ストバイオス Ecl. 1.8.40e (104.7) = SVF. 93  ゼノンの言説。ゼノンは、時間は運動の距離であると言った。そして、遅速の単位であり基準であるとも言っている。個々のものが遅速に関してどうあるかということのそれだというのである。生じるものや既に成ったものの全てが生成し、在るものが在るのはそれに即してである。 AD. Epit. Phys. fr 26 Diels (DG. 461.7 Stob. Ecl. 1.105.8 W.)  アポロドロスは『自然学』の中で彼等の流儀に従い時間をこう定義している。「時間とは宇宙の運動の間隔である。時間が無限定であるのは、森羅万象が数としては無限定だと言われるのと同様である。すなわち、時間には、過ぎ去ったもの、今始まったもの、将来あるもの、とがある。しかし、全ての時間は、一年がそれよりも大きい枠組みに従って始まるようにして、始まるのである。しかも、時間はそのどの部分も完了してはいないからこそ存在しているのだと言われているのである」 Stobaeus, Ecl. 1.11.5a (132.26) = LS.28q  ゼノンについて。一切の存在するものの第一の質量が実体である。それは全体として永遠であり、増大もしないし減少もしない。だが、それの諸部分は、常に同一にとどまることなく、分解されたり混合されたりする。人々によって運命と呼ばれる万物の理は、あたかも、生まれたものの中での種子のように、この第一質量を貫いてゆく。(岩崎允胤訳) ↓ Stobaeus, Ecl. 1.11.5a (133.6)  ストア派のクリュシッポスの言。質をもつものに場を譲るのが第一質量である。これは永遠のものであり、増加も減少も受け入れず、分割や混合を受け入れることで部分となる。そうして、何らかの部分へと瓦解するということが生じるのだが、それは分割によるだけではなく、何か生成するものが何かに混合するということに類比的な仕方でもなされる。 Stob., Ecl. 1.12.3 (136.21) = SVF. 1.65  ゼノン<とそれに続く者達>の言説。彼等によると、内在概念とは本質(何かということ)でも性質でもなく、本質のようなものであり、魂が表象したものがある性質をとったものとでもいうものだという。これを古の人々はイデアと名付けた。つまり、イデアは内在概念に基づくものの一つなのである。例えば、人間、馬、概して、動物全体、そしてイデアがあるといわれる限りの他のもののように。しかし、ストア派の哲学者達はこれらを実在しないものだと言い、我々は内在概念に預かりはするが、我々が実際に直面するのはそれらの実例に過ぎず、それをイデアの名を借りて呼んでいるだけなのである、と言っている。 Stob., Ecl. 1.13.1c (138.14) = SVF. 1.89  ゼノンの言説。ゼノンは原因を、それによって物事があるもの、と言っている。しかし、原因が関わるものは付帯的である。そして、原因[そのもの]は物体であるが、原因が関わるものは述定である。原因はその場にあるのに、原因が関わるものが存在しないということはありえない。語られるものはそのような働きを持っている。原因はそれによって何事かが生じるものであって、例えば、思慮することが思慮によって、魂によっては生きることが、節制によっては節制することが、というふうにである。というのは、誰かに節制が備わっているのに節制していない、魂があるのに生きていない、思慮があるのに思慮していない。ということは不可能出歩。 ↓ Stob.,Ecl.1.13.1(138.23)=SVF.2.336(?)  クリュシッポスの言説。クリュシッポスは、原因となるものはものがそれに拠ってあるものだと言っている。そして、原因となるものは在るものであり物体であるが、原因となる対象は在るものではなく物体ではない。また、原因となるものは「何であるか」であるが、原因となる対象は「何によって」である。原因は、原因となるものに関する言理であり、あるいは原因となる限りの原因となるものに関する言理である。 Stob., Ecl. 1.(142.2) = SVF.2.482  クリュシッポスの主張では、物体は無限に分割されうるし、物体に似たもの、例えば面・線・場所・空虚・時間、もそうである。こうしたものが無限に分割されるならば、物体が無限の物体から成り立つということはないし、面・線・場所・空虚と時間もそうである。 