プルタルコス『ストア派の自己撞着』 Plut,SR.2.1033b=SVF.1.27;1.262  さて実際、国制や支配及び被支配や裁判や法廷弁論については、少ない著作の中にしては*多くのことがゼノン自身によって**書かれ、沢山のことがクレアンテスによって、非常に多くのことがクリュシッポスによって書かれたのである。しかし、生涯に彼等は誰一人将軍職にも立法職にも民会出席者にも法廷弁護人にも祖国のための軍勢にも使節にも公務にも与らなかった。むしろ、人里離れた所でまるで退屈しのぎの蓮の実を食べる人々のように短からぬ長い全生涯の間言論や書物や逍遥に時を過ごしたのである。明らかに、彼等は自らの著作や発言によりもむしろ他人によるそれに調和して生きたのである、エピクロスやヒエロニュモスが「平静」として称賛したそのような生の中で全生涯を生き抜いたのだから。 *チャーニスに従いoligoisと読む。 **チャーニスに依りautoiと読む。 ↓ Plut, SR. 1033d = SVF.3.702 = LS.67X = FDS. 123(クリュシッポス『人生論』)  何と、『人生論』第4巻でクリュシッポスその人が学徒の生は快楽のそれと何ら異ならないと思っている。彼の言葉をそのまま挙げておこう。「学者の生は哲学者たちにまず第一にあてがわれると考える人々は*完全に誤っていると私には思われる。そういう人々は、研究活動という暇つぶしのためかそれに似た何か他のことのためにこのような生き方をするべきだと、また全生涯を何かそのように行き通すべきだと思っているのである。しかし、はっきりと洞察するならば分かるだろうが、この生き方は快く生きることなのだ。すなわち、彼等の真意を見逃してはならない。このことを多くの人々はあからさまに述べているが、より不明確に言っている人々も少なくない」 *アルニムに従っておいた ↓ Plut, SR. 2.1033d = SVF. 1.27; Diogenes. 5  ならば、一体誰がクリュシッポスやクレアンテスやディオゲネスやゼノン以上に学徒の生き方のうちで年をとるというのか。彼等は自分たちの祖国さえ蔑ろにしたのだが、それにしても召喚されなかったからというのではなく、のうのうとオイデイオンやゾーストロスで学者づらしたり本の虫になったりして暇をつぶすためだったのだ!。 ↓ Plut, SR. 2.1033e = SVF. 2.3b; 3.702   実際、クリュシッポスの弟子であり親類のアリストクレスはクリュシッポスの銅像を立てて次のような碑銘を刻んだ。   伯父*クリュシッポスにアリストクレオンは捧げる   アカデメイアの**蜘蛛の巣という銅から作られた[像を] しかるに、このような人物がストア派の長老・哲学者クリュシッポスである。彼は王の生活や市民の生活を讃え、学者の生と快楽の生は何ら異ならないと思っている。 *ヴィルヘルムに従いnennonと読む。 **ヴィラモヴィッツに従いAkademeikonと読む。 Plut., SR. 4.1034a=SVF.1.26; 3 Ant.66  (4)そして、アンティパトロスは『クレアンテスとクリュシッポスの相違』の中でこう叙述している。ゼノンとクレアンテスがアテナイ人になろうとしなかったのは、自らの祖国に不正を加えていると思われたくなかったからだ、と。ところで、彼等の行いが立派なものだったのなら、クリュシッポスは正しくないことをしたことになる、彼は市民登録をしたのだから。まぁこの点はおいておこう。 Plutarch,SR.1034b=SVF.3.698=FDS.54=LS.66B(クリュシッポス『弁論術論』)  またしても、クリュシッポスは『弁論術論』において、富や評判や健康も善いものであるから賢者は弁論をするだろうし政治にもたずさわるだろうと書きながら、彼等の言論は社会に何の還元もしないし社会的には無価値であり、教説は社会の要請や実践活動に応じたものではないなどという見解に同意している。 ↓ Plutarch,SR.1034b=SVF.1.264=LS.67C  さらに、ゼノンの説はこうである。神々の神殿を建立してはならない。なぜなら、神殿など大した価値もなく、また神聖なものでもないからである。つまり、大工や鍛冶屋の作ったものなど全然無価値なのである。 Plut, SR. 7.1034c = SVF. 1.200 = LS. 61C  (7)ゼノンは差異に応じた複数の徳がありうるとする点ではプラトンと同じであり、つまり思慮、勇気、節制、正義を認めているが、これらは不可分なものである一方、互いに違い異なるものだとしている。さて、それらの各々を定義してこう言っている。勇気は*持ちこたえるべき事柄における思慮である。節制は選択されるべき事柄における思慮である。それ固有の本来の意味で言われる思慮は活動すべき事柄における思慮である*。正義は配分されるべき事柄における思慮である。つまり、徳は一つのものであるが、物事に対する容態によって活動の際に異なるのだと考えているのである。 *…*欠損箇所はポーレンツに従う。 ↓ Plut, SR. 7.1034d = SVF. 1.373; 3.258 = LS. 61C (Aristo)  また、ゼノンだけがこうした事柄について明らかに自己撞着しているのではなく、クリュシッポスも、徳は一つであり他の徳は[単なる]状態であると言ったアリストンを非難しながら、このように個々の徳を定義するゼノンには賛成している。 ↓ Plut,SR.7.1034d=SVF.1.563=LS.61C (Cleanthes)  また、クレアンテスは『自然学備忘録』で「張力とは火の打撃であり、彼が負うべきこと*を成し遂げるのに十分な張力が魂に生ずるとそれは強さであり力であると言われる」と述べ、彼の言葉通りだと次のように続けている「この強さと力は、保つべきと思われることに生じると忍耐である。耐えるべきことにだと勇気である。与えるべき価値に関わると正義である。選択と忌避に関わると節制である」 *Ioppolo(1980), p.216 n.16を見よ ↓ Plut, SR. 8.1034e = SVF. 1.78 = LS.31L  (8)次のように言う人に対し  正邪を裁くな、双方の言い分を聞く前に 反対してゼノンは次のような議論を用いている。「第1発言者が立証したかどうかと、あるいは立証しなかったかどうかと第2発言者から聞くべきではない。前者の場合、追及は終わってしまうから。後者の場合、回答を求められて答えなくても、答えて口を鳴らしても同じことだから。さて、立証したかしなかったかのどちらかである。故に、第2発言者から聞くべきではない」 ↓ Plutarch, SR.1034e = SVF.1.260 = LS.31L  このような発言をしながら彼はプラトンの『国家』に反対することを書いたのである。 ↓ Plut, SR. 8.1034e = SVF.1.50 = LS.31L  そしてソフィスト論法を論駁し、弁証学はこういうことをできるのだから学ぶようにと弟子たちに命じたのである。 Plutarch,SR.9.1035a=SVF.2.42=LS.26C=FDS.24(体系)  (9)クリュシッポスはこう思っている。つまり、若者たちはまず論理に関わる事柄を聴講するべきであり、次いで倫理に関わる事柄を、そのあとで自然に関わる事柄を聴講するべきなのである、と。このような人々は神々に関わる言論を最後に受け取るべきであるからだ、というのである。彼はこのようなことをしばしば語っているのだが、『人生論』第4巻を提示すれば十分であろう。彼の言い方だとこうなっている。「まず第一に、古人たちによって正しく言われた事柄に従うと、哲学理論には3つの類がある。つまり、論理学、倫理学、自然学である。次に、これらの最初に論理学を置くべきであり、2番目に倫理学、3番目に自然学を置くべきである。自然学の究極は神々についての言論であるから、この言論の伝授は皆伝と言われているのである」 ↓ Plut,SR.9.1035b=SVF.2.30  しかし、この理論、つまり最後におかれねばならないと彼が言う、神々に関するそれを彼は常に倫理学の探究全体の前に置いて導入としているのだ。というのも、丁度国家に議決案を提出する人々が「幸運を」を前書きするように、彼も「神」「運命」「摂理」「宇宙は一つの力でまとめられた一つの、限界を持つものである」と前もって書かなければ、目的についても、正義についても、善いもの悪いものについても、婚姻や子の養育についても、法律や国制についても全く何も発言していないのは明白だからである。 ↓ これらのいずれも、自然学の理論に深く精通した人でなければ納得されないのである。 ↓ Plut,SR.1035c=SVF.3.326(クリュシッポス『神々について』)(正義の始点)  こうした事柄について彼が『神々について』第3巻で言っていることを聞きたまえ。「正義の他の起源や始まりを見出すことは不可能である、神や共通の本性によるそれを除いては。