オリゲネス


『エゼキエル書注解』
Origen,Comment. in Ezechielem 8.vol.3 p.424 Delarue=SVF.3.451
 同情。こうした事柄に恐るべき人々はこれを定義して隣人の不幸に対する苦痛としている。そして彼等が言うには、医者や判事はこのような同情を同情するべきではない、このように同情するように導く苦痛によってまとめあげられた人々が医術や裁きに関わる働きを治療や裁きを受ける者に役立つように与え返すのでないならば。

『マタイ福音書注解』
Origen,Comment. in Matthaeum 3.446=SVF.3.170(?)
 他の事柄においても生じたことを、沢山の名前を使う教説に長じた人々が観察したのである。彼等は数多くの種類に反衝動とか衝動とかいうような最高次の類がそなわってもいるのだと言っており、その際衝動は反衝動との対峙に相関して類的な種族のうちに同音異義的に包摂されると言っている。

Origen,Comm. Matth. 3.494=SVF.3.523(正当行為 善悪無記物との関係)
 そして、実際相応しいことは、神の法によって、悪徳からなされることを禁止し徳に基づくことを命令することである。しかし、固有の理に従って善悪無記であるそうした事柄はその場所にあるがままにしておくのが相応しい。とはいえ、これらのものは選択と我々の内にある理性によって逸脱されると悪くなされるが、正当行為されると立派なものになる、ということが可能なのである。

Origen, Comm. Matth. 3.591 = SVF.3.477(?)
 少年達の間の愛欲における諸問題について語られていることが魂の残余の感情や変容、病について語られてもよかった、こうしたものに生来少年は陥らないのだが、理性をまだ満たしていないのだから。…少年たちのように猛進する人は理から性交を持ち上げ、苦痛を受け入れない。…
 (p.592)さて、他の人々によっても明らかに論証されたように、いかなる感情もまだ理性を満たしていない子供には生じない。何一つそうでないなら、明らかに恐怖もそうでない。しかしでは、何か感情に類比的なものがあるとしたら、かすかなあぁしたもの、非常に速やかに除かれ治癒されるものが少年達には生じるのである。…子供達は劣者に生ずる恐怖を抱かないが、何か別のもの、感情とその名前に関する諸問題に非常に通じた人々が恐怖と呼ぶものは受けるのであるということを。たとえば、子供達には災悪を恨まずにすぐ忘れるという性格があるが、これは涙を流しているまさにその時にはすぐに気持ちが変わってしまって、笑ったり苦痛を与える怖い人だと思っていた人々と一緒に遊んだりするからであり、実の所そういう人々は[子供に]ああした感情を働かせないからなのである。

Origen,Comm. Matth. vol.3 p.674 Delarue=SVF.3.454
 全ての徳をそなえ、決して悪徳から行為しない人は完成されているのであれば…全面的に怒らない者に一体どうしたらなれるのだろうか、もし怒りに陥りやすい者だった場合。どうやって苦痛のない者、およそ生じうるありとあらゆるかぎりの苦痛を呼び起こすものを克服する者となるのか。またどうやって、苦悩や死に関わる恐怖や不完全な魂が恐れうるかぎりのものに関わるそれの外部に全く出るのだろうか。どのようにして…全ての欲望から遠ざかるのか。…いわゆる快楽が魂の理不尽な高揚で、感情だとしたら、一体どうやって人は…理不尽に高揚することから解放されうるだろう。

Origenes, Comment. in Matthaeum 21,33-43 (17.7.603 Klostermann Vol.3. p778 Del) = SVF. 2.40 = FDS. 21
 神の書物に即した自然学を葡萄園と言ってよいものならば、見たまえ。自然学の真理に即した生は徳と最も立派な人柄において葡萄園の収穫をもたらすものなのであると言ってよいのだ。論理に関わる部位(および文字に関わる全ての教説)は葡萄園の外側を囲む囲いなのである。だから、葡萄園は外の者には見えないし、最も隠れた部分にあるその果実もそうである。

『ケルソス論駁』
Origen,CC.1.5.vol1.p59=SVF.1.265(ゼノン『国家』)(宗教)
 では、キティオンのゼノンが『国家』の中で言ったことを我々も加えておこう。「神殿を建立する必要はない。というのは、大工や金物屋の作ったものなど神聖なものとみなすべきではないし、大した価値もなく、聖なるものでもないからである」