Arius Didymus epit. phys. fr. 19 Diels (DG p. 457, 17. Stobaeus ecl. I p. 143, 24 W.).  物体は、幅・奥行き・高さという三重の広がりを持つ。これらは色々な仕方で語られる。つまり、高さは物体の最も主要な広がりと言われることもあれば、上下の広がりとだけ言われることもある。幅は、第二の広がりと呼ばれることもあれば、左右の広がりと呼ばれることもある。奥行きは、物体そのものに対する広がりと言われることもあれば、前後の広がりと呼ばれることもある。最初の定義に従うと、円・三角形また類似の図形のいずれもこうした広がりを持つものではないが、第二の定義に従うと、全ての物体が三つの広がりを持つものとなる。全ての場合におい手この定義に当てはまるからである。 Stob., Ecl. 1.17.3 (152.19) = SVF. 1.102  ゼノンは次のような見解を表したがそれは正確である。「万有の構成はその本質からして次のように周回せざるをえないようになっている。その周回は、火から気を通じて水に至る回帰が生ずる時に起こる。つまり、下方に置かれ土を形成するものがあり、残りのもののうち、水の状態に留まるものがあり、分割されないものからは気が生じ、分割された気からは火が燃え上がり、これらの原素が互いに変転することによって混合が生じ、物体全体が全面的に互いに貫通しあう時に、その周回は起こるのである」 ↓ Stob., Ecl. 1.17.3 (153.7) = SVF. 1.497 (Cleanthes)  他方、クレアンテスは何か次のようなことを言ったのである。宇宙全体が赤熱すると、まずその中心へと落ち込んで、次に、含まれているものが全体が鎮火する。しかし火が尽きて全体が水化すると、中心がこれに反発して、再び反対方向に成長し、それからこのように養われることで上方に増長し、全体がまとまり出すのである、と言うのだ。このような周回と秩序を常に保つことで、宇宙全体の本質にある張力は絶えることがないというのだ。つまり、何であれ一まとまりのものの部分は全て時が至った時に種子から生じるが、宇宙全体の部分もそれと同様で、その中には動植物も含まれるのだが、時が至ると生じるのである。また、部分々々にはある種の理があって、それが混ざりあって種子へとまとまり、再び分離して部分となるのであるが、それと同様に、宇宙全体も一つのものから生じて、また宇宙全体から一つのものへとまとまり、こうして調和した道筋を辿って周回を巡るのである。 Stob., Ecl. 1.19.4 (166.4) = SVF. 1.99  ゼノンの言説。宇宙の内に在る全てのもので、固有の状態に従ってまとまっているものは、その部分が全体の中心に向かう運動を有している。宇宙そのものに関しても同様である。故に、宇宙の全ての部分は宇宙の中心に向かう運動を有している、特に重量を有しているものはそうである、と言われているのは正しい。また、同じ原因によって、唯一の宇宙も無限の空虚の中にあるのであり、同様に大地も宇宙の中でその中心付近に力の均衡によって据えられているのである。  しかし、物体であれば何でも重量を持っているのではなく、空気や気息は無重量である。そして、これらもある意味では、宇宙の天球全体の中心を目指してはいるのだが、組成としてはその外周に向かうようになっているのである。なぜなら、重量を持っていないので、これらは上昇するからである。  以上と類似のことであるが、彼等は宇宙それ自体が重量を持っているのではないと言っている。宇宙全体は、重量を有する原素と有しないそれらとから成り立っているからである。  しかし、大地は全体としてそれ自体が重量を持っているというのが彼等の説である。中心という場所にあることによって(こうした物体には、中心に向かう運動が備わっている)この場所に留まっているのである。 Arius Didymus, Epit. Phys. fr. 24 Diels (DG 460,6 Stob. Ecl. 1.166.24 W) = SVF. 3 Apollodorus 7  アポロドロスが『自然学』で、運動とは場所もしくは姿勢における全体的または部分的な変化である、としているのも流儀通りである。また、状態とは場所や姿勢に固まることであり、そのように保つことである。運動の第一の類には二つある。まっすぐなものと、円を描くものとである。それらの種は数多い。