ピロデモス 『音楽論』 Philodemus, De Musica p. 5 Kemke = SVF. 3 Diog. 54  徳に関して決定的な事柄への配慮が生じるのはわずかな人々である。というのも、曲がりなりにも初歩を教えられるのはさらに少数のしかも同じような人々だというのが必然だからである。そして、それは音学を通じてなされるのである。 Philod., De Mus. p. 6 K. = SVF. 3 Diog. 55  万人がこのものの部分を方や美しいとか節制があるとか勇敢だとか、あるいは臆病・ふしだら、総じて醜いと呼んでいるが、これは同様な性状が同じ名前で呼ばれるのと同様である。さて、これが全く真実に即していないというのはおそらく正しくはない。というのも実際、治癒によいもの以上に治癒によいものはないし、馬に関わるもの以上に馬に関わるものはないと思われるからである。 Philod., Mus. 7 K. = SVF. 3 Diog. 56  これは、調子と節が一つになっているということ自体からして、教育に重要であるという同意がある。 …また性向をより調和と節に適ったものにするであろう。しかしある人は、これらが徳であるのかそれとも音楽に関わる何かにすぎないのか知りたいと思ってダモンを連れて来た。…音楽家としては、ほとんど同じようなものに思われるというのだ。そこで、こう言いつつ、歌い竪琴を弾く子供だけが至るわけではなく… Philod., Mus. 8 K. = SVF. 3 Diog. 57  美しくためになるように動かし止めるというのは、肉体の場合、体育のすることである。そして、彼等(?)の下で指導されると感覚は判断力を身につける。他方、絵画術によっては、目が、多くの見るものをきちんと判断できるように教えられる。しかし、音楽はこれらほど不可欠だというわけではないものを教えるので… Philod., Mus. 8 K. = SVF. 3 Diog. 58 …怒りに関する事柄や、一般に快苦を伴って生じる事柄であるのは、音楽というのも親近な性状の一つだからである。というのも、ギリシャ人にしろ夷狄にしろ全ての人々が、もっと言えば、全ての年令の人々がこれを用いているからである。事実、理性を得、判断力を身につける前に既に音楽の能力はあらゆる子供の魂に… Philod., Mus. 9 K. = SVF. 3 Diog. 59 …(次のような?)法を定めた人々にである。つまり、万人がこれを用い、新たなものをつくり出してはならない。また、昨今流行の作風はこれから遠ざけねばならない。なるほど、ディテュランボス形式を混ぜ、ピンダロス風・ピロクセノス風のものと一緒にするならば、今現れている性格とは大いに異なるものが見い出されるだろう。理論は同じだが、しかし、ある程度は似ているが違う形式によっているのである。 Philod., Mus. 10 K. = SVF. 3 Diog. 60 …時。それはマンティネイア人、スパルタ人、ペラニア人たちが始めた頃であった。つまり、彼等の下で、しかも彼等の下で初めて、また彼等の下で最も高度に、このような営みや他の音楽に関する最も厳密な配慮が行われたのである。  それで、このような理論が生じ、集大成され、従事して馴染むに値する本当の努力がなされて…ついには(?)このような理論は、反対のことに用いられる余地がなく、習慣付けや奉納のために受け入れられることもできなくなった。 Philod., Mus. 11 K. = SVF. 3 Diog. 61 次のことは整合している。つまり、あるものは自然に生ずる感覚を要し、あるものは学ばれるそれをそうする。そして、温冷は自然に生ずるものをそうするが、調和不調和は身につけられるものをそうする。また、このような感覚に結びつき、大抵の場合に付き従う別のものもある。これを通じて、我々は、あらゆる感覚対象に伴う快苦を受け取るのである。つまり、これには二つの感覚が混ぜ合わされていて、一つは基に置かれた感覚に調和し(例えば…あるいは苦々しさ)、もう一つは伴う快苦に明白に不調和である。 Philod., Mus. 12 K. = SVF. 3 Diog. 62 つまり、音楽は動かずに平静を保っている魂を呼び覚まして一定の性状へと動かすことができるというのだ。その性状とはつまり、適切な歌によって動かされるということが魂には自然なことである、ということである。しかしながら、万人が同じ歌に対して同じように動かされるということはない。つまり、何事かに関してある歌が歌われたとしても、その反応は正反対であり得る。なだめられて穏やかに落ち着くこともあれば、ある衝動から別のそれへと移し向け変えられることもあれば、現にある性状が強まったり弱くなったりすることもある。 Philod., Mus. 12 K. = SVF. 3 Diog. 63 総じて…音楽全体が…模倣なら… Philod., Mus. 12 K. = SVF. 3 Diog. 64 第三巻においてはより多くのことを、とりわけ神霊に対する音楽について述べたのである。しかしそれは論証をしたのではなくて、叙述してそれに解釈を加えたに過ぎない。切り詰めて要約すれば充分である。つまり、彼の言う所では、規則正しく厳粛な音楽はまず神を讃えるためにまとめられたのであり、次いで、自由市民の教育のためにそうされたのである。