ラクタンティウス
Lactantius, Ep. ad Pentad. 38 = SVF.1.213
ストア派の師ゼノンは、徳を称揚した人だが、同情を…魂の病気であると判断した。
Lactantius, Inst. Div. 1.5 = SVF. 1.162
そのように、ゼノンは(神をこう呼ぶ)神的な自然の法と。
Lactant., Inst. Div. 1.5 = SVF. 1.534
クレアンテスとアナクシメネスはアエテルが最高神であると言っている。
Lactant., Inst. Div. 1.5 = SVF. 2.1025
クリュシッポスは、自然の力には神的な理法がそなわっていると言っていて、それで時折、神的な必然性のことを神と呼ぶのだ。
Lactant., Inst. Div. 2.10 = SVF. 2.588
アリストテレスは世界が常に存在していたと言ったのだが、それで自らを厄介で骨の折れる議論から解放したのだ。こういうことである。人類やその他世界の内にあるものは始まりを持ってはいないが常に存在していたし、これからも常に存在するであろう。しかしながら、我々も目の当たりにしているように、個々の生き物はかつて存在していなかったのに、生まれて死んでいく。種族全体は、いつか存在し始め、存在し始めた以上はいつか滅びるのが必然である。つまり、全てのものは必然的に三種の時間、つまり過去・現在・未来を含んでいる。誕生は過去に、今あるということは現在に、退出は未来に属している。これら全ては個々の人間に現れる。つまり、我々は生まれた時に始まったのであり、今生きている時に存在し、死ぬ時に滅びるのである。ここからして、運命の女神は三柱であるといわれているのである。お一方は人生を紡ぎ始め、もう一方はそれを縫い合わせ、三番目の女神がばらばらに解きほぐしてしまうのである。しかし、全体としての人類には現在という時間しか現れていないので、ここからして、過去はつまり誕生に結び付けられ、未来は崩壊に結び付けられているのである。すなわち、今在る以上はいつか誕生したように思われるし(というのも、誕生することなく存在しうるものなどありえないから)、誕生した以上はいつか滅びるようにも思われる。つまりは、死するものから成り立っている以上、全体が不死であるということはありえない。すなわち、ここの人々が死に絶えることで我々全体がそうなるということがあるように、例えば作物の不作のような、普通個々の人々を襲うことが全体に同時に起こるということがいつかはありうる。例えば、伝染病が蔓延すると、個々の街々も殲滅するし、もっと広い地域をもそうすることがある。また例えば、円を描いて広がった大火がかつてパエトンの下に放たれたといわれているし、大洪水がデウカリオンの下にもたらされたといわれているが、こういったものがあった際は個々の人間ではなく人類全体が根こそぎにされたのである。こういったことが何かの偶然で生じれば、いくら大勢とはいえども人類全体まとめて滅びるということも全くありうることである。さて、神的摂理の否定され得ない肯首で人類の更新が定められたということがあった以上、人類の生死は神の権能の内にあると思われる。部分々々が滅びる以上全体的に滅びるということもありうるので、いつか生じたということになると思われ、端緒がもろいものであれば終焉もそのようなものであることが明らかにされる。以上がその通りだとすると、アリストテレスを弁護することはままならず、世界自体が原理を備え持っているだけになおさらそうなのである。さてもし、プラトンやエピクロスがアリストテレスから強奪したのだとすると、世界は常に存在していると主張したプラトンやアリストテレスから雄弁家達はそうしたのだというのが正しいし、他方他ならぬエピクロスはこの恩知らずからそうしたということになる。彼は世界には終わりもあるといっているのであるから。
Lactantius, Iustit. Div. 3.4 = SVF. 3.553 = FDS. 377
