その他の典拠 Achilles Tat., p.124E. = SVF. 1.85  キティオンのゼノンの言うところでは、万有の原因は神と質量であって、神は納動者、質量は受動者である。そしてこれらから四つの原素が生じる。 Achilles Tat., Isag. Arat. 5.129e = SVF. 1.115  キティオンのゼノンはこれを次のように定義している。天空とは最上天である。万物がここから、この中にあるのは明かである。なぜなら、自ら以外の全てのものを包み込んでいるからである。つまり、天空自らを包むものは何もなく、むしろ他のものをこれが包み込むに違いないのである。 Achilles Tat., 133c = SVF. 1.508  クレアンテスはこれら[星々]が円錐の形をしていると言っている。 Achilles Isagoge 14 (134) = SVF. 2.368  (恒星、天体とは何であるか)統合された物体とは、一つの性向によって混合された限りのものであるといわれている。例えば、石、木がそうである。さて、気息は物体を一つにまとめる性向である。さて、結合されたものとは、一つの性向によって与えられるものではないもので、例えば船や家がそうである。つまり、前者は沢山の板から、後者は沢山の石からまとめられているのである。バラバラなものとは、楽団のようなもののことである。この種のものには二つの異なる種類がある。つまり、一方は、例えば楽団のように、限定された一定数の物体からなっているが、他方は、群衆のように、不定の物体からなっている。しかるに、恒星は一つに統合されたものであるが、天体は一定の別個の部分からなる。なぜなら、天体のそれぞれの部分について数が示されるからである。 Achilles Tat., 169a = SVF. 1.542  黄道を「傾斜星座環」と呼んでいる人々もいる。太陽は自らも傾きながらこの行路を運行するからである。詩人達が「解釈者」と呼んでいるアポロンは太陽にあると考えられている。 Acro,Ad Hor.ep.1.1.17=SVF.3.534  ストア派の追従者は…完璧な哲学にでなければ徳を認めない。逍遥派やその他の学派は完成されていない者には名誉を与えない。 Acro,Ad Hor.ep.1.19.19=SVF.3.597  ストア派の人々は賢者でない人は誰一人自由ではないとする。 Acro,Ad Hor.Serm.1.3.124=SVF.3.597  ストア派の人々はこう言っている、賢者はたとえ物乞いをしたとしても裕福であり、仕えたとしても高貴であり、どんなにひどく汚れていても非常に優美なのである、と。 アエリアヌス Aelianus, De Natura Animalium 5.29. = FHSG. 567B.  アカイアのアイギオンでは年頃の少年に鵞鳥が恋をするという。オレニオスの種族であり、名前はアムピロコス(「両刀使い」?)であるという。テオプラストスがこのことを言っている。そして、アイギオンではオレニオス族の難民と共に少年は保護されている。それで、鵞鳥が彼に供物をもってくるのである。また、キオスでは、年頃の盛りのキタラ奏者グラウカに、人々が恋しても決して大したことではないが、しかし私が聞いたところでは、子羊や鵞鳥が彼女に恋をするのだという。 Aelian, Nat. An. 6.50 = SVF. 1.515  アッソス人クレアンテスに無理強いした所、彼は動物達について、それらが推理を誤ることがないと認めることに乗り気でなく、強力に反論したと、この記録は語っている。その時、クレアンテスは座って、暇を持て余していた。さて、彼のところで飲んでいる連中の周りに蟻が沢山いた。そこで彼は見た。蟻達が死体を仲間のではなく他所の蟻の巣に運んでから、巣の入口のところで死体の側に立っていると、下からその巣の蟻が上がって来て他所の蟻と一緒になり、それから、まるで何か訳があるようにそれらを下に運んで行ったのである。そして、このことが何度も起きた。そしてついには、幼虫をあたかも代金のようにして持って来て、先の蟻達はそれを受け取り、死体を持って来た報いとして持って行ったのである。そしてこの蟻達は、これらをまるで子供か兄弟のように喜んで持ち帰るように見える。 Aelianus, VH. 3.17 = SVF. 1.439 (Persaeus)  この私としてはペルサイオスのものも『国制』と呼びたい。アンティゴノスを教育したのであるから。 Aelianus, VH. 3.33 = SVF. 1.337 (Aristo)  笛吹きのサテュロスは哲学者アリストンの話を頻繁に聴いていた。アリストンの話に魅了されて、彼はこう言った。自分はこの矢を燃える火の中にくべればよかった(つまり笛のことを暗示しているのだが)。哲学に比べてこんな術は何でもないのだ、と Aelianus, VH. 9.26 = SVF. 1.289  アンティゴノス王はキティオンのゼノンを、非常に敬意を払って真摯に扱っていた。しかしある時、羽目を外して酔っ払ってしまい、ゼノンのところに押し掛けて、友人に取り囲まれている彼に、泥酔して、何か命令せねばと思い、ぞんざいな口調で誓いを立てて、願いごとがあれば何でも聞くぞと言った。方やゼノンは王に「あっちに行って吐いてきて下さい」と言った。真面目に、しかしきっぱりと、酔った王をたしなめはしたが、彼を許して、それ以降は酒を一杯飲んでも乱れることがなかった。 Aelianus, VH. 9.33 = SVF. 1.19  エレトリアの若者がゼノンに長期間師事して、成年に達した。そして、彼はその後エレトリアに帰ったところ、父親自ら、そんなに長い間遊学してきて一体どんな知恵を学んだのかと尋ねた。息子はそのうち見せると言いはしたが、長い間それを果たさないでいた。そして、父親は息子に腹を立てて、ついに手を出してひっぱたいてしまったが、息子は平静としていて、こういうを忍耐することを学んだのだ、と言った。つまり、父親の怒りに耐え、苛立たないことを学んだのだ、と。 Albertus Magnus, De quindecim problematibus 9 (Op. omn. 17.1.41.11-14 42-50 Geyer) = FHSG 439  第九の問題については、自由な意志というものは受動的な能力であって、能動的なものではなく、それゆえ、必然性によって、欲求の対象にさえ動かされる、と言われているが、全く馬鹿げた説であって、倫理哲学者達の原理に反している。…しかしまたこれに加えて、この種の似而非哲学者は自制というものを破壊し、そして『ニコマコス倫理学』第七巻全体を蔑ろにするのである。なぜなら、自制のある人は、恥ずべき感情に動かされはしても、それに引きずられることはなく、感情の追跡から遠ざかるのだが、それは自由意志によってなのであるから。こういう人々の過ちは、テオプラストスも陥ったものと同じである。なぜなら、お分かりのこととは思うが、魂の感情は自然な感情に対比してはかられるのだが、前者は後者と何らに庭内のであるから。こんなことは倫理哲学についてよく知っている人には誰でも明白なのであるが。 Anecdota Graeca Paris. ed. Cramer v.1.171 = SVF. 3.214  アリストテレスは、[徳は]自然・性格・理知によるとする。無論ストア派もそうである。なぜなら、徳は技術であるから。全ての技術は共同して働く原則からなる構築物である。そして、原則に基づくのが理知である。他方、共働に基づくのが性格である。また他方、本性上全ての人は徳に向かって生まれついている、備えている出発点に応じて…。 Anecdota Graeca Paris. ed. Cramer vol1. p244 (Schol. in Eth. Nicom) = SVF. 3.376  エピクロス派の人々と後代のストア派のある人々は理に与らないものどもにも幸福を認めた。 Cyrilli Lex ap. Cramer. Anecd. Paris. 4.190  不作法:人が無造作に話す時にこう言われる。しかし、不作法というのは語り方や話し方に関してきちんとしていないということだけではなく、人が帯びるもの一般についても当てはまる。つまり、人が野暮な格好をしたり、不作法に食べたり、でたらめに散歩したりする場合にもそう言われる。以上はキティオンのゼノンの言う通りである。 Anecdota Graeca Paris. ed. Cramer v.4 403 = SVF.3.768 = FDS.12. (自殺)  クレオンブロトスだけでなくストア派の哲学者たちも、クレオンブロトスの徒にもそういう人々がいたように、哲学は自然な死に対する練習であると理解していた。それだから、生からの理にかなった5種類の退出などということまで書いたのである。彼等が言うには、生とは魂がうまく監事を務める大饗宴に似ていたからである。つまり、饗宴がお開きになるような仕方で、ちょうど理にかなった退出も起こるのである。さて、饗宴は5通りの仕方でお開きになる。まずあるいは、急に生じた大事な用事のために、例えばしばらくぶりに友人がやってきたとか。あるいは、乱入者や下品なことを言う者のためにも同様に饗宴はお開きになる。あるいは、目の前に死体や病人がいるために。あるいは、食べるものが少なくなったために。あるいは、皆が酔いつぶれたために饗宴はお開きになる。  しかるに、同じ5つの仕方で理にかなった退出も起こる。あるいは、急に生じた大事な用事のために、例えばピュティアがある人に、その国の堕落が深刻になった時に、彼の国家のために自死するように命じたように…あるいは侵入し我々を醜いことをしたり言うべきでないことを言うように強制する僭主のために…、あるいは魂が身体器官を使用するのを長期間妨げる大病のために、魂が退出すべきなのは理にかなっている。だから、プラトンも病をてなずけて延命させるような仲裁的な医術を認めず、むしろ手を下したり薬を与えるそれを認めたのである。アルキゲネスが用いたのも後者で、これは治療者の陣営である。また、ソポクレスもこう言っている。   賢い医者にではなく   鋭い傷に祈りを歌え(『アイアス』582) あるいは貧窮のために。つまり、テオグニスがこう言っているのはもっともである。   貧乏は避けねばならない… あるいは白知の故に。すなわち、あの場合酩酊が饗宴をお開きにしたように、この場合も何らかの白知の故に自ら退出するということがありうる。というのは、自然な酩酊というものがないなら、白知もないだろうから。また、あらかじめ選択して白知になるということがないなら酩酊することもないだろう。このことに関しても同じである。 無名諸子 Anonymi variae collectiones mathematicae in Hultschiana Heronis geometricorum et stereometricorum editione (275)  シドンのタウロスにはプラトンの『国家』に関する覚え書きがあり、そこには次のようなことが書かれている。プラトンは幾何学を定義して…アリストテレスは…ゼノンは、表象が受け入れられ、理によって不動となった性向である、とした。 Anonymus Academic Treatise (P. Oxy. 3008) = LS.28C  …、物体の各々についてその「二」は感覚では判別できない際をもっていると言われているので。というのは、例えばプラトンという固有性質が物体であり、またプラトンの実体も物体だとすると、そしてこれらどちらにも表面上の違いが形にも色にも大きさにも外見にもなく、それどころか両者共に等しい重量と同一の場所が備わっているとすれば、我々はどんな定義や性格付けによって区別をして、ある時はプラトン自身をとらえていると、またある時はプラトンの実体をそうしていると言えばいいのか?なぜなら、何らかの差異があるのなら、それが証明付きで語られねばならないし、他方もし言えないのであれば… Anonymus, De Arte Logica Disputatio (ap. Olymp., Proleg. et In Cat., Suppl. Praefat. p.X)  言語に関わる探求の最初は目下問題の書物なのであるから…、追求せねばならないのは言語に関わる学(論理学)が哲学の部分なのか道具なのかということである。つまり知らねばならないことは、哲学をなした古人たちには、言語の学は哲学の部分だと表明した人々もいれば、道具だとした人々もいたということである。そして、前者は例えばストア派の集団であり、後者は例えば逍遥派の全ての人々である、ということである。しかし、プラトンは言論の学は部分でありかつ道具であると言っていた。…さて、ストア派の人々は彼等自身の思想を2つの試論によって築き上げているが、その第一の試論は次のように進む。彼等は言う。何かに用いられるものは全て、使用するものが用いるあのものが何か別のものの部分でも下位部分でもないならば、必然的に当の使用する側のものの部分もしくは下位部分である。つまりこのようなことである。医術も養生論を用い、これは別のものの部分や下位部門でないので、それ故医術の部分あるいは下位部分である。いやむしろ、治癒の論の部分であり、実践の論の下位部分である。この「あのものが他のものの部分や下位部分でないならば」ということは天文学の例によっても議論にもたらされる。つまり、操舵術はこの学を用い、まず第一に天文学は哲学の部分であり下位部門であるので、つまり数学論の部分であり観想の理論の下位部分なので、それ故天文学は操舵術の部分でも下位部分でもない。そうすると、哲学が言論の学を用い、他方言論の学が他の知識の部分や下位部分でないならば、哲学のそれだということになる。さて、このようなものが彼等の最初の試論である。(11)しかし、この議論は簡単に反駁されうる。…さて、彼等の第2の試論は次のようなものである。彼等は言う。固有の道具を作り出す技術は何もない。ならば、哲学が言論の学を作り出すのであれば、これはその道具ではなく部分である。では、この試論も転覆させよう。… 『無名氏アリストテレス『ニコマコス倫理学』注解』 Anonymus in Arstot. EN.128.5 = SVF. 3.201  徳を無情に据えるこの思想がストア派の人々にも有利に働くことを理解すべきである。 Anonymus in Aristot. EN. (Michael, Eustratius) 180.14 Heylb = SVF. 3.386  苦痛とはこのようなもの、つまり苦痛に対する委縮とストア派の人々が呼ぶものである。 Anon. in Ar. EN. 5.13. 1137a26-30 (CAG. 20.248.17e)  つまり、富も名声も権力も何かこの種のものも善いものには入らない(部分とも言う)という人々には、配分的正義も矯正的正義もない。なぜなら、何らかの善や利益の平等な配分において類比的に配分的正義及び矯正的正義があるのは、より多く取る者と取られる者を極めて平等にする場合だからである。しかし、より多く取る者とは何でも自分により多く配分する者ではなくて、何か非常な善をそうする者である。それだから、こうしたものは人間にとってはどっちでもいいもの(善悪無記)であるという人達、もっと言えば、こうしたものに何の価値も認めず、それどころか正反対のものと等しい価値しか持たないと言う人々は(彼等には最初アリストニュモス[アリストン?]*がおり、今ではプラトン派のある人々も加わっている。