Origen,CC.1.13 (1.66.2 K)=SVF.2.819
 ちょうど、魂の不死と魂の輪廻に関して言われていることを信じているプラトン主義者の場合も、それらの考えに同意することを嘲笑するストア派の人々や、プラトンの「無益なおしゃべり」を議論の的としているペリパトス派の人々や、摂理を導入して神を万物の上に置く人々を迷信的と断罪するエピクロス派の人々の目から見れば、愚かさを受け入れたことになるとわたしたちが言うのと同様に。(出口みや子訳)

Origen,CC. 1.21 (1.72.11 K)=SVF.2.1053
 しかしあなたのおっしゃるように、賢明で真実な教義に同意して、それらを通じて同胞を教育したのであれば、どうして彼は批判を受けるに値するだろうか。エピクロスも、摂理に関して彼ほどには不敬ではないアリストテレスも、神が物体であることを主張するストア派の人々も、この教えを聞いていたならば!もしそうしていたならば、摂理を否定したり、2分したり、朽ちるべき物体的原理を導入するような教えに宇宙が満たされることはなかったのである。この物体的な原理に従えば、神すらストア派の人々にとっては物体であり、彼らは何ら恥じるところなく、神が可変的で、全体的に姿を変え、変化するもので、これを破壊するものがあれば、端的に破壊されうるのであり、これを破壊するものが何も存在しないゆえに、幸いにも破壊されずにいる、と語っているのである。(出口みや子訳)

Origen,CC.1.24 (1.74.10 K)=SVF.2.146
 この件に対しても次のように答えよう。名の本性については、深淵で秘義的な教えが提示されることになる。名とは、アリストテレスが考えるように、措定されたもの[人為的に定められたもの]によるか、または、ストア派の人々が認めているところによれば自然によるもので、[後者によれば]最初の音声は、当の事物をその名が模倣したものとされ、その限りで彼らは何らかの語源的な原理を導入している。(出口みや子訳)

Origen,CC.1.34 (1.89.1 K)=SVF.2.739
 また、他ならぬギリシア人によれば、あらゆる人間が男と女から生まれたのではなかった。というのも、ギリシア人の多数にも承認されているように、この世界が造られたのであれば必然的に、最初の人間たちは性交によって生じたのではなく、大地から生じ、種子的原理が大地の中で結合したことになるからである。(出口みや子訳)

Origen,CC. 1.40 (1.91.20 K)=SVF.2.22
 クリュシッポスもまた、彼の心を動かした事柄を述べるときに、彼よりもいっそう優れたものを見出すことのできる人々のところにわたしたちをしばしば差し向けるからである。(出口みや子訳)

Origen,CC.1.64.vol1.p117.16=SVF.3.474(クリュシッポス『感情論(治癒編)』)
 またこのこともその説に加えることができるだろう。つまり、クリュシッポスは『感情論(治癒編)』で人間の魂の感情を落ち着けるために、真実に関わる思想とはどのようなものかさらに述べることもしないくせに、感情の内にとらわれた人々を色々と異なる学派[の見解]に従って治癒しようとしており、もし快楽が目的ならそれに見合う仕方で感情を治癒すべきだとまで言っている。もし善いものに3つの種類があるならば、やはりこの理屈に従って感情からそれにとらわれた人々をそのように開放すべきであるというのだ。

Origen,CC.2.12 (1.141.7 K)=SVF.2.21
 クリュシッポスも彼の著書の多くの箇所でクレアンテスを攻撃し、後者の教説に対して革新を行ったように見えるが、しかもそれはまだクレアンテスが若きクリュシッポスの師であり、クリュシッポスが哲学を学び始めたばかりの頃であった。実際アリストテレスがプラトンのもとで学んだのは20年程と言われ、クリュシッポスもかなりの期間クレアンテスのもとで勉学を行ったと言われるが、他方ユダはイエスのもとに3年もとどまってはいなかった。(出口みや子訳)

