シンプリキオス 『アリストテレス『天空論』注解』 Simpl., In Aristot. de Caelo (1286 Karsten., 284.28 Heibg.) = SVF.2.535  ストア派の人々は天空の外には空虚があると主張するのだが、次のような仮説を基にしてその説を構築しているのである。彼等は言う。不動天の一番端に誰か人が立っていて、上の方に手を伸ばしたとしよう。もしその人が手を伸ばせたのであれば、天空の外部というものが何かあることになる。つまり、その人がそこに手を伸ばしたその場所が。他方、手を伸ばせなかったのであれば、そうやって手を伸ばすことをさまたげるものが何かやはり外部にあるということになる。また、今度はあの天空の限界のさらに前に立っている人が手を伸ばしたとしても、疑問は同じである。つまり、そこには何か外部があるということを受け入れることになるだろう。 (129a, 285.28 Heibg.)  つまり、もし可能であれば、宇宙の外部には空虚があるとしよう。さて、このものは限度をもっているか、無限であるか、どちらかである。…さて、クリュシッポスがそう考えたように、もしその空虚が無限であるなら、この空虚は間隙と呼ばれるのであり、つまりは、物体を受入れうるものを受け入れないのである。つまり、[その空虚の中にある]ものの何かに対して、もしそれが[空虚とは]異なるものならば、必然的に空虚以外のものがなければならなくなるし、何か物事を受け入れられるものがあるならば、その受け入れるということが可能であるか、あるいは実際に受け入れられているか、でなければならなくなる。しかし、物体は決して無限ではないし、無限の空虚に受け入れられることができるものでもないと言っている。従って、[宇宙の外の空虚は]そうした物体を受け入れることができないのである。 Simplicius, In Ar. De Caelo 512.28 Heibg.  つまり説得力のある形でそのような論を構築することも可能だが、「火」は(宇宙の)中心にあるものの、それは地球ではない、とも言いうる。……(513.7)この説を採るのはアリストテレスよりも後の人アルケデモスである。 『アリストテレス『範疇論』注解』 Simpl., Ar. Cat. (24.9-) = FDS.1257  彼等がこう言っているのもよろしい。つまり、同音異義語は事柄そのものから明らかになるが、それは同じ名前を語りながらもその名に私はある概念を君はまた別のを当てている時になのである。例えば、犬と言いながらも私は陸のそれを、君は海犬(アザラシ)を念頭に置いているようなものである。だから、同音異義語に基づく推論においても弁証家達は、問手がその語をどちらか一方の意味に結びつけるまで、静観するように命じているのだ。例えば、人が「この着物は男らしいか」と訊ね、実際男性用なら、我々は同意するだろう。また、男らしいものは勇敢かと訊ねられれば、正しいのだから、我々は同意するだろう。しかしもし、「故に着物は勇敢である」と推論するとすれば、ここで「男らしい」という語の同音異義の性格が分かれているのであり、ある意味合いでは着物のことが、別の意味合いでは勇気を具えた者のことが言われているということが示されているのである。それ故、同音異義ということに決定的に働くのは事柄そのものであって名自体ではない。 Simpl., Ar. Cat. (48.11)=LS.28E そしてこの難問を解消したのがポルピュリオスである。彼はこう言っている。「実体は2通りの意味がある。つまり、ストア派の人々の言うそれだけではなく、もっと古い人々が言う意味もあるのである。というのも、「無性質の質量」という意味合いでこれを呼んだのはアリストテレスだが、これが実体に与えられた最初の意味だからである。第2の意味は、「普遍的性質及び個別的なそれとして成り立つもの」である。つまり、青銅とソクラテスは後から生じてくるものと、それらに述語付けられるものに対して実体である。 Simplicius,In Ar.Cat. f.16d(8.66.32) = SVF.2.369 = LS.27F  しかし、ストア派の人々は第1の類の数を減らすのがよいとする。また、いくつかの類もより少ない類に変えられると考えている。つまり、彼等はそれを4つに分割する。すなわち、基体、性質、状態、関係に。そして明らかに、沢山のものを彼等は放置している。つまり、量・時・場は全くおざなりにしている。というのも、もし彼等が「状態」は次のようなものを含んでいるという余地を認めるなら、つまり、去年であるとかリュケイオンにいるとか座っているとか靴を履いているとかいうことがある意味では彼等の言うそうした範疇の下に属するというのであれば、まず第一に、それらの中にも沢山の区別があるにもかかわらず、状態という範疇を無差別に普遍性そのものであると言い張っているのである。次に、一般的に言って、この「状態」という範疇はむしろ基体や性質に似つかわしい。