プルタルコス『共通観念論』 Plut,CN.1.1059b=SVF.2.33  それに、彼等ストア派にはそう言う者もいるが、アルケシラオスの後、カルネアデスの前にクリュシッポスが生まれたのは偶然によるのではなく神々の摂理からであると考えている。彼等のうち前者アルケシラオスは通念への暴虐や無法な仕打ちを始めた人だし、後者カルネアデスはアカデメイア派の中でも最も輝かしく栄えた人だった。そして、クリュシッポスは両者の間に生まれ、アルケシラオスに対する反対論によってカルネアデスの鬼才をも制止したのである。その際、包囲戦に援軍をそうするように、感覚に対しては沢山のことを残す反面、先取観念と生得概念については混乱をすっかり取り除き、それらそれぞれを矯正し本来親近な所に置いたので、再び問題事項を押し戻して無茶をしようとする人々がいても、何一つ完遂できないどころか、詭弁を弄していかさまをしていると論駁され暴かれることになるのである、というのだ。 Plut, CN.2.1059c  (ディアデュメノス)多くの人々と同じことを多分君は感じているのだ。さて、詩人達が君に説得力を持つならばだー彼等が言うには、タンタロスを懲らしめようという神々の計らいからして古のシピュロスが崩れ落ちたのだーそれならばだ、ストアの学友達にも納得したまえ。彼等が言うには、自然がクリュシッポスをもたらしたのも偶然からではなく摂理からなのであり、下のものを上に、またその逆にと人生というものをひっくり返さねばならない必要に自然がかられてのことだったのである。それというのも、このことに彼以上の生まれつきの天分を持った者はこれまで在った者の中には誰もいなかったからである。それどころか、カトーがカエサルを称して、彼以外には、正気のまま思慮を働かせつつ、しかし国制を混乱させるために国事に入った者はいない、と言ったが、ちょうどそのように、私が思うに、最大の考慮と恐るべき才能を持ちながらもこの男は通念を転覆して投げ倒したのである。それは時にこの男の賞賛者達さえもが証言する所であり、彼等が「嘘つき」の詭弁について彼と意見を異にする際に明らかになる。というのも、最も優れたお方よ、「何であれ相矛盾する命題をつなげた命題は偽である」と言えば簡単であるのにそう言わず、逆に、「真である前提と妥当な推論を持つ命題は、それだから、そこから帰結する命題に矛盾対立する命題をそなえていてそれは真なのである」などと言うのだから、論証に関するどんな内在観念を、また証明に関するどんな先取観念を転覆させないことがあろう。タコだって自分の足を冬には次々食べていくと言われているが、クリュシッポスの弁証学はその最重要の部分つまり自らの原理を破壊して切断しているので、一体他のどんな内在観念が無前提のものとして残されているのであろうか。 Plut,CN.4.1060b=SVF.3.146(優先物 自殺)  (4)(ディアデュメノス)さてそれではまず第一に、この点を考えてくれたまえ。次のような人々が自然に調和しているということは共通観念に則すものかどうかを。つまり彼等は、健康も善い状態も美しさも強壮さも選択に値するものでもなく有益なものでもなく役に立つものでもなく自然に従った完成を満たすものでもないと考えているし、その逆に不具や苦痛や醜さや病気も忌避すべきものでも害になるものでもないとしている。自然は我々をこうしたものどものうち後者には疎遠にし前者には親近にすると彼等は言っている。よかろう。この点も共通観念に反するのだが、自然は有益でも善いものでもないものに親近にし、悪いものでも害になるものでもないものに疎遠にさせるというのだ。さらにひどいのは、前者を手に入れられず後者に落ち込んだ人々が自分自身生から撤退したり生命をつまみ出したりするのが理にかなったことであるほどまで親近化と疎遠化の働きは及ぶということである。 Plut,CN.5.1060e=SVF.3.139(クリュシッポス『哲学の勧め』)  クリュシッポスが『哲学の勧め』第1巻で書いたように、徳に即して生きるということにのみ幸福な生があるとしたら、彼が言うように他のものは何ら我々のためにならず幸福に寄与もしないのだから、そうだとすると… Plut,CN.6.1061a=SVF.3.212(クリュシッポス『神論』)(正当行為?)  また、クリュシッポスも神に関する著作と『神々論』第3巻でこう言っている。