プルタルコス その他の著作 Plutarch, De Adul et Amico 11.55c = SVF. 1.470 (Cleanthes)  そして、アルケシラオスはバトンに学暇を出した。王はクレアンテスに喜劇の 詩句を作って送ったが、クレアンテスを説得してしまったと後悔して考えを変え たからである。 Plutarch, Aetia Physica 38 (ex versione Gyberti Longolii) = SVF. 3 Antipater 48  なぜ雌狼は全て必ず一年のある時期十二日間で子を産むのか。  アンティパトロスは『動物論』の中で、貯えたものを出すことで雌狼は出産す ると言っているが、それはドングリをつける木々が花を落とすのと同じだという のだ。これら両者とも貯えを得ることで再び種まかれるのである。しかし、この 貯えは多量にはないので、体内で死に絶えてしまうと日の目を見ることはない。 たださらに言えば、この部分は狼の場合は枯れることがないのだが、ドングリや 樫のそれはそう豊かではない。 『アレキサンダー大王の幸運』 Plutarch, Alex. Fort. 329a = SVF. 1.262 = LS.67A(ゼノン『国家』??)  実際また、ストア派の設立者ゼノンの非常に驚くべき国政(『国家』?)が目 指している一つの主要事がある。つまり、我々は、各々がそれぞれに固有の正義 によって別たれた形で、国家や区単位で事を治めるべきではなく、むしろ全ての 人間を同区民あるいは同国民とみなすべきである、というのである。で、家畜の 群れが共通の決まりによって共に育ち共に養われるように、一つの生き方が調和 したものとしてあるべきなのだ、というのである。あたかも哲学者が思い描い た、よく治められ非常によく整えられた国家の夢か似姿のように、ゼノンはこの ことを著作した[だけな]のであるが、アレキサンダー大王は言論でこの仕事を 実際に為し遂げたのである。 Plutarch, Amatorius 13.757b = SVF. 2.1094  ストア派のクリュシッポスが、この神の名の由来を説明した文句などは、その ままこの神に対する非難誹謗だね。アレスとは「人殺し」ということだと言い、 つまりアレスというのは、我々の内部に潜む闘争心、論争好き、激しやすさ、そ ういうものを差す呼び名だと考える人々に道を開いたというわけだ。(柳沼重剛訳) Plutarch, Amatorius 21.766f = SVF. 1.390 (Aristo)  さらにその上、エピクロスの一派が主張する愛が生じる原因というのがだね、 男性女性それぞれに固有のものでなく、両方に共通なのだ。それならばだよ、彼 等に言わせれば、そもそも、愛する相手から発する映像が、愛するものの体内に 入って駆けめぐり、その原子の総体を刺激し運動させ、他の原子の集合体と一緒 に滑って種子を生む、ということになるのだが、愛される少年から発する映像に これができるなら、女性から発する映像も同じことができるはずじゃないか。我 々が、前世での神聖な記憶、そのおかげで我々の魂に翼が生えるあの記憶が、少 年や若者には生じ、少女や女性には生じないと言うべき根拠があるだろうか。殊 に純粋で節度ある内なる性格が、若やいで魅力のある外形へと輝き出る、それこ そアリストンが言ったように、「よい靴は足の形のよさを表す」のだし、また美 しい姿形、汚れのない肉体に、輝く魂がその刻印を残していて、ちゃんと見る目 をもった人なら、それが歪んでもいず傷ついてもいないことに気が付いて、その 都度、今言ったように、神の愛は男だけとは限らないということを思い知らされ るだろう。(柳沼重剛訳) Plutarch, De Animi Procreatione in Timaeo 1029f = SVF. 1.299 Plutarch., Aqua An Ignis Utilior 12.958 = SVF. 1.403 (Aristo)  実際、人間に与えられた生涯という短い時間について、アリストンはこう言っ ている。睡眠がまるで取税人のように半分を奪ってしまうのだ、と。それだか ら、この私は謎めかしてこう言いたい。…(テキスト欠)…徹夜をしたところで、 何の足しにもならない。太陽がもたらしてくれるよいものを火が我々にもたらし てくれないからである。それに、昼と夜の違いがなくなってしまうからである。 Plutarch., De Aud. Poet. 31d = SVF. 1.535  ものの名前をぞんざいに聞いてはならないが、クレアンテスに戯れ言を請うの は別に適当でよい。というのは、彼はかつて戯言を言った際に、加えてこう説明 したことがあったからである。   父なるゼウス、イダからの守護者 とか   ドドナの上なるゼウス この一節から同時にこう読み取るように命じているわけである。つまり、大地か ら蒸発した気が送り出されてドドナの上に登ったのがゼウスだというわけである。 Plutarch, De Aud Poet. 33c = SVF. 1.562 = Pearson C. 111  ここからして、次のような改作も決して悪くはない。クレアンテスやアンティ ステネスがなしたもののことだ。後者は、劇場で   何が恥なものか、本人達がそう思わないのなら   (エウリピデス) という詩句に大いに喝采したアテナイ人達を見て、直ちにこれを改作し   恥は恥だ、そう思おうが思うまいが 他方クレアンテスは富に関する   友人に贈り物をしたり、病に陥った体を   費用を出して治すのに   (エウリピデス『エレクトラ』) という句をこう書き直した。   淫売に贈り物をしたり、病に陥った体を   費用を出して放置するのに ↓ Plutarch, De Aud. Poet. 33d = SVF. 1.219 = LS. 67O  ゼノンもソポクレスの次の詩句を改訂して   しかし、誰であれ僭主と交わる者は   かの者の奴隷である、たとえ自由な者として赴いたとしても。 こう書き改めたのである。   奴隷ではない、自由な者として赴いたのであれば。 ここで彼は自由な者によって恐れず豪気で卑屈でない人を表しているのである。 Plutarch, De Audiendo 39b = SVF. 1.310  つまり、スピンタロスはエパメイノンダスを讃えて、こう言ったのだ。さらに ものを知っている他人に出会うのも、口数のより少ない人に出会うのも、難しい ことだ、と。こう言われているのだ。自然が我々各々に二つの耳と一つの舌を与 えたのは、話すよりももっと聞くことができるようにとのことなのだ。 