というのもこうした範疇は「ある状態にある」からである。 Simplicius In Ar. Cat. f.17a = SVF.2.361  しかし、普遍的なものの本性を棄却する人々は、個別の物事それだけにしか存在の基盤を認めず、事柄それ事態というものを決して観得することがない。 Simplicius, In Ar. Cat. 26e (105.8) = SVF. 2.278 = LS. 30E  種や類に実質を帰する人々に抗して、一体それは「このもの」と呼ばれうるのかどうかを問題にするべきである。というのも、クリュシッポスもイデアについて、それが「この何か」と呼ばれるかどうかを難問としているからである。そこで、類的な性質に関するストア派の人々の慣わしをまとめて問題として取り上げねばならない。変化は彼等の下でどのように表現されているのか、どういう意味で普遍が彼等の下では「「何か」でないもの」と言われているのか、そして全ての実体が「この何か」という意味を持つわけではないということに関する無知がいかにして「誰も…でない」の詭弁において生じるか、といった問題である。その詭弁というのは次のような形式をとる。「誰か人がアテナイにいるならば、メガラにはいない。*しかし、人はアテナイにいる。故に、メガラに人はいない*」彼等が錯誤したのは、人間は「何か(誰か)」ではないからである。つまり、普遍は、この議論の中で我々がこれを「誰か」の意味でとっているような意味では、「何か」ではないのである。そして、このためにこの議論はその(「誰も…でない」という)名前を持っているのである。この詭弁については次のような形でも同じことが当てはまる。「私であるところのものは、君ではない。さて、私は人間である。故に、君は人間ではない」つまり、この詭弁においてもまた、「私」や「君」は元となる個々人について言われているが、しかし「人間」は決して個々人について言われているのではない。だから、誤謬が生じたのは彼が「何々ではない」というのを「「この」何々ではない」という意味で使ったからなのである。 *…*カルプフライシュによる補填。 Simplicius, In Ar. Cat. f. 42e (165.33) = SVF. 2.403 = LS.29C  他ならぬここで、ストア派の人々は一つの類の代わりに二つのそれを数えているのである。つまり、何かとの関係においてあるものと、「何かとの関係においてどのようにあるか」(対他様態)ということとをである。そして、何かとの関係においてあるものはそれ自体においてあるものに対峙している。また他方、何かとの関係においてどうあるかということは、差異に即す事柄に対峙している。何かとの関係においてあるものとして語られるのは、甘い、苦い、その種のものと、その種のあり方をする限りのものである。何かに関係してどうあるかということは例えば、右、父親、その種のことである。差異に即すということで語られるのは、何らかの形相に従って性格付けられる物事のことである。しかるに、それ自体に即した概念と差異に即したそれとがそれぞれ異なっているように、何かとの関係においてある事柄と何かとの関係においてどうあるかということも異なっているのである。しかし、これらをまとめる際の論理的な調和は逆転している。つまり、それ自体に即してある事柄に、際においてある事柄がともに与るのである。なぜなら、それ自体においてある事柄が、他のものとの差異を持っているのであるから。白や黒のように。もちろん、差異においてある事柄に、それ自体においてあるそれが共に与るということはない。なぜなら、甘さや苦さは確かに差異を持っていて、それによってそれらも性格付けられるのだが、それはそれ自体としてそのような性格であるのではなく、何かとの関係においてそうであるに過ぎないからである。さて、「何かとの関係においてどうあるかということ」は、差異においてある事柄に対峙しているが、全く何かとの関係においてあるのである。つまり、右や父は、様態のもとにありつつ、何かに関係してあるのである。甘さや苦さは、何かに関係してあるものであるとともに、差異に即してあるものである。しかし、何かとの関係においてどうあるかということは差異に即してある事柄と実は反対のものである。そして、何かとの関係においてどうあるかということは、それ自体においてあることも差異に即してあることも不可能である。専ら、他のものに対する状態に依存しているからである。無論、何かとの関係においてある事柄が、それ自体に即した事柄であることはないが(単独であることではないから)、差異に即す事柄では十分あり得る。何らかの性格付けに基づいて論じられるからである。…  語られていることをもっと明白にせねばならないのであれば、「何かに関わる(関係)」ということで彼等が言っているのは、固有の(親近な)性格に即して一定の状態にあるが何か他のものに向かっている限りのもののことであり、「関係様態(対他様態)」は、本性上何かに生じたり生じなかったりするもので、それ自体の変化を伴わず、外部のものへの観点を伴う限りのものである。