フィロン その他の著作 『世界の不滅』 Philo, Aet. Mundi 47 = SVF. 2.397 = LS. 28P   (48)ともかく、クリュシッポスは、彼等の周辺の人々の中で最も高名な人だが、『増加論法論』の中で何か次のような奇怪なことを語っている。「固有の性質を持つもの2つが同じ本質に共に与ることは不可能である」と前置きしておいた上で彼は言う「あくまで理論のためだが、方や四肢がそろっている人と、他方どちらかの足が[元々?]ない人とを想定し、前者の健常な人をディオンと、健常ではない後者をテオンと呼んで、しかる後にディオンのどちらかの足が切断されたとしよう」そして、どちらの体が損なわれたのかと問われた場合、テオンだと答える方が似つかわしい(親近である)というのだ。しかし、こんなことは真理を語る人というよりは逆説を弄する人のすることである。(49)というのも、方や体のどの部分も切断されていない人、つまりテオンが捕らえられ、足を切断されたディオンが何も損なわれていない、などということにどうしてなるのか。彼はこう言う「こういうわけだ。足を切断されたディオンは不完全というテオンの本質に必然的に後ずさりするが、固有の性質を持つ2つのものが同じ基体に関わることはできない。そういうことであるから、必然的に、ディオンはそのままでテオンが損なわれたということになる」 Philo, De Incorrupt. Mundi 15.248 Bern. 24.20 Cum. = SVF 3 Boethus 7  だから例えば、シドンのボエトゥスとパナイティオスは、ストア派の教師の中でも強大な方々だが、まるで霊感でも得たかのように大燃焼と再生の説を放棄して全宇宙は不滅であるというより神々しい教えに逃げ込んだのである。 ↓ Philo, Aet. Mund. 77 (Incorrpt. Mund. 15.248 Bern 25.3 Cumont)  他方、ディオゲネスは若い頃こそ世界燃焼の教理に賛同していたが、後に年齢とともにこの理論を疑いだし、放棄したと言われている。 ↓ (Philo, De Incorrupt. Mundi 15.248 Bern. 24.20 Cum.) つまり、若気の至りではなく老境こそ重厚で望ましいと見抜き、何より、理不尽で欺瞞に満ちた感覚が弁護する事柄ではなく、最も研ぎ澄まされた純粋な理性が説くことこそを洞察したのである。  (16.78)しかしボエトゥスの用いた論証こそ最も説得力のあるものだから、それを今すぐ論じることにしよう。彼はこう言うのだ。もし宇宙が生成消滅するとすれば、宇宙は「有らぬもの」から生じたことになり、それはストア派にとっても最高に馬鹿げたことだと思われる。何故ゆえに。宇宙を滅ぼす破滅的な原因など何も、宇宙の内にも外にも、見出せないからである。というのも、宇宙の外には空虚しかないのは恐らく間違いなく、厳選された完全なる元素がこの宇宙を作り上げているのであり、内側は内側で、これほど神々しい宇宙にとって破滅の原因となるほどの害になるものなどないのである。万が一、何も原因がないのに宇宙が滅びるとしたら、明らかに「有らぬもの」から破滅が生じていることになり、こんなことは知性が認めないであろう。(79)事実彼等の学説にはこういうものもある。破滅が生じる仕方には三通りある。分割によるもの、全体をまとめている性質が崩壊することによるもの、そして混乱によるものである。さて、個々別々のものからなっているもの、つまり、山羊や牛の群れ、舞踏団、軍隊、さらにまたバラバラのものがくっつけられたまとめられた物体は分離分割されると崩壊する。他方、まとめている性質が崩壊することでそうなるのは、例えば形を変えられたり均されたりした蜜蝋で、何か違う形の刻印を付けるためにそのようなことをするのである。また、混乱によるものは、例えば医者たちが「四薬混合」と呼ぶもので、つまり、混ぜ合わされた薬の効能は、一つ一つを選び出せば真っ当なものなのに、かき消されてしまうのである。(80)そうしてみると、これらのどれによって宇宙は破滅すると言うべきなのか。分割によるのか。しかし、宇宙は別々のものからなっていて部分が散り散りにされるわけでもなければ、寄せ集めであるゆえにバラバラにされるというものでもなければ、我々の身体と同じようにして一つにされているわけでもない。つまり、それら自ら滅びる性質を持つわけでもなければ、害を加える数多くのもののなすがままにされるわけでもなく、逆に、その力は不敗で、何にせよ多いに優れているので万物を支配するのである。(81)では、(全体をまとめている)性質が完全に崩壊することによってであろうか。いや、少なくともこれは有り得ない。全く逆の説を採る人々によれば、秩序という性質は「大燃焼」の際もどれだけ少なくても神という存在に留まるのだから。(82)では、混乱によってであろうか。冗談ではない。そんなことがあれば、崩壊した宇宙が再び無となるということを認めねばならなくなるからだ。 何故か。個々それぞれあらゆる宇宙の要素が滅びるとしても、他のものに変化するというのなら分るが、全部が一まとまりに全て混乱されて滅びるとなれば、そもそもありえないことを想定しなければならない。(83)さらにこれらに加え、彼らが言うように万物が大燃焼するとすれば、その際に神は一体何をするのであろうか。ひょっとして何もしないのだろうか。これもおよそありそうもないことである。というのも、よいか、あらゆるものを見渡し、あたかも本当の父親のように万物を任され、真実を言わねばならないとすれば、操縦士や操舵士のように万有を上手く動かすお方こそ神であり、太陽や月、その他の惑星や恒星、さらには天空や宇宙のその他の部分に臨み、森羅万象の存続につながるもの、正しい理に沿った責めを受けることのない統治を助けるお方なのであるから。(84)そして、万物が滅びるとすれば、神は恐るべき怠惰と無為のため、生きるに値しない生を営むことになるだろう。これ以上馬鹿げたことがありえようか。考えることすら不当なことなので躊躇しながら言うが、このような「平静」すら神に訪れるのであれば、死もそうであろう。というのも、魂から永遠の運動というものを取除いたなら、魂そのものが全面的に破壊されてしまうだろうから。さて、宇宙にも魂がある。逆の意見を持つ人々によると、それが神である。 Philo, Aet. Mundi 90 (28 Cumont, 505 Mang) = SVF. 1.511 (Cleanthes)  [大燃焼した宇宙は]必然的に炎か光に転化する。クレアンテスは炎になると考えているし、クリュシッポスは光になると考えている。 Philo, Aet. Mundi 23.117 (264.3 Bern, 35.13 Cun) = SVF. 1.106   (23.117)さらに、テオプラストスの言うところでは、宇宙に生成消滅を述語付ける人々は四つの最も主要な特徴によって欺かれているだけなのである。つまり、大地が平坦ではないこと、海の水が涸れること、宇宙全体のあらゆる部分が壊れるということ、地上に住む動物が種ごと滅びること、である。   (118)そして、第一の点は次のように論じられている。もし、大地が生成の始まりというものをもたなかったのであれば、大地には突出した部分など見い出されなかったであろうし、全ての山々は平坦で、高い部分も皆地平に等しかったであろう。つまり、あらゆるこうしたものは長い間雷雨にずっとさらされて来たのだから、高みに持ち上げられた部分は、方や雷雨を受けて砕かれ、方や再び低くなり、全てが全く平らになってしまってもよさそうなものである。(119) しかし、相変わらず大地はずっと平坦ではないし、非常に多くの場所で空にも届こうかという高い突出があり、それらは大地が永遠ではないということの証拠である。つまり、既に言ったように、古来無限の時の中で豪雨に見舞われて、端から端まで人が通れるようになっていたはずである。なぜなら、水の本性は本性上、とりわけ非常に高いところから降り注いだ場合には、あるものは無理矢理に動かし、あるものは絶えまなく降り注ぐ雨粒で刻み付けて空っぽにし、石のように固い大地を掘ることにおいて掘削工に劣ることがないのであるから。  (120)またこうも言われている。少なくとも海が小さくなっているのは確かである。証拠としては、最も有名な島々、ロドスとデロスを挙げることができる。なぜなら、これらの島々は大昔は海に沈んで見えない所で水浸しになっていたのに、後に時間とともに海が減少すると、少しずつ上昇して現れたのである。これは、これらの出来事に関して記録された史実が証言する通りである。(121)また、デロス島は「アナペ」と呼ばれていたが、この両方の名前がまた今言ったことを納得させてくれる。というのも実際、この島は大昔は海中に隠れていて見えなかったのが、現れて露になったからである。それだから、ピンダロスもデロス島に寄せてこう言っているのだ。  「栄えあれ!おぉ、神々に築かれた島よ、黄金の髪止めをもつ   ラトナの子供達の。最も愛らしい新芽。   大海の娘子。動くことのない広い大地。恐るべき島。これを死すべき者たちは   ダロスと呼ぶが、オリンポスの祝福された者達は、星の遥かな暗い大地と呼ぶ」 (122) つまり、ピンダロスがデロス島を大海の娘と呼んでいるのは、今言ったことを謎めかしているというのだ。以上のことに加えて、大海の広く深い底が干上がって固い大地になり、周囲の土地と比べても特にひどい場所というわけではないので種をまかれて植物を植えられるが、それらの大地には、大昔にそこが海であったという証拠がいくつも残されていて、海の石だとか貝殻だとか、海岸で普通に波泡にまみれているものと同様のものがあるのだ。(123)さてそうすると、海が退いているのであれば、大地もそうなるだろう。そして、年月が大きく一巡りすると、あらゆる原素が全面的に消費され蕩尽されるであろう。つまり、気全体が少しづつ少なくなり、万有が一つの火の本性に帰するであろう。  (24.124)さて、第三の点を裏付けるためには次のような論議がなされる。全ての部分が滅びうるものはその全体も滅びうる。さて、宇宙の全ての部分は滅びうる。故に、宇宙は滅びうる。   (125)しかし、後回しにしておいた問題をここで検討せねばならない。議論の端緒として問うが、どのような大地の部分が、比較的大きいものでも小さいものでもよいが、時間と共に解消するのであろうか。果たして、最も固い石もその性向が弱ければ湿って腐るのではないだろうか。(気息の張力というのは、壊れることのない紐帯なのではなくて、解消されにくいというだけなのである)それらが壊れて流れ出すと、何よりも先に分解して細かい塵になるのではないだろうか。そしてその後、さらにすり減って完全に潰え去るのではないだろうか。ではどうだろう。もし水が風にさらされないとしたら、動かないままに留まり、穏やかすぎてかえってだめになってしまうのではないだろうか。とにかく、性質が変わってひどく臭くなってしまうのである。魂のぬけた生物がそうなるのと同じようなことである。(126)実際少なくとも気が滅びうるものであるのは全く明らかである。なぜなら本性上、気というものは、病み、潰え、ある意味では死ぬものだからである。というのも、もっともらしい言葉を適当に選んでいるのではなく真なことをそうしている人なら、伝染病といえば、気が死んでしまい、それに親近な症状をばらまきつつ、魂を分けもつ限りのあらゆるものを潰えさせるに至ること以外の何を言うのか。  (127)火に関しては長々と語る必要などない。なぜなら、燃料がなくなるとたちまち火は消えてしまい、詩人達の表現を借りれば「自ずから片輪になる」のであるから。そうして、上昇する物質が留まっていることによって支えられ立てられているので、それがなくなってしまうと消えるのである。(128)事実、インド地方の火龍も類似のことを被ると言われている。つまり、最も大きい動物、つまり象、に這い上がり、背腹全体に巻き付いて、血管があれば手当りしだいに切り開いて飽くことなく血を貪り飲み、激しく息を荒げ、切羽詰まったうなり声をあげながらのたうちまわるのである。もちろん象の方も憔悴しきってはいるもののある程度は耐え忍ぶが、やはりなすすべがなく跳ね回ったり、鼻で龍の腹を叩いたりして龍を落とそうとする。しかしその後、もはや生気が尽きると跳ねることももうできず、震えながら立っていて、もう少し経つと足にも全く力がなくなり、血がなくなって倒れ命を落とす。そして、自分が倒れると共に、自分が死ぬ原因となったものをも一緒に滅ぼすのだが、それは次のようにしてである。(129)もう食らうものがなくなったので龍は自分が巻き付けた戒めを解いて離れようとするが、象の重量で押しつぶされて動けず、ましてや石のように固くなった物体と化しているのでなおさらである。つまり、万事をうまく解きほぐそうともがきはするが、のしかかる力にがんじがらめになっていて、すべもなく困り果てて自ら色々と試みている内に力が尽きて、まるで石投げにあった人や、突然壁の下敷きになった人のように、自分がこれからどうなるか思い知らされるのだが、頭をあげることすらかなわないのである。そして、息ができなくなって死ぬ。  さて、もし宇宙のあらゆる部分が崩壊を受け入れるのだとすると、明らかに、これらの部分が固まってできた宇宙全体も崩壊し得ないものではないだろう。   (130)では、残っている第四の論議を次のようにして明かにせねばならない。こういう議論である。もし宇宙が永遠だとすると、動物も永遠だということになるし、人類は、他の動物よりもより優れているだけに、なおさらである。しかし、自然探究を志す人々には、人間が最後に誕生した種族であることは明かである。というのも、その方がより必然的であるように思えるが、人間と技術は同年同士のように共存しているのである。方途に従うということは本性上理知的な能力に親近だからというだけではなく、それなしには生存もままならないからでもある。(131)では、各々がどのくらいの時を経ているか見てみよう。神々について悲劇の中で語られているような作り話は無視して。…(テキスト欠)…さて、人間が永遠でないとすると、他のいかなる動物もそうではないし、そうすると、それらに与えられている場所もそうではない。つまり、地、水、気もそうではないのである。これらのことからして、宇宙が滅びうるものであることは明かである。 Philo, De Agricultura, 3.14. (2. p97.24 CW) = SVF. 2.39 = FDS. 23   (14)というのも、哲学の教説は三部分であり、古人たちがそれを畑になぞらえたと彼等は言っているからだ。つまり、彼等は自然に関わるものを畑の樹木や果樹にあたるとし、果樹がそのためにある果実にあたるのは倫理に関わるものであり、さらに論理に関わるものは柵や壁にあたるとしていたというのだ。 ↓ FDS. 23 (15)すなわち、囲む柵が果実や畑の植物を守り、それらをだめにし滅ぼそうとする者達を遠ざけるのと同様に、哲学のうち論理に関わる部分はあの2つの部分、倫理学と自然学の或る最も強固な守護者なのである。 [アルニムは何故この1節を削ったのか?] ↓ Philo, De Agricultura, 3.16 = SVF. 2.39 = FDS. 23  というのは、論理学が両義的で曖昧な言い方を端的な表現にする場合、また詭弁によるもっともらしさと要領のいい欺瞞(これが魂の最大の欺瞞であり罪害なのだが)とを解消する時、また表現力に富む論議や疑問の余地のない論証によってこういったものを破壊するならば、あたかも滑らかな密蝋のように叡知を作り上げ、自然学説や人格形成に関する健全で非常にすばらしい性格の印をすぐさま受け入れられるようにするのである。 Philo, Agr. 37.161 = SVF. 3.541   (161)しかし、こうしたものを修めていない人々も哲学者たちの下では、特別な意味ではあるが、賢人と言われる。というのも、知恵の極みまで導かれ、その極限に初めて触れた人々は自分たちが完成したことを知る術がないと彼等は言うのだから。つまり、同時に両方のこと、つまり極限に至ることと至ったことを把捉すること、が成り立つことはないというのである。境界をなすのは無知だが、その無知は知識から大きく隔たったものではなくむしろこれにほんの隣り合わせなのである。 『動物論』 Philo, Anim. 45 (147 Aucher) = FDS.1155 = SVF. 2.726  犬が獣をを追い掛けた。深い堀の所に来たら、そこに向かって二つの道があり、一つは右に一つは左に向かっていた。犬はしばしその場に留まって、どの道を行くべきかと考えた。そして、右の道を行ったが、何の痕跡も見つからなかったので、その道を戻ってもう一つの道を行った。そして、この道については特に何の印も明らかでないのに堀を渡り、さらに追い求めつつ、しかし臭いを嗅ぐこともなしに何か喚起されて走りを速めたのである。*というのも、偶然によってそう導かれたのではなく、真実を考慮して確かめることによって導かれたのであるから。 *アウヒェルは違う句読点を採っているのかもしれないが、FDSのそれに従う。  さて、こうした思考上の思案過程を弁証家達は「第五の、多段階論証形式」と呼んでいる。つまり、獣は右に逃げたか、左に逃げたかのどちらかである。さて、そのどちらかに走っていったのである。というわけである。 Philo, Anim. (155 Au) = SVF. 2.728  見たまえ、つまり、ある種の生物は既述の徳目の代わりにとはいえ正義を自分達のために持っているのである。水棲生物、陸棲生物、飛行生物それぞれにそういうものがいる。ともかく、海洋生物の中でも、タイラギ貝とその番人[の小蝦]達の間にある公平な共同生活は有名である。つまり、食べ物を共同にし合う生活をしていて、それを平等に分けているのである。また、??と船付魚も同じことをするというのが万人に認められている。それらから共同生活におけるちょっとした事柄を学ぶことができる。空を飛ぶものの間で、まさに最高の正義を示すのはコウノトリである。親は子を養い、子は羽が生えるや否や、恩恵を返し、自分に与えられた好意に報いることなしには何もしないのである。これとまさしく同じことをある種の陸棲生物もなすというのは十分に納得の行くことである。…確かに、平等ではないものも少なからずあるのだが、一般に宇宙の部分というものはきちんと構成されているのである。つまり、正義と不正が当てはまる部分には全き理が備わっているのである。すなわち、いかなる部分も理に与っているのである。 Philo, Anim. 77 (163 Aucher) = FDS.402 = SVF. 2.731  しかしながら、聖なる思考に即した場合我々は過ちを犯すのか、と問い探究するのであれば、こう考えよ。君はどちらだと思うのか。蜜蜂や蜘蛛達は、後者は織物を、前者は蜂の巣を作るのだが、それらの技工の各々は知性という術知によるものなのか、それとも非理性的な自然の働きによるものなのか。というのも、状況如何に関わらずこれらに課せられるのは、真であることを語らねばならないのであれば、自らの配慮を配慮することなのであるから。ではその状況とは何か。もし、知恵の把握が先立ってないのであれば。これが技芸の原理であるべきなのに。なぜなら、把握の一致を集めたものが技術なのであるから。 Philo, Anim. (163 Au.) = SVF. 2.732  鳥達は普通空中を飛び、水棲生物は泳ぎ、陸棲生物は歩行するものである。そしてこうした習性は教えを学ぶことによって身につけられるのか。そんなことはない。むしろ、己の本性でこうした個々の行為を覚えていて、それで行うのである。蜂が教えられなくとも自然に蜜房を作り上げ、蜘蛛が自分で訓練を積んだかのようにあのような精妙で手の込んだ織物を紡ぎあげるのも同様である。また、別の意見を持つ人は、木々を取り上げて吟味して、何事かの明白な能力を見るかもしれない。それらのうちにも、人の手になる技なしに、多くのものが備わっているというので。葡萄はそうではないのだろうか。葡萄も春に種を実をつけるではないか。つまり、まずは葉でそれを隠しておいてから母親の性格で徐々に養って、育て上げるのである。そうして酸から葡萄を作り出し、実が完全になるまで育てるのである。しかし、葡萄がこういうことをするのは配慮を教えられてそれを用いているのであろうか。最後に実をつけることだけでなく、幹に枝を巻き付けることも、こうした仕事を監督する驚異の自然によっているというべきであるのは、全く間違いない。…つまり、我々は見えない本性について語っているわけだが、それは、それらが整えられ組み立てられれば全く理知的であると言ってよいのだが、それでも全く魂を欠いているからである。しかし真実、こうしたものを理知的だと認めるわけにはいかない。ましてや、いわゆる動物のうちに入れることもできない。なぜなら、これらは配慮や思慮を持った上でそういったことをしているわけではなく、固有の成り立ちを備えた自然的な特質から不可避的にそういう現象を示しているに過ぎない。  (165)思慮など何もせずに… サソリは、自分に傷を追わせた相手に尾をいきらせて復讐せねばならなければ、尾を持ち上げて切り裂くのである。生きるための備え、病気の世話、またこれらと類似の事柄も同様であって、動物に備わっている本性が、見えない徳によって作り出したものなのである。そして、こうした全てのことを備えているのは、実の安全を確保し、攻撃から身を守るためなのである。 Philo, De Anim. 84 (166) = FDS.1156 = SVF. 2.726  さて、しかしながら、あんな人々の見解は追放しなければならない。彼等の考えでは、猟犬は第五の形に従いつつ、それのもとで何かを受け取っているというのである。このことは貝殻蒐集家や、何かを求めるあらゆる個々人に言えることである。弁証法的に見れば、こうした現象は整合しているように見えるが、哲学の夢をまとったことは全くない。というのは、何かを求める人全般について、彼等は第五の形に従っている等々と言わねばならないからである。 ↓ SVF. 2.726   …というのも我々はこう言うからである。優美な事柄、自らにふさわしく善い事柄、健康の保持及び健全さへと向かう多くの物事からして、それらも欲求というものを持ってはいるのだが、森羅万象に関する理解を万に欠いたままで、適切なものの見方において認められる確実さを得ているのだ、と。しかしながら、真の理性的な性向というものは、そんなことには与らないのでなければならない。それどころか、理性的な性向は、一番目に見えない物事の把握からの推論なのである。つまり、知性は神や世界や法、愛国心、国家、政治に関わるのだが、…これらのいずれも獣達は見てとるということがないのである。 Philo, Anim. (168 Au.) = SVF. 2.733  ある種の動物には家政の思慮とも言えるものが備わっていると考える人がいるかもしれない。例えば蟻や蜂がそれで、たとえそれらの何ものも政治的な物事を受け入れはしないとしても、類においては真であることが種においては偽であるということがそのようなものの下では起こりうると認めるべきである。つまり、無視すべきでないことだが、政治に与るものはまた家政にも与るのである[がその逆ではない]。すなわち、どちらの場合も、個々の徳の分枝は種においては等しいが量的には等しくない。例えば、家と都市社会のように。しかしとにかく、これらに政治はない。したがって、これらにおいて統治というものを語るべきではない。  こう言う人もいるだろう。「これまでに収集された事実によると、蟻は倉や倉庫に自ら前もって貯えをなしているではないか、と言われたならば一体何と答えられるのか。ましてや、こんなものよりももっと役に立つ仕事を行うのが蜂であって、こいつらは花を集めては驚くほど見事な巣を作り上げ、蜜を作り出すではないか」これについて、この私はこう言いたい。このような摂理は、理を欠いている動物には備わっていないが、普遍的な本性を与えられるべく整えられているものには備わっている。すなわち、動物はああしたことを知性で行うのではない。しかしながら、こうした動物達に色々な形で神の配慮が及んでいるのも事実である。例えば確かに、創造者として、個々の被造物の衝動をまとめあげ、行動の目的に共働するようにし、個々のものが完成へと向かうようにするのである。 Philo, Anim. (169 Au.) = SVF. 2.730  実際、タイラギ貝とその番人について語られていることは、共同社会というものがあることを証明している。…たとえなかなか納得の行かない人がいたとしても、木々草木から学ぶことができる。…つまり、これらは魂のひとかけらも持ってはいないが、それでも親疎を少なからず示しているのである。植物も成長したり動いたりするし、互いに抱擁し小さな口で接吻して愛しあうのだ。例えば、蔦がオリーブを、葡萄の木が楡の木をそうするようにである。それどころか、[葡萄の木は]ある種の木々を嫌うだけではなく、実際に避けたりまでするのである。…しかし、あえてこういうことを言うほどおかしい人などいないと思うが、こうした事柄は確かな友情や敵対心が備わった魂から生じているのではないかというほどである。実際はそうではなくて、最高の自然の理法によって、あるものは導かれてまとまり、別のものは引き離され、全く交わることがないのである。かくして、この意味で、人間以外の死すべき生物が敵対関係や社会的な交わり、またこういった事柄に理知と調和を通じて関わるものを表しているというならば、それは間違いであると思う。というのも、こんなことを認めれば、万物が常々理性と精神を以て思慮しているということになってしまうからである。事実、人間が示すこうした事柄に似たもの、またまるでその似姿のようなものが動物達においても素描されるというのも単なる偶然である。そして、尊卑、熱意、好意に満ちた行為、物事の考慮、こういった事柄の現れをそれらが示すとしても、何かおぼろげに素描されたような印象しか与えないのであるし、それらが真理に関わることもないのである。ともかく、本来的で確実で堅固な形相は人間の魂のうちにだけあるのである。 Philo, De Anim. (170 Aucher) = SVF. 2.834  言うまでもなく、赤子が何をするにしても誰も決して責めない。思慮に与る年にまだ達していないからである。しかし、子供も、学習が不完全だとはいえ、人間として理知的な本性に与ってはいるので、知恵の種子が受け取られる直前までは全く何もすることができないが、生まれた直後から物事をなすのである。というのも、気が男性の精子を受け取ると、木材に火花が飛んだ時のようにして、時宜を得て、種子は、増大するとともに、力を増してつきまとうことになるからである。しかしながら、他の動物の魂は精神が成長する源泉を持っていないので、思慮を欠いたままである。 Philo, De Animalibus adv. Alexandrum 98 (171 Aucher) = FDS. 508 = SVF. 2.734  これまでで、知性の内にある理については十分に語られたので、次は発話を考察しよう。つまり、カケス・カラス・オウムや何でもいいが類似の鳥達は、非常に色々なことを口に出しはするが、分節された音声を出すことは決してないし、またどうやってもできないのである。しかし、思うに、楽器の穴が正しい場所にあったところで、理にかなった正しい音が出るわけではなく、形相を欠いていれば、明瞭な音を出すことは全くできない。それと同様に、発話をする動物の声も意味はなく、形相を欠いていて、形相によって発話の真理を言葉に保つことは全くなく、ただ何やら喋っているだけなのである。  例としてラッパや竪琴、また何でも楽器を挙げてよい。というのも、こうした楽器によって空気が打たれる時、音を発するが、それはあたかも人間の声を真似ているかのようだからである。しかしそれらの音は不明瞭で、意味されるところのものを確実に形作らせることができない。 Philo, De Anim. Sacrif. Idon. (2.249 Mang.) = SVF. 3.559  優れた、神々に愛される人々にも同じ仕方で善美なことの欠如は生じるのだが、それは劣った人々がたまたま正しくなすことよりもよっぽどましなのだ。 Philo, de Cherubim 14 (Vol. I p. 173, 12 Wendl.) = LS. 59H  しばしば、なされるべきことがなされるべき仕方では実現されないこともあれば、適宜行為ではないことが適宜な仕方でなされることもある。例えば、借りたものを返すことは、それが健全な判断からなされたものではなく、それどころか受け取る側に害を加えるためやより大きい信用を無にしようとしたものであった場合には、してはならない仕方で適宜な行為を完遂することになる。しかし他方、診断の結果患者の利益のために浣腸したり切開したり焼灼したりするときに患者に医者が真実を告げないのは、患者が怖いことを予感して治療を避けたり、すっかり意気消沈してこれに従わなかったりしないためなのである。あるいは、祖国の平安のために賢者が敵に嘘をつくのは、恐怖を抱いている敵が真実を知って元気づいたりしないためなのだが、そのことは適宜ではない仕事をなされるべき仕方で実現することになるのである。 Philo, De Congressu 18(3.75 CW)=FDS.83  弁証と弁論とは、そういっている人々もいるように、双子の兄弟であり、真である言論を虚偽のものから分け、もっともらしい詭弁を論駁し、そうして魂の悪性の病である騙欺を治療する。 Philo,De Congressu Quaerendae Eruditionis Causa 79(Vol.3 p.87- CW)=FDS.4  また実に、一般教養が生ずるのが哲学を取り入れるためであるのと同様に、哲学は知恵の所有に向かっているのである。