「徳から生じた次のような事柄を賞賛することは無味で場違いで疎遠なことである。飛ぶものが刺したのを勇敢に耐えよ、とか、死に瀕した老婆から節制をもって立ち去れ、とか」 Plut,CN.7.1061c=SVF.213(賢者とその把捉)  というのは、彼等にとっての賢者、思慮者は沢山の把捉と把捉の記憶のうちにありながらそれらのわずかしか自分に関係あるとは思わないのだから。そして、その他のものは考慮せず、ディオンがいびきをしていたとかテオンがボール遊びをしていたとかいう把捉を去年得たとかいう記憶をより沢山持とうがより少なかろうが*何でもないと考える。実際、賢者における全ての把捉と記憶は明白確実なものをそなえているので即知識であり、多大ないや最大の善であるのだ。 *ポーレンツに従いoute ... oute ...と読む。 Plut,CN.7.1061d=SVF.3.691(不幸)  それでは一体全体、健康が損なわれても、感覚器官が不自由でも、財産がなくなっても、前と同じように無頓着で、こんなものは何一つ自分には関係のないことだなどと賢者は考えているのだろうか。あるいは、「病気の時は医者に治療費を払い、金のためにボスポロスの王レウコンの下に漕ぎ出したり、スキタイ王イダンテュルソスの下に出張する」のだろうか。これもクリュシッポスの言うことだが、「感覚のうちには、それが失われたら生きていくのを忍びがたいものもある」のだろうか。 Plut,CN.8.1061e=SVF.3.542 (最高善)  *次のような説は通念に反しているではないか。つまり、判断に際して不動であり堅固としているということが善いもののうちでも最大のものではあるが、究極に向けて進歩している人がこのものを求めもせず、またたまたまそれを手にしても気にもとめないということでは。また、この明白さや堅固さのためにさえ指一本伸ばさないこともしばしばあるというのでは。彼等はそれを終極的で多大な善であるとみなしているのに。 *チャーニスに従う ↓ Plut,CN.8.1061f=SVF.3.54=LS.63I(幸福に程度差なし)  この人々はこういうことだけではなくそれに加えて次のようなことも述べているのだ。「時の経過とともに善が増すということはない。むしろ、わずかな期間だけ思慮ある者となった人がいたとしても、この人は生涯徳を用い続け徳のうちで幸せに生き通した人と比べて幸福の点で劣っていることにはならない」 ↓ Plut,CN.8.1062a=SVF.3.210(短期間の幸福?)  しかし、こうしたことをこうも熱烈に強弁した彼等が今度は短期間の徳は全く役に立たないと言うのである。「というのも、もうすぐ難破するであろう人や崖から転落するであろう人に今更思慮が備わったからといってそれが何だというのか。また、ヘラクレスに投げ飛ばされたリカスが悪徳から徳へと変貌したからといってそれがどうだというのか」 Plut,CN.9.1062b=SVF.3.85(目的は感知されうる)  というのは、彼等によると、本性上感覚されえないことはないからだ。それどころか、クリュシッポスは『目的論』の中で善いものは感覚されうると明言し、彼がそう考えるところでは、証明もしている。 Plut,CN.10.1062e=SVF.3.668(一般人)  さらに一層実生活上の行動についてもそうではないだろうか。彼等は、賢者でない者どもは皆ひとしなみに悪人であり不正であり不信人物であり無思慮な者であるとしつつも、しかしながらもこうした人間どものうちある者を除外し、ある者は嫌悪して全く言及もせず、ある者には金銭を信託することをせず、それなのに公務に手をつけ、女子をもうけるなどというのだから。 Plut,CN.10.1063a=SVF.3.539(劣者平等)  彼等は言う、その通り、海で海面から1ペキュスの深さにある人も500オルギュイアの深さまで沈んでしまった人も溺れるということでは違いはないが、同様に、徳に近付いた人も大いに隔たっている人も悪の内にあるという点では変わりがない。また、やがてすぐに目が見えるようになるとしても、盲目の者は盲目であるように、向上者も、徳を得ない間は、依然として無思慮で邪悪な者なのだ。 Plut,CN.11.1063d=SVF.3.759(自殺)  しかるに、こういうことはストア派によって法に定められている。