従って、差異に基づいて一定状態にある何ものかが他のものに向かっている場合、それは単に「関係的」である。例えば、性行、知識、感覚がそうである。他方、内在する差異に基づかずむしろ他のものに対する状態だけに基づいて観られる場合、それは「対他様態的」となる。つまり、息子や右側の人はそのような在り方をするためには外部に何ものかを要するのである。故に、それ自体には何の変化も生じなくても、息子が死ねば父親はもはや父親ではなくなるし、傍らにいる人が移動すれば右側の人はそうでなくなりうる。他方、甘いものや苦いものはそれ自体の働きも同時に変わるのでなければ他のものにはなり得ない。しかるに、それ自体では何の状態も被らないものが、他のものがそれに対して持つ状態に即して変化するというのであれば、対他様態にあるものは明らかにその当の状態のみにおいて存在を持っており、何らかの差異に基づいてそうなっているのではないことになる。  (43a)しかしここでも彼等には奇論が付きまとうのである。つまり、類を何か第一のものと第二のものから合成されたものとするのがそれである。例えば、「関係」が「性質」と「関係」からなっているというように。しかし、論理的な整合性ということに関して言えば、ストア派が、対他様態に関係が従うのであって、決して関係に対他様態が従うのではない、と言っているのも間違っているし、ボエトスが彼等を退けて言っていることも間違っている。…  (44b)そして、ストア派の連中が信じていることもよくない。彼等は、差異に即した特質全体から対他様態を分離しているのである。物事自体に関して何の変化も生じなくても、それらは生じたり生じなかったりすることになっているからだというのである。しかしこんなことは間違いである。… Simpl., In Ar. Cat. f. 54b (8.208.33) = SVF. 2.388  性質のうちあるものは捨て去ってあるものは残している人々もいる。それらに実質を帰した人々のうちには、それら全てを非物体だと考えた人々もいた。例えば、古人達である。方や、非物体には非物体的な性質があり、物体には物体的な性質があると考えた、ストア派のような人々もいた。 Simplicius, In Ar. Cat. f. 55a (212.12) = SVF. 2.390 = LS.28N  そしてもしアリストテレスは、所有しているだけの状態と実現態を我々のもとに残したが、アカデメイア派の人々は両方を我々に外的なものとしたのであり、ストア派の人々は、所有の状態を我々のもとにあるものと、実現したものや作り出されたものは外的なものとして、両方の思想を混ぜ合わせたのだ、としたら、自己調和しているのはアリストテレスであって、彼は「どのようにあるか」ということを性質と結び付け、両者が我々のもとにあるようにしたのである。  ストア派の人々のうちには「性質を持つ」ということを3様に規定した人々もいた。そして、そのうち2つの意味は「性質」よりも意味内容が広い。他方、残りの一つの意味、ないしは一つの部分、はそれに一致している、と彼等は言う。つまり、彼等は言う、一つの意味では差別化されるもの全てが「性質を持つもの」である、それが運動変化するものであれ状態にあるものであれ。また、滅びにくいものであろうが滅びやすいものであろうが関係ない。この意味では、思慮ある人や拳を突き出す人だけでなく走っている人も「性質を持つもの」である。しかし別の意味には運動変化は含まれず、状態だけしかない。それだから、これを彼等は「特定の状態にあるもの」とも定義したのである。例えば、思慮ある人、防御の構えをとっている人などがそうである。*さて、第3の最も特殊な意味の「性質をもつもの」も彼等は導入したが、それには特定の状態にはあるが持続的でないものは含まれず、彼等によると、拳を突き出す人や防御の構えをとる人は「性質を持つもの」ではない。*さらに、この差別化され持続的に特定の状態にあるものにも、それらの表現や概念に厳密に当てはまる形でそうあるものもあれば、厳密にはそうでないものもある。そして後者までも彼等は除外した。しかし他方、厳密に適合し持続的に差別化されたものを彼等は「性質を持つもの」としたのである。さて、「表現に厳密に適合する」ということで彼等が語ったのは性質に全く等しいということで、文法家とか思慮ある人のようなことである。というのも、このどちらも性質に対して過不足ないからである。好食家とか酒好きとかも同様である。ところが、活動に関してそのような人々、例えば大食いや大酒飲みは享楽する体の部分がそのような状態にある場合にそう呼ばれるのである。それ故、誰かが大食いなら、その人は全く好食家である。しかし、好色家が大食いだとは限らない。