というのは、哲学は知恵への努力であり、知恵は神々に関わることと人間に関わることとそれらの原因についての知識であるから。だからこうなるだろう。一般教養の学芸は哲学の下僕であるし、同様に哲学は知恵の下僕である、と。 [セネカ書簡89.4を見よ。恐らく同じ源泉を使用していると思われる] Philo, De Congressu Quaerendae Eruditionis Causa 141(3.101.5) = SVF.2.95   (141)技術の定義はこうである。共働する把捉の体系であり、ある目的に向けて有効に使用されうるもの(「有効に使用されうる」という規定は、技術の悪用ということがあるために加えられているのだが、これは健全なことだ)。知識はこうだ。理論付けによって強固確実不動な把捉。(142)さて、我々は音楽や文法、同種のものを技術と呼んでいる。実際、このようなものを通じて完成された人々は、技術者、例えば音楽家や文法家と呼ばれている。しかし他方、哲学やその他の徳は知識と呼び、それらを備え持つ人々も知識人と呼んでいる。というのは、思慮ある人々、節制のある人々、つまり哲学者は、誰一人として、従事している知識が説く内容においては誤ることがなく、中間の技術の規則において上述の人々が誤ることがあるのとは違うからである。 Philo, De Congressu 146(3.102.15) = SVF.2.99   (26.146)さてところで、知らない者はいないことだが、全ての個別の技術に原理と種子を、そこから教説は育ってくるように思われるのだが、与えたのは哲学である。確かに、等辺図形や不等辺図形、円・多角形そしてその他の図形は幾何学が先に発見したのである。しかし、線や面・立体が意味するところのものがどういう本性を持つかということになると、そしてそういったものが上述の事柄の根であり基礎なのだが、それを見い出したのは幾何学ではない。(147)というのも、幾何学の中で定義されるものについて次のように語ることができるということは、一体どこに由来するのか。もはや部分に分ち得ないものの意味について。例えば、線は幅のない延長である、とか、面は広がりだけを持つ延長である、とか、立体は延長・広がり・奥行きの三つのものを持っている、とか。こうしたことは哲学に任されたことであって、定義に関する問題は全て哲学の課題なのである。  (148)また、単に読み書きだけならより不完全な文法学の仕事であって、そういった文法学を、名前を変えて、「文法的学」と呼ぶ人々もいるくらいだが、より一層完成されたそれの仕事は詩人や史文家の手になるものを解明することである。すると、彼等が言論の色々な部分について詳論する場合、それは哲学の見い出したものを横取りして自らを飾っている*ことにはならないだろうか。(149)というのは、以下のようなことを吟味するのは哲学に固有の仕事だからである。つまり、接続詞とは何であるか、名とは、動詞とは何であるか、普遍名詞とは、固有名詞とは何であるか、不完全文・完全文とは何であるか、肯定文・疑問文・質問文・包括文・希求文・祈願文とは何であるか、こういった問題である。つまり、哲学は完全な命題や述語に関する問題を既に取り扱っているのである。(150)また他方、半母音・母音・全く声を持たないもの(子音)、こういった要素を観察し、これらそれぞれが常々どのように語られているのかを調べるのも、また音声の要素や言論の色々な部分に関する特性全てを調べるのも、哲学がなし、完成させたのではないだろうか。 *parergolabeinという語はこの箇所にしか見られず、意味については議論がある。ロウブの註を見よ。 Philo,De Ebrietate 22.88=SVF.3.301  無論、このことに無知であるべきではない。つまり、知恵は技術の技術であり、異なる素材に応じて異なっているようには思われるが、しかし鋭い眼力を持ち、多量の肉に取り囲まれて運び去られていないで、この術そのものによって刻まれた性格を見通す人々にはその真実の不動の姿を表すのである。(89)彼等は言う、あの彫刻家ペイディアスはブロンズだろうが象牙だろうが金だろうがその他の素材だろうがそれを用いて彫塑を制作したが、これら全ての作品に同一の技術が表されていて、それを知っている人だけでなく素人さえも十分に作品から作者を知ることができるほどであった。(90)つまり、双子におけるように、自然はしばしば同一の性格を用いて些細な点を除いては違いのない類似性を刻印したのである。同じ仕方で、完全な技術も、自然の模倣であり模写であるのだから、異なる素材を受け取ったとしても全てのものに同じ形相を形作り刻み込むので、想像されたものはこの自然に最高に親戚兄弟あるいは双子のようになるのだ。   (91)そして、同じことを賢者に備わる能力も示すのだ。つまり、これが「有る者」に関する事柄を扱うなら敬神や敬虔と名付けられるが、天空やそこにあるものの事柄に関わるなら自然学となる。天文学は大気に関わる事柄とその転換や変化におけるそれ、一年全体にわたる季節におけるにしろ月ごと日ごとのそれぞれの循環におけるにしろ、に本来関わっている。倫理学は人々の性格の矯正に関することを扱い、その形態には政治学つまり国家に関するもの、家事の配慮に関する家政学、饗宴学つまり饗宴と催事に関わるものがある。さらにまた、人々の制御に関わるのは帝王学であるし、命令と禁止に関わるのは立法術である。  (92)つまり、本当の意味で多くの誉れと呼び名を持つ賢者はこれら全てをそなえているのであり、これら全てにおいて同一の姿をもつ者として表れるのである。 Philo, De Fortitudine (2.419 Mang) = SVF.2.1171  つまり、医者は重大かつ危険な病においては時に体の部分を切除するが、その狙っているところは体の残りの部分が健全であることであるし、船頭も嵐が来ると積み荷を投げ捨てるが、それも乗客の安全を図ってのことである。そして、不具になったからといって医者を非難することはないし、積み荷を投げ捨てられたからといって船頭を責めることもなく、それどころか逆に両者には賞賛が与えられる。知識をもって正当行為する者にとっては利益の方が快適さよりも優先されるからである。全く同様に、全宇宙の本性に常に驚嘆せねばならないし、宇宙の中でなされること全てを、意図的な悪などないものとして、喜ばねばならない。その際によく吟味せねばならないことも、快いように生じる物事があるかどうかなどということではなく、よい法治国家のようなやり方でこの宇宙が御され舵とられているかどうかということなのである。 Philo,De Fortitudine vol.2 p.419 Mang=SVF.3.388  魂における感情は4つあるが、そのうち2つは今ある善あるいは将来のそれに関わる快楽と欲望であるが、2つは悪に関わり、現在のそれか予期されたそれかに応じて、苦痛と恐怖となるのだが… Philo, De Fortitudine vol2. Mang. p426 = SVF. 3.558  だから、優れた人の毎日は過誤の怠惰で空しい入口には全く面しておらず、むしろ日々の全ての部分と間は善美なことで満たされているのだ。というのは、徳すなわち立派な行いは量ではなくて質で決まるからである。そこからして、賢者の立派な生にとってはたった一日でもそれが正しく過ごされたならば同等に立派なものとして受け容れられるのだ。…だから、全ての活動によって、また全ての在り方によって優れた人は立派な人であるのだ、内でも外でも。つまり彼は、市民生活にも家庭生活にも適した人であり、自らを有益なものとすることによって、家内のことは家のためになるように正しくなし、家の外のことは社会のためになるようにするのである。 Philo,De Gigantibus 67=SVF.3.680  (67)…劣者は宿無し、亡国者、浪人、浮浪者、逃亡者であると同様世捨て人であるが、優れた人は最高に強固な戦友である。 『ヨセフ論』 Philo, De Joseph. 6.28 = SVF. 3.323  というのも、民衆に亘る国制とはあらゆるものに及ぶ力をまとめあげる自然への付加なのだから。(29)つまり、この宇宙は大国家なのであって、一つの国制と一つの法を用いている。それは自然の理であって、なすべきことを命令し、なすべきでないことを禁止する。しかし、所々にあるこうした国家は無数にあって、異なった国制や同一でない法を用いている。つまり、別々の人々の下ではそれぞれ別々の習慣や決まりが作りあげられているし見出されるのだ。(30)この原因は交流や共同がないことであって、これは夷狄に対するギリシャ人のそれやギリシャ人に対する夷狄のそれだけでなく、個々各々の種族における同族人に対するそれも問題になるのだ。それに加え、思うに、人々は理由にならないことを理由にしている。思い通りにならない好機だとか、収穫の不作だとか、貧弱な土地だとか、政情だとか、海岸にあるか内陸にあるかの違いだとか、島にあるか大陸にあるかの違いだとか、その他これに似た仕方のことを。しかし、本当のことは黙っているのだ。本当の原因は強欲と相互不信であって、それのために人々は自然の定めに満足せず、同じ考えの者に共通に利益になると思われるこうしたことを法として布告したのだ。(31)こういう次第だから、部分に応じた国制は自然に即した一つのそれへの付加であるというのもありそうなことなのだ。というのも、国家に応じた法律は自然の正しい理への付加であるし、市民としての人間は自然に従って生きている人への付加であるのだから。 Philo, De Joseph. 8.38 = SVF. 3.323  というのも、家とは整えられた小型の国家であり、集約されたある種の国制が家政なのだから。ちょうど、大型の家が国家であり、ある種の共通の家政が国制であるようなものである。何よりもこれらのことから明らかになるのは、同じ人が家族でありかつ市民であるということである。ただし、現にそこにあるものの数量は異なるが。 『立法の寓意』 Philo, LA. 1.11.30=SVF.2.844  つまり、動物は動物でないものを2点で凌駕している。表象と衝動である。表象が生じるのは、外部の事物の刺激に際し理知が感覚を通じてそれを刻印する時である。他方、衝動は、表象の兄弟だが、理知の緊張能力に即している。つまり、衝動は感覚を通じて延びて行き外界にある対象に触れるが、それはそれに達しそれを把握しようと努力して広がってのことである。  「また主なる神は、見て美しく、食べるに良い全ての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」(創世記2.9:共同訳)魂に植えられたのは徳の樹木であるということがここで書かれている。 ↓ Philo, Leg. Alleg. 1.17.56 = SVF. 3.202= FDS. 16  これらが、部分としての諸徳目とそれに基づく活動、そして正当行為、さらに哲学する人々の下で適宜行為と呼ばれるものである。(57)これらは楽園の植物である。無論、正にこれらを描写して彼が明らかにしているのは、善いものは見るにも享受するにも最も麗しいということである。というのは、技術には観想的ではあるが実践的ではないもの、幾何学や天文学、もあるが、実践的ではあるが観想的ではないもの、大工術や金工術および手工的と呼ばれる限りのもの、もある。しかし、徳は観想的かつ実践的である。すなわち、観想をそなえるのは、それ自身の方途に従って哲学がその3部分、論理・倫理・自然、を通じて[はたらく]場合である。実践もそなえもっている。総じて、徳は生に関わる技術であり、その内には全ての実践がある。(58)さて実に、観想と実践を有し、その都度あらゆる場合により強力なものによって凌駕するのである。なぜなら、徳の観想は全面的に立派であり、実践と使用はそれを巡って争われるに値するから。 Philo, LA. 1.18.59=SVF.2.843  しかしこう言う人々もいる。心臓が生命の樹と呼ばれるのであり、それはそれが生命の原因であるからだ、と。そして、心臓は体の中心を割り当てられているが、それも彼等の見解によると主導的部分にあたるからである。…(61)…我々の主導的部分は全てを受け入れるのであり、蜜蝋に似ている。後者も全ての刻印を、それが美しいものであれ醜いものであれ、受け入れるからである。  「また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから別れて四つの川となった。その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、その地の金はよく、またそこはブドクラと、しまめのうとを産した。第二の川の名はギボンといい、クシの全地をめぐるもの。第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである」(創世記 2.10-4:共同訳) ↓ Philo,Leg.Alleg.1.19.63=SVF.3.263(徳)  これらによって著者は個別の部分に則した徳を素描しようとしているのだ。それらの数は4つである。つまり思慮、節制、勇気、正義である。 Philo, Leg. Alleg. 1.19.65 = SVF. 3.263  思慮はなすべき事柄に関わり、それらに境界を定める。勇気は耐えるべき事柄に、節制は選択すべき事柄に、正義は配分すべき事柄にそれぞれそうする。 Philo, Leg. Alleg. 1.20.67 = SVF. 3.263  思慮という場に応じた二つの在り方がある。思慮のある人と思慮を行使する人と。 Philo, Leg. Alleg. 1.21.68 = SVF. 3.263  (勇気について)耐えるべき事柄と耐えるべきでない事柄とどちらでもない事柄についての知識である。 Philo, Leg. Alleg. 1.26.79 = SVF. 3.263  二つの在り方があるのだ。思慮のある人と思慮を行使する人、つまり思慮に則してある人と、思慮することに則して思慮を行使する人と。 Philo. Leg. Alleg. 1.27.87 = SVF. 3.263  なぜなら、価値に応じた事柄を配分するのが正義であり、正義は原告でも被告にでもなくむしろ裁判官に本来あたるからである。従って、あたかも裁判官が特定の人々を攻撃したり、特定の人々と争ったり対立することを選ばないように、自分の判断を示しつつ、正義を司るのである。このように、正義は何の味方にもならず、価値に応じたことをそれぞれのことに配分するのである。 Philo, Leg. Alleg. 1.30.93. = SVF. 3.519  この3つのもの、つまり命令と禁止と忠告及び勧告とは異なっている。すなわち、禁止は劣った人に対して過誤に関してなされる。指令は正当行為に関わる。勧告は優れても劣ってもいない中間の人に対してなされる。