セクストス・エムピリコス『諸学者論駁』 Sextus,M.1.17=SVF.2.330=LS.27C(レクトン)  さてまた、何かが教示されるとすると、何ものでもないものを通じて教示されるか、さもなくば何ものかを通じてである。しかし、何ものでもないものを通じて教示されることは不可能である。なぜなら、こういうものは思考に基盤をもてないからである、ストア派の人々に従うと。 Sextus, M. 1.76 = FDS.66(?)  (76)カイリスは『文法論』第1巻でこう言っている。完璧な文法は技術から発した性向であり、それはギリシャにおいて話される内容(レクトン)や思考されることを最も厳格に判別できる。それも他の技術によらないものをそうできるのである。この最後の句を加えたのは余計なことではない。(77)なぜなら、ギリシャにおいて話され思考されることには技術によるものもあればそうでないものもあるのだが、文法に関する技術や性向が技術によるそれ一般を対象とするとは思えないからである。例えばそれが、音楽においては4つの音による調和や、そうしたものを集めた作品の展開に関わり、数学においては円の位置や蝕に関わるということはないのである。そして、こうしたことは他の技術の問題だと考えねばならない。つまり、まさにこうした種の学による事柄の何にも文法は関わらないのであり、むしろこうした学術の域外にある話され思考される事柄に関する一つの方法なのである。(78)思考されることに関わるというのは、例えば「し」が4、「小谷」や「窪地」が到達可能な場所であるというようなことである。話されること、それも方言に関わるものにそうするというのは、例えばこれはドーリア方言で言われており、これはアイオリア方言であるというようなことについてである。そして、ストア派の人々がまさしくそう言っているように、これは意味されるものではなくて、逆に意味するものの問題なのである。なぜなら、思考されるものが関わるのは意味されるものだから。 Sextus, M.2.6=SVF.2.294+1.75=FDS.35  (6)プラトンの聴講者クセノクラテスとストア派の哲学者達は弁論術をよく語ることの知識であると言った。とはいえ、クセノクラテスは知識を、古来の習慣に従って、「技術」の代替と理解していたし、それとはまた別に、ストア派の人々は確固とした把捉(これは賢者だけに生ずる)と言うかわりに「知識」と言ったのであるが。しかし両者とも語ることは弁証することとは異なると理解している。後者は簡潔さに基づいており、理解することや説明を与えることは弁証術の仕事だからである。(7)他方、語ることは長さと委曲を尽くした論述のうちにあり、これは弁論術固有の検討対象である。思うに、ここからしてキティオンのゼノンも、弁証と弁論はどの点で異なるかと尋ねられた時、拳を丸めてからもう一度開いて「この点でだ」と言ったのである。つまり、拳を丸めることで、弁証固有の特徴を丸く短いこととし、手を広げて指を伸ばすことで弁論術の働き(機能)の広さを謎めかして表現したのである。 Sextus Empiricus, M. 2.10 = SVF. 1.73  さて、全ての技術は機構であるが、生活に役立つ目的に関わりを持ち、それに向けて共に働く様々な把捉からなっている。 Sextus,M.7.12=SVF.1.356(アリストン)(中間物に関わる理論は無用)  キオスのアリストンは、悪いものから哲学しても無益なものしか得られないというので、自然と論理に関わる観想から全く逸れただけでなく、倫理に関わる部門のあるものも締め出したのである、例えば勧告と助言の部門を。というのは、こうしたものは乳母や教師に当てはまることで、幸せに生きるには徳には親近で悪徳には疎遠でこれらの中間のものは足蹴にする理論で十分であるという。最後のものに乱されて多くの人々は悲惨になっているという。 Sextus, M. 7.16=FDS.20  (16)この人々は問題に取り組みはしたが足りなかった。それを別とすれば、この人達の他により完全な形で考察した人々もいた。つまり、 ↓ Sextus, M.7.16 = SVF. 2.38 = EK. 88 = LS. 26D = FDS.20(哲学体系) 哲学のうちのあるものは自然に関わり、あるものは倫理に関わり、あるものは論理に関わると言う人々もいる。そうした人々の中でも、プラトンはほとんど創始者であって、自然や人柄(倫理)について沢山のことを、言論(論理)についても少なからぬことを対話したのである。そして、最も有名なところでは、クセノクラテスの一派、逍遥学派の人々、さらにはストア派の人々がこの分類を採っている。(17)そこで、それも一理あるのだが、彼等は哲学を豊饒な果樹になぞらえる。つまり、自然に関わるものを果樹の高さに、倫理に関わるものを果実という収穫物に、論理に関わる部分を柵の堅固さに例えるのである。(18)また、哲学は卵に似ていると言う人々もいる。すなわち、ひながそれであると言われる黄身に似ているのは倫理に関わるもので、黄身の栄養である白身に似ているのは自然に関わる部分で、その外の殻に似ているのは論理に関わるものであるというのだ((19)しかしポセイドニオスは、哲学の諸部分は相互に分離できないが果樹は果実とは別のものに見えるし柵は果樹から離れているので、哲学を動物になぞらえる方がいいとした。つまり、自然学を血肉に、論理学を骨と筋に、倫理学を魂になぞらえるべきだというのである)。 ↓ =FDS.20  (20)ところで実際は、哲学は三部分であるのはともかく、第一の部分を自然学と定める人々もいる。その理由は、まず時間的に言っても、自然に関する学問は最も古いからであり、その証拠に今日に至るまで最初の哲学者たちは自然学者と呼ばれてきたのである。また他方、順序から言っても、最初に宇宙全体の問題を取り上げ、しかる後に個別の問題や人間の問題を考察するのは調和に適っている、という理由もある。(21)しかしその反面、倫理の諸問題から始めた人々もいたが、それはこれらがより必要に迫られた問題であって、幸福に導くものでもあると考えてのことだった。まさしく、ソクラテスも他ならぬこのことを説いたのであり、探求するのは他でもない   あなたのおうちのことどもを、善いにつけ悪いにつけ、話して下さるでしょう(『オデュッセイア』4.392呉訳) に限ると言っていたのである。(22)エピクロス派の人々は論理に関わる諸問題から入る。というのも、彼等は規範の問題を第一に考察し、それは明白な事柄と不明瞭な事柄、及びそれらに続く事柄を取り扱うからである。 ↓ Sextus Empiricus, M. 7.22 = SVF. 2.44  ストア派の人々は自らも、論理に関わるものから始め2番目に倫理に関わるものをすると言っている。また、自然に関わるものは究極のものとされていると言っている。(23)すなわち、まず最初に所与の事柄に対する揺るぎない観想へと智恵を固めるべきであるというのだ。弁証の部位は思惟のうちで最も堅固である。2番目のものとして名が挙がるのは、人柄を最善のものとするための倫理に関わる観想である。というのも、このものの伝授が無害なのは論理に関わるそれが前もって与えられている場合なのだから。最後にもたらされるのは自然に関わる観想である。なぜなら、このものは最も神的であり、深い注意を必要とするからである。 Sextus, M.7.35 = SVF.2.107  もちろん、理知的なこのものにしてもさらに下位区分することができる。あるものは「何によって」かということについての規範であるとか、あるものは「何を通じて」かということの、あるものは延長や状態についての、とか言うことによって。「何によって」は例えば「人間」、「何を通じて」は「感覚」、三番目のものについては「表象の拡張」といったように。…(37)すると、人間というのは計量人や大工に似ているということになる。それこそ「彼等によって」規範が生じるのであるから。また他方、感覚や知性は竿秤や定規に似ている。「それを通じて」規範が生じるのであるから。また、表象の拡張は上述の道具の状態に似ている。これに従って人は判断をなすものなのであるから。 Sextus Empiricus, M. 7.150 = SVF. 1.67; 2.90; 3.550 = LS.41C  (150) アルケシラオスの周りにいた人々は何の基準も前もって規定しなかったが、あえてそれを規定したと思われる人々はこのことを、人々がストア派の人々に対して展開した批判に応じてなしたのである。(151) つまり、あの[ストア派の]人々は互いに結び合わされた3つのものがあるといっている。つまりは知識と思惑と、これらの境界線上に設定される把捉とである。これらのうち、知識は理によって明白確実不動の把捉であり、思惑は誤った弱い同意であり、これらの中間にある把捉は把捉的表象への同意である。(152) そして、彼等によると、把捉的表象とは表象のうちでも真であり偽にはなりえないもののことである。さて、これらのうち、知識は賢者たちのうちにのみ、思惑は劣った人々のうちにのみ認められるが、把捉は両者に共通のものであり、これが真理の基準とされる、と彼等は言っている。(153) ストア派の人々はこのようなことを言うのだが、それにアルケシラオスは対立して、把捉は知識と思惑の中間にある基準などではないと論証したのである。というのも、彼等が把捉とか把捉的表象への同意とか言うこのものは実際には賢者にも愚者にも生じるからだというのだ。いやもっと言えば、賢者に生じれば知識であり、愚者に生じれば思惑であり、そしてそれ以外のものは単なる名前にすぎない。(154) 仮にもし把捉が把捉的表象への同意だとしても、そんなものは実在しない。第一の理由は、同意は表象に対してではなく判断に対してなされるからであり(なぜなら、同意は命題の一種だから)、第二の理由は、偽にはなりえない真の表象など見出されないからである、多種多様な議論を通じて示されるように。(155) さて、把捉的表象などないのだから、把捉など生じない。というのも、把捉とは把捉的表象への同意ということだったから。そして、把捉などないのだから、全てのものは把捉されない。すると、全てのものは把捉されないのだから、ストア派の人々に従ってさえ、賢者は判断保留することになる。(156) 以下のように考えてみよう。ストア流の基準なるものが実在しない以上全てのものは把捉されないのだから、もし賢者が同意するとすれば、賢者が思惑することになろう。というのも、把捉などないのだから、何であれそれに同意するならば、把捉されないものに同意することになるし、把捉されないものへの同意が思惑なのだから。従って、賢者が同意する人々に属すとすれば、賢者は思惑する人々に属すことになろう。(157) しかし、少なくとも賢者は思惑する人々には属さない(というのも、彼等によるとこの思惑は無思慮と過誤の原因だからだ)。だから、賢者は同意する人々には属さない。しかしもしこうだとすると、まさにこの賢者は全てのことについて同意してはいけないことになる。しかし、同意しないことは判断を保留することに他ならない。だから、賢者は全てのことについて判断保留するだろう。 ↓ (158)しかし、これに続いて生の送り方についても探求がなされるべきだったのであり、それは基準なしには本来与えられないのだが、またそれに基づいて幸福(これが生の目的なのだが)も確固とされた信念を持つのだから、アルケシラオスが言うように、全てのことについて判断保留する者は選択と忌避と総じて行為を確からしさによって制御するのであり、この基準に即して物事を始めつつ正しく行為するのである。 ↓ Sextus,M.7.158=SVF.3.284(正当行為)  つまり、幸福は思慮によって生じるが、思慮は正しい行為のうちに置かれており、正しい行為とは理にかなった弁明をもってなされたことだというのだ。すると、理にかなうことに触れるものは正しい行為をし、さらに幸福であることになるだろう。 Sextus, M.7.162 = SVF.2.63  表象とは、生物に備わる情態で、それ自身と他のものを喚起しうるものである、と言うべきである。例えば、アンティオコスは言う、何かを見やる時、我々は視覚を構成するのであり、つまり見る前に視覚があった情態とは違う情態にするのである。そしてそこで、その変容に際して我々は二つのものをとらえるのであるが、その一つは変容そのもの、つまり表象であり、二つ目は変容を引き起こしたもの、つまり視覚対象である。そして、他の感覚においても同様である。しかるに、光がそれ自身とその中にある全てのものとを表すように、表象も、生物に備わる認識の端緒として、光と同様に、それ自身を表さねばならないと共にそれを引き起こしたものを表せるものでなければならないのである。 Sextus, M. 7.227 = SVF. 1.484 (Cleanthes) = 2.56  (227)まだストア派の思想が残っており目前にあるのでこれについて論じよう。実際、この人たちは真理の基準は把捉的表象であると言っている。我々はまずこれを知っているものとして、彼等によると表象とは何なのか、そして、どういう種に分けられるのかを論じよう。(228)さて、表象は彼等によると魂における刻印である。これについては即座に彼等の見解が分かれた。つまり、クレアンテスはこれをものを押しつけて離した時にできる刻印という意味だと受け取ったのである。指で密蝋につけた印のようなものだと考えたのである。(229)しかし、クリュシッポスはこういう考えがおかしなものであると考えた。彼は言う、まず第一に、思考が一度に何か三角形のものと四角形のものを表象するなら、同じ物体が同時に自分自身において三角と四角という異なる形のもの、あるいはそれをもつものとならねばならないが、これはおかしいことだからである。次に、たくさんの表象が我々の内におかれるなら、魂は非常に多くのものを形作らねばならないことになるが、これは前のものよりも悪い事態であるからである。(230)そういうわけで、このクリュシッポスは、ゼノンは刻印と言ったけれどもそれは変容と言うかわりにそう言ったのではないのかと考えたのである。そしてこの説は「表象は魂の変容である」というものではなかったかというのである。同じ物体が一度に同時に、我々の下にたくさんの表象がおかれたなら、非常に多くの変容を受け入れるという説は何らおかしなものではないから。(231)つまり、たくさんの人が同時に声を出す時、人が言葉に出されない違いを一度に受け取って、多くの刺激や変容を直ちにもつように、指導的部分も色とりどりに表象をなしこれに何らか類比するものであると考えられるだろう。 Sextus, M. 7.236 = SVF. 1.58  それだから、ゼノンが、表象は魂における刻印であると言う時も、魂の全体がそうだというのではなく、魂の一部分がそうだという意味だととらねばならない。この発言が、「表象は指導的部分における変容である」という意味であるようにするためである。 Sextus, M. 7.239 = SVF. 3.399  愛情とは「友人関係を築こうとする試みである」と言う人は「年ごろの若者への」それをだということを明らかにしていることになる、それを言葉に出して明白にしないとしても。というのも、壮年の盛りをもたぬ者や年寄りの誰にも愛情を抱くことはないのだから。 Sextus, M. 7.241 = SVF.2.64  表象が生じるのは外部の事物によるかあるいは我々の内にある情態によるかであるが、より厳密に言ってこれは内容のない区別であると彼等は言っている。 Sextus, M. 7.242 = SVF.2.65  表象には多くの様々な区別があるが、これから述べるもので十分だろう。つまり、表象のうち、あるものは説得的であり、あるものは説得的でなく、あるものは説得的でありかつ説得的でなく、あるものは説得的でもなければ説得的でないということもない。さて、説得的な表象とは、魂に滑らかな運動を作り出すものであり、例えば「今昼である」「私は問答している」である。…説得的でないものとは、先に言ったようなものでなく、我々を同意から背かせるものである。例えば「今昼ならば、太陽は地上にない」「闇があるならば、昼である」である。…説得的でありかつ説得的でないものとは、状況如何に応じてある時はかくかくのものとなりある時はそうでないというものである。例えば、[それだけで真偽を決定する]すべのない命題に関する表象がそれである。さて、説得的でもなく説得的でないということもないものとは、次のような事柄に関する表象である。「星の数は偶数である」「星の数は奇数である」…説得的な表象のうち、あるいは説得的でない表象のうち、あるものは真であり、あるものは偽であり、あるものは真かつ偽であり、あるものは真でも偽でもない。さて、真な表象とは、それについて真な述語がつけられうるものであり、例えば今の場合で言えば「昼である」あるいは「光がある」である。偽なものは、偽な述語がつけられうるものであり、例えば水中の櫂が曲ることや柱がすぼんで見えることに関するものである。さて、真かつ偽であるものとは、狂気の中でエレクトラからオレステスに生じたもののようなものである(つまり、誰か実在の人物から生じているという限りでは真だが(エレクトラは実在しているのだから)、エリニュスから生じているという限りにおいては偽である。というのも、エリニュスは実在していないから)。また、誰かが夢の中で、生きているディオンから生じた偽で空疎な惑乱と、あたかも彼がその場にいるようにみなして、かかずりあうような場合のそれである。 ↓ Sextus, M. 7.246 = SVF.2.65 = LS.30F  さて、真でも偽でもないものとは類的なそれである。なぜなら、それらの種はかくかくのあるいは別のしかじかの性質を持つが、類はそのようなことがないからである。例えば、人間にはギリシャ人も野蛮人もいるが、類としての人間はギリシャ人でもなければ(その場合、種としての人間が全てギリシャ人になってしまうだろう)、野蛮人でもない(同じ理由で)。 Sextus, M. 7.247 = SVF.2.65  (247)真な表象のあるものは把捉的であるが、あるものはそうではない。把捉的でない表象は感情の中で生じるものである。つまり、多くの人が、錯乱している時あるいは怒り狂っている時には、真ではあるが把捉的ではない表象を得るのである。そのような表象は外界から偶然にそう生じたのであって、外界のその対象について確証が得られないこともしばしばだし、同意がなされないこともある。(248)さて、把捉的な表象とは、実在するものからそのものが実在する通りに刻印・押印され、実在しないものからは生じ得ないようなもののことである。彼等はこうした表象は対象を厳密に再現しうるものでありそれらの全ての特徴を巧みに網羅するとしており、それは次の各々の特性をもっているのだと言っている。(249)その第一は、実在するものから生じるということである。…第二は、実在するものから生じてその実在するものの通りにあるということである。というのは、表象が実在のものから生じていてもその実在のものを再現していないということもあるからである。例えば、少し前に挙げた怒り狂ったオレステスの場合のように。…しかしながら、把捉的な表象は刻印・押印されていて、そのために、表象される対象の全ての特性を巧みに網羅するのである。こうして、把捉を作り出す対象はその全ての特性をもって自らを提示する必要がある。さて、「実在しないものからは生じ得ないような」という表現が加えられているのは、ストア派の人々がそう理解しているように、全てにおいて(実在と)全く違いのない表象など何ら見い出され得ないからであり、この点はアカデメイア派の人々も同意見である。つまり、前者が言うところでは、把捉的表象をもっている人は物事に潜む差異に当たることができるのであり、それはそのような表象が他の表象と違うこれこれの特定の特性をもっているからであり、ツノヘビ(の表象)が他のヘビ(の表象)と違うようなものである。方やこれと反対に、アカデメイア派の人々が言うのは、把捉的表象にも、他から何も違わず、従って虚偽であり得るものが見い出されうるということである。 (7.372)つまり、この説が破棄されるなら表象に種に応じた差異があるという説も一緒に滅びる。そして、動物でないならば人間でもないように、表象でないならばいかなる表象も把捉的なものや説得的なものとされない。 ↓ Sextus, M. 7.372 = SVF. 1.484(Cleanthes); 2.56  その理由はこうだ。もし魂における刻印が表象なら、それはクレアンテスの一派がそう考えるように、ものを押しつけて離した時の痕跡であるか、さもなくば、クリュシッポスの一派が考えたように、ただの変容の下に生じるのかどちらかである。(373)そして、ものを押しつけて離した際におかれるのだとすると、このことはクリュシッポスの一派が言ったおかしい点には整合する。なぜなら、表象する状態におかれると魂は蜜蝋のような仕方で刻印を受けるのだとすると、最終的な動きは常に先立つ表象によって曇らされるからである、2番目の印章の跡が前のを拭い去ってしまうように。しかし、もしこうだとすると、表象の貯蔵である記憶が損なわれ、全ての技術も破壊される。つまり、技術は把捉の集積と体系であるから、数多くの異なる表象を指導的部分に提示することができなくなる、自身に刻まれた刻印を異なる時に異なるものを考慮するなどという仕方では。しかるに、本来的な意味で刻印というものを考えるなら、それは表象ではない。(374)また違う論じ方をすれば、不明瞭なものの現れが視覚であるなら、我々が見るのは、気息という物体は表象に関して非常に多くの部分をもち、それ自身における刻印を何であれ保持することができないということであり、一つの気息がそれ自身への表象の何か刻印を保つことはないというのももっともなことである。実際、水も非常に多くの部分をもつ気息である。しかし、涙がそれに何を強く刻まれようとも、その強力な刻印を保つものとしては現れない。 Sextus, M.7.405 = SVF.2.67  それだから、ある表象が把捉的であるのが、我々を同意するように導き、またそれに調和した行為をするように導く限りにおいてであるならば、 Sextus, M.7.416 = SVF.2.276 = LS.37F  というのは、「堆積」の論においては最後の把捉的な表象が最初の非把捉的な表象に並んでおりほとんど判別不能なので、クリュシッポスの取り巻き達はこう言うのである。つまり、このようにほんの少しの差異しかない表象においては賢者は判断保留して静観するだろうが、もっと沢山の違いに出会うような表象においては、何かどれかに同意してそれを真とするだろう、と。 Sextus, M.7.422 = SVF.2.224  ここから論を進めて、ゼノンの取り巻きたちは、過誤は等しいと説いたのである。 Sextus, M.7.424 = SVF.2.68  彼等によると表象が感覚されうるもの、例えば視覚されうるもの、となるためには、五つのものが共になければならない。つまり、感覚器官、感覚対象、場所、手段、精神である。それゆえ、もし他のものはその場にあるのに一つだけが失われているならば、例えば精神が不自然な状態にあるならば、やり取りは保たれ得ない、と彼等は言っている。 Sextus, M.7.426 = SVF.2.69  把捉的表象とは何かと我々が尋ねると、彼等はこれを定義して「実在するものからの表象で云々」と言う。