つまり、言葉が語られるのも、観客と劇場の間で観劇が行われるのも、神のためなのである。 Philod., Mus. 14 K. = SVF. 3 Diog. 66 戦時活動及び体育や戦闘行為に関する活動についての慣習(法律?)は、古くは非常に多岐に亘り、今では比較的簡略化されている。つまり、広く戦時活動のためにはギリシャ人の多くの人々が直管ラッパ隊を用いているが、笛兵を用いる人々もいる。戦闘行為の際にも多くの場合直管ラッパによって戦闘に関する法が、どのようなものにせよ、表される。また、五種競技においては、跳躍や複路走の際にそれが用いられ、あて振りの際には同じ名前の曲が笛で演奏される。また、アルゴス人達は競技の際に笛を用いる。 Philod., Mus. 14 K. = SVF. 3 Diog. 67 また、ジムノペディアやその武装劇のコロスの舞踏にも音楽は用いられるし、悲劇、サテュロス劇、喜劇にしてもそうである。しかし、これらの中で最も美しいのは悲劇のそれで…各々の…サテュロス劇のそれ。 Philod., Mus. 15 K. = SVF. 3 Diog. 68 上方からこの世界の住人に下された神託は本性上、人々を行動へと動かし、我を忘れさせる調べを持っているし、オルフェウスに至っては岩を魅了し、しかし岩そのものを動かすのではなく労働者を側に立たせると言われているというのだ。それで、プトレマイオスも、命令を取り上げられない人々に笛を吹くようイスメニアに命じたというのだ。 Philod., Mus. 15 = SVF. 3 Diog. 69 魂だけではなく肉体も何らかの性状に置くというのだ。事実、子供が笛を吹いて、何か音楽の調べを演奏し通すと、表情は… Philod., Mus. 16 = SVF. 3 Diog. 76 醜い交際へと呼び掛け、また年頃の男女若者を女々しさへと…アガトンについて喜劇作家達が非難している事柄や…デモクリトスについてもそうである。…なニカンドロス…示された…働きによって教えた…しかしまた… Philod., Mus. 16 = SVF. 3 Diog. 77 しかし、音楽は、愛情における不具合をなだめることができるものなのだ。 Philod., Mus. 16 = SVF. 3 Diog. 78 節が愛情に関する徳に貢献するということについて彼はきちんと語っており、ミューズの一人がエラトーと名付けられていることについてもそうなのだ。 Philod., Mus. 16 = SVF. 3 Diog. 79 しかしさらに、この(節)は饗宴の徳にも貢献すると彼はみなしている。というのも、愛情や一般に愛情にかんする事柄の… Philod., Mus. 17 = SVF. 3 Diogenes 81 特に魂の感化を…音楽の愛好によって役に立つことをしてきた叙情詩人たちにおいて…される。つまり、あながちとんでもない指摘ではないが、カマイレオンによると、喜劇作家たちも何かそのようなことを飲酒*に関してほのめかしているというのだ。つまり、初めての人々には親しげな話し方をして、それから時には…こうした人々の個性全てに。 *アルニムの想定による。 Philodemus, De Musica p.17 Kemke = SVF. 3 Diogenes 82 しかし、友愛に対しても何か親近なものをもっているというのだ。というのも、愛情に対してもそうだと示された以上、その目的のためにも理を選択するのだから。さらに、饗宴にもそうである以上、その目的に向けてもそうするのであり、この場合歓待として表される。そして、この歓待に対してもそうならば、友愛に対してもそうである。だが、それは異なった風に魂をほぐし盛り上げる。 Philod., Mus. 18 = SVF. 3 Diog. 84 テルパンドロスも神託に即して…共同食事で歌ってスパルタ人達の混乱を鎮めた。 Philod., Mus. 18 = SVF. 3 Diog. 85 ステシロコスについてもどうしてそんなことができたのか語られている。つまり、対立し合っていた市民達を歌で鎮めて、勧賞の歌を歌い、また、節を変えることで彼等を穏やかな状態に落ち着けたのである。他方、ピンダロスがこう書いた目的もこのことに他ならない。   共のものを或る市民が平安に置いて 『子孫達』のソフォクレスもそうである。 Philod., Mus. 19 = SVF. 3 Diog. 86 特定の節を整えて、そういったものが、神々に親近な何らかの栄誉にふさわしいものになるようにするだけではなく、異なった神霊に応じてそれぞれ別々の節があるようにする。 Philod., Mus. 19 = SVF. 3 Diog. 87 節は理解力にも役立つと彼は言っている。というのも、定義や分割や論証にしても多くが和声学に含まれていて他のものに即しても… Philod., Mus. 19 = SVF. 3 Diog. 88 考慮したことも語られた事柄のうちにはあった。つまり、適切な節と不適切なそれ、雄々しい性格と柔弱なそれ、基となる人格に調和する打弦とそうでないそれに関する事柄がそれらには含まれる。これらは哲学の営みから遠からず締め出されてきたが、それも不釣り合いなことではないし、基……(二行欠)  明らかに、人生の全ての部分に対して有用なのが音楽であり、この術に関して技芸を愛好すれば我々はほとんどの徳に対して親近な態度を取ることができる。