Plutarch, De Cap. ex Inim. Util. 2.87a = SVF. 1.277  さてゼノンは、彼が賃貸した船が難破した時に、腐り切ってこう言った。 「おぉ運命よ、お前はいいことをしてくれたものだ。ボロ外套の哲学へ我々を押 しやってくれたのだから」 Plutarch., De Curiositate 4.516f = SVF. 1.401 (Aristo)  実際アリストンはこう言っている。「風の中で最も手に負えないのは我々の衣 服を巻上げるものである」しかし、騒がしい風は隣人の上着や下着ではなく壁を ひっぺがすのだ。 Plut., De Defactu Oraculorum 29.426a = SVF.2.367  つまり、ここでは、物体はしばしばバラバラの物体から成り立っている。例え ば、会合や軍隊や楽団のように。それらの個々の部分においてそれぞれ、生きる こと、思慮すること、学習することが生じているのである。そうクリュシッポス は考えている。しかし全宇宙において、それは十の、あるいは50あるいは百 の、宇宙からなっているのだが、それらが一つの理に即し、一つの原理にあつら えられているということは不可能なのであろうか。 『肉食論』 Plutarch, De Esu Carnium 2.3.997e = SVF. 3.749  考えてもみろ、哲学者のうちどちらが我々をより人間らしくしてくれるか、死 人だからといって子供や友人や父親や妻を食えと命令する奴等か、ピタゴラスや エンペドクレスか。 Plutarch, De Esu Carnium 2.6.999a = SVF. 3.374  さてまた、肉食に関するストア派のこの論点も公平なものではない。というの も、腹と台所にある大きな緊張とは何なのか。快楽というものを善でもなく優先 物でもなく親近なものでもないと過小評価して非難するのに、彼らはなぜこの快 楽についてはこうも躍起になっているのか。饗宴から香油や飾り菓子を下げさせ た彼らのことだからなおさら血肉を嫌えば、彼らにとっては首尾一貫したであろ うに。しかし実際は、出納簿に関して思索を及ぼしたとおりに、彼等は不必要な 些細な事柄において食費を削っているのだが、それでも野蛮で血生臭い浪費をや めようとはしない。「その通り」彼等は言う「理に与らないものどもへの正義な ど我々にはないのだから」。さよう、香油や輸入菓子に対してもそうだ、と言う 人がいるかもしれない。それならば、このようなものからも君たちは遠ざかれば いいではないか、快楽において有用でも必然的でもないものを除外するというの だから。 (原典の相違が激しいのでこの断片は全面的にChernissに従う) 『放浪論』 Plutarch, De Exillo 600e = SVF. 1.371 (Aristo) = LS. 67H  例えば祖国とされる国からの亡命が今君には許されている。と言うのも、自然 本来においては祖国などというものはなく、それは家や畑や金物屋や病院がない のと同じだ、とアリストンは言っている。それらの各々はむしろ後からできたの である。いやむしろそこに住む人や利用者との関わりでそう名付けられそう呼ば れているだけなのである。 Plutarch, De Exillo 11.603d = SVF. 1.277  さて、荷物もろとも残りの船までも海に飲み込まれた時、腐り切ってこう言っ た。「おぉ運命よ、お前はよいことをしてくれたものだ。ボロ外套をまとった哲 学の生に我々を押し出してくれたのだから」盲でなく、俗なことに熱くなる人間 でもなければ、航海に押し出されたことでも運命を非難はしないと思うし、多大 な無駄、自分を掻き乱すもの、祖国を遠く離れた放浪、海での様々な危険、広場 の喧噪、こういったものを押し退けて、振り回されず学暇を持てる真に自分自身 の人生を与えてくれたと賞賛するであろう。必要不可欠なものはコンパスで限っ ておいて。というのもつまり、かの島はどんなにひどかったか。屋敷も、遊歩道 も、浴場も、魚や兎も、市場や小姓を楽しみたいと思っている人々には用意され ていなかったのだから。 Plut., Exil. 14.605b = SVF. 3 Archedemus 2  アテナイ人アルケデモスはパルティアに移り住んでバビロンにストア派の後継を残した。 Plutarch, De Facie in Orbe Lunae 6.3.923a = SVF. 1.500 (Cleanthes)  サモスのアリスタルコスはギリシャ人達を不敬の輩と呼ぶべきだったとクレア ンテスは考えた。宇宙のかまどを動かしたというので。というのも、この人は 「現象の救済」のために天空を下に留まったままにしようとし、それは傾斜した 円周に沿って大地を回しており、同時に自らの軸の周りを回転していると論じた のである。 『兄弟愛論』 Plut. Am. frat. 482c. = FHSG.538F. = Wi. 74.1.  他人に対しては、テオプラストスが言ったように、友情をもってから判断して はならず、むしろ判断してから友情をもつべきである。そして、好意に向けた判 断に自然が先導をもたらしてくれず、諺に言われる「一メディムナの塩」[長期 間寝食を共にすること]を待つこともなく、友愛の始まりを予め提供している場 合、そこでは過誤の吟味が辛辣であったり厳格であってはならない。 Plut., De Fraterno Amore 20.490e. = FHSG.535 = Wi.75  それ故、議論が関連を告げているのだが、テオプラストスの言うことはよい。 彼は言った、もし「友のものは共のもの」だとすると、何よりも共有のものでな ければならないのは友人の友人である。兄弟にこのことを忠告する者は少なから ずいることだろう。 Plut., Garrulitate 1.502c = SVF.1.310  というのはそれは自ら口を閉ざすことであり、思うにこれは「人々は口は一つなのに耳は二つ持っている」と自然を非難する人々のすることなのである。 Plut., Garrulitate 4.504a = SVF.1.284  さて、アテナイである男が王の使節をもてなしていた時、彼等の強い要望で、哲学者たちを一ケ所に集めようと懸命になった。そこで、他の人々は会話をしたり討論をしたりしていたのに、ゼノンは黙っていたので、親切な偉人たちは乾杯をして言った。「君については何を言えばいいかね、ゼノンよ、大王にだけど?」あの人は言った。「何も言わなくていい。