また、幸福なままで生きるのをやめる方がよりよいというので賢者の多くが生から退出する反面、悲惨な者のまま生きるのが自分たちにとっては適宜行為だというので劣者の多くが生にとどまるというのだ。実際、賢者は幸せであり、恵まれており、完全に幸福で、安寧で、危険のない人であるが、劣者つまり知恵のない者はいわば   私は悲しみに満ちている。これ以上の悲しみを入れる余地はない(エウリピデス『ヘラクレス』1245川重・金井訳) しかしながら、こういう者どもにはとどまることが、あの者たちには退出が適宜だと彼等は考える。しかしこれももっともなことだ、とクリュシッポスは言う、なぜなら、よいものや悪いもので生が計られるべきではなく、自然にかなうものと反するものでそうされるべきだから。 Plut,CN.11.1064a=SVF.3.762(徳の放棄)  つまり彼等はこう言うからだ。ヘラクレイトスやペレキュデスにとって、それが不可能な場合には、疥癬や水泡を止めるために徳と思慮を放棄することが適宜なこととなろうというのだ。また、キルケが2つの薬を注ぐとし、その一方は思慮のある者を無思慮にするものであり、もう一方は人間を思慮を備えたロバにする*ものとすると、オデュッセウスは、無思慮になる方を飲んだ方が姿を獣のものに変えるよりも正しいことになろう、いくら思慮を備えたままとはいえ、また思慮とともに明らかに幸福をもそうするものとはいえ。そして彼等が言うところでは、思慮そのものがそういうことに導き勧めるという。「私など見放して気にも留めないでください、私は変わり果て、ロバの顔に成り下がっているのですから」というわけだ。 Plut,CN.20.1068a=SVF.3.674(クリュシッポス『正当行為論』)(悪徳の利害)  (20)それでは、悪徳の発生は無用なことではないなどと言うお方が、見たまえ、それが所有者にとってどれほどのものであり財産であるかということを証明しているのだ、『正当行為論』の中で劣者は何も要せず、何に対する必要ももたず、彼にとっては何も有用ではなく、親近ではなく、調和しない、などと書いているのに。すると一体全体どうやって悪徳が有用であるのか。それと共にあると、健康や富や向上でさえ有用ではないというのに。 Plut,CN.20.1068b=SVF.3.674(幸福者は無欠か)  さてでは、このめまいがしそうな言説は何なのだ。無欠な者が自分のもつ善を要し、多くのものを欠いている劣者が何も要しないというのは。すなわち、これがクリュシッポスの言うことであって、劣者は何も必要としないが、欠けてはいるというのだ、将棋の駒のように共通観念をひっくり返すのである。  (21)では、少し前に遡って見てみたまえ。共通観念に反する彼らの言説の一つに「誰も劣者は利益を受けない」というものがある。無論実際、教育を受けて向上したり、奴隷の身分から自由人になったり、幽閉から救い出されたり、体が不自由なので手を引いてもらったり、病気の時に治癒を受けたりする人はたくさんいる。 ↓ Plut,CN.21.1068d=SVF.3.672(恩恵 好意)  「しかし、こうしたことに巡り会っても、彼等は利益を被ってはいないし、善い扱いを受けているわけでもなく、善くしてくれる人をもっているわけでもなければ、そうかといって彼等を疎かにしているわけでもない」とすると、劣者は恩知らずなことをするというわけでもないのだ。もちろん、智恵のある人がそうだということもない。こうして、忘恩などということは不可能なのだ。なぜなら、後者は好意を受ければそれを反古にするということはないし、前者は元々好意を受けないようになっているからなのだ。では、見たまえ、これに対して彼等がこう言うのはどういうわけか。「好意は中間のものにまで及ぶ。無論、利益の授受をするのは賢者ではあるが、反面、劣者も好意にありつくことはある」 Plut,CN.1068f=SVF.3.627(賢者)  どこにいてもいいのだが一人の賢者が思慮をもって指を延ばすとき、世界中の賢者が全ての人々を益するのである。 Plut,CN.1069a=SVF.3.627(賢者とその相互利益)  アリストテレスは愚かだったし、クセノクラテスも愚かだった。…彼等はその驚くべき利益に無知なのである。賢者たちは徳に則して互いに活動するときにこの利益をもたらすのだ、たとえ一緒にいなくても、また互いに知らないにしても。 