それ自体に関しても運動は数多いし、場所だけをとってもそうである。例えば、散歩すること、その場を踏み越えずに走ること、さらにまた、まっすぐ動くことと、斜めにそうすること、前後左右・周回、早くと遅く、であり、これらに類似の数多くの場合に生じるのも同様である。さてまた、体全体の一部分が「体」と言われ、表面全体の一部が表面と、線全体の一部が線と、場所全部の一部が場所、時間全部のが時間とされるように、運動全体のそれも運動と言われるべきであり、まさにこの類比に従い、状態全部のそれも状態とされるべきである。 Stobaeus, Ecl. 1.20.1e (171.2 W) = SVF. 1.107; 512 (Cleanthes)  ゼノン、クレアンテス、クリュシッポスの説では、有は例えば火から気へという風に変転し、また再び後者から前者へと、かつてあった組成に落ち着くのである。より説得力のある説としては、パナイティオスが認めていた所でもあり、何よりも彼の説だったのだが、宇宙全体が火に変転するというよりも、宇宙は永遠であるという方がましである、というものがある。 Stob., Ecl. 1.20.7(177.21)=LS.28D=EK.96  ポセイドニオスの言説。ポセイドニオスが言うには、存在するものから存在するものへの生成消滅は4種類生じる。つまり、我々も既に言ったように、存在しないものからの生成や存在しないものへのそれを彼等は否定して、そんなものは実在しないと言ったのである。存在するものへと生じた変化は、分割か変容、混合に基づくとされ、全面的なそれは破壊に基づくと言われている。しかし、これらのうち変容に基づくものは実体に関して生ずるが、他の3つはいわゆる性質に関わり、性質は実体の下に生じるのである。これに整合する仕方で、生成も起こるのである。つまり、実体は付加削減の際に増加も減少もせず、ただ変容するのだが、数や長さにおいてこういうことは起こる。さて、「ディオン」とか「テオン」とかいった固有性質においては増加や現象が生じる。それ故、個々のものの性質は生成から消滅まで存続するのである。破壊されうる動植物やその他のものの場合がそうであるように。彼等*は言う、固有性質には受け入れ可能な部分が2つあり、一方は実体の実在に関わり、もう一方は性質に関わる。というのも、何度か我々も言ったように、この部分が増加減少を受け入れるのだから。しかし、固有性質と実体は同じではない。前者は後者からなるのだが。かといって、別のものでもない。むしろ、同じものではないというただそれだけのことである、固有性質は実体の部分でありかつ同じ場所を占めている以上。他方、何かから別のものと言われるならば、そのものは場所的に分かたれねばならず、部分の内に見出されてはならないのである。さて、固有性質に則すものと実体に則すものとは同じではないと言ったのはムネサルコスだが、その意見は明白である。なぜなら、そうだとすれば、必然的にこれらは同じものにおいて成り立たねばならないからである。つまり、議論のための例だが、誰かが[粘土か何かで]馬を作っていたがそれを壊してしまい後から犬を作ったとしよう。我々がこの事態を見たら、この犬はさっきまではなかったが今はある、と言うのがもっともなことであろう。それだから、このものは性質に基づいて「犬」と言われているが、実体に基づくもの[粘土?]とは異なるのである。**総じて、我々は我々の実体と同じものであると認めることは説得的ではないと思われる。というのもしばしば、そのもの(何でもいいのだが例えばソクラテス)が誕生していないのにその前にその実体が実在するということはあるからである。無論その時ソクラテスはまだ実在していない。また、ソクラテスの死後、実体は残っているがソクラテスその人は既にいない、ということもある。 *phasiと読む。 **ここの句読点はヴァクスムート通り。 