ただ、アテナイには飲み会の間黙っていられる老人がいたとだけ言ってくれ」 Plut., Garrulitate 23.514d = SVF.3 Ant. 5  つまり、ストア派のアンティパトロスは、思うに、怒濤の勢いでストア派を攻撃していたカルネアデスに会いに行くこともできなければそのつもりもなかったのだが、著作を彼への反論で埋め尽くしたので、「筆のやかまし屋」と呼ばれた。 Plutarch, De Lib. Educ. 3.2a = SVF. 1.302  そこでディオゲネスも、我を忘れておかしくなっている若者を見て、こう言っ た。「君の親父さんは君をもうけた時に酔っ払っていたんだな」子供を産む際に 関してもこのようなことを言われたものだから、養育に関しても同じことが言わ れてしかるべきだ。 Plutarch, Lib. Educ. 7d = SVF. 1.350  多くの都市を周航するのは立派なことであるし、一番よい都市に定住するのも 素晴らしいことである。しかし、哲学者ビオンがこう言ったのも都会的なことで あった。つまり、ペネロペに近付くことができない求婚者達が従女と交わったよ うに、哲学にあたることのできない人達も、自分達に全く値しない他の教養に骨 抜きになっているのである、と。それで、哲学を他の教養の筆頭のようなものに せねばならないのだ。というのも、肉体の配慮に関しては人類は二通りの知識を 見い出してきたからだ。つまり、医術と体育である。この二つのうち、前者は健 康を、後者はよい体調を作り出すのである。しかし、魂の変調と病状について は、哲学だけが薬となるのである。つまり、このものを通じ、このものを用いれ ば、何が立派なことであり何が醜いことであるか、何が義しく何が不義か、また 総じて何を選択し何を避けるべきか、が認識されうるのである。 Plutarchus, Maxime cum Princ. Vir. Phil. Esse Diss. 1.776c = SVF. 1.382 (Aristo)  キオスのアリストンも、何でもお望みのことについて問答をするということに ついてソフィスト達には悪い評判があるのを聞いて、こう言った。「獣達だっ て、徳へと動かしてくれる言論を聞けばためになるだろうに」 Plut., Praecepta Conjugalia 34.142e = SVF.2.366  哲学者たちの言うところでは、物体には、群衆や軍勢のように、バラバラの部 分からなるものもあれば、家や船のように、くっついた部分からなるもの、あら ゆる動物のように、密接に統一されたものもある。しかるに、ほとんど同様に、 夫婦に関しても、愛する者のそれは、密接に統合されたものであり、嫁資や子供 のために結婚した者のそれは、くっついた部分からなるもの、一緒に寝ているだ けの者のそれは、バラバラの部分からなるものである。最後の者たちは互いに一 緒に住んではいるものの、共同の生活をしているとはみなされないのである。さ て、自然学者たちの言説によると、液体の混合が徹底的に混じりあうものである ように、夫婦に関しても、肉体・財産・友人・家族は互いに混合されねばならな いのである。 ↓ 実際、ローマの立法者が夫婦間相互の贈り物の授受を禁じているのも、共有を禁 じるためではなく、むしろ全てのものを共通のものとみなすようになのである。 Plutarch., Praec. Ger. Reip. 10.804e = SVF. 1.402 (Aristo)  つまり、アリストンが言う所では火が蒸気を作り出すわけでも、信念が嫉妬を 作り出すわけでもない。後者は突然急に現れて少しづつゆっくりと増加していく ものをその都度その都度とらえるのである。 Plut., Primo Frigido 2.946a = SVF.2.407  冷も熱に劣らず、身体に生じると情態や変化を引き起こす性質がある。冷に よって硬くされ、くっつけられ、固められるものは沢山あるからである。そし て、このものによって固定され動かないものというのは、動く気がないのではな く、しっかりと重いだけで、力に強く寄り掛かっているのであり、その力がもの をまとめあげる張力を備えているのである。欠如というのは対立する働きが消え て無くなることでもあるので、そこからして、多くのものが、多くの熱がそれに 備わっているにも関わらず、冷却されるのである。それで、熱を持っているにも 関わらず、冷が硬くしまとめあげるものもあるのである。例えば赤熱した鉄のよ うに。さて、ストア派の連中が言うには、胎児の体内にある気息が冷によって硬 化して、自然本性から変化した魂が生じるというのである。しかし、こんなこと は矛盾している。 Plut., De Primo Fridigo. 2. = SVF.2.806  さて、ストア派の連中もこう言っている。気息は赤子の体内で冷却されて硬化 するのであり、かくして魂は自然本性が変質してそうなるのだ、と。 Plutarch, De Pyth. Orac. 16.402a = SVF. 1.502 (Cleanthes)  実際、後に神に金の撥を奉納した人々もいた。彼等は、スキュティノスの考え では、知ある人々だった。スキュティノスは竪琴についてこう言っている。   これを調和させるのは  ゼウスの麗しきアポロン。終始全てを  集めて、日の光という輝く撥を持つ。 『食卓歓談集』 Plutarch,Quaest.Conv.1.9.626e=SVF.3.546  我々がメストリオス=フロロス宅に迎え入れられた時、文法家のテオンがスト ア派のテミストクレスに向かって論難した。クリュシッポスは沢山の訳が分から ない無茶苦茶なことを言っておきながら、例えば「塩漬け魚は海水に浸けておく と塩が抜ける」とか「ウールの着物は無理やり引きちぎるよりもやさしくほどく ほうがうまくいく」とか「あらかじめ食事を済ませてきた人たちよりも食事を控 えている人のほうが粗食である」とか、これらの理由を一体全体なぜ全然明らか にしてくれないのか、と。  テミストクレスはつぶやいた。クリュシッポスは例え話の中でそういうことを 表明したんであって、別に理由はないのに…。安直で理不尽だが、我々は常識に とらわれていて、常識外れのことは信じないからなぁ…。そして向き直って言っ た。さて君!。… Plutarch, Quaest. Conviv. 635e = SVF. 1.252(ゼノン『国家』)  犬に誓って私としてはゼノンの徒たちが、これほどの熱意に与っている『国 家』という書物の中というよりは何か酒宴やお遊びの中で腿肉を切り分けている ようになった方がいいと思う、と彼は言った。 