そして今度は(というのは、定義の形で教示されるものは既知のものをもとにそうされるのであるから)実在するものとは何かと我々が合わせ尋ねると、逆に彼等は、実在するものとは把捉的表象を引き動かすものである、と言うのだ。 Sextus,M.7.432=SVF.3.657(把捉)  また別の言い方をすれば、彼等に従って、もし劣者のもつ把握がすべて無知蒙昧であって賢者だけが真理を語り、真理に関する堅固な知識を持っているのなら、賢者は見出されえないとこれまでに立論された以上、これに調和するのは、真理も見出されえないのが必然だということである。これ故、万事は把捉されえないということになる、実在するものの堅固な把捉を劣者がもちえないとすれば。(433)こうしたことは事実その通りなので、懐疑派に対してストア派が言ったことを今度は逆に懐疑派が彼らに対して言う余地があることになる。つまり、彼等によれば、ゼノンもクレアンテスもクリュシッポスも学派の残りの成員も劣者に数え入れられるのであり、劣者は全員無知蒙昧に屈服しているのだから、ゼノンは自分が宇宙に包まれているのかそれとも自分が宇宙を包んでいるのかということに全く無知であり、自分が男か女かということも知らないことになる。また、クレアンテスは自分が人間なのかそれとも嵐の神テュポンよりも囂々とした獣なのかその知識がないということになる。(434)そしてもちろん、クリュシッポスはストア派のこの教説(「劣者は何も知らない」のことを言っているのだが)を分かっていたか、さもなくばまさにこの教説さえ知らなかったかどちらかである。さて、知っていたとすると、劣者は何も知らないということは偽である。なぜなら、その場合クリュシッポスは劣者でありながら「劣者は何も知らない」ということをまさに知っているのであるから。しかし他方、自分は何であれ全然知らないということをまさに知らなかったとしたら、いったいどうやって沢山のことについて教説を垂れることができたのか、「宇宙は一つのものである」「それは摂理によって治められている」「その本質は全面的な変転を被る」その他数多くのことを説として立てながら。(435)それだから、それがお好みなら誰であれその他の難問を、彼等が懐疑派に対してなすのが習わしのように、再反論者として問いかけることができる。 Sextus, M.7.440 = SVF.2.118  しかし、反論に対抗して独断家達は、懐疑論者がどのように「規範などない」と言うのかを探究するのが常である。つまり、そういうことを言うのは無規範にであるのか、それとも何か規範を持ってであるのか、というのである。そして、もし無規範にであるなら、懐疑論は信用できないものになるし、もし規範を伴っているのであれば、彼等は論を転じて、規範などないという主張は、その主張の提示が規範を伴っているということと首尾一貫しないと言うのである。  再び、我々が「規範はあるのか、そしてそのことを規範付けているのか、それとも無規範なのか」と問われたなら、次の二つのうちのどれかを認めることになるが、つまり、無限背進に陥るか、無茶苦茶なことだが、自分が何らかの規範を用いていることを認めるかどちらかになるのだが、さらに進軍して我々はこう言うのである。つまり、自分自身何らかの規範を残しているというのは別におかしなことではない、と。つまり、自分自身と他のものとを同時に吟味しうるものがあるのであり、例えば秤は他のものの釣り合いと自分自身のそれを量れるのであるし、光は他のものだけではなく自分自身をも明らかにしうるのであるから、そこからして、規範も他のものと自分自身との両方の規範でありうる。 第八巻 Sextus, M.8.10 = SVF.2.195  ストア派の人々の説では、感覚されるものや知性でとらえられるもののあるものは真だが、感覚されるものが何でもただちに真であるというわけではなく、それらに提示されているものに関して知性認識されるものへの指示に基づくものがそうなのである。つまり彼等によれば、実在し何かに対峙しているものが真で、実在せず対峙しないものは偽である。こうして、命題は非物体ではあるが、知性でとらえられると彼等はしているのである。 Sextus, M.8.11-12 = SVF.2.166 = LS.33B  しかし、彼等の下には別の見解の相違もあった。それに関して、真偽が成り立つ基は意味されるものであるというものもいれば、音声であるという者も、思考の運動であるという者もいたのである。さて、第一の見解を率いたのがストア派の人々で、彼等は意味されるもの(意味)、意味するもの(記号)、実在の3つが互いに繋がれていると言っている。(12)それらのうち、意味するものとは音声である(例えば「ディオン」)。意味されるものはそれによって表される事態や事項そのもので、それを我々はその時に表されたものを我々で思考して把握するのだが、野蛮人は例え音声を聞いてもそれを理解しない。実在とは外界に在るもので、例えばディオン自身である。さて、これらのうち2つ、要するに音声と実在、は物体である。ところが、残りの一つ、要するに意味される事態や事項とりわけ言い表されるもの(レクトン)は非物体である。これが真あるいは偽になるというのである。そして、これが全て一般的にそうだというのではなく、不完全なものもあれば完全なものもある。つまり、完全なものとはいわゆる命題であり、そのことを念頭に置いて「命題とは真偽のあるものである」と言われるのである。  (彼等の間では、真について次のような意見の不一致もある。すなわち、ある人々は、指意されるものに真と偽があるとし、他の人々は、音声に、他の人々は、思考の運動にそれがあるとした。最初の見解をおしだしたのはストア派の人々であって、彼等は、次の3つのもの、すなわち、指意されるもの、指意するもの、現存するものは相互に結びついている、と主張した。それらのうち、指意するものとは音声であり、例えば、「ディオン」という音声、であり、指意されるものとは、その音声によって示される事柄それ自身であり、我々は、我々の思考に依存して存するものとしてそれを理解するが、野蛮人は、音声を聞いてもその意味を理解しない。現存するものとは、外界に実在するものであり、例えば、ディオン自身である。これらのうち、2つのもの、つまり言表と現存するものとは物体であり、1つ、つまりつまり思惟される事項、特に言表されるものは非物体的なものである。そして、指意されるものこそが真または偽となる。もっとも、このものは全て共通にそうではなく、あるものはその点で欠陥があり、あるものは自己完結的である。自己完結的なもののうち、いわゆる命題がそうしたものであり、そのことを彼等は述べて、「命題とは真または真であるもののことである」と言うのである。(岩崎允胤訳)) Sextus, M. 8.56 = SVF.2.88  つまり、全ての知性認識は感覚に由来するか、感覚なしではありえないし、また直接経験に由来するか、それなしではありえない。そこからして、いわゆる虚偽の表象、つまり例えば睡眠時のそれや狂気のさなかのそれ、というのも、直接経験の際に感覚を通じて我々に認識されたものから切り離されたものではないことが我々も分かるだろう。…また総じて、思考においても何も見出せないのである。それを人が自ら直接経験において認識しえたのでないならば。つまりそれは、直接経験の際に現れた物事との類似性によるか、増大によるか、縮小によるか、複合によるかして得られるであろう。 Sextus, M. 8.70 = SVF. 2.187 = LS. 34B  (70)つまり例えば、最初から初めてほしい人がいるかもしれないから言うが、総じてストア派の人々の考えでは、レクトンには真のものと偽のものがある。レクトンとは理知的な表象に存立するものであり、理知的表象とは表象されるものがそれによって言語に与るものであると彼等は言っている*。レクトンのあるものを不完全なそれ、あるものを完全なそれと彼等は呼んでいる。それらのうち不完全なものについては今は措いておこう。完全なものには沢山のあり方があると彼等は言う。(71)命令的なものと呼ばれるのは我々が命令する際に言う限りのもので例えば   ここに来たれ、親愛なるニュンフよ(『イリアス』3.30) のようなものであり、また陳述的なものは何かを陳述するときに言うものであり、例えば「ディオンは散歩している」で、疑問的なものはそれを語るときに何かを訊ねるかぎりのもので、例えば「ディオンはどこに住んでいるか」である。(72)彼等の下で願望的なものと名付けられるものはそれを語るなら願望を表すことになるものである。   こんな風にあの女の脳味噌も地に流れてしまえばいい、この酒のように   (『イリアス』3.300) そして、祈願的なものとは、それを語ると祈願をすることになるものである。   父なるゼウス、イダの守護神、最大の栄光者よ   アイアスに勝利をお与え下さい、栄えある祈りをお受け下さい   (『イリアス』8.202) (73)彼等は完全なレクトンのうちあるものを命題と呼ぶが、それを語るなら我々は真や偽を語るのである。しかし、命題よりも広いものもある。例えば、このようなもの   プリアモスに似た牛飼 は一方では命題である。なぜなら、これを語るなら我々は真を語っているか偽を語っているかどちらかだから。しかし他方、「プリアモスに牛飼が似ているように」というものであれば、これは何か命題より広い意味合いのものであって命題ではない。(74)彼等は言う、レクトンには多大な相違があるとはいえ、何かが真または偽であるためには、何よりもそれはまずレクトン、しかも完全なそれでなければならない。つまり、どんなものでもレクトンでさえあれば何でもいいのではなく命題でなければならない。なぜなら、先述の通り、それを語ることで我々が真あるいは偽を語るのはこのものだけなのだから。** *この節の解釈に関してはKerferd (1978) p. 253-4を見よ。 **この節の解釈についてもKerferd (1978) p. 261-2を見よ。 Sextus, M.8.85=LS.34D  つまり彼等はこう言う。真な命題とは、実際に存在するものであり、何かに対立しているが、他方偽なそれは実際には存在しないものであり、何かに対立している。さて、「実際に存在するもの」とは何かと問われるなら、彼等は「把捉的表象を引き起こすもの」と言う。(86)だがそれでも、把捉的表象に吟味が及ぶと、彼等はまた同じく未知の概念である「実在するもの」に駆け戻るのである。そして彼等はこう言う。「把捉的表象とは実在するものから実在するものそのものの通りに由来するそれのことである」と。 Sextus, M. 8.88=SVF.2.214=LS.34G  しかし、我々に矛盾対立する説を立てることがストア派の人々は全くできないのだ。しかるに、真も偽も判然とはしないだろう。(89)というのも彼等はこう言うからだ。「矛盾対立する命題とは、その一方が他方よりも否定辞の分だけ多い命題のことである」その例は「昼である−昼である、ではない」である。つまり、「昼である」という命題よりも「昼である、ではない」の方が「ではない」という否定辞の分だけ多く、そのために先の命題に矛盾対立するものとなっているのである。しかし、これが矛盾対立する命題ならば、こういうものもそうだろう。「昼である。そして光がある」と「昼である。そして光がある、のではない」である。「昼である。そして光がある」という命題を否定辞の分だけ「昼である。そして光がある、のではない」は上回っているから。ところが、少なくとも彼等の見解では、これらは矛盾対立する命題ではない。すると、矛盾対立する命題は一方が他方を否定辞の分だけ上回っている命題などではないのである。