ピロデモス 『雄弁論』 Philodemus, De Rhet. 1 (P.Herc. 1427 col.4.7) (1.10 Sudhaus) = SVF.2.125 = FDS.72  知っておくべきは、人が決して善を語れないということである。弁証の技術は存在はしていてもそれ自体として何か対象を仕上げるということはなく、倫理学や自然学の理論と合わされねばならないように(ストア派にはそういう理解をしている人々もいる)、弁論術も存在しているだけでは仕事をなすということは決してできず、政治問題と絡ませられねばならないのである。 Philod., Rhet. 1.329 Sudh. = SVF. 3 Diog. 91  説得力のある仕方で、我々の望む生き方を称賛することも、また逆に、そうするのがよいと思うのであれば、まさにその生き方を非難することもできる。それだから、我々が言う生き方が、あの連中のそれよりも健全であると言う言説こそ健全なものだと主張し説得することもできる。彼は言う。この種の言説が健康を求める人にためになるということは無視できないことであろうが、他方、健康になることそれ自体には何も貢献しないだろう。 Philod., Rhet. 1.329 Sudh. = SVF. 3 Diog. 92  思惑に従う事柄には真実のことなどほとんどないのが本来だと弁論家に思えたとすれば、空疎な思惑に従う事柄に対峙させたところでそれは耳がよく聞こえないのと同じだろう……明白なものへの関わりを持たない事柄(形態?)やとにかくそのようなものを全く何一つ持たないものを弁論家達が残すのは。しかしながら、課題を仕上げることにおいては、いかなる点でもこれが音楽に由来するものとは思えない。というのも、この述に従う事柄は、ただ理屈をこねるだけではなくそれらを全ての人に辿りやすいものとする際にもちいられる種々のものよりも劣ってはいないからである…… Philod., Rhet. 1.332 = SVF. 3 Diog. 93 自分達自身をまた……説得力を持つのは分かりやすい事柄ではなく、諸々の群衆や法廷に関する事柄の徹底した考慮なのである。ここからして、自分自身に何事かを問い訊ねる者は誰一人として家族や息子や妻のために配慮などしないのである。さて、五ムナを巡って訴訟沙汰になったら、人々はどうやって説得しようかと考慮に躍起になる。他方、何でもいいが、邪悪な欲望にまつわる虚栄心からタラント銀を使い切ることになり、その後で自暴自棄になる者は、あるいは妻の、あるいは息子の、(……等々) Philod., Rhet. 1.333 = SVF. 3 Diog. 94 スパルタ人達にマラトンに留まるよう説得した人のように。「ではあなたは何をしようとしているのか」と訊かれたので、彼は言った。「地峡と隘路がまだ残っているし、要塞を包囲するだろう」「ではあなたはマラトンへ行ったのか」と言われると、こう言った。「しかし、あなたはこの場所について詳しく訊いたのではないのか?」頭を反らして否定したので、言った。「では、そういったものの有無を知らないで一体何をしようとしているのか」こうした相談役達は政事に恐るべき人々だと思われていたのだが、この人と同じ風に言い(……等々) Philod., Rhet. 1.333 = SVF. 3 Diog. 95 つまり、彼等は市民も利用するし、国家や友人達に役立つならそういうものもそうすると白状しているのと同時に、この術に関しては、それ自体は悪いものではなく、使う人間が悪用しているだけだと言い訳している。あたかも、国家や友人達に欠くべからざる有用な人々となる人々が、まさにその能力において無思慮な風になるということがあり得るというかのように(……等々) Philod., Rhet. 1.334 = SVF. 3 Diog. 95 時に国事においてこの術をいいかげんに用いる者はひどい連中なのである。つまり、国家や友人達に是非必要で大切なものとなる人々が、折角矯正した人々を無思慮に扱うということはありえないし、無思慮で邪悪で賄賂を贈るような人々が国家や友人達に有用であるということもありえない。 Philod., Rhet. 1.337 = SVF. 3 Diog. 96 弁護人もそうである。まず何よりも注意せねばならないのは、若者から弁論への熱意を奪わず、むしろ法廷弁護の過程を通じて大いに刺激することなのである。というのも、そうすれば、何か他のことが語られる際にも、アウトリュコスや類似の事柄について語られるのと同様の、効果的な能力に驚嘆するのである。 Philod., Rhet 1.343 = SVF. 3 Diog. 99 他の人々はこの第一の点にわずかな注意しか払わず、それなのにこうした問題に則してこのようなことを書きなぐって言い負かされるだけでなく、しばしば一般人に文句を言われるのである。真理だの「物事に関する不動の経験」とやらだのほどの説得力はない。 