というのは、この人に何かを禁止するほどの過ちを犯してはいないし、かといって正しい理の指令に基づいて正しいことをしているわけでもなく、劣った人々から優越するすべを教え、洗練された人々に至ることを勧める勧告を必要としているのだから。(94) ところで、[神的な]似像に則した完全な人には指令することも禁止することも勧告することも必要ではない。というのも、完全な人はこれらのうちの何も欠いてはいないのだから。しかし、劣った人にとっては指令や禁止が必要なのである。子供には勧告や教唆が必要である。文法家や音楽家として完成された人にはその術に関する命令は必要ないようなものである。理論を自ら修行中の者には指令や禁止を含んだ方策が必要であるようなものである。初学者には教唆が必要である。 Philo, Leg. Alleg. 3.1.1 = SVF. 3.679  著者は、劣った人は放浪しているということを教える教説を提示している。というのも、徳が賢者たちに固有の国家だとすると、徳に与れない人は劣った人が与れないこの国家から既に追い出されていることになるからだ。従って、劣った人だけが追い出され追放されていることになる。 Philo,Leg.Alleg.3.175(vol.1.151.28)=SVF.2.334  つまり、マナは「何か」を表している。これは在るもののうちで最も高い類である。 Philo,Leg.Alleg.3.62.177=SVF.3.116  彼の考えるところでは、主導的な善をもたらすのはその資格そのものにおける「在る者」そのものであり、2次的なそれは使徒とかの方の言葉がそうするのである。また、後者は悪徳からの解放をそなえている限りのもののことである。 Philo, Leg. Alleg. 3.71.201 = SVF. 3.676   (201)すなわち例えて言えば、選手と奴隷はそれぞれ違った風に叩かれるではないか。後者は様々な被害に対してなすがままに従い服従するのだが、選手は対立し反抗し、降りかかったことを*降り落とすのである。また、君は人間を切るのと羊皮を切るのとでは違った風にするはずだ。というのも、後者はどう見ても切られるだけだが、人間は相互連関の中で切られるかのように切り返すだろうし、切られることに対して己を形作るのであるから。(202)このように、理を用いない人は、奴隷のように、権利を他人に引き渡し、到底堪えきれない家内だというのに悲嘆の下にひれ伏すのであり、それらを正視することもできない。また、人間らしい自由や判断を働かせることもできないのだ。しかるにそこからして、こういう人は計り知れない多量の苦しいことを感覚を通じて自らに注ぎ込むことになる。しかし、知識ある人は、選手の流儀で能力をもって耐え忍んで暴力に反対し、全ての悲嘆に対抗するのである。そうして、彼はそういったものに害されることなくむしろあらゆるそういったものを無視するのである。そして彼は若々しくも悲嘆に対してこのような悲劇の文句を唱えるように私には思われる。   焼くがいい、肉を灰にするがいい、私を食い尽くすがいい   黒い血を飲み込んで。程なく大地の下方に   星があり、大地は天空の上に乗り上げるから   私からへつらい屋の言葉があなたに届くその前に。 *アルニムに従い、挿入はしない。 Philo, Leg. Alleg. 3.74.210 = SVF. 3.512  つまり、祝福を受けていないのに祝福にかなったことをする人々がいるのだ、劣った者でさえ適宜な性向からではなしに何らかの適宜なことをなすのだから。また実に、酔っぱらいや気違いでさえ時にはまともなことをしたり言ったりするのである、まともな考えから出たのではないにもかかわらず。まだ全く幼い子供さえもまた理にかなった性向からではなしに(というのも自然はこいつらをまだ理にかなった者に育て上げていないから)、理にかなった大人たちのすることを沢山したり言ったりするのだ。それで、立法者は賢者が固定してない状態や簡単に影響される状態や偶然から祝福にかなった人であると思われるのではなく性向と[固定した]状態からそうされることを望むのである。 Philo, Leg. Alleg. 3.88.246 = SVF. 3.406  蛇というのは快楽、つまり魂の理不尽な高揚のことである。このものは己によって呪われており、確かに劣った人にだけは起こるけれども優れた人には全く起こらない。 Philo, Leg. Alleg. 3.88.247 = SVF. 3.671  というのは、劣った人は全生涯に亘って自分の魂を苦痛に満ちた仕方で用いるのであり、悦びの原因をもたないのだから。悦びの原因を本来生み出すのは正義や思慮などつまりは悦びを冠としてもつ徳なのである。 Philo,De Migrat.Abrah. 128 vol.2 p.293,4 Wendl=SVF.3.8  さて、これが最高度に哲学をなした人々によって目的と謳われたものである、つまり自然に従って生きるということ。 Philo,De Migrat.Abrah. 156.2.299.3 Wendl=SVF.3.436(?)  というのはむしろコロスの徳に属するのは習俗や、あるいは嘆く無思慮な者どもを見舞う不幸に慟哭したり嘆くことである、本性上公共のものであり人間愛に満ちたものだから、あるいは上機嫌の故に。このものが生ずるのは善いものの塊が予期することもなく突然降りそそいで押し寄せる時である。ここからしてこういう詩人の言葉が語られているのだと私には思える。   涙を流して笑いながら(ホメロス『イリアス』Z484)  つまり、期待できないことから降って涌いた歓喜は魂にとって最高の善情であり、彼等はこれをより大いなるものあるいは第一のものとしたのである、大量のものを肉体は遠ざけないという理由から。自分を押さえつけ圧迫する人がしたたらせる水滴、それを習俗は涙と呼んでいる。 Philo,De Migrat.Abrah.§197.vol2.p307.8=SVF.3.621  しかし、我々は王制とは知恵であると言っている、賢者が王なのだから。 『モーゼ論』 Philo,De Moyse 2 vol.2 p.135=SVF.303  このことは、徳においても「一つをもつ者は全てを持つ」と言われるのが常である。 Philo,De Moyse 3 vol.2.p.156=SVF.3.392   …理不尽な感情から、つまりあるいは自然に背いて高揚しのぼせ上がる快楽、あるいは逆に委縮し消沈する苦痛、あるいは善い状態への衝動を背かせて潰えさせる恐怖、あるいは眼前にないものへと無理やり引っ張ってせき立てる欲望。…というのは、肉体の[美しさ]は体の部分の均整、色つやのよさ、肉付きのよさにあるが、…精神のそれは思考の協和と徳の調和に… Philo,De Moyse 3. vol.2 p.158 Mang=SVF.3.10  究極の幸福と目的を目指すものとして、[すなわち]全ての行為もそれを目指して関わっているのが必然なのだが、彼等は弓矢競技におけるように生に関わる目標を射当てるのである。 Philo,De Moyse 3. vol.2 p.162=SVF.3.227  徳においてもそうである。つまり、あらゆる徳に始点と終点が付帯的にそなわっているのである。始点は、他の能力から発するのではなくそれ自身からだということである。終点は、自然に則す生がこのものを渇望するということである。 『世界の創造』 Philo,De Mundi Opficio,1.3=SVF.3.336(法 宇宙)  既に言ったように、その冒頭は非常に驚くべきものであって宇宙の創造を取り扱っている。すなわち、宇宙は法に、法は宇宙に響和しているのであり、法に従う人は直ちに宇宙市民である、というのだ。そして、彼は自然の意向に向けて行為を一途に導くのであり、宇宙全体もまたその意向に則してまかなわれているのである。 Philo, MO 8(1.2.18 Wendl) = SVF.2.302  そうして、周知のように、最も必然的なことだが、在るもののうちには能動的な原因と受動的なそれがあり、さらに能動的な原因とは万有の最も純粋で混じりけのない叡智であるが…受動的な原因は魂を持たないので自ら動くことができず、動かされ、形作られて行きを吹込まれるのも叡智によってであり、そうして究極的な事柄、つまりこの宇宙に変わるのである。 Philo,De Mundi Opificio,24.75=SVF.3.372(徳 人間本性)  在るものどものうちには徳にも悪徳にも与らないものもある、植物や理性のない動物どものように。前者は魂を欠き、また表象に関わらない本性によって養われているのだから。また後者は知性と理をもっていないから。知性と理は徳と悪徳の住処としてあり、ものどもはそれによって本来秩序付けられているのだ。他方、星々のように、徳だけに与り悪徳には全く与らないものもある。これらは生き物と言われもするが知的な生き物とも言われているし、さらには各々が知性そのものであり、全体が全体を通じて優れたものであり、全ての悪徳を受け付けない。また他方、人間のように、これら両者の混合した本性に与るものもある。このものは反対のものを受け容れる。つまり、思慮と無思慮、節制と放埒、勇気と憶病、正義と不正、まとめて言えば善きものと悪しきもの、立派なものと醜いもの、徳と悪徳。 Philo,De Mundi Opficio,49.142-=SVF.3.337(賢者 法 宇宙国家)  あの始祖を単に最初の人間と言うのではなく、唯一人の宇宙市民と呼ぶならば、我々は最も偽りのないことを語ることになる。なぜなら、彼にとって宇宙は住処であり国家だったのだから。創造者はいかなる設立物であれ石や木という素材から創ったわけではないのだ。そこにかの人はあたかも祖国に住んでいるかのようにあらゆる堅固さをもって住んでいたのだ。大地を囲む方々の導きを尊重し死ぬ限りの全てのものどもが彼を教師と認めてて萎縮し、聞き従うように教唆されるか強制されるかする限りでは彼は恐怖から離れている。かたや、彼はまた善情の中で拘束を受けず争いもなく平和に生きるのである。   (50.143)全ての善い法治国家は国制をもっているのだから、必然的に宇宙国家の国制を用いることになる。全宇宙もそれに則っているのだ。この国制は自然の正しい理であり、より優れた意味合いを込めてテミス*と呼ばれる。これは神的な法であって、これに基づいて各々のものにふさわしい本分が定められているのである。この国家と国制はこのようなものであるから、人間以前に市民がいねばならなかった。その市民は大国家の国民と呼ばれてしかるべきであろう。最大の城壁を具えて住み、最大にして再終極的な共同体に与っているのだから。そして、論理的神的本性以外にこの市民はありえない。それら本性のうちあるものは非物体的であり叡知的だが、またあるものは、星々がそうであるように、物体を欠いてはありえない。 *岩崎1982p.225にある注を参考。 Philo,MO. 59.166(1.58CW)=SVF.2.57=FDS.264   (166)というのは、総じてこのことに無知であってはならないのだが、快楽は、遊女や淫女も同然であって、愛人を手に入れるのに躍起になり、女衒を探し回っては彼等から愛人を釣り上げようとするのであるから。そして、彼女、快楽の女衒となり愛欲の仲介となるのは感覚であるが、快楽はこれらをそそのかしてまんまと理性を屈服させるのである。感覚は外部に現れるものをこの理性の内部へと運び込んで伝達し提示するのだが、その際それら各々のタイプを描き込んではそれに類似の情態を働かせるのである。というのも、蜜蝋と似た具合に理性は感覚を通じて得られた表象を受け入れるのだが、既に述べたように、己だけではできない身体の掌握をそれらを通じて行うのである。 Philo, De Mutatione Nominum 74(3.170CW)(哲学区分とその関係)   (74)それだから、古人の中には哲学の教説を畑になぞらえて、植物に自然に関わるそれを、柵や壁に論理のそれを、果実に倫理のそれをたとえた人々もいたのである。彼等はこう考えていた。畑を丸く囲む壁は果実を守る目的で所有者のために築かれたのであり、また植物は果実ができるように作られたのである、と。(75)故に彼等はこう言うのだ。かくして、哲学においても自然や論理に関わる問題を倫理のそれに関係付けねばならない。後者によって人柄は改善され、徳の所有と使用に同時に向かうのである、と。 Philon,De Nominum Mutat.§152.vol3.p182.23=SVF.3.620 (賢者)  賢者だけが王であるというのだ。つまり、思慮ある人が無思慮な人々の本当の指導者なのであり、彼はなすべきこととなすべからざることを知っているのだ。そして、節度ある人が放埒な人の指導者であり、彼は選択と忌避に関わる事柄についておろそかではなく正確なのである。憶病な人々の指導者は勇敢な人であり、彼は耐えるべきこととそうでないことを明確に熟知している。不正な人々の指導者は正しい人であり、彼は分け与えられるべき人々における公平な平等を求める人である。 Philo, De Plantatione 35.142 = SVF. 3.712  (35.142)さて、多くの哲学者の下で徹底的に追求されたのがこの問題である。それはこのように提示される。つまり、賢者は酩酊するかどうか。そうすると、酩酊には2重のあり方がある。一つは酒に飲まれることに何らか等しい。もう一つは酒によって愚かなことをすることに等しい。(143)この命題に取り組んだ人々のうちには、賢者は水で割らない生酒を飲み過ぎることも、酔って馬鹿なことをすることもないと言った人々もいる。というのは、後者は過誤そのものであるし、前者は過誤を生み出しうるものであって、どちらも正当行為には疎遠なものだから、というのだ。(144)方や、酔うことは優れた人にも相応しいことであるが、愚かな振る舞いは疎遠である、と言った人々もいる。なぜなら、彼の思慮は彼を害そうとする物事に十分対抗できるものであり、こうしたものが魂に起こす新奇な事柄を破壊するにも十分だから、というのだ。また、思慮は感情という疲弊させるものを防御する能力である、その感情が燃え上がった愛情という羽ばたきで投げ上げられたものにしろ、燃えるような多量の酒で火を付けられたものにしろ。この能力によって人はこうしたものの上に立てるのであるが。  なぜなら、川であれ海であれ底に沈んだ者も、泳ぎの経験がないために死んでしまう者もいれば、こうした事態に対処する知識を持っているので速やかに助け上げられる人々もいるのだから。…   (37.149)さて、この考察の序論のようなものは以上の通りである。では、この問題に説明を試みよう。2通りの見解があるようである。一つは「賢者は酔うこともあるだろう」と論じ、もう一つは反対に「酔うことはない」と主張する。(150)まず第一に、前者に関わる信念を論ずるのがふさわしいが、その際次の点から始めるのがよかろう。