Plut,CN.1069c=SVF.3.153(徳の内実)  しかし、ストア派の合意事項に関して言えば、このことが立派なこと崇高なこと恵まれたことであって、それは無益かつ善悪無記な事項に関わる選別と注意に他ならない。というのは、自然に従うものはそういう性質をもつが外的なものはさらにそうだから。膨大な富を彼等が房や、黄金の水差しや、神かけて言うが、彼等がそうすることもあるように、香油瓶などに比類するのでありさえすれば。 Plut,CN.1069d=SVF.3.167(貧乏)  実際、彼等はテオグニスを卑しい小者であり、だからこんなことを言うと考えている(断片175)  貧乏から逃げよ、そして海の深遠に  投げ込め、キュルノスよ、切り立った岩の底へと この通り彼は貧乏に対して臆病なのだ、そんなものは善悪無記なのに、というわけだ。 Plut,CN.23.1069e=SVF.3.491=LS.59A (クリュシッポス『適宜行為論』?)(徳の素材)  彼は言う「それでは何から始めればいいのか。それに、自然および自然にかなうものを無視するなら何を適宜行為の始原とし徳の素材とすればいいのか」 Plut,CN.23.1069f=SVF.1.183(徳の素材)  ゼノンも彼等[逍遥派の人々]に従ったのではないのか。彼等は自然と自然に従うものとが幸福の要素であると仮定していた。 Plut,CN.23.1069f=SVF.3.123(適宜行為)  というのは、地上を離れたものの再び地上に墜ちて困惑した人々、同じ物事を受け容れるべきものであるが選択すべきものではなく、親近なものだが善いものではなく、有益ではないが善く使用されうるものであり、我々のためには全然ならないが適宜行為の始原であると呼んでいる人々、とは違っているのだから。 Plut,CN.25.1070d=SVF.3.25(善いものの種類)  (25)さらにまた、善いものには2種あって、一つは目的でありもう一つは目的に貢献するものであるが、より善いのは目的でありそれはより終局的なものでもあるということに無知である者は誰もいない。さて、クリュシッポスもこの区別を知っていたのであり、それは『善論』第3巻において明らかである。というのは、知識を目的と考えている人々に同意をしていないから。*そして、このものは目的に貢献する善であるとして、まさにこの点の故に目的ではないのだともしている。* *…*チャーニスに従って補う。 ↓ Plut,CN.25.1070d=SVF.3.23(クリュシッポス『正義論』)(快と正義)  また*『正義論』では「もし人が快楽を目的とするなら正義を保持することはできない**と思われる。しかし、目的とはせず単に善いものであるとするならばそうできると思われる」[と彼は言っている]。さて、彼の言を私が読んでそれを君が聞く必要があるとは思わない。と言うのは、『正義論』第3巻はどこからでも入手可能なのだから。 *メジリアクに従いdeと読む。 **サンドバッチに従いanを補う。 Plut,CN.25.1070e=SVF.3.455(クリュシッポス『正義論』)(不幸とその害)  しかし、少なくともクリュシッポスは同意するのだが、恐怖や苦痛や欺瞞には我々を害するけど劣悪な者にするわけではないものもあるというのだ。では、プラトンに抗して書かれた『正義論』の第1巻に当たってみよ。というのは、他のことのためにも、そこでこの人が行った新奇な論法をたどっておく価値はあるからだ。つまり、全ての問題事項や教説をのべつまくなし、自派のものだろうと他派のものだろうと同じように、おざなりにするという論法を。 Plut,CN.26.1071a=SVF.3.195(選別の価値)  というのは、自然に従う最初のものがそれ自体として善いものではなく、それらのよく理にかなった選別と受容、及び自然に従う最初のものを得るために自分の下にあるあらゆる全てのことをなすことがそうだとしたら、あのことに全ての行為は関わりをもたねばならないから、つまり自然に従う最初のものを得ることに。*そうすると、あのものを狙い目指す人々が目的を得るのではないともし彼等が考えているとしたら、こうしたものの選別は同じではない別の目的に関係せねばならない。*というのは、目的はあのものを思慮にかなう仕方で選別し取ることであるから。