後者は[ストア派の?]**教説の中に潜り込んだ連中であり、アッティコスもその一人だったと思われる)、彼等は正義など全く無価値だと表明しているのだ。 *イオッポロはそう考えている。 **ウーゼナーの想定。 『無名氏プラトン『テアイテトス』注解』 Anon. in Pl. Theaet. 70.5 = LS. 28B  さて、「増大の議論」について、方や最初に論じたのはピタゴラスであるが、方やプラトンもこれを論じている。それは『饗宴』についての論述の中で我々が記録しておいた通りである。また、この問題に取り組んだ人々にはアカデメイア派の人々もいて、彼等はこう証言している。つまり、存在するのは増大であるというのが彼等の見解だが、ストア派の人々が論を組み立てて、このことは証明を要しないなどと言うものだから、彼等に教えてやったまでだ、というのだ。もし誰かが明白な事柄を証明するつもりがあるとしても、別の人が正反対のことへもっと説得力のある理論を山ほど出してくるだろう、ということを。 『無名氏アリストテレス『範疇論』序』 Anonymi Proleg. in Aristot. Cat. 34b (Schol. in Ar.) = SVF .2.333  さて、最も普遍的な名は3つ、つまり「一」「有」「何か」である。というのはこれらは在るもの全てについて言及するから、プラトンでは「一」、アリストテレスでは「有」、ストア派では「何か」がそうである。 Anon. Proleg. In Hermog. De Statibus p.192.3. Rabe = FDS.49  弁論術について理解をなした人々には、これを徳と呼んで、より大きい概念やより小さい概念から定義をなした人々もいれば、これを悪徳として、同様により大きい概念やより小さい概念から定義を与えた人々もいた。つまり、これを知識と呼んで、より大きい概念から「善く語ることに関する知識」と定義した人々は、ストア派の人々である。また、善く語ることとは真実のことを語ることだと彼等は言った。より小さい概念から定義をした人々は、これを弁証術と呼び、また弁証術は「説得的である能力」だと定義している。この定義を語ったのはアルキダモスの一派である。「より小さい概念から」というのは、弁論術のこの定義がより狭いということではなく、「知識である」という先に挙げた定義よりも控えめな主張だからである。 Anon. Schol. in Status (Walz. Rh. Gr. 7.1.383) = SVF.2.273  そこからして、ストア派の人々の間でも「相互循環の論」とか何とか言われている論があり、これは証明不可能なのである。例えばこのような論である。「テオンが居るところにディオンがいるし、またディオンが居るところにテオンがいる」さて、このような議論、つまり「相互循環の論」は(私は証明があると言っていのだが)論証不可能であり、その規定が与えられない。どのような事態を指示しているのかということが相互的な仕方で与えられているからである。 Apollonius Soph. Lex. Homer. 114 Bekker = SVF. 1.526  哲学者クレアンテスは、理性によって衝動や感情が弛緩するということを、寓意的に、理性が自らを表す、と言ったのである。 アプレイウス 『命題論』 [Apleius], De Interp. p176,1-4 = FDS. 14  知恵の探求は、それを我々はフィロソフィアと呼んでいるのだが、3つの種あるいは部分を持っていると多くの人々には思われている。それはすなわち自然に関わるものと倫理に関わるものであるが、もう一つについてはそれを今は理に関わるものと呼んでおこう。最後のものには弁証の術が含まれる。 [Apuleius], De Int. 176.3-5;12-4=FDS.81  今私が理論を語ろうとした学には語ることの術が含まれている。さて、我々が語ろうとしている弁論には様々な種があるのだが…それらのうちの一つは我々に提示された目的に最も強力であり、それは発言に関わる術と呼ばれている。それは他によらずとも完全な思考を含んでおり、何よりもこれだけが真理と虚偽に深く関わる。 Apuleius, De Int. 184.16=SVF.3 Ant. 26=FDS. 1050=LS.36D  一つの前提から推論は成立しない。ストア派のアンティパトロスには、全ての学者の見解に反して、「君は見ている、故に君は生きている」が十分な推論と思われたとしてもである。というのも、この推論式の十全なものは「もし君が見ているのなら、君は生きている。さて、君は見ている。故に、君は生きている」だから。 Apuleius, De Int. 266 (2.9 Goldb.) = SVF.2.204a  あるものは肯言的、つまり任意の事柄について何事かを帰するものであって、例えば「徳は善である」がそれである。…あるものは否認的、つまり任意の事柄について何事かを否定するもので、例えば「快楽は善ではない」。…しかし、ストア派の人々はこの種の命題も肯言的であると主張した。こう言っているからである。「ある快楽について、善でないということが生じたのである。従って、何事かがある事柄、つまり在るものに、生じたのである。このことからして(彼等は言う)この命題は肯言的なのである。なぜなら、かくかくであるということが否定される事柄において、かくかくでないと思われるということが肯言されているからである」さて、彼等が否認的と呼ぶものは、個別の否定辞がつけられているものだけなのである。 Apuleius, De Int. 272 (9.12 Goldb.) = SVF. 2.262  ストア派の規範の一つは、同じ事柄から何も違わないことをそのまま言い直すだけなので、余分である。例えば「昼であるか夜であるかである。さて、昼である。故に、昼である」というものである。また、同じことを導くものもそうだ。例えば「昼であるならば、昼である。さて、昼である。故に、昼である」 Apuleius, De Int. 277 (191.5 Thomas; 15.11 Goldb.) = FDS. 1161 = SVF. 2.239a = LS.36I~B(/~A))」しかし、古人達はこう定義した。「全ての推論に関して、もしその結論が反証されるのなら、前提のどちらかが[そこに]加えられると、残りの前提も反証される」このことが考案されたのは、前提は認めても、そこから帰結されることは無思慮にも否定するという人々に対抗してのことである。つまり、このようなことによると、ありえないことへと至らせられるからである。否定された事柄から、かつては認められていた事柄に何か対立することが導かれるのである。さてところで、相矛盾する事柄が同時に真であることは不可能である。したがって、ありえない事柄によって、結論へ余儀無くされるのである。しかし、弁証家達がこの型を論議して真としたのは無駄ではなかった。つまり、結論に対立する命題と前提のいずれかとを容認すると、全体が破棄されるという型のことである。ところで、ストア派の人々は、否定辞を推論全体に先行させると結論が否定されるかあるいは前提のどれかが否定されるかどちらかであるという主張を、こう表現した。「全-非全:或-非或」(「全体を否定すれば全体が、或る前提を否定すれば別の前提が、否定される」)しかしながら古人達は、どちらかの前提の否定は両方の否定につながるということを、こう表現した。「全ー非全:或」(全体を否定すれば全体も否定され、個々の前提も否定される) Arnobius ad nat. 2.9 = SVF. 2.107  火で世界を脅かし、時が熟すると回帰するということに、パナイティオス、クリュシッポス、ゼノンによるとなるのだが、誰がこんなことを信じるものか。 Asclepius, In Aristot. Metaph. (377.29Hayd.)=SVF.2.328  そしてまた、一つの存在だけが存在し、それは感覚されうると言った人々もいた。例えば自然学者やストア派の人々である。 アスパシウス『アリストテレス『ニコマコス倫理学注解』』 Aspasius, In Aristot. EN p.44,12 Heylb = SVF. 3.386  さて、ストア派の人々考えたところでは、感情は過激な衝動あるいは理不尽な衝動であり、正しい理に反対のものだと理解している。  (45.16)類としての感情は、ストア派の人々の言うところでは、快楽、苦痛、恐怖、そして欲望である。つまり、彼等が言うには、感情が生じるのは善悪に関する把握を通じてであるが、その場にある善いものへと魂が動かされる場合は快楽であり、その場にある悪いものへなら苦痛である。逆に、予期された善いものにおいては欲望が生じて善と見えるものへの欲求となり、予期された悪いものには恐怖という感情が生じると彼等は言っていた。 Aspasius, In Ar. EN 8.8.1158b11-28 (CAG 19.1 p.178.1-18 Heylbut) = FHSG.533  優越における友愛について、それは先述の種に入るものかそれとも何か別種の友愛なのかということを追求する人がいるかもしれない。さて、エウデモスとテオプラストスが言うところでは、優越における友愛は同じこうした種に生じる、つまり、快楽による友愛、あるいは利便によるそれ、またあるいは徳によるそれに。というのも、支配者と被支配者も優れた友人にはなりうるからである。後者は法律が指示する限りで優越され、前者は優越するのである。父親と息子も優れた友人になりうる。そして何よりも、父親が優越していることを父親に認めるのは息子である。同様に、優れた妻が優れた夫の友人でもありうる。というのも、自然に従っているならばこうした人々はおよそ方や支配し、方や支配されるであろうから。また、優れてはいない中間の人々においても快楽によってまた利便によって友人となることは明らかに可能である。例えば、支配者と被支配者、妻と夫は両者とも友人であることができる。しかし、息子と父親については問題とする人がいるかもしれない。つまり、彼等は利便に基づいて互いに友愛することができるのかどうか、父が息子に善いことを願うのは何か他のもののためにであるのかあるいはいやしくも自然に即して友愛するのであれば息子自身のためにであるのか、などと。すると、この友愛はむしろ何か自然な友愛であると思われる。しかし恐らく、この種の友愛にも、自然に適って生じるのであれば、快いものや利便が伴うのである。そこで、こうしたことがどのようにしてあるのかを追求すべきである。 Censorinus, De Die Nat. 4.10 = SVF. 1.124  キティオンのゼノンは、ストア派の創設者であるが、人間の生成に関わる原理は新しい世界から作り出されたのだと説いた。最初の人間たちは、ただ神的な火の助けによって、つまり神の摂理によって生まれたというのだ。 Censorinus, Die Nat. 17.2 = SVF. 1.133  それだから、三十年が大期だと考えた人は過っていると思われる。つまり、この期間を生成の期間と呼んだのはヘラクレイトスが最初であるが、それは世代の一巡りがこの期間の中におさまるからであった。しかし、世代の周期というのは、種子から生じた人間の本性が再び種子になるまでの間である。さて、生成に関するこの期間は人によってまちまちに定義されている。ヘロディコスの本には二十年だと書いてあるし、ゼノンは三十年だという。 Ps. Censorinus, 1.4 (75.14 Jahn) = SVF.1.499  実際、[世界は]四元素、つまり地水火風からなっている。そして、その一種主導的なものが太陽である、とクレアンテスは言っている。 Certamen Homer. et Hesiod, 4.18 Nietzsch = SVF. 1.592 (Cleanthes)  ヘラニコスとクレアンテスは(ホメロスの父を)マイオンだと言っている。 Codex Vaticanus Graecus 1144 f.210r v.19-20 (no.24, RhM 47(1892) p.133 Elter) = FHSG 540  テオプラストスの言。無知と過誤は友愛も許容するが、嫉妬と敵意はそうではない。 Codex Vaticanus Graecus 1144 f.210r v.20-1(n.25 RhM 47(1892) p.133 Elter) = FHSG.538A  同じ人が忠告するところでは、友人は吟味してから選択せねばならず、既に選択してから吟味してはならない。 Codices Parisini Latini 2772, 4718 et 4887, sent 26 (p.40.2-3 Woelfflin) = FHSG.538C  テオプラストスが言ったように、既に吟味された友人を愛し、決して愛してから吟味しないのは有益である。 Cornutus, 17 = SVF. 1.103  渾沌というのは、秩序にかなって生じた湿なのであるが、溶解にちなんでそう名付けられているのである。 Cornutus, 26 (48) = SVF. 549 (Cleanthes)  アトラスが「恐るべきもの」と呼ばれているのは、万物に思慮を働かせ、全ての部分の保全を図ることによる。 Cornutus, 31 = SVF. 1.514 (Cleanthes)  ヘラクレスは物事全体に備わる張力である。不屈の強力な本性もこれに基づく。この本性は不動で、それ以上ということがなく、部分々々にも力を分け与え、力強いものとするのである。(アルクメネとアンピトリュオンの子(ヘラクレス)について論じられる。彼の所行は最近の人々によって神々の所行のうちに入れられている。こうした結果、神の特徴は英雄について物語られている事柄とくべつしにくくなったのである)恐らく、獅子の皮や、棍棒も古来の神統記に基づいてこうしたことに入れられるかもしれない。…あらゆる力や高貴さもこれと同じにされうる。というのも、獅子は最も力強い獣であり、棍棒は最も強力な武器だからである。また、弓矢も神とされるかもしれない。どこにでも飛んで行き、張り詰めた力と投擲兵器の動きの両方を持っているからである。…この思想が真実に親近なものを持っていると認めた人々もいた。つまり、エウリピデスはこう言っているのである。   張り詰めた悪意が何事かをなすというのは若者の   魂がよりよいことをするというのはもっと老いた人々のすること 思うに、オンパレ王妃にお仕えすることがあの方に相応しいことだったというのももっともである。また、古人達にはこのことを通じて明らかだったのであるから。つまり、より強力な人々は自らを理に服すべきであり、理によって指令されたことをなすべきだということが。それで、理論的に理性で考えた上で、何か女々しいことにあたったとしても、つまり神託ということにあたったとしても、そうするべきだったのだ。オンパレがそれを命じるというのは無茶なこととは思われなかったのであるから。さて、十二の報賞を与えることも、神においては似つかわしからぬことではない。ちょうどクレアンテスもそういうことをしたのであるが。安直なことを考える者に敬意を払うことがよいことであると全く考えるべきではない。 Cornutus, 32 = SVF. 1.503 (Cleanthes)  音楽家や竪琴奏者は調和よく打奏することを通じて、宇宙の部分全てを調和よく全ての部分に調和させることに導かれる。