというのだから。(30)しかし、その定義をこうまで長くせず、「理不尽な欲求」だと言うなら、彼は最高にもったいをつけて非難するだろう、物事に関する知識だけでなく語彙の使用においてもまたしばしば計り知れないほど卓越した人であっても。(31)言うまでもなく、こういう人々が個人のうちにも少なからずいたのは、プラトンその人も言うところであって、彼等は語彙を新奇に改変させて用いているのである。 *句読点は:とする。 Galen,PHP.5.7.52=SVF.3.461  (52)ここで全くプラトンの議論に黙り通しただけでなく、『感情論』という書物でもそうしたのだ、理論的な3巻と、これらとは別に独立して彼自身が書いた、「治癒篇」「倫理編」と名付けられる1巻において。 第7巻 Galen,PHP.7.1.(206.583.M)=SVF.3.259=EK.T64;182=Th.422a  さて、魂の主導的部分に関する論述が彼等自身によって疑問視され論駁されたのを長々と我々は論じただけではなく、魂の感情に関するクリュシッポスの著作、3巻の論理的注解と治癒編からなるものをも、彼が彼自身に異論を唱えていると証明した後に、そうしたのであった。そして、ポセイドニオスの著作をも我々は紹介したのだが、その中では古人の言説が賞賛され、それが魂の感情や徳の差異に関わるクリュシッポスの劣悪な言説を論駁していると言われている。つまり、魂の情念を破壊するように、理知的部分だけがこの魂というものにはあるのであり欲望的部分も気概的部分もないのだとすると、思慮以外の残りの全ての徳目もそうなるであろう。さて実にここでもまた、徳の差異についてクリュシッポスの4巻本の中で書かれたことを吟味してどれほどのものかと精査し、アリストンの言説を反駁して徳の質を論証する別の書と比べて詳論する人がいたら、一つや二つではなくむしろ三四巻足りないことになったであろう。というのはここでも、知識にかなった短い議論一つあればクリュシッポスを論破できるのであり、つまり彼は真理を観察してもいないしそれを十分な長さで論じてもいない。むしろ、論証の方法について教示を受けていない人々やそれが一体どういうものであるか全く無知である人々がクリュシッポスの書いた書物の長さと量にただ気をとられてこれら全ては真実だと認めてしまうのである。 ↓ Galen,PHP.7.1.12=SVF.3.259=LS.29E  さらにまた、本当にこれらのほとんどは真実であるし、あの本に従う事柄はとりわけそうである、その中で彼は徳の性質を示しているのだが。しかし、魂には一つの能力つまり理知的あるいは判断的と呼ばれるものだけがそなわっていると仮定し、クリュシッポスがそうしたように、欲望的・気概的なそれを廃棄する人にはこの本において語られていることが齟齬するのではないかと彼に対して非難する人がいるかもしれない。無論、アリストンの学派が彼が書いた事柄によって正しく打倒されているということは非難しないという人がいるかもしれない。というのは、あの方の考えでは、徳は一つであり、多くの名で名付けられるのは対他容態によるのであるから。ところが、クリュシッポスが証明するには、対他容態によって徳と悪徳の多性が生ずるのではなく、むしろ性質的に変化した固有の本質においてそうなるのであり、それは古人の言説が主張するのと同様である。 ↓ Galen,PHP.7.1.=SVF.3.259  まさにこのこともたちまち誤導してクリュシッポスは別の論述を費やして徳の質を詳論しはしたが、その試論は魂に理知的なものだけを想定し感情的なものを廃棄する人には不適である。こういうわけで、議論の長さの責任がどうして私にあるだろうか、よその学派にふさわしい試論を用いるクリュシッポスがアリストンの思想を倒駁したのはもっともだったなどと今私は論証せざるをえないとすれば。 Galen, PHP. 7.2.208.591 M = SVF. 1.374; 3.256 (Ariston)  実際、アリストンは魂の能力として理性判断をなすもの一つだけを認め、魂の徳も一つだけ、つまり善いものと悪いものの知識、とした。