その他の典拠(ラテン語) アウダクス Audax, De Scauri et Palladii Libris p. 323.5 = FDS. 506  音声とは何であるか? 打撃された気息で、聴覚で感覚されうるものである。音声にはいくつの種類があるか? 二つである。どのようなものか? 分けうる明確なものとそうできない乱れたものとである。明確なものとはどのようなものか。人間が発するものだけがそれである。明確なものは何ゆえにそう呼ばれるか? 一つ一つ分けて明確に文字にして書くことで理解されうるからである。乱れたものとはどういうものか? 文字に書き表すことができないもの、例えば羊たちがメエメエ鳴く声、馬のいななき、牛のモーモー鳴く声などである。これら以外に音声は他に何もないのであるか? 我々は全ての音を音声と呼ぶこともある。それだからこのような言い方もある。   浜辺に打ち寄せるかすかな声らも(ヴェルギリウス『アエネイス』3.556)  音声は物体であるか、それとも物体ではないものなのか? ストア派の人々によれば物体である。彼等の定義に関しては我々は冒頭でそれに対する見解を述べておいた。方や、プラトンは音声は物体ではないと主張する。彼は言う。「打たれた気息ではなく、打つことそのもの、つまり打撃がすなわち音声なのであるから」と。 アウグスティヌス 『弁証論』 Augustinus, De Dialectica 5.86 = FDS. 511 「語る」とは分節された音声によって意味を持つ印を与えることである。さてそこで、分節された音声と私が呼ぶものは、文字にされることで理解されうるそれのことである。 ボエティウス 『アリストテレス『命題論』注解』 Boethius, In Arist. De Interpr. 1.1 (34.13) = FDS. 266  実際、この受動状態は何らかの形相の押印のようなものとして生ずるが、魂においてそれが習慣となっているように生ずるのである。つまり、どんなものにであれそれにふさわしい形相が備わっているということもあれば、その形相が魂に運ばれることもある。それはあたかも、文字、つまり音声に対する記号が蝋や大理石やパピルスに写される仕方が同じではないのと同様である。そして、ストア派の人々は想念(表象)を事物から魂に転写されたものと言っているが、常に「魂において」と付け加えている。というのも、魂に備わる全ての受動状態は事物の何らかの特質であると思われるから、というのだ。… Boethius, In Ar. De int. 3.9 (234.1) = FDS. 988  したがって、かくして、我々はいわゆる「可能」を「必然」から区別しているのである。つまり、ある意味では、私が座っているのに歩くのは可能であると言われるが、別の意味では、太陽が射手座にあり数日後に水瓶座に移ることは可能である、と言われるのである。つまり、必然であるということは可能でもあるのだ。さて、我々が通常「可能」と言っているのは、そうでありうるのにそうでないこと、また逆に、そうであり得ないのにそうであること、である。そうなると、もし万事が必然性の下にあるとしたら、このことが必然性という本性を妨げてしまう。それで可能性については三つの見解があるのだ。つまり、ピロンは「可能」を、発話に応じた本性において真を受け入れるもの、と言った。例えば、私が「私は今日テオクリトスの『ブコリカ』を読んだ」と言うような場合である。何ら外的な事柄が妨げなければ、それ自体としての限りでは、真と述語付けられうるのである。同様にして、同じピロンその人は、「必然」をこのように定義している。つまり、真である上に、それ自体としてみた限りでは、決して虚偽を受け入れないもの、である。他方、「非必然」は同じ彼がこう定義している。それ自体としてみた限りでは、虚偽を受け入れうるもの、である。また「不可能」は固有の本性に従う限りでは真を決して受け入れられないものである。他方同じピロンは、「偶有的」と「可能」は同じことであると断言している。 ↓ Boethius, In Ar. De Int. (234.22) = FDS. 988 = Diodorus fr. 28 Giannantoni = LS. 38C  ディオドロスは「可能」を「現にあるか未来にあるだろうこと」、「不可能」を「偽なので未来にも真ではないだろうこと」と定義した。