Origen,CC.2.20 (1.149.22 K)=SVF.2.957(「怠惰な議論」)
 そしてこれはすべて、これを予言した人の予知の中にある。すなわちある事が実際に起こることも起こらないことも可能であり、そこには両方の可能性があるのである。わたしたちは、予知している方が、起こることも起こらないこともありうるという可能性を排除して、それは完全にそうなり、別なことが生じる可能性はない、といったことを言っているとは主張しない。こうした理解は、聖書に従っても、ギリシア人の記述に従っても、自由意志に関するすべての予知に適合している。また、論理学者たちの間で怠惰な論理と呼ばれるもの、つまり詭弁でさえ、ケルソスの判断に基づく限り詭弁ではないが、健全な論理によれば詭弁なのである。
 この点を理解していただくために聖書から、ユダに関する預言、ないし我らの救い主がユダの裏切りについて予知しておられたことを引用しよう。またギリシア人の記述からも、ラーイオスに対する神託を、目下のところはその事実性に同意することにして、引用しよう。それは議論を損なうものではないからである。まずユダに関して詩篇108編では救い主の代弁者を通じて語られており、それはこのように始まっている。「神よ、わが賛美を無視しないでください。罪人の口と欺く者の口が私に開かれているのですから」(詩篇108.1-2)。詩編に記されたことに注意を払うなら、ユダが救い主を引き渡すことが予知されており、かくしてユダが裏切りの原因であって、彼の悪ゆえに預言の中で語られた呪いの言葉にふさわしい者であることを見いだすであろう。すなわち、彼はこれらのことを蒙るべきだと言われているのであり、なぜなら、「彼は慈悲を施すことを忘れ、貧しく乏しい人を苦しめた」(詩篇108.16)からである。したがって彼は、「慈悲を施すこと」を思い出すことや、苦しめた相手に苦しみを与えないことも可能であった。だが、そうであるにもかかわらずそれをなさず、引き渡してしまったので、預言の中で彼に対して発せられた呪いに値するに至ったのだ。またギリシア人に対し、ラーイオスに対して次のような仕方で告げられた言葉を、悲劇作家が文字通りの形であれ、それと同じ効力をもって物語ったのであれ、引用しよう。即ちこれは、彼に対して確かに未来の出来事を予知していた者によって語られている。
 神々の意に反して妻の畑に子種を蒔いてはならない。
 もし子をもうけるなら、おまえの息子はおまえを殺すことになり、
 さらに、おまえの一族全体が血によって滅ぶことになろう。
 ここでは、ラーイオスにとって妻の畑に子種を蒔かないことも可能であったことが示されているのであり、というのも神託が、不可能なことを彼に命じることはなかったであろうから。また、蒔くことも可能だったのであり、それらのどちらも不可能なものではない。彼が命令を守らずして妻の畑に子種を蒔いた結果が、子種を蒔いてしまったことに由来するオイディプースとイオカステー、その息子たちにまつわる悲劇の物語なのである。
 いわゆる怠惰な論理と呼ばれるものは詭弁であり、仮説を用いて言えば、これが病人に対して語られる場合、詭弁は彼が健康になるために医者にかかることを妨げるようなものであり、このような論理になっている。もしあなたがその病から回復するとあらかじめ決まっているなら、あなたは医者のところに行こうが行くまいが、回復することになる。だが、もしあなたがその病から回復しないことがあらかじめ決まっているなら、あなたは医者のところに行こうが行くまいが、回復しないことになる。あなたがその病から回復するとあらかじめ決まっているか、回復しないとあらかじめ決まっているかのどちらかであり、それゆえあなたが医者のところに行くことはいずれにせよ無益なのだ、というものである。だが、こうした議論に対して、何か類似のことを対比の意味で提示することは適切である。もしあなたが、子をもうけるとあらかじめ決まっているなら、あなたは女性と交わろうと交わるまいと、子をもうけることになる。また、もしあなたが子をもうけないとあらかじめ決まっているなら、あなたは女性と交わろうと交わるまいと、子をもうけないことになる。あなたが子をもうけるとあらかじめ決まっているか、子をもうけないとあらかじめ決まっているかのどちらかであり、それゆえあなたが女性と交わることは無益だということになる。この場合、女性と交わらない人が子をもうけることは想像を絶する不可能なことなので、女性との交わりが要請されることは無益ではないように、医者の手立てによって病から回復する場合も必然的に医者が要請されるのであって、医者のところへ行くことは無益だというのは誤りである。これらのすべてをわたしたちは御賢明なケルソスが例に挙げたものに基づいて引用してきた。ケルソスは、「彼[イエス]が神として予告したのなら、予告されたことは何としても実現する必要があった」と述べている。もし彼が「何としても」ということを、「不可避的に」の意味で了解しているなら、わたしたちは彼に同意はすまい。というのも、それが実際に起こらないことも可能だったからである。だが彼が、「将来起こるであろう」という意味で「何としても」と言っているなら、実際に起こらないことが仮に可能であったにせよ、それが真となることの妨げにはならないので、それは論理を妨げない。(出口みや子訳)