つまり、物事には同名同義のものと同名異議のものがある。…  (38.154)水で割ってない生の酒を古人達はワインと呼ぶとともに葡萄酒とも呼んだ。実際、詩の沢山の箇所でこの後者の名称は使われているので、本の一つのもの(基体)に同音異義的に語られる場合(例えばワインと葡萄酒のように)、これらから派生した名称はどれであれ音声においてしか異ならないのである。つまり、ワインに酔うことと後の[葡萄酒に酔うこと]も同じことなのである。(155)つまり、どちらも酒を沢山飲み過ぎることを表しているのだが、優れた人が多くの理由でこれに背を向けないこともあるのである。彼が沢山酒を飲むとすれば、酩酊することにもなるだろうが、しかし酩酊によって何ら悪い性状にはおかれずに、むしろただ酒を飲んだだけという状態にあるのと変わりない。(156)賢者も酔うということに関する一つの論証は以上述べられた通りであるが、2つ目は次のようになっている。 Philo, De Poster. Caini 41.138 = SVF. 3.364  最も彼等の教説にかなうことなのだが、賢者だけが自由であり支配者だというのだ、たとえ体の主人は数え切れないくらいいるとしても。  (22.75)「レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった」(創世記4.19共同訳) ↓ Philo,Post.Cain.22.75=SVF.3.670  劣者が自分のものにするものは全て全く没収の対象となる、清め難い思念で汚れている限りで。というのもここでもまた逆に、優れた人々が自ら進んでなす行為は全て称賛に値するのだから。 Philo,De Post.Caini 133 vol.2 p.29.7 Wendl=SVF.3.31  ストア派の教説、立派なものだけが善であるということ。 Philo, De Prantatione Noe 12.49 = SVF. 3.7  つまり、自然に調和して生きることという目的が幸福に力をもっていると最初の人々は言っていた。 Philo, Plant. 17.69 = SVF. 3.596  (17.69)さて、全てのものが優れた人のものであると言って逆説を語る人々もいたように思われるが、外的なものがなかろうがありすぎようがそんなことには思慮を払わないものの、同時に貧乏人や財産のない人は誰も富者ではないとは認めている。 『摂理論』 Philo, De Prov. 1.9 (5 Aucher) = SVF. 2.577  さらに世界の部分が、存在するように端緒を受け取っていると我々は認めている。さてしかし、部分が、存在するように端緒を持っているとしたら、世界全体もまた、存在するように端緒を持っているというのが間違いなく必然である。また、部分が滅びるようになっているとしたら、世界全体も滅びるようになっているというべきである。 Philo, De Prov. 1.10 (6) = SVF. 2.578  万人が認めるのではないか。世界の部分は人間と同じようなものである、と。つまり、[個々の]人間によって人間性は存在しているのである。というのも、まず誰か人間がいなければ、人間性というのはどこにも存在しないからである。しかしところで、人間は子孫を残すあの端緒を持っており、人間性の部分をなしている。つまり、人間が誰もいなければ人間性など認められないし、人間が誰もいなくなれば人間性もなくなるのである。従って、誰か人が人類がうまれる端緒を担ったとすると、人間性も誕生するもとに置かれるのが全く必然なのである。 Philo, De Prov. 1.13 (7) = SVF. 2.591  個々各々の部分が崩壊するということ、とりわけこうした個々の最小の部分が崩壊するということは、これらから物体の本性や本質が生じているのであるから、将来物体全体も崩壊するということを表している。では、物体のどの部分でもよいが、最初に表れる崩壊とは何であろうか。というのも、個別の部分には何の差異も現れず、崩壊が生ずる物体に何の区別も生じないとすれば、どうであろうか。つまり、何か単一で一様な本性を持つものは解消を崩壊から得るのである。部分が散逸すると思われる物体は解消と崩壊に見舞われるというので。こうして、物体一般は一つの終極に向けて死に絶えるのである。  (14)それだから、生まれ持った理性を行使して生物の組成、とりわけ理性を与えられた生物のそれ、また世界の内にあるあるいはあったもの一般のそれ、まさしく変転の内にある世界におけるそれらの、を見てとる人であれば分るであろう、世界全体もその部分の本性からして崩壊するようになっているのだ。 Philo, De Prov. 1.15 (8) = SVF. 2.592  したがって、土や空気の本性を吟味し考慮しても、それらそのもののうちには、世界の他の部分との差異は何も見出せないだろう。全体が全体として同一の本性に属す限りは。さてしかしながら、生成と崩壊はどちらかの終結なのである。つまり、これら両者は変転や変化や転化にさらされた時に終わりを迎えるのであり、火によって己の本性の変転を得るのである。こうして、長い間働いて疲弊し、自然本来の産出力が全くなくなると、大地はおのれからそれ以上何も生み出さなくなる。実際、常にこのような状態にあろうとしてできないものが、火に取り囲まれると芽を出さなくなるし、水がなくなって澱んでも、あるいは他のものから違う変転を被ってもそういうことになる。そういうわけであるから、こうしたものが不死であると言うなどとどうやって予期できるのか、知恵の道筋を辿ってきた人々にもかかわらず。  (18)さあそれでは。…地と気に関して、気本来の状態だけを考察するのではなく、それ自体がその都度様々な状態を被って再び顕然な状態に戻るということも考察しよう。ここからして、医学者達の考えでも、この変転によって病気が生じると考えられているのである。この本性に与りつつこの世界に存在している物体はこのことによって衰えると言われるのだから。そうすると、病や混乱や破壊に傾いている以上、生命自体もいつかどうして奪われないことがあろうか。  (19)さて、気は不死であり、それ自体永遠に存続するだろうと言う人がいたら、尋ねたい、不死であるはずの物体の中で可死の物事が死んできたのは一体どういうことなのか、と。永遠な生気を余るほど持っておりそれを飲み込んでいるということになっているのに。 Philo, De Prov. 1.25 (13 Aucher) = SVF. 2.1111  配剤するのである…人は息子たちを、牛飼いは牛を、馬丁は馬を、羊飼いは群れを、船頭は船を、医者は病人を、という風に。蜂や蟻でも、知恵のあるものが配慮をなすのである。宇宙全体の部分や、さらにその下位にある部分にもこういうものがある。つまり、知恵があり、先見の明を持って配慮をなす部分があるのだ。すると、知恵を持ち配剤をなす部分があれば、その全体も知恵があるということにはならないだろうか。また、我々が挙げてきたこれら全てのものは創造の原理を備え持っている。事実、原理を持っているものは始まりを持ってる。また、始まりを持っているものは、基礎となる何らかの始まりから始まっているのである。故に、他のものから原理を導いているものは、知恵ある配剤者がきっかけを与えて作り出したものなのである。ところで、配剤を欠く配剤者や知恵を欠く知者というものが一体全体ありうるだろうか。故に、知恵があり配剤するものが配剤や知恵なくしてはありえないとすれば、何か配剤されたものがあると同時に、それらが始源を割り当てられる所以となる知者もあるということになる。 Philo, De Prov. 1.29 (14 Au.) = SVF. 2.1112  実際、生物の本性には思考が与えられている。思慮し、万事を配備し、認識し、運動を引き起こす能力である。それ故に、物体を観察する人々には明らかなことだが、感覚能力を伴って作られたものには、あらかじめ動く気息の運動と目に見えない思考を予見する魂の運動が与えられていて、自らの働きに従う道具の働きがより完全になるようになっているのである。事実、摂理から地球に広げられた運動もこれ以外の仕方では認められないのである。それで、我々にも既に明らかな通り、摂理には、我々の認識を超えてはいるが明らかに存在する意志があるのである。というのも、これら全てが何ら魂や意志なしに生じているなどと主張することは不可能だからである。非常に些細な部分でさえ摂理から思慮と本能を完備されているのであるから。 Philo, De Prov. 1.32 (15) = SVF. 2.1113  つまり、…ありとあらゆる部分が実践的な思慮を持ち、配慮し考えると考えるべきではない。摂理は最初から宇宙の中にあるが、被造物の中で活動せず何の配慮もしないというのが本当だとするべきではない。万物は一つの普遍的な調和と整合に依っているのだから。つまり、専ら自らに依るものであっても、両者からの運動なしには活動するように配剤されないのである。こうして、知恵のある部分は、それらが自らの調和を元にして完成されると、目には見えないが万物を動かす普遍的な摂理が存在するという証拠と表明を提供するのである。 Philo, De Prov. 1.40 (19) = SVF. 2.1114  摂理や宇宙の起動者がなければ、世界の何ものも全く動き得なかったのである。というのも、世界全体が生命のない構築物だというのに、完全な被造物の本性においては生命ある運動が起こりうる、などと言える者がいるだろうか。こういう見解が成り立たないからこそ、まさに人間をこの世界の市民だと論じる余地もあるのである。人間は、大宇宙の中の小宇宙として作られたのであり、魂なくしては、つまりあらかじめ魂の最高の思考あるいはそれに類するものを用いることなくしては、肉体の運動を全うすることができないのである。なぜなら、目に見えない考慮を魂の中で行った後に、感覚でとらえられる部分の働きが目に見える形でそれに従うのであるから。   Philo, De Prov. 2.41 (70 Au.) = SVF. 2.1079  火神ヴルカンに帰されている豊かな内容を火に、ユノのは気の本性、また使者メルクリウスは理性に、また同様に、どなたであれ彼等に特有のものとされている他のものも、神学の道筋に従った秩序に帰すとすれば、あなたがちょっと前に非難していた[ホメロスやヘシオドスといった]詩人たちの礼讃者がやってくるだろう。言うまでもなく、神性を真実に立派に称賛し称える人だ。 Philo, De Prov. 2.48 (79 Aucher) = SVF. 1.509 (Cleanthes)  さてそれでは、我々の内には生得的に普遍的かつ永遠なものがあるとしようではないか。これは、最も名高い哲学者達の言説が示唆するところにも近い。例えば、人々が一括りにするパルメニデス、エンペドクレス*、ゼノン、クレアンテス、その他の神のような人々、まるである種の行列のようであり、あえて言えば聖なる集団のような人々である。さてところで、生得的な素材のうちには生成に至る部分もあれば滅びる部分もあるとしても何の驚くことがあろう。方や、神的な摂理により、方や物[そのもの]の秩序によるのだとすれば。つまり、その他個々の職人にしても素材を生み出すということは通常めったになく、受け取ったものを形作って仕上げ、述の秩序をそれに加えるのである。…それだから、こうした仮説によると、神は第一の基本的な質量を永遠に生み出すというわけではなく、用途に応じた質量を生み出し、それによって方や空が、方や地が、また動物の種族や植物の種族や、あらゆるものが作られるのである。しかしながら、元来宇宙が一つの素材から成り立っているとしても、摂理があるということを妨げるものでは全くない。…どのようにしてそう言えるか。素材を作り出し生み出すことだけが摂理の特質ではなくて、事実、保ち制御するのも、すなわち運命もそうだからである。 *いずれもDK未収。 Philo, De Providentia 2.55 (84 Aucher) = SVF. 2.1141  同様にして神も、新たに空虚を作り出すことなく、空虚の中に大都市、つまりこの宇宙を築き上げたのであるが、宇宙と空虚が場を共有するように築き上げたのである。すなわち、どの場所も物体で満たされ、空虚な場がないようにしたのである。 Philo, De Providentia 2.56 (84 Aucher) = SVF. 2.1143  宇宙の形も、宇宙そのものと同様に、摂理によって球形に作られたのである。それはまず、あらゆる形よりも素早く動くことができるからであり、次いで、放たれた宇宙が無限の空虚の中に落下してしまわないようにする必要が大いにあったからである。つまり、全部分が宇宙の中心を目指すようにしたのである。宇宙が保たれるにはこうするしかなく、そうされることによってのみ、個々の部分が等しく円を描いて中心を目指すようになるのである。 Philo, De Providentia 2.57 (84 Aucher) = SVF. 2.1142  無限定で物体でもない時間など神はほとんど作らなかったのであるが、しかし、日々や月々や年々といった、太陽や月が沿って動く尺度、また、他の惑星の周期は、生物の繁殖や繁茂のために作り出したのである。生物は年々の気候の循環がなければ生きていけないのであるから。太陽の昇降もこれに非常に役に立つように工夫されているのである。 Philo, De Providentia 2.58 (85 Aucher) = FDS.308 = SVF.2.86  さてそれから、思うに、君が弁証法から導き入れた発言は、威厳に相応しいようではないし、別の発言は単なる見えに基づいて組み立てられているし、あるいは一度教えによって知られた霊に関するものであるが、とにかく取り上げるに値しない。しかしながら、どうか言ってもらいたい、いったいどういう表象があり得るのか、もし何ごとかを普遍的に把握するということがないならば?また、何か他に普遍的なものが不意にやって来てもそれが分かるのだろうか?神はそれを前もって創るということはしなかったが、精神に多産を植え込んだのであり、それは個々の物事を動かすのに最も適しており、それが生じた際は、印や、自然を探究しつつ既に把握したことを通してそうするのである。そしてそれは、言葉を叫ぶことなくしかし真理というより確実な業によって確固としている事柄を、確かな論議として掴むことができるようにとのことである。そうではないのか? Philo, De Prov. 2.62 (87 Aucher) = SVF. 2.568  考えてもみたまえ。つまり、全ての…物体が重量を好むわけではないというので、重いものから軽いものが上昇すると君は言うのであるが、それは自然学者が言うことを同様である。つまり、何であれ重量のないもの一般は、重量に対立するものとして貢献をしているというのだ。