また、「必然」は「真なので未来においても偽でないであろうこと」、「非必然」は「現に偽であるか、未来において偽となるであろうこと」と定義した。 ↓ Boethius, In Ar. De Int. (;374) = FDS. 988 = SVF. 2.201  さて、ストア派の人々が「可能」としたものは、真な述語を受け入れうるもの、外的なものではあるがこのものと共に生じることもあるものによって妨げられないもの、である。他方、「不可能」は「真」をどうやっても受け入れないもの、このものの外部に生じる物事によって妨げられるもの、である。「必然」とは、真な述語と共に偽なそれを決して受け入れることのないもの、である。 ↓ Boethius, In Ar. De Int. = FDS. 988  しかし万事が必然性によって生じるのであれば、間違っているのは間違いないディオドロス説に向かわねばならない。つまり、あの方はこう論じたのだ。もし誰かが海で死ぬとしたら、この人が地上で死ぬことはありえないと思われる、と。ピロンもストア派もこういうことは言わない。しかしながら、この同じことを言わないまでも、相矛盾する事柄の片方が実際生じたら、ディオドロスと同じ思想を抱かざるを得ないのではないかとは思っているのだ。 Boethius, In Ar. De Int. 5.12 (393.12; 429) = FDS. 982 = SVF. 2.201  しかし、見落としてならないのは、ストア派の人々は必然よりも可能の方がより普遍的であると考えていることである。つまり、彼等は陳述を次のように分けているのである。彼等はこう言うのだ。「陳述のあるものは「可能」であり、あるものは「不可能」である。「可能」のうちあるものは「必然」であり、あるものは「必然」でない。しかし、「必然」でないものが「可能」であるというのは笑止千万である。等々」同じ「可能」が「必然」の類と種両方を構成するというのは、愚かであり、理論に無知なことである。 『ポルピュリオス『エイサゴーゲー』注解』 Boethius, In Porph. Isagog. 13 (140.13-141.19) = FDS. 32A  そして、論理学の教説の視点が何であるかを我々は既述したので、残りの問題を加えて取り上げるのがよいようだ。つまり、論理学は全体として哲学の何らかの部分であるのか、それともその装備であり道具であって、それによって哲学は物事の認識と本性を得るのか、ということである。実際、この問題については相反する立場からこうした見解があるように思う。つまり、論理に関わる考察を哲学の部分だと主張する人々は概ねこの論点を用いて、疑いなく哲学には観想的な部分と実践の部分があると語る。しかし、この第3の部分についてはそれが部分のうちに含まれるかどうかが問題となるが、それでもこれが哲学の部分であることは疑えない、というのだ。すなわち、自然や地上にあるその他のものを探求するのが哲学だけであり、同様に人柄や、実践的部分に関わるその他のものについて考察するのも哲学だけであるように、この部分に関する考察も、つまり論理学の主題となる事柄に関して判断を下すのも哲学だけである。それだから、もし観想と実践が哲学の部分である理由がそういった問題を探求するのが哲学だけであるということならば、同じ理由で、論理学が哲学の部分である理由も、主題となるこの素材はそれを論じるべき哲学に専らぞくするということなのだ。さて、こう言う人々があるのも事実である。哲学がこうした3部分に転じ、主題に応じて実践的な考察と観想のそれが区別される(というのも、前者は自然の本性を、後者は人柄を問題とするのだから)のだから、疑いなく、論理に関わる教説も自然のそれと人柄のそれからその素材の性質によって区別されるべきではないのか、と。というのも、論理学探究は、命題と推論、及び他のこの種のものに関わるからであり、それも言論に関わらずに事物の観想に関わる学や、人柄を考察する実践学が同じ資格でこれを論じることはできないからである。もし、この3部分、つまり観想と実践と言理から哲学が成り立っているとすれば、それらは問題の3通りの性質と目的によって互いに区別され、また観想と実践が哲学の部分と言われる以上、疑いなく、言理の学も哲学の部分であるという見解は説得力を持つのだ。 