Origen,CC.2.72 (1.194.13 K)=SVF.2.138
 また私は、[聖書に]記述された神の声が、振動する大気ないしは大気の震え、またはこれまで音声に関する書物の中で定義されたものであるとは何としても主張しないのであり、それは感覚的聴覚より優れた神的聴覚によって聞かれたからである。(出口みや子訳)

Origen,CC.3.25=SVF.3.741
 肉体に関わる医療が[善悪の]中間のものであり、事態は洗練された人だけでなく劣者にも生じうるとすれば、未来の事柄に関する予知も中間のものである。というのも、予知している人が全面的に洗練されたものを表しているとは限らないのだから。

Origen, CC. 3.54 = SVF. 1.40
 さもなくば我々は、勧徳をなす哲学者達にとってごくつぶしてある連中を呼びつけるだろう。ピタゴラスにとってはザモルクシス、ゼノンにとってはペルサイオスを。

Origen,CC.3.69=SVF.3.233(悪徳の原因)
 しかし、全体が理にかなった魂という一つの本性に我々は精通しており、それが創造されたものの全てをそなえているため何ら劣悪な本性を語らないのだが、多くの人々が悪化するのは養育や歪曲や周囲からの影響を越えてのことであり、そうやって悪徳が膨れ上がる人々もいるのである…

Origen,CC.4.16 vol.1 p.285.23 Ko=SVF.3.732(向上と理性)
 つまり、異なった形態のようなものが理にもあるのだ、知識に導かれた各々の人に理が現れるのに応じて。それは、指導された人の性向に類比的である、つまりわずかに向上しているか、大いに向上しているか、既にほとんど徳の側にあるか、もう徳の内にあるか、に応じて。

Origen,CC.4.26=SVF.3.756
 公娼婦たちに手当たり次第無差別に赴く人々や、そうした振る舞いも適宜行為に全く反するものではないと説く人々もそうである。

Origen,CC.4.29=SVF.3.249
 そのように、同じ徳が人間にも神にも備わる。

Origen,CC.4.45=SVF.3.743(状況依存適宜行為としての近親相姦)
 善いこと、悪いこと、善悪無記なことの本性はギリシャ人たちも探求した。そして彼等のうち巧くやった人々には、善いものと悪いものを選択のうちにのみ定め、彼等固有の理論によると「善悪無記」なものは選択なしに求められるものであるという人々さえいた。選択がこうしたものをなすべきように用いるなら、それは称賛に値するものとなるし、なすべきでないようにであれば非難に値するというのだ。だから彼等は善悪無記なものに関する論題においてこう言っている。つまり、彼等固有の理論によるなら、娘と交わることは善悪向きなことであって、現行の国制においてはそういうことはするべきではないとしてもそうである。そして前提のために、つまりこういう行いが善悪無記であるということの傍証のために、賢者とその娘だけが残された場合というのを彼等は想定した。人類全体が滅びかねないというわけである。そして、まさにこの前提にそう形で、人類全体を滅ぼさないために父親が娘と一緒になるのは適宜なことかどうかと探求している。そうすると、こうしたことはギリシャ人の下では健全な議論とされているのか。また、ストア派の内の下賤ではない学派はこうした議論に果たして同意するだろうか。…

Origen,CC.4.81=SVF.3.368(国家 統治)
 [ケルソスは蟻や蜂どもの技量を誉め讃えたのだが]この人はこれらの事柄において分からなかったのだ、理性や算段から為し遂げられた物事が理性を欠いた自然や単なる人工物から生じた物事といかなる点で異なるかということを。働きをなすものに備わっている理は後者の原因となることを引き受けないのだ。すなわち、こうしたものどもはこの理をもっていないのである。…だから、国家は沢山の技術や機構に関わる法律を備えた人々の下に成り立ったのである。人々の間における国制や統治や指導はある優れた性向や活動と呼ばれるのが本来なのであろうが、あるいは能力に応じたそうしたものの模倣のためにそう名付けられてもより有用かもしれない。すなわち、ためになるように法を起草した人々は、そういったものを見据えながら、最善の国制や統治や指導をまとめあげたのであり、そういったもののいかなるものも理不尽な人々のうちには見出せないのである。

