フィロン『摂理論』


Philo, De Prov. 1.9 (5 Aucher) = SVF. 2.577
 さらに世界の部分が、存在するように端緒を受け取っていると我々は認めている。さてしかし、部分が、存在するように端緒を持っているとしたら、世界全体もまた、存在するように端緒を持っているというのが間違いなく必然である。また、部分が滅びるようになっているとしたら、世界全体も滅びるようになっているというべきである。

Philo, De Prov. 1.10 (6) = SVF. 2.578
 万人が認めるのではないか。世界の部分は人間と同じようなものである、と。つまり、[個々の]人間によって人間性は存在しているのである。というのも、まず誰か人間がいなければ、人間性というのはどこにも存在しないからである。しかしところで、人間は子孫を残すあの端緒を持っており、人間性の部分をなしている。つまり、人間が誰もいなければ人間性など認められないし、人間が誰もいなくなれば人間性もなくなるのである。従って、誰か人が人類がうまれる端緒を担ったとすると、人間性も誕生するもとに置かれるのが全く必然なのである。

Philo, De Prov. 1.13 (7) = SVF. 2.591
 個々各々の部分が崩壊するということ、とりわけこうした個々の最小の部分が崩壊するということは、これらから物体の本性や本質が生じているのであるから、将来物体全体も崩壊するということを表している。では、物体のどの部分でもよいが、最初に表れる崩壊とは何であろうか。というのも、個別の部分には何の差異も現れず、崩壊が生ずる物体に何の区別も生じないとすれば、どうであろうか。つまり、何か単一で一様な本性を持つものは解消を崩壊から得るのである。部分が散逸すると思われる物体は解消と崩壊に見舞われるというので。こうして、物体一般は一つの終極に向けて死に絶えるのである。
 (14)それだから、生まれ持った理性を行使して生物の組成、とりわけ理性を与えられた生物のそれ、また世界の内にあるあるいはあったもの一般のそれ、まさしく変転の内にある世界におけるそれらの、を見てとる人であれば分るであろう、世界全体もその部分の本性からして崩壊するようになっているのだ。

Philo, De Prov. 1.15 (8) = SVF. 2.592
 したがって、土や空気の本性を吟味し考慮しても、それらそのもののうちには、世界の他の部分との差異は何も見出せないだろう。全体が全体として同一の本性に属す限りは。さてしかしながら、生成と崩壊はどちらかの終結なのである。つまり、これら両者は変転や変化や転化にさらされた時に終わりを迎えるのであり、火によって己の本性の変転を得るのである。こうして、長い間働いて疲弊し、自然本来の産出力が全くなくなると、大地はおのれからそれ以上何も生み出さなくなる。実際、常にこのような状態にあろうとしてできないものが、火に取り囲まれると芽を出さなくなるし、水がなくなって澱んでも、あるいは他のものから違う変転を被ってもそういうことになる。そういうわけであるから、こうしたものが不死であると言うなどとどうやって予期できるのか、知恵の道筋を辿ってきた人々にもかかわらず。
 (18)さあそれでは。…地と気に関して、気本来の状態だけを考察するのではなく、それ自体がその都度様々な状態を被って再び顕然な状態に戻るということも考察しよう。ここからして、医学者達の考えでも、この変転によって病気が生じると考えられているのである。この本性に与りつつこの世界に存在している物体はこのことによって衰えると言われるのだから。そうすると、病や混乱や破壊に傾いている以上、生命自体もいつかどうして奪われないことがあろうか。
 (19)さて、気は不死であり、それ自体永遠に存続するだろうと言う人がいたら、尋ねたい、不死であるはずの物体の中で可死の物事が死んできたのは一体どういうことなのか、と。永遠な生気を余るほど持っておりそれを飲み込んでいるということになっているのに。