そして、耳に聞こえるそれらの不調和には目もくれず、時が互いに徹底的に調和していて、まるで自ら節を求めているようであるのや、生き物の調和、また、他の物体が協和していること、特に乾くことによって自ら気を放出すして利益を得、まるで神霊によるかのように聴覚に調和した音を響かせるのを観るのである。 Cornutus, 32 = SVF. 1.542 (Cleanthes)  与えられる御告げが傾いて乾いているので、解釈者と名付けられたのである。そうでなければ、獣帯にそって運行する道筋が傾いているからそう言われたのである。 Cornutus, 32 = SVF. 1.543 (Cleanthes)  [アポロンは]「主宰」と名付けられているが、それは、日々を会同で、人々を交際を通じて結び付け、また、彼等のもとに夜をもたらしてそれをやめさせるからである。 David, Proleg. Philos. 11 (32.11-6) = FDS.11  プラトンが哲学を死の練習と定義した後、プラトンは自然に適った死のことを言っていたのだとストア派の人々は考え、さらに論を進めて、そのあり方、つまり人はどうしたら理に適った自害をなすことになるかという説明を与えた。そして彼等は言う、酒宴がお開きになる丁度そのような仕方で人は理に適った自害をするのである、と。彼等が言うには、それというのも、6通りの仕方で酒宴はお開きになるのであるから、… デメトリウス 『雄弁論』 Demetrius, De Elocutione 34 = SVF 3 Archedemus 7 半路のことをアリストテレスはこう定義している。「半路とは(全)走路の片方である」そして後からこう加える「しかし走路そのものにもなる」――さて、アルケデモスはアリストテレスの定義とこの定義に加えられるとより十分完全なものになる事柄とをまとめ次のように定義した。「半路とは、それだけでも走路であるが、あるいは、全部合わせた走路の部分でもある」 デクシッポス 『アリストテレス『範疇論』注解』 Dexippus, In Ar. Cat. 5.18 Busse = SVF. 2.370  つまりほとんど確実に判っていることだが、他の理論に対してはこれほど多くの反対論が出たことはなかったし、これほど多くの人々が論争に動いたことはなかったのである。ストア派の人々や、プラトン派の人々だけがそのようなことをしたのではなかったのだ。彼等はアリストテレスのこうした範疇論に揺さぶりをかけようとしていたのである。 Dexippus, In Ar. Cat. 22.18 Busse = SVF.2.209  我々はこう言う。要素を複合させうる接続詞を伴う陳述だけを複合文と呼ぶ人々はストア派に従っているのであるが、彼等よりも古いアリストテレスはより古い人々の習慣に倣ったのである。その先人達と言うのは誰でもいいのだが、要するに、一つ以上の言論の部分からなる集合一般を複合文と呼んでいたのである。 Dexippus, In Ar. Cat. 23.25 = SVF. 2.374  この問題に関して付け加えておかねばならないことがある。それは、基体は二重なのであって、それはストア派の人々やもっと古い人々に従ってさえそうなのである。つまり、いわゆる第一の基体とは、無性質の質量であって、これをアリストテレスは可能態にある物体と呼んだのである。他方、第二の基体は性質であって、それが基体となる仕方には普遍的なそれと個別のそれとがある。実際、銅もソクラテスも、それぞれ、それに生じるものやそれに述語付けられるものとの関わりにおいて、基体となのである。つまり、基体は「何かについて」ということの下で語られると思われる(基体は「何かに対する」基体なのである)。それに生じたものや述語付けられるもの一般についてそうであるにせよ、個別の事例においてそうであるにせよ。しかるに、生じたものや述語付けられるもの全てに対して端的に基体であるものは第一の質量である。例えば、銅やソクラテスはそれに生じるものや述語付けられる任意のものに対して基体なのである。かくして、二つの基体があり、それに多くのものが生じるのであるが、第一の基体に対して生じるものは基体のうちにあり、しかし第二のものに対して生じるものは基体のうちにあるのではなくその部分なのである。 Dexippus, In Ar. Cat. 30.20 = LS.28J  しかし、数多くの数において異なるものについても形相が「何であるか」において述語付けられるものだとすると、何の点で個物は一つ一つの個物と異なるのか。このものはそれぞれ数において一つなのだから。  さて、この難問を「固有性質」によって解消した人々がいた。つまり、そら彼等の言うところでは、あるものは鉤鼻であることや黄色いことによって、あるいは他の性質の伴走によって区別され、別のものは獅子鼻であることや頭が薄いことや目が青いことで、さらにまた別のものは別のことによってそうされる。しかし彼等の解決は大したものではないと私には思える。 *資料の価値についてはLS注参照。 Dexippus, In Ar. Cat. 34.19 = SVF. 2.399  しかし、ちょうどストア派の人々がそうしたように、沢山の範疇を様態に割り当てる人がいたら、彼等にはこう指摘せねばならない。つまり、彼等は物事の多くを取り残しているのであり、場所、時間、数量、大きさ、サンダルを履くということやその他そのようなものを無視しているのである、と。なぜなら、このようなもののいずれも、様態には含められないのだから。 Dionysius Halicarn., De Compos. Verb. 3(30 Re) = SVF.2.28  またどうして彼等に驚く必要があろうか。哲学を公言してはばからず、弁証法の本まで公にしている人々がここまで言葉の構成にお粗末だからとしても。余りにもひどいので彼等のことを口に出すのも恥ずかしいくらいである。証拠はストア派のクリュシッポスの言説を取り挙げれば十分である。というのも、それ以上先に進もうとは思わないからである。つまり、この人以上に弁証法の術に厳密な人もいなかったが、この人以上に恐ろしく不調和に構成された言説を公にした人もいなかったのである、話題と賞賛に値する人々の中では。実際、こうした人々のうちには、言論に不可欠なものだというので、この分野について研究努力しているふりをし、言葉の部分の構成法について著作した人々もいたのである。しかし、彼等の多く、いや全部と言ってよいが、は真理から離れてフラフラし、構成を快く見事にするものは一体なんであるのかということなど夢にさえ見なかったのである。 ↓ Dionysius Halicarn., De Compos. Verb. 3(31 Re) = SVF.2.206a =FDS.41  さて、この私がこの問題について著作をまとめようと思い立った時、何か先達達、とりわけストア派の哲学者達、がこの問題について何ごとか言っていないだろうかと調べたのである。ストア派というのは、この人達が言論に関する問題に少なからぬ考慮を払った人達であるということを知っていたからである。つまり、彼等が真実を証言してくれるはずなのである。しかし、多いも少ないもあったものではなく、私が見たところでは、語るに値する人々の誰もどこでも何も論を展開などしていなかったのである、私が選んだこの問題に関する限りでは。この問題についてはクリュシッポスが二つの論考を残していて、『言論部分構成論』という題がつけられているが、これが弁論術に関する考察など行っておらず、むしろ弁証法の本であるのは、この本を読んだ人なら知っているところである。つまり、この書物は、命題の分類、真の命題と偽の命題、可能な命題と不可能な命題、許容される命題、真理値を変える命題、両義的な命題、その他何かこの種の問題を取り扱っている。しかし、政治活動に関わる言論には何の役にも絶たないし、利益ももたらさない、少なくとも表現の快さと立派さに関する限りでは。しかし、作文というのもはこうしたことを目標とせねばならないのである。そこで方やこんな問題は放置して、 ↓ あるいは方や私自身が自分でやることにして、何か自然に適う出発点を見出せないものかと探し求めたのである。なぜなら、全ての問題と全ての探究の最強の原理はそれ、自然であると思われたからである。 ドシテウス Dositheus, Ars Gramm. 381 = FDS. 500  音声は、それ自体としてある限り、聴覚によって感覚されうる、打撃された気である。全ての音声は分節されたものか未分節かである。分節されたものとは、文字によって表されうるものであり、未分節のものとは、書き表わされ得ないものである。 Elias, In Porph. Isagog., Proleg. 6(14.15)  クレオンブロトスだけではなくストア派の哲学者たちも、まるで何かクレオンブロトスの徒であるかのように、哲学を自然に適った死の練習だと理解している。それだから、生からの理に適った退出の5つのあり方について著作したのである。彼等は言う。というのも、人生は大饗宴に似ていて、そこで魂はもてなしを受けているように思われるからだ。そして、饗宴がお開きになるのと同じ数の仕方で、生からの理に適った退出も起こる。さて*、饗宴がお開きになる仕方は5つである。 *deと読む。 エピファニウス 『異端論駁』 Epiphanius, AH. 1.5 (DDG. 588) = SVF. 1.87  しかるに、この者[ゼノン]も質量が神と同時にあるものだと言っており、その点では他の学派と同じである。また、運命や創造というものがあり、それから万物は整えられ受動したのだとも言っている。 Epiphan., AH. 3.2.9 (3.508.16 DDG. 592.21) = SVF. 1.264; 146  ストア派のキティオンのゼノンが言うところでは、神々のために神殿を建立する必要はなく、知性において神を抱けばよいのであり、もっと言えば、知性を神々に向ければよいのである。神は不死不滅なのであるから。 ↓ Epiphan., AH. 3.36 (3.508.18, DDG. 592) SVF. 1.253 死んだものは動物と並べてもよいし、火に付してもよい。子供等を用いるのも妨げられはしない。 ↓ Epiphanius, Adv. Haeres. 3.36 = SVF. 1.161 神性は万物に浸透していると言っていた。 ↓ Epiphanius, Adv. Haeres. 3.2.9 (3.508.20 3.36) = SVF. 1.177  物事の原因はある意味では我々の権内にあるが、ある意味では我々の権内にはない。つまり、物事には我々の権内にあるものもあるが、我々の権内にないものもある。 ↓ Epiphan., AH. 3.2.9 (3.508.22) = SVF. 1.146  また、彼はこう言っていた、身体から分離した後、魂は一定期間存続すると*。それで、彼は魂を長命の気息と呼んでいたが、全面的に滅び得ないというものではないとも言っていた。つまり、長い時間を経て完全にすり減って消え失せると言ったのだ。 ↓ Epiphan., AH. 3.2.9 (3.37) (DDG. 592.30; 20.3.508.25)  クレアンテスは善悪こそが快楽であり、人間とは魂だけであると言った。また、秘儀の際に用いられる様々な形容こそ神であるとも言い、それらの呼称が神殿で、太陽とか宇宙とかいうのは松明持ちなのであるとも言った。…(原文欠?)…神々にとりつかれた人々を、秘儀を受けた人々とも言った。 ↓ Epiphan., AH. 3.38 (DDG. 592.34) = SVF. 1.447 (Persaeus)  ペルサイオスはゼノンと同じ教説を説いた。 Epiphanius, Adv. Haeres. 3.39 = SVF. 3.746(クリュシッポス『国家』?)  ソロイのクリュシッポスはとんでもない法律を起草した。なぜなら、母親と息子が、父親と娘が交わるべきだと言ったからである。そして、その他の点でもキティオンのゼノンに同意している。こうしたことに加えて、彼は人肉食についても語ったのである。そして彼は全てのことの目的は快い気分にあることだと言った。 Epiphanius, Adv. Haeres. 3.40 = SVF. Diogenes 43  バビロニアのディオゲネスは万物は快によって結び合わされていると言っていた。 Etymol. Gud. s.v. helios = SVF. 1.121  「太陽」(helios)、また詩人達は違う綴り(heelios)を用いているが、は海(hals)にちなんで「海からのもの」(halios)と名付けられ、それが「太陽」(helios)となった。実際、ストア派のゼノンによると、太陽は、海から蒸発した、叡智ある炎なのである。 Etymol. Magnum s.v. helios = SVF. 1.121  「太陽」:海(hals)にちなんでそう(helios)呼ばれるが、なるほど色々な別綴り(halos, halios)がある。なるほど、自然学者達は海から上がった水分が太陽になると言っている。海から湿り気が沸き上がるというのだ。海神ポセイドンの名もここから来ていて、飲み込んだものを、知力ある太陽に送り上げることにちなんでいるのである。 Eustathius, In Iliad Sigma 506, 4.237 (1158,37) = SVF. 1.74  ここでも「空に声を通す者」とホメロスは布告者のことを呼んでいるが、ゼノンによる音声の定義が根底にあるのである。つまりゼノンは「音声は打撃を受けた気息である」と言っている。 Eustath., In Od. (1389.55) = SVF. 1.549 (Cleanthes)  アトラスは、カリュプソの肉体的な父親であると言われており、全ての海の大本であると知られているが、大地を中央で支え、天空を持ち上げる柱をなしているのである。ある人々はこれを寓意的に解釈して、万物の原因となる不朽不屈の摂理のことだとしている。そして、彼等はそのようなアトラスを恐るべきものと考えている。つまり、万物に思慮を及ぼして、万物に思慮を行き渡らせるというので。それで、クレアンテスも、アトラスとは支配的な摂理に与るものだと暗示している。 Eustathius, In Od. f293 (1910.42) = SVF. 1.285  こう言われている。キティオンのゼノンは人付き合いに関しては大抵苦り腐っていたが、しかし酒を沢山飲んだ時だけは心地よい快活な人になって、同じものでも熱の影響を受けると変わるものだと言っていた。つまり、酒が浸透する前は苦かった人々でも、酒に浸されると甘く心地よい人に変わる、と。 Fulgentius Mytholog. prooem. = SVF. 2.927  「精妙に」:しかしながら、人間の感覚には、偶然の強制によって誤りという運動が生じないわけにはいかないのだ。そうクリュシッポスも『運命論』でこう書いている。「滑らかな、しかし余儀無くさせる運動によって混乱が巻き起こっている」と。 Fulgentius Mytholog, Prooem. = SVF. 2.927(?)  最後に。しかしながら全く人間の感覚にそぐわない、偶然の強制によって誤った運動が生ずるというのでないならば。そうクリュシッポスも運命について著作して言っている。変わりやすい強制によって衝動は翻弄される。 Geminus, Elem. Astron. Petav. Uranolog. 