そして、善いものを選択し悪いものを避けねばならない場合この知識は節制と呼ばれる。善いことをなし悪いことをなさない場合は思慮となる。勇気はあるものに大胆になりあるものは逃げる場合である。価値に応じたものを各人に配分する場合は正義である。実行することなく善いものと悪いものを一つの理によって認識する魂は知恵であり知識であるが、生に即した実践に及ぶ場合は思慮、節制、正義、勇気といった先述の複数の名前を持つのである。何かこういうものがアリストンが魂の徳に関して抱いていた考えである。(/1.374)しかしながら、少なくともこの点に関してはクリュシッポスがこの人にどのように反論を試みるか私は分からない、クリュシッポスにとっても共通の想定を明白に弁護しているのだから。つまり、我々が全てを立派に知り行うなら生は知識に即して整えられるであろうが、悪くかつ誤って知り行う場合は無知に則すことになるのであり、クリュシッポスその人が主張するように、こうしたこと故に徳は一つのものつまり知識になり、他方悪徳も同様にこの無知と名付けられることもあれば、無知識と言われることもある。そうすると、誰かが死や貧乏や病気を悪いものとして恐れているなら、それを善悪無記なものとみなして大胆せねばならないのだが、彼等は知識を欠いているので真理に無知であることそのものを、アリストンもクリュシッポスもそう言うであろうが、魂の悪徳をもつこととしたのである。そして、この悪徳を彼等は臆病と名付けるのだが、これに反対の徳が勇気であると彼等自身が言い、それは大胆になるべきこととそうでないことの知識、つまり明白に真の善いものと悪いものに関するそれであって、それらは誤った信念に即してそう理解されたものであってはならないのである、健康や富や病気や貧乏のように。つまり、こうしたものは何一つ善くも悪くもなく全て善悪無記であると彼等は言うのだが、またしかし誰かが快いものを善とみなし苦痛なものを悪とみなしつつ、こうした信念に従ってあるものを選択し別のものを避けるとしたら、その人は善の本質に無学な者であってそれ故放埒な者となるのである。すなわち、全ての行為において我々が選択するのは善いものに見えるものであり避けるのは悪いものに見えるものであるから、人々はあらゆることにこうした衝動を本性上もっている以上、真理に即した善悪を教える哲学とやらは人々を過誤に陥る者に作り上げるのである。どうやってそうするのかは知らないが、クリュシッポスはまるで言論の素人のように音声の区別に拘泥して、目下の問題そのものには気を払っていないのであり、何か違う名を付ければこうした音声のそれぞれに即して物事が明らかになると思っているようである、選択すべきもの、なすべきもの、大胆になるべきもの、善いものといった具合に。しかし、これらは異なるものではなく、全ての行為において同じであって、それが善であるのは行為から明らかになる。…つまり、クリュシッポス自身によるとこの全ての言説によって善悪は語られているのである、選択すべきものなすべきもの大胆になるべきものだけが善であるというのでありさえすれば。その結果、善いものの知識が異なる素材や行為の中で吟味されると沢山の名前をもつのであり、各々は素材や行為に従って関係の内におかれるのである。…こうしてこのように、徳の差異を巡る問題においてクリュシッポスが知識や証明による成果を離れ、それ以外の残りの3つの類の中をさまようなら、彼は徳がいかなる性質であるかという問題においてさえ知識に関わる論拠、つまりアリストンの理論を打倒するがしかし自分自身の想定には適合しないものにより固着することになる。 Galen, PHP. 8.1.14 = SVF. 1.571 (Cleanthes)  ポセイドニオスは、地理学の訓練によってストア派の中でももっとも知識の豊かな人となった人だが、クリュシッポスから離れ、感情の問題において、我々は、欲望・気概・知性の三部分によって支配されていると論じた。ポセイドニオスは、クレアンテスも同じ思想を持っているとも示した。