というのも、相対立するものから構成されたものは強い力を持っているのであり、全世界もそういうものから創られているのである。…こう言えば…十分である。火風は、重量がなく本性上上昇運動するようになっており、地水に下から押されるということはない。 Philo, De Prov. 2.62 (87 Aucher) = SVF. 2.1144  大地が中央に位置しているのは、第一に、たとえ少しでも中心から動いて離れることがないためにである。つまり、大地は、圧力で静止していて、中心に留まっているのである。他方それはまた、球形を保つためでもある。つまり、そのような状態にあれば、万物は大地の上に直立できるのである。各々が中心に向かうからである。大地が摂理によって球形に作られたということも、以上から明かである。なぜなら、今球状を保つものと言われたものが、哲学的に形や状態とみなされるもののうち、他の形態をとることはないからである。 Philo, Prov. 2.74 (94 Au.) = SVF. 2.688  こうして、それらの自転はたやすくなされて疲弊することがないのだが、それは何よりもそれらが神的な本性に近いことによるのである。次いで、火の徳性を持っているということにもよる。火の本性は、萎えるということがありえず、最高の食物を与えられているので、時と共に疲れ果てるということもない。 Philo, De Prov. 2.77 (96 Aucher) = SVF. 2.680  月、とりわけその表面において、その産物は何らかの仕方で夜に養われているように思われる。つまり、弱く非常に女性的な輝きを放ってはいるが、決して晴天の明るさには及ばない(あるいは露を含んだ)輝きを養い育てて集めるのがやっとなのである。それは大量の激しい熱が干上がらせて乾燥させるからである。事実、燃焼することのないものは、徐々にゆっくりと乾燥することで完成されるものなのである。  しかし、惑星の数は宇宙全体に都合よくできている。実際、人々も暇さえあれば、個々の惑星がもたらす利益を数え上げることができる。また、それらは理性だけでなく、感覚でさえ認められるもので、クリュシッポスやクレアンテスが言ったように、摂理で動かされている以上、宇宙をより確実でより有益な統括へともたらすものを何一つ見落とさないのである。仮にもし、宇宙の物事が統括されるもっとよいあり方があったのであれば、宇宙の配剤はまさにその仕方で取りまとめられていただろう。神をさまたげる何ものも生じない限りは。 Philo, Prov. 2.78 (96 Aucher) = SVF. 2.694  昼と夜の長さを違うものにしているのは太陽である。太陽は不規則で長さの異なる回転をし、接近と分離によって夏と冬と春分・秋分を作り上げるのである。そしてこれらの季節が、一年という時間を作り出して育て、天下万物の完成の原因となるのである。 『『出エジプト記』の問題と解決』 Philo, QSE 1.1 (445 Aucher) = SVF. 2.584  時間は世界には隠されているが、誰か人が吟味に適した機会を得て真理を追求しようとすると、時間は泉となるのである。つまり、この時に全てのものは一斉に花咲き芽生えて、地に運ばれたものが豊穣に育つのである。さてしかし、既に述べたように、最初の創造において、森羅万象あらゆるものに不完全なものなどなかったのである。つまり、この与えられた作品は次のように構成されたのだ。すなわち、最も優れた類そのものが世界の中で転回し、敬虔という栄誉に向けて最適の場が選ばれ、それが大都市(つまりこの世界のことであるが)やそれにふさわしい性質となるのである。 Philo, QSE 2.81 (523 Aucher) = SVF. 2.561  宇宙は唯一のものであり、形態においても力においても他の何ものにも似ていない。というのは、四元はその実質においてもまた運動においても互いに類似性を持っているからである。実質においてというのは、それらが互いに交代するからである。運動においてというのは、直進運動をしているからである。つまり、火風は宇宙の中心からより高い方に、地水は中心に向かってそういう動きをするのである。しかしながら、宇宙そのものは直線状にではなく円運動を保っているのであり、それ故に安定した最も完璧な形態を保っているのである。 Philo, QSE 2.85 (526 Aucher) = SVF. 2.562  気風は黒いのである。自らのうちにはいかなる種類の光も持たず、それ故に他の光によって輝くのである。 Philo, QSE 2.88 (527 Aucher) = SVF. 2.561  地は水から区別され、水は風から、風は火から、また火はそれらの個々から区別されるとはいえ、これら全てが一つの形態に定められているというのも同様に正しいのである。というのは、これらの物体はかくも大量のものからかくも完璧に作られているので、一つになっているのが本来なのだからである。原素の相互交替がそれらの共同を明白に示しているだけになおさらである。 Philo, QSE 2.90 (528 Aucher) = SVF. 2.548  お分かりだろうか。地と水は、火風全体の中央にあり天空に抱かれているのであるが、どこか外部から支えられているわけではなく、ただそれだけで、沢山の紐帯によって保たれており、それらを束ねる神的な言理に従い、最も知的な術と完璧な調和によっているのである。 Philo, QSE 2 112 (541 Aucher) = FDS.284  四徳の各々の要素は三つのものからなっている。つまり、保持(習慣)・保持するべきもの・保持すること、である。ちょうどそれは感覚の場合と同様である。例えば、視覚・視覚対象・視覚行為のように。また、聴覚・聴覚対象・聴覚行為、したがってまた、知恵・知の対象・知ることのように、さらにまた… Philo, Quest. et Solut. in Exodum 2.120 (547 Aucher)  …というのも魂の運動はそれ自身から発しているのであるから。こう一貫して述べているのは何よりもストア派の哲学者たちである。 『『創世記』の問題と解決』 Philo, QSG 1.64 (44 Aucher) = SVF. 2.567  さて、秩序によって世界全体とその部分とは創られたのだ。というのは、世界の創造主は、いまだ手なずけられておらず無秩序だが、支配を受け入れる余地はある存在を秩序付け始めた時、分割して割り当てるようにしたのだ。つまり、重く本性上下降するもの、地水は世界の中心に置き、他方火風は、軽いために上昇するので、上方に置いたのである。 Philo, QSG 1.75 (49 Aucher) = SVF. 2.832  我々の魂は八つの部分からなっている。つまり、唯一理知的な部分と、理性を欠いた七つの部分に分けられるのが常であり、後者はさらに、五感と発声の器官、及び、生殖器官に分けられる。… Philo, QSG 2.4 (77) = SVF. 2.802 = LS.47R  さて、我々の身体は多くのものから作り上げられており、外からも内からも一つにまとめられていて、固有の性向によって成り立っている。しかし、これらの統合に関わるより高い性向が魂なのであって、このものは身体の中心にありながらもどこへでも通って行き、表面に出てきたとおもうとその後中心に戻ったりする。こうして、生気という単一の本性が二重の紐帯によって巻き込まれ、より強力で一まとまりの堅固さに適合しているのである。 Philo, QSG. 2.110 (539 Aucher) = FDS. 532 (『出エジプト記』第28章第15節に対して)《理性的なものとは何であるか。また、何故判断とそれが呼ばれるのか。また、何故理性的なものは肩章が刺繍されているあたりに作り上げられているのか》  その名前そのものが表すように、それは理性の表現なのである。そして、理性というのは二義的である。つまり、思考の本質に即した意味と、発話という意味とである。そして、判断は言葉である。なぜなら、あらゆるものは全て言葉によって規定され判別されるのであるから。理知的なものは、自然の思考におけるものによってそうされるが、しかし声においてあるものは孤独な発話においてもあり得る。さて、[理性が]作り上げられるのは肩章の刺繍のあたりであると言われているのは、非常にすばらしい。というのも、刺繍をすることによって理性を活動において形作らせ、あるいは提示するべきだからである。なぜなら、活動なくしては全てのものは不完全であり不具であるから。 (第16節に対して)《何故理知的なものは四重あるいは二重なのか。つまり、方や長さをもち、方や幅をもつのか》  理知的なものが二重であるのは、まず第一に、二重の理性を持っているからである。つまり、一方では、源泉としての力、自然本性における思慮、を備えることによって。また、他方では、露に流れ出るものをもたらす力を備えることによって。そして、後者はさらに二重になる。つまり、一つには真実に向かい、他方では虚偽に向かうのである。さて、第二点として、知性[そのもの]が二つのものであるように見えるからである。つまり、神的なものであるとともに、可死的なものでもあると思われるのである。そして、音声はこの対になったもので飾られようとしているのである。こうした二重のもので解釈されることによって。また、理知的なものが四重であるのは、象徴に即してのことである。というのは、言葉は全面的に、いかなる理由があろうと、確固不動であるべきだし、いかなる部分も思考において揺らいではならないし、口と舌で明るみに出される際もそうであるのだから。さらに、一方では長さを、一方では幅を持つのは次のことによる。つまり、手尺が、第六の部分はエレだからである。というのは、手尺は六骨尺だからである。すなわち、六つが一つに対応するというのは、長さにおいても幅においても同様である。さて、象徴もこの種の現れ方をする。そして、理性も一つのものでありながら、種々多様な理解を統合するものであって、それはこのものをあのものに適応するようなものである。また、発話された言葉もある種の一つのものであって、この場合も同様に、異なる理解を一つにまとめあげるものなのである。つまり、文字を音節に、音節を単語に、沢山の単語を文章やさらに長い発言に、という具合にして。なぜなら、これらにおいて無限に広がり行き渡っているものは、自然な結びつきによって調和するからである。知性は長さと幅を持っている。なぜなら、それは理解されうるもの全体に、把握によって、広がり行き渡っているからである。同様に言葉も両方に広がっている。なぜなら、このものも広がりを持つからであり、それは言葉の広がりによって奥行きや幅を持つことを通じてなのである。 Philo, Quaest. et Solut. in Genesin 2.112.541 = SVF. 3.277  4徳の各要素は3つの種、つまり性状、所有、行使、によって別たれる。感覚においても例えば、見てしまっていること、見うること、見ることがあるように。同様に、聞いてしまっていること、聞けること、聞くこと。よって、知識、知りうること、知ることもそのようである。同様に、節制、節制していること、節制すること。同じく、勇気、勇気があること、勇気を持つこと(よりなじみがある言い方をすると、勇気すること)。同じように、正義、正義があること、正義をもつこと(いわゆる正義すること)  Philo, QSG. 3.48 = SVF. 2.740  自らを生成の原因だと考える人々に、もっと自然に適ったことを教えた。彼等は全宇宙の創造者を考える際にもほとんど魂に言及することがなかった。つまり、真に本当の父はこの方であって、我々は創造を語るだけで、創造に仕える道具に過ぎない。その理由はこうだ。普段目に付く無生物が驚くほどの類似性を持っているのは、それらの筋を動かしているものが実際は目に見えないからであるが、それでも原因があるからこそ働きや動き自体は目に見えるのである。同様にして、宇宙の創造者もその徳を見えない無限の空間に広げている。方や、我々は筋を働かせて非常に驚くべきことをなすが、それは我々が届くまでに過ぎない。つまり、種子を出して子をもうけるまでである。また、たとえ我々が、笛は自分で自分を吹いているのだと言い張るとしても、調和した音を作り出すには技術を尽くして整えられねばならないはずである。道具というのは、その必要が合って作られたことに仕え働くのであるから。 Philo, QSG. 4.5 (248 Au) = SVF. 2.566  目下検討中の書物では何か次のような仕方で明らかにされている。つまり、人々は水で洗われて浄められるが、水そのものは神の足によってそうされるのだ。さて、これは象徴的な表現で、「足」というのは一番末端の物質のことなのである。そして実に、神的な物事の究極のものとして選びだされたのが気であり、これが一群の被造物を動かしているのである。つまり、気が水に及んで動かすことがなければそれらは死んでしまうのだ。それどころか、生命を吹込まれたものがさらに知を得るすべはないので、どうしても水はそれらのうちに混ぜられていなければならない。 Philo, Quaest. et Solut. in Genesin 4.11.254Au = SVF. 3.207  故に、疑問に応える。見よ、徳は私、智恵のうちにあるだけではなく実に肉体の空疎でつまらない居場所にもあり、感覚や他のもっと細かい機関にまで及んでいるのだ。つまり、私は徳に従って見、聞き、嗅ぎ、味わい、触るのであり、その他の運動を働かせるにも思慮、敬虔、勇敢、正義に従うのである。 Philo, Quaest. et Solut. in Genesin 4.73.302 = SVF. 3.571(?)  悲嘆は不滅のものどもの内に居場所をもたない。それどころか、徳と同じく知恵も全て不滅である。しかし実際には、人々がもつことの出来るものや現に欠いているものの内は悲嘆に満ちているのが必然なのだ。真実のところ、最高に細心の注意を払わねばならないのは悲しみも嘆きも賢者を掌握することはなかったと論証するものにおいてなのである。…突如として生じたことや意に反して勃発したことはつまらない精神を持つ人間を押しつぶして支配するし、実際首尾一貫した者をもあらゆるところでかくも激しい衝撃によって這いつくばらせるので、終局まで導くものはこのような者にはなにもせず、むしろ熟慮という最強の指導者に背を向けるように拒絶が強いるのである。 Philo, QSG 4.74.303 = SVF. 3.634  知恵に熱心な人は空疎で空っぽな人とは誰とも、たとえどれだけ自然によってあの人々に親しくとも、共に生活もしないし交際もしないで、彼等からは遠く離れて思慮に結びつくのである。このように、航海仲間とか、同じ道の旅の友とか、同胞市民とか、人生の伴侶とか、賢者と非賢者が言われるならそれは正しくない。後者に第一の導主が協調することはないし、心を互いに一つにすることもないからである。 