Philo, De Provid. 1.22 = SVF. 1.85
 ムナセウスの息子、ゼノンによると、気息とは神と質量であり、原素は四つである。

Philo, De Prov. 1.25 (13 Aucher) = SVF. 2.1111
 配剤するのである…人は息子たちを、牛飼いは牛を、馬丁は馬を、羊飼いは群れを、船頭は船を、医者は病人を、という風に。蜂や蟻でも、知恵のあるものが配慮をなすのである。宇宙全体の部分や、さらにその下位にある部分にもこういうものがある。つまり、知恵があり、先見の明を持って配慮をなす部分があるのだ。すると、知恵を持ち配剤をなす部分があれば、その全体も知恵があるということにはならないだろうか。また、我々が挙げてきたこれら全てのものは創造の原理を備え持っている。事実、原理を持っているものは始まりを持ってる。また、始まりを持っているものは、基礎となる何らかの始まりから始まっているのである。故に、他のものから原理を導いているものは、知恵ある配剤者がきっかけを与えて作り出したものなのである。ところで、配剤を欠く配剤者や知恵を欠く知者というものが一体全体ありうるだろうか。故に、知恵があり配剤するものが配剤や知恵なくしてはありえないとすれば、何か配剤されたものがあると同時に、それらが始源を割り当てられる所以となる知者もあるということになる。

Philo, De Prov. 1.29 (14 Au.) = SVF. 2.1112
 実際、生物の本性には思考が与えられている。思慮し、万事を配備し、認識し、運動を引き起こす能力である。それ故に、物体を観察する人々には明らかなことだが、感覚能力を伴って作られたものには、あらかじめ動く気息の運動と目に見えない思考を予見する魂の運動が与えられていて、自らの働きに従う道具の働きがより完全になるようになっているのである。事実、摂理から地球に広げられた運動もこれ以外の仕方では認められないのである。それで、我々にも既に明らかな通り、摂理には、我々の認識を超えてはいるが明らかに存在する意志があるのである。というのも、これら全てが何ら魂や意志なしに生じているなどと主張することは不可能だからである。非常に些細な部分でさえ摂理から思慮と本能を完備されているのであるから。

Philo, De Prov. 1.32 (15) = SVF. 2.1113
 つまり、…ありとあらゆる部分が実践的な思慮を持ち、配慮し考えると考えるべきではない。摂理は最初から宇宙の中にあるが、被造物の中で活動せず何の配慮もしないというのが本当だとするべきではない。万物は一つの普遍的な調和と整合に依っているのだから。つまり、専ら自らに依るものであっても、両者からの運動なしには活動するように配剤されないのである。こうして、知恵のある部分は、それらが自らの調和を元にして完成されると、目には見えないが万物を動かす普遍的な摂理が存在するという証拠と表明を提供するのである。

Philo, De Prov. 1.40 (19) = SVF. 2.1114
 摂理や宇宙の起動者がなければ、世界の何ものも全く動き得なかったのである。というのも、世界全体が生命のない構築物だというのに、完全な被造物の本性においては生命ある運動が起こりうる、などと言える者がいるだろうか。こういう見解が成り立たないからこそ、まさに人間をこの世界の市民だと論じる余地もあるのである。人間は、大宇宙の中の小宇宙として作られたのであり、魂なくしては、つまりあらかじめ魂の最高の思考あるいはそれに類するものを用いることなくしては、肉体の運動を全うすることができないのである。なぜなら、目に見えない考慮を魂の中で行った後に、感覚でとらえられる部分の働きが目に見える形でそれに従うのであるから。
 
Philo, De Prov. 2.41 (70 Au.) = SVF. 2.1079
 火神ヴルカンに帰されている豊かな内容を火に、ユノのは気の本性、また使者メルクリウスは理性に、また同様に、どなたであれ彼等に特有のものとされている他のものも、神学の道筋に従った秩序に帰すとすれば、あなたがちょっと前に非難していた[ホメロスやヘシオドスといった]詩人たちの礼讃者がやってくるだろう。言うまでもなく、神性を真実に立派に称賛し称える人だ。