カッシオドルス Cassiodorus Senator, Instit. 2.3.2 (p.109. Mynors) = FDS. 43  実際、弁証学と弁論学をヴァロは新刊の『訓育集』という書の中で次のような比喩で規定したのである。「弁証と弁論は人の手の場合、握り拳と平手にあたる」前者は短い弁舌で議論を締めくくり、後者は流暢さの平原を豊富な弁舌を駆使して駆けめぐるのである。また、前者は言葉を縮める、後者は引き延ばす。弁証は事柄を語ることにより厳格なところを、弁論はそのことを表現し教示することにより流麗にあたる。前者はしばしば学校に向かうが、後者は常々広場に進んでいく。前者は非常に希な好学者を要するが、後者はよく大衆をも要する。 Cassiodorus Senator, Instit. 2.3.13 (119 Mynors) = FDS. 229  さて、仮定的な推論の型をもっと完全に知りたいと思う人がいれば、マリウス=ヴィクトリヌスの本を読むのがよかろう。書名は『仮定推論論』である。また、このことも知っておくのがよいだろう。つまり、カルタゴのトゥリウス=マルケルスは述語的な推論や仮定的なそれについて様々な哲学者達から非常に幅広く意見を聞いて、七巻を費やして注意深く丹念にそれを論じたのである。そして、第一巻では弁証の術を包括する(と彼自身が言っているのだが)事柄の規則について論じ、アリストテレスが述語的な推論について多くの巻数を費やして論じたことがその第二第三巻を費やして論じられ、また、ストア派の人々が仮定的な推論について数えきれない巻数を費やして論じたことが、その第四第五巻にまとめられ、第六巻では混合推論について、第七巻では合成推論について論じられる。この本そのものについてはこれ以上述べないので君達が自分で読んでほしい。 Diomedes, Ars Gramm. 1.300.3 = FDS. 517  文法学の書を著した者達は、書き出しとして色々と異なるものを取り上げてきた。つまり、 Diomedes, Ars Gramm. 2.420.9 = FDS. 502  音声とは、ストア派の人々の見解では、聴覚で感覚されうる希薄な気息で、自立しているものである。何もなされていない気が打たれるか、既に打撃を受けた空気がさらに打たれることによって生じる。全ての音声は分節化されたものか乱れたものかどちらかである。文節化されたものは、人間理性の言語によって意味が明らかにされるものである。この音声は、「文字化可能の」あるいは「書き表わしうるもの」とも呼ばれる。文字で把握することが可能だからである。乱れたものとは、理性によらず、また書き表わされえないもので、動物がただ声を出しただけの音によっても放たれるものであり、文字で書き表わすことは不可能である。例えば、馬のいななき、牛の泣き声がそれである。またこれに、笛等の楽器が出す、整えられた音を加える人々もあった。こういう音声は、言葉にして書くことはできないが、ある種の整った区別はそなえ持っている。ここから、働きの違う三種の音声があると説を立てる人々もいる。つまり、発話、楽音、騒音である。発話とは、意味が人間の発話によって表現されたもので、精神に容易に理解されるものである。楽音とは、それ用に組み立てられたものを合わせて整った音を出し、そうして聴覚を刺激するものである。騒音は、ものがぶつかることで耳に思いがけぬ音をもたらすものである。 フロント『書簡』 Fronto, Epist. 2.16 (139 Van den Hout) = FDS. 224  さて、哲学への熱意がただ物事だけに向けられているのであれば、言葉というものをどれだけけなされてもそう驚きはしません。しかし、「ツノ」「堆積」「嘘つき」、要するにちまちましたややこしい言葉遣いを学ばれ、弁論の教養や、その重厚さや荘厳さ、優美さや華麗さには関心がなかったということですから、雄弁よりもただ語ることを、はっきりと語るよりもおずおずとこもって語る方をより望んでいるということです。御自分で、ディオドロスやアレクシノスの言葉をプラトンやクセノポンやアンティステネスの言葉の前に置いてみて下さい。まるで、熱心になるあまり俳優がロスキウスでなくてタスルクスの身ぶりをまねているようなものです。また、泳ぎの場合だと、どっちを選んでもいい場合に、イルカではなくカエルをまねるようなものですし、鷲のように堂々と飛ぶよりもウズラみたいにせせこましい羽で飛ぼうとするようなものではないですか。