Philo,QSG 4.76.304=SVF.3.681(?)  実に、数え切れないほどのものが自然の法に従って成り立っているが、どの哲学者もこれに親近になっていない。しかし、法とは例えばこういうことである。非賢者のうちの誰も、地や海の全ての力を従えたとしても、王ではなく、賢者と愛する神だけがそうなのであって、それは装備と武器の働きにはよるが、それで多くの人々が圧倒的な力を通じて利益を受けるのである。というのも実際、誰か航海や医療や音楽に経験を積んだ者がいたら、舵や薬の調合や笛・竪琴はその人の言うとおりにあるように(なぜなら、正にこうしたものはどれをも定められた使用に向けて適応することはできず、むしろ全体としての航父や医者や音楽家に奉仕すると言われているのだから)、この王的な仕事と徳を備えた専門家が何らかの技術である場合も全くその通りなのである。つまり、経験は積んだが人々に命令する事柄は知らない者がいたらその者は未熟で粗野な者とみなされるべきであって、王と言われるべきなのは十分に習得し知識を備えた者だけなのである。 Philo, QSG 4.92.318=SVF.3.583  賢者全ての人生は全部幸福で満たされており、虚ろなままにされている部分などない。虚ろな部分に罪は忍び込むのだから。 Philo, Quaest. et Solut. in Genesin 4.99.323 = SVF. 3.592  しかしながら、肉体の麗しさがあの美しさと名付けられたものに次いで中心的な重要性をもつなどと考えてはならない。それは部分の均整と形の優美さから成り立ってはいるが、その種のものは娼婦どもにもそなわっているので、麗しいものだなどとは言いたくなく、むしろ逆に醜いと言いたかった。つまりこの名の方が彼等にはふさわしいのだから、もし実際…鏡を通して肉体のふさわしさが明らかになるように、魂のそれも顔形を通じてそうなるのだとしたら。ふしだらな目付き、思い上がった態度、落ち着かない眉の動き、ドタドタした歩行、劣った人に何ら赤面しないことは最も恥な魂の印であり、そんな魂が親近な汚点の隠れた場所をあらわな肉体に書き込んでいるのである。ここからして実に、神々からの神託は知恵と徳の探求によって保たれてきたのであり、人がシレノスを歪んだ肉体を通して見るとしても非常に麗しいものであるのは必然的なことなのである。つまり、善はそれにふさわしい廉恥と外見の受容によって価値あるものとして確証されうるのである。 Philo, QSG. 4.117 (335 Aucher) = FDS.524  というのも、次のことはよく踏まえられねばならないからである。つまり、文字にされうる言葉の要素には三種類ある。声をもつもの(母音)、半ば声をもつもの(半母音)、そして声をもたないもの(子音)である。そして実は、我々の本性もこれと同様なのである。というのも、声をもつものに相当するのが理性であり、半ば声をもつものには感覚、声をもたないものには身体が対応しているからである。さてしかし、完成された状態から論じることにしよう。その理由はこうだ。子音それ自体はそのまま単独では何ら固有の音をもたないが、しかし、母音と一緒にされることで、文字にされうる声を作り上げる。それと同様に、我々の身体もそれだけでその状態にあるなら、動くことはできない。そして、それが動かされるのは理性的な魂によってであり、適切かつ相応しいものに向けられた道具としての個々の部分を通じてなのである。さらにまた、半母音は不具で不完全な音を発する。しかし、何か音声が加えられると、十分に分節化された音声をもたらす。このように、感覚というものは不完全で未完成なのである。それは知性と肉体の中間の地位を保持している。というのも、これらの各々に与っているからである。肉体のように生命のないものではないし、かといって思考のように知性があるわけでもない。実際、精神が己を伸ばし混ざりあい(あるいは己を混ぜ)それに書き込む時、理知的に見聞きする体制を整え、また同時に、理知的に何事かを述べ、また理知的に感覚するよう備えているのである。しかしさらに、同様にして、母音はそれ単独でも音声を発せるし、多のものと合わされてもよいが、それと同じく、精神もそれ単独で多の何ものもなしに動くことができるし、その際理知的なものにおいて自ら何か個々のものを受入れ、それを補佐すればよいのである*。またさらに、他のものの運動の原因ともなるのであり、その際は、踊りの指導者のように、動作の解放*を与えればよいのである。しかし、感覚については、上述のように、理性から肉体の感覚に、つまりその活動をする部分に赴くことによるのであって、それは声から自然な活動に至ることに似ている。 *ヒュルザーが説明を入れているようにアルメニア語訳は意味を取り違えているおそれがあり、アウヒェルはラテン語訳で修正を加えているように見える。 Philo, QSG. 4.188 (397 Au.) = SVF. 2.635  宇宙や世界全体も同様である[悲嘆を交えない永遠の歓喜を持っている]。なぜなら、それは生物であり、理性があり、徳を備えて活動しており、本性において哲学者だからである。同じ原因で、悲嘆や恐怖は持たず、喜びに満ちているのである。確かにこう言われている。まさに宇宙の父であり創造主として、自らの生の内で永遠に喜び楽しんでいるのであり、神にふさわしい喜びを楽しみながら神的な遊技をたしなんでおり、神にふさわしくないことには何一ついかなる形でも係わず、自分自身、とりわけ自分の徳に喜び、世界や自分に与えたものに喜んでいるのである。 Philo, Quaest. et Solut. in Genesin 4.136.348 = SVF. 3.271  従女の堅持に対する名前としては、贔屓がない、片方に傾いていない、逆のことになかなか傾かない、嫌な気にさせない、気が変わらない、無差別である、一貫している、心の底までまとまっている、負けない、公正である、そして何であれ不動の堅持を求めるものに親しいものである。 Philo, QSG 4.165.371 = SVF. 3.678  このものに粗野であるので、街を欠き、法から逃れて人生の正しいたしなみ方を知らず、好戦的で頑固であり、義しいことや善いことに何一つ与らず、親しみや人間性や交友に敵対的で、反社会的な人生を送っている。 Philo, Quaest. et Solut. in Genesin 4.165. p372 = SVF. 3.624  同様に、堅実な賢者はこの二つのものをもっているのだ、かたや裸の者としてかたや家に住む者として。裸の性格は素直さという真理とこびへつらいのなさを表している。…実に他方、家族の保護は野蛮な生き方の反対のものであり家における規範を伴っている。すなわち、これらのものに関わる家政は小さい市政の把握なのである。市政と家政は同類の徳なのだから。何ら混乱する事なく両者を入れ替えて示すことができるだろう。つまり、市政は都市の家政であり、家政は家の市政なのである。 Philo, QSG. 4.215 (416 Au.) = SVF. 2.643  人間の精神は天空に似ている。というのも、どちらにしてもその部分は理性を有しているからである。後者は宇宙の、前者は魂の。 Philo, Quis rer. div. heres 299 vol. 3 p. 68.7(?)  つまり、第1の数に則すと、魂が形作られていなくても、善いものでも悪いものでもないものの内在観念を得ることができ、第2に則すと、我々は過誤の運動を用い、第3においては、我々は病的なものを押し出し感情の頂点を越えて治癒され、第4において我々は完全な健康と強壮さを装う、劣悪なことを転覆させ、以前はできなかった立派な事柄に着手していると思われる時に。 Philo, Quod deterius potiori insidari soleat 3.7 = SVF. 3.33  というのは、哲学をするものは[単なる]真理よりもむしろ国家のために3種類の善(それはつまり外的善と身体に関わるそれと精神のそれであってそのあり方は互いに全然異なっているのだが)を一つに導き結び合わせるのであるが、あらゆるものがそれに見合った何かを、全てのものが全てのものを必要としていることは明らかであり、これらが集約されて合わされたものが完成され真に内実の伴った善であって、この善がそこから導かれる部分[としての善]は善の要素ではあっても終局的な善ではないと考えてのことなのである。(3.8)すなわち、火であれ土であれ、万物がそれから創造される4元素のうちの何であれ、それが世界なのではなく、それらの諸要素が同じ所に出会い混ぜ合わされることがそうであるように、同様にして幸福もただ外的善や身体に関わるそれや魂のそれそれぞれだけにおいて考察されるのではなく(というのは今言ったもののそれぞれは部分・要素としての理しかもっていないのだから)全てを集約したものに即してそうせねばならない[と考えられている]。(4.9)だから、こうした思想を教わりたいと思う者はあの人たちのところに送られる。彼等は立派なものだけが善であり、それはまさに魂としての魂にだけ備わるものだとみなしている。そして、いわゆる外的善や身体に関わる善はただの贅沢であり、真実の善ではないと信じている。 Philo, Quod det. potiori insidiari soleat 72 Vol. I p. 274, 30 Wendl. = SVF. 3.209  というのはつまり、我々の耳をそぎ落とすのは、正義は共有のもの、節制は有利なもの、自制は洗練されたもの、敬虔は最も利益になるもの、他の徳は最も健全かつ安全だと表明する人々なのだから。また今度は、不正は契約に反するもの、放埒は病的なもの、不敬虔は不法なもの、他の悪徳は最も害になるものと詳論している。 Philo, Quod Deus sit Immut. 5.22 = SVF. 3.566  実際、全ての人が相反する見解をもつ必要はないとする人々もいる。というのも、邪心なく一心に哲学している人たちは知識から最大の善を見出しているのだが、それは物事に動じず、むしろひよることない堅実さと確実な確かさをもってかかるべき事柄に取り組むということなのであるから。 Philo,Quod Omnis Probus Liber 2.p470.27=SVF.1.179 (目的)  ゼノンの言う幸せ、自然に従って生きること、はせいぜいでピュティアの賜物程度にしか終局には至らない。 Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 6.32=SVF.3.357(奴隷)  奉仕活動は隷属の証左にはならないということについては戦争が最も明白な証拠となる。 兵士たちがあらゆることを自分でするのを見ることができる。彼らは兵器を運ぶだけでなく、使わなければならないものをみな軛につながれた家畜のようにして背中に背負うのである。それどころか、彼等は水くみをしたり、薪を集めたり、牛のために草を取りに行ったりもする。また、敵に対する軍事活動に必要なことをくどくど言う必要もないだろう。彼等は塹壕を掘ったり、城壁を築いたり、三段悼船を造ったり、とにかく軍務や戦術に関わる全てのことに手や体の他の部分を使って仕えるのである。他方、平時の戦争とでも言うべきものもあって、これは武装して行う戦争よりも軽いということはないのだ。つまりは、不名誉とか貧困とか生活必需品のひどい欠乏が引き起こすもののことである。この戦争のために仕方なく人々はひどく奴隷じみたことに手をつけざるをえなくなるのだ。つまり、穴を掘ったり、畑を耕したり、金物細工をしたり、お駄賃をもらうためにヘラヘラとお手伝いをしたり、しばしば広場の真ん中だというのに同年の者たちや同級生や幼馴染みが見ている中を荷物を背って歩いたりまでするのだ。 Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 6.36=SVF.3.357(奴隷)  しかし、他人に服従することは自由を奪う[というのか]。それならば、子供たちが父親や母親の命令に甘んじたり、友人たちが忠告者たちの忠告に従ったりすることがどうしてあるだろう。なぜなら、誰一人進んで奴隷になる者はいないのだから。実際、親であれば、自分の子供に奉仕を強いるために(しかもそれは隷属の唯一の証拠ではないのだ*)、子供を憎むなどというそのような傲慢を表すことはないだろう。 *アルニムに従う。 Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 6.37=SVF.3.358(奴隷)  誰かが奴隷売買人に値切られるのを見て、あれは奴隷だと直ちに思うとすれば、真理から大いに外れている。というのは、売買は売人や売られた人を奴隷にするのに決定的なものでは明らかにないからだ。なぜなら、父親が息子の身の代を出したり、しばしば息子が父親をそうしたりするではないか、誘拐されて連れ去られた場合とか、戦時に捕虜にされた場合には。しかし、そのような人を自然の法律は、それは地上のそれよりも明白なのだが、自由な人と定めているのだ。  (38)それどころか、両者が極端に正反対になってしまった場合には事態は逆転する。つまり、奴隷として買われたにもかかわらず主人になってしまうのだ。 Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 7.42=SVF.3.359(奴隷 神)  さらにこうした事柄に加えて、神の友人たちが自由ではないなどという人がどうしていようか*。王たちの同胞に自由だけでなく統治権も認めるべきでないならば、彼等は共に管理し指導に与るのだから、オリュンポスの神々のそれに隷属を語らねばならなくなる。彼等は神々を愛するゆえに即神々に愛され、同じ好意を与え返し、詩人たちが言うように真実の裁きに従い、あらゆるものを支配する王の中の王なのだ。 *アルニムに従う。 Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 7.45=SVF.3.360(統治 法)  さらにまた、こういうこともある。例えば、寡頭制や僭主制による国家は隷属を内に保っている。それらは権威者や権力者として残虐で苛酷な主人をもっているからである。その反面、法を監督や首長として用いる国家は自由である。それと同様に、人々の場合でも、怒りや欲望や何か他の感情やあるいはよからぬ企みをする悪徳にさえ支配されている人々は全く奴隷である。しかし、法の下に生活している人々は自由である。(46)正しい理が誤ることのない法であって、死滅する者のあれやこれやの猿知恵によって魂のない紙や石の上に刻まれた魂のないものではなく、むしろ不死不滅の自然によって不死の思惟の上に刻まれたものなのである。(47)だから、了見の狭さの故に事柄の明白な特性を見て取れない人がいることに驚く人がいるかもしれない。そういう人々は、アテナイやスパルタの最大の大衆にとってソロンやリュクルゴスの法律で自由にはもう十分だと言うのだ。