『青年はどのように詩を聴講すべきか』 Plut., Quomodo Adol. Poet. Aud. Debeat 31e = SVF.2.101  語句を疎かにして聴いてはならないのはもちろんだが、クレアンテスのような 子供じみたまねにもどうかお暇願わねばならない。というのは、彼は時々ハッタ リをかますことがあり、「主ゼウス、イダの守護者」(『イリアス』第3巻 320)「ドドナの主ゼウス」(第16巻233)という詩句をさも解釈しているように 装って、最後のニ語を一つの語として読むようにしむけ、大地から蒸発した気息 が大地から送り出されたが故に大地を譲り受けている、という意味であるかのよ うにとっていたからである。またクリュシッポスも色々なところでああだこうだ と屁理屈を付けている。彼の場合は駄洒落というよりは語彙の捏造というわけだ が、いずれにせよ説得力はない。つまり、「千里眼のクロノス」という句を無理 矢理に「問答に恐るべき」つまり「言論の能力に進歩した者」と解しているので ある。 Plut., Quomodo Poet. Aud. 34b = SVF.2.100  (13)詩人が語った事柄をもっと広く利用できるということを正しく示したのが クリュシッポスであった。彼が言うには、有用なものは同様な事柄に運び込んで 応用しなければならないのである。つまり、ヘシオドスがこう言う時、   牛もなくなりはしないだろう、回りの連中が悪人でなければ 犬についても、ロバについても同じことを言っているのであり、さらには同様に して無くなりうる全てのものについてもそう言っているのである。またさらに、 エウリピデスがこう言う時、   誰が奴隷であろう、死をものともしないなら 労苦についても、病についても、同じことが言われていると理解せねばならない のである。 『どのようにして人は徳に進歩したと感じるのか』 Plutarch, Quomodo quis in virt. sent. prof. 1.75c = SVF.3.539  同様に、哲学をすることにおいても、進歩も進歩の感覚もありはしないのだ、 もし魂が愚かさから解放されてそれを洗い落とさないならば、またもし、混じり けのない完全な善を獲得するまでは混じりけのない悪に与っているというのであ れば。そしてつまるところ、ごく僅かな期間で、一人の人にあり得る限りの劣悪 さから、超えることのできない、徳という固定した性状に至るのが賢者なのであ り、多くの時間を費やしても部分的にさえ取り除けなかった悪徳から、突如とし て全面的に逃げおおせるのである。  とはいえ既に、こうしたことを説く連中は、言うまでもないとは思うが、また もや沢山の問題を自分達にもたらして、様々の大難問をその「感得した人」の回 りにこしらえるのである。この人は自分が賢者になったということを決して把握 することはなく、むしろそのことには無知で、決めかねているのだ。この人は少 しずつ永い時間をかけて方や悪徳を取り去り、方や徳を得ているので、この人に とって徳への向上は、まるでいつの間にかこっそり徳に至り着いている行程のよ うになってしまっているのである。しかしもし、その変化がそれほどまでに急速 で大きく、まるで朝には最悪の状態だった人が夜更けには最強になっているよう なものであるとすれば、あるいは、このような変化に関わる事柄がこうしてある 人に降り掛かり、つまりは、劣悪の人のまま眠り込んでいたのが目が覚めたら賢 者になっていて、魂から昨日の愚かさと無知を解き放った自分に向かって、 「誤った夢よ、さらば!そんなものはなかったのだ」と呼び掛ける、そういうほ どのものだとしたら、誰が自分の内にある差異が昨日の自分と比べてかくも大き なものになっていることに気付かないであろうか、思慮の山を手に入れたのであ るから。 Plutarch, Quomodo quis in virt. sent. prof. 2.75f = SVF.3.535  しかし、教説の方を事実に合わせるのではなく、逆に事実の方を自分達の不自 然な原理原則に調和させる連中は無理矢理に沢山の難問を哲学に詰め込んだの だ。そして、最大の難問が、完成された人というたった一人の例外を除いて全て の人々を悪徳という同じところに至らせてしまったので、それによって「向上」 と言われる何だかよく分らないものが登場したのだ。この向上というものは、無 思慮の極みをわずかに残していて、全ての感情と病から解放された*[がまだ賢 者の位には至っていない]人々を、いまだに最悪のそれらから解き放たれていな い人々と同じくらい悲惨だとするのだ。さて、この連中は自分自身を論駁してい るのだ。つまり、講議の中で、アリステイデスの不正をパラリスのそれと等しい とし、ブラシデスの臆病さをドロスのそれと、また神に誓って、メレトスのそれ とプラトンの虚栄が全く何の違いもないとしているのだ。しかし、実生活と行動 においては、ああした人々からは離れて逃げ、彼等はどうしようもない連中だと しておきながら、反面もう一方の人々は非常に貴重な人々だと言っては大いに利 用して、信頼しているのである。 *meを読まない。 Plutarch, Quomodo quis in virt. sent. prof. 6.78e = SVF. 1.280  ゼノンはテオプラストスが驚嘆に値するほど沢山の弟子を抱えているのを見て 言った「あの方の合唱隊は[私のよりも確かに]大きいが、私のは[あの方のよ りも]もっと調和している」と。 Plutarch, Quomodo quis in virtute sentiat profectus 12.82f = SVF. 1.234  それでは、ゼノンのそれがどのようなものであるか見たまえ。つまり、夢から 各人は自分が向上していることを知るのがよいと彼は考えたのである、自分自身 が何か醜いことを快く思ったりも、何か恐ろしいことや奇妙なことを信じたり 行ったりもしないのを睡眠中に見るのであれば、そして逆に掻き乱されない平安 の奥底を見通すように、表象したり感情を感じたりする魂の部分が理によって弛 緩されているのが明らかになるのであれば。 Plutarchus, De Recta Ratione Audiendi 8.42b = SVF. 1.385  アリストンはこう言ったのだ。