しかし、あのものそれ自体とそれらを得ることは目的ではなく、選別に値する価値を有する、質量のような、何かであるとされている。というのは、思うに、この名称を彼等は述べて著作し、相違を明らかにしているのだから。 *…*チャーニスとアルニムの読みはかなり異なっている。前者に従った。 Plut,CN.27.1071f=SVF.3.26(善悪無記)  というのは、君も見るように、クリュシッポスもむしろ*この袋小路にアリストンを陥れているからである、善悪が前もって知られていないのであれば善いものにも悪いものにも善悪無記であるということの概念をわきまえる余地を事物は与えないというので。つまり、このようにして善悪無記ということはそれ自体に先立つ基礎を明らかにそなえているのである、それをわきまえるのは善がわきまえられて初めて可能であり、このものだけが善であり他のものは何らそうではないというのであれば。 *コルフハウスに従いmallonを削除しない。 Plut,CN.27.1072c=SVF.3.Antipater 59(目的定式 徳と選別との関係)  善の本質を彼等は自然に従うものをよく算段して選別することとしている。しかし、既に述べられたように、ある目的のためになされたのではない選別はよく算段されたものではないというのだ。するとこれはどういうことになるのだろうか?彼等の言によると、これは自然に従うものの選別においてよく算段することに他ならない。 ↓ するとまず第一に、善の内在観念が逃げ出してどこかに行ってしまうことになる。というのは、恐らく、選別におけるよい算段はよい算段という性向から生じる出来事であるから。従って、この性向は目的から、目的はその性向を得た上で知るように我々は強いられているので、両方の認識を我々は放置することになる。 ↓ Plut,CN.27.1072d=SVF.3.Antipater 59(選別)  さらに、より重大なことだが、最も正当な論議に従うと善いものをよく算段して選別することは有益で目的に向けて役に立つものの選別でなければならない。というのは、無益で評価にも値しないもの、総じて選択されるべきでないものの選別がどうしてよく算段されたものであろうか?すなわち、彼等自身もそう言うように、幸福のために価値を有するものの選別がよく算段された選別なのだとしておこう。では、この議論全体が彼等にとってどれほどご立派で厳粛なことに至るかを見たまえ。というのは、思うに、彼等によると目的とは価値を有するものの選別においてよく算段することのためによく算段するということなのだから。 Plut, CN. 27.1072e = SVF. 3 Antipater 59  すなわち、この方々が備え、知っている善の本質、また幸福の本質は価値を有するものの選別に関わるこの過大に褒めたたえられるよい算段に他ならないのだ。しかし、この議論はアンティパトロスに向けて語られたものであってストア派に向けられたものではないと思う人々もいる。というのは、あの方はカルネアデスに追い込まれてこうした美辞麗句に身を隠したからなのだが。 ↓ Plut, CN. 28.1072f = SVF. 3.719  (28)さて、愛情に関してストア派内でなされた哲学論議の無茶苦茶さにも、共通観念に反して、彼等全員は与っている。「というのは、若者達は、劣悪で無知なので醜いのだが、賢者は美しいからである。しかし、かの美しい人々は誰一人、恋愛感情を抱かれることもなければ恋愛に価する人でもない」そして、これはまだそんなにひどい議論ではない。それどころか「醜い者に恋愛している者は、彼等が美しくなるとそれをやめる」とまで彼等は言っているのだ。 ↓ しかし、誰がこんなものを愛情だと認めるのか。肉体の劣悪さと同時に魂のそれも見られるならいかれて燃え上がるが、正義や節制と一緒になった思慮と同時に美しさが生じると干からびて萎えるようなものを。そういう連中は蚊と何も違わないと思う。というのも、こいつらも酒滓や酢の差した酒には喜ぶが、飲み頃の上等の酒は飛び退いて逃げるからである。 ↓ Plut, CN. 28.1073b = SVF. 3.719  彼等が美の現れと名付けてそう呼び、愛情の導き手だと言っているものがあるが、第一にこんな説に説得的なところは何もない。なぜなら、非常に醜く邪悪なものに美の現れなど生じ得ないから。