というのも、大食らいになる体の部分がそのままで、「大食らい性」が失われている場合でも、好食な性向は損なわれないからである。こうして、「性質を持つもの」は3様に語られるが、性質が「性質を持つもの」に厳密に適合するのはこの最後の「性質を持つもの」の意味でである。故に、彼等が性質を「性質を持つものの状態」と定義する時、第3の意味の「性質を持つもの」が取り上げられているようにその定義を受け入れねばならない。なぜなら、まさにこのストア派の人々の下では、性質は一義的に語られているが、「性質を持つもの」は3様だから。 *…* Simplicius, In Ar. Cat. 55e (214.24) = SVF. 2.391 = LS.28M  ストア派の人々も彼等の前提に則って同じ難問を、今論じている理論、つまり性質を持つものは全て性質に即して語られるというもの、に認めかねない。というのも、この人々は性質を「もたれうるもの」と言うのだが、「もたれうるもの」を残すのは一つにされたものにだけなのであるから。しかし、接触に依存するもの(例えば舟)や分離に依存するもの(例えば兵士)には「もたれうるもの」はなく、何か一つの気息的なものはそれらに見出されず、一つの状態が何らか成り立つことへと導く何ものか、それも一つのありかたをもつのだが、も見出されない。ところが、性質を持つものは接触されたものからなるものにも分離されたものからそうしたものにも認められる。というのも、一人の文法家がある性質の訓練と鍛錬によって持続的に差別化されるのと同様に、合唱隊もある性質の練習によって持続的に差別化されるからである。それだから、性質を持つものが成り立つのは秩序と、一つの働きに向かう協働によるのである。そして、性質を持つものは性質ではない。なぜなら、性向がそれらにはないからである。というのも総じて、分離された実体、つまり相互に適合した統一をもたないそれには性質も性向もないのだから。しかし、もし「どのようにあるか」が性質でなく、両者が互いに等しいと言い得ないのであれば、「どのようにあるか」によって性質を規定することは不可能である。以上の事柄に対してはこう言うことができる。非物体である同一の形相が沢山のものに行き渡っており、至る所で全体として同一であり続けているのだ、と。もしそうであれば、性質も一つのものが、個々別々のものが集められてできた性質に行き渡っているということになる。しかしもちろん、このような仮定を、ストア派の教説と一致調和していないから受け入れられないとする人がいても、力づくで結論を勝ち取ることは可能である。 Simplicius, In Ar. Cat. 56d (217.32) = SVF. 2.389 = LS. 28L  しかし、ストア派の人々は物体には物体的な性質が、非物体には非物体的なそれがあるといっている。彼等が誤っているわけは、まさにその原因から変化を被ったものと原因とが本質を同じくするという信念であり、物体と非物体に共通の原因論を前提することである。しかしながら、一体どうやって気息的な本質が物体的な性質に備わるというのか、気息自体が複合的なものであり、複数のものから合成されていて、分割可能であり、後から一つにまとめられているだけだというのに。従って、気息というのは、その本質において一つにまとめられているというわけではなく、それ自体として一番基礎的なものでもないのに。そうすると、一体全体どうやって、こんなものが他のものに、一つにまとまるということを与えられるというのだ。 Simplicius, In Ar. Cat. f. 57e(222.30)=SVF.2.378=LS.28H  しかし、ストア派の人々が言うところでは、物体における共通性質が実体の差異であるが、それはそれ自体としては分離されえず、むしろ一つの思惟内容や固有性に帰するのである。また、それが形相となるのも時間と力によるのではなく己から生じる「そのような性」によってであり、これに基づいて性質の生成が成り立つのである。しかしながら、このようなものにおいて物体と非物体に共通の遇有性がありえないならば(あの人々の理論ではそうなる)、性質の生成は決してないだろう。 Simplicius,In Ar. Cat. f. 58a (224.22) = SVF.3.203(?)  というのは、もしストア派の人々が認めたように、能力は複数の徴候をそなえうる、例えば思慮が思慮ある仕方で散歩することと思慮ある仕方で対話することをそうするように、としたら、このような規定に従うと今言われた不能も能力になるだろう。なぜなら、無術も複数の徴候をそなえもっているから。無論、ストア派の人々の別の戦術に従って、能力は複数の徴候をそなえもちかつ主題としておかれた活動を統括するものと言われるなら、またプロティノスの定義はこうして調和することになる。というのは、ストア派の人々の定義に従うと、悪徳は不能であって親近の活動を統括しないのだから。