Stobaeus, Ecl. 1.1.12 (25.3) = SVF. 1.537 = LS. 54I(クレアンテス「ゼウス賛歌」)  不死なるもののうちで最も貴く 多くの名を持ち 常に万能であるもの  ゼウスよ 掟によって万物を統治する自然の創始者よ  いや栄えあれ 御身を讃えるのは 全て死すべきものの務めであるから  大地に住み歩く死すべきもののうちで ただ 御身の声の  写しを授かるもののみが 御身の後裔である  されば 御身の祝ぎをうたい 御身の力を永久に頌えよう  実に この全宇宙は 大地の周りをめぐりながら、御身の導くままに  御身に従う そして喜んで 御身の支配を受ける  そこで御身は 負けることを知らない両手のもとに  二叉に分かれた剣を持ち 火の姿をして永遠の生命を持つ雷を従える  自然の全てのわざは その一撃によって成就される  それによって御身は 普遍なるロゴスを導き そのロゴスは  万物を貫いてすすみ 大小さまざまの星に融け入る  こうして御身は 永劫に亘って かくもいや高き王者である  ダイモンよ 御身から離れて成るものは この大地には何一つない  エーテルの神聖な蒼穹にも また海の中にも  御身によらぬものは ただ悪しき人々が愚かな計らいで果たすことのみ  御身は 奇怪なものをも整え 無秩序を  秩序づけるすべを知る 愛らしくないものも 御身には愛しい  こうして御身は 全ての善きものを悪しきものに調和させて一つとなした  そのため 永久にある 万物の一なるロゴスが生じた  そのロゴスを避けているのは 死すべきもののうち 悪しき人々のみ  不幸な者たちよ 彼等は善きものの所有を常に望みながらも  神の普遍の掟が見えもせず 聞こえもしない  理性をもってその掟に従うならば 善き生活を営みうるであろうに  また彼等は 愚かにも めいめいおのが悪事に突き進み  ある者は 利得を求めてどんな秩序も省みず  ある者は 放逸を求め肉体の快楽に耽る  <しかし悪しき結果を招き> いたずらにあちらこちらへ引き回され  することなすこと 願うところの裏腹となる  おお 慈悲深いゼウスよ 黒雲にまたがりきらめく電光を走らせる者よ  人間どもを哀れな無知から救い給え  父よ 我らの魂から無知を払いのけ 叡智に至らしめ給え  叡智こそ 御身が正義によって万物を支配する拠り所  かくして 我等は 御身を崇め 御身と尊敬を交わすことができよう  そして、御身のわざをやむことなく称え続けよう それこそが  死すべき我等にふさわしい 人間に いや神々にも この上もない誉れとは  不変な掟を 常に 正しく 称えることであるから (岩崎允胤訳) Stob., Ecl. 1.25.5 (213.15) = SVF. 1.120  ゼノンの言説。ゼノンは太陽、月、その他あらゆる星々が知性と思慮をもつもので、燃え上がる造化的な火であると言っている。というのも、火の誕生には二種類あり、一つは造化的でなく自らが自らの燃料となるもので、もう一つは造化的であり、増加を促し保守をするものである。後者は例えば、動植物に具わるもので、魂もこのような性質をもつ。しかるに、星々の本質もこのような火によっている。さて、太陽や月は二つの運動をなすのだが、一つは宇宙の下で上昇を繰り返すもので、もう一つは宇宙の中で星座から星座に移動するものである。これらの蝕はそれぞれ異なった時期に生じる。つまり、日蝕は太陽と月が共になる頃に、月蝕は満月の頃に起こる。そして両方の蝕とも、多く蝕することも、わずかに蝕することもある。 Stob., Ecl. 1.26.1i (219.12) = SVF. 1.120  ゼノンは月を、叡智的で思慮がある星で、造化的な火の炎だと言った。 ↓ Stob., Ecl. 1.26.1i (219.14) = SVF. 1.506 (Cleanthes)  クレアンテスは月を火のようなものとはしたが、形は羊毛のフェルトに似ていると言った。 Jambl. de Anima ap. Stob. Ecl. 1.48.8 (317.21) = SVF. 1.149  さらに、知性と、魂のより優れた能力全てに関してもまた、ストア派の人々の言説は、理性は生まれてすぐに成長するものではなく、後に感覚や表象から集積されてできるというものである。これは大体14才くらいであるということである。 Porphyr. De Animae Facultibus apud Stob. Ecl. 1.49.24 (347.21 W) = SVF. 1.377 (Aristo)  ポルピュリオス『霊魂機能論』より。  魂の機能を素描することが課題であった。つまり、それらをとりあえず詳述することが、まず、古人のなした叙述においても、それから後には、学者達の判断においても課題だったのである。  アリストンは感覚に関わる魂の機能を二種類に分割しておいて、一方は大抵は何らかの感覚器官と共に働いている部分であると言って、これを感覚機能と言った。この機能は個々の感覚の原理であり源泉となっているというのだ。