彼等が言うように、人柄の邪悪さが容姿を冒すのだとしたらそうなるはずなのだ。次に、醜い人間が恋愛に値するという見解は全く[共通]観念に反している。なぜなら、こういう人も将来美しくなるであろうし、そう期待もされるのだが、それを手に入れて善美な者となったら誰からも恋されないというのだから。  (友人)彼等も言っていますね、恋愛は未完成ではあるが徳に向けての素質は善い少年の一種の狩猟なのだと。 Plut, CN. 30.1074d = SVF. 2.335  するとさらに、時間・述語・命題・条件文・複合文をも何ものでもないものと言わねばならない。彼等はこうした用語を哲学者の中で最もよく用いてはいるが、それが在るものだとは言っていない。 Plut, CN. 31.1075d = SVF. 1.510 (Cleanthes)  さらに言えば、クレアンテスは大燃焼のために抗弁してこう言っている。つまり、月やその他の星々を、指導者である*太陽は全て己に同化して、自分自身へと変質させるのである、と。しかしながら、神であるはずの星々が己の破滅のために太陽に協力し、大燃焼のためにも大変な尽力をするのだとしたら*、何とお笑い種ではないか、我々は自分達の平安をそんなものに祈り、それらを人々の保護者だとみなしているのである。それらにとっては自らの破滅と崩壊を願うのが自然本性に適っているというのであるのだから馬鹿馬鹿しい限りだ。 *チャーニス従う。 Plut, CN. 33.1076a = SVF. 3.246  しかしながら、クリュシッポスによるとこのことは彼等に何ももたらさない。というのは、徳の点では神もディオンを凌駕しているわけではないし、彼等が賢者であれば、ディオンと神は同じように互いに利益をもたらし合うのだから、一方が他方の働きに応じる際には。 Plut, CN. 34.1076e = SVF. 2.937  しかしもし、クリュシッポスが言うように、[宇宙の]どんな些細な部分も神の意思に則しているのに他ならず、それどころか魂をもつものは全てあの御方が御導きになり御養いになり押し止められたり配剤なさるような状態にありそう動かされるとすれば、   こっちの方があんな言い方よりももっとめちゃめちゃだ ということになる。 Plut., CN. 36.1077c=SVF.2.112=LS.28O  (36)さらに言えば、彼等がアカデメイア派の人々に対して異を唱えて罵倒するのを彼等自身から聞くこともできれば、沢山の書物にあたることもできる。二つの実体の上に一つの性質があると強弁しては無差別性を論拠に全てのものを一緒くたにしている、というのが彼等の批判だ。しかしながら、こう考えない人は誰一人いない。つまり、反対のことを考えて、鳩が鳩に、蜂が蜂に、小麦が小麦に、また諺にあるようにイチジクがイチジクに、全時間に亘って区別できないほど似ているとしたら、その方が驚くべきことであり常軌を逸している、などと思う者はいないのだ。他方、本当に共通観念に反しているのはこの人々が言い思い描いているあのことである。つまり、一つの実体の上に二つの固有性質があるのであり、固有性質をもつ同一の実体は違うものがやってくると両者ともを同様に受け入れて保持する、などと彼等は共通観念に反して言っているのだ。なぜなら、二つがそうなら、3つでも4つでも5つでも、また人が言えないほどの性質が実体にあるだろうから。しかし、私が言っているのは別々の部分においてそうなるということではなく、無限の性質が全て同様に実体全体にあるということなのだ。その証拠にクリュシッポスはこう言っている。ゼウスつまり宇宙は人間に似ており、摂理は魂に似ている。しかるに、世界燃焼が起こる時、神々の中で唯一滅びることのないゼウスは摂理へと退却し、その後天空という一つの実体に両者とも同化して存続する、と。 ↓  (37)さてでは、神々のことはさておいて、共通の感覚と叡智が与えられることを祈ってから、原理に関する問題が彼等の下でどうなっているかを見よう。 ↓ Plut,CN.37.1077e=SVF.2.465(「混合」)  通念に反することだが、物体は物体の場所であり、物体は物体を貫いてゆくというのだ、どんな物体も空虚を含まず、充実したものが充実したものの中へ入り込んでゆき、連続性故に自らのうちに間隔も空間をも持たないものが、それと混合されるものを受け入れるのだからというので。