「水盤にしろ言論にしろ、壊れていては何にも ならない」 Plut., De Recta Ratione Audiendi 17.47d = SVF. 1.464 (Cleanthes) = FDS. 151  しかるに、こんなだらけた大言壮語を一掃して、学習することに足を向け、た めになるように語られたことを頭を使って考えるように心掛け、育ちがよいと思 われている人々の嘲笑に甘んじようではないか。ちょうど、クレアンテスやクセ ノクラテスが、同学の徒達よりも愚鈍だと思われていたにもかかわらず、学びを やめず、うんざりすることもなかったように。それどころか、先の人々は自分達 を茶化して、口の狭い入れ物や金属の板に例えていた。その心は、それらは中々 言われたことを飲み込まないけど、一旦飲み込むとしっかりとらえて離さないと いうことであった。 Plut, De Se Ipsum Ctra Invidiam Laudando 17.545f = SVF. 1.280  というのは、ゼノンはテオプラストスの弟子が多いことに対してこう言ったか らだ「あの方の合唱隊は[私のよりも確かに]大きいが、私のは[あの方のより も]もっと調和している」と。 Plutarch, Sollert. Anim. 4 = SVF. 3 Antipater 47 ……その際アンティパトロスはロバや羊共のことを正常さに無頓着だと非難しているが、どういうわけか、ヤマネコやツバメたちのことは見逃しているのである…… Plut., Soll. Anim. 11.967e = SVF. 1.515 (Cleanthes)  ところで、クレアンテスはこう言ったのである。動物は理性に与らないと言う にしても、そのような吟味に近いものには与っているのだ。例えば、蟻達は蟻の 死体を運んでよその巣に入って行くとしよう。そして、巣から出て来た連中に は、例えば、彼等に出会って戻るのもいる。そしてこのことが二度三度と起き る。最終的には、死体の代金を払うかのように小虫を下からもってくる蟻もいれ ば、死体を選んでもっていって交換するのも出てくるのだ。   『迷信論』 Plut,De Superstitione 1=SVF.3.84  再び、徳と悪徳は物体であると考えている人々もいる。 Plut,Terrestriane an Aquatilia 〜 963f=SVF.3.373  というのも、ストア派の人々や逍遥派の人々は全く反対のことへと論を進めて いるからだ。彼らが言うには、全ての生き物が理に与るのであれば、正義という ものは別々の種類をもつのではなく全く実体のない実在しないものになるだろ う。すなわちどういうことになるかと言うと、それらに残虐を働くならば不正は 避けられないが、かといってそいつらを食用にしなければ生きることは不可能で どうしようもないものになる。つまり、獣を食用にすることをやめるなら、我々 はある仕方で獣の生き方を強いられることになるのだ。 『倫理徳論』 Plut,VM. 2.440e = SVF. 1.375 (Aristo)  キオスのアリストンは徳を本質において同一のものとしこれを健康と*名付け た。その反面、対他様態においては差異のある複数のものとしたが、それは丁 度、我々の視覚が白いものを捉えたときにはそれを白い視覚と呼び、黒いものの 場合は黒いそれと、他のものの場合はまた違った風に呼ぼうとする人もいるよう な具合である。つまり、徳もなすべきこととなすべきでないことを考慮する場合 は思慮と、欲望を秩序付けて限度と時宜を快楽に定める場合は節制と、他人に対 する交際と取引に関わる場合は正義と呼ばれているというのだ。それはあたか も、ナイフが一つのものでありながら異なる場合に異なるものを切り分けたり、 火が異なる物質において活動しながらも一つの本性を用いているのと同じような ものである。 *ダイケの修正提案があるとのこと。cf. Ioppolo(1980), p.220 n.31 ↓ Plut, VM. 2.441a =SVF. 3.255; 1.201 = LS. 61b  キティオンのゼノンもこの点に関して何かこういう説をもっていたと思われ る。彼は配分すべき事柄における思慮が正義であり、選択すべき事柄におけるの が節制であり、耐えるべき事柄におけるのが勇気であると定義している。こうし た定義において知識がゼノンによって思慮と名付けられているのだと彼等は弁護 して主張している。そこで、クリュシッポスは性質に応じて徳は固有の特質に与 るということを認めているが、プラトンの言う「徳の大群」に自分が望んでいる ことに気付かなかった、それに慣れ親しんでおらず馴染みを呼び起こすこともな いのに。つまり、勇敢な人の下には勇気、穏和な人には穏和、正義は義しい人の 下に、というように、親切な人には親切、巡り合わせのよい人には巡り合わせ、 度量の大きい人には大心、優美な人には優美さ、その他類似の優れた特質、つま りよい順境、快活などを徳と定め、その必要もない沢山のおかしな名前で哲学を いっぱいにしたのである。 ↓ Plut, VM. 441c = SVF. 3.459  徳とは魂の指導的部分の何らかの状態及び能力であり、それは理から生ずるの であり、さらに言えばそれは調和し、確実で、不変の理なのである、とこれらの 人々は皆共通して規定している。そして、感情的で非理性的なものは何らかの区 別や魂の本性によって理性的なそれから分かたれているのではなく、それは知性 や指導的部分と呼ばれる魂の同じ部分なのであるが、要するに感情すなわち性向 や状態に亘る変化において変転し変化したものなのであり、悪徳にも徳にもなる のであって、己の内に何か非理性的なものをもっているわけではないのだ、と考 えている。選択をなす理に反して衝動のうちで過剰で強力で支配力をふるうもの によって何かおかしなものへと運ばれる場合に、非理性的だと言われるのだとい うのである。そして実に、感情とは劣悪で自制を欠いた理性であって、過剰と力 を得て完全に誤った劣った判断から生ずるのである。 ↓ Plut, VM. 441d = Theiler 441a  しかし、思うにこうした全ての者たちが見落としているのはどういう意味で我 々の各々が真実の所2部分からなり複合したものであるのかということである。 つまり、彼等は他にも2重のものがあるのを分からないで、魂と肉体のそれとい うより明白な混合の方を認めたのである。そして、魂そのものについてもまさに その中に何か合成されたもの、2重のもの、不調和なものがあるのであり、それ はちょうど Plut., VM. 4.443a = SVF. 1.299  さてしかし、ゼノンも劇場に赴いた時に、アモイボスが竪琴を弾いていると、 弟子達にこう言った。「ちょっと聴こうじゃないか。