そこからして、こういったものは全てこの起源をもたねばならないのだ、善きことや悪しきことについて何事かを言おうとするならば」 ↓ Plut,SR.9.1035c=SVF.3.68=LS.60A(クリュシッポス『自然学命題集』)(倫理学の始点)  また『自然学命題集』ではこう言っている。「すなわち、論議が善いものと悪いものに関わるにしろ、諸徳に関わるにしろ、幸福に関わるにしろ、共通本性あるいは宇宙の機構から始める以外の仕方で詳論することはできないし、またそれ以上に適した仕方で詳論することもできない」と。その後ではまたこう言っている。「善いものと悪いものを巡る議論はこの点に結びつかねばならない。この問題は善いものと悪いものの峻別以外により善い始点も帰点ももたないし、自然に関わる理論もまさにこのことのために着手されるのであるから」と。 ↓ だから実に、自然学の理論は倫理のそれらに対し同時に先かつ後ということに、クリュシッポスに従えばなる。いやそれどころか、教説の順序の逆転は全くもってどうしようもないのだ、後者(倫理学)の後にあの前者(自然学)を配置すべきなのに、後者の何にしろ前者なしには全く理解できないというのであれば。またこんな人の自己撞着は明々白々である。自然学の理論を善いものや悪いもののそれの始点だとしておきながら、これをあの理論の前ではなく後に教授するよう命ずるのだから。 ↓ Plut,SR.9.1035e=SVF.2.50=FDS.25  こう言う人がいるとしよう。クリュシッポスは『理性使用論』で「最初に論理学を取り上げる人も他の学を全く控えるべきではなく、許容される範囲でああしたものにも手を付けるべきである」と書いているではないか、と。この人の言っていることは正しいが、他方クリュシッポスに責があることも確証するだろう。なぜなら、彼は自己撞着を犯しているからである。彼は時には神々に関する理論を最後に取り上げるよう命じ、最終のものとするよう言うが(それだから究極奥義とも呼ばれるのだということらしい)、また時には逆に最初にこの学をも教授されるべきであるとも言っているからである。 Plut, SR. 10.1035f=LS.31P  (10)反対の見解に向けて弁論することを端的に無意味だとはしないが、と彼は言う、注意深くそれを用いるように勧め、法廷におけるように、相手を擁護するのではなく彼等の説得的な論点を解消するようにするよう言っている。そして彼は言う。「その理由はこうだ。万事につけて判断保留を行う人々にとってはこうすることがふさわしく、彼等が望んでいることへの助けともなる。しかし、我々は知識を作り出し、それに従って整合した生き方をしようとしているので、それと反対に、入門者に徹頭徹尾基本原理を教えてそれを身に付けさせるべきなのである。そしてその際に、反対の議論に言及すべき機会があっても、法廷におけるように、それらの説得的な天を解消するように行うべきである」実際にこういうことを文字通り彼は述べている。さて、無茶苦茶なことを彼は考えているものだが、哲学者は反対の論を立てねばならず、それもその論を立証するためではなく、弁護士がするようにそれを結局だめにするためで、まるで真実のためではなく、ひたすら勝つために争うようなまねをせねばならない、と言っているので、その点は彼に反論して別の論考で述べておいた。 ↓ Plut,SR.10.1036b=SVF.2.32=LS.31P  彼自身少なからぬむしろ多くの箇所で自分の考えと反対の言説を提示しているが、それは力説され、真剣であり、またあまりに名声欲に満ちているので、彼自身の思想が全く分からなくなるほどである、とストア派の人々さえもが実際に述べている。彼等はこの人の鬼才に驚嘆する反面、彼等の思うところではカルネアデスは全く独自の見解を述べず、クリュシッポスの試論から始めて反対の方にもっていっては彼の論議を攻撃しているというのだ。そして、カルネアデスはしばしば「何たること!、あなたを滅ぼすであろうのはあなたの力なのです」と言うのだが、その意味は、教説を動かして打倒しようと思っている人々にクリュシッポスはみすみす自分で重大な始点を与えているということだというのだ。 ↓ Plut, SR.10.1036c = SVF.2.109 = LS.31P  さて、通念に抗するものとして公にされた論考について彼等ははったりをかまし大言壮語しているが、アカデメイア派全員の議論が一度にひとまとめにされても、クリュシッポスが感覚を糾弾するために書いた論考を打倒する力がないとでも言うようである。このこともそういうことを言う連中の経験の浅さと自惚れの証拠ではある。しかし他方、次のこともまた真実である。つまり、彼は今度は通念と感覚を擁護しようと望んだが、かつての自分よりも劣ったものにしかならず、その論考も以前のそれよりも弱いものにしかならなかった。その結果、彼は自己撞着をしているのである。つまり、彼は反対意見に言及するにしてもそれを擁護するためではなくそれが虚偽であることを証明するためにそうせよと命じているのに、自らは自分自身の教説の擁護者というよりは告発者として有能であり、他の人々に対しては反対意見に有利な言説によく気をつけるよう忠告し、それは把捉を引き離すものだからだと言っておきながら、自分は把捉を論証する議論よりもそれを破壊するそれの方を組み立てることに御熱心なのである。というより、彼自身がこのことを恐れているということは、『人生論』第4巻でそれとなく示しているが、]うであることは明白である。彼はこう書いている「反対の言説にしろ、反対意見に有利な説得的論拠にしろ、手当たり次第に示されるべきではなく、注意深くなされるべきである。そうして、こうした言説に引きずられた人が把捉を手放したり、容易に動揺するような把握しか持っていない人々がそうした反対論の解消法を聞いても解らないということがないようにせねばならない。なぜなら、一般通念に即して感覚対象であれ感覚に由来するその他のものであれを把握する人々は、メガラ派の質問やその他のもっと強力で多量の質問によってそうした通念を剥がされるなら、そうした折角把握したものを容易に放棄するからである」 ↓ Plut,SR.10.1036e=SVF.2.109=LS.31P  それだから、喜んでストア派の人々に尋ねたい。メガラ派の質問がクリュシッポスの6巻本の通念駁論よりも強力なものと考えているのかどうか、と。 ↓ =LS.31P あるいは、このことはクリュシッポス自身に訊ねねばならないのだろうか?というのも、見たまえ。『理性使用論』で彼はメガラ派の議論についてこんなことを書いているがそれはどういうことなのか。「何かこの類のことがスティルポンの言説に老いてもメネデモスのそれにおいても生じたのである。というのも、彼等はその知恵においてすばらしく評判がよかったのだが、今や彼等の議論は自分たちに対する非難に転じてしまったからだ。自分たちの議論は方や粗雑であり、方やあからさまな詭弁である、という」すると、すばらしいお方よ、彼等のこうした議論をあなたはあざ笑って、明らかに害悪を持っている以上問う者の恥であると呼んでいながら、しかしこうした議論が人々を把捉から引き離さないかと恐れているのである。しかし、彼自身はこんな本を書いて一般通念に敵対し、アルケシラオスを凌駕しようと御熱心なあまり自分が発見したことは何でもかんでもそれに付け加えているのに、読者がだれも混乱しないと思っていたのか?というのは、彼は一般通念に抗する試論を展開しているだけではなく、自分は法廷におけるように何かの感情に*とらわれて無駄口を叩いているとか無駄骨を折っているとか言っているKらである。 *bathousでなくpathousと読む。しかしそれでもこの一文は意味が判然としない。  彼が正反対のことを語っているという事実に異論を許さないために、さらに言うと、彼は『自然学命題集』で次のようなことを書いている。「何かを把握している人々も、可能な弁護を作ることで、その反対の事柄に有利な試論をなすことはできる。また時に、どちらの立場も把握してはいないのに、その各々に有利に事実を語ることもできる」しかし、『理性使用論』においてはこう言っている。理性の能力をその本来の仕事ではない目的に用いてはならない、武器をそうしてはならないように、と。そしてこう書いている。「というのも、真実の事柄を発見するために、そしてそれに助けとなるようにこそそれは用いるべきで、その反対の目的に用いてはならない。もっともそんなことをしている人々は多いが」この「多くの人々」というのは恐らく判断保留をする人々のことを言っているのであろう。 Plut, SR.10.1037a = SVF.2.109  しかし、自分ではこれほどの書物を『通念論駁』で書いておいて、何であれ自分が見い出したものがあればその中に付け加え、アルケシラオスを凌駕したいという野心に駆られているというのに、読者の誰一人として惑乱させることはないとでもはたしてあなたは思っていたのか。というのも、このお方は通念を批判する試論をただ展開しているというのでさえなく、法廷で何かの感情にとらわれて語っているかのように、多くの場合通念というのは無駄話をしているだけだとか無駄骨を折っているだけなのだ、と言っているからである。 ↓ それでは、反論の余地がないように言っておこう。 ↓ Plut, SR.10.1037b = SVF.2.128  方や彼は『自然学命題集』で次のように書いている。「何かを把捉していても、反対事柄を擁護する試論を試みることはできる。その場で可能な弁護論をなすことによって。また、時には肯否どちらの把捉に至っていなくても、どちらかに関してあり得る事柄を述べることもできる」 ↓ Plut, SR.10.1037b = SVF.2.129  しかし方や、『言理使用論』では、言理の能力を相応しからぬ事柄のために用いるべきではなく、それは武具をそうすべきでないのと同じである、と言っておいて、さらにこう言うのである。「というのも、真実の事柄の発見と、そうした事柄をまとめあげるためにそれは用いられるべきであって、反対のことに用いるべきではない。そんなことをしている人も大勢いるが」 Plut,SR.11.1037c=SVF.3.520(クリュシッポス『法論』?)(法と正当行為)  (11)ストア派の人々は言う、正当行為は法の命令であり、過誤は法の禁止であるので、法は劣った人々に多くのことを禁止するが、命令は何もしない。というのは、そんな人々は正当行為をなす能力がないからである。 ↓ 分からぬ者はいまいが、正当行為をなす能力がない者は過誤をなさずにはいられない。だから、彼らは法を矛盾したものにしているのだ。彼らによると、法は不可能なことを命令し、不可避なことを禁止するのである。なぜなら、節制することができない人は放埒にならずにはいられないし、思慮できない人は無思慮せずにはいられないからだ。 ↓ Plut,SR.11.1037d=SVF.2.171  ところが彼等自身はこのようにさえ言う。禁止する法はそれぞれ別のことを[同時に]語り、禁止し、命令しているのだ、と。つまり、「盗むな」と言う法は「盗むな」というただそれだけのことを語り、盗むことを禁止し、盗まないように命令しているのだ。 ↓ だから、法は劣った人々に何かを禁止するとすれば必ず命令も[同時に]しているというのだ。 ↓ Plut,SR.11.1037e=SVF3.521(クリュシッポス『法論』?)  さらに彼等が言うには、医者が生徒に切ることや焼くことを命令するときは「時宜を得、秩序にかなう仕方で」ということが省略されているのであり、音楽家が琴を弾くことや歌うことを命令するときは、調子に合い調和してということが省略されているので、無作法に悪くこうしたことをなす者は叱られるのである。なぜなら、正しく[なすように]と命令されたのに、この者どもは正しくなさなかったからである。従って、何か言行を召使いに命令した賢者が、時宜にかないしかるべき仕方でなさなかった場合にその者を叱るとすれば、その賢者は明らかに正当行為ではなく中庸行為を命令したのである。しかし、もし賢者が劣った人々に中庸行為を命令するとすれば、法からの命令がかようなものであってなぜいけないのか。 ↓ Plut,SR.11.1037f=SVF.3.175=LS.53R(クリュシッポス『法論』)  さらに少なくともこの人に従う限りでは、衝動とは、人に備わり何かをなすことをその人に命令する理である。そのように『法論』に書いてある。すると、反衝動とは禁止する理であり拒絶である、*ただし理にかなう限りでの。すなわちそのような反衝動は欲求と反対のものである。さて、彼に従うと、用心は*理にかなった拒絶である。そしてさらに、用心は禁止する理であり、賢者に備わる。というのも、用心することは賢者たちに固有のことであり、劣った人々には備わらないからである。さて、もし賢者の理が法と異なるものであるならば、賢者たちは用心を法と齟齬する理としてもつことになる。しかし、法が賢者の理に他ならないのであれば、法は賢者たちが用心していることをなさないよう禁止することになるのだ。 *…*チャーニスに従う。 ↓ Plut,SR.12.1038a=SVF.3.674(クリュシッポス『正当行為論』)  (12)クリュシッポスが言うには、劣者には何一つ有用ではなく、劣者は何に対する必要ももたず何も要しない。『正当行為論』第1巻でこういうことを言っておきながら、後で有用性と魅力は中間のものにまで及ぶと言っているが、彼等によればそれらは何一つとして有用なものではないはずである。また実に、劣者には何も親近でなく何も調和しないと次のような言葉で言っている。「洗練された人には何も疎遠ではないのと同様に、劣者には何も親近ではない、彼等のうち一方は善い人であり、もう一方は悪いからである」 ↓ Plut,SR.12.1038b=SVF.3.179  そうするとどうしてまた自然学の全ての書物で、また神かけて倫理学のそれでもうんざりするほど書くのだろうか、我々は生まれると直ちに自分自身・己の部分・出自に対して親近する、などと。 ↓ Plut,SR.12.1038b=SVF.1.197;2.724(クリュシッポス『正義論』)  また、『正義論』第1巻ではこう言っている「動物さえも必要に調和する形で自分自身のために出自に親近になるが、魚は別である。というのは稚魚は自らを自分自身で養うからである。逆に、感覚されえないものに対する感覚はなく、また親近になりえないものに対する親近性はないのである。というのはつまり、親近性とは親近なものに関わる感覚であり需要であると思われるから。 ↓ Plut,SR.13.1038c=SVF.3.526(クリュシッポス『自然論』)  (13)実際、この教説は彼等の主要教説に従う帰結であり、クリュシッポスも、多くの相反することを書いているとはいえ、悪徳が悪徳に、過誤が過誤に優るということはなく、徳が徳に、正当行為が正当行為にそうすることもないということに賛成している。*『自然論』第3巻には少なくともこう書いてあるのだが「神にふさわしいのは自分自身と自分の生を自尊すること、偉大な思慮を働かせること、またこう言うべきだとすれば、尊大になること**、自慢すること、そうする値のある生き方をしているものとして大言壮語することであるが、善い人も全員そうすることがふさわしいのである、いかなる点でも神に凌駕されないのだから」 *句読点はチャーニスに従う。 **チャーニスに従いhupsaucheneinと読む。 ↓ Plut,SR.13.1038e=SVF.3.226(クリュシッポス『神論』)(徳の増加)  さらに、彼が『神論』で「徳は増加も拡大もする」と言っているのはそのままにしておく、言葉づらにかかずらっていると思われないためにも。しかし実際、クリュシッポスはプラトンやその他の人々にこんな類のことでチクチクと噛付いているのではあるが。 ↓ Plut,SR.13.1038e=SVF.3.211(クリュシッポス『神論』)  徳に即してなされた全てのことを賞賛しないよう命じている以上、彼が明らかにしているのは正当行為に何らかの差異があるということなのだ。そして、彼は『神論』でこう言っている。「徳に即した活動は親近なものではあるが、それらにも例として引かれなかった*ものがある。例えば、勇敢に指を伸ばすこと、死に瀕した老婆から自制を持って立ち去ること、「3は全く4である」と聞く際性急でないこと。こうしたことで誰かを賞賛し讃えようとする人はひどく無味なものを曝すことになる」 *疑問もないわけではないがチャーニスに従いmeを挿入。彼の原文注を参照。この原文に関してはAlgra,K(1990),CQ.40を見よ。 ↓ Plut,SR.13.1039a=SVF.3.212(クリュシッポス『神論』)  これらに類似のことが『神論』第3巻で語られている。彼は言う「つまりさらに、思うに、徳から生じたそのような事柄に際して賞賛する人々は互いに疎遠になるだろう。例えば、死に瀕した老婆から遠ざかることや、忍耐をもって飛ぶ虫に刺されたのを耐えること」 Plut, SR. 1039b = SVF. 3.724(クリュシッポス『友愛論』)  さらに実際、『友愛論』第2巻において彼は、あらゆる過誤に際しても友愛は解消されるべきではないのだと教えつつ、次のような言葉でそれを表現した。「すなわち、あることは全く意に介せず、あることにはわずかな注意しか払わないのがよいし、またあることは大部分、あることは全面的に反故にするに値するだろう」もっと大変なことに、同じ巻の中ではこう言っている「我々はある人々とはより深く交際し、ある人々とはより浅い交際しかしない。だから、ある人々はより深い友であるが、ある人々はより浅いのだ。多くの場合にこのような差異が生じるので、これらの人々はかくかくの友愛に、別の人々にはかくかくの友愛にふさわしいのである。そして、これらの人々はかくかくの信用と共同に基づいて、別の人々はかくかくのそれらに基づいて尊重されることになるだろう」 クリュシッポスがここで「友愛」と言っているものは厳密な意味でのそれではないような気がする。何かすごく論調が『ラエリウス』に似ている気がするなぁ。 Plut,SR.13.1039c=SVF.3.29 (クリュシッポス『美徳論』)  さてまた、彼は立派なものだけが善いということを論証するために『美徳論』において次のような議論を用いている。「善いものは選択されるべきものである。