…  (18)お分かりないですか。彼は弁論に関するほとんどありとあらゆる装備を駆使しているのです。従いまして、クリュシッポスその人が、こういった語り口をするべきだと明言しているとすれば、私としてはもうこれ以上何もお勧めすることはありません。弁証家達の用いる言葉遣いではなくて、むしろプラトンのようなものを用いて下さい。ただそれだけです。 Frontonis Epistulae 140=SVF.3.514  …義務には2つの類と3部分のあり方があります。第一の種は実体、つまりそれがあるということ、に関わります。もう一つは質、それがある性質であること、に関わります。3つ目は内実に関わります。つまり、内実そのものによってより高い義務を人は受け取るのですが、それを仕上げるのは…知恵の認識と実行だということです。しかし、この第3の種だけが事柄あるいは問題によって限定されると私は言うのです、あたかも自足するように。義務のこの分類を、あの真理が語ったにせよ昔聞いた記憶を私が持っているにせよ、ストア派の人々は用いていますが、それはまず人々が知恵に向けて努力を競うようにということであり、それを人生と平安のために保たねばならないと彼等はこだわっているのです。従って、朝食を取ることも、沐浴することも、香油を塗ることも、その他この種の仕事も賢者の義務なのです。例え浴場には何の知恵もないとしても…  食事は知恵の関心事ではありません。しかし、生は食事から成り立っていますし、生きていなければそもそも知恵も学習もありえません。 M.Frontonis Epistulae 143=SVF.3.196  賢者が愚者から、あるいはまず何よりも思慮が物事の選別や思惑から区別されることを疑う者が誰かいるでしょうか?つまり、もし選出と選別が財産や生活の糧に関わるとしたら、両方とも悪徳とも徳とも関わらないのに、しかしながら選別は賞賛と非難には無関係ではありません。だからすなわち、賢者にふさわしい義務は正しく選別を行うということでして、遅すぎるのも早すぎるのもそうではなく間違ったことなのです。よい健康を望まないのかとあなたが私にお尋ねになったとしましょう。私が哲学者であるべきなら、もちろんそんなことは望むべきではないのです。偶然に起こることや人が誤って欲求するものは何も欲求せず求めもしないということが賢者にふさわしいのです。賢者は何であれ運命の女神の手の内にあるのが明らかなものは欲求しません。しかしながら、必然的にどちらかのものを選ばねばならないとしたら、アキレウスの素早さをピロクテテスの愚鈍さよりも私は選ぶべきでしょう。 Fronto,Ep.146=SVF.2.27  あなたの鋭敏さはどこにあるのでしょう。精妙さはどこに。目を開いて見据えて下さい、クリュシッポスその人が何を望んだかを。なぜなら、語ることで、問題を提示し、定義し、吟味することで彼は満足したでしょうか。しなかったのです。実際彼は可能な限り増補し、誇張し、反論に備え、繰り返し、拡散させ、ひっくり返し、問いかけ、記述し、細分し、擬人化したりして、他のものでも自分の弁論に備え付けたのである。ギリシャ語で言えばすなわち、増強し、順序立て、けりを付け、再論し、他に転じ、横に置いて、擬人化したりしたのです。 ヒエロニュモス Hieronymus, Adv. Iovinianum 2.48 = SVF. 3.727(?)  笑止なことに、クリュシッポスは婦人を娶ることを賢者に説いている、??ヨヴを害さないためにというのである。つまりこういうわけで、ラテン人のもとでは妻を娶るべきではないということになる、ヨヴの婚姻などということがないのだから。 Hieronymus, Apol. adv. libr. Rufini 、 30, PG 23 col. 441Cム442B = FDS. 230  七つの型の推論があると弁証法基礎論で私は学んだことがある。また、「命題」というギリシャ語で表されるものを、我々は陳述と言ってよいということも。動詞と名詞がなくてはどうやっても文などありえないということ、「堆積」という段階的な論議、「嘘つき」の鋭い論、詭弁論法の詐欺性といったことも学んだ。誓ってもよいが、学校を出た後にこういったものについて読んだことは全くない。…もっと哲学を追求すればよかったのにと思われるかもしれない。