Philo, De Prov. 2.48 (79 Aucher) = SVF. 1.509 (Cleanthes)
 さてそれでは、我々の内には生得的に普遍的かつ永遠なものがあるとしようではないか。これは、最も名高い哲学者達の言説が示唆するところにも近い。例えば、人々が一括りにするパルメニデス、エンペドクレス*、ゼノン、クレアンテス、その他の神のような人々、まるである種の行列のようであり、あえて言えば聖なる集団のような人々である。さてところで、生得的な素材のうちには生成に至る部分もあれば滅びる部分もあるとしても何の驚くことがあろう。方や、神的な摂理により、方や物[そのもの]の秩序によるのだとすれば。つまり、その他個々の職人にしても素材を生み出すということは通常めったになく、受け取ったものを形作って仕上げ、述の秩序をそれに加えるのである。…それだから、こうした仮説によると、神は第一の基本的な質量を永遠に生み出すというわけではなく、用途に応じた質量を生み出し、それによって方や空が、方や地が、また動物の種族や植物の種族や、あらゆるものが作られるのである。しかしながら、元来宇宙が一つの素材から成り立っているとしても、摂理があるということを妨げるものでは全くない。…どのようにしてそう言えるか。素材を作り出し生み出すことだけが摂理の特質ではなくて、事実、保ち制御するのも、すなわち運命もそうだからである。
*いずれもDK未収。

Philo, De Providentia 2.55 (84 Aucher) = SVF. 2.1141
 同様にして神も、新たに空虚を作り出すことなく、空虚の中に大都市、つまりこの宇宙を築き上げたのであるが、宇宙と空虚が場を共有するように築き上げたのである。すなわち、どの場所も物体で満たされ、空虚な場がないようにしたのである。

Philo, De Providentia 2.56 (84 Aucher) = SVF. 2.1143
 宇宙の形も、宇宙そのものと同様に、摂理によって球形に作られたのである。それはまず、あらゆる形よりも素早く動くことができるからであり、次いで、放たれた宇宙が無限の空虚の中に落下してしまわないようにする必要が大いにあったからである。つまり、全部分が宇宙の中心を目指すようにしたのである。宇宙が保たれるにはこうするしかなく、そうされることによってのみ、個々の部分が等しく円を描いて中心を目指すようになるのである。

Philo, De Providentia 2.57 (84 Aucher) = SVF. 2.1142
 無限定で物体でもない時間など神はほとんど作らなかったのであるが、しかし、日々や月々や年々といった、太陽や月が沿って動く尺度、また、他の惑星の周期は、生物の繁殖や繁茂のために作り出したのである。生物は年々の気候の循環がなければ生きていけないのであるから。太陽の昇降もこれに非常に役に立つように工夫されているのである。

Philo, De Providentia 2.58 (85 Aucher) = FDS.308 = SVF.2.86
 さてそれから、思うに、君が弁証法から導き入れた発言は、威厳に相応しいようではないし、別の発言は単なる見えに基づいて組み立てられているし、あるいは一度教えによって知られた霊に関するものであるが、とにかく取り上げるに値しない。しかしながら、どうか言ってもらいたい、いったいどういう表象があり得るのか、もし何ごとかを普遍的に把握するということがないならば?また、何か他に普遍的なものが不意にやって来てもそれが分かるのだろうか?神はそれを前もって創るということはしなかったが、精神に多産を植え込んだのであり、それは個々の物事を動かすのに最も適しており、それが生じた際は、印や、自然を探究しつつ既に把握したことを通してそうするのである。そしてそれは、言葉を叫ぶことなくしかし真理というより確実な業によって確固としている事柄を、確かな論議として掴むことができるようにとのことである。そうではないのか?