Origen,CC.4.81=SVF.3.368
 驚くべきことに、理にかなった事柄にあたかも向けられたかのような模造が神的な本性を理不尽な人々にまで拡大したのである。

Origen,CC.4.96=SVF.3.742
 (96)弁えねばならないのは、未来の事柄を予見することは全面的に神的なものではないということである。というのも、それ自体としてはそれは中間的なものであって、そのようなことは劣者にも洗練された人々にも起こりうるからである。なぜなら、実際医者達も医術から何事か予見するが、彼の人柄がたまたま劣悪なものであることもあるからである。同様に、船頭達も、たまたま邪悪な者であっても、予兆や暴風や周囲の状況変化を経験や観察から予知するが、しかしこうしたことの故に彼等を神的な者と言うことは誰もできまい、彼等の人柄が偶然邪悪な者だとしたら。

Origen,CC.5.57=SVF.2.23
 (57)逆説的な事柄を人々が表明することもあったし、ギリシャ人達がそうすることもあった。そう叙述するのは、ただの物語を語っているのではないかといぶかられる人々だけでなく、真正に哲学をしており、自らに真っ先に関わることを真実を愛するのに相応しく示している証拠を沢山持っている人々もそうなのである。そのようなことを我々はソリのクリュシッポスのもとに認める。…

Origen,CC.6.48=SVF.3.248(神と人の幸福)
 それだから、人間にも神にも同じ徳があるのだと言いつつ、人間たちの中に彼等と一緒にいる賢者よりも全てのことにおいてより幸福なわけではないとストア派の哲学者たちが言い、むしろ両者の幸福が等しいということをケルソスが嘲笑しないとしても…

Origen, CC. 7.15 = FDS.1181 = LS.36F
 ストア派の人々はこのような論法を実質のあるものともしている。つまり、「もし、自分が死んだと君が知っているならば、君は死んでいる。もし自分が死んだと君が知っているなら、君は死んでいない。従って、君は自分が死んだということを知らないことになる」

Origen,CC.7.37=SVF.2.108
 [ケルソスは]英知的な存在を否定する人々と類似の仕方で説いているのだ。そのような人々とはストア派の人々で、彼等の教義では、把捉される対象は感覚を通じて把捉されるのであり、全ての把捉は感覚に依存しているのである。

Origen, CC. 7.63 = SVF. 1.244; 3.729
 例えば典型的な例を挙げれば、キティオンのゼノンの理論を修める哲学者達は姦通を避けている。それどころか、エピクロスの徒でさえそうだし、全くの私人である人々にもそういう人々がいる。しかしながら、姦通の忌避に関してこうした人々の間にどれほどの齟齬があるか見たまえ。最初の人々は、法律上既に他人の妻とされた人をたぶらかし他の人の家庭を侵すのは協和にそわないことであり、理知的な動物の本性に反することだからというので。

Origenes contra Celsum 8.8 Vol. II p. 226, 24 Ko (p. 748) Del.).=SVF.3.78
 しかしもし、彼が害悪とは悪徳に即した運動あるいは状態のことだと言うのであれば、明らかなことは、賢者の下にはいかなる害悪も生じない以上、…

Origen,CC.8.50.vol2.p265,22=SVF.3.346(人間本性)
 すなわち、理性をもたない動物どもからできないのと同様にして、下賤な人々からも共同というものは描かれないのだ。むしろ、我々を平等に作られた方が我々を全ての人間に対して共同するようにしたのである。

Origen,CC.8.51.vol2.p226.18=SVF.3.474(クリュシッポス『感情論(治癒編)』)
 しかし、ケルソスよりも『感情論(治癒編)』でのクリュシッポスの方がより人情のある仕方で事を論じたと思う。彼は感情は人間の魂を駆り立て混乱させるというので治癒することを望み、第1に健全さそのものに関する教説によって、第2に(もし第3があれば第3にも)命令には結びつかない種々の方法によってそうしようとするのだ。
 彼は言う「善いものに3つの種類があるとすれば、それに見合うように感情を治癒すべきである。感情に魂が燃え盛っている間は感情に混乱されとらわれた命令をおせっかいに述べるべきではない。魂を既に支配している信念がまだ混乱しており時宜を得ない間には遅延治癒を何とかしてしそこなわないようにするべきだ」またこう言っている「快楽が善であり、感情に打ち負かされた人がそう思っていることがあるとしよう。快楽が善であり目的であると決めてかかっている人々には全ての感情が整合しないということを示しそのことでそういう人を庇護するべきであって、それ以下ではいけない」