(90)さて彼等はこう言う。左様、しかしこのことによって、つまりもう一方の命題に否定辞を前置することによって、矛盾対立するものとなっている命題は存在する。なぜなら、この場合に否定辞は命題全体を支配するが、「昼である。そして光がある、のではない」は命題全体の部分に過ぎず、命題全体を否定する意味力はないからである。 Sextus, M. 8.93 = SVF.2.205 = LS.34H  弁証法家達の見解では、命題間にあるほとんど第一かつ最重要の差異に基づくと命題のあるものは単純なそれ、別のあるものは単純でないそれとなる。そして、単純命題とは、一つの命題を2度取り上げて作られたものでも、異なる命題を一つあるいは複数の接続詞でつないだものでもないもののことである。例えば、「昼である」「夜である」「ソクラテスは対話する」全て類似の形態のものである。(94)実際紡ぎ糸を我々は「単純」と呼び、たとえ何本もの髪の毛からそれができていても、類を同じくする紡ぎ糸を束ねて作られたのではない以上はそう呼ぶのだが、それと同様に、命題が「単純」と呼ばれるのは、それが複数の命題から合成されたのでもなければ、複数の別の何かからそうされたのでもないからである。例えば、「昼である」が「単純」であるのは、それが同じ命題を二度繰り返すことによって合成されたのでもなければ、異なる複数の命題からでも、複数の何か別のもの(例えば、「昼」と「ある」)からでもない限りにおいてである。また実際、いかなる接続詞もこの文にはない。(95)他方、単純でない命題とは、例えば二重の命題であり、また命題から作られた限りのもののことである。それらは、一つの命題をニ御繰り返すか、異なる複数の命題から、一つあるいはそれ以上の接続詞によって合成される。例えば「もし、昼であるなら、昼である。もし、昼であるならば、光がある。もし、夜であるならば、闇がある。昼であるし、また、光もある。昼であるか、あるいは、夜である」(96)単純命題のうち、あるものは限定命題であり、あるものは非限定、あるものは中間のものである。限定命題とは直示によって表されるものであり、例えば「この人は歩いている」「この人は座っている」である。(というのも、そう言う際に私は個々の人々の誰かを指し示しているのだから)(97)非限定命題とは、彼等によると、何か非限定の要素が文の意味を支配しているもののことである。例えば「誰かが座っている」。中間命題とは「人が座っている」あるいは「ソクラテスは散歩している」など、このようなものである。さて、「誰かが散歩している」が非限定であるのは、この命題は散歩している個々人の誰がそうなのかということを限定していないからである。つまり、そうした個々の人々を漠然と表すことができるのである。他方、「この人は座っている」が限定命題であるのは、支持された個人を限定しているからである。また他方、「ソクラテスは座っている」が中間なのは、非限定でもなければ(なぜなら一つの在り方を限定してはいるから)、限定されたものでもなく(なぜなら指示と共に表してはいないからである)、この両者つまり非限定と限定の中間であると思われるからである。(98)さて、彼等は言う、「誰かが散歩している」や「誰かが座っている」といった非限定命題が真であるのは、「この人は座っている」や「この人は散歩している」といった限定命題が真であると分かった場合である。というのも、個々人の誰も座っていなければ、非限定命題「誰かが座っている」は真ではありえないから。 Sextus, M. 8.100=SVF.2.205=LS.34I  (100)さらに、「この人は座っている」や「この人は散歩している」といった限定命題が真であるのは、彼等が言うには、指示が当てはまる対象に例えば「座っていること」や「散歩していること」という術語が適合する場合である。 Sextus, M. 8.103=LS.34F  こうしたことに加えて、現在「昼である」という命題は真だが、「夜である」は偽であり、「昼である、ことはない」は偽であるが、「夜である、ことはない」は真であると彼等が言うならば、どうしてなのか知ろうとする者もあるだろう。つまり、否定辞は同一のものであるのに、真な命題に加わるとそれを偽にし、偽の命題に加わるとそれを真にするというのはどういうわけなのか、と。 Sextus,M.8.112-117(推論)  全ての弁証論者は、連結的命題は、その前件に後件が伴うときには、正当である、と共通に主張しているが、いつ、どのように前件に後件が伴うかに関しては、互いに意見を異にしており、その伴う点について両立しない基準を提示している。例えば、ピロンは、連結的命題は、それが真で始まり偽で終わるのではないときには、真となる、と主張した。そのため、彼によれば、真なる連結的命題は3つの仕方で得られ、偽なる連結的命題は1つの仕方で得られることになる。というのは、真で始まり真で終わるときには、命題は真である、「もし昼であるならば、光がある」のごとく。偽で始まり偽で終わるときには、命題はやはり真である、例えば「もし地球が飛ぶならば、地球は翼を持つ」のごとく。同様に、偽で始まり真で終わるものもまた、真である、「もし地球が飛ぶならば、地球は存在する」のごとく。だが、真で始まり偽で終わるときにのみ、命題は偽となる、「もし昼であるならば、夜である」のごとくである。なぜなら、昼であれば、「昼である」は真であるが、「夜である」は偽であるから。  正しい選言は次のことを約束する、それの諸項のうちの1項は正しく、残りの1項あるいは残りの諸項は偽であって最初のものと矛盾している。  しかし、ディオドロスは、真で始まり、偽で終わることが、あり得なかったし、また現にあり得ないような連結的命題が、真であると主張する。これは、ピロンの主張と両立しえない。なぜなら、次のような連結的命題、「もし昼であるならば、私は対話する」は、現在のところ昼であり、私が対話をしているならば、ピロンに従えば、真である、なぜなら、「昼である」という真で始まり、「私は対話する」という真で終わるのであるから。しかし、ディオドロスに従えば、その命題は偽である。なぜなら、時には、「昼である」という真で始まり、私が黙ったならば「私は対話する」という偽で終わることもありうるからである。…また、私が対話し始める以前には、その命題は、「昼である」という真で始まり、「私は対話する」という偽で終わったからである。さらに、次のような命題、「もし夜であるならば、私は対話する」は、昼であり、私が黙っておれば、ピロンに従えば、同様に真である、なぜならば、偽で始まり、偽で終わるから。だが、ディオドロスに従えば、偽である。なぜなら、夜が来て、今度は私が対話せず黙っているならば、この命題は、真で始まり、偽で終わることがありうるからである。だがさらに、「もし夜であるならば、昼である」は、昼であれば、ピロンに従えば、「夜である」という偽で始まり、「昼である」という真で終わる故に真である。だが、ディオドロスによれば、夜が来れば、この命題は、「夜である」という真で始まり、「昼である」という偽で終わることがありうる故に、偽である。(岩崎允胤訳) Sextus, M.8.185 = SVF.2.76  ストア派と逍遥派の人々で中間の道を開拓した人々が語ったところでは、感覚対象のあるものは真なものとして措定されるが、あるものは実在しないものとされ、後者はそれらに関する感覚が欺かれた場合である。 Sextus,M.8.229=LS.36G(推論)  (229)非単純命題とは、複数の単純命題から合成されたものではあるもののそれ自体が推論を形成していることを知るにはその単純命題に解析することを要するものである。このような非単純命題のうちには同種の命題が組み合わされたものもあれば、異種の命題が組み合わされたものもある。同種の命題からなるものは例えば第1の論証不能命題2つが組み合わされたものや第2のもの2つが組み合わされたものであり、(230)異種の命題からなるものは例えば第1*および第3*の論証不能命題が組み合わされたものや第2と第3のそれ、つまり全般的に言ってこのような命題の組み合わされたものである。さて、同種の命題が組み合わされたものは例えば次のようなものである。「もし昼ならば*、もし昼ならば*光がある。ところで、昼である。故に、光がある」すなわち、第一の論証不能命題2つが組み合わされており、我々はそれを解析することができるだろう。(231)そこで理解すべきことは、弁証の理論は次のような論証命題を推論の解析に委ねるということである。「何らかの帰結を導出しうる前提を我々が持っている場合、ここでも我々はその帰結を可能性としてその前提の中に持っている、たとえ明示的には述べられていないとしても」(232)だから、我々が二つの前提を持っているとしよう。つまり「もし昼ならば、*もし昼ならば*光がある」という仮定をまず持っているとしよう。これは「昼である」という単純命題に始まり、「もし昼ならば、光がある」という非単純の仮定に終わっている。さらにまた、我々はかの命題先見となっている命題「昼である」をも持っているとしよう。その場合、第一の論証不能命題によってこれらから先の仮定命題の後件「もし昼ならば、光がある」を推論することが我々には可能であろう。(233)こういうわけで、我々は論証においてこのような命題を、あくまで可能性として推論されるものとして持っているにすぎないのであって、明示的にはっきりと表されているわけではない。つまり、それを提示された論証の付加前提「昼である」と結びつけるならば、第一の未論証命題によって我々は「光がある」という帰結を推論することができるの。そして、その帰結は提示された論証の結論なのだ。だから、第1の未論証命題2つがあることになるが、1つは「もし昼間ならば、もし昼ならば光がある。ところで、昼である。故に、もし昼ならば光がある」というようなものであり、もう1つは「もし昼ならば、もし昼ならば光がある。ところで、昼である。故に、光がある」というようなものである。  (234)さて、以上のようなことが同種の命題の結合を備えた論証の特徴である。異種の命題からなるものが残っているがそれは印に関するアイネーシデーモスの問題提起のようなものであり次のようになっている。「表象は同様の状態にある全ての者には類似の仕方で現れ、印は表象だとすると、同様の状態にある全ての者に印は類似の仕方で現れる。しかし印が同様の状態にある全ての者に類似の仕方で現れるとは限らない。しかし、表象は同様の状態にある全ての者に類似の仕方で現れる。故に、印は表象ではない」(235)実に、このような論証は第2と第3の論証不能命題から組み合わされているが、それは解析によって分かる通りである。この教程を用いる我々のやり方でならより一層明白になるであろうが、それは次のようになる。「第1かつ第2であれば、第3である。しかし、第3ではないのに第1である。故に、第2ではない」(236)すなわち、第1と第2の連言を前件と、第3を後件とする仮定を持ち、帰結に対立する命題「第3ではない」をも持つならば、前件に反する命題「第1かつ第2ではない」が我々には第2の未論証命題によって導出されることになるだろう。さて実際、そのことを導出しうる仮定をもってはいるのだから、まさにこのことは論証の中に可能性としては含まれているのだが、論を進めないと明示的にはならない。 それを残りの承認つまり第1のものと一緒にすれば、導出される帰結「故に、第2ではない」を我々は第3の未論証命題によって得るであろう。だから、2つの未論証命題があるが、1つは「第1かつ第2ならば、第3である。しかし、少なくとも第3ではない。故に、第1かつ第2ではない」というようなものであり、これが第2の未論証命題である反面、もう一つのものつまり第3のものはこのようである「第1かつ第2ではない。