Philo, De Prov. 2.62 (87 Aucher) = SVF. 2.568
 考えてもみたまえ。つまり、全ての…物体が重量を好むわけではないというので、重いものから軽いものが上昇すると君は言うのであるが、それは自然学者が言うことを同様である。つまり、何であれ重量のないもの一般は、重量に対立するものとして貢献をしているというのだ。というのも、相対立するものから構成されたものは強い力を持っているのであり、全世界もそういうものから創られているのである。…こう言えば…十分である。火風は、重量がなく本性上上昇運動するようになっており、地水に下から押されるということはない。

Philo, De Prov. 2.62 (87 Aucher) = SVF. 2.1144
 大地が中央に位置しているのは、第一に、たとえ少しでも中心から動いて離れることがないためにである。つまり、大地は、圧力で静止していて、中心に留まっているのである。他方それはまた、球形を保つためでもある。つまり、そのような状態にあれば、万物は大地の上に直立できるのである。各々が中心に向かうからである。大地が摂理によって球形に作られたということも、以上から明かである。なぜなら、今球状を保つものと言われたものが、哲学的に形や状態とみなされるもののうち、他の形態をとることはないからである。

Philo, Prov. 2.64 (89 Aucher) = SVF. 2.1145
 海が広がっているのも人間と神々のためになるためにであると言われている。つまり、神々によってほぼそのようにしつらえられたのだと言われている。太陽は、少なからぬ人々がそれを支配者だと言っているものだが、それでも何かに養われねばならず、海から養われていると言われている。事実、湿った元素の最も清浄な部分を引き寄せて吸い込んでいるのである。何よりも顕著なのは、太陽の行路が季節毎に反対方向に動くことである。夏には大犬座付近に、冬には山羊座付近に、というふうに。つまり、太陽はその周回路ぎりぎりを永遠に周回しているのである。
 また、[太陽の?]乳母である動かぬ星々(恒星)も養われており、気息から清浄な湿り気を引き寄せているのである。このことは次のように考えられている。つまり、水分事体はわずかだが全く混じりけのないものが、東の空の下で恒常的な法則に従い絶えまなく冷やされて大地に戻り、水の色を受け入れるのである。これは露と呼ばれるのが慣しである。…海が全宇宙の維持に大いに貢献しているのと同様に、人間が生きるのも大いに助けているのだ。というのも、大陸人から島民に、またその逆に、相互の交流がないようになっており、一つの地域で生じた財産が交換されないようになっているからである。

Philo, Prov. 2.67 (90 Au.) = SVF. 2.1146
 さて、大地から生ずる蒸気は何の役に立つのだろうか。おぉ驚くべき人よ、様々な気息から構成されたものは動物だけではなく、実に植物にまで健全さをもたらさないだろうか。このようなことが生ずるように補佐するものがあるべきだとすると、強固な本性によって自分自身としっかり混合されているものどもにも、そうあることの原因があるのである。まず第一に、動物には食物が与えられる。つまり、大量のありとあらゆる飲食物がある。…すなわち、肉体に取り入れられたものについては、船酔いや食欲減退の際にそれぞれそれらを嘔吐したり何も食べようとしなかったりするということが数多くの人々に生じる。しかし、空気を通じての栄養は、目が覚めている間も寝ている間も自然から与えられるものであるが、若年から老年まで絶えまなく与えられ続ける。それで、一時汚染されると、悪疫をもたらすのである。

Philo, Prov. 2.73 (93 Au.) = SVF. 2.1147
 恒星は気が中庸を保つ原因ともなっている。気は、本性としては冷たい複合物であるが、溶けると流れ出るのである。つまり、この気は広がると、生物を成長させるために働くのであるが、それは、既に作られた生物が呼吸を身につけるのと同様のことなのである。つまり、精妙さゆえにどれだけ大量にあっても共に働くのである。さらにまた、部分的にではなく全体的に気息が広がるからこそ、断続的な周回があるのだ。