Origen,CC. 8.52=SVF.3.218(徳の内在観念)
 というのは、立派なものや醜いもの、義しいものや不正なものに関する内在観念が完全には損なわれていないのを見出す人もいるだろうから。

Origenes,CC 8.62 Vol. II p. 278, 15 K. (p 788 Del.).=SVF.3.82
 しかしもし、ケルソスが利益に関する内在観念を完成させ、真に利益になることは徳と徳に即した実践であることを見出していたら…

『ヨハネ福音書注解』
Origenes,In Evang.Ioannis,2.10.=SVF.3.544(賢者)
 ギリシャ人たちの下では逆説と呼ばれていたある教説があるが、その大部分は何らかの論証や論証らしきものによって彼等が言うところの賢者に関わっている。その逆説に従って彼等は言う、賢者だけが、また全ての賢者が司祭である、なぜなら賢者だけが、また賢者は全員神の世話に関する知識をもっているのだから、と。また、賢者だけが、また賢者は全員自由であり、神的な法から独立自由行為の権限を得ているのだ、と。そして、権限とは法に適った仲裁であると彼等は定義している。


Origen,De Oratione (2.368.1Koe; 246Del)
 このもの[非物体的なものの存在]は理論的により後のものであり、物体的なもののそれがより先に考慮されると考える人々にとって、これらの定義は次のようである。存在とは在るものの第一質量であり、在るものがそれから在るのである。物体的なものの質量は、それから物体的なものが在るものである。名付けられるもののそれは、名付けられるものがそれから名付けられるものである。あるいは、質のない第一の受容体である。あるいは、在るものに先に場を譲るものである。あるいは、全ての変化と変容を受け入れるが、そのもの自体は固有のあり方に則った変容を被りえないものである。あるいは、全ての変容や変化の基にあるものである。さて、こうしたものにおいて存在は、固有のあり方に即すという意味では、無性質かつ無形で、むしろ固有に割り当てられた量ももたなければ、全ての性質にさらされていて、まるで受け入れ態勢の整った何かの場所のようである。そして、性質を彼等は個別の意味では働き(実現態)と、普遍的な意味では作用と言っており、その中で運動や状態が生じるというのだ。彼等が言うには、こうしたもののいずれにも、それらの固有のあり方に即しては、与らないのが存在であって、こうしたもののいずれとも常に不可分であり、作用するものが作用し変化させるその通り欠けることなく、その働き全てを被り受け入れるのである。というのも、この存在になじむ緊張が、全く特別な意味で、全ての性質とそれに関わる統轄の原因だからである。彼等が言うところでは、存在は徹底的に変化を被り、徹底的に分割されるのであり、そして全ての存在は完全に混合されうるのだが、それでもひとまとまりのものではあるのだ。

Origen, In Ioan. 4.1(98.1Preuschen)
 自分で音声と意味されるものと、意味されるものが基づかれる事柄とを分ける人は音声の不文法表現をしないだろう、音声が基づく健全な自体を求めて見出しさえすれば。


『原理論』

(底本に関しては厄介な問題があるので小高訳の解説を参照。小高訳は、底本はゲルゲマン+カルプのようだが、ギリシャ語原文がある場合もルフィヌスのラテン語版から翻訳している模様)

Origen,De Principiis 2.1.p.78 Delarue=SVF.2.304
 

Origen,De Princ. 2.3.4.p.81=SVF.2.629
 ところで、互いに相違せず、あらゆる点で相似した世々が次々に生起すると主張する人々は、いかなる証拠をもって、その説を証明しうるというのだろうか、私は理解に苦しむ。
 もしあらゆる点で、[ある一つの]世が[別の]世と同じであると言われるのであれば、アダムやエワは、彼らがかつてなしたことと全く同じことを再びなすことになろうし、同じ洪水が再び起こり、同じモーセがまた六十万の民をエジプトから導き出し、ユダも再び主を裏切り、パウロも再びステファノを石打ちする人々の衣服を預かることになり、結局この世でなされた全てのことは、再びなされねばならぬことになる。
 しかし、魂が自由意志によって行為し、その前進または後退を自らの意思の能力に応じて果たすのが事実であれば、以上のような説はいかなる理拠によっても裏づけることができないと思う。実に、魂たちは多くの代々の後に再び同じ軌道に帰る進路に沿って、これかあれかをなしたり、欲したりするというように動かされているのではなく、自分の精神の自由が選んだ方向に自分の行為の進路を向かわせているのである。(小高毅訳)