53 = SVF. 1.505 (Cleanthes)  古人達の中には、燃える帯の下、季節々々の星々の中に大海は広がっている、と言った人々もいて、ストア派の哲学者クレアンテスもその一人である。 Gnomologium Vaticanum, no.326 (WSt 10 (1888) p.258 Sternbach) = FHSG.538E  同じ人が検討したのは、友愛を抱いてから判断するのではなく判断してから友愛するということ、憎むにしても理性により、感情に陥ってではない、ということだった。 Gnomologion Monac. 196 (Gnomol. Vatc. Sternb. 295) = SVF. 1.281  哲学者ゼノンは、彼は逆理を説いているという人々もいるので、こう言った「しかし、私が語るのは逆法ではないよ」と。 Gnom. Monac. 197 = SVF. 1.324  ゼノンその人は、友人とは何であるかときかれて、こう言った。「別の自分のようなものだ」と。 Gnom. Monac. 198 = SVF. 1.322  ゼノンその人はこう言ったのだ。視覚は空気から光を得るが、魂は学識からそうするのだ、と。 Gregorius Nazianzenus,Carmin.1.2.10.604=SVF.3.710  あそこでも、最も親愛なストア派の人々のするように  何か体の部分が互いに語り合っているかのように 「いったい何の役に君はたっているのか」と言う「哀れな皮膚君。  食らうためか。一番大きいパンの固まりをもらったって足りないよ。  飲むためか。水と酢を君にやろうじゃないか。  こんなものを僕からほしがるのではないな。贅沢や満足、  水晶硝子のグラスなんていう贅沢品なのだな。  よかろう、喜んでたっぷりあげようじゃないか、それでは首吊り縄を」 Gregorius Nazianzenus,Epist.32=SVF.3.586  私が賛嘆するのはストア派の人々の潔さと智恵の広さです。彼等が言うには、外的なものは幸福に全く何の妨げにもならず、それどころか優れた人は恵まれているのです、たとえ「パラリスの雄牛」が燃え上がるとしても。 Gualterus Burlaeus, De Vita et Moribus Philosophorum 68.2 = FHSG.546  (2)我々が書物で読むように、この言葉はこのテオプラストスのものである。…友情は不死であるべきだ。(3)魂のない肉体くらいしか、友人のいない人間の価値はない。(4)友人との話は短く、しかし友情は長くあるべきだ。(5)敵であることを恐れないような友人でありなさい。(6)幸運に恵まれている友人には、呼ばれたなら、不運にさいなまれている友人には呼ばれなくても助けとなるべし。(7)調子のいい友人には注意せよ。彼の言葉はいつも甘い。(8)善い友人は傷つけられるとより激しく怒る。(9)たとえ時宜に適うとしても決して友人を傷つけてはならない。(10)自分に示してほしいと思うことをあなたは友人にも示すべきだ。(11)友の信頼は友愛の凝固剤である。(12)友人のために死ぬことの方が敵と共に生きるよりも得である。 Hermiae Irris. Gent. Phil. 14 (DDG 654) = SVF. 1.495 (Cleanthes)  しかしクレアンテスは呪詛の井戸から頭ごなしに君の考えを嘲笑して、彼自身は真の原因をたぐり寄せた。神と質量をである。そしてこう説いたのだ。地は水に変わり、水は気に変わり、気は上方に運ばれて、火は地の周りに広まって、魂は宇宙全体に浸透する。この魂に与ることによって我々も魂を得ているのである。 ヒエロクレス Hierocles, 9.3-10; 11.14-18 = LS.57D  自分自身に対する[親近性]は好意に満ちており、親近者に関わるそれは愛情に満ちている。…そうすると、我々は子供たちには愛情を伴って親しみを感じ、外的善には選択を伴ってそうするが、ちょうどそのように動物も自分自身に対しては[自己保存につながるように]親しみを感じるのであり、生体機構の利益につながるものには選別を伴ってそうするのである。…  我々[も]動物であるが、集団を形成し他人を必要とするそれなのである。それだから、我々は国家に住み着いてもいるわけである。なぜなら、国家の部分でない人は誰もいないからである。それからまた、我々は簡単に友愛を築き上げることができる。というのは、共に食事をしたり劇場に共に座ったりすることから…(テキスト欠)。 Hippolytus,Philosoph.,21.1(DG.571.7)=SVF.2.1029  クリュシッポスとゼノンは、神が、最も純粋な物体であって、万物の原理であり、万物を貫いて自分自身の摂理を行き渡らせる、と彼等自身も想定した。(岩崎允胤訳) Isidorus Pelusiota,Epist.5.558(PG 78 col.1637)=FDS.2.B  他に、技術の技術、知識の知識が哲学であると定義している哲学者たちもいる。ピタゴラスは知恵の熱望、プラトンは知識の所有、クリュシッポスは言理の正しさに対する努力だとしている。 Johannes Chrysost. Hom. I in Matth. 4 = SVF. 1.262(ゼノン『国家』?)  というのは、あの国家を構築したプラトンやゼノンや他に誰か国家を描写したり法律を作りあげた人がいればその人ほど笑止だということはないのだから。 ルキアノス Lucian., Macrob. 19 = SVF. 1.288  ゼノンは、ストア派哲学の創始者だが、98だ。話では、彼は会合に赴いた時に倒れてこう叫んだということだ。「なぜ私を呼ぶのか」と。そして、家に帰って食を絶って生涯を終えた。 Lucian., Macrob. 20 = SVF. 2.1  クリュシッポスは81[年生きた]。 Lucian., Macrob. 20 = SVF. 3 Diogenes 4  ティグリス出身のセレウキア人ディオゲネスは、ストア派の哲学者だが、88だ。 Lucian, Paras. 4 = SVF.1.73  技術というのは、この私の記憶ではある賢いお方がそう言うのを聞いたのだが、人生の内にある事柄の内何かためになる目的に向けて一緒になって働く様々な把捉から作られたものだというのだ。 Lucian, Vit. Auc. 20 = SVF. 3.622  この人だけが賢者で、立派で、正しく、勇敢で、王で、弁論家で、富者で立法者なのであると。 Lucian, Vit. Auc. 22 =SVF.2.287 = LS.37L クリュシッポス:…では今度は大いに驚くべき「包装」の論を聞きたまえ。ときに、応えてくれたまえ、君は君自身の父親を知っているかね? 顧客:あぁ知ってるよ。 ク:ではどうだろう?さあ、君の近くに誰か包装された人が立っている時に、私が「君はこの人を知っているか?」と訊ねたら?何と答えるかね? 客:もちろん、知らんと言うな。 ク:しかしそうすると、まさにこの人が君の父親だったとしたら、結果的に、この人を君は知らない以上、君が君の父親を知らないのは明かである。 Macrobius, Sat. 1.14.19 = SVF. 1.137  ゼノンは凝集した気息が魂であると言った。 Macrobius, Sat. 1.17.8 = SVF. 1.540 (Cleanthes)  クレアンテスは「あちらこちらと分岐をなして」つまり、その場その場で言い方を変えることによって論議をなした。 Macrobius, Sat. 1.17.31 = SVF. 1.542 (Cleanthes)  「解釈者アポロン」という綽名があるが、これはオエノピデスが言うように、「退出して、傾いた公周を沈み傾くことから上昇へと動かすことから来ている」、つまり、斜周を西から東へと進ませるからである。また、クレアンテスはこう書いている、「渦状に動いているので、つまり、それ自体が傾いている」、すなわち、いずれ傾く道を進むのである。 Macrobius, Sat. 1.17.36 = SVF. 1.541 (Cleanthes)  クレアンテスは、アポロンはリュキアと呼ばれていたと書いているが、それは、あたかも狼が牛を奪い去るように、アポロン自身も光線で水分を奪い取るからである。 Macrobius, 1.17.36 = SVF. 3 Antipater 36  アポロンにリュキアというあだ名があることについては我々は複数の原因を認めている。ストア派のアンティパトロスは、アポロンがリュキア(Lycia)と呼ばれることについて、「輝く太陽が全てを白くする(leukainesthai)ということから来ている」と書いたのである。 Macrobius, Sat. 1.17.57 = SVF. 3 Antipater 46  さて、これが龍の死に関する自然の理であるとストア派のアンティパトロスも書いている。つまり、それまでは湿っていた大地から蒸気が生じて、急速に回転する上天に登り、そしてそこで熱された後に、自ら、死をもたらす蛇の姿をとって地下世界に舞い戻り、熱と水分がなければ生じない全ての腐敗力を滅ぼして、分厚い闇で太陽そのものを覆い隠して、何らかの仕方でその光を除き去るように見えたのである。しかしついには、光の神々しい熱、あるいは、降り注いだ光の矢に散り散りに焼かれて滅び、こうして、アポロンに倒された龍の話となったのである。 Macrobius, Sat. 1.18.14 = SVF. 1.546 (Cleanthes)  ここからして、クレアンテスは、ディオニュソスというのはギリシャ語で言う「締めをつけて」というのと同義である、と書いている。というのも、東から西へと日々昼夜を作りなす動き(衝動)によって空の運行がまとめられているのであるから。 Macrobius, Sat. 1.23.2 = SVF. 1.501 (Cleanthes)  というのはつまり、ポセイドニオスやクレアンテスが明言しているように、太陽は燃えているといわれているが、その領域から退くことがないのである。その下には大海が巡っているからである。大海が大地を二分して分けているのだが。 Mantiss. proverb. (in paroemiogr. Gr. 2.757) cent. 1.85 = SVF. 1.561 (Cleanthes)   聞き方が悪い方が、言い方が悪いよりもましだ クレアンテスの言説である。 Marcian, Institutio 1 = SVF. 3.314 = LS. 67R(クリュシッポス『法論』)(Krueger, P., Corpus Iuris Civilis, Weidmann, 1954) III元老院・執政官及び長年の慣習による法規について  2すなわち、弁論家デモステネスも[法を]次のように定義している(第25『アリストゲイトン論駁』1.16)。「法とは次のようなものである。つまり、多くの理由で、それに万人が従うのがふさわしいものである。とりわけその理由というのは、全ての法は神*の贈物であり賜物だということである。次いで、[法は]思慮ある人々の意見として、[人々の]過ちを、それが意図的なものにしろ意図せざるものにしろ、矯正するものだからである。さらに、[法は]公共の規約としてポリスに備わり、ポリス内の全ての人々がそれに基づいて生きるのが本来ふさわしいことだからである**」  さてまた、ストアの最高の知恵の持ち主であるクリュシッポスは『法論』として書かれた著作を次のように始めている。「法は人間と神に関わる全ての事柄の王である。このものが立派な事柄と醜い事柄の守護者であり支配者であり指導者であるべきなのだ。それ故、このものは正しい事柄と不正な事柄の規範であり、なすべきことを自然本性において政治的な生き物に命じ、なすべきでないことを禁止するものであるべきなのだ***」  *デモステネス自身の原著作では「神々」  **典拠注にあるラテン語訳  ***どういう意図かHercherはかなり異なる校訂をしている。また典拠注のラテン語訳 参考 Marcianus,Institutio 1 I正義と法について  12しかし血縁のために我々はこのように言うこともある「私には家族としての、あるいは夫婦としての法がそなわっている」と。↓ (上記デモステネス・クリュシッポス断片)↓ Marcianus,Instituo 1  (I正義と法について)8すなわち、賜物としての法そのものもまた市民法の生きた声なのである。 Maximus Conf., Floril 6 = SVF. 1.236  農夫は、植物から沢山の立派な果実を収穫しようとして、それらのためになるものを自ら与えありとあらゆる仕方で配慮し世話をする。しかしなおより一層、人間は利益になる人々に好意を抱くように本来なっており、こうした人々のために最も努力するのである。そしてこれは何ら驚くべきことではない。なぜなら、体のああした部分でも、仕事のために我々に役立つと認められるかぎりのものは我々もより配慮するからである。そこからして同様に、それを通じて我々が物事をよく受動する器官も、理にではなく働きそのものに有益なものであるべきなのだ。というのも、オリーブの木もそれを世話する人に有頂天になることなく沢山の立派な実をもたらして、彼の言うことを聞いてもっと気を払われるようにするからである。 Maximus, serm. 26 (Boissonade Anecd. Gr. 1.450) = SVF. 1.326  ゼノンの言説。人たるもの、ただ飲み食いするためではなく、人生をよく生きることに十全に振り向けるために生きよ。 Michael in Eth. Nicom.(CGA v.20) 583.20 Heylb.=SVF.3.17(幸福の資格)  他の哲学者たち、つまりエピクロス派と後のストア派の人々による幸福についての理解に従うと、人が理性をもたない動物どもをも幸福に与らせることができる…この理解を通じて人は[幸福を]ものにできる。…もし、自然に従って生を送ることがストア派における善く生きることであり、彼等自身の下でもエピクロスの下でも善く生きることが幸福なことであるなら、自然に従って生きることが幸福であることなのだ。しかしその半面、生まれてから盛年まで自然に従って生を送るということは理性のない動物にも備わる。従って、理性のない動物も幸福でありうる。 Michael in Eth. Nicom. 599.6=SVF.3.17  またさらに、もしストア派によると幸福であることが自然に従った欲求の終局目的であるとしたら、自然がそれを通じて達成する目的は空疎な善であり、それがあったところでせいぜいで自然は親近な善そのものを自分の下に保って損なわないことぐらいしか欲しないので、こんなことは理性のないものどもにも備わっていることと合わせると、理性のない動物も幸福に与ることになる。 Minuc.Felix,19.10=SVF.1.154  日中は天空が万物の原理であると。 Minuc. Felix, 19.10 = SVF. 1.160  ゼノンは理性を神と呼んでいる。 Minucius Felix, Octav. 19.10 = SVF. 1.162  ゼノンは自然の神的な法を…万物の原理である[と言っている]。 Minuc.Felix,19.10=SVF.1.169  同じ彼は、ユノを空気と、ヨヴを空と、ネプチューンを海と、火はヴルカンと解釈しつつ、またその他通俗的な神様を似たような具合にそれらは元素であると示しながら、印象深く公言し虚偽を論駁している。 