それどころか、この人の考えでは全ての徳に対してそうだというのである。 Philod., Mus. 20 = SVF. 3 Diog. 89 ディカイアルコスから引いてこられた事柄のうち、反対の前提に有利な主張をするものを持ち出す人がいるかもしれない。つまり、古人たちは歌には賢いものもあると認めていたのであり、それはクリュタイメストラの下に残されたそれからも明らかだというのである。そして…知っていると彼等は言う…こうしたものを聴くだろう。少なくともそこからして…不安定や混乱を沈めることができるものもあると表明されたのは、人間やあるいは動物にはやわらげられたように思えるものもあるということである。それだからアルキロコスもこう言っているのだというのだ。「魅惑するなどということは、歌さえあれば誰だって」しかし、カルシスに関する逸話では、集会で騒ぎが起った時に、最も甘い調子の歌をいくつか歌い始め、そして別の歌へと転じると、集会は万事首尾よく済んだということである。このようにして今ある状況を落ち着けるということもある。それから… Philod., Mus. 29 = SVF. 3 Diog. 79 しかしながら、自由人には娯楽にしろ教養にしろ他のものの方がより相応しいということには思い至らなかった。歌ったり竪琴を弾いたり舞踏をしたりするよりももっとよいことがあるのだ。つまり、誰も尽力する者がいなければ、酒は「大いに思慮のある者でも」呼びつけて「大いに歌わせ、へらへらと笑わせ、踊らせる」(『オデュッセイア』14.464)のであり、方やこのような事柄をなし… Philodemus, Mus. lib. 4 p. 62 K. = SVF. 3 Diog. 61 さらに、他の能力のもとにある性質については、対象としてとらえられたものの性質は感覚を通じて把握され、それらからの快不快は、一方では自然に生ずる能力に、他方では学習される能力に属している。つまり、自然に生じ理知に与らない能力によって判断されるのは、それ自体で成り立つ性質そのものであるが、学習されるそれによるのは、むしろ、対象から我々への関わりにおいて成り立つものではないだろうか。最も身近な物事は明白な事実に齟齬せず欺くこともないのではないか。つまり、明白だと言われるものは理あるいはこれに類似のものに従って受け入れられるのである。というのも、類似の感覚は、対象が性状として苦いということに一致せず、それが快適か不快かということについても調和しないとしても、しかし同じ判断を下すからである。そして、これらにおいては、ある種の傾向性に反してバラバラな感覚が後に生じうる反面、聴覚の対象においては、異なる感覚が生じるということは全くなく、感覚能力全てが、同じような音調に同じような反応をなし、よく似た快を受け取るのである。その結果、それらは調和や音階に関する能力とは異なっているが、それも理性に関わりない感覚作用によるのではなく、思いなしによるのであって、そのあるものどもは、これに類似のものどものように、あるものは神聖で高貴で混じりけがなく純粋だと言い、別のものは男らしくなく愚鈍で自由人らしくもないと言うのである。また別のものは別様に、また違うものは別様に、となる。拍子や節に関する事柄においても事態はこれと類比的である。そして全く明白なことだが、音楽は、ただそれだけをとってすら全ての差異に応じてありとあらゆる形をとるのだとしたら、いかなる様式を表すこともないであろうし、別のあり方に応じて別様にだとしても、性状に応じそのようにしつらえられた変わらない聴感を動かすこともないであろう。またそれだからこそ音楽家は、どのような感覚がどのように配されているか分かるようになるような理解を求めて、ありもしない事柄の知識を探究し、なんらそのためにならないものごとを残すのである。 Philodemus, Mus. vol. 4 p. 65 K = SVF. 3 Diog. 62 節は節である限りにおいてはどれも理不尽ではないので、平静で不動の状態から魂を呼び覚まして、自然に性格をなす性状へと導くこともないし、急激に動かされ何かあるところへと運ばれている状態をなだめて穏やかに落ち着かせるということもなければ、総じて、ある衝動を別のものに転じることもできず、今ある性状を増減させることもできない。 Philod., Mus. Vol. 4 p. 65 K = SVF. 3 Diog. 63 つまり、音楽は模倣ではないし(そんなことを夢想した人々もいたけれども)、また(この人の見解がそうだが)模倣的な性格の類似は持っていないが次のような性質の性格は全て完全に現す、というのでもない。その性質とは、大度とさもしさ、勇敢と臆病、穏便と無謀のことで、これらを現すこと音楽は調理術以上だというのだが、そんなことはないのだ。それだから、特別に音楽がこれらの性質をそれ自体として持っているということはないし、それらを混合させて持っているということもない。また、聴覚の対象において調和した音によって作り出されうる限りでは、正反対の性状を持つということもないのだ。しかし…に対して彼が言う事柄…運動が…するのを他のところで我々は見て取るのだ。 