従って、ゼノンとストア派の人々は思惑を非難しているが、それで正しいのだ。君が、自分は知らないと思うかあるいは知っているとすればそんなことは賢者のすることではなくてむしろ蒙昧な愚者のすることなのだ。だから、ソクラテスが言うように、誰一人として知っている者ではありえないとしても、あくまでも思惑するべきではない、ゼノンの言うように。さもなくば哲学全体が断念されてしまう。
Lactant, DI. 3.7 = SVF. 1. 179; 421 (Herillus)
ヘリロスの言う最高善は知識である。ゼノンの[言う最高善]は自然と一致して生きるということである。一体何のためにストア派の徳に従うのか。
Lactant, Inst. Div. 3.8 = SVF. 1.179
それでは、ゼノンの言うことを聞こう。というのは、この人はしばしば徳を夢見ているのだから。彼は言う、最高善とは自然に同意して生きることである、と。
Lactant, Inst. Div. 3.12 = SVF. 3.47
しかしストア派の人々も…徳を欠いたままで誰であれ幸福にされうるということを否定している。故に、徳の報償が幸福な生なのである、もし徳が(そしてそう言われているのは正しいのだが)人生を幸福なものにするというのであれば。従って、人々が言うように、それ自体の故に徳は希求されるというのではないのである。…
Lactantius, ID. 3.23 = SVF.1.213
悪徳、つまり病気の間に同情をおいた。
Lactant, Inst. Div 3.23 = SVF. 1.224
ゼノンの言う「罪過の平等」を誰がよしとするものか。
Lactant,Inst.Div.3.25=SVF.3.253
人間本性は知恵に適しているので、職人にも農民にも女達にも、つまりは人間の形をしている者には誰にでも、知恵ある者となるように本来教えられるべきなのである。賢者市民は全ての言葉や身分や性別や年齢が一緒になっているべきである。…ストア派の人々はまさにこのことを分かったのである。彼らは奴隷や女達も哲学をするべきだと説いたのである。エピクロスもそうであった。彼は全く教養のない人々を哲学に導いたのである。
Lactantius,DI.5.14.3(Epitome 50.8)=LS.68M
この方が使節としてアテナイ人たちからローマに派遣された時、正義について長々と論じたのだ、当時の最高の弁論家たち、ガルバと戸口検察官カトーが聞いている中。しかし、自らなした同じ論を次の日には反対の論によって転覆させ、正義を、前日には賛えたのに、退けたのである、堅固不動の教説をそなえていなければならない哲学の権威によってでは全然なく、どちらの側にも語る練習という類の弁論に従うかのように。…しかし、カルネアデスは正義の後見人アリストテレスとプラトンを反駁しようとあの最初の論の際には正義を指示して語られた全てのことを集めたが、あの論が、彼がしたように、転覆しうるものであるようにそうしたのであった。…正義は辱められるべきであると彼が思ったからではなくて、正義のあの弁護人たちは確実なことも確かなことも何ら正義について論じていないと示すためだったのである。
Lactant,DI.5.17=SVF.3.48(徳の自体価値)
すなわち、徳について論じていた際にも、苦悩と禍であふれかえっていることが分かっているとしてもしかしそれでもそれ自体の故に希求されるべきものであると彼等は言っていた。
Lactantius,DI.5.13=SVF.3.577(賢者は悪を軽視する)
これが真の徳であり、これを名誉に満ちた哲学者たちも問題そのものではなく空しい言葉を巡って考察し、どんなに脅かされても言ったことの意図を撤回しないでいられることほど賢者の重厚さと一貫性に調和することは何もないと論じている。むしろ、苦しめられたり死ぬことはたいしたことではなく、信用を裏切ったり、義務に背いたり、死を恐れたり厳しい苦痛に屈伏して何か不正なことをするほどではないのである。
Lactantius,Div.Instit.5.17=SVF.3.629(賢者 適宜行為)