クレアンテスの繊細な議論やクリュシッポスの複雑な議論を。それも、あなたの知らない未知の技術を得るためではなくて、これらの偉大な天才を学ぶために。そして、ストア派の人々は論理学を自分達のものだと主張するからこそ、あなたはこの学をたわごとだと蔑んでいて、その点ではあなたはエピクロス派なのだ。 『『ガラテア人への手紙』注解』 Hieronymus, Comment. in Epist. ad Galatas 3.5.22=SVF.3.291  次に、このものをストア派の人々はこう定義している。親切とは自ずから善くしてあげることに向けられた徳である。善意は親切からそう大きく異なっていない。…これをゼノンの追従者たちもこう定義している。善意とは利益をもたらす徳である。あるいは、有益さがそこから生ずる徳である。あるいは、自分自身のためになる徳である。あるいは、有益さの源泉となる徳である。 『書簡』 Hieronymus, Ep. 66.3 = SVF. 3.300  4つの徳をストア派の人々は記述するのだが、それ自体相互に連結され互いに斉合しているのでどれか一つをもたない者は全てを欠くことになるというのだ。それらは、思慮、正義、勇気、節制である。 Hieronymus, Ep. 69 = SVF. 2.281  また、クリュシッポスの詭弁もしっかり記録されている。「君が嘘をついており、[嘘をついているということが]真実なら、君は嘘をついている」 Hieronymus, Ep. 108.23 = SVF. 2.816  骨肉手足といった言葉は君も聞いていると思う。私に、ストア派の連中の山のような議論や、吹けば飛ぶような下らない言説を考案してくれるのも君だ。 Hieronymus, Ep. 126 = SVF. 2.776  魂の地位について思い浮かぶのは昔に得られたささやかな成果である。…天から作り出されたものであるのか。これはピタゴラスや全てのプラトン派哲学者、そしてオリゲネスの主張である。それとも、神固有の実体であるのか。これはストア派の主張である。 Hieronymus, Ep. 132.1 = SVF. 3.447  哲学者、とりわけピタゴラスとストア派の始祖ゼノンの源泉から流れ出るものを…罵るがいい。つまり、あのギリシャ人たちがギリシャ語で感情と呼ぶものを我々は惑乱と言うことができよう。無論、苦痛と喜悦、希望と恐怖のことだが、これらの2つは現在に、2つは未来に関わるのであり、彼等が断言するにはこれらは精神から殲滅され得、徳を持続的に観想し実践すれば人間の内に何ら悪徳の筋も根も残さないことができるという。 『『ミカ書』注解』 Hieronymus, In Michaeam 2.7 (CCSL t.76 p.509.192-4 Adriaen) = FHSG.532  テオプラストスは3巻本の『友愛論』を書いた。その中で、彼は友愛を全ての情愛に優先させているが、他面では人間的な物事の中にはそれが稀にしかないことも証言している。 Hieronymus, In Osse 3. praefatio (CCSL. v.76 p.109.140-5 Adriaen) = FHSG.541  しかしながら、君は愛してはくれるが、人間についての判断は伝えてくれず、事実についてしかそうしてくれない。また、愛情は過ちを受け入れるが、麗しいのはあのテオプラストスの言である。それをトゥリウスは言葉そのものよりも意味に基づいて解釈したのである。つまり、[ギリシャ語では]「愛するものは愛されるものについては盲目である」つまり「愛情を抱く者達の判断は盲目である」 『ルカノス註』 Commenta Luc. 2.9.48 Us. = SVF. 2.1110  これはストア派の人々に従って語られている。彼等の主張では、世界は思慮と法によって支えられていて、また神は神自身に対する法である。 Commenta Lucani 2.240.66=SVF.3.162  「全ての人々を怖がり、自分には無関心」:ストア派の人々に従った言い方。彼等が言うところでは名誉のための人生は下らないのであり、立派なことは名声の上に君が自然に負っていると知っているものをおくことなのである。ヴェルギリウス「彼等は人生を名誉と交換しようとしている」 Commenta Lucani 2.306.69=SVF.2.924  このこともストア派の人々に従っている。