Minuc. Felix, 19.10 = SVF. 1.532  テオプラストス、ゼノン、クリュシッポスそしてクレアンテスは、彼等自身は色色とことなることを言ってはいるが、全員が一つの摂理に向けて回転している。つまり、クレアンテスは方や精神と、方や魂と、方やアエテルと様々な仕方で神を論じている。 Minuc. Felix, 19.13 (see Ioppolo (1980) p.89)  つまり、ソクラテスの徒・クセノポンは、真の神々の姿形は見ることができず、そのために探究は無駄であると言ったが、ストア派のアリストンは神は全く「把握不可能」だと言った。両者とも、神の偉大さを知識で捉えようとして、絶望を感じたのである。 Minuc. Felix, Octav. 34.2 = SVF. 2.595  つまり、ある賢人はこういぶかっている。誰が無知なものか。全て産まれ生じたものは潰え、全て作り出されたものは滅びるのであるということを、と。宇宙も、その中に含まれている全てのものと同様に、泉の甘い水が海を養おうと欲したように始まって、火の力に逢着するのである。そして、それがストア派の人々の一貫した主張なのだが、水が枯れ果てると、この宇宙全体は燃焼するのである。 Minuc. Felix, Octav. 37 = SVF. 3.576  なんと麗しい姿が神にあることだろう、キリスト教徒が苦痛と戦う時、迫害や刑罰や拷問に立ち向かう時、死の雑音や死刑執行人の恐怖を嘲笑して踏みつぶす時、自分の自由を王や執政官に対抗して掲げ自分の神だけにへりくだる時、自分の言うことに反対の発現をする者を征服者や勝利者が踏みにじる時。なぜなら、勝利するのは望むものを手に入れる者だから。 ネメシオス『人間本性論』 Nemesius, NH 2 (33) = SVF. 1.137  クリュシッポスはこう言った。死とは、魂が肉体から分離することである。さて、物体でないものが物体から分離されるということはない。なぜなら、非物体と物体は関わりを持てないからである。しかし、魂は肉体と関わりを持ち、これから分離される。故に、魂は非物体ではない。 Nemesius, NH 14(96) = SVF.1.143  ストア派のゼノンは魂を8部分であると言っており、つまりそれを指導的部分、五感、音声に関わる部分、生殖に関わる部分、に分けている。 Nemesius,De Nat. Hom. cp.19=SVF.3.416  苦痛の種類は4つである、つまり苦渋、重苦、嫉妬、同情。苦渋は声も出なくなるような苦痛である。重苦はのしかかる苦痛である。嫉妬は他人の被った善いことに対する苦痛である。同情は他人の災悪に対する苦痛である。さて、苦痛は全てその本性上悪いものである。というのは、高貴な人々が破滅したりや子供達が夭折したり国家が滅びたりしたらその時は優れた人も苦痛を感じるであろうが、そうだとしてもそれはどちらかと言えば望ましいことではないのだから。意図に関してではなくて状況に照らしての話ではあるが。そして、このようなことに際しては観想的な人ならば無情であり、こうしたあり方をする事柄から全く自分を疎遠にさせむしろ神に近づけるであろう。しかし他方、優れた人ならこうした事柄に際して中庸の感情をもち、過剰になることなく、こうしたものに隷属されることもなくむしろそれらを支配するであろう…  (20)彼等は恐怖も6つに分割している、つまり躊躇、廉恥、恥辱、狼狽、葛藤、驚嘆に。躊躇は未来の行動に関する恐怖である。狼狽は重大な表象から生じた恐怖である。驚嘆は見慣れない表象から生じる恐怖である。葛藤は破滅、つまり失敗に関する恐怖である。なぜなら、行為を失敗するのではないかと恐怖する人々が葛藤するのだから。廉恥は非難を予期することに対する恐怖である。しかしこの感情は最も麗しいものである。恥辱は醜い行為に対する恐怖である。しかし、この感情は安全だろうという希望を抱かせないものではない。この点で廉恥は恥辱とは異なっている。つまり、したことに恥辱を感じている人は落ち込む。他方、廉恥心を感じている人は何らかの不評に陥ることを恐怖しているのである。さて、古人たちはしばしば廉恥心を恥辱と呼んでいるが、ひどい用語法である。恐怖が生じるのは冷却に際し全ての熱が心臓へと一まとめに指導的部分に集中する時であるが、それは丁度民衆も恐怖に陥ると指導者の下に逃げ込むのと同様である。しかし、苦痛を感じる器官は下腹部の胃である。つまり、これが苦痛において刺激痛を感じるのである。それはガレノスが論証の第3で言っている通りである。…  (21)義憤は心臓付近の血の煮え立ちで、胆汁が燃え上がることや?から生ずる。だから、胆汁が煮えくり返ることも立腹と呼ばれることがあるのだ。ある時には、義憤が報復への欲望であることもある。なぜなら、不正をなした者や不正をなしたとみなされる者に我々は義憤を感じるのだから。そしてその時に生ずるのは欲望と義憤の混合した感情である。義憤の種類は3つである、つまり激怒(これは腹立ちや立腹とも呼ばれる)、敵意、怨恨である。義憤は始原と起動力をもっているので、激怒や腹立ち、立腹とも言われる。敵意は争いごとに向けて引き起こされた怒りである。つまり、静観し記憶にゆだねてしまうことに反するものと言われている。怨恨は復讐の機会をねらっている怒りである。これは落ち着くことに逆らうと言われている。さて、義憤は算段を守護するものである。というのは、憤激に値する出来事だと後者が判断すると、その時に義憤は密かに進み出るからである、それらが自然に即して固有の秩序を守る場合。 Nemesius, NH. 32 (2.118) = SVF. 1.518 (Cleanthes)  クレアンテスは次のような推論を組み立てている。彼はこう言う。人が親に似るのは、何も肉体だけではなく、魂に関してもそうで、つまり、感情・人柄・性状においても親に似るのだ。さて、肉体的には似ているが、肉体に関係ない点では似ていない、などということはない。ゆえに、肉体が似ていれば、魂も似ているのだ。ところで、まず最初に個々の部分があって、それから全体が作り上げられるというのではない。これに加えて、物体に属しないものだからといって即虚偽のものだということにはならない。というのも、同じ約数を持つ数は互いに似ていると我々は言うではないか。例えば、6と24は、そういう意味では似ているのである。そうするとつまり、6の約数は2と3である。また、24のそれは4であり6である。そして、2と4の関係は3と6の関係と類比的である。二倍という関係が見て取れるからである。言うまでもなく、4は2の二倍で、6は3の二倍である。数というのは物体ではない。また、図形同士が相似であるのは、角が等しく、角の側の辺が比例している場合である。図形も、それ自体は物体でないが、類比には与っている。さらに、場所の特質にも似ている似ていないということが言えるし、性質にしてもそうである。性質というのは非物体である。したがって、非物体なもの同士が似ているということもある。またさらに彼はこうも言っている。ただし、非物体が物体と同じ状態を被るということはないし、その逆もない。しかし、肉体が病気になるのと同時に魂も同じ状態になるということはあるし、魂が切られるのと同時に肉体もそうなるということもある。事実、魂が恥じると顔が赤くなるとか、恐怖に陥ると青ざめるとか、そういうことがある。したがって、魂は物体なのである。 Nemesius, NH. 38 = SVF. 2.625; 1.109  ストア派の人々が言う所では、惑星は高さも幅も同じ特徴に戻るのだが、そこがあらゆるものの始源であり、そこで宇宙の最初の状態が形成され、こうして時の明らかな回帰の中で事物の大燃焼と崩壊が作り出されるのである。つまり、再び最初から、同じ宇宙へと回帰するのである。星々も再び同じように運行するし、かつての時の周期の中で生じたあらゆることが全く変わりなく成し遂げられる。つまり、再びソクラテスやプラトン、あらゆる人々が身内の者や、友人、同胞市民達と一緒になるのである。そして、彼らは同じことを体験し、同じことをなして、全ての国家、町や広場も同じ状態に戻るだろう。しかも、万物の回帰は一度きりではなく、何度も起こる。それどころか、無限に、終わることなく同じことが回帰するのである。また、神々は崩壊にさらされないので、ある周期が巡るのと共に滅びるということはなく、次の周期の中で生じるであろう全てのことを、今この周期から知っているのである。というのも、かつての周期の中で生じたことと似ても似つかないことは何一つなく、全てが、最も瑣末な事柄に至るまで、何も変わらず同じようにあるのだから。 オリムピオドロス 『プラトン『アルキビアデス第1』注解』 Olympiodorus,In Plat. Alcib. 2.54=SVF.3.489  というのは、…3つの浄化法があるとすべきだから、つまりピタゴラス的なそれ、ソクラテス的なそれ、逍遥派的あるいはストア派的なそれが。そして、ストア派は反対のものによって反対のものを治癒する。つまり、一方憤怒には欲望をあてがってそうしてこれを和らげ、他方欲望を憤怒によって導いてそうしてこれを強めより男らしいことへと導き上げるのである。これは、歪んだ棒にそうするような方法であって、それを真っ直ぐにしようとする者は反対の方向にねじ曲げるのだが、反対に曲げることから均整が回復されるようにそうするのである。同様に、魂の場合にもこのような方法で調和を作り出そうとするのである。 Olympiodorus,In Plat.Alchb.Pr.55=SVF.3.618  第三に、ストア派の大言壮語に従うと統治に適した人、つまり統治のすべを知る者だけが統治者であるということがある、たとえ統治の知を生かすための機構をもっていないとしても。また、賢者だけが裕福であるということがあるが、これは知者がその場にある富を使えるということである、たとえその場に何もなかったとしても。 Olympiodorus,In Plat. Alcib. Pr. 214=SVF.3.302(徳の相互随伴)  諸徳が相互に随伴し個別性において異なるということについて。すなわち、それらは一つ一つとしてではなく全部がある人には勇敢に、別の人には節制にあるのである。丁度、神々も全員がゼウスにはゼウスらしく、別の神にはヘラらしくあるようなものである。つまり、神は誰一人限定を受けないのである。また、アナクサゴラスが「全てのものに全てがあり、一は多化する」と言ったようなことを神々の事柄においても我々は見るのである。つまり、徳全体が思慮であるのはそれはなすべき事柄を心得ているという意味でである。全体が勇気であるのは戦うものという意味でである。全体が節制であるのはより善い状態に導き上げるものという意味でである。全体が正義であり、行為する人々にふさわしいものを配分する限りにおいてである。 『プラトン『ゴルギアス』注解』 Olympiodorus, In Plat. Gorg.12.1 = SVF.1.73; 1.490 = LS. 42A(『ゴルギアス』462b pragma ho pheis su poiesaiへの注)  さて、クレアンテスが言うには、技術とは方法に従って万事を成し遂げる性向である。しかしこの定義は完全なものではないし、実際自然もまた方法に従って全てを作り出す性向なのである。それだからクリュシッポスは「表象を得て」という句を加えてこう言ったのである。つまり、技術とは表象を得、方法に従って物事を成し遂げる性向である、と。さてそうすると、弁論述はこの定義に当てはまることになる。それは方法と秩序をもって遂行される性向なのだから。しかるに少なくともそのようにして*弁論家はまず序詞を使うものである。それから、前言を述べ、本題に入るであろう、連続した言葉によって秩序を気遣いながら。しかし、ゼノンが言うところでは、技術とは人生の内にある事柄の内何か有益な目的へに向かって共に働く諸々の把捉からなる構築物である。 *底本にはou{toとあるがou{twの間違いではないだろうか。 『プラトン『パイドン』注解』 Plutarchus qpud Olympiodorum in Pl. Phaedo. (125.7 Finckh) = SVF.2.104  探究あるいは発見が一体可能であるのかという問題が本当に難しいものであることは、『メノン』(80e)に示されている通りである。つまり、我々が既に知っていることは、できない。第一それは無駄なことである。我々が知らないことも、できない。なぜなら、たまたまそれに遭遇したとしても、それに遭遇したということに気付かないだろうから。…ストア派の連中は自然に備わる内在観念にその原因を求めている。しかるに、それらが可能態にある時には、我々はまさにそのものを問い尋ねるのである。他方、それらが実現態にある時には、我々が既に知っているものが何によってあるのかということを探究するのである。しかし、それらのうちには知らないものも他にあるというのであれば、我々が知らないものを一体どうやって知るというのか。 Olympiodorus, Prolegomena p.14.18=FDS.30  我々は論理学が哲学の部分か道具かということを探求している。そこで知る必要があることは、この学について相異なる思想が生じたことである。ストア派の人々はそれを部分と考えたが、逍遥派の人々は道具と、神のようなプラトンは部分であり同時に道具でもあると考えた。…  (14.28)さて、ストア派の人々は2つの試論によって彼等独自の思想が説得力を持つよう意図したのであるが、その最初のものはこのように導かれる。何らかの技術や知識が用いるものは全て、もしそれが他の技術や知識の部分あるいは部門でないならば、その使用する技術や知識の部分もしくは部門である。例えば、次の典型例に示されるとおりである。養生法は医術の部分だが、何ら他の技術や知識の部分でも部門でもない。故に、養生法は医術の部分であり、この技術だけがこれを用いる。(15.1)さてまた、哲学が論理学を用い、他の技術や知識はこれを用いないとすれば、それ故論理学は哲学の部分あるいは部門である。さてしかし、部門ではない。故に、部分である。この議論に「もし他の技術や知識のでないならば」と加えられているのは天文学に鑑みても、よろしい。というのは、恐らく天文学は、操舵術がこれを用いる以上、その部分だからである。これはアラトスが大熊座について語る際に明らかにしている。   シドン人達もが真っ直ぐに漕ぎ出していくことから(Phaen. 44) 操舵術が予め哲学の部分となっていない限りはこうなるのである。つまり、天文学は観想の下に帰するのであり、観想は数学の下にそうするのである。さて、彼等の試論はこのような仕方で進むのだが、これを反駁することは容易に短い議論でできる。…(15.23)第2の議論は次のように進む。論理学は哲学の前に置かれる。何かの前に置かれるものは前に置くものの部分である。故に、論理学は、哲学の前に置かれる以上、その部分である。しかし、この議論は虚偽の前提に基づいている。… パピルス Pap. Herc. 1020 = SVF. 2.131 = FDS. 88  (col.4n=Ox Nd)性急でない同意と注意深さを我々は讃えるので、それと反対のものに非難を加えるのは正しい。さて、性急でない同意とは、把捉に至っていない状態で同意を与えることがない性向、しかし…においては把捉的表象に同意できる性向であり、表象において力を有し、把捉的でないそれには引きずられないままでいられる。