Philod., Mus. Vol. 4 p. 66K = SVF. 3 Diog. 64 しかるに、音楽家達によって神に与えられている誉れについては十分に語られているが、先に…それだから、彼が論をまとめるのも、音楽が個別の市民に有益であるということではなくて、国民全体に用いられるとしたらということなのである。そして、その際これに続けて論じたのも、音楽の全ての種類ではなく、また、装飾の多い音楽でもなく、比較的簡素な種類の音楽なのである。さらに、万人によるものではなく、ある種のギリシャ人、それもある時代の人々による、もっと言えば、金銭を払ってギリシャ人になった人々によるそれをそうしたのである。…しかるに昔も、少なくともオリンポスの人々について言えば、彼等の最大の供物は歌舞音曲でもなければ、観劇でもなければ、観客を見ることでもなかったのである。しかしながら、彼等はこう言うかもしれない、観相、観客、劇場と言った語は誰かが「観る」という語から名付け出したのだ、と。つまり、これらの語と意味の重なる部分が多いのは「神」よりも「観る」だ、というのだ。また、神々の誉れのために受け取られるのは見られる物事であって、決して音楽や聞かれる技ではないと論じられている。さらに言えば、目で、また思惟によって見るということからこういった事柄は名付けられたのである。 Philodem., Mus. 67 K. = SVF. 3 Diog. 65 さて、音楽を通じての教育については十分に語られたので、讃歌についてそのような事柄を述べることにしよう。つまり、それはむしろ詩によって成り立っているのであり、音楽(現在の調査対象であるが)に関する事柄によってではない、ということを。…しかし、結婚に密接な関係を持つのは料理人や職人であるし、婚礼における利益として彼が語るものを与えるのは詩であって、音楽ではない。また、初児を非常に手短に奉納するということをする人々もいるが、全ての人々がそんなことをするわけではないし、そういうことをするのは結婚に際してであって、他のことの際にはなされない。結婚が無条件によいものであると言えるものならばそうなるのである。…事実、少なくとも恋愛感情は神聖なものでもなく、むしろ…しかし、この人の言う所では惑乱である。生じると言われる物事が成し遂げられるのも音楽を通じてではなく、詩によってであるし、音楽を通じても詩を通じても愛情が守られるということはなく、むしろ、非常に多くの事柄によって非常に多くの場合に燃え上がるのである。つまり、愛情を抱いている人々に生じるとこの人が言う事柄は、その都度明らかであり、言説が全く優れたものであることも明らかにしている。事実、追悼歌も詩であるが、全ての人々の悲嘆を癒すということは全くなく、時にはそれを留め、それどころか、増大させてしまうことも多い。しかるに、これに加勢して論戦を張るもの書きたちもいて、こういうものごとからよい情念やよい状態が帰結することはなく、むしろ逆に、過剰な状態に招くのであって、性格の陶冶が音楽のすることであるなどと認めることはできない、というのだ。 Philodemus, Mus. 4.69 = SVF. 3 Diog. 66 しかしながら、戦争のための共働活動についても十分既に書かれているのだ。…だが、戦闘行為の種類は全ての人々が念入りに取り扱っているわけではない。我々も、戦争から得られる便宜一般をしかも個々の場合において追求するだけである。… Philod., Mus. 4.70 = SVF. 3 Diog. 67 というのも、芝居から舞踊が取り除かれても大して問題はないからである。どんな舞踊にも、気高く美しい助けになるものなど何もないから。しかし、女性(の舞踊?)によって作品が作られても、そのよってたつ要が、気高さや節制や節度に到達することを大変重要なこととするのに妨げにならない限りでは、私は非常に危険で怪しい教説を信用することにはならないであろうし、ふしだらで乱れた酒神祭へ強く導く衝動を与えることもないだろう。これらについては後に言及するだろう。 Philod., Mus. 4.70 = SVF. 3 Diog. 68 さて、天井からの音楽は行動へと動かし鼓舞する何らかの調べを常に持っているとディオゲネスはまとめたので、転じてこう言いたい。もし、音楽はこの目的の為に摂理によって導き入れられたと言うのであれば、ここでそれを吟味するのはよいことではない。しかし、火が燃える性質を持っているがゆえに燃えると呼ばれるように、調べもそう考えるべきだとしたら、神に誓って大いに間違っている。…思うに、このような鈍い想定に対して展開された例が、船頭たちの用いる調べ、また、昔の収穫の際のそれや葡萄酒作りのそれ、何か道具を併用して難しい仕事を成し遂げようとする他の多くの人々のそれなのである。プトレマイオスもこのことを船引たちになしたと、この人は書いている。…オルフェウスが木石を魅了したのは決して調べがずば抜けて正しかったからではないと語られているのを耳にしているとしても(今日我々はこれを常々強調して言い過ぎるのだが)、それどころか、ストア派の人が言うように船頭笛手達や大工達にも同じことを当てはめているにしても、語るべきはあくまでもこうした際に使われる調べそのものであって、それがひどいということではなかろう。 Philod., Mus. 4.72 = SVF. 3 Diog. 69 愛らしい調べは魂だけではなく、張り直すようにして、肉体もある性状に置くと言っている。