彼等の言うところでは全ての物事は運命によって支配されており、一旦形成されたら神々の意思によっても変更されえない。 Commenta Lucani lib.2.380 p.73 Us=SVF.3.5  こうした言葉で、カトーはストア派であったと断言したのである。この哲学の目的はクリュシッポスによるとかの[ギリシャ後で言う]「自然に調和して生きる」ということであり、つまり[ラテン語で言えば]「自然と調和して生きる」ということである。 Commenta Lucani 2.380.74.19=SVF.3.492  …義務について語っている。それらは人間の第一の親近性から生じると考えられている。つまりここから、[キケロは]個々人は社会的な動物であり、自分自身とつまり全人類に至るまで本性上親近なのだと論じている Commenta Lucani 2.380.75.3=SVF.3.199(?)  思慮深さについては何の言及もないが、上述のように「美徳」ということによって徳一般そのものが説明されている。それにはこういう定義がある。「生に調和している状態」しかし、別の徳を呼ぶ場合も類比によってあの徳を表すことができる。つまり、徳一般をもつ人は個別の諸徳目も持つし、個別の諸徳目をもつ人は徳一般をもつのである。 Commenta Lucani 7.1 (220 Us) = SVF. 2.586  「法は非常に永続的である」:プラトンによると、世界がとにかく作り出されたと説かれていることは納得しうることだが、いずれ滅びるということはそうではない。ストア派とエピクロス派の人々は違った意見を持っていて、世界は生まれてまたいずれ滅びるのだと断言している。 Commenta Lucani 7.15.220 Us = SVF.2.660  「養分は炎によらず」:ストア派の人々が論じているように、太陽の炎は雲によって燃え上がっているのである。 Commenta Lucani 7.813 (252 US.) = SVF. 2.608  「大地もろとも燃やす」:ギリシャ語で言う「大燃焼」である。ストア派の人々はこれに続いて「大洪水」を飢えたのである。 Commenta Lucani 7.816 (252 Us.) = SVF. 2.818  「水鳥より高く空に飛ぶわけではない」:生きている限り我々は分解して滅びていく。そして、死が我々を一つにするのだ。この句はこうしたエピクロス・ストア派の原則に言及している。 Commenta Lucani 8.459 (274) = SVF. 2.587  「ストア派の人々はこう言っている」:とにかく、かつてなかったものは、今ないということもありうるのである。なぜなら、終わりを持たないものは始まりを持っているわけがないのだから。 Commenta Lucani 9.1 (289 Us) = SVF. 2.817  他に、魂は物体によって叩き出されたので、またその始源に分解して四散すると主張する人々もいる。その中にエピクロスも入るのである。別の人々は、魂は固いものであって、肉体から退出した後も存続するが、その後、時の経過とともに四散する、と言っている。これはストア派の見解である。 Commenta Lucani 9.7 (290 Us) = SVF. 2.775  「これらの徳は火の性質を持っている」:魂の徳ということであって、肉体のそれではない。というのも、ストア派の人々は魂は火であると言っているのだから。 Commenta Lucani 9.569.304 = SVF. 3.575  というのは、いかなる激怒も賢者を変えはしないし、運命も事物の損失や獲得によって脅かすことがないからである。賢者は自由な精神で何であれ受け入れる、敵対する運命が何を送り込もうとも。ストア派の人々は賢者が悪いことに影響されることはないとする、なぜならば… Marius Victorinus, Ars Gramm. 2.1-4 p. 66 = FDS. 501  音声とは、それ自体として存在する限りの、聴覚により知覚されうる打撃された気息である。ギリシャ人達も同じようなことを言っていないか? 「打撃された、聴覚で知覚可能な気息で、それ自体として在るもの」と。音声には二つの形態がある。文節されたものと乱れたものとである。