方やもう一方は、特に器官はなく常にそれ自体としてあるのだが、そうかといって理のない物事に属しているとは言われえず(というのは全くそのようなもののうちにあるということはなく、とはいっても、全く何の能力もなく何をしているのかさっぱり分らないということもないのだから)、理に与る物事の一つなのである。つまり、この機能は理に与る物事のうちで最もよく、あるいはそのうちでのみ、現れるのである。アリストンはこれを叡智と名付けた。 Iamblichus, De Anima ap. Stob., Ecl. 1.49.33 (367.18) = SVF. 1.142; 2.826 = LS.28F  しかしながら、クリュシッポスとゼノンの徒である哲学者たちは無論のこと、魂を物体と考える限りの人々は全員、能力とは基体にそなわる性質であると論じており、魂は能力に先立ってそなわる本質であるとしているので、この両者から合成され、異なるものから作られた性質であると結論付けている。 Iamblichus, De Anima apud Stobaeum, Ecl. 1.368.6 = SVF. 2.826  ストア派の人々がそう言っているように、魂は肉体に混合されているので、合成された一つの生命が魂に備わっているとするならば…、そのような人々によるなら、そのものどもの現存の仕方は一つである。つまり、分有におけるそれか、生物全体への混合におけるそれか、どちらかである。ところが、彼等はためらうことはない。ストア派の人々によると、一方、ある[諸機能]は基体としての物体に差異を伴って備わる。すなわち、この人々が言うには、諸気息は指導的部分から発し、異なる場所にそれぞれ異なるものとして広がっているのである、あるものは目に、あるものは耳に、あるものは他の異なる感官へと。他方、またあるものは性質のうち独特なものを伴って同じ基体に関わる。すなわち、果実が同じ物体において美味をもち芳香をもつように、指導的部分もこのものにおいて表象や同意や衝動や理を元々統合しているのである。 Jamblichus de Anima ap. Stob. Ecl. 1.49.34 (369.6 W) = SVF.1.143  ゼノンの徒は、魂は8つの部分を持つというのを定説にしている。それはもっと多くの能力に関わっており、あたかも指導的部分に表象・同意・衝動・理性が内在しているようなものである。 Jamblichus De Anima ap. Stob. Ecl. 1.49.42 (2.382.18 W) = SVF. 1.379 (Aristo); 420 (Herillos)  同書から。  魂が神々と共になるということに関しては、ある異論を挟む人々がいる。つまり、彼等の言う所では、肉体に閉じ込められている魂に神々が混じるということは不可能であるが、他方彼等は純粋な魂が共有する国制を神々にまで延長しており、特に魂が肉体のうちで疲れ果てた後はそうなるというのである。しかし、彼等はそれらが共同に与るのは神霊や半神だけにであるとしている。(42a)*このような人々のうちにはより優れた人々もいれば、下らない人々もいる。前者はプラトンに従えば、魂が育て上げられて完成され浄化されていることでそう判断され、後者は彼等とは反対の事柄によって区別される。ストア派の人々によれば、共同と、自然に依る美事さが特徴であり。逍遥派の人々によれば、自然に則していることと均整がとれていること、人間本性を超えた叡智的な人生によって善き人々は讃えられる。ヘリロスでは知識、アリストンでは無記の態度によるのである。デモクリトスによれば姿形がよいことがそうだ。美事さのその他の要素を挙げる人々もいる。あるいはまた、ヒエロニュモスでは不乱の平静さ、あるいはまた何か別様に望ましい生活法を挙げる人々もいるのである。それらによると、個々に生まれた人生は出自からして無限に区別されるのである。このような人々に多言を要する必要はなく、無限の世界に放り出して別れてしまって構わない。 *アルニムに従いh|nを読む。また、以下の句読点もアルニムに従う。 Stob,Ecl.2.1.24(8.13)=SVF.1.352 (Aristo)  アリストンの教説:アリストンが言うところでは、哲学者たちのもとで探求されているもののうちあるものは我々に役立つが、あるものは我々に何ら役立たず、あるものは我々の能力を超えている。我々に役立つのは倫理学であり、我々に役立たないのは弁証学である(なぜなら生を正しくすることに貢献しないから)。そして、我々の能力を超えているのは自然学である。