[単なる]臓や筋、木や骨 が理・節・秩序に与るとこんな音や響きを出すのだということが分るから」 Plut, VM. 446f-447a = SVF. 3.459 = LS. 65G  ある人々は、感情は理性にほかならず、この両者の間には何ら衝突も対立もな いと言っている。彼らが言うには、単に一つの理性が両方向に変転しているだけ であり、我々は鋭さと急速な変化のためにそれに気づかない、とのことである。 魂の同じ部分によって本来欲望したり後悔したり怒ったり恐れたりするのであ り、その同じ部分は恥ずべきものに快によって運ばれるのではあるが、快が取り 去られると再び回復するのである、ということを我々は分かっていないと言う。 しかも、欲望や怒りや恐怖やその種のものは全て劣悪な思惑や判断なのであり、 魂の何か一つの部分に関して生ずるのではなく、指導的部分全体の傾向性や承認 や同意や衝動や、短期間に変化するある種の活動全般に関わるのである。それは ちょうど子供たちの攻撃が、その貧弱さの故に、非常に潰えやすく不確かな脅威 しか持たないようなものである。 Plut.,VM.9.449a=SVF.3.439  彼等にこの人々も活動を通じてある仕方で屈伏して、恥じることを廉恥するこ とと、快楽することを歓喜することと、様々な恐怖を用心と呼んでいるのだが、 この立派な名前の根拠を何ら明らかにしていない、もし彼等がこうした名前で呼 んだこれら同じ感情が方や算段に対立し、方や算段があれらによって打ち負かさ れ無理強いされるとしたら。涙や狼狽や顔色の変化に言い負かされて苦痛や恐怖 と言う代わりにある種の刺激や予見と言う時、また欲望を欲求と美化する時、そ れは詭弁であると思われるし、哲学にふさわしくない独断的な断定をした上であ れこれ策を弄して事柄そのものから逃走し言葉尻に逃げ込んでいるように見え る。実際また、この人々はあの歓喜や意欲、用心を善情と呼び、無情とは呼んで いないのであり、ここでは正しく言葉を用いている。 Plut.,VM.9.449c=SVF.3.384  また、彼等自身事態を自ら無理にねじ曲げて言うには、全ての判断が感情なの ではなく強制的で過剰な衝動から動かされたそれがそうなのであるが、判断する ものと我々の内に受動されたものが、動かすものと動かされたもののように異な ることには同意している。クリュシッポス自身も多くの箇所で忍耐と自制を判断 する理に従う性向と定義しているが、明らかに事態に強いられて同意せざるを得 ないのだ、我々の内では追従するものと従うものがそれに追従する、あるいは逆 に従わないものが対抗するものは異なるということに。 Plut., VM. 10.449d = SVF. 3.468  しかしながら、全ての過誤と全ての過ちは等しいと彼等は定めているのだが、 もし何か別の仕方で彼等が真実を看過しているのなら今は論駁するべき機会では ないが、大方の場合明瞭さに全く背いて言葉に熟達しているのは明らかである。 つまり、全ての感情は彼等によると過誤であり、全て苦痛を感じている人、恐怖 している人、欲望している人は過誤を侵しているのである。感情の多大な差異が 多かれ少なかれ観察されている。…しかし実のところ、こうしたことや性質のこ とを拒絶しながらも彼等は感情の指令や過剰が判断に際して(そこに過誤に関わ る要素があるのだが)生じるとは言わず、むしろその表現、つまり高揚と委縮、 多かれ少なかれ理を受け入れるものがあるのだというのである。  (450b)あのことが次のことから語られねばならない。つまり、彼等も判断と理 不尽なものとは異なるということに同意するのであり、後者において感情は過激 でよりひどいものになるというのだ。その際、彼等はこの名前や呼び名には争い ながら、事柄そのものについては、感情的なものや理不尽なものは理知的なもの や判断をするものと異なると表明する人々に譲歩しているのだ。 Plut.,VM.10.450c=SVF.3.390  『不調和論』においてクリュシッポスは、怒りは盲目であってしばしば明白な ことを見させないし、しばしば理解したことを妨害すると言っておいて、すぐ後 で、感情が生じるとそれは算段をはねのけ、物事を違った風に表して、無理やり 反対の行為へと押しやる、と言っている。そして、証人としてメナンドロスを引 用しているが、彼はこう言っているというのだ。  オーイオイ哀れな私、一体全体どこに我々の  心はあったのか、肉体の中にはあったはずなのに、あの  時に、こっちではなくてあんなことを我々はその時選んでしまったのだが。 そして再びクリュシッポスは、理性的な動物がその本性をそなえていてもあらゆ る事柄に理性を適応してそれに船頭されるというわけではなく、しばしば我々は このものを背けて別の強制的な運動を用いてしまう、と論じ進めている。 Plut,VM.12.451b=SVF.2.460  総じて、在るもののうちには、彼ら自身がそう言っているしまた明白なことで もあるが、性向によって統べられているものもあれば、本性によるものもあれ ば、理性をもたない魂によるものも、理と思惟をもつそれによるものもある。 Plutarch, De Vit. Aere Alieno 7.830d = SVF. 1.465 (Cleanthes)  この人は考えたことを片っ端から、挽き臼やこね鉢を手で割って壊したものに 書き連ねた。そうして、神々や月や星、太陽について書いたのである。 Plutarch, De Vit. Pud. 13.534a = SVF. 1.313  常備に便利なゼノンの言説がある。ゼノンが馴染みのある若者に会った時、若 者は塀の外で静々と沐浴していた。友人に虚偽の証言をするべきだったのにそれ を避けたと聞いたので、ゼノンは言った。「何を言うのだい。愚かな人だな。そ の人は君が愚か者や不正漢に伍しても構わないし恥ずかしいとも思わないのに、 君はその人を不正漢の元におこうとはしないのか」 『英雄伝』 『アルキビアデス』 Plut., Alcib. 6.2 = SVF. 1.614 (Cleanthes)  さて、クレアンテスは彼の恋人についてこう言った。私が彼をとりこにしてい るのは耳を通じてに過ぎないけれども、私の恋敵達は彼の触れられないものを色 々ともっていて彼に差し出すのだよ。子宮だの性器だの膣口だのと。 『アラトス』 Plutarch, Vita Aratus 18.1 = SVF. 1.443 (Persaeus)  (18.1)しかしながら、言われている所では、アンティゴノス王は捕らえられた 時に、アクロコリントスを守り、王が信用している他の人々と共に、何よりもペ ルサイオスを守った。