分節されたものとは、それが聞かれるなら理解され書き取られるものであり、そうして、大部分の人々は意味が分かり、少なくとも幾らかは完全に理解できる、というものである。これをギリシャ人達は何と呼んでいるか? 「文節音」である。では、この音にはどのような種があるか? 二つある。どういうものが? すなわち、音楽に関するもの、つまり笛やラッパあるいは楽器ならなんでもよいが、それで放たれるもの、及び、あらゆるものが分け隔てなく用いる共通のものとである。さて他方、乱れたものとは、単なる音に過ぎないものとして放たれるもので、例えば、馬のいななき、蛇のシューシュー音、叩く音、きしる音等、その他これに類似のものである。 Maximus Victorinus, Ars Gramm. 189.9-15 = FDS. 505  音声とは何であるか。聴覚で捉えられうる、それ自体として存在する、打撃された気である。音声には何種類あるか。二種類ある。どのようなものか。明晰なものと乱れたものとである。明晰なものとは何か。人間のそれだけである。どういうわけで「明晰」と呼ばれるか。明晰に書き表わすことで理解されうるからである。乱れたものとは何か。書き表わすことができないもの、つまり羊の鳴き声、馬のいななき、牛のうなり声、その他の声である。全ての音を我々は音声とも呼ぶのである。しかるに、   浜辺に打ち寄せるかすかな声らも(ヴェルギリウス『アエネイス』3.556) このような言い方もある。 Priscianus, Inst. Gramm 1.1 (GrL II p.5) = FDS. 503  音声には四つの区別がある。つまり、明晰音、非明晰音、「文音」、「非文音」である。明晰音とは、「凝集され」、つまり、発話者の心がもつ何らかの意味と合わされて、放たれたものである。非明晰音とは、逆に、何ら精神状態に端を発しないものである。「文音」とは書き表せるもので、「非文音」とは書き表せないものである。したがって、明晰な音声は書き表わして理解することが可能で、それはこう言われる通りである:  人の武器をも我詠う(ヴェルギリウス『アエネイス』1.1) また、書いて表わすことはできなくても何のことかは理解できるものもある。例えば、人間が出すものでも「シー」とか嘆息とかはそうである。というのも、人がこういう音声を放つ際は何らかの意味を表わしているのではあるが、しかしそれを書き表わすことはできない。また他方、書き表せるが非明晰音と呼ばれるものもある。というのも何の意味も表わさないからである。たとえば「coax」「cra」というのはそうである。またさらに、非明晰で非文音であるものもある。書き表わすことも意味を理解することもできない音声のことである。シューシュー音やモ−モ−音等々である。さてここで我々が知らねばならないのは、類としての音声に具わって差違をもたらすより上位の四種が二つずつ個々の音声それぞれに共に具わり、音声に四つの種を完備させるということである。 ウァロ  (7)さて、個別の語の成り立ちをこれから説明するのだが、この説明には四つの段階がある。一番底にあるのは、ラテン民族の端緒となったものである。というのも、「銀鉱」や「路督」の語源を知らない者がいるだろうか。第二は、 ↓ Varro, LL. 5,7 = SVF. 1.485 (Cleanthes)  古い文法が登頂したもので、それが明らかにしたのは、詩人がどのようにして言葉を飾り、違う装いを与え、ひねったかということである。 ↓ これに属するのが、パクヴィウスの、   綱の軋み あるいはまた   曲がり首の群れ あるいはまた   外套で腕を覆った などである。 Varro, LL. 5.9 = SVF. 1.485 (Cleanthes)  (9)もし私が最も深い段階に到達していないにしても、それでも第二のもの以上ではあるのだ。[ビザンチンの]アリストパネスだけではなく、クレアンテスまでも夜な夜な勉強したのであるから。 ↓ 私は、詩人の言葉がどのように生み出されるのかということだけを説明する人々の上を行きたかったのである。というのも、私には彼等のしていることが不適切と思えたからなのだ。つまり例えば、エンニウスが言葉の上でどんな構成をしたかということを探究するのはいいが、かつてラティヌス王が作り上げたことを疎かにするというのは感心しなかったのだ。