Philod., Rhet. 1.344 = SVF. 3 Diog. 97 有能な哲学者が、書記だの舞踊家だの取税人だのにもうなってしまった人々や、そして若さを売りに出してしまっている人々にこのことを見逃せなどと命ずるとは、笑止なことである。退くのではなく、生じた結果に対し何かなすよう言えと命じたのであれば、さらにどうしようもない難しいことを生ぜしめているであり、その際の個々の事柄について語っているのではなく…… Philod., Rhet. 1.344 = SVF. 3 Diog. 98 [彼等が劣悪なものであるということの証拠がこれだと信じ込んでいる人がいたとして、*]それは弁論家達は、自分が提示したことを互いに対立する意味で述べているということであるとするならば、哲学者達が最高にひどい者達であるということの証拠は、彼等自身の書いたものが互いに対立しているということになると思われる。場合によっては虚偽すら語るのも彼等は厭わないというだけに一層そうである。 *註にある想定。 Philod., Rhet. 1.345 = SVF. 3 Diog. 99 医者達の持つ技術が健康を作り出すものではないと示すことにはならないのだから。たとえ、どんな薬が病気を治すか個別に学んではいても[術そのものには]無知である素人によって健康が得られることがあるとしてもである。弁論家でも卓越した人々なら本業で素人よりも劣ることは滅多にないし、大きく差を付けられることもそんなにはないが、何か例えば、体が病気のために声が出なくなったり、何か精神状態が悪く口が開かなくなると、モゴモゴ言うにも程遠くなる、というのだ。 Philod., Rhet. 1.346 = SVF. 3 Diog. 99 「不動の経験」である。これは弁論家たちに反することではなく、むしろディオゲネスや類似の人々が弁論家について公言していることに反しており、賢者だけ[が弁論家?]であるということを否定しているのである。というのは方や……国家に有益な事柄の各々についてその真理を……に関する知識の蓄積にそくして……して……(等々) Philod., Rhet. 1.346 = SVF. 3 Diog. 100 ……フィロンのもので、これをパレロンのデメトリオスは『弁論論』の中にそれをまとめたのであるが、おそらく他の事柄もあろう。まさにこのフィロンのものも、別のフィロンが考えたものもあった。つまりあるいは、確からしい事柄のうちより確からしいと思われるものは……しかし、あまり確からしいと思われない事柄は、それらを請け負うことを控え、まとめて処分する……また……政治に全く無経験の賢者を、……から最高度の経験を積んだ弁論家は……また有能な……(等々) Philod., Rhet. 1.347 = SVF. 3 Diog. 101 ……まるで出鱈目な事柄であろうと、出鱈目ではない事柄であろうと、さらにまた、ほぼ類似の事柄が語られているが、それらを通じてディオゲネスに騙されているというのだ。そして、弁論家は騙さないということなどたちどころに論じてみせるとしているが……説得力は最高である。説得……(等々) Philod., Rhet. 1.348 = SVF. 3 Diog. 102 弁論家の先人達でも偉大な人々は洞察力をもって政治家人生を生きたのであるし、生活に密着した多大な善導を国家の中に作り出したというのだ。それにひきかえ当代の……(二行後)……方や人々……(等々)  (col. 53,9)群衆にも当てはまるのだが、学んだことがなく……名声を得た人々の経験からでもなく、最高権威に達した人々の立派な振舞からでもなく、かえって……おしゃべりについて  (col. 54)そしてこれに似た人々には何も学ばない者達もある。つまり、経験によることはできるし、最も立派な人から経験によって何かを得ることもできるし、最も立派な人から原理に至ることも可能であるが、徳において完成された人々や国家を治めるのに有能な人々はこの限りではない。単なる物語にそうである人々は別だが。 Philod., Rhet. 1.350 = SVF. 3 Diog. 103 他方、黙っていられるということから始めた人々、例えばクセノクラテスの下にいた人々、は唯一無比の人々であり、神にも等しい人に気遣いながら――各々が同じ人についているのだから――話すすべを知っていると信じることにしよう。パレレウスが『雄弁論』の中で語っているように、クセノクラテスもアンティパトロスやその同席者がいる所ではそのような対話をすることができなかったとすればそう言える。 Philod., Rhet. 1.350 = SVF. 3 Diog. 104 研鑽を積んだ弁論家達の内でも最も知識ある人々は、哲学者達から申し出られた補佐を通じ、例えばペリクレスやその他の指導者達、なかんずくデモステネスといった人々の下で指導されたのであり、あんな類の間違いを口に出すことはなく、ソクラテスがアルキビアデスやクリティアスに質問を投げかけたようにするのである。