つまり、同意に当たって性急でない者は把捉的でない表象に引きずられないでいられねばならず、表象において力を有さねばならない。そして、把捉的でな表象に引きずられず、…ただ単に表象に従うということがないために同意に力を有せるように、そうせねばならない。  (fr.In=Ox La)先に挙げたこのような人々。洗練された人々が実在し得ないということには何の関係もない。そのわけは、思うにそういう人に至ることは不可能ではないし、なかなか振り落とされない御者もそうであるように、到達不能であるほどに並外れた苦労を強いるものであるからである。そのような意味でこう言われる。「徳の前には汗を神々は置きたもうた」(ヘシオドス『仕事と日々』291)さて、賢者は思惑しないということからはさらに多くのことが帰結すると我々は言う。それは次のようなことである。まず第一に、思惑を抱くということが賢者には決してない。なぜなら、思惑するということは把捉的でない思惑ということだからである。また、賢者は決して信じ込まない。なぜなら、信じ込むことは思惑することというよりも…でない思惑そのものだからである。…しかし、…と言われる…  (fr.IIn=Ox.Lb)決して論駁されないということも優れた人々の特質である…説得されて意見を変えるということもないし、同じ理由でこの人は何事も変節することもないし、彼等の誰一人として聞き違いも考え違いもしないだろう。というのも、この人は虚偽を受け入れてはならないからである…さらに、こうしたことに整合することだが、自らが計算をごまかすこともなければ、他人にごまかされることもない。またこうしたことに加えて、見間違えることもなければ聞き間違いをすることもないし、他の感覚器官においても…なぜなら、見間違いをする人は視覚において虚偽の表象を得ているのであり、それを承認しているに違いないから…誰も騙されない以上…  (fr.IIIn=Ox.Lc)秩序…というのも…に基づいて彼等に…他の多くの技術を持つこともないだろうしそれらに入門することもないだろう。しかし、彼等が見間違いをしているとか、無術な状態にあるとか言うべきではなく…先述のを、…を…人々…何らない…他の…というのも、方や変わりやすい思惑が…であり…何も不可能ではない…  (Ox Ld)しかし…整合的なのは賢者が無知ではないということである。これらから次のような類似点も生じてくる。さて、既述の事柄に従うと、劣悪な事柄は思慮ある人には関係がないであろうが、中間の事柄はそうではない。後者は理に適った生を送る人々に過誤を引き起こすことなしに生じるからである。つまり、憶測、無知、不信、これらに類似のものは劣悪なものであるが、無術、見落とし、計算違いは中間のものに…計算間違いをすること…虚偽の…劣悪な人全体のも。このこと故に…も…非常に…な人々に…差異。  (Col.1=Ox.Ma)*さて、こうしたことにさらに一層整合することだが、賢者は決して欺かれず、過誤を犯さず、価値に即して生き、万事をよくなすのである。それ故に、同意に際しても賢者が変節しないのはどうやってかということも分かるし、彼の注視は把捉をより一層伴って生じるのである。というのもまず第一に、哲学とは言理の正しさに関する営為または知識であり、あるいは何よりも言理に関する活動だからである。つまり、言理の諸部分やそれらの秩序に関わっている場合、我々は経験に即して言理を用いるだろう。ここで「言理」というのは本性上全ての理性的なものに備わっているもののことである。しかし、弁証術とは正しく弁証(問答)することに関する知識であるというのが我々の理解だとすると… *この欄はアルニムとヒュルザーではかなり違う。  (Col.2=Ox.Mb)というのも、もし弁証することに十分能力のある人がいたとして、その人が問答において才覚がないというのは信じがたい。また、問答において最悪がある人が論議に打ち勝つことも逃げを打つこともできないというのも信じがたいし、欺かれかねない人が論議に勝ったり逃げを打ったりできるということもそうである。…この人は問答において十分な能力を持っていなければならない。他方、問答において十分な能力のある人はよく議論を導き、よく受け答えできる人でなければならない。また、欺かれるであろう人々に互してはならないし、言論において自ら何か大変な研鑽を積むべきならば、いくら正しく答えるといっても自分が虚偽や性急さを持ってそうしてはならない…最小限の理論の追求の…  (Col.IIIn=Ox.Mc)欺く仕方によるのは、反論する際に十分な問答の能力を有するような誰か他の人がいて、打ち負かされえないとか、自分が打ち負かされ得ないように留意していられるとか、そういうことでない場合である。つまり、こういう人は真実を語りつつ彼等に反論し、彼等は虚偽を語る人々の方に退散していくであろう。しかし、論駁され得ない善い人々もいるのであり、彼等は自足的に命題を把捉でき、損なわれた議論に対抗する論拠を提供し、反対者に強力に対峙する。つまり、彼等は論駁に動じない者でなければならず、同意を下す際には反対者に対して壁を張り巡らした状態でせねばならない… Fragmenta Herculanensia ed. Scott p. 271 (Pap. 19-698 Scriptor incertus peri; aijqhvsew" col. 15) = SVF. 1.407 (Apollophanes) …時間によって、感覚は個別の事態を判断し、あるいは記憶に与る。しかし、アポロパネスはもっともらしい理論に欺かれて、記憶までも感覚そのものに帰してしまって困惑し、他方、記憶が類推能力にも与るという見解も受け入れたのである。その結果、感覚によって判別知覚をなす余地がなくなってしまい、まるである活動を保持するために他の活動を切り捨てねばならないようになったのである。 Philargyrius ad Verg. Georg. 2.336 = SVF. 1.108  ゼノンによると、この世界から何がどれだけ滅び去ったところで、それでも世界そのものは永遠に残る。要素が世界には内在していて、それによって質量が生じるのであるから。彼が説いたように、それは産まれ生じたものではあるが滅び去ることはなく、存続し続ける要素から復活するのである。 ピロポヌス 『アリストテレス『分析論前書』注解』 Philoponus, In Ar. An. Pr. p.6.19 = FDS.29  続いて探求すべきは、論理学と弁証学が哲学の部分なのか道具なのかということである。この学については異なる正反対の見解が古人の下に抱かれているからである。つまり、ストア派の人々は率直にこの学は部分であると明言し、この学を哲学の他の2つの部分に対峙する形で分割している。他方逍遥派、つまりアリストテレス派の人々は道具とする。また他方、アカデメイア派の人々は、その中にプラトンも含まれるが、明らかに部分でありかつ道具でもあると言っている。そして、ストア派の人々は何か以下に挙げるような論議で、論理学が哲学の部分であるという見解を構築しているのである。彼等は言う。何か技術や知識が従事するものは、もしそれが別の技術や知識にそれらの部分や部門として関わらないのなら、前者の技術や知識の部分あるいは部門である。ところで、哲学が論理的な方法に従事し、それが他の技術や知識に部分や部門として含まれないとすれば、それ故、論理学は哲学の部分もしくは部門である。さて、部門ではない。なぜなら、論理学は観想学の部分でもなければ実践学のそれでもないからである。つまり、何かの部門はそれが部門として属すあのものと素材や目標を共有するからである。さて、実践学とは共有していない。というのも、この学の素材は人間に関する問題事項、つまり適正感情であり、目標はこれらに関していかに選択しいかに忌避するかという問題であるから。しかし、論理学が備える素材は命題であり、目標は、連続する命題のこうした総合からどういう帰結が必然的に証明されるかという問題である。これが実践学の目的ではなく、実践学の目的はむしろ、私も言ったように、適正感情あるいは端的な善である。そしてそうすると、論理学は実践学の部門ではない。しかし、観想学のそれでもない。なぜなら、この学の素材は神的問題であり、目的はこうした問題の観想なのだから。さて、観想のそれでもなく実践のそれでもないとすれば、それ故哲学の部門ではない。すると残るのは、論理学を観想学と実践学に対峙する仕方で分割することであり、哲学の部分とすることである。このようにストア派の人々は論じるのだ。 Philoponus, Ad Ar. An. Pr. f. 42b = SVF.2.202a  というのも、「このもの」というのは、直示的であって、何か存在するものを指し示すが、死んでいるということは存在しないということである。さて、存在するものが存在しないというのは不可能である。すると、「この人は死んだ」という表現は不可能なのである。 『アリストテレス『自然学』注解』 Philopon., Ar. Phy. 613.23 = SVF.96  しかし、空虚は物体の中にばらまかれているのではなく、物体は連続しているが、宇宙の外には空虚がそれだけで存在している。これは何よりも、多くの人々が表象する通念によると宇宙の外には何か無限の空虚が在るというのと同様のことであり、また、既に言ったように、ピタゴラスもそう言ったのである。キティオンのゼノンの学徒達もそう考えたと言われている。 Photius, s.v. leschai = SVF. 1.543 (Cleanthes)  クレアンテスの言う所では、会同がアポロンに割り当てられて、議会に似たものが生じるのだ。アポロン自身を議長と呼んでいる人々もいるということだ。 Phot., Lexicon s.v. mentoi = SVF. 2.24  「無論」(mentoi):mentonという表現をクリュシッポスも用いているが、これは正書法に適わない表現である。 Plinius, Not. Hist. 25.103 = SVF. 2.737  哲学者クリュシッポスは「お札」という名の動物を第四の治療法として付け加えた。しかし、これがどんな動物なのかということをあのお方は明らかにしてくれなかったし、我々も発見者が誰か分っていない。しかしながら、これが重大な権威をもって語られたとすれば、論証をせねばならない。探究に際してはこのような配慮がより有効なのである以上。 Polyaenus 6.5 = SVF. 1.444 (Persaeus)  アラトスは牢獄を備えたアクロコリントスを征服した。この牢獄はアンティゴノス王が造ったもので、守護として哲学者ペルサイオスと将軍アルケラオスが王より任命された。…哲学者ペルサイオスは城塞が掌握された時にケグクレアに逃れ、そこからアンティゴノス王の下に赴いた。 Probus ad Verg. Ecl. 6.31 (10 Keil) = SVF. 1.102; 496  それだから、彼(ヴェルギリウス)はこう言っている、事物の本性にそなわるこうした全ての形態はまず希薄な大量の空虚の中に散らばっていて、それが四つの原素に凝集し、これらから、それらに続く全てのものは作り出されたのだと、キティオンのゼノン、ソロイのクリュシッポス、アッソスのクレアンテスは説いている*。 *原テキストには明らかな誤記があるらしい。 Valerius Probus in Virg. Ecl. 6.31 (21.14 Keil) = SVF. 1.103  元素を単一の要素で表した人々がある。…ミレトスのタレス、彼[アナクシメネス]の師であるが、は水がそれであるとした。しかし、タレスのこの見解はヘシオドスに由来すると言う人々がいる。ヘシオドスはこう語ったのである。「まず原初に混沌が生じ、しかしてその後のものが」こう言ったのは、キティオンのゼノンがこの句をこう解釈しているからである。水が「混沌」と言われているのは、「注ぎ入れられる」ということから来ている。しかしながら、同じ思想をホメロスから理解することも可能である。ホメロスは「オケアノスと母なるテテュスは神々から生じた」と言っているからである。 Pseudo Scymnus v. 10 = SVF. 3 Diogenes B. 11   生っ粋のアテナイ人で読み書きを好むある者が   ストア派のディオゲネスの聴講生になり   アリスタルコスと共に長年学び   トロイア陥落の後も共に進み   今に至るまで年々隊伍を組んだのである Rufus Ephes., De Part. Hom. 44 Clinch = SVF. 1.127  熱と気は同じものであるとゼノンは言った。 Anonymi techne ap Spengel Rhet. Gr. I. 434.23 = SVF. 1.83  ゼノンはこう言っている。叙述とは、基となっている事柄を、字面を越えた表情を持つよう、流れるように表現することである。 ibid. 1.447.11 = SVF. 1.84  さて、ゼノンはこんなことを言っている。範型とは、既にあった事柄を今追求している事柄に似せて思い起こすことである。 Rutilius Lupus, De Figulis 1.6(p.10.1-4 Brooks) = FHSG.538D  「交替」…同様に、テオプラストスが言ったと言われているように、思慮者の義務は吟味済みの友情を希求することであって、希求を吟味することではない。 Salvianus De Gubern. Dei 1.3 = SVF. 2.1043  プラトンと全てのプラトン派学者達は、神を森羅万象の支配者だとしている。ストア派の人々は、神は世界を運航するために世界の内部にいるとしている。つまり、 Schol. in Hom. Iliad. L 115  柔弱な彼の心をも取り去った:同様に、アリストテレスとアンティパトロスが言う所では、医者は肉体と共に魂を増大させ、再び混ぜ込むのである。  この詩句がストア派の人々を動かし、それでアンティパトロスも「霊魂論」第二巻で、魂は肉体と共に増大し再び混ぜ合わされる、と言ったのである。 Sopater, In Hermog. De Statibus, Rhet. Gr. 5. p.15.10.Walz=FDS.47  弁論術の異なる定義も古人たちから我々に伝えられている。…ストア派の人々はこれを弁証術に対応するものと呼んでいる。 Stephanus,Fragm. Comment. in Aristot. Rhet. 3.p.325.13 Rabe=SVF.3.585  ストア派の人々が幸福と言うものはプリアモスのような不運をも受け入れる。 ストラボン Strabo XIV p. 674 = SVF. 3 Archedemus 1  この地(タルソス)出身の人物はストア派だとアンティパトロス、アルケデモス、ネストル、そして両アテノドロスがいる…… シュリアノス『アリストテレス『形而上学』注解』 Syrianus, In Aristot. Metaphys. (Aristot. Acad. V.841a) = SVF. 2.308  他の残りのものを作り出す原因はそれ自体としては質量から不可分である、後にはストア派の人々がそう言い、彼[アリストテレス]の前にもそう言う他の人々がいたように。 Syrianus, In Ar. Met. 28.18 = LS. 28G  ストア派の人々も共通性質を個別性質の前においた。 Syrianus, In Ar. Met. 104.17 = SVF.2.361 = LS.30G  しかし、[知識は]個別のものごとには関わらない。