なぜなら、私は詩人達の膨大な言葉には有用性というよりは楽しみを感じたのだし、古人達のそれには楽しみというよりも有用さを得たのであるから。それとも、私の用いている言葉は、ロムルス王の遺産に由るものではなく、むしろ詩人リヴィウスの残したものだというのか。 Varro, LL. 5.59 = SVF. 126  あるいは、キティオンのゼノンが言うように、生物の種子は火であり、それがすなわち魂であり精神なのだ。 第6巻  (1.1)場所の名やそこにあるものの名、それらの語源については第一巻で書いた。 ↓ Varro, LL. 6.1 = SVF. 2.154; 3 Antipater 17  この巻では時に関する語彙、また行為の中でなされる事柄、何らか時間と共に語られる事柄、例えば「座る」「散歩する」「話す」といったもの、そういったものについて語ろうと思う。また、ここに異なる種の語彙を付け加えるとしても、聴講者を苦しめるのではなく、語彙同士の関係にむしろ留意しようと思う。(2)この問題については、クリュシッポスとアンティパトロスを手本とすれば私には十分である。また、それほど鋭い才能の持ち主ではなかったとしても、学識は豊かだったあの人々くらいで十分である。この中にはアリストパネスやアポロドロスが入るのだが、彼等は皆、ある言葉が別のものから派生した過程を論述する際に、ある語は文字を増やし、あるものは減らし、あるものは変えた、と言っている。 Varro, LL. 6.1 = SVF. 2.154  さて、ゼノンの主張では、魂が退却しあたかも滑り落ち沈んでしまうようになることがあり、それがすなわち睡眠なのである。 Varro, LL. 6.11 = SVF.2.163  aevum「永遠」は「全ての年月の期間aetas」から来ている。そしてここからaeviternumという語が生じ、それが「永遠の」aeternumとなったのである。これをギリシャ人はギリシャ語で永劫と呼んでおり、クリュシッポスはこれを「常にある」ということだと説明している。 Varro, LL. 6.56 = SVF.2.143 = FDS. 512 「話す」は「場」から来ている。さしあたり名やその他の言葉を現に話していると言われる者が、何であれ語りうる物事をそれにふさわしい場において話しているのでなければ、その者が話すことは実は話されてはいない、というのがクリュシッポスの説である。したがって、人の似像が人ではないように、オオガラスやカラス、言葉を話し始めた子供は単語を発音はしていても、それは語ではないのである。実はそれらは話されてはいないのだから。それゆえ、話していると言われる者は、何であれ言葉を知った上でそのふさわしい場に置く人である。その者は、心の中に持っているものを、話すことによって表に出すのであるから。 Varro, LL. 9.1 = SVF.2.151  自分達が無知であることを学ぶよりもむしろ、自分達が知らないことを教える方を選んだ人々の間違いははかりしれない*。その内には、有名な文法家のクラテスも入るが、彼を支持したのがクリュシッポスで、彼は非常に鋭い人で、『例外論』という三巻本をものして、類比論やアリスタルコスに挑みかかったのである。しかし、彼の書物が示すように、どちらの主張も調べてみなかったようである。そのわけはこうである。クリュシッポスも、表現の不規則さについて述べた際に、同様な事物が異なる表現で示されたり、異なる事柄が同様な表現でしるされたりするということを示しており、それはそれで正しいのだが… *ブートの付加に従う。 Varro, LL. 10.59 = SVF. 2.155  つまり、クリュシッポスの著作にあるように、しばしばあるものは対応する別のものからうかがわれる。例えば、父親が息子から、また息子が父親からというように。また、弧においては右側が左側の代わりになるし、同様に左側が右側の代わりになる。そのようにして、正格から斜格が得られることも、斜格から正格が得られることもあるし、単数形から複数形が、複数形から単数が得られることも時にはありうる。 Varro, Rerum Rustic 2.1.3 = SVF. 1.123  つまり、ミレトスのタレスやキティオンのゼノンが言うように、動物の発生には何らかの原理があるのか、さもなくば逆に、サモスのピタゴラスやスタギリタのアリストテレスが考えるように、動物にはいかなる原理もないのであるか。