というのも、不可知かつ有用さをもつこともできないから。 Stob., Ecl. 2.2.12(22.12) = SVF.1.49 = LS. 31K  ゼノンは弁証に関する諸々の技術を義しい尺度に喩えていたが、しかしそれは穀物やその他のよいものを計るそれではなく、籾殻や肥料を計るそれだというのだ。 Stob., Ecl. 2.2.14 (22.22 W) = SVF. 1.392 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。彼は弁証に没頭している人々を蟹漁師に喩えた。餌は少ないのに沢山の殻をあれこれせねばならないからである。 Stob., Ecl. 2.2.18 = SVF. 1.393 (Aristo)  アリストンの言説。アリストンは言った。弁証は道の土に似ている。何の役にも立たず、往来の人々に踏まれる値もないのだ。 Stob., Ecl. 2.2.22 (24.8) = SVF. 1.391 (Aristo)  アリストンの言説。アリストンは弁証家達の言論を蜂の巣に喩えた。とても手がこんでいるが何の役にも立たないというので。 Stob., Ecl. 2.2.23 (24.12 W) = SVF. 1.394 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。より純度の高いエレボロスは、摂取されれば快癒に導きはするが、そういうひどくつまらないことで体は疲弊して窒息してしまう。哲学における煩瑣な論議もそういうものだ。 Ecl. 2.7.1 (38.15W) = SVF. 1.203 ストア派のゼノンに従う人々は翻ってこう言っている。人柄とは生の源泉であって、そこから個別の行為が流れてくるのである、と。 Ecl. 2.7.1 (39.5W) = SVF. 1.206  かくして、逍遥派の人々はこう定義する。しかしストアのゼノンの定義によると、感情は過剰な衝動である。彼が言うのは、「本性上過剰になる」ということではなく、既に過剰のうちにあるということである。なぜなら、感情は能力(可能態)におけるものではなく、むしろ活動(実現態)におけるものだからである。そこで彼はあのような定義もしたのだ。感情は魂の高揚であり、感情的なものをよく動かすものを翼の運動から作り出すのである。 Ecl.2.7.2(44.4W)=SVF.1.205 全ての感情は過剰な衝動である。 Stob,Ecl.2.46.5=SVF.3.2  (3b)さて、ストア派の人々によって定義的にこう言われている「目的とはそのために全てのことが適宜になされるものであり、それ自体は何もののためにもなされない」と。またかのようにも「そのために他の全てが、しかしそのものはいかなるもののためにも[なされ]ない」。さらにまた、「人生においてなされることが全てそれに関連を持つのが適宜であるが、それ自体は何にも関連を持たないもの」  (5)ゼノンとその他のストア派の人々の教説のうち哲学の倫理部に関わるもの Stobaeus,Ecl.2.57.19=SVF.1.190;3.70 (善いもの悪いもの)  (5a)ゼノンの説は次のようである。在るもののうちには善いものもあれば悪いものも善悪無記のものもある。善いものは次のようなものである。思慮、節制、正義、勇気、そして徳であるか徳に与る全てのもの。悪いものは次のようなものである。無思慮、放埒、不正、憶病、そして悪徳であるか悪徳に与る全てのもの。善悪無記のものは次のようなものである。生と死、思惑と無信念、快楽と苦痛、富と貧困、健康と病気、そしてこれに類似のものである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.58.5=SVF.3.95=LS.60K  (5b)善いもののうちには徳とそうでないものとがある。さて、思慮、節制、正義、勇気、大心、忍耐力、精神力*は徳である。しかし、歓喜、好調、大胆、意欲、及び類似のものは徳ではない。徳のうちには何事かについての知識であり技術であるものとそうでないものとがある。さて、思慮、節制、正義、勇気は何事かについての知識であり技術である。しかし、大心、忍耐力、精神力は何事かについての知識ではないし技術でもない。類似の仕方で、悪いもののうちには悪徳とそうでないものがある。さて、無思慮、不正、臆病、狭い心、無能は悪徳である。