Origen,De Princ. 2.8.p96=SVF.2.808
 「霊魂は冷却にちなんで」名付けられた、と人は言う。

Origen, De Princ. 3.1.3p.108 = SVF.2.988
 全ての動くもののうちで、あるものはその動きの原因を自らのうちに有しており、他のあるものは外から動かされる。即ち、生命をもたないもの、たとえば石とか木材とか、自分の質量や物体的形態だけで構成されているものは全て、外からのみ動かされる。−崩壊によって物体が分解するのも動きであると考える見解には、ここでは触れないことにする。それは今の問題に関係しないからである。−しかしながら、生物や木や、自然的生命によってか魂によって構成されているすべてのものは、動きの原因を自らのうちに有している。ある人々は金属の鉱脈もそれらに属すると考えており、また火も自ら動くものであり、おそらくは泉もそう考えねばならないとしている。しかしながら、動きの原因を自らのうちに有しているこれらのものも、あるものは自動的に動き、あるものは自立的に動くとある人々は言う。その人々はこうして、生きてはいるが魂をもたず自動的に動くものと、魂を有する自立的に動くものとを区別する。後者が自立的に動くのは、それらを何らかの動きへと刺激する想念即ち意志や刺激が生じるときである。ある種の生き物の中には、本能によって秩序正しい適当な動きへと駆り立てる想念即ち意志や感情がある。例えば、クモがそのように動いている。即ち、クモは織物を作ろうとする想念即ちある種の意志や好みによって、秩序正しく網をはる仕事に駆り立てられる。この場合疑いもなく、一種の自然の動きによってこのような仕事をしようとする意向が引き起こされる。しかしクモという生き物は、自然的に網をはることに励む以外のいかなる理解力も有しているとは思われない。それと同様に、蜜蜂も蜂房を作り、大気からのものと言われている蜜を集めることのみに励んでいる。
 (3)しかし、理性的生き物は自らのうちに、このような動きを有しているが、その他に、他の生き物の持っていない理性の力をも有しており、それによって自然の動きについて判断し、判別し、ある動きを許さず排斥し、別の動きを認め受け入れることができる。この理性の裁決によって、人間の動きは称賛に値する生活へと向けられ、導かれうる。人間の中にあるこの理性は、本性上善悪を識別する能力を有しており、それを判別したとき、承認したことを選ぶ能力を持っている。だから、善なるものを選択すれば称賛に値し、醜い悪なるものを選択すれば非難に値すると正当に判断される。
 確かに、もの言わぬ動物の中にも、例えば賢い犬や軍馬に見られるように、他の動物よりも秩序正しい動きが見られるのを見のがしてはならない。それはあ、そのような動物がある種の理性的知覚によって動かされていると、ある人々は見なしているほどである。しかし、これらの動物の動きは理性によるよりも、むしろこのような動きのために特別豊かに与えられている刺激と自然の動きによると考えるべきである。
 さて、上に説明し始めたように、あることは我々人間に外部から視覚や聴覚や他の感覚を通してはいってき、それが善の行動あるいはそれとは逆の行動へと我々を駆り立てることがあるが、−それは外部からはいることであるから、それが入らないようにするのは、当然我々にかかっているのではない−、はいったことをいかに我々が利用すべきか判決し、承認するのは、我々のうちに存在する理性の、即ち我々の判断のわざにほかならない。我々は、この理性の判断によって、外部からはいった刺激を理性そのものが承認したことへと向けて用い、理性の意によって自然の動きを善あるいはそれとは逆の方向へと導くのである。
 (4)さて、外から我々に働きかけ動きへと駆りたてるこれらのものは、それが善へ向かわせるものであれ、悪に向かわせるものであれ、それを抑えるのは不可能であるという人がいるなら、そのような考えを有している人自らが、自分自身のことを反省し、自分の心の中の動きを入念に眺めてみるがよい。そうすれば彼は、ある種の願望を達成したいという誘惑が起こった時には、精神の承諾が得られ、精神の意が悪い示唆に同意する以前には、行動に移らないのに気づくであろう。どの行動が正しいか明らかなようである時さえ、我々の心の法廷に、いわば裁判官として座に着いている者に対して両側からの訴えがなされているように感じられ、こうして論点が十分に明るみに出されてから、理性の判断によって、行動に関する決定がなされる。
 例をあげれば、自制し、貞潔に生活し、女性関係を全く持つまいと決心した男性に、たまたまある女性が出会い、その決心に反するようなことをなすよう彼をいざない、彼を行動にまで引きずったときに、当の女性がその男性の罪の必然的原因ではなかったのである。というのも、その男性は、自分の立場を思い起こし、欲望への衝動を抑制し、自分を刺激する誘惑の歓楽を厳しい徳の譴責によって制し、このようにして色欲をことごとく退け、その決心を堅く首尾一貫して保つこともできたからである。
 教養ある人々、神に教え導かれ強められた人々にとっては、このような刺激が生ずるとき、彼らは直ちに自分の立場を思い起こし、絶えず観想した事柄、それによって教化された事柄を思い起こし、聖なる教えの支えによって身を固め、惹起されたすべての刺激を退け、排斥し、自分に植えつけられた理性の反対によって逆らう情欲を追い出すのである。(小高毅訳)