…それだから、かつては、肉体がある性状に置かれると示した上で、「肉体だけではなく」と言ってから「魂もある性状に置く」とより逆説的なことを加えねばならなかったのである。しかし、どこからどうやって「肉体も」ということを示すのかというのは、別に奇異なことでも何でもない。つまり、歌っている人々が人を動かしてある表情を取らせ自分も歌うようにしたにしてもそれは彼等の表情がそうしたのであって、調べが肉体を動かしたり何らかの性状にもたらしたのではない。調べ自体が何事かを形づくれるのでない限りは。 Philod., Mus. 4.73 = SVF. 3 Diog. 70 生物画家は類似性を当てるが、時に竪琴奏者は調べを当てることによって…するが、魂のそれというよりは、魂を引きずる物事のそれなのである。つまり、肉体に関わる力を合わせ得たものとして表しているのである。それ故に、物事を逆にして、生物画家を通じて接近するものは、魂を動かすものであり、[魂を]引っぱる物事によっては、肉体をもそうするものなのである、とせねばならない。さてそれとは別に、かつては不可能だったのに、まとめられた歌曲に何か似たものを画家は描くのではないかと嬉々として追求した人もいた。というのは無論、調べを作るのは並外れた技量を持つ人々だと考えられているし、知力に優れたひとがそういうことをできるのだとされているからである。 Philod., Mus. 4.74 = SVF. 3 Diog. 71 他方、これらの驚くべき事柄にさらに別の驚嘆事を加え、歌やただの詩も理知的な思考を大いに動かせるのだと言っている。…クレクソスの詩は、調べを加えるならば、調子外れではなく非常に厳粛なものだと思われるのである。また、エフェソスでの頌歌や、スパルタのコロスに歌われるものも、これを取り去られるならば、類似のことを何一つできないであろう。より大きく動かすということの証明にはこれで十分であって、それ以上を考慮する必要はない。つまり、このことに関しては次のように言うのはたやすい、と。まず、厳粛さや理知的な内容に調べが特別に何かを為すということは全くなく、それは聴覚の喜びに関わるだけである。また、それにしたところで、神々や人々の栄誉がさらに増されることによるのであって、調べが交渉を現すことによるのではない。そして、恐らくこうしたことが生じるのと同時に、詩人の性状が混ぜ込まれて歌われるのであり… Philod., Mus. 4.75 = SVF. 3 Diog. 72 …によって音楽を讃えることは裕福さの印だと考えられているが、教養のない私人であればそれもよかろう。しかし、教養のある人、あるいはもっと、哲学者の場合は大いに恥ずべきことである。なぜなら…卜占(ストア派の人々は賞賛に値するものだと考えているが)や、何もよいことをもたらさないその他数多くの事柄があるが、そのいくつかは劣悪なものだと既に論駁されているし、とにかく、哲学者はそんなものを賞賛しはしない…(三行欠)…全く逆に、最もすばらしいものだというので、音楽は様々な饗宴にやってくるのである。しかし、大衆を狂人だと思っている人には、彼等の判断に逃げ込むことは全く不可能である。それどころか、そうやって逃げ込むならば、彼等はかえって音楽を否定しなければならないのである。しかも後の人々のぞんざいさによって。 Philod., Mus. 4.76 = SVF. 3 Diog. 73 夷狄の(?)詩人の何か…気概をやわらげるもの、つまり「酒の中の声」とか「甘いお菓子」とかいうものが、食事の際に語られるものにはある。そしてこれが流されると、ある種の調べが食客の心を起き上がらせて、皆で一緒に調和して楽しむという所まで導くのである。 Philod., Mus. 76.25 = SVF. 3 Diog. 72 つまり、ミューズの女神達に由来する音楽が語られるということは、彼女等に人々は教養全体と全ての技術を帰するのだが…(ニ行欠)…また、取らねばならないのは万人に必然的であり… Philod., Mus. 4.77 = SVF. 3 Diog. 74 さて、古人たちが子供達を徳の模範へと導くためにこれを取り上げたということは理にかなっているが、ただ恐らく敬虔については別である。これについては悦ばしいことに我々は彼からある種の想定を聞くことができる。敬虔がとにかく音楽の形態に従って解釈され描かれるのである。そのあるものに従って、男のそれが必要な時に働くということについても、喜劇作者たちはどう証言しているかということを追求できる。つまり、優美に育てられるだけでは男らしくはならないと彼等は悪罵し候補から閉め出しているのだ。確かにそのあるものは生じはするが、子供には決してそなわらず、若者についてはそう言われうるとしても決して本来的にではないのである。というのも、提示されているのは大人の男にそなわるであろう徳に関してだからである。言うまでもないことではあるが、哲学者は自分の発言を、最悪の追従者達の論証よりももっと信ずるに足るものと考えているのである。…(五行欠)…今時の哲学者達や罰された他の人々はひどい者になってしまったと非難した。 Philod., Mus. 4.78 = SVF. 3 Diog. 75 では、節制や勇気について語られている事柄をこうして論じ尽くし、理を得てしまったことでもあるし、愛に関する事柄に進もう。