しかしとにかく第1である。故に、第2ではない」。さて、この流儀における解析は以上のようなものであるが、論証一般においてもこれと類比的なのだ。 Sextus, M. 8.258 = SVF 3 Basilides では、レクトンが「存在」すると公言した人々もいたということを見よう。それも、エピクロス派の人々のように、見解の相違というものではなく、ストア派の人々のうちにすら例えばバシリデス派の人々のようなものまであったのだ。彼らによれば、そもそも「物質ではないもの」などないのだ。 (275)ところで、感覚対象も証拠ではなく(これは既に論証された)、思惟対象もそうでなく(これも確証された)、これらの他に第3のものなどないならば、証拠などないと言わねばならない。 ↓ Sextus, M. 8.275 = SVF. 2.223; 2.135  しかし、定説家たちはこう試論された事柄の各々に猿轡を咬ませ、正反対の論を組み立ててはこう言うのである。人間が理性のない動物と異なるのは発話された言語においてではなく(なぜなら、カラスやオウムやカケスも分節化された音声を発するからである)、内的言語においてであり、(276)端的な表象においてではなく(なぜなら、ああしたものも表象はするのだから)、変容されたり複合されうるそれにおいてなのである、と。こうして、調和整合の内在観念を得ると直ちに証拠の理解をも調和整合ということから手にするのである。というのも、まさに証拠となるものは「もしこれならば、これである」こういうものだから。そして、人間の本性と機構に調和するのも、証拠が実在するということなのである。(277)類として規範が存在するという論証も整合的である。というのも、名称を与える論証は帰結に関わるが、承認を通じてそれを結合することが帰結が実在することの証拠となるであろうから。例えば、「運動があるならば空虚がある。ところで、運動がある。故に、空虚はある」このような論証において、「もし運動があるならば空虚がある」このような複文は承認と結合されて、直ちに「空虚がある」という帰結の証拠となるのである。(278)彼等が言うには、だから論難する人々が持ち込んだ、証拠に関する言論は論証的であるか、さもなければそうではないかどちらかである。そして、もし論証的でないとすれば、説得的でないものであり、どこか論証的なところがあってもほとんど説得力はない。他方、論証的だとすれば、明らかに何らかの証拠がある。なぜなら、論証は類としては証拠なのだから。(279)しかし、何についても何の証拠もないとすると、証拠について発言する音声は何かを証拠立てるか、さもなければ何もそうしないかのどちらかである。そして、何もそうしないとするなら、証拠の実在は何ら損なわれない。というのも、証拠がないということについて何も証拠立てない発言をどうやって信じることができようか。しかし、何かを証拠立てるとしたら、懐疑派の連中は馬鹿野郎である。言葉では証拠を閉め出しておいて、行動においてはそれを受け入れているのだから。(280)また実際、技術に固有の原則が全くないならば無術と技術は何の違いもなくなるだろう。技術に固有の原則があるならば、それは表象として現れるものか、そうでなければ不明なものかどちらかである。しかし、表象としてはありえない。なぜなら、表象されるものは全ての人に同じように現れ、何かを教示するということがないからである。他方、不明なものだとすれば、証拠によって原則化されるだろう。そして、証拠によって原則化されたものが何かあるなら、何か証拠があることになる。(281)さて、こんなことを論じ立てる人々もいるのである。「もし何か証拠があるならば、証拠がある。証拠がないならば、証拠がある。ところで、証拠がないか、さもなくばあるか、どちらかである。故に、証拠はある」 (8.355)デモクリトスは全ての感覚は実際にそう在るのだとしたし、 ↓ Sextus, M. 8.355 = SVF. 63  エピクロスは全て感覚されることは確実なのであると言ったし、ストア派のゼノンはその中に[確実度の]区別を設けた。 ↓ かようにして、我々が[真だとして]受け入れる事柄は感覚されうるものなのかどうかということには異論があるのである。それらが知性で認識されうるものかどうかということに関しても同様である。つまり、こうした事柄に関しても現実の生活の中ではこうと、方や哲学の中ではこうと、非常に多くの見解の相違が認められるのである。違った人々がそれぞれ違ったことをよしとしているのである。 Sextus, M. 8.396 = SVF. 2.91  (396)さて、上述の事柄に整合するように、と言うのも何よりもストア派の人々は論証の方法を明らかにしたように思われるのだから、では彼等に対して手短に詳論しよう。その際、彼等の前提に則す限りでは、万事が非把捉的でありかつ同時に論証はもっと独り善がりなものであると示唆することにしよう。(397)さて、彼等から聞くことができるように、把捉とは把捉的表象への同意であって、2重の事態であると思われる。つまり、一方では何か本意からではないものを備え、他方では本意からのものであって我々の判断のうちにおかれているのである。なぜなら、表象を受け取ることは意欲しうることではないからである。そして、特定の状態におかれることはそれを受けるものにではなくそのような表象を与えるものにむしろ存しているのである。例えば、白色に遭遇すれば白い状態におかれるとか、甘いものが味覚に触れると甘い状態におかれるとかいう風に。しかし、これら動かされたものに同意することは、表象を与えられた者に存しているのである。  (400)ストア派の連中が言う所の論証の表象など存在しないということは、まず第一に、そもそも表象とは何であるかということに関して、彼等自身の間に見解の相違があるということから示される。というのは、それは主導的部分における刻印であるという所までは見解が一致しているものの、その刻印そのものが何であるかということに関しては見解が異なっているからである。 ↓ Sextus, M. 8.400 = SVF. 1.484 (Cleanthes) つまり、クレアンテスは文字通りにこれを、凹凸のある、理解されるものと理解しているが、 ↓ クリュシッポスはもっと転義的に、変容という意味に置き換えて理解しているのだ。 Sextus, M. 8.409 = SVF. 2.85= LS. 27E  (409)方や、語るに価することを次のような事例を通じて物語ろうとする人々もいる。つまり彼等はこう言っている。教師や軍事教官は時に生徒の手を取って節を取ったり何か特定の動きの動かし方を教えたりもすれば、時には離れたままで節に合わせて何か動いてみせて自分を生徒が真似するようにしたりもする。丁度そのように、表象される対象にも、まるで主導的部分に触れたり触ったりするかのようにそこに刻印するものもあれば(例えば白いものや黒いもの総じて物体がそうである)、また別のそのような性質を持つものもあって*、それはそれらについて表象する指導的部分によるのであってそれらそのものによるのではない(例えば非物体のレクトンがそうである)。(410)しかし、このようなことを言う人々は説得力のある図式を用いてはいるが、課題を解決してはいない。というのも、教師や軍事教官は物体であり、それ故子供に表象を作り出すことができる。しかし、証明は非物体のものとして成り立っているのであり、それ故、このものが指導的部分に刻印し表象を作り出せるかどうかが疑問とされたのであるから。 *色々読みの提案はあるが、そのまま読んでみた。 Sextus, M. 8.429 = LS. 36C > SVF. 3 Antipater 28  彼等は言う。妥当な帰結を導かない文は4通りの仕方で生じる。つまり、分断、余剰、誤った形で取り上げられること、不足、によってである。さて、分離によるというのは、仮定相互と仮定と帰結の間に何の共通性も関連もない場合であって、例えば次のようなものにおけるような場合である。「もし昼ならば、光がある。さて、穀物は広場で売られている。故に、光がある」というのも、見ての通り、この命題において「もし昼ならば」は「穀物は広場で売られている」と何の一致も関連ももっておらず、またこの両者とも「故に、光がある」とは何の関連も持たず、これらは相互に分断されているからである。(431)さて、余剰によって文が妥当な帰結を導かないものとなるのは、何か関係ないものが余計に前提に加えられる場合で、例えばこのような文における場合である。「もし昼なら、光がある。さて、実際昼である。ところでまた、徳は利益になる。故に光がある」というのも、「徳は利益になる」は他の前提に余計に加えられているからである。この節が取り去られても、残った諸前提「昼ならば、光がある」と「さて、実際昼である」によって「故に、光がある」という帰結は導き出されうる以上。(432)さて、誤ったよからぬ形で取り上げ語られることによって文が妥当な帰結を導かないものとなるのは、健全な形から外れて考慮されている命題の何らかの形態において語られる場合である。例えばこうである。「もし第一なら、第二である、さて少なくとも第一である。故に第二である」が健全な形態だとしよう。また、「もし第一なら、第二である。しかし少なくとも第二ではない。故に第一ではない」もそうだとしよう。すると我々は、次のような形態で語られた文は妥当な結論を導かないと言うのである。つまり「もし第一なら、第二である。しかし少なくとも第一ではない。故に第二ではない」これが妥当な推論を導かないのは、このような形態にある文が真なものによって真なものを推論するものとして立てられ得ないからではなくて(というのも、例えばこういう推論もあるからである。「もし3が4ならば、6は8である。しかし少なくとも3は4ではない。故に6は8ではない」)、何かよからぬ文がこの形態におかれることもありうるからなのである。例えばこのようなものである。「もし昼ならば、光がある。しかし実際には昼でない。故に光がある」(434)さて、不足によって推論が妥当なものでなくなるのは、推論の形をとる陳述に何か不足するものがある場合である。例えば「富は悪いものであるかまたは富は善いものであるかどちらかである。しかし、少なくとも富が悪いものだということはない。故に富は善いものである」。これが妥当でないわけは、選言において「富は善悪無記である」が不足しており、その結果健全な議論はむしろこのようなものになるからである。「富は善いものであるか悪いものであるか善悪無記なものであるか、どれかである。しかし、富は善いものでも悪いものでもない。故に善悪無記である」…(440)さて、懐疑派の人々は応えてこう言うだろう。もし余剰の状態にある推論が妥当でないのであり、また残りの要素から組み立てられた何らかの陳述から帰結が導かれるならば、その第一の形において問題にされた推論も妥当ではないと言うべきではないのか、と。それは次のような意味である。「もし昼ならば、光がある。さて実際昼である。故に光がある」つまり、この文において結論に導く論を整えるのに「もし昼ならば、光がある」という仮定は間延びしており、「昼である」だけからでも「故に、光がある」は推論されうる。(441)このことはそれ自体としても自明であるし、これをあの方々お好みの「調和(整合)」からなだめすかすこともできる。つまり、彼等はこう言うのだ、「昼である」ということに「光がある」ということは調和するか、そうでないかどちらかである。さて、調和するなら、「昼がある」ということが真であると同意されるとまさにそこから「光がある」ということも導き出される。必然的に前者に伴うのだから。そしてまさにこれが結論である。