選択されるべきものは好ましいものである。好ましいものは称賛されるべきものである。称賛されるべきものは立派なものである」さらにまた「善いものは喜ばしいものである。喜ばしいものは高尚なものである。高尚なものは立派なものである」 Plut,SR.14.1039d=SVF.3.761(クリュシッポス『勧哲論』)(死の意味)  つまり、『勧哲論』の中で、生き方を学習せず知識も持っていない者には生きることは何の値打ちもないと言うプラトンに反対してそのまま引用するとこういうことを言っている。「つまり、このような言説は自己矛盾しており勧哲するところも非常に少ない。なぜなら、まず第一に、生きていないことが我々によりよいことでありある意味死んだ方がいいと示して何か哲学以外のことをするように我々に勧める*からである。つまり、生きていないのに哲学することはできないから。また、永年醜く無知に生きてきた人でなければ思慮者にはなれない」そしてさらに論じ進めてこう言っている。「劣者にとって生にとどまることが適宜であることもある」と。その後では彼の言葉そのままだと「まず第一に、徳はそれだけだと我々が生きる理由とはならないし、同様に悪徳も我々が生から去るべき理由にはならないから」と。 *チャーニスによりprotrepsetaiと読む。 ↓ そして実際、彼が自分自身に対立していることを示すのにクリュシッポスの他の書物を取り上げる必要はない。それどころか、 ↓ Plut,SR.1039e=SVF.3.167  まさにこの書物の中である時はアンティステネスの言葉を引いてきて*賞賛している、つまり「智恵を用いるべきか、さもなくば輪縄を」というのを。また、テュルタイオスからも。  徳か死かという境界線に至る前に (そして実に、これらは他の何を明らかにしようとしているだろうか、生きていないことが悪い人や智恵のない人々にとっては生きていることよりも得になるということ以外に)しかしまたある時は、テオグニスを正して言うには「こんなことを言うべきではなかったのであり  貧乏から逃げよ むしろ  悪徳から逃げよ。そして深い海に  投げ込め、キュルノスよ、切り立った岩の下へと *チャーニスに従いprospheretaiと読む。 Plut,SR.1040a=SVF.3.313(クリュシッポス『正義論』)(正義 神)  プラトンその人に対抗して書かれた『正義論』という本の中で彼は冒頭直ちに神々についての論述に飛び込んでこう言っている。「ケパロスは神々からの畏怖によって不正から逸れているのだが、それでは間違いだ。それでは誤解を招きやすいし、神々による懲罰を語る言葉に反対するひねくれたもっともらしい多くの議論が反対方向に導いてしまう。あんな議論など、女共が子供を怠けさせないために使う鬼面や人形みたいなものだ」彼はこのようにプラトンの議論を粉砕しておいて、今度は他の本の中でエウリピデスの次のような詩句を何度も引用しては誉めているのだ。  それでもおられるのだ、誰かがこの言葉を笑いものにしたところで、  ゼウスが。そして神々は死すべき者の心持ちをきちんとご覧なのだ。 Plut,SR.1040c=SVF.3.23(クリュシッポス『正義論』)(快楽)  再び『正義論』の中で、快楽を善とはするが目的とはしない人々が正義を保つことも可能であると付け加えて、この点を確証して彼の言によるとこう言ったのである。「というのは、このものを依然善とはしておくが目的とはせず、反面、それ自体の故に選択されるべきもののうちに立派なものをも入れるとしたら、それだけで我々は正義を保持することができるのである、立派なものと正義が快楽よりもより善であるという余地を残すことによって。 ↓ この書では、快楽に関する彼の見解は以上の通りである。 ↓ Plut,SR.15.1040d=SVF.3.157(クリュシッポス『プラトンに対する正義論』)(価値)  しかし、『プラトンに対する(正義論)』では、健康が善である余地を残していると彼を非難してこう言っている。「正義だけでなく、大器も節制も他の全ての徳も滅んでしまうのだ、快楽であれ健康であれ他の何であれ、立派でないものを善とする余地を我々が残すとすれば」 Plut,SR.15.1040e=SVF.3.24  さて、齟齬する論述に弁明の余地さえ残さないためなのか、アリストテレスに[も]反対して『正義論』を著作し[こう言っている]。彼は言う「快楽が目的であるなら正義は損なわれ、正義とともに他の徳目のそれぞれも一緒に損なわれるとこの方が言っているのは正しくない。というのは、正義がこんなことを言う人々によって損なわれるというのは確かに正しいが、他の徳が残っているのを妨げるものは何もないからである、それ自体で選択されるものでないとしてもしかし少なくとも善いものであり喜ばしいものではあろうから」それから、個々の徳の名を挙げている。では、あの方の言を再び取り上げるのがよりよい。彼は言う「というのは、このような理論に従うと快楽が目的であることは自明ではあるが、この理論の全てが論理的に帰結するとは私には思えない。だからこう言うべきである。徳のうちにはそれ自体で選択されるべきではないものもあるし、悪徳にも拒絶すべきではないものもあるのであって、むしろこうしたものの全ては前におかれている目標に関連をもたねばならない、と。しかし実際、彼等に従うと勇気や節制や自制や忍耐やこれらに似た徳が善いものであり反対の悪徳が拒絶すべきものであり続Qるのを妨げるものは何もない」 Plut,SR.15.1041a=SVF.3.297(クリュシッポス『正義に関する論証』)(正当行為)  実際『正義に関する論証』において文字通りこう言っている。「全ての正当行為は適法行為であり正義行為でもある。自制、忍耐、思慮、勇気のどれかに少なくとも即してなされたことは正当行為である。従って正義行為でもある」 Plut,SR.16.1041b=SVF.3.288-9(クリュシッポス『プラトンに対する正義論』『正義に関する論証』)(対自正義)  さて、プラトンは不正を魂の不和であり内乱であると言っているので、不正はそれを持つ人々の内で力を失うことがなく、劣った人をかえって自分自身に対立するようにすることになるのである。クリュシッポスはこれを非難してこう言っている。「自分に不正をなすとは目茶苦茶な話である。なぜなら、不正とは他人に対するものであり自分自身に対するものではないからだ」と。しかし彼はこうした点を忘れ『正義に関する論証』では今度はこんなことを言っている。「不正をなす人は自分自身によって不正を加えられているし、自分自身に不正を加えている、他人に不正を加えるにしても、自分自身が自分自身に対して不法の原因となり不相応に自分自身に危害を加えるからである」と。『プラトンに対する[正義論]』では、不正は自分自身に対してではなく他人に対するものだと言われていることについて、次のようなことを述べている。「というのも、私的に不正な者などというのは存在しないし、不正な人々とは相反することを語る複数のかような人々の集合体だからである。言い換えれば、不正とは次のように理解される。自分たちに対してそのような状態にある複数の人々においては、誰であれかような人は誰にもKを伸ばすことができない、隣人たちに対してそのような状態にある限り」と。ところが『論証』では、不正な人は自分自身に対しても不正をなすということについて次のようなことを語っているのだ。「不法の片棒を担ぐ者となることを禁ずるのは法である。そして、不正を犯すことは不法である。さて、自分自身に対して不正をなすことの片棒を担ぐなら、その人は自分自身に対して不法をなす。また、一個人に対して不法を犯すものはあの不正を不正するのである。従って、誰にであれ不正を犯すものは自分自身にも不正を犯すことになるのだ」と。またこうも言っている。「過誤は加害の一種であり、過誤を犯す者は全て自分自身に対して過誤を犯す。すると、過誤を犯す者は全て不相応にも自分自身を害することになる。さて、この通りだとすると[不正をなす人は]自分自身に不正をなすのである」と。さらにこんなことも言っている。「他人に害される人は自分自身を害するし不相応にそうする。さて、このことが不正をなすということであった。従って、誰からであれ不正を受けるものは全て自分自身を害するのである」と。 (テキストの差異が激しいので全面的にChernissに従ってある。) Plut,SR.17.1041e=SVF.3.69=LS.60B(クリュシッポス『哲学の勧め』)(人間本性)  彼自身が導入し展開した、善いものと悪いものに関する議論は生に最も調和し、そして何よりも生得の先取観念に密着している、と彼は言う。実際、このことを彼は『哲学の勧め』第3巻で語ったのだ。 ↓ Plut,SR.17.1041e=SVF.3.139(クリュシッポス『哲学の勧め』)(人間本性)  第1巻では、この議論は人間を他の全てのものから引き離す、それらは我々に何の寄与もしないし幸福に向けても何の助けにならないからである、と言っている。 Plut,SR.1041f=SVF.3.545=LS.66A(クリュシッポス『正義論』)  彼は『正義論』第3巻においてこのようなことを言っている。