さてまず第一に、愛に関わる欲望はひどく劣悪なものであり、少なくともギリシャ全土に知られているそれはそうなので、愛に関わる徳があるなどと認めるのはとんでもなく笑止である。さらにまた、愛の一部分が正しい陶冶に助けになるなどと考えるのもそうである。[愛の諸部分は?]音声という性質のうちに置かれているだけで、[愛全体は?]教示の言説にとっては無駄で有害なものを膨らまして駆り立てて、無知無能に至るまで感情を育ててしまうのが本来の性質だから。…(一行欠)…そして、どれほど無形で捕らえ所がなく、無秩序と放埒に至るほどであるということを見ない… Philodemus, De Musica col. 28.1 (79 Kemke) = SVF. 1.486 (Cleanthes) クレアンテスによることを即座に言おうと思わないにしても。彼はこう言っているのだ。詩と音楽はより優れた範形である。哲学の鬣は動物や人間に関する事柄は十分に語ることができるにしても、神の偉大さの飾りとなるのに親近な言説を持ち合わせてはおらず、神に関わる事柄の観想の真理に最もよく接近できるのは節と調べと拍なのである、と。 Philod., Mus. 4 col. 13 (79) = SVF. 3 Diog. 76 このような事柄に加えて…と…ありそうなことではあるが…自由…愛を得ようとして、ティモテオスを…らのために… Philod., Mus. 4 col. 14 = SVF. 3 Diog. 76 高貴な人々の歌にしても、他方淫売たちのそれにしても、本性上そうだというのではなく、空疎な性状のもとでそうなるに過ぎない。また、これが印を表すのは、こういった事柄ではなくて、思想である。それがたまたま節も表象によって投げ入れたというだけである。彼等が、イビュコス、アナクレオンや類似の人々を若者達をだめにする者として示したのも、節によってそうするのではなく、思想によってそうするという意味だったのである。事実、サッフォーが語った言葉も、何か害があるとしたら、これらによって堕落させるのである。さて、節でも、音声の持つ性質に整合するものは…ではあり得ない…同様に種々の節を通じてではなく言葉そのものと思想を通じて、愛される人々を悦ばせるのであると、彼等がお望みであれば、我々も同意しよう。また他方、アリストファネスも崩れた節で古人達を表現したし、それは、古人達が声と目を用いて自ら淫売を行い、節を用いてそうしたのではないのと同様なのである、ということも同意してよい。しかし、このような事柄について語られたのだとしたら、嘆くということも我々はこれに加える。つまり、これらの事柄は、疑い得ない事柄として語られたことに関わるわけでもなく(君達の言うのは自分達に当てはまることに過ぎない)、醜い交際や、女々しさに傾きがちな年頃の男女若者に関わるわけでもない。というのも、この人にしろ喜劇作者達にしても、アガトンやデモクリトスに関する事柄のうち何かそのようなものを提示したわけではなく、ただ話題にしているに過ぎないからである。また、ニカンドロスもそうではないし、また…これは…などによって表された…しかし、何かそうである限りは惑った。 Philod., Mus. 4.80 = SVF. 3 Diog. 77 事実、音楽は愛情における不具合をなだめることができない。というのは、そのようなことは言理だけに属するのであり、[音楽は]むしろ愛欲や酩酊のように人々を振り回して不注意にさせるのである。そもそも、詩は、あからさまにされたにせよ(ピロクセノスもそうだとしておこう)、ほのめかされたにせよ、完全に間違っているわけではない。同様にして、メナンドロスも、音楽はある種の起動を与えることによって多くの人々を駆り立てるのだが、それは邪悪なものではないと言っている。 Philod., Mus. 4.81 = SVF. 3 Diog. 78 無論私もどういうことだろうかと思っているのだが、エラトーに至っては、勝義にそう呼ばれる音楽が、愛情に関わる徳に貢献すると明らかにすること詩作以上であり、さらには哲学よりもよいくらいであると言われているのだ。つまり、ミューズたちには全ての物事が献上されているのだ。また…感情に対抗するどころかそれにへりくだることである。 Philod., Mus. 4.81 = SVF. 3 Diog. 79 しかしながら、愛情に関わる徳に音楽が貢献しないのは明らかなので、それに親近だと言われている、饗宴に関わるそれや、一般に饗宴にそうしないのも明白である。この私としては、饗宴の徳と呼ばれているものは、そこにいる人々によってこねあげられるものをそういうのでないとしたら、思慮に基づくものだと考える。しかし、それも即座に思慮ある人々に備わるのではなく、不機嫌に乱れていて、その場にいる人々から離されるべき人々がいるからといって、饗宴に愛情を調和させるわけでもない。無論、饗宴に親近な音楽というものはあるし、ホメロスにおいて適切に示されているが、そういうやり方もある。さらに、饗宴中でも気持ちを緩めて戯れるということが必要になることもある。自由人にはそれ以上にふさわしい気散じなり遊びなりは何もないということはなかろう。つまり、歌ったり竪琴を弾いたり踊ったりすることが一番いいということはないだろう。