(442)しかし、調和しないのであれば、仮言命題の方にも調和しないであろうし、それ故仮言命題は偽であろう。それにおいて、後件が前件に調和しないのであるから。従って、上述のテクニカルな議論にある限りのどちらかでなければならないのであり、先の第一の形態における陳述は仮定命題の分だけ余計なので妥当な推論ではないということになるか、さもなくば仮定命題自体が虚偽を含んでいるので全面的に虚偽であるということになる。(443)ところで、「単一仮定命題」などクリュシッポスの教説にはないと言うことは、おそらくこの反論に対してそう言う人もいるだろうが、全く馬鹿げている。なぜなら、クリュシッポスの発言にあたかもピュティア神託の御託宣に従うように従わねばならないということはないし、また人々の証言によって、反対のことを証言する人から自分の発言を禁止することに向かうことはできないからである。というのも、アンティパトロスは、ストア派の最も優れた人物の一人だが、単一仮定命題が推論を導くことはできると言っているのだから。 Sextus,M.9.11=SVF.2.301  しかしながら、ストア派の人々は始源を2つ、つまり質のない質量と神、と言っているのだが、神の方は能動し、他方質量は受動し変化を被ると理解している。 Sextus Empiricus, M. 9.13 = SVF. 2.36 = FDS. 5  (13)神々に関する言理は定説に則って哲学をする人々にとってもっとも必要なものであるように思われる。それで、彼等は言う、哲学とは知恵の実践であり、知恵とは神々や人々に関わる事柄についての知識なのである、と。ここからして、神々に関する探求には難があると我々が提示するなら、我々は論点を組み立てて、知恵は神々と人間に関わる事柄の知識などではなく、哲学も知恵への努力ではないと言えるだろう。 Sextus, M. 9.30 = SVF. 1.554 (Cleanthes)  幸福とは、ゼノン、クレアンテス、クリュシッポスの議論によると、生の滑らかな流れである。 Sextus, M. 9.85 = SVF. 1.114  (85)しかしまた、理知的な本性を全面的に包摂しているものは理知的である。全体が部分よりも劣るということはありえないからである。 ↓ さて、宇宙を統べている本性が最高のものであるとすると、それは叡智的で優れたものでもあり、不死でもある。このようなものが神なのである。 Sextus, M. 9.88 = SVF. 1.529 (Cleanthes)  (88)他方、クレアンテスは次のような議論をなした。自然本性同士の間に力の上下があるとしたら、何か最高の自然本性というものがあるはずである。魂同士の間に力の上下があるとしたら、何か最高の魂というものがあるはずである。またさらに、動物同士の間に力の上下があるとしたら、何か最強の動物というものがいるはずである。なぜなら、このようなことが無限に続くということは自然本性に反するからである。そうすると、本性が力の面で無限に増大するということがないのと同様に、魂や動物にもそういうことはないのである。(89)しかしながら、動物同士に力の上下があるのは事実である。例えば、何でもよいのだが、馬は亀よりも強いし、馬よりも牛の方が、牛よりも獅子の方が強い。しかし、ほとんど全ての陸上動物を、肉体的にも精神のあり方の点でも、凌ぎ凌駕しているのが人間である。つまり、人間が最強最高の動物であると言えよう。(90)とはいえ、人間は完全に最強の動物であるわけにはいかない。早い話、ずっと一生病苦にさいなまれながら生きていくかもしれないし、それはないとしても、ほとんどそういうことかもしれない。(というのも、ようやく徳に到達したとしても、年をとってからということかもしれないし、人生の斜陽に差し掛かってやっと到達するかもしれないから)もちろん死ぬこともあり得るし、虚弱だったり、数多くの助けを必要としているかもしれない。例えば、食べ物とか、衣服とか、その他肉体を世話するのに必要なものである。これらは、非常に苛烈な僭主のようにして我々を圧迫し、日々当然のように分け前を要求するのである。そして、我々が出すものを出さず、入浴や塗油、衣食に事欠くと、病気や死を持ち出して脅すのである。したがって、人間は完成された動物であるどころか、不完全で、完全な動物からは程遠いのである。(91)方や、完全で最強最高の動物は人間の一種であるが、全ての徳に満たされ、悪に陥ることは全くありえない。このような存在は神と異ならない。故に、神は存在する。 Sextus, M. 9.104 = SVF. 1.111  (104)またゼノンはこうも言っている。「理知的なものはそうでないものよりもより優れている。さて、宇宙よりも優れたものなどない。故に、宇宙は理知的である。同様にして、知性と魂を備えたものに与っているとも言える。つまり、知性を備えたものは、そうでないものよりも優れているし、魂を備えたものも、そうでないものより優れている。さて、宇宙よりも優れたものなどない。故に、宇宙は知性と魂を備えている」 Sextus, M. 9.107 = SVF. 1.110  (107)プラトンは実質的にはゼノンとほとんど同じ言説を表明したのである。つまり前者はこう言ったのである。この万有は非常に美事なのであり、本性、つまり確からしい理に従って仕上げられた作品であり、知性を備え理知的な、魂をもった生物なのである。  こうした類のことが以上のような議論にあることは確かである。 ↓ Sextus, M. 9.123 = SVF.2.1017  (123)さて、続いて考察するのは、神をないがしろにする人々に帰結する無茶苦茶な事柄の有り様である。つまりこうだ。もし神々が存在しないのならば、敬虔も存在しない*。なぜなら、経験とは神々に対する奉仕に関する知識だからである。しかし、実在しないものに対する奉仕などあり得ないし、そこからして、それに関する知識も何ら存在しないことになる。つまり、馬牛の世話に関する知識などというものが、馬牛などというものが実在しない以上、あり得ないように、神々の世話に関する知識も、もし神々が実在しないならば、ないだろう。従って、神々が存在しないならば、敬虔は実在しない。しかし、敬虔というものはある。しかるに、神々は存在すると言うべきである。(124)また言うと、もし神々が存在しないなら、神聖さも実在しない、それは神々に対するある種の正義であるから。しかしながら、少なくとも全ての人に備わる共通観念と先取観念に基づくなら、神聖さは存在するし、その限りで、神聖さというものも何か存在するのである。故に、神的なものも存在することになる。(125)しかるに、万が一神々が存在しないならば、知恵は滅びる。知恵とは、神々に関する事柄と人間に関する事柄とに関わる知識だからである。そして、人間に関わる事柄と馬牛に関する事柄に関わる知識などというものが、人間は実在するが馬牛は実在しないので、ないのと同様に、人間に関わる事柄と神々に関わる事柄とに関する知識もないことになる。人間は実在するが、神々は存在しないから。しかしながら、知恵が存在しないと言うのは無茶苦茶である。故に、神々を実在しないものとみなすのも無茶苦茶で馬鹿げている。 *削除提案に従う  (126)またさらに、正義も人間同士及び人間と神々との交わりに従って導き入れられたのだとするなら、もし神々が存在しないなら、正義も成り立たないことになるだろう。これは馬鹿げている。ゆえに、神々は実在すると言うべきである。 Sextus Empiricus, M. 9.130 = SVF. 3.370  このような事柄[理不尽な動物たちとも何か共通のものが我々にはあるということ]をピタゴラスの周りにいた人々は説いていたのであるが、間違っている。というのも、我々とあのものたちを通じる何らかの気息があるならば、即理をもたない動物たちに対して何らかの正義が我々にはあることになるからである。すなわち、見たまえ、石や植物にも何らかの気息が通じており、そうして我々は彼らに通じることになるのだが、そうかといって我々には植物や石に対する正義などはないし、またそのような物体を切ったり割ったりしても不正にはならないのである。ではなぜストア派の人々はある種の正義と交流が人間同士のうちにも人間と神々の間にもあるというのか。あらゆるものに行き渡っている気息があるからというのではない。その場合には、理をもたない動物どもに対しても我々は何か正義を確保することになったであろうから。そうではなくてむしろ、我々は我々相互と神々に広がる理をもつからだというのである。理をもたない動物たちはこれに与らないので、我々に対して何ら正義をもたないことになる。 Sextus, M. 9.133 = SVF. 1.152; 3 Diogenes 32  (133)ゼノンは次のような言説も説いたのである。 「人が神々を讃えるのは理にかなったことでありうる。  しかし、人が存在しないものを讃えているならば、それは理にかなったことではありえない。  故に、神は存在する」 この言説に対峙してこう言う人々もいる。 「人が賢者を讃えるのは理にかなったことでありうる。  しかし、人が存在しないものを讃えているならば、それは理にかなったことではありえない。  故に、賢者は存在する」 この議論はストア派の人々のお気に召さない。彼等の理論に従うと賢者というのはいまなお見い出されえないのであるから。  (134)しかし、この平行論に対しバビロニアのディオゲネスは抗弁してこう言うのである。つまり、ゼノンの議論にある第二の命題は実は次のような意味だと言うのだ。「本性上存在するというものを讃えているならば、それは理にかなったことではない」こう理解すれば、神々が本性上存在するのは明白である、というのだ。(135)もしそうなら、神々は間違いなく存在する。つまり、かつて存在したものは全て、今も存在するのである。原子が存在したとすれば、今も存在している、というのと同様である。そのような物体は、概念上、不生不滅である。従って、その議論がそのような帰結を導出するのは論理的に正しい、というのだ。しかし、賢者が、本性上存在するので、実際にも存在する、というのは正しくない。 Sextus, M. 9.153 = SVF. 3.274  つまり、抑制は正しい理に則して生ずることを踏み越えない性状、あるいは控え難いと思われていることより我々を優越させる徳である。というのは、彼等は言う、抑制のあるのは死のうとしている老婆から離れる人ではなく、ライスやフリュネや誰かこういう女性から、我がものにできるにも関わらず、離れる人なのだから。さて、忍耐は耐えるべきことと耐えるべきでないことに関する知識、あるいは耐え難いと思われていることよりも我々を優越させる徳である。… (158)勇気を持っているならば、怖いことと怖くないことと中間のことに関する知識をもっているのである。…(161)大心をもっているならば、偶然の出来事よりも我々を優越させる知識をもっているのである。…(162)思慮をもっているならば、善いことと悪いことと善悪無記なことに関する知識をもっているのである。…(167)神的なものが完全に有徳であり、思慮をもっているなら、よい思案ももっているのである、よい思案が思案されうることに関する思慮である限りで。…(174)というのは、節制は思慮が判断したことを選択と忌避において保持する性向であるから。 Sextus,M.9.352=SVF.2.80  (352)さて、こうしたことがこの論題における難問なのだが、定説家達は、自らにわずかな呼吸しか与えず、こう言ってのけるのが常である。つまり、外界に実在し感覚されうるものは全体でも部分でもなく、あのものに全体とか部分とかいう述語を付け加えるのは我々なのである、と。