また、中間的な技術は、確実に活動するということから脱落しているが故にそう言われるのだが、しかし可能なことをそなえるということがそれによって可能となるものではあるのであり、それゆえこれに対応する不能は性質としての能力に固着しているのである。 Simpl., Ar. Cat. 88b26-7 (CAG. 8.235.3-13) = FHSG 438  さて、もしこのような人々がいたらどうであろうか。そうせねばならないにも関わらず、一を多にせず、多を一にする分割に反対し、両者を同じ固有性質にとどめおくにもかかわらず、前者は緊張し続けているが、後者は弛緩しているというので、状態と性状を一つの種としておいて、種において異なるものが「より大より小」において差異をもつことが可能であり、それをさまたげるものは何もない、と言い、典型例として非難や怒りや激昂を引いてきて、テオプラストスは『感情論』においてこれらを「より大より小」の点で異なっており同一種ではないと言っている、などという人々がいたらどうであろうか。また同様に、友愛・好意も緊張弛緩するのであり、それぞれが別々の種となるし、野蛮や獣性は怒りに対して同様な関係にあるし、欲望と愛情もそうであると、そして総じて恥ずべき感情が張り詰めると別の種に変わる、というのだ。 Simplicius, In Ar. Cat. 61b (237.25) = SVF. 2.393  しかし、こうした語についてストア派全員の慣わしとなっていることも学ぶ価値がある。というのは、そう思っている人々もいるのだが、この人々は、アリストテレスとは逆に、性状の方が性向よりもより安定していると考えているのであるから。さて、こういう妄説の出発点は、無論、より安定しているかどうかということに両者の違いがあるのではなく、むしろ両者は別の状態なのだとストア派の連中は理解しているということにある。つまり、彼等の言うところでは、性向は緊張したり弛緩したりしうるが、しかし性状は張り詰めも緩みもしないのである。従って、杖がまっすぐであることも、非常に変わりやすいものであり、曲ることもあり得るのに、性状だと彼等は言うのである。なぜなら、まっすぐであるということはそれ以上張り詰めたり弛んだりしないし、程度の差を持たないからであり、それが性状と同じだというのである。こうして、彼等は徳目も性状であると言うのであるが、それは安定した性質の故にではなく、もうそれ以上張り詰めえず、それ以上になることがありえないからなのである。しかしながら、技術は、不動のものではあるが、それでも性状ではないというのだ。彼等は性向というものを種の幅において論じているようである。他方、性状は種の極限・最高地において論じている。杖がまっすぐであることのように変動し変化しうるにせよ、そうでないにせよ。  さてさらに次のことも知っておくべきである。ストア派における「状態」はアリストテレスにおける「性状」と同じであり、解消されやすいかそうでないかということによって「性向」と異なっている。しかし、このように両者は調和していない。なぜなら、アリストテレスはおぼつかない健康を性状と呼ぶが、ストア派の人々は健康を、どういうありかたをしているにせよ、状態であるとは認めないからである。つまり、彼等は「性向」という言い回しをするのである。というのは、状態はさらに加えて得られたあり方に落ち着くということによって性格付けられるが、性向は物事が自ら実現していることによってそうされるからである。ここからして、性向は時間の長さやその強さによってそれ自体の形を作り出すのではなく、何らかの特質と性格に基づいているということになるのである。そして、根を張っているものは、その根がしっかりしている程度に関わらず、地面に根を下ろしているという一つの特質を持っているが、それと同じように、性向も、動かされやすいものにもそうでないものにも同じものが見てとられるのである。総じて、種においては沢山の性質があるが、形相を与えるような特質は希薄なのである。例えば、苦い酒、酸っぱいアーモンド、モロシア犬やマルチーズがそうで、これら全てには種としての性格が備わってはいるが、ごく微量が希薄にあるだけなのである。また、性向における定義そのものにおいて、その性格は一つの性格に留まってはいるが、別の原因によってしばしば変転されやすいという、そのようなものもそうである。それゆえ、ストア派の人々は性向をより一般的なものに拡大し、アリストテレスが性状と呼んだ変転しやすいものにまで広げたのである。そして、それらは状態とは大いに異なっていると考えたのである。というのは、健康を回復した人の性向は、寝ているとか前進しているとかその種の状態とは全然異なっているからである。つまり、後者は根付いておらず、その状態から離れることもあるのである。他方、彼等の言うところでは、前者はそのように安定しているので、それら自身に可能な限りは留まっていることができ、それ自身の本性からして確固としていて、それ固有のあり方を備え持っているのである。