「だから、あまりの偉大さと立派さのためにも、我々は作り話も同然のことを言っていると思われるかもしれない、そして人間並でない人間本性を越えたことを言っているように思われるかもしれない」 Plut,SR.1042a=SVF.3.55=LS.63H  (18)悪徳が不幸の本質であると彼は自然と倫理に関わる全ての本の中で論じて見せており、悪徳に則して生きることは不幸に生きることと同じであると叙述し主張する。 ↓ Plut,SR.1042a=SVF.3.760(クリュシッポス『自然論』)(自殺禁止)  しかし彼は『自然論』第3巻において「思慮ある者となる見込みが全くないとしても、全然生きないよりは無思慮な者として生きる方がより得になる」と前置きして、こうつけくわえる「というのも人間にとって善きものとはどのようなものかと言えば、ある仕方では悪いものでさえ中間にあるものよりは得になるという風であるのだ」。 ↓ Plut,SR.1042b=SVF.3.760 (優先物)  ところで、彼は別の本では無思慮な者どもには何一つ得にはならないと言いつつ、ここでは無思慮に生きることが得になると言っているが、このことはおいておこう。ともかく、中間にあると言われるものはストア派の人々によると悪しきものでも善きものでもないのだから、悪しきものがましであると言うとき、彼等はまさしく悪しくないものよりも悪しきもののほうがましであると、また不幸でないことよりも不幸であることの方がより得になると言っているのだ。そして、不幸であることよりも不幸でないことのほうが得にならないと考えているのだ。そこで、より得にならないということは、より害になるということでもある。だから、不幸でないことは不幸であることよりも害になることになる。 ↓ Plut,SR.1042b=SVF.3.760  というわけで、この笑止さを和らげようと思って、彼は悪しきものについて次のように付け加える「このものがより善いのではなく、理がより善いのだ。だから、依然無思慮な者であるにしても我々はこれとともに生きることを目指すのである」。さてまず第一に、悪しきものとは悪徳および悪徳に与るもののことに他ならないと彼は言う。しかし、悪徳は理に関わるものであり、さらに言えば逸脱した理なのである。従って、無思慮な者でありながらも理をもって生きるということは悪徳とともに生きることに他ならない。次に、無思慮な者として生きるということは不幸な者として生きるということである。それなのに、こんなものが中間にあるものよりもましであるなどどうして言えるのか。なぜなら、幸福であることよりも不幸である方が上であるなどと言うつもりはないだろうから。 ↓ Plut,SR.18.1042d=SVF.3.759  しかし、クリュシッポスは、生きながらえるとか、世を去るとかについては、前者をよいこと、後者を悪いことというように、一般的に、善い悪いの尺度によってはかるべきではなく、自然に従う中間的なものによってはからねばならない、と考えているとのことである。それ故、幸福な人にとって、自ら世を去ることが適宜行為になることもあるし、不幸な人にとって、生きながらえることが適宜行為になるということもある。(岩崎充胤訳) Plut,SR.19.1042e=SVF.3.85=LS.60R  善いものは悪いものに対して全面的な差異を備えている、とクリュシッポスは認める。そしてそれは必然的なことである、後者はそれを備えた人を直ちに極限に悲惨にする反面、前者は幸福の極みにもたらすとすれば。さて、善いものと悪いものは感覚されうるものであると彼は言い、『目的論』第1巻でこう書いている。「善いものと悪いものが感覚されうることは次のようなものについても十分言いうることだから。つまり、例えば苦痛や恐怖や類似の感情が外見とともに*感覚され得るだけでなく、泥棒や姦通や類似のものも感覚されることができる。また総じて、無思慮・臆病・少なからぬその他の悪徳もそうである。また、歓喜や親切やその他多くの正しい行いだけでなく、思慮や勇気や残りの徳もそうである」 *ロングとセドリーの解釈に従ってみた。 Plut,SR.1043a=SVF.3.703(専念)  (20)『人生論』という4巻本の一つのまとまった書物がある。その第4巻で彼は言っている。賢者は雑務に煩わされず、余計なことをせず、自分のことをする人である、と。彼の言葉はこうだ。「すなわち、思慮ある人は多忙でなく余計なことをせず自分のことをする人だと私は思う。自分のことをすることも余計なことをしないことも同様に洗練されたことなのだから」 ↓ Plut,SR.20.1043b=SVF.3.704  また、ほぼ同様のことを『それ自体で選択されるものについて』の中では次のような表現で述べたのである。「というのも、まさしく、平静な人生が何か危険のない確実なものを備えているのは明らかであり、これを見て取るのは多くの人々には全くできないことなのである」 ↓ しかし、神々は何もしないという理由で摂理を廃棄するエピクロスにとっては別に調子外れではないのも明らかである。 ↓ Plut,SR.1043b=SVF.3.691(賢者と王)  しかし、クリュシッポスその人は『人生論』第1巻でこう言っている。賢者は自ら進んであえて王となり*それから利益を得るだろう、と。また、自らが王となることが不可能ならば、王と共に生活し王と共に群を率いるだろうというのだ、スキタイのイダンテュルソスやポントスのレウコンがそうだったように。彼の発言そのものも提示しておこう。根音と最高音から調和音が生じるように、無活動やほんの少ししか活動しないことを選択した者の人生と、それからまたとにかく何らかの必然によってスキタイ人たちと共に騎馬したり、ボスポロスにいる僭主たちのことをなしたりする者のそれとが調和するかどうかを我々が知るためである。すなわち彼はこう言う。「以上のことを理解した上で、彼が有力者たちと共に進軍し生活するであろうことを再び考察しよう、前提となる考慮が似ているためにこうしたことに疑念を抱かない人々もいるが、その反面我々はこうしたことを根拠が似かよっているが故になおさら問題として残すのであるから」そしてすぐ後では。「訓練、つまり例えばレウコンやイダンテュルソスの下でなされているような習慣付け、においてある程度向上した者たちと共同するというだけのことではないの`」と言っている。 *クローネンベルグに従いanadexesthaiと読む。 ↓ アリストテレスがスタゲイラをそうしたようにオリュントスを立て直すのではないかと期待してアレクサンダーの下に漕ぎつけたというので、カリステネスを非難するが、その一方アレクサンダーの召還に応じたエポロス・クセノクラテス・メネデモスは誉め称えるという人々もいる。 ↓ Plut,SR.1043d=SVF.3.691  しかしクリュシッポスは利得のために賢者を頭からパンティカパイオンやスキタイ人の野蛮さの中に投げ込むのである。 ↓ Plut,SR.1043e=SVF.3.693 (賢者の利得)  すなわち、利益や利得のためにそのようなことをするということを次のような箇所も示している。「彼は賢者に調和する3つの利得を定めている。つまり、王からのそれ、友人たちからのそれ、これらに加えて3つ目にソフィスト活動からのそれ」 ↓ Plut,SR.1043e=SVF.3.153  さてしかし、しょっちゅう彼は次の詩句を称えては人をうんざりさせている。(エウリピデス断片884)   というのも、一体何が死すべき者どもに必要だというのか、この2つのもの以外に、   農神デメテルと、注ぐべき引割麦の飲み物以外に。 また、『自然論』の中ではこう言っている。「賢者が多大な財産を失うことがあったとしても、1ドラクマ投げ捨てたくらいにしか思わないだろう」 ↓ Plut,SR.1043e=SVF.3.701  しかし、そこでは彼を持ち上げて膨れ上げさせておきながら、ここでは再び賃金労働やソフィスト活動の中に投げ込むのである。というのも、金銭を乞うたり前もって受け取ったりもするだろうし、始める時に即受け取ることもあれば、生徒に講義している時にそうすることもあるだろうから。彼が言うには、後者の方がより親切ではあるが、しかし先に徴収しておく方がより確実である、先の場合だと不正が起こりうるから。さて、彼は次のように言う。「智恵をもつ人々が全て同じ仕方で金銭を求めるわけではない。むしろ、大多数の人々とは*異なり、好機が許しさえすれば、「人々を善い者にする、しかも1年で」などと公言するのではなく、個々人に**そうすることが調和のとれた時宜にかなう限りで***そうするのである」そしてまたこう詳論する。「好機をも知っていることになるだろう、大多数の人々が既にそうしているように、教示の導入と同時に直ちに講習料を取るべきか、それとも彼等に時間の猶予を与えるべきかどちらにすべきかについて。後の場合は不正をより許容しやすいのだが、より親切だとは思われるが」 *ビューリーに従いallos pletosと読む。 **ショーリーに従いpar' heautousと読む。 ***チャーニスに従いhosonとし、直前にセミコロンをおかない。 Plut,SR.1044a=SVF.3.579  というのも害を被っていない者が誰であれ不正されることはないからだ。ここからして、賢者は不正されることはないと別のいくつかの箇所では表明しておきながら、ここでは何らかの場合には不正を受け入れる場合もあるなどと言っている。 ↓ Plut,SR.1044b=SVF.3.706(クリュシッポス『国家論』) (市民生活)  『国家論』の中で彼は市民は快楽のために活動したり備えたりしているわけではないと言い、次の詩句を引用してエウリピデスを讃えていた。   というのも、一体何が死すべき者どもに必要だというのか、この2つのもの以外に、   農神デメテルと、注ぐべき引割麦の飲み物以外に。 さらに、この少し前には[シノペの]ディオゲネスを讃えていた。彼は人前で陰部をさすり、その場にいる人々にこう言った。「あぁ、おなかがへったのもこうやってさすれたらいいのに」 Plut,SR.1044d=SVF.3.714(クリュシッポス『国家論』)(市民生活)  彼は『国家論』の中で、我々はもう少しで便所を描くことになると言っているし、少し後では、ある人々は野良仕事を実った果実や花輪で飾っているし、孔雀や鳩や鶉やつぐみをそいつらが自分等に向かってクワックワッ鳴くように養っている、と言っている。私は彼に尋ねるのにやぶさかではない、蜂や蜂蜜についてはどう考えるのか、と。というのは、小虫どもが有用であることに、蜂が無用であると言うことは整合的だったろうから。しかし、もし彼がこういったものに国家の中で居場所を与えるのなら、視覚や聴覚に快いものから何故に市民を遠ざけるのか。 Plut,SR.1044f=SVF.3.753=LS.67F(クリュシッポス『哲学の勧め』)(禁忌)  (22)実際また、『哲学の勧め』の[第3巻*]において[クリュシッポスは]こう言っている。母親や姉妹や娘たちと交わること、ある種のものを食べること、寝室や葬式から神殿に赴くこと、は訳もなく非難されている、と。また彼は言う、獣に目を向けねばならない、そして彼らの下で生じていることからしてこうした類いのことは何ら常軌を逸したことではなく不自然なことでもないと自分で見て取らなければならない、と。なぜなら、これらの事柄に対し他の動物との比較をなすことは時宜にかなっている、つまり神聖な場所で性交することや出産することや死ぬことは神的なことを冒涜することではない、とも言っている。 *ラスムスの提案。原文に欠損が認められている。 ↓ Plut,SR.22.1045a=SVF.3.754  しかし『自然論』第5巻で今度はこう言っている。「川や泉に放尿するのをヘシオドスが禁じているのは善いことである。さらにもっと、神の祭壇や神殿に放尿することは控えねばならない。というのは、犬やロバやものの分からない子供がそういうことをしたとしてもそれは理に適ったことではないのだから。何ら注意も考慮もこうしたものに払っていないのだから」 ↓ だから、滅茶苦茶なのだ。理性のない動物に基づいて考えることをあそこでは時宜に適ったことと言い、ここでは理に反したことと言っているのだから。 Plut,SR.23.1045d=SVF.3.699(裁判)  しかし、こうしたことに正反対なことをこの人は言っているし、これまでのように競りにかけることもできないので、彼の発言そのものから引用することにしよう。すなわち、裁判に関する著作の中で互いに同着の走者を仮想して、審判はどうするのが適宜かという問題を投げかけるのである。彼は言う。「審判はどちらにするべきだろうか*。何か自分のものをそこで与えるのだから**どちらであれたまたま自分により親しい方に栄冠を与えようとするべきか。***あるいはむしろ、栄冠が両者共有のもとなるように望むべきか、そういうものの授与が当たる偶然にまかせて何らかの抽選がなされる****ように。当たる偶然というのは例えば、その他の点では同様な2つのドラクマ硬貨のうち一方に傾いてそれを取る時に起こるようなことだ」 *チャーニスに従い疑問文とする。 **チャーニスに従いcharisomenonとする。 ***サンドバッチに従いcharisomenon tropon tinaとする。 ****チャーニスに従いenallos etcを削除。 ↓ Plut,SR.1045e=SVF.3.174(クリュシッポス『適宜行為論』)  また『適宜行為論』第6巻では、それほど問題としたり注意を払ったりする価値のない事柄もあると言い、このような事項については心の行き当たりばったりの偶然に委ね、選択は抽選で決めるべきだと考える。彼は言う。「例えば、何かそのような2つのドラクマ硬貨をそこそこ吟味した人のうち、ある者はこちらがよいといい、またある者は別のがいいと言うが、とらねばならないのはそのうちの1つである、というような場合である。そのようなものはさらに詳しい吟味に委ね、我々がどれをとることになろうと、それを何か別の*理由に基づいて抽選するのである、それらのうちの悪い方をとることになったとしても」 *Chernissによりkat' allonと読む。 ↓ こうした「抽選」「心の行き当たりばったりの偶然」という事柄において、善悪無記物に関わる、原理を全く欠いた受容ということを彼は導入するのである。 ↓ Plut,SR.24.1045f=SVF.2.126(クリュシッポス『弁論術論』)  (24)『弁証術論』第3巻で「プラトンは弁証法に尽力したし、アリストテレス及びポレモンやストラトンに至る人々もそうであったし、何よりもソクラテスがそうだった」と言っておいてから、また「これほど多くのこれほど優れたこのような人々とであればすすんで共に過ちを犯そうとする人さえいるだろう」言ってのけ、次のような論を運んでいる。「というのは、もし片手間にこうした事柄について彼等が述べたのだとすれば、直ちに人はこのような問題を嘲笑するかもしれない。しかし、かのように彼等は細心にわたってこの術が最大で最も必要不可欠な能力の一つであると語ったのであるから、彼等がこの問題において誤っていたというのは説得的ではない、総じて彼等がこれほどの人々であることは我々もよくわきまえていることだから」 ↓ Plut,SR.24.1046a=SVF.2.31  こう言う人もいることだろう。それではなぜあなたは自らこれほど大勢のこれほどまでの人々に論争を挑んでは論駁するのをやめず、あなたも認めているように、彼等は最も重要で重大な事柄において完全に誤っているなどと言うのか。というのも、彼等も問答法については真剣に著述したが、原理や目的や神々や正義に関しては片手間に戯れて論じたということはないのだから。こうした問題における彼等の理論は曖昧模糊としており自己矛盾しているし、他にも数多くの誤りを持っているとクリュシッポスは注意しているのである。 ↓ Plut,SR.25.1046b=SVF.3.872(クリュシッポス『正当行為論』『善論』)(性悪)  (25)他人の不幸に喜ぶことを彼はありえないことだとどこかで言っている。洗練された人々は誰も他人の災悪に歓喜を覚えることはないのだから、劣者は誰も全く歓喜を経験しないというわけである。ところで、彼は『善論』第2巻では嫉妬を「他人が善いことに遭っていることに対する苦痛」と考えている。「自分が優位に立つために隣人を貶めようと思っている人々が抱く感情だから」というわけである。そして、他人の不幸を喜ぶことをこれに結びつけてこう言っている。「これに伴って、他人の不幸を喜ぶことは生じるのであるが、それは隣人が劣ったものであることを同様の理由から望む場合なのである。しかし、自然に適った動きに従って気持ちを転じる場合には哀れみが生じる」するとここから明らかなように、ここでは他人の不幸を喜ぶことが嫉妬や憐憫と同様存在しうる予知を認めているのに、他の箇所では悪を嫌うことや醜い吝嗇と同様ありえないことだと言っているのである。 ↓ Plut,SR.26.1046c=SVF.3.54  (26)彼は多くの箇所で、より長い期間過ごせばそれだけよりいっそう幸福になるということはなく、それどころかほんの一瞬幸福に与っただけの人と同じだけ同程度に幸福であるにすぎないと言っている。 ↓ Plut,SR.26.1046c=3.210(クリュシッポス『倫理学問題集』)  しかし、また多くのところでは、瞬く閃光のような瞬間的な思慮を得るには何も指一本伸ばすにも及ばないと言っている。この問題については『倫理学問題集』第6巻において彼自身が書いていることを挙げれば十分だろう。全ての善いものが歓喜に関して平等なわけではなく、全ての正当行為が厳粛に語るに値するわけではないと前置きして、彼はこう続けている。「ほんの一瞬、あるいは臨終のときにだけ思慮を得る人がいたとしても、そのくらい得られる思慮のためには指一本伸ばすにも及ばないことだろう」 Plut,SR.26.1046e=SVF.3.53(徳と期間)  さて、エピクロスのようにもし彼が幸福を作り出す善と思慮をみなしていたとしたら、この教説の無茶苦茶さと常識外れな物言いだけを槍玉にあげればよい。