弁論家のまさにそのような素材に与っており…… Philod., Rhet. 1.351 = SVF. 3 Diog. 105 ……を……紹介した。しかし「武器」に関してはそうは思われない。というのも、全く育ちのよくない事柄を騙すために謀って用いるのであり、弁論家の教育というものは全ての理論をこのことに向けて延ばしているのであって、虚言の元祖はヘラクレイトスの下にある。 Philod., Rhet. 1.352 (351?) = SVF. 3 Diog. 106 それだからアリストパネスは彼等を狐にたとえている……  (col. 59)物語をよく描いていると大いに信じ込んだ人々のうち、生れも悪くなく称号のない者でもないある人になぞらえてであった。彼はアレクサンドロスのみならず彼の父をも激怒させたのである。……喜劇作家を、このような人々に関わる弁論家から……罵詈雑言を思い出し、そこからして、こう言った、悪くはない……  (col. 60)加え……考え合わせ……少なくとも今は戦……知を愛する性格に……対し……哲学者を。しかしながら、さらにこうしたこと全てに注意しつつ打倒しようではないか。はたして、我々は我々自らのゆえに我々自ら万事これに似たことを言わざるを得ないのかということを。というのも、誰がディオゲネスを論破できないものか。脅かすだけで、自分達の見解に則して十分納得のいく説明を与えることもできない彼を。プラトンに出てくるポロス(?)の方がましである。……  (col. 61)語られた言説が、その方法を知ることを妨げないと言うことに似ていると言うならば――新規に見える……仕事をする方法、スリをする方法、無論広く人々に用いられないが、必要とあらば現れる方法を――それは何も答えられないということと同じである。というのも、……にこれを用いることは……に対しても……  (col. 69; p. 359)デモステネスやリュクルゴスがハルパレイア(?)について語ったことは間違いであると彼等は示そうとした。また、最も信用されている歴史作家に、彼等が語ったということを書いている者がいるとし、まるで曖昧極まりないとくどくど述べ、自縄自縛、無恥の極みを行ったのである。おそらく彼等は全否定するであろう。アレクサンドロスが彼等を怒らせたことも、もっと前には父親を……も…… Philod., Rhet. 1.351 = SVF. 3 Diog. 105  (p.354 col. 62)というのも、全く育ちのよくない事柄を騙すために謀って用いるのであり、弁論家の教育というものは全ての理論をこのことに向けて延ばしているのであって、虚言の元祖はヘラクレイトスの下にある。ともかく、理論を全部開陳すること以外に一体どうすることができようか。そこへ向けて話はなされるのであり、さもなくば単純に何も言わないのと同じであるのに。あるいは誰かかつて、このことを、それらのうち既に弁じられたあるいは語られたことから許すことがあれば……  (p.355 col. 63)多分恐らく、聞き手を騙すための何らかの始点をある種の人々に与えているのである。「しかしながら、神かけて言うが、武器についてそんなことを言う者がある、つまり、騙し討ちの切っ掛けを与えていると、こんなことはないのである」そうなればこう言っておく必要があるとこの私は言っておこう。つまり、弁論の理論においてはこのようなことは起るのであり、そのあるものについてはより一層そう言える。もっとも、全体としてこのようなことへの導入を目差しているわけではないものの、と。 Philod., Rhet. 1.355 = SVF. 3 Diog. 107 事実、余計なもの、つまり肉体の強さ、美しさ、その他数えきれぬもの、を引き合いに出すことなど誰でもできたが、それは、ある人々には不正への切っ掛けを与え、多くの人々が損得の故に讃え仕方なくしていること、ディオゲネスにすら言える「貴重な提言」を与えながらである。もし、本当に戦える者が弁論家であり、沈黙を……  (col. 65)このようにして、ストア派の連中を(?)……できる人もいるだろう。全ての哲学者がこのような者であると思われているというのではないにしろ、そのようではない弁論家もいると示すわけではないにしろ、この者が子供じみた人間でもあるのなら、疑われているのではないかとか反駁されるのではないかとか余計なことを考えて、このようなことを加えたのである。「もし、生え抜きのものに本性上劣るものがあるとすれば」……自分自身から利害を被る人々や言論を…… Philod., Rhet. 1.357 = SVF. 3 Diog. 108 スパルタにおけるように、弁論家がよいものだと思われていることを責めた。しかし、他の多くの偶発事や邪悪は全く人為的なものである。