以上のことからして、そのように解消されにくい状態は彼等のもとでは性向とは呼ばれないのである。なぜなら、もし仮に解消されにくいということが、指サックに入っている指のように、外的なものであるなら、それはそのような安定した性向にはありえなかったであろうから。しかし、そのようにあるということの実現を自ら得たとすれば、その場合は性向のうちにあり得たであろう。陶器に変質した粘土のように、つまり、そういうものはおのずからそういうものになったのである。しかし、これらのことは以上で一通り語られたものとしよう。 Simplicius,In Ar. Cat. 62g (242.12) = SVF.3.217(徳に先行するもの)  というのは、ストア派の人々も技術に対してはこのように無条件に観察された合目的性だけを残したのであり、徳に対しては言及に値する自然な向上が先行していると表明したのだ。これを逍遥派の人々は自然的な徳と呼んだのだが。 Simplicius, In Ar. Cat. 69g(271.20)=SVF.2.383=LS.28K  しかし他方、ストア派の人々の信念は、形象も他の性質と同様に物体であると言うのであれば、アリストテレスのそれに調和しない。 Simplicius, In Ar. Cat. 70e (276.30) = SVF. 2.392  そして、ストア派の人々は性質の性質というものを作り出し、自らの状態を作り出す性向というものも作り出すのだ。 Simplicius, In Ar. Cat. 72d (284.32) = SVF. 2.393  第三の学派はストア派である。彼等は徳目を中間の技術から区別して、前者はそれ以上張り詰めも緩みもしないと言っているが、中間の技術は緊張と弛緩を受け入れると述べている。それで、性向や性質には、彼等によれば、緊張も弛緩もしないものもあれば、両方を受け入れるものもあるのである。 Simplicius, In Ar. Cat. f. 77b (302.28) = SVF.2.342  究極の製作から始める必要はない。つまり、打撃や突進によるそれから始める必要はないのだ。そして、ストア派の人々に同意する必要もまたない。この点について我々は最後まで彼等と意見を異にするのだから。彼等は、作用者は何かに接近接触することで作用をすると考えているのだ。つまり、そんな風に言うよりも、全てのものが接近接触によって作用をするわけではないと言う方がましである。 Simpl., AR. Cat. 80a4 (8.355) = SVF. 1.94  しかし、ストア派の人々の中で言うと、ゼノンは端的な運動の間隔が時間であると言った。 ↓ 他方、クリュシッポスは宇宙の運動の間隔がそれであると言った。 Simpl., In Ar. Cat. 94e (373.7) = SVF. 2.401  ストア派の連中は「所有」の範疇を「様態」の中に持ち込んだが、ボエトスはこれに異を唱えた。… Siml., In Ar. Cat. 100b = SVF.1.177  また、ある欠如態は自然的なそれとは別のものである。つまり、自然物に関するものと我々が言い、それが自然に生じた時にそう呼ぶものとは別のもので、クリュシッポスはそれを習慣付けに関するものと呼んでいる。つまり、「上着なしの」「裸足の」「朝食抜きの」といった語はただの欠如も表すが、欠如が生じている状況も何らか同時に表しているのである。というのも、牛のことを「上着なしの」とは言わないし、入浴中の我々を「裸足の」とは言わないし、鳥や、朝になったばかりの我々を「朝食抜きの」とは言わないのであり、むしろ習慣となっていることとそういう欠如が習慣となっているその状況とを共に表さねばならないからである。つまり、ある決まった時間に食事をとる習慣になっている場合、その習慣をとっている人は、その決まった時間に食事をとらなかったら、自然的な意味合いにおいてではなく習慣に即して、欠如態において欠如しているのである。それだから、何かある状態を保持していないということには、自然に即したものと、習慣に即したものがあり、また欠如も、各々のものは自然にそうなることもあれば、習慣上そうなることもあるのである。しかし、しばしば習慣ではなく適宜行為がないという意味で欠如が語られることもある。例えば、呼ばれもしないのにごちそうに与るという場合のように。その際我々が含意しているのは、その物事が適宜な仕方では行われず、習慣上の持分にも即していなかったということである。それに加えて、同名意義的に語られる事柄の欠如ということもある。というのはつまり、何か種全体が何らかの性質を備えず生じた場合、それを元々備えもっていないのにもかかわらず、我々はその種がそれを欠如していると言うからである。このような意味で、我々は植物が感覚を欠如していると言うのだが、無論それは植物は本来元々感覚をもっていないということである。