彼は主導的な哲学者であると知っていたからである。 Plut., Aratus 23.5 = SVF. 1.443 (Persaeus)  (5)アンティゴノス王の将軍達のうち、アルケラオスは従順になったので解放 され、テオプラストスは解放を望まないので殺された。しかし、ペルサイオスは 城塞が占拠されたのでケグクレアに落ち延びた。(6)そして後に学暇を得た時、 賢者だけが将軍であると思うと言った人に彼はこう言ったということである。 「でも、神かけて、この私もゼノンの教説の中で何よりもこれがすばらしいと 思っていたのだ。しかし今は違う考えを持っている。シキュオンの若者の忠告を 受けたのでな」非常に多くの人々がこの逸話をペルサイオスに帰している。 『カトー』 Plut., Cato 22.1 = SVF. 3 Diogenes 7  彼は既に高齢だったが、アカデメイア派のカルネアデス、ストア派のディオゲ ネスと並んで、アテナイからローマへの哲学者使節の一員となった。彼等の任務 は、アテナイ市民に課せられた負債の免除を請うことにあった。この負債は一方 的に決められたもので、オロピア人はこれを受け入れたものの、シキュオン人は これを受け入れなかった。金額は500タラントであった。(2)さて、すぐさま非常 に向学心のある若者が彼等の所に集まって来て、彼等の話を聞いて驚嘆したので ある。 『クレオメネス』 Plut., Cleomenes 23.2 = SVF. 1.622 (Sphaerus)  また、こうも言われている、哲学的な言論にクレオメネスが与ったのは彼がま だ若かった頃で、ボリュステネスのスパイロスがスパルタに赴いて若者や青年と くだけた哲学談義をしていた頃である。(3)スパイロスはキティオン人ゼノンの 弟子の第一世代の一人だが、クレオメネスの男らしい資質を気に入り、向学心に 火を付けたようである。(4)さてところで、古のレオニダスは、自分にとって詩 人テュルタイオスはどのような人間と見えたかと問われて、こう言ったと言われ ている。「若者の魂を亡きものにすることにかけてはよい詩人だ」と。(5)とい うのも、詩人からの霊感に満たされると若者は自らを顧みず戦に赴くからであ る。(6)ストア派の言説も、鋭い偉大な素質に対しては何か危険な害をもたらす が、温和で重厚な性格と混合すれば親近な善に最もよく成長するのである。 Plut., Cleomenes 32.3 = SVF. 1.623 (Sphaerus)  そして、若者の教育、つまり「教導」と呼ばれることへと向かったのであ る。(4)その大部分は、そこにいたスパイロスが自らまとめあげたのであるが、 直ちに、鍛練や共同食事に本来具わっていた秩序を取り戻したのである。必要に 駆られて立て直されたものもわずかにあったが、しかし大部分は自発的にあの簡 素なスパルタ風の生活法に戻ったのである。 『デモステネス』 Plut., Demosthenes 10.2 = SVF. 1.381 (Aristo)  キオスのアリストンは、弁論家に関するテオプラストスのある思想を記録して いる。つまり、テオプラストスは、弁論家のデモステネスをどんな人だと思うか と訊ねられてこう言ったというのだ。「国家には貴重な人材だ」デマデスはどう かときかれ、「国家以上の人だ」(3)さて、自身哲学者であるポリュエウクトン が記録している所では、当時のアテナイの政治家の一人スペッティオスは、デモ ステネスは最も偉大な弁論家だが、最も有能な弁論家ということになるとそれは ポキオンだ、と言ったということだ。とても簡潔な言葉で多くの知恵を表したか らである。 Plutarch, Demosthenes 30.1 = SVF. 1.380 (Aristo)  薬についてアリストンは、そんなものは葦からとれると言ったと言われている。 『リュクルゴス』 Plutarch., Lycurg. 5.7 = SVF. 1.629  元老院がその数になった理由についてアリストテレスはこう言っている。つま り、リュクルゴスの頃は30人だったのだが、二人怖じ気付いて職務を投げ出した のでそうなったというのだ。(8)しかしスパイロスは、判断に関わる人数は最初 から28人だったと言っている。 Plutarchus, Lycurg.31=SVF.1.263  少なくともリュクルゴスにとってこのこと、つまり大多数の国家を主導する国 家を残すということ、が主要な関心事だったことはなかった。むしろ、一人の人 の生き方におけるように、国家全体の幸福は自分自身との共和と徳から生ずると 考えて、これに向けて物事を整え調和させ、人々が自由人にふさわしく、自足し て、節制のある人になってもっとも長い間存続するように計らったのである。 ↓ Plut,Vita Lycurg.31=SVF.1.261  このことを国制の基礎としたのはプラトン、ディオゲネス、ゼノン、そしてこ のような事柄について称賛して何事かを言おうとしつつも書物と言葉しか残さな かった全ての人々である。 『マリウス』 Plutarch, Vita Marii 46  また、神かけて、タルソスの人アンティパトロスは、今際の際にも、自分が巡り会った様々な幸運を思い返してもなお、故国からアテナイへの幸せな航海のことを忘れはしなかったと言われている。それは、まるで丁度、この幸運を愛したために、自分に与えられたもの全てを大いに喜ばしい状態に置いた、つまり、記憶(人にとって財産を蓄えるのにこれ以上安全な倉庫はない)に終生留めておいた、という具合であった。 『ポキオン』 Plutarch, Phocion 5.4 = SVF. 1.304  ゼノンは、哲学者たるもの言説を叡智に浸すようにせねばならない、と言った。 『ティベリウス=グラックス』 Plutarch, Vita Tib. Gracchi 8  ……弁論家のディオファノスと哲学者ブロシオスが彼を駆り立てたのだった。彼等の一方は……もう一方はそれこそイタリア出身のクマエ人であって、この町ではタルソスのアンティパトロスと知り合いであったが、様々な哲学書の献辞で彼に称えられている。 偽プルタルコス 『運命論』 [Plut.], De Fato 11.574e = SVF.2.912  しかし対抗する論拠に従うと、何よりもまず第一に、何ものも原因なしには生 じず、先行する原因に従って生じているように思われる。第二に、この宇宙全体 は自然によって統括されており、気息の点でも情態の点でも自分自身に一致して いる。