彼等は一つのものに一つや二つや三つのものさらには10のものを押しつけるのではなく、むしろ宇宙の全部の部分を切り刻んで任意のもの一つ一つに対応させつつ、この対応する最大の宇宙には感覚されうる最小のものさえ欠けていないと主張するのだが、他の多くの場合のように子供じみた説を述べて自ら反論をこしらえているのだ、実際通念と齟齬する前提を採用しているように。 Plut,CN.37.1078b=SVF.2.465=LS.48E(「混合」)  すなわち、混合において相互浸透が起こるというのであれば、必然的に、かたや包摂しかたや包摂されるとか、かたや受け入れかたや内属するというのではないということになる。というのは、こういうことは混合ではなく表面の接触と遭遇なのだから、内部に侵入され外側は包まれてはいるがその他の部分は混合されず混じりものがないままでなおも一つのものとして分かたれている以上。 Plut., CN. 41.1081 = SVF. 3 Archedemus 14  アルケデモスは、過ぎ去った時とこれからおとずれる時の何らかの初めと終わりが「今」であると言っているが、思うに、そんなことをしたら時間全体が台無しになるということを忘れていたのだ。というのも、「今」が時間そのものではなく時間の端だとしたら、時間の全部分は「今」のようなものとなってしまい、明らかに時間全体には部分がないことになり、終わりだの初めだの全部が「端」だということになってしまう。 Plut., CN. 44.1083a=LS. 28A  ともかく、増大に関する議論は古いものである。というのも、クリュシッポスが言うように、エピカルモスによってそれは問題にされたのだから。しかし、アカデメイア学園ではこの難問が簡単でもなければ即座に解決できるものではないと思われているというので、このストア派の人々は*彼等を多くのことで非難し、先取観念はぶち壊し内在観念は蔑ろにして哲学しているといって彼等に罵声を浴びせたのである。**ところが、ストア派の連中自身は、内在観念を守るどころではなく、感覚までもねじ曲げているのである。というのも、この議論は単純であるし、この連中も次の諸前提には同意するからである。「個別の実体は全て流れ運ばれるのであり、その際自分自身から何かを放ったり、どこかからやって来たものを受け入れたりする」「こうしたものが加わったり離れたりするとその数や量においてもものは同じ状態にとどまらず異なるものになる。上述の付加や分離によって実体は全面的な変化を被るのだから」「これらの変化は増大と減少と呼ばれているがそれは言語習慣の力が勝っているためであって正しくなく、むしろ生成と消滅と呼ばれるのがふさわしい。生成消滅は現在の状態から別のものに返させるものだから。他方、増大減少は基体となり存続している物体の被る状態である」こうした事柄が何かこのように述べられ仮定されているのだが、名称性の弁護人であり内在観念の規範たるこの人々はどう考えるのだろうか。我々の各々は双子で二重の性質を持ち二重である。もっとも、詩人達がモリオネの息子達についてそう思っているように、ある部分では一つになっているが、他の部分では分かたれているというのではなく、二つの物体が色も同じ、形も同じ、重さも同じ、場所も同じだが、にもかかわらずしかし二重であるというのだ。これまでだれ一人目撃者はいないのだが。ところが、この人々だけはこの総合や二重性や二義性を見たのである。つまり、我々各々は2つの基体であり、一つは実体、もう一つは固有性質***である。そして前者は常に流転し運ばれていて、増加も減少もせず、今あるその通りに全体としてとどまるということもないが、もう一つの後者はとどまり、増加減少し、もう一方の前者とはすべて反対の物事を被る。しかしなお、後者は前者と本姓上一つのものであり、一致調和していて、一つに混合されているのであり、差異を感覚で捉えることは全く不可能である。もっとも、あのリュンケウスは岩や樹木を透視したと言われている。また、シケリアの見張り台から座ったままで、カルタゴ人達の船団が港から出港するのを見た人もいた、一昼夜走った距離も離れていたのに。また、カリクラテスとミュルメキデスの一派は蠅の羽で覆われた戦車を作ったり、ゴマにホメロスの詩句を文字にして刻み込んだりした、と言われている。