というのは、容認してよいことだと思うのだが、哲学によって駆り立てられた人々でさえ上述の事柄のある種の原因であるか原因の一端であると論証することも可能だからである。また、僭主制から民主制を、敵から味方を、最悪な災悪から平安をもたらすすべを見い出す弁論家達を得ることなどたやすい。  (col. 67)同様にアテナイでも僭主の類いが生まれた。総じて又は大部分の弁論家が市民生活全般に関わっている所でである。また、いかなる都市国家でも、神かけて、弁論家が民主制から僭主制へと転じるということはない、ということが真実でありえるにも関わらずである。しかるに、種々の原因が……ということについては沈黙しよう……しかし解説される所では共通の原因があり、全ての民衆に生じるであろう…… Philod., Rhet. 1.358 = SVF. 3 Diogenes 109 しかしアイスキネスはアテナイ人達に対しデモステネスを責めることができず、人々は船員から転じた人々がギリシャを導いて転覆させるのを止めなかった、とは言わなかった。そこで、ディオゲネスがこう言っているのはよくないと言われている。「アテナイ人達は弁論家そのものを使いこなしていない」と。 Philod., Rhet. 1.359 = SVF. 3 Diogenes 110 アテナイは弁論家を追放して死んでしまおうというのだ。もし、弁論家たちがしゃしゃり出るのを妨げない都市がいくらかあれば、ただ忠告を求めるだけではなく、多くの巨大な都市が彼等を使い続けるというのだ。しかし逆に、全ての都市が弁論家たちを誇るわけではなく、この者の言うところでは、敢えて使い続けているわけでもないというのだ。というのは、他の人々に関しても、悪事を働く者たちもいれば、何かよいことを語る人々もいるからである。 Philod., Rhet. 2.202 = SVF. 3 Diogenes 111 政治的な人間であると君達が呼ぶ類いの全き有徳者たちのうちにあるのだから。……しかし、ポキオン人達の中には誰一人、自身の言論によって民衆を救うと言われる者と呼ばれると思われるとしても、ディオゲネスによれば、全く優れた者ではない。 Philod., Rhet. 2.203 = SVF. 3 Diogenes 112 麗しいことのために政治に手を染めたのではない場合……まるでスキタイの荒れ地で論じているかのように書いている。つまり、他の点はよしとしよう。というのも先に、何故麗しい事柄のためでないなら手を染めてはならないのかということについて、調和した言説を我々は展開したからである。[二行後]しかしストア派が念頭に置く者などいなかったし、今もいなければ、今後もおよそいないであろう…… Philod., Rhet. 2.204 = SVF. 3 Diogenes 113 こうした事柄の後で信用ならないことを大いにぶつけてきたのである。「明らかに、この種の諸知識に与らない者達、時間の無駄遣いをし浪費する者達、その類いの物事のためにずっと休みのない者達、その種の事柄を請合う物事にいまだかつて身をゆだねたことのない者達は、いずれもそうではない」 Philod., Rhet. 2.207 = SVF. 3 Diog. 114 また、弁論家に見える人々でも正道に導きまた導かれるなどと言い続けたことも、毒舌や侮辱を喜ぶ人間のすることである。というのは、正道に導いたのは弁論家の内でも高名な人々であり、自ら監査を引き受けたのも彼等であったと我々は聞いているし、政治的な生き方はその類いのことをしたりされたりすることを好むからである……等々 Philod., Rhet. 2.208 = SVF. 3 Diog. 115 ディオゲネスが語った有能な市民というのが、そういった物事を何一つ取り上げず、何にしろ心地よさに合わせて褒め称え、とりあえず理屈は付けておくか、遍くありふれた事柄を何か別のやり方で小分けにしている連中だけであるなら、弁論家達に関する事柄は何一つ語ったことのない我々のほうが恐らくましである。つまり、そのような者達も出るには出たのだが、他方沢山の人々が、実際の役に立つ事柄を忠告し、もっと重要な考えを備え持つ事柄をそうしたり、忌憚なく言論を交わした上で統治をし、ありふれた事柄に対する怒りを注ぎ込もうとする人々に論戦を挑み、我々に正しい物語を語ってきたと、我々は考えていたのである。 Philod., Rhet. 2.209 = SVF. 3 Diog. 116 しかしこうした言説(人々?)とは一貫している。彼は言う。「こう言えば十分なはずである。政治家は国家単位で政を治めるが、弁論家はそれもできない」と。  (col. 7.7)だが事実、より個別具体的な名称に値するものを政治家が、率軍や艦隊長の能力があるということにまで広げるということはない。 Philodemus, De Rhetorica vol. 2. p.210 = SVF. 3 Diogenes 117  笑止なことにさらに彼はこんなことも言っている。