Philo, Prov. 2.74 (94 Au.) = SVF. 2.688
 こうして、それらの自転はたやすくなされて疲弊することがないのだが、それは何よりもそれらが神的な本性に近いことによるのである。次いで、火の徳性を持っているということにもよる。火の本性は、萎えるということがありえず、最高の食物を与えられているので、時と共に疲れ果てるということもない。

Philo, Prov. 2.74 (94 Au.) = SVF. 2.1150
 また他方、惑星の数も宇宙全体に役立つようになっている。実際に個々の利点を数え上げるのは学暇のある人々がすればよい。しかしながら、次の事柄は理性によらずとも感覚を通じてすら(それも摂理の働きによるのであるが)認められることである。つまり、クリュシッポスとクレアンテスの言う所では、より確実に統御し利益をもたらすことに関わる事柄の何ものも疎かにはされていないのである。もっと違った仕方をすればもっとよく森羅万象が統御されたのだとしたら、神を妨げるものが生じない範囲で、それに従って宇宙は作り上げられたに違いないであろうから。

Philo, Prov. 2.76 (95 Au.) = SVF. 2.1148
 まず第一に…月々の周期を月の配置と結び付けた。月の周期は太陽の運行と同じ尺度からなっている。次いで、増加と減少によって、宇宙のためになるように変化や変容を作り出した。気に含まれる様々なあり方が確実なあり方を確かなものとしたのである。つまり、静止、晴天、凪、雲、暴風、及びこれらに類似なもの、さらには最も広い海の逆流である。つまり、ある時には下方に飲み込まれ、またある時には流れによって戻されるのである。事実何にもまして、ちょうど煉瓦細工のように、一杯になったと思えばからっぽになる、ある種の動物達のあり方には様々な変化があり、残りのものたちも…

Philo, De Prov. 2.77 (96 Aucher) = SVF. 2.680
 月、とりわけその表面において、その産物は何らかの仕方で夜に養われているように思われる。つまり、弱く非常に女性的な輝きを放ってはいるが、決して晴天の明るさには及ばない(あるいは露を含んだ)輝きを養い育てて集めるのがやっとなのである。それは大量の激しい熱が干上がらせて乾燥させるからである。事実、燃焼することのないものは、徐々にゆっくりと乾燥することで完成されるものなのである。
 しかし、惑星の数は宇宙全体に都合よくできている。実際、人々も暇さえあれば、個々の惑星がもたらす利益を数え上げることができる。また、それらは理性だけでなく、感覚でさえ認められるもので、クリュシッポスやクレアンテスが言ったように、摂理で動かされている以上、宇宙をより確実でより有益な統括へともたらすものを何一つ見落とさないのである。仮にもし、宇宙の物事が統括されるもっとよいあり方があったのであれば、宇宙の配剤はまさにその仕方で取りまとめられていただろう。神をさまたげる何ものも生じない限りは。

Philo, Prov. 2.78 (96 Aucher) = SVF. 2.694
 昼と夜の長さを違うものにしているのは太陽である。太陽は不規則で長さの異なる回転をし、接近と分離によって夏と冬と春分・秋分を作り上げるのである。そしてこれらの季節が、一年という時間を作り出して育て、天下万物の完成の原因となるのである。

Philo, Prov. 2.84 (98 Au.) = SVF. 2.1149
 こうは考えないだろうか。我々が世界のために作られたのであり、世界が我々のために作られたのでは到底ない、というふうに。つまり、ごくわずかでも次のことを考え反芻したことくらいはあるはずだ。大地の配置がうまくなされているのは人間が暮らすためであるが、その間が空いているのは、細やかな配慮をしてくださる神々を敬うためなのである、と。というのも、我々には、居住に十分な以上の土地が配分され与えられているからである。他方、星々にもそれにふさわしい食物が与えられねばならなかったが、それは、大海から養われていたのである。
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