第三に、何よりもこれらの点の傍証になると思われることだが、卜占の術 は全ての人々の間でよい評判を持っており、神の存在と真に両立すると思われて いる。また他方、賢者達は何が起こってもそれに満足し、全ては運命に従って生 じると考える、ということが第二であり、第三に、何度も言われることだが、全 ての命題は真か偽であるということがある。 *テキストの異同が激しいのでドレイシー&エイナーソンに全面的に従う。 『河川名称論』 Plutarch., De Fluviorum Nominibus 5.3 = SVF. 1.594 (Cleanthes)  さて、カフカスという境界が横たわっている。かつて「ボレアスの寝台」と呼 ばれていたのもその理由からである。ボレアスは愛欲でアルクトゥロスの娘キオ ネを誘惑し、ニファンテスと呼ばれていた稜線に無理矢理連れて行き、先に述べ た女からヒュルパクスという息子をもうけた。ヘニオコスの王権を与えられた人 である。そして、この分嶺はボレアスの寝台という別名を得たのである。カフカ スという綽名はこのような由来による。  巨人戦争の後、クロノスは、ゼウスの脅威をたわめて、「ボレアスの寝台」の 頂上に逃げ込んだ。そして、ワニに変身して身を隠した。さて、プロメテウスは この国の人々からカフカス人の羊飼いを一人惨殺して、この者の臓腑の状態を調 べ、敵は多くないと言った。他方、ゼウスは羊毛の編み紐で父親を縛り奈落に突 き落としたと表現されてもいる。また、この境界はこの羊飼いの名誉のためにカ フカスと呼ばれたが、プロメテウスでさえ彼を必要とし、臓腑を鷲に食わせて吟 味せざるを得なくなったからである。これは臓腑占いでは異例のことだが、それ はクレアンテスが著した『神戦論』第三巻で語っている通りである。 Ps. Plut. 5.4.1 = SVF. 1.595 (Cleanthes)  ここに生えた植物も「プロメテウス」と呼ばれたのである。これをメデイアは 集めて粉にして、父親への反感を鎮めるために用いた。これも同じクレアンテス が語っていることであるが。 Ps. Plut., Fluv. Nom. 17.4.1 = SVF. 1.596 (Cleanthes)  さて、ここに生えた植物は「好意草」と呼ばれているのだが、これを初春に女 達が首に巻き付けると、男達がより恋心を抱いて愛するようになるのである。こ れはクレアンテスが『山岳論』第一巻で語っている通りである。 [Plut.], De Libidine et Aegritudine 2 (BT 6.3.52.10-53.4 Ziegler) = FHSG 440A  感情の問題に関しては、肉体の側が魂を訴えるという、何かそのようなことが 古来あったようである。デモクリトスも悲惨の原因を魂に関連づけてこう言って いたのである。曰く、もし肉体が魂を訴えて、一生涯苦しめられひどい目にあっ てきたのだと言うとしたら、そして、肉体自身がこの訴訟の審判になったとした ら、喜んで魂への批判票を投じたであろう。方や、配慮を怠って肉体を台無しに し、酒を飲んでは締まりをなくし、方や、快楽を愛するあまり肉体をだめにして ちりじりにしてしまったと、まるで、ある種の道具や機具をひどく使った者を容 赦なく非難するように、言うであろう。しかしテオプラストスは逆にこう言うの である。曰く、魂は高い代償を払って肉体の中に住んでいるのであり、ほんの短 い期間のために重い家賃を払わされているのである。苦痛、恐怖、欲望、嫉妬と いったものを。魂がこういったものに遭遇するのは肉体においてであるので、魂 がこういう肉体を罰したとしてもそれは不正どころか義しいのである。肉体が何 かを忘れたら切断刑、妨害に対しては拷問、軽蔑や誹謗に対しては虐めをもって 報いるのが正しく、あんな肉体ごときが被った害悪の原因を魂に帰するのはふさ わしくない。 『高貴論』 Plut(?),De Nobil.12=SVF.3.350(クリュシッポス『徳論』)  クリュシッポスは『徳論』の中でこう言っている。「平等な誉れについたクズ やカスのことを生まれの善さというのだ」と。すなわち、たまたまどの父親から 生まれようが、生まれが善いかそうでないかということに関しては、何の違いも ない。 Plut(?),De Nobil.13=SVF.3.350  再びクリュシッポスに戻ることにする。生まれの善さについてはとても賢い詩 人によって次のようなことが書かれていると彼は書いている。   彼を私がつなぎ止めるかもしれないし、他のギリシャ人がそうするかもしれ ない。  …また同じ詩人について語りつつ、明らかに悪くなされた事柄が善き生まれの 人々の間にもあると怒鳴っている。それはヘパイストスがアレスとアプロディテ の姦通を突き止めたときのことだというのだ。   私を片輪だといって、ゼウスの娘、アフロディテは   いつも軽蔑し、方や冥府の王アレスを愛でている。  …君たちがストア派を論駁しないならば、君たちは全ての罪科は等しいと言っ ているのだから、生まれの善い人々に関わる事柄に関してどんなよりはっきりし たことを見出せるだろうか。平民であれ王であれ娘がいればそれで十分だという 点では何の違いもないと君たちは言っているのだ。しかしながら、生まれの善い 人々の無意味さに関して沢山の愚劣なことを言いながら、彼等をペテンだとか、 好色家だとか、共同を蔑ろにする連中だとか、対立する人々の悲惨を欲している とか君たちは言っているのだ。それどころか、善くしてやったことを覚えていな いとか、不正をするとか、ためらわずに仕返しするとかさえ言うのだ。 Plut(?),De Nobil.16=SVF.3.350  しかし、クリュシッポスは愛すべきエウリピデスを引いて我々に新たに難癖を つけてくるので、それでは、生まれの善さのあの弁護人が次のような形でそれに ついて語ったことを我々も引用しよう。つまりこういうことだ。…  …実際このようなことは生まれの善さに対してケンカを売りケチをつける人の 言うことではなくて、むしろそれを誉め持ち上げる人の言うことだ。 Plut(?),De Nobil. 17=SVF.3.148  しかしわれわれはクリュシッポスを放っておこう、この方は一度ならず自分自 身に反対しているのだが。一例を挙げれば、『善論』第1巻と『弁論術論』で は、もし誰か健康を善いものに数え入れるなら自己論駁せずにはいないと言いつ つ、『それ自体で選択に値するものについて』ではこうしたものを軽視する人々 を狂気から分けていない。 オリムピオドロスも見よ