しかし、賢者は決して利益を追い求めることはない、そのような地上の善きものを軽蔑するからである。また、誰かが騙されるのを見過ごすこともない、人々の過ちを糺し、正道に戻すのが善き人の義務なのだから。もし人間の本性が社会的であり親切であるならば、そこにのみ神との類似はあるのである。
Lactantius,Div.Inst.5.17=SVF.3.345(人間本性)
すなわち、全ての生き物においては、知恵が欠けているのだから、自然が己の仲介者なのであると思われる。従って、ものどもは自分の利益になるようにと他のものどもを害するのだが、それは害することがなぜ悪いことなのか知らないからなのである。確かに、人は善と悪の知識を持っているので害することから遠ざかるのだが、自分への害は受け入れるのだ。このことは理性のない動物にはできないことである。さらにそれ故最高の有徳者の間では無害さというものが認められる。何にもまして明らかなことだが、もの言わぬものどもから人を隔てる義務を守ることだからというので、害するよりはむしろ死を選ぶ人は最高に知恵があるのである。
Lactantius,DI. 5.17=SVF.3.298(徳と悪徳の共存不可能)
最後に、論議を締めくくるために、同一人物が義しくかつ愚かではありえない、同一人物が賢者でありかつ不正であることはありえない、これは理そのものが教えるところである。なぜなら、愚かな人は正義と善に無知でありそれだから常に過誤を犯す故にそうなのであるから。つまり、捕虜のように悪徳に引きずられ、反抗することが全くできないのだが、それは徳を欠いているからであり、それを彼は知らないのだ。しかし、義しい人は全ての罪過から離れている。それは、人が正邪の概念をそなえた場合と異なった風に物事をなすことができないからである。しかし、賢者でなければ誰が義しい人を邪悪な者から区別できるだろうか。こうして、愚かな者は決して義しいものであることができず、不正な者は賢者であることができない、ということになる。…従って、愚かさとは、善悪の無知による過ちである。
Lactantius,DI. 6.9=SVF.3.216(徳の生得性)
しかしもし徳が熱心に手に入れられるべきだとすると、それに向けて人は生まれるようになっているので…
Lactantius,DI.6.10=SVF.3.450(同情・助けの余地)
哲学のこの部分に対しては何の教説もない。というのは実に、彼等は偽りの徳の外見に騙されて人間から同情を撤廃したのだ。そして、悪徳から治癒しようと望んでいるのにかえってそれを増大させたのだ。つまり、総じてこの同じ人々は人間社会の結び付きを保つべきだと主張するのに、明らかにそれから背き彼等の非人間的な徳の厳格さによって自ら非社会的になっているのだ。
(11)それだから彼等に問いたい。彼等は動揺することも哀れむことも賢者にはないと主張するのだが、もしある種の野獣に捕まった人が自己武装した人に助けを求めたら、助けるべきだと主張するのかそれとも全くしないのか、と。人が求めること、つまり人間性が要求することをなしてはいけないと主張するほど彼等は無思慮ではない。同様に、もし誰かが火に囲まれたら、破滅に陥ったら、海で溺れたら、川に流されたら、助けるのは人間のすることではないというのか。もしそう言うのならまさに人間ではない。いや間違いなく人、強い人のすることは哀れな人を助けることだと彼等も言うのである。故に、人生の危機をもたらす同様の状況において助けることが人間性本来のことだと彼等が認めるとしたら、何の理由があって、人が飢えたり乾いたり寒くて震えたりしていても助けてはいけないなどと説くのか。本性上平等であり、ああした偶然の状況においても人々は同じ人間性を望むのに、そのものによって差別されるとしたら、それは物事の本来そのものによるのではなく目下の便宜によって全てが計られているからなのである。
Lactantius,Div.Instit.6.12=SVF.3.751(葬送 適宜行為)