これらの法律に従順な市民たちを支配し統治するからだというのだ。しかし、賢い人々にとって正しい理では自由に与るのに不十分だと言うのだ、正しい理は他の法にとっても起源であり、賢者はそれが命令し禁止する限りのこと全てに従うのに。 Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 7.48=SVF.3.361(法)  さて以上で言われた事柄に加えると、自由の最も明白な証左は平等である。優れた人々は皆これを互いに及ぼし合うのである。そこからして、あの3脚韻の詩句は哲学的なことを語っていると言われるのだ。つまり   法には与れないのだ、奴隷どもは、元々 また   君は生まれながらにして奴隷なのだ、理には与れない。 (49) 従って、音楽の法則が音楽に手を染めている人全員にこの技術における平等を分け与え、文法や幾何のそれが文法家や幾何学者にそうするように、生における法も生き方に関わる事柄に経験を積んだ人々にそうするのだ。(50)さて、優れた人々は全員生に関わる事柄に経験を積んだ者である、自然全体における事柄にそうしているのだから。そして彼等のうちには自由な者もいる。従って、彼等と平等を分かち合う人々もそうである。だから、優れた人は誰一人奴隷ではなく、むしろ全員が自由なのである。(8.51)同じ論拠からして、無思慮な者は奴隷であるということも証明されるだろう。音楽に関わる法則が音楽の心得のない人々には音楽を修めた人々に対して平等を与えず、文法のそれが文法の心得のない人々には文法に通じた人に対してそうしないように、総じて技術に関わる法が技術に通じていない人には技術者に対する平等を与えないように、生きることに関わる法も生きかたについて無経験な人には経験を積んだ人に対する平等を与えないのだ。(52)しかし、法から来る平等は全ての自由な人々に与えられる。*そして、劣った人々とは生き方に関わる事柄に無経験な人々であり、優れた人々とは経験を積んだ人々なのである。だから、劣った人のうちには自由な人もいるなどということはなく、全員が奴隷である。 *Loeb版に従い1文削除。 ↓ Philo, QOPLS 53 = SVF.1.228   (53)ゼノンは、この人ほど徳に導かれた人はいないのだが、まだ若かった頃、劣者には優れた人に対する言論の平等がないということを論証した。つまり彼はこう言っている。「劣者は例え優れた人に異を唱えても悔やまないだろう。だから、劣者には優れた人に対する言論の自由がないのである」 Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 9.59=SVF.3.362(賢者)  だから、見当違いのことではないのだ、全てのことを思慮をもってなす人は全てのことを善くなすのである。そして、全てのことを善くなす人は全てのことを正しくなすのである。そして、全てのことを正しくなす人は誤らず、咎めなく、ケチのつけようがないように、後に害を残さないように、害悪を与えないようになすのである。従って、その人は自分が望む通りに全てのことをなしまた生きる能力を得ることになるだろう。そのようなことをできる人は自由な人であろう。そこで、洗練された人は全てのことを思慮をもってなす。従って、彼だけが自由なのである。 Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 9.60=SVF.3.363(賢者)  さて、強制も妨害もうけない人は奴隷ではないだろう。そして、優れた人を強制も妨害もすることはできない。従って、優れた人は奴隷ではない。彼が強制もされないし妨害もうけないことは明白である。欲求するものを得られない人が妨害されるのであるし、賢者は徳に則した物事を、つまり本来捕らえ損ねないはずのものを、欲求するのであるから。またところで、強制されるとすれば、その人は明らかに不本意に何事かをなすのである。人間にとって、行為は徳に因る正しい行為か悪徳に因る過誤か中間の善悪無記なもののどれかである。(61)つまり、徳に因るものは無理強いされたものではなく、むしろ行為者がなす限りのそれらは全て本意からのものである(彼本人にとって望ましいのだから)。他方、悪徳に因るものは避けるべきものであって、無意識のうちになされるものではない。また、確かに善悪無記な行為は明らかに[不本意になされるものでは*]ない。こうした事柄に対して心はちょうど秤にかけるように釣り合いをとって、支配の手綱を明け渡してしまうことのないように、また無視するほどの価値しかないようなことに満足しないように教唆するのである。こうしたことから明らかなように、[優れた人は]何事も不本意になさないし強制もされない。仮にもし彼が奴隷であれば、強制されたかもしれないが。従って、洗練された人は自由である。 * Philo,Quod Omnis Probus Liber Sit 97=SVF.1.218=LS.67N (賢者)  しからば、そのような証言や見解に従えば、はたしてゼノンの次のような見解は言及するに値するのか。つまり「誰であれ優れた人を、何か望まないことをしたくないにもかかわらず、[そうするよう]強制するよりは、空気で一杯の皮袋を誰かが水に沈める*方が早いだろう」というのは、正しい理が堅固な教説によって支えている魂は屈伏せず支配されないからである。 *ロングとセドリーに従う 『摂理論』 Philo, De Provid. 1.22 = SVF. 1.85  ムナセウスの息子、ゼノンによると、気息とは神と質量であり、原素は四つである。 Philo, De Provid. 2.58 (85 Aucher) = SVF. 2.86(?)  しかしながら私は問う。一体なぜ時折種というものがあるのか、何かに関わる普遍的な把握がないとしたら。また、何か普遍的なものを知性で認識することが起こるが、その普遍的なものは豊かな精神を注入した神が予め作っておいたものではないのだ。そして、この精神の豊かさこそ、 『アベルとカインの犠牲論』 Philo,SAC.10.43=SVF.3.522  完成された徳は完全な正しい生まれの者だけの持ち物である。他方、中間のものは適宜行為に調和し、一般教養によって初等教育を施されただけの不完全な人に関わる。 Philo,SAC.22.78=SVF.3.739   (78)ところで、完成された徳を手に入れることに向けてではないにしても、実際国制に有益であるのは、古来の始祖伝来の思想によって養われること、立派な行いに関する古い言い伝えをたどることである。そうした事柄を歴史家達や全ての詩人は同世代の人々や後の人々が覚えているようにと伝えてくれている。 Philo,De Sacrif. Abel et Cain 25.82=SVF.3.304   (25.82)だから、この理を上に立つ主要なもの、いわゆる偶有性、に分割し各々に固有の形態を調和させねばならない、優れた射主をまねて。彼等は何か的を据えるとそれを射当てるために全ての弓を試みるのである。つまり、的に主要事が、弓にはそれらに対応する形態が似ているのである。(83)このように、全ての飾りの中でも最高のもの、理は調和ある仕方で織り合わされているのである。…(84)…というのは、相並ぶ形態に分かたれた徳、つまり思慮、節制、正義そして勇気は全体であり一つなのであるのだが、それは我々がそれぞれの違いを知って全体においても部分においても務めを保つためなのである。 Philo,SCA.33.111=SVF.3.609  なぜなら、魂にとっての祝祭は完成された徳のうちの歓楽であるから。しかし、こういう祝祭を祝祭するのは賢者だけであり、他の人は誰もそうしない。つまり、感情や悪事を味わわない魂は非常に見出されにくいまれなものだから。 Philo,SCA.35.115(249.4 Wendl)=SVF.3.505  しかし、私がこういうことを語っているのは徳についてではなくて、中間的な技術や身体の配慮や外的な便宜を取り扱うその他の不可欠なそれに関してなのである。少なくとも終局的な善いもの悪いものに関する骨折はたとえ目的を欠いていてもそれだけで十分に使用者を益すのであるが、徳の外部にあるものはそれに限度が加わらないなら全く無益なのである。 Philo,SCA.37.121=SVF.3.636  しかし、次の教説は全く必然的なものとは考えられていない*。つまり、全ての賢者は劣者の身代なのである。前者が憐憫と先慮を用いて自分の思惟を提供してやらねば後者はほんのわずかな時間もことを始められないのだから。それはちょうど、医者が患者の変容(変調)に戦列を整え、これを軽いものにし、あるいは何らか逆らえない運動を伴って無理矢理反抗しない場合なら全面的に殲滅したりして、治癒という配慮をどんどん進めるのと同様なのである。…(123)無論、試みるべきことは、自分の中の悪徳によってすっかりだめになってはいない人々、医者という善い人々を真似している人々を救いきれるだけ救うということなのである。こういう人々は、病人には自分で自分を病から救うことなどできないと分かっていても、それでも治癒を喜んで受け入れるのである、思惑に反することが何か起こったとしてもそれを自分の油断のためだと思わない限り。どんな小さなものでも健康の種子と見えるものがあれば、これを全ての配慮の火花とみなして火を灯すべきなのである。なぜなら、それが延ばされ増やされるなら、より善くより揺るぎない人生を送れるであろうという希望があるからである。 *ヨングの訳は疑問文にしているが、あるいはその方がいいのかもしれない。 Philo,De Septenario et festis diebus 279(v2 Mang.)=SVF.3.610  [賢者は]全生涯に亘って祝祭を行っている。…劣者の誰も、最も短い時間さえ、祝祭しない。 Philo,De Septen.et Fest.Dieb.p283=SVF.3.352  すなわち、人は誰一人として生まれながらに奴隷ではない。 Philo,De Septen.et Fest.Dieb.p284.vol.2=SVF.3.330  というのは、要するに国制は善美なことしか表さない法律によっても有徳であるのだから。 Philo,De Septen.et Fest.Dieb.p291=SVF.3.352  主人たちは金で買った人々を生まれつきの奴隷ではなくて雇われ人として扱うべきである。 Philo,De Sept. et Fest. Dieb. vol.2 Mang. p.348=SVF.3.446  全ての感情は煽動されている、全てが限度を越えた過剰な衝動であり、魂の理不尽で自然に反した罪深い運動なのだから。 Philo,De Sept. et Fest. Dieb. vol.2 Mang. p.360=SVF.3.286  勇気とは恐ろしい事柄に関わる徳であると、ミューズの技や祝祭に全く疎遠でない人々なら知っているのである、たとえ短期間でも教養に触れ、踏みとどまるべき事柄に関する知識をえたのであれば。 Philo,De Sobrietate 34 vol.2.p.222.10 Wendl=SVF.3.244(?)(徳の潜伏と発揮)  状態と所有は互いに異なっている。穏やかさは前者であり、動きは運動である。後者には2つの種類がある。一つは位置を変えるものであり、もう一つは同じ場所で回転するものである。ところで、所有と同族なのが性向であり、運動には活動である。身近な例を用いて語ればもっと分かりやすくなるだろう。大工や画家や農夫や音楽家やその他の技術者は、もし安静にしておりその技術に即した活動を何らしていなくても、彼等の性格が上述の名前で呼ばれることには変わりがない、各々に備わる経験と知識を保ったままの状態にあるのだから。しかし、大工が材木をもって働くと、またその他各々の技術者がその知識に応じたことに着手すると、以前のものに親しいがしかし異なった名称が必然的に加わるのである。つまり、大工には大工仕事をすること、画家には画家製作をすることが。…それでは、誰に非難と賞賛が随伴するのか。現に活動し行為している人々にではないことがあろうか。つまり、正当行為する人々は賞賛を、過誤を侵す人々は非難を収穫するのである。  (38)さてところで、同じ理論は無思慮にも、総じて徳と悪徳に則す事柄に調和する。思慮者かつ節制者かつ勇者かつ義者である人々は魂の点で計り知れない者となったのである…しかし、思考における栄光の立派さを示すだけの力はなかった、貧困や不名誉や身体の病の故に…。それだから、この人々はいわば盲目で唖の善いものを手に入れたのだが、別の人々もあるのであり、彼等は解放された…全てのものをもっている、最も滅びにくい質量を証明に加えながら。思慮者は公私の事柄の指導力を発揮し、こうしたことにおいて理解と用心を示したのである。方や、節制者は放蕩に対して恐るべき者となり、盲目の富を呼び寄せたのだが、それはそれを監督していることを証明するためである。また、義しい者は支配力をそうしたのだが、ふさわしい価値に即して各人に物事を整合的に配分するということがこれによって可能となるであろう。…こうしたものがなければ徳は不活動なままであろうし、安らぎ続けることになる。 Philo,Sob. 12.56=SVF.3.603  (56)しかし、この遺産を得た者は人間並みの幸福という限界の向こう側にまで進んだのだ。つまり、彼だけが生まれの善い者なのだ、神を父親と登録し、このお方のひとり子として生まれたとする限りで。ただ富裕だというのではなく、全く満ち足りた富者なのだ、豊かで法にかなった、時が経っても古びることのない、卓越した若々しい善いものにだけ囲まれているのだから。(57)単に評判がよい者ではなく、誉れに満ちた者であり、追従によるまがい物ではなく真理によって確証された名誉を実らせる者である。王は彼だけであり、万物の導主から、万物に対する支配力という権威を独占的に得ているのである。自由なのも彼だけで、最も苦々しい愚妻、すなわち空疎な思いなしから解放されているのである。 Philo, De Visione Angeli (616 Aucher) = SVF.2.422  ケルビムは範型あるいは燃焼の表現である。…燃焼というのは、秩序を奪われている様、あるいは無形態の物体を使い尽くしており、それを秩序へと戻し、結果として、形のないものを形へと、飾られていないものを飾りへと戻すからである。つまり、徳目というのは滅びえない火であり、しかし健全な火、それによって全ての被造物が作られた火であるからである。それだから、思うに、少なからぬ哲学者達が造化的な火が、創造の過程で、種子へと至る道を落ちていったと説いたのである。さてもし、何か広大な光の巻物が肉体の目にも認められるなら、見えないものにおいてさえ自然は明らかなのである、心の目で非常にはっきりと見ることができるならば。自然によって物体は創造され形作られたのである。