(353)というのは、「全体」というのは関係的なものの一つだからである。なぜなら、部分に対して全体が考えられるのであるから。そしてまた、「部分」も関係的なものの一つである。なぜなら、全体に対して部分が考えられるのであるから。さて、関係的なものは我々の記憶の内にあり、我々の記憶は我々の内にある。だから、全体と部分も我々の内にある。そして、外界に実在し感覚されうるものは全体でも部分でもなく、我々が我々自身の記憶を述語付けるものなのである。 Sextus,M.10.218=SVF.2.331=LS.27D  このようにして、これらの定説家たちは時間を物体とするが、ストア派の哲学者たちはそれを非物体的なものであると主張した。というのは、あるものどものうち、一方のものは物体であり、他方のものは非物体的なものであるといい、非物体的なものとして、言表されるもの、空虚、場所、時間の4種を数えているからである。このことから、彼等が、時間を非物体的なものと考えているのみならず、それを、自体的なものとして思惟されるあるものとみなしていることは明かである。(岩崎允胤訳) Sextus,M.11.3=SVF.3.71  古アカデメイア派の人々、逍遥派の人々、さらにはストア派の人々はこう断言するのが常であった。曰く、在るもののうちには善いものも悪いものも両者の中間のものもあり、最後のものは善悪無記なものと呼ばれている。 Sextus, M.11.8=SVF.2.224=LS.30I  技術書の著者達の言うところでは、定義は単に構文の点で普遍的な言明と異なるに過ぎず、意味の点では同じである。そしてこれはもっともである。つまり、「人間とは理性的で可死的な動物である」という者は「何かが人間であるなら、それは理性的で可死的な動物である」という者と意味は同じだが音声は異なることを言っているのである。(9)このことが事実そうであるのは明らかであるが、それは普遍的な言明が個物を包摂しうるからだけではなく、定義が所与の対象の全種類にまで及ぶからでもあるのだ。例えば人間のそれは全ての人種に、馬のそれは全ての馬に当てはまる。そして、そうではないものが一つでもあれば、あらゆるそれらはだめになるのであり、普遍言明でも定義でもそれは同じことである。(10)さて、この両者は音声は全く異なっているが意味は同じであるように、彼等が言うところでは、完全な分類も普遍言明と同じ意味を持つが、構文ではそれと異なっている。つまり、「人間のある者はギリシャ人で、ある者は外人である」と分類された文は「もし人々がいれば、その人々はギリシャ人であるかさもなくば外人である」というのと何か同じことを意味しているのである。すなわち、ギリシャ人でも外人でもない人が一人でも見つかれば、必然的にその分類はだめになるし、普遍言明も偽になる。(11)それ故、「在るもののうちあるものは善いものであり、あるものは悪いもの、あるものは中間のものである」とこういう文は、クリュシッポスによると、意味的には次のような普遍言明と同じことである。「何かが在るものだとすると、それは善いものは悪いものか善悪無記のものかどれかである」無論、こういう普遍言明は、そうではない事例が一つでも含まれれば、偽である。 Sextus Empiricus,M.11.22-=SVF.3.75=LS.60G(善)  ストア派の人々は、いわば共通の理解に与っているのだが、善を次のように定義する。「善は益であるか、益と異ならないものである」益ということで彼らが意味するのは徳と優れた活動のことであり、益と異ならないものとは優れた人と友のことである。徳は指導的部分の一定の性向であり、優れた活動とは徳に即した何らかの実践なのであるが、この両者はそのまま益といってよい。しかし、優れた人と友は、言うまでもなく彼ら自身も善きものではあるが、益とも言われえないし益とは異なるものとも言われえない。それは次の理由による。つまりストア派の学徒たちは言う、部分はそれ自身が全体によってあるのではなく、かといって全体とは異なるものでもない。例えば、腕は、腕は全身ではないから、腕そのものが全身によってあるわけでもなければ、全身は腕と一緒になって全身として認識されるのだから、全身とは異なるものでもない。だから、優れた人や友という部分も徳であるのだし、その部分は全体によってあるわけでもなければ全体とは異なるものでもないのだから、優れた人や友は益とは異ならないものと呼ばれるのである。従って、すべての善はこの規定によって包含されるのである、そのまま益であるにせよ益とは異ならないものであるにせよ。そこからして、彼等は3様の語り方をしながら善という言葉を使っているのである。その各々の意味をそれ固有の場合に即して次のように素描している。すなわち、彼等は言う、第1の意味では善とはそれによってあるいはそこから益されるものであって、これは最も主要なものとしての徳である。すなわち、あたかも何か泉のようにそこから全ての益が沸き上がるようになっているのである。別の意味では、それに従えば益されることになるものが善である。この意味で、徳だけでなく徳に即した活動も、それに従えば益されることになるのならば、善と呼ばれるのだろう。第3のそして最後の意味では、善は益すことのできるものである。そこには徳からの報いも含まれている。つまり、徳と徳の内にある活動と友人たちと優れた人々と優れた神的な心霊のことである。 Sextus, M. 11.30 = SVF. 1.184; 554; 3.73  それ自体の故に選択に値するものが善であると言う人達がいた。「幸福に向けて共に貢献するものが善である」とこのように言う者もいたし、「幸福を完成させうるもの」が幸福なのであるという者もいた。さて、ゼノン・クレアンテス・クリュシッポスの学派が論じるところでは、幸福とは生の流暢な流れである。 Sextus Empiricus,M.11.30=SVF.3.75  ストア派の人々は善という語の使用に当たって第2の意味を第一のものに含め、第3のものを先の両者に含めるのが常である。 Sextus Empiricus,M.11.33=SVF.3.75  (反対する人々がこう言った:もし本当に善とはそこから益されることができるものだというのなら、主要な徳だけが善であると言うべきであって…個々の個別の徳は善の定義から除外するべきなのだ)この批判に対立する人々は次のことを言うのである。「我々が「善とはそこから益されることになるものだ」という場合にはそれを「善とは生あるものの何らかがそこから益されることになるものだ」ということと等しいこととして言っているのだ」すなわちこのような意味では、平たく言って益することを妨げず生あるものの何らかが益されることを許すのであれば各々の個別の徳も善であることになるだろう。例えば、思慮同様に思慮活動も善であるし、節制同様に節制活動もそうである。 Sextus,M.11.40=SVF.3.77(悪の規定)  つまり、善と反対のものが悪である。それは害であるかあるいは害と異ならないものであり、害とは悪徳つまり邪悪な行為のようなもの、害と異ならないものとは邪悪な人間つまり敵のようなものである。 Sextus,M.11.46=SVF.3.96(善いもの)  ストア派の人々は3種類の善いものがあり彼等自身それを手に入れていると言ったが、そんなことはない。つまり、それらには魂に関わるもの、外的なもの、魂に関わるのでも外的でもないものがあるといい、肉体に関わる善いものを善いものではないものとして除外している。さらに、彼等の言うところでは、魂に関わるのは諸徳目と優れた行為、外的なものは友人、優れた人、優秀な子供や両親、類似のものであり、魂に関わるのでも外的なものでもないのは自分自身に関係する場合の優れた人そのものである。なぜなら、外的なものはそのものが自分自身に所属することはできないし魂に関わることもできないので。というのも、魂と身体から成り立ったのであるから。 Sextus,M.11.59=SVF.3.122(無記)  ストア派の人々はこのものを善ではなく善悪無記だと言った。彼等が考えるに、「善悪無記」は3通りの意味で語られる。第一の意味では、衝動も反発も向かうことがないものということであって、例えば星や髪の毛が偶数あるか奇数あるかということである。別の意味では、衝動や反発は向かうのだが特にどれに一層向かうということはないということである。どちらかを取らねばならないのだが、鋳刻の点でも光沢の点でも大差がない2つのドラクマ硬貨におけるようなものである。つまり、どちらかに衝動は向かうのだが、特にどれに一層向かうということはないのだ。第3つまり最後の意味では、善悪無記とは幸福にも不幸にも寄与しないということだと彼等は言う。彼等が言うには、この意味では健康と疾病および肉体に関わる全てのこと、外的なことの大部分が善悪無記となるが、それは幸福にも不幸にも関係ないからである。善くも悪くも使用できるものは善悪無記であろう。要するに、徳は善く、悪徳は悪く、健康や肉体に関わる事柄は場合によって善くも悪くも使用されるから、この最後のものは善悪無記なのである。実際、彼等が言うには、善悪無記なもののうちには優先物も非優先物もどちらでもないものもある。そして、優先物とは十分な価値をもつものであり、非優先物とは十分な反価値をもつものであり、優先も非優先もされないのは例えば指を延ばすか曲げるかということやこれに類似の全てのことである。優先物に定められるのは健康や力や立派な財産や立派な思惑や立派な思念であり、非優先物に定められるのは疾病や貧困や苦痛やこれらに類比のものである。ストア派の人々はこのようなことを言う。 Sextus Empiricus, M.11.63-7 = SVF.1.361(アリストン)= LS.58F(無記)  健康やこれに似たものは優先される善悪無記なものではないと言ったのはケオスのアリストンである。というのは、このものを優先物だと言うことは、このものを善と評価することに等しく、ただ名前の点で異なっているにすぎないとすることだからである。つまり、全般的に言って、徳と悪徳の中間にある善悪無記なものどもは何ら差異をもたず、本性上優先されるものや優先されないものなどないのであって、それどころか、その時々の状況がどれだけ違おうと、いわゆる優先物が[本当に]全面的に優先物になるわけではないし、いわゆる非優先物が必然的に非優先物になるわけでもない。適切な例証はこうだ、健康な人々は僭主に仕えそのせいで身を滅ぼさなければならないが、奉仕を免れている病人たちは破滅からも開放されるに違いない場合、賢者はその場合は健康でいるよりも病気になる方を選択するであろう。そしてこの理由で健康は全面的に優先物ではないし、病気も非優先物ではない。(67)さらに、名前を書く場合にも我々は状況の相違に対処しつつそれぞれの場に見合った別々の字母を先に書くが、例えば「ゼウス」という名前を書く時には「ゼ」を、「イオン」という名前の時は「イ」を、「オリオン」という名前の時は「オ」を先に書くが、それはある字母が本性上別の字母に優先されるからそうなるのではなく、時と場合がそうせざるを得ないようにするからなのである。それと同様に、徳と悪徳の中間にある事物に関しても何かを別のものよりも本性的に優先することなどおこらないのだ。むしろそれは状況に応じて優先されるのだ。 Sextus, M. 11.73 = SVF. 3.155; Archedemus 22; 1.574 (Cleanthes)(パナイティオス断片としては未収録)  例えば、快楽を方やエピクロスは善だと言うし、「享楽的というよりは狂落的な」悪徳と言う者もいれば、ストア派の人々は善悪無記であり優先物でもないと言っている。