形だけの埋葬をしたのに何も悪いことはないのだなどと言う人々はまさしく非人間的で卑しいことをしでかしたことになるのだ。全ての人種が彼らの不敬虔な知恵を拒絶したとしても、その時にはそういうことを引き起こすことを神々の声が命令するというのだ。実際、彼らはそんなことをするべきではないと言おうなどとは思わない。しかし、万が一そうならなかったとしても何ら不都合はない。すなわち、仮にもしこういうことが賢者に降りかかったとしてもそれを不幸なことと思ってはいけないということで、このような事態において訓戒というよりは慰めの義務を彼等は全うするのである。
Lactantius,DI 6.14=SVF.3.444(感情は誤った信念)
つまり、ストア派の人々は全ての感情を、その衝動によって精神は動かされるのだが、人から撤廃する、つまり欲望、快楽、恐怖、悲痛をである。これらのうち先の2つは未来のあるいは現在の善いものから生じる。後のは悪いものから生じる。同様にして、これら4つの病気と(上述のように)彼等が呼ぶものも自然によって元々そなわっているというよりはむしろ邪悪な信念によって後から獲得されたものなのである。そしてそれ故、彼等の考えでは、それらは根本的に撤廃されうるのである、善いものや悪いものに関する誤った信念が退けられるならば。というのは、もし賢者が何ものも善いものとは考えず何も悪いものとしないならば、欲望にさいなまれることも、快楽に舞い上がることも、恐怖におののくことも、苦痛に引きずられることもないだろうから。
Lactantius, Div. Inst. 6.15 = SVF. 3.437
今や、悪徳を完全に抹殺したはずのあの同じ人々がどういう事態を引き起こしたか分かるだろう。あの4つの諸感情、それらは善いものや悪いものの観念から生ずるのだと彼等は言うのだが、それらが取り除かれた上で賢者の魂は健全なものとならねばならないと彼等は考えている。なぜなら、彼等の考えるところでは賢者というものは自然本性を熟知しておりかの感情がなければ何にも動じず何事にも先導されないのであり、あの感情が占めていた場所にはその代わりに何か別のものを置いているのだから。彼等は欲望の代わりに意思を置く。あたかも、本当は善いものを欲望することは意思することよりもそれほど立派でないこともないとでもいうかのように。同様に、快楽には喜悦を、恐怖には用心を代わりに置く。しかし、あの第4の感情に代わるものの名がないことについて彼等の理由は不十分だった。つまり、彼等は苦痛、つまり魂の悲嘆や苦悩を完全に除外したのである。…
しかし、彼等は反対の事態を主張しているし、そうなることを彼等自身が望んでいるようだ。要するに、確固とした永続的な欲望が意思であると間違いなく彼等は言っている。無闇に舞い上がった喜悦が快楽であるとも本当に言っている。度を越して行き過ぎたあり方の用心が恐怖であるとまで言っている。…したがって、逍遥派の人々が理性から反れていったのと同じくらいに彼等は無思慮な人間に逆もどりするのである。その目的は、悪徳は取り除かれえないのでせめて中庸に抑制しようということらしい。
Lactantius, Div. Inst. 7.3 = SVF. 2.1041
ストア派の人々は自然を二つの部分に分ける。一つは能動するもの、もう一つは能動に従うものとして表されるものである。前者には知的な力が、後者には素材が存する。どちらも他方なしにはありえない。同じものが何かをなすと同時にされるということが一体可能であろうか。もし誰かが、形相と汚物と同じものである、あるいは汚物は形相と同じものであると言ったとしたら、どうかしていると広く思われはしないだろうか。しかしこの人々は一つの名前を持つ本性で、神と世界、職人と作品といった二つの懸け離れた物事を把握するのである。そして、一方は他方なしではありえないのも、本性上神は世界に混合しているからだと言うのである。彼等は両者を混ぜ合わせて、神そのものが世界の魂であり、世界は神の身体だとさえ言うこともある。まるで、神と世界は同時に存在し始め、創造されたのは世界だけではないのだと言うようである。しかしながら、彼等自身違う見解も認めているのだ。工作物は人間によって作られたのだと明言しているのだから。
Lactantius, DI. 7.7 = SVF. 1.357a(アリストン)