また、ある種に属するもののうち、あるものはある性質を本来備えているが、別のものはそうではないという場合、我々は後者はその性質を欠如していると言う。例えば、動物の種族においては、モグラは視覚を欠如していると言う。我々が欠如について語るのは、無理矢理に何かが取り去られた場合よりもむしろこのような場合においてである。本来的な意味で欠如を我々が語るのは、本来それを備えもっているはずであるが、それが生じる時、あるいは通常それが生ずる、生ずるようになっている時にそれを備えもっていない、そういう物事に関してであって、この意味が「所有」ということに対立していると論じられているのである。そして、こうした物事のうちにある対立こそが、所有と欠如に即した対立と呼ばれているのである。…また、このことも踏まえておくべきである。つまり、時には欠如的でない語が欠如を表すこともある。例えば、貧乏は財産の欠如を、盲目は視覚の欠如を表すように。他方また、欠如的な語が欠如を表さないこともある。つまり、不死は、表現上の形は欠如的であるが、欠如を表してはいない。なぜなら、本性上死ぬことがないという意味で、したがって死んでいないという意味で、我々はこの語を用いるからである。こうして、音声上欠如的である表現には多くの混乱がある。「不ー」(ギリシャ語のa-, an-)によってこうした語彙は作られるのだが(例えば不定居者、無家庭者)、これらはある時は否定の表現とごっちゃにされ、ある時にはその逆の表現と誤っちゃにされる、ということが起こっているのである。(例が続く)こうした不規則な事態は数多いが、クリュシッポスは欠如表現に関する論述の中でこれを詳論しているものの、アリストテレスが提示したのはこんなことではなかった… Simplicius,In Ar.Cat.102a=SVF.3.238 (徳の喪失)  (劣った人から優れた人は生ずるが)逆のことをストア派の人々は認めない。というのも、徳は失われえないと彼等は言うのだから。 Simplicius,In Ar.Cat.102b=SVF.3.238(徳の喪失)  だから、以上の事柄に加えて、徳は失われえないということは容易に理解される、と言うことはたやすい。というのも実際、失われえない徳は人間に関わりのあるものではないということを、テオプラストスは変転そのものに関連して十分に論証したし、アリストテレスにもその通りだと思われているのだから。しかしさらに踏み込んで、ストア派の人々は鬱病、心身喪失、昏睡、薬物服用に伴う副作用において、理的性向並びに徳自体の全体に亘る喪失が生ずると言っている。悪徳は徳に入れ代わって侵入しないというものではないし、堅固さを欠く徳つまり古人が中庸という性向と呼んだものは変転するからというのだ。 Simplicius, In Ar. Cat. 102b = SVF.2.177  それどころか、欠如表現に関しては、十分な論述がアリストテレスの書物からもクリュシッポスのものからも得られるのである。 Simplicius, In Ar. Cat. 102d = SVF.2.176  実際、ストア派の人々は肯定文に対峙するのは否定文だけであると考えている。 Bekkeri Anecd. gr. p. 484  ストア派の人々に対して言われていることを残さないようにしておこう。彼等の説では、自然な選言文の中でも、矛盾と対立には何か違いがある。矛盾は、それ全体をそのまま受け入れることはできないものであり、これまで語ってきた通りである。例えばそれは、「昼か夜かである」「話しているか黙っているかである」さらにこれに類似のものである。これに対して、対立は全体をさらに否定することが可能である。… 『アリストテレス『霊魂論』注解』 Simplicius, In Ar. De An. 217.36=SVF.2.395=LS.28I  、複合的なものにも、これ以上は分割されない原子的な形相が備わっているとすればである。そしてこれに基づいてストア派の人々の下では個別性質が語られるのである。これはまとめて後から生じたり、また失われたりするが、複合的なものが永らえている全体において同じままである、様々な部分がそれぞれその時々に生じたり滅びたりするにもかかわらず。 Simpl. In Ar. De An. 247.24 Hayd. = SVF. 3 Boethus 11  ボエトゥスのように考えないようにしようではないか。彼は、生きている魂は不死であるというのは、死がそれに臨めばそのままではないし、それが生物に臨み魂が変質されれば消滅してしまう、という意味だ、としたのだ。 『アリストテレス『自然学』注解』 Simplicius,In Arist. Phys. 25.15 = SVF.2.312  そして、限度をもったものについて語る人々のうちには、それが2つであると言う人々もいる。そう言うのは、パルメニデス…あるいはストア派の人々である。