しかし、我々のうちにあるこの違いや差異を判別して取り分けた者はいなかったし、我々も分からないうちに二重になっており、ある部分では常に流動しているが、別の部分では生まれてから死ぬまで同一のままであるというのだ。ところで、私は彼等の理論をもっと簡単なものにしよう。なぜなら、彼等はそれぞれのものについて基体を4つにし、さらには我々のそれぞれも4つにしているからである。しかし、おかしな点を指摘するには2つで事足りる。ペンテウスが悲劇の中で(エウリピデス『バッカイ』918)「太陽が2つに見える、テバイも2つだ」と言うのを聞いて我々が、この人は見ているのではなく錯視しているのだ、激昂して分別を失っているのだ、と言うとしたらどうだろうか。このストア派の人達は一つの国だけではなく、全ての人間も動物も、全ての木々や調度品、道具類や衣服も二重であり二つの本姓を持っているようにしているので、我々は彼等に別れを告げるべきではないだろうか、我々の英知を働かせるというよりは歪んだ英知を強制するというので。 *ポーレンツに従い黍u|toi kai;フ。 **この欠損箇所の補充はベルナルダキスに従う。 ***ヴィッテンバッハのpoiotesではなくセドリーのidios poiosを読む。  ところでここでは、彼等が異なる本性の基体を作り出しているのも、許されるべきかもしれない。なぜなら、他の工夫など思いもよらないのだから、彼等は増大を救って護衛しようと躍起になっているのだから。 Plut., CN. 46.1084e = SVF.2.806  つまり彼等がそのようなことをするのは、最も熱いものを冷却によって、最も微細なものを硬化によって生み出す時なのである。というのは、霊魂は恐らく最も熱く最も微細なものだからである。しかし、彼等はそれを物体の冷却と硬化によって作り出しているのである。いわばそれは、気息を鉄を鍛えるように変化させるのであるが、その気息は植物状態から生まれて生命あるものとなったのである。また、彼等は太陽も魂を内に持つものと「なった」のだと言っているが、それも湿ったものから叡智的な火に転化させているのである。  (47)しかし、観念そのものの本質とその生成についても彼等は共通観念に背いて仮定をしているのではないか。 ↓ Plut., CN. 47.1084f = SVF.2.847  というのは、観念は一種の表象であり、表象は魂における刻印だから。しかし、魂は沸き上がる蒸気であって、それは希薄さ故に刻印されることは困難だし、仮に刻印がされてもそれを保持することは不可能である。というのも、その栄養と生成は水分からなっているので、魂は絶えまない増加と消費をしているからである。また、息を吸い込む際に空気との混合があることも蒸散を新たなものにしているのだが、それは外部から流れ込みまた流れ出す流れにより変転されているからなのである。つまり、そう考えられるのだが、運動する水の何らかの流れの方が形や刻印や形相をより保てるのだ、気息よりも。気息は内部では蒸気や湿気で動かされ、外部からも別の気息によって常に動かされているのである、いわば何の作用も持たない外部の気息と混合されているのである。しかし、この方々は自説を誤解した挙げ句の果てに、観念を貯えられた思惟と、記憶を安定し固定した刻印と、そして知識を堅固不同な状態にあるほど完全に固定したものと定義するのはよいものの、その先に、こうしたものの台座として滑りやすく散らばりやすい、また常に動き流れる実体を措定してしまったのだ。 Plut,CN.48.1085b=SVF.2.313  そして実際、この人々は神を原理であるが、叡知的な物体であり、質量の中にある叡知であるとし、純粋でも単純でも合成されないものでもなく、他のものから他のものによってあると表明している。しかし、質量はそれ自体として見れば理に与らず性質もないものであり、単純で原始的な性質を持っている。ところが神は、もしそれが非物体的でもなく非質量的でもないのであれば、原理としての質量に与っているのである。というのも、質量と理が同一であるなら、質量を理に与らないものとするのはよろしくないからである。また他方、別のものであるとしても、神は両者の一種の管理人であることになり、単純どころか合成された物体、つまり叡知的なものに質量から物体的なものを取り込んだものとなるであろうからである。