徳を獲得するために人間は生まれたとアリストンは説いた。
Lactantius, Div. Inst. 7.20 = SVF. 2.813
ここで恐らくこう言う人もいるだろう。もし、魂が不死ならば、一体どういうわけで、魂は受苦を被り感じるということになるのか、と。…この問題、あるいは議論、にストア派の人々は次のように取り組んだのである。人間の魂は存続するのであり、死を経たからといって何に解消されるわけでもない。しかし、義しい人の魂は害を受けていないので純粋で幸福であり、彼等の故郷である天座にとどまるか、あるいは、どこか豊かな平野に運ばれて、穣沢な歓喜に満たされるのである。しかしながら、不敬虔な魂は悪辣な欲望で自らを害しているので、不死の本性と可死の本性の何か中間のものを持っており、肉体の悪影響による弱さを何かもっているのである。肉体の欲望に捕われると、魂は偽装を余儀無くされ、地上に落下するしかなくなるのだ。そして、こうしたことが長い間を経て魂の内奥に根付くと、そういう性質が魂に反映されて、全面的に滅ぼされないものの(神に由来するものであるから)とはいえ肉体の網をかぶされて責め苛まれるようにはなり、罪に焼かれると苦痛を感じるのである。
Lactantius, DI. 7.7.20 = SVF. 1.147
ストア派のゼノンは、地下にある敬虔な人々の住処は不敬虔な人々のそれとは分けられていると説いた。そして、前者は平静で快適な場所に住んでいるが、しかし後者は闇の中で、つまり、汚泥にまみれ身の毛もよだつ奈落で己の罪を償うのである。
Lactantius, DI. 7.23 = SVF. 2.623 = LS. 52B
よりよいのはクリュシッポスである。ストア派の人々の柱楼を支えたとキケロが言っている人で、摂理について書いた著作の中で、宇宙の刷新について語った時にこう結論した。「このことがその通りだとすると、死後にいくらかの時の間を経て今ある形態にもたらされるということは我々もできないということがあきらかである」
Lactantius, De Ira Dei 11 = SVF. 1.164
アンティステネスは…自然本来の神はただ一人であって、人々が自分の種族や国家を持っていようが関係ないと言った。ほとんど同じことをゼノンも彼に従うストア学徒たちとともに主張する。
Lactantius, De Ira Dei 13.9-10 = SVF.2.1172 = LS.54R
しかし、アカデメイア派はストア派と論議する時にしばしばこう訊ねた。神が万物を人間のために作られたのだとすると、我々に反対し敵対し有害なものがたくさん海にも大地にも見出されるのはなぜか、と。これに、真理を無視するストア派は愚かにも反対したのである。すなわち彼等が言うには、植物にも多くの動物にも、その有用性がまだ気付かれないものがたくさんある。しかし、それとて時が過ぎれば見出される、より初めの時代にはまだ気付かれなかった多くのものを必然と必要が発見してきたように。
Lactantius, ID 17 = SVF. 3.444
しかし、ストア派の人々は正しいものと悪いものとの差異などないと考えたのである。つまり、義しい怒りがあり不正な怒りもある、などとは思わなかった。そしてこのことの治療法を見出せなかったので、完全に排除することを主張したのである。…(18)この感情がなければ過誤は矯正されうるのになぜ怒りが必要なのかと彼等は問うのである。
Lactantius, Ira Dei 18 = SVF. 2.1057
神の「形」について語るのはよそう。ストア派の人々は神はいかなる「形」も持っていないと言っているのだから。
Lactantius, De Vera Sap. 9 = SVF. 1.160
ゼノンは物の自然の配剤者、宇宙の形成者を理であると述べ、このものを、彼は、運命とも事物の必然とも、神とも、ユピテルの魂とも呼んでいる。(岩崎充胤訳)
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