しかし、クレアンテスはこのものを自然に則すものでも生において価値を有するものでもなく、箒が自然に従うものでないのと同様であるというが、アルケデモスは、わき毛がそうであるような意味で自然に従うものではあるが価値を有してはいないと、パナイティオスは自然に則すものも自然に背くものもあると言っている。 Sextus,M.11.90=SVF.3.79  無思慮、それだけが悪であるとストア派の人々は言っている。 Sextus Empiricus,M.11.99=SVF.3.38  左様。しかし、立派なものだけが善であると考える人々もまた、このものが本性上選択に値するということが理不尽な動物どもからも明らかになると認めている。というのは、彼等は言う、我々が見るではないか、雄牛や雄鳥のようにある種の気位の高い動物どもが彼等の下に何の悦楽や快楽もおかれない場合でさえ*死ぬまでどれほど戦い抜くかということを。(100)その一方、祖国や両親や子供たちのために自分自身を破壊にゆだねた人々もこんなことは決してしなかっただろう、彼等に死後の快楽が期待されないならば、善美なものが彼等や全ての気位の高い動物たちをこのものを選択することへと本性上引っ張らない限り。 *アーペルトに従いkaiperと読む ↓ (101)しかし、この人達も見落としていることだが、上述の動物たちが最後の息をするまで善の観念をもって戦い抜くなどと認めることはまったく愚直なことである。 ↓ Sextus Empiricus,M.11.99=SVF.3.38  というのは、彼等自身がこう言うのを聞くことができるのだから。思慮のある性状だけが善美なものを見るのだが、無思慮なそれはこのものを見分けることについて盲目である、と。ここからして、雄鳥や雄牛も思慮のある性状をそなえていない以上善美なものを見られないことになろう。 Sextus, M.11.162 = SVF.2.119  ここからして、必然的に、こういう者が袋小路や自己同着に陥るとか思っている連中を軽蔑せねばならない。袋小路に陥るというのは、人生全体が選択と忌避の内にあるのに、何ら選択も忌避もしない人は生というものをそもそも否定して何か草木のような生き方を送ることになるからだというのだ。自己同着に陥るというのはこういうことだというのだ。つまり、ある時、僭主に何か秘密を話すように強制された場合、僭主の命令に従わず自ら死を選ぶか、さもなくば、僭主の命の通りにして拷問を逃れるかどちらかになったとしよう。この場合、ティモンの言う通りに「選択もしなければ忌避もしない」ということはありえず、一方を選び他方からは遠ざかるということになるだろう、というのだ。そして、まさにこのことこそ、何かを避け何かを選択するということを自身をもって理解している人のすることだというのだ。しかるに、こういうことを言う連中は何も分ってはいない。 6:生に関わる技術というものが何かあるのか否か  (168)全てのものについて判断中止を選択する者が流儀に従って生きることができるということは我々に十分に証明されている。並行する仕方で教条家たちの教説を吟味することを妨げるものは何もない、部分的には既に吟味されてはいるが。 ↓ Sextus,M.11.168=Usener 219=LS.25K  というのは、彼等は生に関わる技術を与えると公言しており、(169)その通りにエピクロスは哲学とは幸福な生を言論と対話によって保つ活動であると言っていたのである。 ↓ Sextus,M.11.170=SVF.3.598  (170)しかし、ストア派の人々はあからさまに思慮、すなわち善いものと悪いものとどちらでもないものの知識が生に関わる技術であると言っており、これに与る人々だけが立派であり、彼等だけが富者であり、賢者であるとしている。なぜなら、多大な価値を有するものをそなえている者は富者であり、徳は多大な価値をそなえており、賢者だけがこのものをそなえている。故に、賢者だけが富者である。また、愛するに値するものは立派であり、賢者だけが愛するに値する。故に、賢者だけが立派である。 ↓ (171)さて、このような約束は空しい期待で若者達をとらえるが、真実のものではない。 Sextus, M. 11.182 = SVF. 2.97  (182)というのは、技術とは把捉の体系であり、把捉とは把捉的表象への同意であるから。 ↓ しかし、把捉的表象などない。全ての表象が把捉的ではないし(なぜなら互いに齟齬するから)、何か把捉的な表象があるということもない(判断されていないのだから)のだから。そして、把捉的表象がないのだから、これに何か同意が生じるということもないし、しかるに把捉もない。把捉がないのだから、把捉からなる体系が成立するということもなく、技術もそうである。これに整合するのは、生に関する技術など何もないということである。 ↓ Sextus,M.11.183=SVF.2.97(把捉的表象)  (183)こうしたことに加えて、ストア派の人々によれば把捉的表象が把捉的であると判断されるのは、実在するものからまさにその実在するものを刻印し刻み込むような仕方で生ずるからなのである。しかし、実在するものが実在すると確証されるのは、それが把捉的表象を引き起こすからなのである。 Sextus,M.11.187=SVF.2.123=FDS.61(弁証術)  (187)そして彼等自身も弁証術とは真実のことと虚偽のこととどちらでもないことの知識であると言っていた。すると、真実のこと、虚偽のこと、どちらでもないことが弁証術の課題である。 Sextus,M.11.190=SVF.1.250  (190)実際、子供たちの教育について論叢集の中で学説創始者ゼノンは何か次のようなことに触れている。 ↓ 「愛情を抱いている者と肉体関係をもつことも愛情を抱いていない者とそうすることも大差ないし、女性とであろうと男性とであろうと大差ない。愛情を抱いている者にかそうでない者にかとか、女性にか男性にかとか、ではなくて[どちらにしろ]同じことが相応しいのでありそうなっているのである」 ↓ Sextus, M. 11.190 = SVF. 1.251  そしてまたこうも書いている。 「愛している者と交わったのですか?−いや。 一体、その人と交わりたいと思わなかったのですか?−それは大いにそうだ。 すると、彼を自分のものにしようとは思いつつも、彼を誘うことは恐れたのですか?−そんなことはない。 では誘ったのですか?−確かに。 そうすると彼はあなたに従わなかったのですか?−そう、従わなかった」 ↓ (191)さて、両親に対する敬意に関しては、彼等の下では常識である母親との交りを引き合いに出す人がいるかもしれない。 ↓ Sextus, M. 11.191 = SVF. 1.256  少なくともゼノンもまた、イオカステとオイディプスに関する物語を取り上げて、母親を略奪することは何ら恐るべきことではないのだと言っている。「もし、体が弱っている彼女を腕ずくで略奪することが利益になることだとしたら、何ら恥じることはない。別の部分でも略奪し、悲嘆を止ませて喜ばし、母親から生まれの善い子をもうけるとしたら、何が恥じるべきことだろうか」 ↓ Sextus Empiricus, M. 11.192 = SVF. 3.745(クリュシッポス『国家論』)  (192)クリュシッポスは『国家論』の中で彼の言葉によればこのようなことを言っている。(母親が息子から子をもうけたり*)父親が娘から、あるいは異母兄が異母妹からそうするというようなことは多くの人々の間で今も当然の習わしになっておりそれで悪くはないのだが、そのようにこれらのことも行われてよいと私は思う、と。 *アルニムに従う ↓ Sextus Empiricus, M. 11.192 = SVF. 3.748(クリュシッポス『正義論』)  人肉食の勧めもまた彼等の堕落した敬虔の例証となるであろう。なぜなら、亡くなった人々を食べてはならないばかりか、肉体からどんな部分がいつ切り取られたにしろ、彼等の肉も食べてはならないからである。(193)しかし、クリュシッポスによる『正義論』の中ではこんなことが語られている。  「また、四肢から何か食用になる部分が切断されたのなら、それを埋めたり他の仕方で放棄してはならず、むしろ我々の肉体から他の部分ができるように使うがよい」 ↓ Sextus Empiricus, M. 11.194 = SVF. 3.752(クリュシッポス『適宜行為論』)  『適宜行為論』の中で[クリュシッポスは]両親の埋葬について詳論してこう明言している。  「両親が亡くなった場合でも非常に簡素な埋葬を行うべきである。なぜなら、爪や毛のように、死体などというものは何ら我々のためにならないのであるし、我々は何であれそのようなものには新たに注意も払わないし尊重もしないからである。だから、肉が役に立つのであればそれを使ったらいいだろう、自分の体の部分の場合のように。例えば、足が切断された場合、それを使ってもいいし、それに似たものでもそうではないか。しかし、無用なら、埋葬して墓を立ててもよいし、火葬にして灰をばらまいてもいいし、比較的大きいものを放棄して爪や毛も同然としてそれらを全然無視してもいいだろう」 Sextus,M.11.200=SVF.3.516=LS.59G(技術)  (セクストゥスは、思慮は生に関わる何らかの技術などではなく技術の名に値する固有の仕事などもたない、と証明した)しかし、これに応えて彼等が言うには、全ての普遍的なものがその仕事であり、全てのものに関わるが、技術といえる性向から生ずるか技術といえないそれからかで異なるのだ、と。なぜなら、両親を気遣うこと、なかんずく両親を賞賛することが優れた人の仕事なのではなく、優れた人のすることは思慮からそういうことをなすことだからである。(201)すなわち、健康にすることは医者と素人に共通するが、医者がするように健康にすることは技術を持つ者に固有であるのと同様、両親を賞賛することも優れた人と優れていない人に共通だが、思慮から両親を賞賛することは賢者に固有のことである。従って、生に関わる技術そのものを持つこともそうであって、その固有の仕事とは行為されるあらゆることを最善の性向からなすことである。 Sextus,M.11.204  ここからして、医術からとられた例もむしろ彼に反対するということが見出される。というのは、健康にすることが医者と医者でない者とに共通のものであると定められた上で、医術に従って成し遂げられる際には技術をもつ者にとりわけ相応しいものであると彼等が言うとすれば、医者によることが私人のそれに比べてどの点で異なっているかを彼等は知っているか(例えば、手早く苦痛なく秩序とはっきりした性格をもってなされたということ)、さもなければそんなことは知らず、こうした全てのことを共通に私人にも認めることになろう。 Sextus, M. 11.206 = SVF. 3.516  しかし他方、別の人々はこうしたことは平らかな精神と秩序で区別されるとしている。(207)というのは、中間的な技術において技術者に固有のことは何かを秩序ある仕方で作ることであり、産物を作り上げることにおいて平らかな精神であり続けることであるように(なぜなら、私人も時には技術者の作るものを作るだろうが、それはまれなことであっていつもそうするわけではなく、同じことに従って同じ仕方でそうするわけでもないから)、彼等は言う、同様に思慮ある人のすることは正当行為において平らかな精神であることであり、無思慮な人のはその反対のことである。 Sextus, Hypotyp. 2.167 = SVF. 3 Antipater 28  しかしもし、単一前提の論というのがお気に召さない人々がいるとすれば、彼等はアンティパトロスよりも信頼できるわけではない。もっとも彼はこのような論の検証などしないのであるが。