また、愛情のうちで非常によいものが、音を出して演奏される音楽に関するそれだということもないし、笛ならなおさらである。酒を呼ぶことが必然であるとか、思慮ある人が…といわれる限りの全ての事柄をなさねばならないということに私は同意しない。 (col. 17)転換するにしても不格好にではなく、調べにかなって。 ↓ Philodem., Mus. 4 col. 17 (83) = SVF. 3 Diog. 80, 81 あの箇所でも有益なことが言われていた。つまり、単なる一般私人たちも親近なもので楽しむのであり、とにかくも、歌舞音曲を饗宴に迎え入れるのだが、ホメロスもヘシオドスも、(10)あるいは節と調べを用いる他の詩人も迎え入れないから全く見当違いなことをしているのだ。つまり、こういった人々を用いれば饗宴はもっとよいものになったであろう。少なくとも節の専門家である音楽家ではなく詩人を迎え入れたとしたら、音楽をよりよく用いることができるであろうか。またこのように、残りの生涯において、この人が書いているようにその全てではないにせよ、(20)かなりの時間、色とりどりの娯楽を種々の音楽によって提供することを認めるとするならば、さらに色々なものが、音楽と結び付けられた物事によって生じると言うべきであろうし、しかもそれは音楽そのもの…(SVF.81)ではないであろう。それで彼は何かこういうことを書いている。魂への導きが(30)個別にもたらされるのは叙情詩人においてであり、カマイレオンが注目したことにも当てはまる。そのほとんど全ては、思想や詩学の描写に関する事柄である。 Philodemus, De Musica lib. 4 p. 84 = SVF. 3 Diogenes 82(?)  逆に今度はこう言われる、愛情に役立つ音楽をわれわれが見出さないとすれば、友愛に向けて親近にさせることもないだろう。  (col.18)饗宴にそれが調和することを認めはするが、その目的としては歓待だけではなく何か別のもの、つまり快楽を設定するのだから、あの饗宴のために役立ちはしないとわれわれは同意するだろう。こうして、友愛にもそうではないのである。…それ自身ともつれ合ったこうした思考をほぐして盛り上げたりもしない…  (p.85)しかしながら、飲み物や食べ物の喜びや全ての快楽のように、ほぐしたり上機嫌にするとすれば、友愛と共和の原因をこのものだけに帰することはできないし、別のものによって上機嫌になって我々が最大限に解放されることもない。 11 Philod., Mus. 4.85 = SVF. 3 Diog. 83 我々は認めないが、スパルタ人達は理解に苦しむ事柄を通じて次のことを証言しているというのだ。つまり、彼等はタレテスを呼び寄せよとのピュティア神託を得て、なるほど彼がやって来ると彼等は不和から解放されたのである、と。つまり、彼等が本当に証言しており、作られた物事に追従するだけではなく…音楽家達にも。つまり他の人々はこれに異を唱え…ない…(col.19)奉納文で空威張りしているだけで、いくらそういうことを碑文にして奉納したところで、それはこの人々の言う通りである。 ↓ Philod., Mus. 4.85 = SVF. 3 Diog. 84 承服できないのは、テルパンドロスが神託に基づいて呼び寄せられたのは同族の内乱を鎮めるためだったということである。ミューズに憑り付かれた非常に多くの人々がこの点で一致しているにもかかわらず、(10)ほとんど一人だけこの人は、テルパンドロスがピレイテイア人の集まりで歌を歌ったと言っているのだ。それならば実に、哲学者達こそ説明をするべきだった。一体全体どうしたら、理に与らない韻律が、理に与る不和を停めることができるのかと。そうすれば、タレタスやテルパンドロスの音楽がスパルタ人たちのそれを鎮められたというのも納得行くというものだ。 Philod., Mus. 4.87 (col. 20) = SVF. 3 Diog. 85 しかしながら、ステシロコスに関する事柄も明確に記録されているわけではないし、ピンダロスの詩が(10)不和を止めたかどうかも我々は知らない。もし実際どちらとも本当に起ったとすれば、説得力があったわけであり、詩として成功したことにはなるが、それはあくまでも組み立てられた言葉によってそうしたのであり、韻律によってそうなったわけではない。もっと言えば、もっとうまく目的を達そうとしたならば、散文ですることにしたらよかったのである。というのも、この人々は型から外れることを恐れる気持ちを払拭できなかったからである。例えば、ソロンはサラミスの海戦に及んで、憑りつかれたように振る舞いながら(20)悲歌形式で忠告を与えたほどである。  (21)『子孫達』の曲は、我々も粗描するように決して訳の分からないものではない思想を備えてはいるが措いておこう。これは…喜劇作者特有の書き方がなされているからである。この曲は神話体なのである。 12 Philod., Mus. 4.88 = SVF. 3 Diog. 86  (col. 20.28)しかるに、敬虔について彼が著した事柄に転じて、こう言いたい。(30)世人が音楽によって神を讃えていることからして、音楽は敬虔に親近であると考えるならば、料理術もそう考えるべきであろうし、花環作りの術や、香料製作術、パン作り術、さらには、農学や建築術、(40)絵画術、彫塑術、ほとんどの仕事がそういうことになる。