しかし、思慮は幸福に他ならずむしろ幸福そのものなのだから、一瞬の幸福と永続的な幸福は等しく選択に値すると言いながら、一瞬のそれは何の価値もないと言うことがどうして齟齬しないことがあろうか。 ↓ Plutarch,SR.24.1046e=SVF.3.299(徳の相互随伴)  彼等が言うには、徳目は相互に随伴するのだが、それは一つの徳をもつ者は全ての徳をもつということによるだけでなく、一つの徳に即して何か活動する者は全ての徳に即して活動するということにもよる。なぜなら、全ての徳をもっていないなら人は完成された人ではないし、全ての徳に即してなされていない行為も完成されたものではないから。 ↓ Plutarch,SR.27.1046f=SVF.3.243(有徳者とその活動)  しかし実際、『倫理学探求』第6巻でクリュシッポスが言うところでは、洗練された人も常に勇敢なわけではなく、劣った者も常に臆病なわけではないのであって、むしろ何か差し迫った事柄の表象において前者は判断に踏みとどまり、後者は持ち場を離れるというのでなければならない。また彼が言うには、劣った者が常に放埒しているわけではないということももっともなことである。 Plut, SR. 28.1047a=SVF.2.297=FDS.51=LS.31H  (28)弁論術を彼は実際に使われる言葉の秩序と配列に関する技術と定義している。さらに第1巻では次のようなことも書いている。「思うに、言葉そのものにおいてそれらが大らかで滑らかな秩序を持っているように気を払うだけではなく、弁論に親近な表現を声の調子を強めることや、表情や手振りの形を整えることによって心がけねばならない」このように、彼はここでは大変な熱意で常軌を逸するほどであるのに、同じ本で母音連続について触れた際には今度はこんなことを言っている「もっとよい点を踏まえるならば、こうした点だけではなく、ある種の曖昧さや不足、そして神掛けて、破格語法も、他の少なからぬ人々がそれを恥じるとはいえ、見のがされねばならない」 Plut,SR.29.1047c=SVF.2.210  しかしながら実際、彼が言うには10の命題を絡み合わせてできるものは数にして1千万を越えるらしいのだが、そのことを彼は自分で入念に調べたわけでもなければ、経験を積んだ人々の手を借りて真実を調査したわけでもないのだ。 ↓ しかしながら、プラトンは大変高名な医者たちを証人として持っており、それは例えばヒポクラテス、ピリスティオン、ヒポクラテス派のディオクシッポスたちなのだが、詩人のうちではエウリピデス、アルカイオス、エウポリス、エラトステネスらをそういうものとしていたのであって、飲み込まれたものが肺を通過すると彼等は言っている。 ↓ Plut,SR.29.1047d=SVF.2.210  それに比べて、クリュシッポスは算術家全員が論破している。そのうちとりわけヒッパルコスが証明していることは、計算の間違いは彼のせいで大変なものになってしまった、もし仮に肯定命題が103049の複合命題を、否定命題が310952のそれを作り出すとするならば、ということである。 ↓ Plut,SR.30.1047e=SVF.1.192;3.138(優先物)  酢がさしてしまい酒酢としても酒としても取引されることができなくなってしまったものにあたるようなことがゼノンの考えに浮かんだと古い人々のうちのある者どもは言った。というのも、彼の考えでは優先的なものは善としてある性向でも善悪無記なものとしてあるそれでもないからである。しかし、クリュシッポスはこの問題をさらに理論として成り立ちにくいものにしてしまった。つまり彼は一方でこう言っているし「富、健康、苦しみのなさ、五体満足なこと、これらを大したことのないものとし、これらにこだわらない人々は気違いである」、他方ではヘシオドスの次の一節(『仕事と日々』299)を引用している。   神の如き、ペルセスよ、働くがよい しかし彼がそう言うとき、その反対のことを換言することが気違い沙汰だと言っているのだ。つまり、   神の如き、ペルセスよ、働くな というわけだ。 ↓ Plut,SR.1047f=SVF.3.693(クリュシッポス『人生論』)(賢者)  利得のために王たちの中にさえ賢者は伍することもあるだろうと彼は『人生論』の中で言っている。また、また金銭のために彼等の中でソフィスト活動もするだろうとも言う。彼等から利得を得、彼等に学識を授ける取引をするのである。 ↓ Plut,SR.30.1047f=SVF.3.688(クリュシッポス『適宜行為論』)(賢者の行為)  また、『適宜行為論』第7巻ではそのことに対して銀貨をもらいさえすれば3回回ることだってする、と言っている。 ↓ Plut, SR. 30.1048a = SVF. 3.137 = LS. 58H(クリュシッポス『善論』)(日常言語)  また、『善論』第1巻では、優先物を善と、反対のものを悪と呼ぼうとする人々にある意味で同意し譲歩している、次のような言い方で。「もしこのように考えを変えて、あの善悪無記なものどものうち何かを善と、別の何かを悪と呼ぼうとする人がいるとしたら、彼が問題をこの事柄に限り、他の問題に敷衍しない限りは、それを許容すべきである、なぜなら*彼は意味の問題においては誤っておらず、他の点では言葉の習慣をうまくついているからである」 *欠損箇所はサンドバッチの提案に従いapodekteon hosと読む。 ↓ Plut,SR.30.1048a=SVF.3.139(クリュシッポス『哲学の勧め』)  このようにここでは優先物は善に密接に結びつき混じり合っているが、また別のところでは、そのようなもののいずれもそれ自体としては何ら我々のためにならないのだが理が我々を全てのそのようなものから引き離し背反させるのだ、と言っている。実際、このことは『哲学の勧め』第1巻に書いてある。 ↓ Plut,SR.1048b=SVF.3.153  また、『自然論』第3巻では、王となり裕福である人のうちには恵まれた者とされるのもいるが、それは黄金の溲瓶や房を用いる者が恵まれた者とされるようなものである、と言っている。しかし、善い人にとっては財産を失うことはドラクマ硬貨をなくすようなもので、病気になるのは不機嫌になるようなものであるという。 Plut,SR.31.1048c=SVF.3.123(善悪無記)  さらに、彼等は論証によって自己撞着をますますあらわにしている。つまり、善くも悪くも使用されうるものは善でも悪でもないと彼等は言うのだ。しかし、智恵のない全ての人々は富や健康や体力を悪く使用している。だからこういったものは何ら善ではない。 Plut,SR.31.1048d=SVF.3.215  そうするともし、神は徳を人々に与えないが、立派なものがそれ自体で選択に値するものであり、また富や健康が徳とは別に与えられたのだとすると、善く使用する者たちにではなくむしろ悪くそうする者どもに与えることになる。つまり、有害に、醜く、破滅的に使う者どもに。しかしながら、もし神々が徳をそなえもてるとしたら、そなえもっていない神々は役立たずだということになる。また、人々を善くできないとしたら、利益をもたらすこともできない、徳以外の何一つとして善でも有益でもないから。何か別の仕方で善い者となった人々が徳や力に即して判断するということもありえない。というのは、神々を善い人々が判断するのも徳と力に即してであるから。その結果、神々は人間に利益を与えることもなければ与えられることもまたないということになる。 ↓ Plut,SR.31.1048e=SVF.3.668;3.662(賢者 神 人生)  さらに、クリュシッポスは自分の知人や指導者の誰も優れた人だとはしていない。すると、その他の人間については、彼等が説くようなこと以外の一体何を彼等は考えているのだろうか。つまり、全員気が違っており、愚かで、不敬虔であり、不法であり不運と完全な悲惨の極みに達していると考えるのか。しかしそれでも、我々の下でかくも無能になされている事柄も神の配慮に従って整えられているというのではないか。実際、気が変わった神々が我々を害し悪くなし歪め再び亡きものに帰そうとしても、我々が今あるよりも悪い状態に据えることはできないだろう。クリュシッポスは生というものが悪徳や悲惨のより高い度合いを受け容れることはないとしているからである。従って、もし生というものが声をもっていたら、自分でヘラクレスの言葉を語ることだろう。   私は悪いことで満ちている、もう受け入れる余地はない かくして、神々と人間に関するクリュシッポスの説ほど互いに相克するものを見出せるわけがない。神々は最善のことを配慮できるが、人間は最悪のことをなしうるのだなどと言っているのだから。 *句読点など全面的にチャーニスに従う Plut,SR,32.1049a=SVF.3.705(クリュシッポス『正義論』)(家畜)  ピュタゴラス派にはこの人を正義に関する書物の中で雄鳥について書いているといってけなしている人もいる。「これらは役に立つように生まれたのだ。というのも、こいつらは我々を目覚ませ、サソリをつまみ出し、戦勝への欲求を生み出させ我々を戦に駆り立てるからだ。