Origen,De Princ.3.1.5=SVF.2.990
 それで、以上のことは、いわば自然的経験によって確認されるのであるから、外部からはいったものを我々の行為の原因とみなし、我々自身のうちに原因があるはずのとがを我々に責任のないことであるとするのは、当を逸していると当然言えるのではなかろうか。それは、まさに自らのうちにいかなる動きをももたず、外部の原因によって動かされる木材や石と我々が同じであると言うことではなかろうか。当然、[そのような主張は]真であるとも、適切であるとも言えず、ただ自由意志を否定するためにのみ編み出されたものにすぎない。外部から我々を善とか悪に駆り立てるものが何一つ起こらない時にのみ、自由意志が存在しうると考える場合だけ、[人間の自由意志を否定するという大それた見解が出されうるのである]。
 また、罪の原因を身体の生来の不調和に帰すのであれば、それは明らかに、教育という理念に全く反する。というのは、かつてははなはだしい不節制な生活を送り、快楽と情欲のとりことなっていたが、たまたま教えと教育の言葉によって改心へ導かれて、放蕩にふけった卑劣な人間から節度ある貞潔な人間へと改まり、凶暴かつ粗暴な人間から穏和かつ温良な人間となった多くの例があるからである。また同様に、柔和で公正な人が、不穏で卑劣な人々と交わることで、「よい習慣が悪い会話によってそこなわれ」、全く不品行に陥った人々と同じようになってしまうことも見られる。このことは、時として、壮年に達した人にも起こる。その場合、彼らの生活は、年齢が進み、より身勝手な生き方をなしうるようになった時よりも、まだ青年であったときにこそ、節度正しいものであった。
 したがって、論理的な結論として次のことが言える。外部から[人間に]はいる刺激は我々自身にかかっていないが、[外部から]はいった刺激をどのように利用すべきかを、我々のうちにある理性が識別し、判断するのに応じて、それをよく用いるかそれとも悪く用いるかということは、我々自身にかかっているのである。(小高毅訳)

Origen,De Princ. 3.1.18=SVF.3.538
 第3に、彼らが言うには、立派なものを欲することやそれに向かって走ることは中間のことに属し、洗練されたことでも劣悪なことでもない。しかし、この見解に対してこう言うべきである。つまり、もし立派なものを欲することやそれに向かって走ることが中間のことなら、これと反対のこと、つまり悪いものを欲することやそれに向かって走ること、も中間のことである、と。従って、立派なものを欲することやそれに向かって走ることは中間のことではない。

Origen,De Princ. 4.1.7=SVF.2.1185
 というのはつまり、摂理が司っている全宇宙の出来事においても、摂理の仕業がそこにあるのが非常に明白に明らかであるものもあれば、他のものは隠されており、神のとてつもない業と能力によって宇宙全体が治められているということについて不信を抱く余地を備えていると思われるほどである。すなわち、摂理に関わる業の理は太陽や月や星々において明らかであるほどには、地上の問題において明らかではないのである。また、動物の魂や肉体において明らかであるほどには、人間における兆候の問題において明白ではないのである。「何故に」「何のために」ということは、こうした動物たちの衝動や表象や本性、身体機構について考察している人々によってかなり明らかにされているのだから。
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