さらに、この哲学者の思想に従うならば、親近性はないということになろう。というのも、(col. 21)この術によって賞賛される神は一柱もないからで、それもそのはず、ストア派の人々によると大衆は神々にとって仇敵であり、最強の物事にふさわしい真の栄誉など全く知らず、夢に見たことすらないからである。こうしたことに加えてまた別の理由もある。つまり、詩によって大部分の栄誉はもたらされるのであって、節はほんの少し何事かを加えるに過ぎないのである。(10)ピンダロスもそう考えていたということである。というのも彼もこう言っているからである。自分は捧げものをしようとしてディテュランボス詩を作ったのであると。しかしながら、そのくらいのことなら、あらゆる神々に歌を配している喜劇作家でもしている。そうでなければ何ら注目に値しないし、少なくともたわごとをぬかしている音楽家達と同じである。まさかディオゲネスまで、それぞれ神々にはそれぞれ別の節が適していて、各々の神に各々独特なものを捧げるものだと考えているわけではなかろうが。 13 Philod., Mus. 4.89 = SVF. 3 Diog. 87 そして、他のことを彼が言ったところで何を驚くことがあろうか。というのも、知性に対しても(col. 21.25)有用だと思われるのだから。定義や分割や論証が大いに和音学にはそなわっているのであるから。音楽家達がこういった物事のあるものをかくかくに定義し(30)…を別様にするように、同様に、弁証法に従って結論を導くこともできるというのだ。音楽家達もこうした物事には気付いており、それが分からないほど無思慮な笑うべき人々ではない。あるいはこう言ってもよい。こうした物事に多くの経験を費やし、それら全てを相似た仕方で営むことが可能ならば、全部が(40)同じように理解力に役立つと言うべきで…(ニ三行欠)…(col. 22)そのような術より…見い出すだろう。こうした物事を得られないとしても、何か大変に深くさえあるものを。しかしながら、万事に亘って技術をたしなむわけにはいかないだろう。ところが他方、思慮に由来する術のことを言っているのであれば、論証などできないはずである。どれだけ極めようが、他の技術よりも音楽の方がそのような目的により貢献するなどとは言えないだろう。 14 Philod., Mus. 4.90 = SVF. 3 Diog. 88  (col. 22.10)また言うには、「批判的な」それによく似た理論を哲学者達も持っているなどとしているが、無知をさらしている。それも、整った調べや節にも相応しいものと相応しくないもの、美しいものと醜いものがあるのだが、それらに関する「批判的な」理論とやらをよしとしているだけではない。それどころか、仮に何かそのようなものがあったとしても、(20)哲学を営む者達にこの判断を認めていないし、さらに、神かけて言うが、批判的な理論の限りで言えば−−何か類似のものを音楽はそなえていると彼は言っていたのだが−−、この種の人々だけではなく、「批判派達」と呼ばれる人々にすらこれを認めてはいないのである。  (27)また、詩学に類比されるものがあるとか、模倣や(30)その他考案された理論を根拠として、書いているが、模倣に基づいてということであれば彼は論証できていないし、他の考案に基づいてということでも、この術に関する限りうまくいっていない。少なくとも他の技術における以上ではない。  (35)無論、節を書きそれに返すことには、文法の学に何か似たものがそなわっているとしてもよい。  (39)というのも考慮せねばならないことが何か… 15 Philod., Mus. p. 92 = SVF. 3 Diog. 88 (col. 23.27)事実ディオゲネスの言うことはこうだ。ヘラクレイデスが大まかに論じたことを考慮してみよう。(30)つまり、適した節とそうでないそれとか、勇ましい性格と弱々しいそれとか、その都度の対面に調和した行いとそうでないそれらとかについて書かれたものだ。そうすれば、音楽は哲学とそうひどく隔たってないと思われる。人生の(40)ほとんどの物事に関して有用であるからだ。また、 ↓ (col. 24)この術に携わることで、ほとんどの徳、それどころか全ての徳と言ってよいのだが、に親近な性状にいたることもできるからだ。こんなことを言うのだ。しかし、我々が注釈の第三巻で表したことだが、他の連中が言っている類似の事柄ともども、我々はこんな言説がどれほど馬鹿げた事柄に満ちているか示したのである。 22 Philod., Mus. p. 4.105 K = SVF. 3 Diog. 90 (col. 34.23)さらに言えば、神など何ら、音楽を発見した者にはそなわっていなかったのであり…神が人間に伝えたのでもなく、我々が先に論じたようにして徐々に学んできたのである。しかしながら、理知や思慮や、(30)教えられるような知識をヘルメスやアテナやミューズだとみなした者は誰もいなかった。敬虔なことだ。さて、理知や理論が音楽をもたらしたのだとすると、音楽など何の役にも立たない。最悪の物事すらもたらすのだから。しかし、理知や思慮や、教えられるような知識を捩じ込む必要があるとすれば、それらをこそ(音楽の依って立つ?)原因と言うべきであろう。