「弁論術が本文だと主張するものが政治的な事柄の全てではなく……私的にまた国家規模で進言をなすこと……(一行欠)……賢者が国家規模の支配の全てを……(三行後)……だけでなく……から思慮を……また、立派な人が善い問答家であり、文法家であり、詩人であり、弁論家であり、全ての技術において完全に道を極めた人であるということにとどまらず、そういう人は国家の役に立つ人でもあるということになる。彼はアテナイやスパルタに住んでいる人たちだけと同胞であるわけではない。というのは、無思慮な者たちには国制も法律もないのだから。むしろ、彼は神々と賢者たちからなる機構に対してそうなのだ。そこでは、彼は王であり、陸海将軍であり、管財人であり、執行人であり、その他の統治体制をやり方に従って治めると言われる。政治的な者は必然的にこうした全てのことの知識を持っていなければならないので」 Philodemus, Rhet. 2.214 = SVF. 3 Diogenes 118  この術で審議に関する部門を切り離す者達もあれば、裁判に関わるそれ、統治に関する経験をそうする者達もそれぞれあるが、これは医術や画術やその他の諸技術においても同様である、というのだ。それならば、デモテステネスやデマデスの辺りで審議や裁判に関する分野を仕上げた者達がこの部門に関してアテナイ人たちに信用されなかったのはもっともであるというのだ。彼らはそれに経験を積んでいなかったのだからというので。 Philodemus, Rhet. 2.216 = SVF. 3 Diogenes 119  美しく老いることに弁論は役に立つというのだ。彼は言う。「もちろん馬鹿にしてそう言うのだが、スパルタ人は何でも口で言うだけで望むことを全て丸く治める」しかしそもそも言うまでもなく、スパルタ人に彼等の望むことを何でも、たまたま話されただけで、任せる者など誰もいないだろうし、彼等が弁論に長けているとか習熟しているとか言う者もいないだろうに、ディオゲネスはデタラメにこんな持論を展開しているのである。だが、何しろ歴史ある人々だから、彼等もそれに貢献してきたということには同意するにしても、彼等に弁論の経験はないということはともかく周知のことなので、それで弁論をダシに使っているのであって…… Philodemus, Rhet. 2.218 = SVF. 3 Diog. 120 この故に、弁論家でありながら立派に使節を務める者などいないというので、政治学は弁論とは全く関係がないというのであれば、弁論も政治とは全く関係ないという説も歓迎したはずである。 Philodemus, Rhet. 2.218 = SVF. 3 Diog. 121 「しかし神かけて、アテナイ人たちも弁論を愛する人々であるからこそ指南書に当り、弁論という技術や学問に携わる人々に向っていくのである」だが、今アテナイ人たちがこういうものに「当たる」などと言うことは笑止千万である。 Philodemus, Rhet. 2.220 = SVF. 3 Diog. 122 語ることに関して言えば、それでも知を愛する人々でもあるから、君やクリトラオスのように無意味なことを言う性向は誰にでもあることだし、明晰に語る人に耳を傾けるであろう。「ともかく、政治に関る弁論家の経験は、時宜を得ることに要点があるので、時には引き伸ばして長広舌をすること説き、時には非常に短く対話することを、また時には全く口を閉ざすことをそうするのだ」知識や経験から、受け継がれてきた最たるものを取り除いているのだから、まして好期を逃す輩もいることだし、この男は笑い者である。 Philodemus, Rhet. 2.220,25 = SVF. 3 Diog. 123 「しかし、都市国家を解放し援軍をなせるのであれば、卓越した弟子であれ、また、女性が男性に、恋する者が恋される者に対して有利になるということはどうやってもできないと彼等は抗弁するのであり、ある意味では……友愛を……。というのも、同じ経験から一つ一つを合わせるのであり、沢山のものもそうであるが、それは丁度、同じ経験から一つの竪琴を別のに調和させ、沢山のものを沢山のものにそうするのと同じであるから、というのだ」 Philodemus, Rhet. 2.224 = SVF. 3 Diog. 124 彼は言う「事実神かけて、こうした者達のうち、祖国に貢献できる熟練使節など一人思い浮かぶか、さもなくば誰もいないかである」 2.225 彼は言う「だが、このような者たちのうち善い市民となった者など誰一人いないと伝えられている」 col. 20 市民のことは市民に……しかし私はこう言おう、もし市民政治に関することが弁論家だけでなく国家を統治する者達の専門であれば、少なからぬ者達が哲学なしに市民となってしまう。しかし言うまでもなく、思慮を欠いた者達は全員悲惨であり、一人残らず役立たずであり、愛国の士など一人もおらず、