彼等は神と質量について、神は明らかに元素であるなどとは言わず、前者は能動するもの、後者は受動するものと言うのである。 Simplicius, In Ar. Phy. (94.11) = SVF. 2.372  それだから、(アリストテレスは)有が多様であると言ったのである。他のものが本有に付帯しない限り、それに基づいて基体の性格は決められるので、それで方やある人々は、ストア派の人々が明々白々な事柄に背いてまでもそうしたように、その他のものを取り除き、また他方ある人は、その他のものも本有と同じような仕方で語られるなどとさらに過ったことを述べたのである。 Simplicius, In Ar. Phy. (227.23)=SVF.2.326  しかしながら、アリストテレスやプラトンによれば無性質の物体がまさに第一の質料であるなどという人々が、たまたま哲学に巡り会ったのではない人々の中にもいる以上(例えば、古い人々で言えばストア派の人々、最近の人々ではリュディアのペリクレス)、この考えを考察するのはもっともなことであろう。 Simpl., In Ar. Phy. (333.1) = SVF.2.965  ある人々はここからしても、運命というものがあることを認め、それは原因そのものであると言っている。しかし、それが何であるかは彼等も言うことができず、人間の知性には明らかではないものだと認めた上で、それは何か神のようなもの、神霊であり、したがって人間の理解を超えていると言っている。こういうことを言っているとされる人々にストア派の連中がある。思うに、運命とは何らか神的なものに関わるという形の思想はアリストテレス以来ギリシャにあったもので、ストア派の連中が最初にそう考えたのではない。そう思っている人々もいるようだが。 Simpl., In Ar. Phy. (420.6) = SVF.2.339  ある人々は、不動の動者などというものは何もなく、全て動かすものは動かされる、と思っている。…そして明らかに、この思想に与するのは古い自然学者のうちでは始源を一つあるいは複数の物体的なものと仮定した人々、そして最近の人々のうちではストア派の人々である。 Simpl., In Ar. Phys. (426.1) = SVF. 3 Diogenes Babyl. 19  また、音声は打撃された気息であるとする人々、例えばバビロニアのディオゲネスなど、も間違っている。つまり、音声というのは次のような物体ということになるだろう。類においては気息であるが、「受動状態」としては、打撃された気息であると。「受動状態」というのは「受動」(つまり打撃)の代わりにそういうのであるが。 Simplicius, In Arist. Phys. 1167.21 = SVF. 3.80(?)  というのはまず、自らによっては明らかではないものを自ら明らかにするということは原理的な地位を要求することができる。他方、あるいは全面的にかつ明白に価値を有するもののうち目前にあるものがこのようなものとなる。ちょうど我々が、即座に善いことを作りなすわけではない善もあるという場合、例えば善くも悪くも用いられうる能力のようなものであるが(というのは、個々の事柄への能力は善いものではあるが、善く使用されたものがそれにないならば善をなさないから)、ストア派の人々はこの見解を破棄して言うには「全て善は善いものを作りなす」ということであり、彼等は原理的な地位を獲得しているのである。 Simplicius, In Ar. Phy. 1299.36-300.10 = SVF.2.206 = FDS.1025 = LS.37K  すると、アレクサンドロスは言う、こうした議論から論じはじめると、ストア派の連中が言うところの「いわゆる不定に真理値を変える命題」が実はそのようなものではないことが論証できる。そのような命題とは例えばこうである。「もしディオンが生きているなら、ディオンは生きているだろう」つまり、この命題は、真である前提「ディオンは生きている」で始まり真である帰結「ディオンは生きているだろう」で閉じているので、今は真であるとしても、いつかは、真である前提「実際にディオンは生きている」が付加されると条件命題全体が偽になる時があるだろう。その原因は、「ディオンは生きている」はなお真であるとしても「ディオンは生きているだろう」は真ではないという時があるだろうからである。そしてその時、後件が真ではない以上、条件命題全体は偽に変わるであろう。なぜなら、「生きている」が真である時は常に「生きているだろう」も真である、ということはないからである。というのも、常にそうだとしたら、ディオンは不死になってしまうであろうから。しかし実際のところ、「生きている」が真なのに「生きているだろう」が真でなくなる時を確定的に言うことはできないだろう。だから、定まっていない不定な時にこのような命題の真理値の変化は起こる、と彼等は言うのである。