それが、ヘラクレイトスの言葉にあるように、全面的に流動しているにせよ、プラトンがそう主張したように、常に生成消滅しているが、それら全体としては類的な原因によって持続しているにせよ、アリストテレスが常々そう言っていたように、それらを「何か在るもの」と呼ぶとしても、ストア派の人々が言うように、それらだけが在ると言うにせよ。しかしながら、知識が原子に関わるという点は全ての人々に放棄されている、感覚のことを知識という習慣の人でもいない限り。 Syrianus, In Ar. Met. 105.21 = SVF. 2.364 = LS.30H  それ故、形相がこの神のごとき人々の下にもたらされたのは日常言語に役立てるためではなかった。ところが後にそう思ったのがクリュシッポス、アルケデモスと大部分のストア派の人々なのである(つまり、ものそのものに関わる形相は日常語の中で語られるものとは多くの違いで隔たっている)。また次のためでもなかった… Syrianus, In Ar. Met. 892b14-23 = SVF. 1.494  したがって、こうした神のような人々によると種は言葉の慣用の方に逸れるのではなく、また、クリュシッポスやアルケデモスやストア派の人々の大部分が後にそう考えたように(習慣に基づいて語られる事柄にそれ事態としてある種には多大な際があるというので)、名高い「言素」と類比的に、思惟に伴っているというわけでもないし、ロンギノスが使節として論じるのを選んだようなものである。というのも、全部が思惟に伴っているというわけではないのであるから。こうして伴うものは実体のないものであるというのは事実だとしても。一体、同じものが思惟されうるものでありつつも[単に]思惟に付き従うものでしかないということはいかにして可能なのか。実際、彼等によるとイデアは単なる思考の産物でしかないではないか。後にクレアンテスはそう述べたのであるが。 タティアヌス 『希臘人論駁』 Tatianus, Adv. Graec. 3 (143 C) = SVF. 1.159  彼によると神は災悪の制作者でもあるということは論証されうるのだ。つまり、ドブの底、蛆の足、愚劣な連中の足のうらにまで浸透しているというのだ。 Tatianus, Adv. Graec. 5 = SVF. 1.109  ゼノンの唱えた説では、大燃焼を経て同じことが再び同じことに生じるのである。つまり、アニュトスとメレトスは訴えを起こし、ブシリスは外賓を殺め、ヘラクレスは再び苦行をなすというのだ。こんな説は退けねばならない。 テルトゥリアヌス 『霊魂論』 Tertullian, Ad Nat.2.2 = SVF. 1.171  ゼノンは自然はこのものの似像であると主張する。 Tertullian, Ad Nat. 2.4 = SVF. 1.155  実に、ゼノンもまた、世界の質量を神から分離し、あたかも蜜が蜂の巣の中に行き渡るように、神が世界の質量に行き渡っている、と言っている。(岩崎允胤訳) Tertullian, De An. 5 = SVF. 2.773  さて、ストア派も取り上げておこう。彼等は気息(精霊)を魂と呼ぶ点ではほとんど我々に近いが(というのも、気と気息は互いに極めて近いからである)、しかし、魂を物体と言い張っているのは安易である。 Tertullian, De Anima 5 = SVF. 1.137  さらに、ゼノンは魂を「まとめあげられた気息」と定義して次のように説いた。彼はこう言う。「退却すると生物が死ぬものは、物体である。さて、散在する気息が消え失せると生物は死んでしまう。故に、生物に散在する気息は物体である。さてまた、散在している気息とは魂のことである。故に、魂は物体である」 Tertullianus, De An. 5 = SVF. 1.518  クレアンテスの主張でも、肉体の特徴だけでなく、魂の特徴についても、親に似た所が子に鏡写しに繁栄されるのである。つまり、性格、才能、感情についてもそうだというのである。しかし、肉体上は似た所も似ていない所も見受けられる。それで、肉体と同様に魂も類似や相違の元となるのである。また同じように、物体が受ける状態と物体でないものが受ける状態とは相互に[直接の]交流がない。さらには、魂は肉体と共に物事を被るのだが、肉体は打撃や傷や腫物で傷つけられて痛み、害を被った際にはその力を共に受けるのだが、この力が苦痛を与え混乱させていることは顔色が赤くなったり血の気が退いたりすることで確かめられる。故に、魂が肉体と交流しているのは、何か物体的なものを通じてなのである。 Tertullianus, De An. 5 = SVF. 2.791  しかし、クリュシッポスは彼(クレアンテス)に喧嘩を売って、こう論じたのだ。物体が非物体から離れるということは全くありえない。なぜなら、前者が後者から影響を受けるということはないからだ、と。(後にルクレチウスもこう言っている。物体でなければ、接触することもされることも全くかなわないのだ、と)しかし、肉体から離れる時に、魂は死に見舞われるのである。故に、魂は物体である。物体的なものでなければ、それが肉体から離れるということはないからだ。 Tertullian, De Anima 6 = SVF.3.84  しかし、ストア派の人々が技術も物体であると断言しているのは立派なことである。 Tertullian, De An. 8 = SVF. 2.795  ソラヌスは言った。海の外では船は重くて動かなくなるということを理由にして、海は物体ではないなどと言う人々がいたらどうであろうか。そうすると、肉体は魂よりもどれほど堅固だというのか。つまり要するに、高々それだけの重さの物体が非常に軽く動きやすいものによって囲まれているだけなのである。 Tertullian, De Anima 10 = SVF. 2.784  どうであろうか。呼吸とは何であるか。思うに、自分の中から呼気を出すことである。生きるとは何であるか。自分の中から呼気を出さないことと考えてよいのだろうか。つまり、生きることと呼吸することが同じことでないのであれば、そう答えるべきであろう。しかし、死者は呼気を出すということをしない。故に、呼気を出すということは生者のすることである。またさて、呼気を出すということは呼吸する者のすることである。故に、呼吸は生者のすることである。あるいは、魂がなくても息をすることができるとしたならば、呼吸は魂のすることではなく、魂は[呼吸なしに]ただ生きているという[おかしな]ことになる。しかし、生きることは呼吸することであり、呼吸をすることは生きることでもある。それ故に、この私はこう言いたい。呼吸することも生きることも、生きているその何かに属している。それは魂である、と。… Tertullian, De Anima 14 = SVF. 1.144; 405 (Apollophanes)  さて、[魂は]部分に分けられているが、プラトンは二つに、ゼノンは三つに分けた。…さらに、クリュシッポスの場合は八つに、またアポロパネスの場合は九つに。 Tertullian, De An. 15 = SVF. 2.880 (Cleanthes)  プロタゴラスも、アポロドロスもクリュシッポスもこのことを知っていた。 Tertullian, De Anima 25 = SVF. 1.518 (Cleanthes)  どうだろうか、クレアンテスの証言によると、我々は魂が似ているということによって才能の点でも両親に呼応するものとなるのだが、もし我々が魂の種子から育ってくるのでなければ、一体どういうわけでそうなるのか。 Tertullian, De An. 25 = SVF. 2.805  …他ならぬこの人々が想定しているのはこういうことである。魂は両者どちらでもない。つまり、肉をこね上げて色をつけたものでもなければ、何かそうやって作ったものでもないのだ。むしろ、胎児の体の部分が集められたがまだ生きてはいない、そこに外から刻み込まれたものなのだ。性交によってある程度の精子が女性器の中に放たれると、自然な動きによって駆り立てられて、肉という単なる素材の中に入り込むのである。これが送り出されて、子宮の炉で湯気を立てて熱を放出すると、あたかも赤熱した鉄が同時に冷気にさらされたようにして、気の力に打たれ、生きる力をもぎ取って、声音を上げる。このようにストア派の人々は主張し、それはアエネシデモスと同じなのだが… Tertullian, De An. 43 = SVF. 2.768  ストア派の人々は、睡眠とは感覚力の分散だと言う。…もし、ストア派の人々にならって、感覚力の分散が睡眠だとするのであれば。 Tertull., De An. 46 = SVF. 2.1196  しかし、ストア派の人々も好む論法では、神は非常によく摂理を働かせて人間を教導してくれるのであって、卜占の技術や理論というある種の庇護に加えて、夢という形でも我々に教導をしてくれたのである。自然になされるお告げの代わりに特別に与えられたのである。 Tertullian, De Anima 54 = SVF. 1.147  実際、思慮のある魂を大地のあたりにまき散らす人々には呆れる。というのも、彼等はそうした魂が非常に優れた賢者に教育されているということを強調しているのだから。これほどまで異なる説を拝する学者先生方はどちらに赴かれるのであろうか。一体どうやって弟子達は教師達と意見を一致させてきたのだろうか。個々の意見がこれほど異なっているというのに。彼等の最終的な教義を受けた人々は、あるいはもっと、世界燃焼を経験した人々ならどうであろうか。残りの魂は奈落に落ちるというのだが。 Tertullian, De Anima 54 = SVF. 2.814  ほとんど全ての哲学者達は、皆一様に、魂は不死であると主張している。ピタゴラス、エンペドクレス、プラトンなどがこれにあたる。しかし他方、死去から宇宙燃焼までの間、長期間存続する[が永遠ではない]という人々もいた。ストア派の人々がこれにあたる。彼等の主張では、一部の魂だけが、つまり賢者の魂だけが、天上にある住居に移り住むのだというのである。…  かくして、賢者の魂は、かのプラトンによると上天に、アリウスでは空中に、ストア派によると月に持ち上げられるのである。…残りの魂は奈落に落とされる。  (55)さて、我々の永眠は上天にあるか…あるいはストア派のエンデュミオンとともに月のあたりにいるか、どちらかである。 Tertullian, De Carne Christi 12 = SVF. 2.845  思うに、魂の本性は感覚能力を持っている。なるほど、感覚を欠いた動物はいないし、魂なしに感覚をする生物もいない。…したがって、全ての物事について魂は感覚の作用を示し、しかも魂事態は全ての物事を感覚で感覚しはするが、性質を感覚しはしない以上、そもそも魂自らについて魂自身に割り当てられているのは感覚である、ということにはならないであろうか。では、性質について、自然の必然によって折々己に必然的に備わるものを知るのは一体どこからなのか。必然的に備わる性質を知ることがないとしたら。事実、このことの認識は全ての魂の内にある。つまり、自己認識のことであるが。この自己認識というものがなければ、いかなる魂も己を治めることなどできはしない。しかし何より思うに、唯一の理知的動物である人間は、算段し生きるということに定められており、これらが人間を理知的な動物にしているのである。これらのことが理知的なものとして、第一に備わっているのだ。さらに、人間を理知的動物にしている理知的なることがどのようなことであるのか、つまり、魂自らが己を理知的であると知らなければ、魂は自分自身を知らないということになる。 Tertullian, Adv. Hermog. 44 = SVF. 1.155; 2.1036  すなわち、ストア派の人々は、蜜が巣の中にそうするように、神が質量の中を貫いていると主張している。 Tertullian, Adv. Marcion. 1.13 = SVF. 1.154  彼等は神々を…ゼノンのように、大気であり天空であると呼んだ。 『護教論』 Tertullian, Apolog. 21.10 = SVF. 1.160  あなた方の哲学者の間でもロゴス、つまり言葉と理は宇宙の創造者になっている。このロゴスをゼノンは万物を秩序づけ、形成した創造者と規定している。また、ゼノンによれば、ロゴスは運命、神、ユピテルの意志、万有の必然性となっている。(鈴木一郎訳) ↓ Tertullian, Apolog. 21.10 = SVF. 1.533(クレアンテス)  クレアンテスも、これらすべてを霊という言葉にまとめ、それが全宇宙にみなぎっていると言っている。(鈴木一郎訳) Tertullian, Apolog. 47 = SVF. 2.1034  神は物体ではないと説く人々もいるし、プラトンの学徒やストア派のように物体だと言う人々もいる。…事実、ストア派の神は彼等の説く世界の外部に置かれていて、あたかも陶器をそうするように、外部からこの世界という膨大な素材をこねまわしているのである。 Tertullian, De Praes. Cup. 7 = SVF. 1.156  また、ゼノンの教説の中では質量と神が同一視されている。 テミスティオス Themistius, Orat. 2.27c = SVF. 3.251  また再び、放埒の点で王をピュティオスに比べることに賛成する人がいるとしたら、クリュシッポスとクレアンテス、またあの哲学の種族全体、彩色柱廊からの団体は君たちに賛同しないだろう、彼等は同じ徳と真理が人にも神にもあると言っているのだから。 Themistius, Orat. 8.101d = SVF. 3.54  クリュシッポスは口先だけは男らしいことを言っている。優れた人にとっては一日も、さらには一春も数年間と同じ値打ちをもつというのだ。 Themistius,Or. 8.108c=SVF.1.235  キティオンのゼノンも私には大いに気に入っている。善く従うことが洞察力に関わる一層王のような徳であることを示し、ヘシオドスの言う順列を入れ替えたのである。 Themistius, Or. 13.171d = SVF. 1.235  というのも、善く従うことが洞察力に関わる一層王のような[徳]であるとキティオンのゼノンが理解したのは正しかったからである。 Themistius, Or. 21.252b = SVF.1.17(?)  いつ君は借り手に引き渡されたのだ、キティオンのゼノンのように? Themistius, Or. 21 255a Hard = SVF. 334 (Aristo)  真理が血を流すことなく哲学の中で現れ輝き出したので、仕事を持つ全ての人々が利益を得ているのである。アリストンがクレアンテスを受け入れ、学友達と一緒になったのもその故である Themistius, Or. 23. 295d. = SVF.1.9  ゼノンについて公にされ、多くの人々にも讃えられていることだが、彼を『ソクラテスの弁明』がフェニキアから彩色柱廊に導いたのである。 Themistius, Or. 32.358 = SVF. 1.449 (Persaeus)  笑止千万だ。例えば、かつてキティオンのペルサイオスがアンティゴノスに貸しをつくったことがあった。つまり、ゼノンの小姓ペルサイオスはアンティゴノス王と共に住んでいた。