しかしながら、雛鳥の数が必要以上にならないようにこいつらも食べてしまわねばならない」 Plut,SR.34.1049f=SVF.2.937(『自然論』)(宇宙本性 運命)  実際、まず『自然論』第1巻において、生成する多様なものを多様な仕方で交合させ混合させたカクテルに永遠の運動をなぞらえて次のようなことを述べた。「全宇宙の家政はこのように展開するのだから、我々がどのような状態にあろうとそれに即してあるのが必然なのだ。つまり、己固有の本性に反して病んでいようが、あるいは片輪になっていようが、文法家や音楽家になっていようが我々は宇宙内秩序に従って必然的にそうなっているのだ」そして少し後では再びこう言っている。「同じ理屈に従って、我々の徳と悪徳についても、また技術と不手際全体についても、前に私が言ったのと類似のことを我々は主張する」また少し後では曖昧な言い方を全く廃してこう言っている。「どんな小さい部分であれ、共通本性とその理に従う以外の仕方で生じることはできないのだ」さて、共通本性つまり本性という共通の理とは運命であり予兆でありゼウスであるのだが、こんなことは逆足族にだって思いもよらないことである。実に、あらゆるところでこんなことが彼らによってつぶやかれているのだ。   神意は為し遂げられた こうホメロスが言ったのは正しかったと彼等は言っている。万物がそれに従って治められている運命や、全宇宙の本性のことを彼は言っていたからだというのだ。 Plut., SR. 34.1050b = SVF. 2.937 = LS. 54T  さて実際、エピクロスはああだこうだとごねたり策を労したりしているのだが、それは永遠に動き続ける運動から意思を解放し自由にするためであり、それはそもそも悪徳が非難されないままである余地を残したくないからであった。しかし他方、クリュシッポスは開かれた言論の自由とやらをこの悪徳というものに与えている。運命に則った必然によってだけではなく、神の理すなわち最高の本性にも則してそれが引き起こされたからだというのである。さらに、文字通り次のような主張も見られる。「というのは、共通本性は全てのものに行き渡っているのだから、全宇宙およびその部分において生じるものは何であれ全て何らかの点でかのもの、もっと言えばかのものの秩序正しく調和している理に則して生じねばならないだろう。その理由は、宇宙内秩序に外部から立ちはだかるものはないのだし、全宇宙のいかなる部分も共通本性に則すことから動かされ一定の状態をもつのに違いないからである」すると、宇宙の部分の状態や運動とは何なのか。明らかに、様々な悪徳と病的状態、つまり金銭欲、色欲、名誉欲、憶病、不正は[ある種の]状態である。また、姦通、窃盗、裏切、殺人、父殺しは[ある種の]運動である。ッリュシッポスは大小に関わらずこれらのものは何ら神の理にも法にも正義にも摂理にも反していないと思っているのだ。従って、無法は法律に反せず、不正は正義に反せず、悪行は摂理に反せず生ずるということになる。 Plut., SR. 1052f = SVF. 2.806  (41)胎児は子宮で養われるのが本性に適っており、それは植物のようにしてなのだ、と彼はみなしている。そして、出生すると、気息は空気で冷やされて硬化して変質し、生物となる。そこからして、霊魂が冷却にちなんで名付けられているのはあながち間違っていない、と彼は考える。  しかし、彼自身が今度は「魂は本性よりも細かく精妙である」と考えるのだから、自己撞着している。…  魂の生成に関する彼自身の論は教説と齟齬する論証を含んでいる。  つまり、一方で彼はこう言うのだ、魂が生成するのは胎児が産み落とされる時であり、それはちょうど気息が変質し冷却されて硬化するのと同じである、と。しかし他方、魂が生成したものであること、及び魂はより後に生成したものであることの論証として彼が用いるのはとりわけ、子が両親に気質と人柄の点でとてもよく似るということである。…  さて、誰かがこう言うとしよう。つまり、子が親に似ていることは身体の混合によって生ずる以上、魂は生成してから変質するのである、と言うとすれば、その者は魂が生成するということの証拠を台無しにするのである。というのは、先のように魂は生成しないはずなのに、肉体に入り込むと、類似に関わる混合によって変質する、ということになってしまうからである。 Plut., SR. 1054e = SVF. 2.550 = LS.29D  この点に関しては、『運動論』第2巻から彼の言葉をひいてくれば十分である。というのも、彼はこう言うからだ。彼はまずこう前置きする。「宇宙は完成された物体であるが、宇宙の部分々々はそうではない。全体との関係においてある様態にあり、それ自体において在るのではないから」そして宇宙の運動についてはこう詳論する。「宇宙そのものの存続と凝集へと全部分を通じて動くように本性上なっており、分解や分散へそうするのではない」こう前置きしておいて、彼は次のことを述べる。「このように、宇宙全体は同じものを目指して動いており、その部分々々も物体の本性上同じ運動を持っているのだから、全ての物体には宇宙の中心に向かう第一の、本性に即した運動があるというのももっともであり、それはそれ自身に向かってそのように動いている宇宙にとってもそうであるし、部分々々にとっても、それが部分である以上、そうなのである。 Plut, SR. 46.1055d = SVF.2.202  (46)さて、可能な事柄に関する議論は運命に関する彼自身の議論とどうして矛盾しないであろうか。というのも、真であるか将来真であることが可能なことである、というのではなく、ディオドロスに従って、「生じると認められることは全て、たとえ将来[現実にそのことが]生じなかったとしても、可能な事柄である」とするのならば、運命に従わない事柄の多くが可能な事柄となってしまうだろうから。すると、運命は、決して打負かされず、無理矢理変えられることのない、全ての物事を凌駕するその力を損なうか、あるいは、運命がクリュシッポスの説くようなものであるならば、生じると認められる事柄がしばしば不可能な事柄の内に入れられてしまうであろう。 Plut, SR. 47.1056b = SVF.2.997: 937 = LS.56R  なぜなら、人々が思惑するのも加害するのも運命のせいだというのでないならば、人々が正当行為をしたり思慮したり確実な理解をしたり利益をもたらし合ったりするのも運命のせいではなくなり、運命が全ての物事の原因であるという説はどこかに行ってしまう。さて、運命はこうした事柄の十分な原因ではなく単に契機に過ぎないとしたのがクリュシッポスだという人はこの論点においてもまた己に矛盾することを論証する破目になるだろう。この論点において彼はゼウスに関する次のホメロスの発言を不自然なほどに讃えている。   [ゼウス様が]何を君たち各々に下したとしてもそれに従え、悪いことであろうが   善いことであろうが。 エウリピデスもこう言っている。   おぉゼウスよ、それではどうして、哀れな人間共が   思慮を働かせると私は述べられえましょう。なぜなら、あなた様に私共はすがり付き   行うことといえば、あなた様がたまたま思い付きさえすればその限りのことなのです そして、こうした詩句に調和する事柄をクリュシッポス本人は書いており、挙句の果てにはこんなことまで言う。どんな些細なものも神の理に従って止められたり動かされたりするのに他ならなず、神の理とは運命と同じものである、と。さらに実際、契機的原因は十分原因よりも弱く、逸脱させる物事によって支配されるなら実現には至らない。しかし、運命は不動で妨害を受けず不変の原因であると彼は明言しており、自分で「不変なるもの」「必然」「宿命」と呼んでいる。全てのものに完遂をもたらすと考えてのことである。 Plut,SR.47.1057a=SVF.3.177; 3 Antipater 19  そして実に、アカデメイア派との論争においてさえクリュシッポスその人やアンティパトロスにとって大半の苦心は、同意がなければ行為も衝動もないということに関っていた。それどころか、適切な表象が生じれば承認や同意がなくとも直ちに衝動が起こるなどと説く人々は中身のないことを仮定し紛い物の理屈を語っているとさえ何とかして言おうとしたのだ。また再びクリュシッポスはこうも言っている。神や賢者も虚偽の表象を作り出すことはあるのだが、それは我々と違って同意や承認をしていないということではなく、表象に対して行為や衝動をしないというそれだけの違いなのである。かたや劣った者である我々は弱さ故にそのような表象に同意してしまうのである。さて、こうした言説の混乱と自己撞着は見出されにくいものではない。というのは、同意ではなく、表象が与えられたものに対する行為だけを欠いている者は、神であれ賢者であれ、行為には表象で十分であり同意は余計であるということを知っているのである。それ故、もし、同意を欠いた表象が行為につながる衝動を促さないということを知っている人が虚偽だがもっともらしい表象を作り出したとしたら、意図的に把捉的でないものに同意して落ち込み過誤を犯したかどで責めがあることになる。//