さて、アンティゴノスはペルサイオスが膨れ上がって延々と、彩色柱楼の優雅だがぶしつけな言説をぶつぶつ言うのを聞いていた。つまり、ペルサイオスは、賢者は偶運に降伏せず苦とも思わず、それで何も損なわれず無情であると言っていたのだ。そこで王は、この若造の大言壮語を全部何とかして論駁しようとした。そこで、キプロスとフェニキアからの航行者を何人か連れて来させた。前もってペルサイオスにそう告げておくべきだったのであるが。そこでも王はまず船や航海、キプロスの軍隊、その他いかにも王らしい質問を尋ねては聞いていた。それから、じっと座って話を聞いていたが、同様にキティオンの国人たちもペルサイオスの話を聞いていた。しかし、航行者達はペルサイオスの話を聞いて急に暗い雰囲気になり、頭をうなだれて、あからさまにぞんざいな応答をしたので、この男の怖れを知らぬ心もまるでずたずたになった。そして、ペルサイオスは息詰まって必死になだめようとしたので航行者たちもやっと答えた。もううんざりだ。畑仕事をしている屈強な女を、エジプトの下らない泥棒に襲われるおしとやかなお嬢さま達と一緒にするのか。愛すべき若者を放り出すのか。財産も奴隷もなくなるのか。ペルサイオスの先導はやっぱりゼノンでありクレアンテスなのか、と。自然はこんな小言を持っているのだ。実際小言なんてものは虚ろで弱いもので、現実に裏打ちされていないのだよ、と。 Themistius, Paraph. Ar. de An. f.68, 5.3.16 (2.30.17 Speng.) = SVF. 1.145  つまり、彼等は魂を気息であると言い、また場所的に退出する動きをこれに帰するにも関わらず、その動きが再び戻ってくることには同意できなかった。しかるに、おぉ非常に優れた人よ、こういう議論はひどいものだし、彼等が教条に従って立てた前提にも整合していない。というのももし、物体が物体から退出するとしたら、それが入って来ないわけがあろうか。なぜなら、この事態は他の事柄において我々も見ていることであるから。例えば、場所的な事柄や入れ物に入れられている物事において。ところがしかしながら、ゼノンには弁解の余地も残されている。彼の言説では、魂は肉体に全体的に徹底して混合されており、魂が退出するのは混合されたものが腐敗することを要するのであるから。 Themistius, Paraph. in Ar. de An. 5.3.35 (2.64.25 Sp.) = SVF. 1.158  恐らくゼノンの徒にも調和する思想であろう。彼等は全ての有に神が行き渡っているとしているからだ。また、色々なところで、知性、魂、本性、性状とこれを様々に呼んでいる。 Themistius, Paraph. in Aristot. de Anima 5.3.107 (2.197.24Sp) = SVF. 1.208; 3.382  そしてそれで悪くはない。ゼノンの徒たちは感情を人間の魂にそなわる理が歪んだもの、つまり理性の誤った判断であるとした。 Themistius, Paraph. Ar. Phy. 40b (2.284.10. Speng) 5.2.123 = SVF. 1.94  あるいは、分割されたものの集積として、宇宙はそれ自体を包摂していると。こう考えた人々は個人たちの内にもあったし、その後はキティオンのゼノンの学徒もそう考えた。 テオドレトゥス Theodoretus, Gr. Aff. Cur. 1.24 (11.13 Ra) = SVF. 1.593  ネアンテスは[ピタゴラスを]テュリア人と呼んでいる。 Theodoretus, Gr. Aff. Cur. 3.74.89.7 = SVF. 1.264 (ゼノン『国家』)  こうした事柄を鑑みて、キティオンのゼノンも『国家』という本の中で神殿を建立したり神像を立てることを禁じている。すなわち、造りものはこうした神々には全く値しないと彼は言っているのだ。 Teodoret., Gr. Cur. Aff. 4.12. = SVF. 1.85  ムナセウスの子、キティオンのゼノンは、クラテスの弟子であり、ストア派の創始者であるが、神と質量が原理であると述べた。 Theodr., 4.15 = SVF. 1.95  ストア派の人々によると、全て在るものは虚無とは無縁で、在るものそのものは非常に豊かで無限なのである。 Theodr., 4.20 = SVF. 1.508 (Cleanthes)  ストア派のクレアンテスは[星々を]円錐形だとした。 Theodoretus, Gr. Aff. 5.25 = SVF. 1.128  キティオンのゼノンは、この学派の主導者だが、魂については次のように考えていると、身近な弟子達に教えた。実際、人間の精液は湿ったものでありつつ気も分けもっているが、これは魂の部分や断片と、親から受け継いだ種子とが混じり合って混合したもので、魂の全ての部分が集められている。 Theodoretus, GCA. 5.27 (129 Ra) = SVF. 1.139  つまり、両者とも固い物体から蒸散したものが魂であると言った。 Theodoretus, Gr. Aff. Cur. 6.14.153 = SVF. 1.176  キティオンのゼノンは運命を質量を動かす力と呼んだ。そして、同じものを摂理や本性とも名付けた。 Theodoretus, Gr. Aff. Cur. 6.14.153.45 = SVF. 3.149  しかし、ストア派の人々はこの人達に正反対のことに賛成票を投じたのである。というのは、彼等は自然に調和して生きるということを目的と定め、魂は肉体によって利益を受けることも害を被ることもないと言ったのだから。なぜなら、望まれてもいないのに徳そのものへと健康が強制することもなければ、病気が意に反して悪徳へと引きずり込むということもないのだから。つまり、こうしたものは善悪無記であると彼等は言っていた。これらのうち少なくともあの説は全く大胆な物言いである。というのは、人間と神の徳そのものについて彼等は語っていたのだから。 Theodoretus, Gr. Aff. Cur. .. 58.10 = SVF. 2.305  また質量のことは…ストア派の行列も、変えられ変容され流転されるものであると言っている。…アリストテレスはこれを物体的なものと呼んだが、ストア派の人々は[端的に]物体と呼んだ。 Theodoretus, Gr. Aff. Cur. .. 176.21 = SVF. 3.164  柱廊派の人々は中の道を進んだのだ。というのは、結婚も子育ても善悪無記なものにくくりつけたのだから。 Theodor. Metoch 812 Kiessling = SVF. 1.332  ゼノンもこう言ったのだ。「入門するにしても卒業するにしても、私だけに対するのはよくない」ここで取り上げた問題にしても、人生哲学についてもそうであった。s Theognetus Comicus, Pharmati e Philarguroi 4.549=SVF.3.241  この野郎!、貴様は私を滅ぼすだろう。つまりおまえはケバケバしい  回廊学派の箴言で一杯になっておかしくなっているのだ。  「無縁なものだ富など人間には」霜のようだ。  「知恵が本来固有のものだ」氷のようだ。「誰一人けっして  これを得た者は損なうことはない」おぉ愚かな私、  心霊が哲学によって私とそんなものを結婚させたのだ。 Theophilus, Ad Autolycum 3.5 = SVF. 3.750; 1.584 (Cleanthes)  それから、ならばゼノンやディオゲネスやクレアンテスの言うことがなぜ君にはそんなに説得的に思えたのか。彼等の本にある限りでは彼等は人肉食を教えて、父親が子供たちに料理され食べられるべきだとか、もし誰かが汚らしい滋養のために四肢の何かを食べようとしないならばその食べない人を食べてしまえとか言っているのだ。こうしたことに加えてある涜神的な調子が見出される。ディオゲネスのがそれで、彼は子供たちは己の両親を犠牲に捧げて食べてしまえと教えている。 Theophilus, Ad Autolycum 3.6=SVF.3.750  それでは何のためにエピクロスやストア派の人々は兄弟の共有や男色を為し遂げることを教説としたのか。彼等は図書館をそんな教説で一杯にしてしまったのだ。 Thomas Hibernicus, Flores Doctorum Pene Omnium, p.42.12-5 Coloniensis = FHGS 536  「あの人はあの人の友人だ」とある人々が言った時に、テオプラストスは言った。「それでは何故あの富がありながら貧乏なのかね?財産を共有する者でないなら友人ではないよ」 Valerius Maximus 8.7.10 = SVF. 2.19  前の世代の終わりをしかし決して短くはない期間に亘るクリュシッポスの生涯が方向付けたのだ。というのも、80年間に39巻に及ぶ非常に精密で精妙な(ギリシャ語で言うところの)論理学に関わる試論を残したのだから。彼の熱意は、著作と仕事という形で彼の才能を伝える記念碑のうちにあまりにも残っているので、彼の書いたものを心底理解するためには永い人生が必要である。 ウァロ  (7)さて、個別の語の成り立ちをこれから説明するのだが、この説明には四つの段階がある。一番底にあるのは、ラテン民族の端緒となったものである。というのも、「銀鉱」や「路督」の語源を知らない者がいるだろうか。第二は、 ↓ Varro, LL. 5,7 = SVF. 1.485 (Cleanthes)  古い文法が登頂したもので、それが明らかにしたのは、詩人がどのようにして言葉を飾り、違う装いを与え、ひねったかということである。 ↓ これに属するのが、パクヴィウスの、   綱の軋み あるいはまた   曲がり首の群れ あるいはまた   外套で腕を覆った などである。 Varro, LL. 5.9 = SVF. 1.485 (Cleanthes)  (9)もし私が最も深い段階に到達していないにしても、それでも第二のもの以上ではあるのだ。[ビザンチンの]アリストパネスだけではなく、クレアンテスまでも夜な夜な勉強したのであるから。 ↓ 私は、詩人の言葉がどのように生み出されるのかということだけを説明する人々の上を行きたかったのである。というのも、私には彼等のしていることが不適切と思えたからなのだ。つまり例えば、エンニウスが言葉の上でどんな構成をしたかということを探究するのはいいが、かつてラティヌス王が作り上げたことを疎かにするというのは感心しなかったのだ。なぜなら、私は詩人達の膨大な言葉には有用性というよりは楽しみを感じたのだし、古人達のそれには楽しみというよりも有用さを得たのであるから。それとも、私の用いている言葉は、ロムルス王の遺産に由るものではなく、むしろ詩人リヴィウスの残したものだというのか。 Varro, LL. 5.59 = SVF. 126  あるいは、キティオンのゼノンが言うように、生物の種子は火であり、それがすなわち魂であり精神なのだ。 第6巻  (1.1)場所の名やそこにあるものの名、それらの語源については第一巻で書いた。 ↓ Varro, LL. 6.1 = SVF. 2.154; 3 Antipater 17  この巻では時に関する語彙、また行為の中でなされる事柄、何らか時間と共に語られる事柄、例えば「座る」「散歩する」「話す」といったもの、そういったものについて語ろうと思う。また、ここに異なる種の語彙を付け加えるとしても、聴講者を苦しめるのではなく、語彙同士の関係にむしろ留意しようと思う。(2)この問題については、クリュシッポスとアンティパトロスを手本とすれば私には十分である。また、それほど鋭い才能の持ち主ではなかったとしても、学識は豊かだったあの人々くらいで十分である。この中にはアリストパネスやアポロドロスが入るのだが、彼等は皆、ある言葉が別のものから派生した過程を論述する際に、ある語は文字を増やし、あるものは減らし、あるものは変えた、と言っている。 Varro, LL. 6.1 = SVF. 2.154  さて、ゼノンの主張では、魂が退却しあたかも滑り落ち沈んでしまうようになることがあり、それがすなわち睡眠なのである。 Varro, LL. 6.11 = SVF.2.163  aevum「永遠」は「全ての年月の期間aetas」から来ている。そしてここからaeviternumという語が生じ、それが「永遠の」aeternumとなったのである。これをギリシャ人はギリシャ語で永劫と呼んでおり、クリュシッポスはこれを「常にある」ということだと説明している。 Varro, LL. 6.56 = SVF.2.143  「話す」は「場」から来ている。なぜなら、最初に何かを話そうとする人は既に単語やその他の語を話しているのであり、個々の語をそれぞれの場において語ることができる前に既にそうなのである。このような人は実は話してはおらず、話しているかのようなだけである、というのがクリュシッポスの説である。従って、人の似像が人ではないように、オオガラスやカラス、言葉を覚えたての子供も単語を発音はしていても、それは語ではないのである。それらは話してはいないのだから。 Varro, LL. 9.1 = SVF.2.151  自分達が無知であることを学ぶよりもむしろ、自分達が知らないことを教える方を選んだ人々の間違いははかりしれない*。その内には、有名な文法家のクラテスも入るが、彼を支持したのがクリュシッポスで、彼は非常に鋭い人で、『例外論』という三巻本をものして、類比論やアリスタルコスに挑みかかったのである。しかし、彼の書物が示すように、どちらの主張も調べてみなかったようである。そのわけはこうである。クリュシッポスも、表現の不規則さについて述べた際に、同様な事物が異なる表現で示されたり、異なる事柄が同様な表現でしるされたりするということを示しており、それはそれで正しいのだが… *ブートの付加に従う。 Varro, LL. 10.59 = SVF. 2.155  つまり、クリュシッポスの著作にあるように、しばしばあるものは対応する別のものからうかがわれる。例えば、父親が息子から、また息子が父親からというように。また、弧においては右側が左側の代わりになるし、同様に左側が右側の代わりになる。そのようにして、正格から斜格が得られることも、斜格から正格が得られることもあるし、単数形から複数形が、複数形から単数が得られることも時にはありうる。 Varro, Rerum Rustic 2.1.3 = SVF. 1.123  つまり、ミレトスのタレスやキティオンのゼノンが言うように、動物の発生には何らかの原理があるのか、さもなくば逆に、サモスのピタゴラスやスタギリタのアリストテレスが考えるように、動物にはいかなる原理もないのであるか。 Vita Arati = SVF. 1.440  アラトスがアテナイは哲学者ペルサイオスの下で学暇を過ごしていた時、アンティゴノス王に招かれてマケドニアに行ったペルサイオスに同行して、アンティゴノス王とピラスの婚礼に立ち会ったが… Zonarae Lex. s.v. soloikizein col. 1662. = SVF. 1.82 = FDS. 603  「不作法(文法に外れたこと)」というのは、話声や話し方において野暮であることだけではなく、装いにおいても当てはまる。つまり、人が野暮な身だしなみの時、みっともない食べ方をする時、だらしなく散歩している時、そういうことになるのである。以上はゼノンが言っている通りである。