しかし、苦痛、恐怖、及び類似のものは悪徳ではない。そして、悪徳のうちには無知であり無術であるものとそうでないものとがある。しかるに、無思慮、放埒、不正、臆病は何事かについての無知であり無術である。しかし、狭い心、無能、無力は何事かについての無知ではないし、無術でもない。 *ヴァクスムートに従う。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.59.4 = SVF. 3.262 = LS. 61H  (5b1)思慮はなすべきこととなすべきでないこととどちらでもないことの知識、あるいは政治的動物の本性にとって善いことと悪いこととどちらでもないことの知識である(そして残りの徳の場合も同様に言われていると彼等は主張する)。節制は選び取るべきことと避けるべきこととどちらでもないことの知識である。正義は各々の人に賞罰を配分することの知識である。勇気は恐ろしいことと恐ろしくないこととどちらでもないことの知識である。無思慮は善いことと悪いこととどちらでもないことの無知、あるいはなすべきこととなすべきでないこととどちらでもないことの無知である。放埒は選び取るべきことと避けるべきこととどちらでもないことの無知である。不正は各々の人に賞罰を配分することの無知である。憶病は恐ろしいことと恐ろしくないこととどちらでもないことの無知である。類似の仕方で他の徳と悪徳をも定義するのである、以上言われたことを理解した人ならば。彼らは言う、より一般的に言えば徳は魂の性向であり、生涯を通じて徳に調和したあり方をするのだ、と。 ↓ Stobaeus,Ecl. 2.60.9=SVF.3.264=LS.61H  (5b2)彼等によると、しかし、徳のうちには主要なものもあれば、この主要な徳の下位にあるものもある。主要な徳は4つあり、思慮、節制、勇気、正義である。そして、思慮は適宜行為に関してある。節制は人間の衝動に関わる。勇気は忍耐に関わる。正義は分配に関わる。こうした徳の下位にあるもののうち、あるものは思慮の、あるものは節制の、あるものは勇気の、あるものは正義の下位にある。さて、思慮の下位には、判断力、算段力、洞察力、分別、的中力、発想力が属している。節制の下位には、秩序、端正、奥ゆかしさ、自制 が属している。勇気の下位には、忍耐力、大胆、大器、丈気、勤労が属している。正義の下位には、敬虔、親切、公平、敬意が属している。さて、彼らは判断力のということで、どのようなことをいかになせば有益になすことになるのかということに関わる知識のことを意味している。算段力は生成消滅する事柄をまとめたり分けたりする知識である。洞察力は適宜行為を即座に見つけ出す知識である。分別はより善い事柄とより悪い事柄についての知識である。的中力はその都度目指すものをうまく当てる知識である。発想力は問題への方策を見出す知識である。秩序はいつ何をどうやってなすべきかについての、要するに行為の秩序の知識である。端正はふさわしい行動とふさわしくないそれの知識である。奥ゆかしさは本当の恥をうまく判断する知識である。自制は正しい理に即していると思われる事柄を踏み越えない知識である。忍耐力は正しく判断された事柄にとどまる知識である。大胆はそれに従えば「何も恐ろしいことには出くわさないだろう」と思われるような知識である。大器は優れた人々にも劣った人々にも本来備わっている物事から超越させる知識である。丈気は魂が己に負けないようにする知識である。勤労は辛いからといって途中で投げ出さずに課題を為し遂げる知識である。敬虔は神々への世話の知識である。親切は善くしてあげることの知識である。公平は共同のことにおける平等の知識である。敬意は侮辱しないように隣人たちと交際する知識である。  (5b3)これら全ての徳の目的は自然に従って生きることである。それ故、各々の徳は人に自分固有の徳を得させるのである。すなわち、[人は]適宜行為の発見や衝動の健全さや忍耐や分配に向けての出発点を元々もっている。そして、一緒になってあるいは個別に活動する各々の徳は人が自然に従って生きるようにするのである。 ↓ Stob., Ecl. 2.62.15 = SVF. 1.563 (Cleanthes); 3.278  (5b4)さて、今言ったこうした徳目は生に関する終局であって、観想された事柄からなると彼等は言っている。しかし、これらに伴い、まだ技術ではないがある種の能力であって訓練から生じるものもある。例えば、魂の健康や素早さや強さ美しさである。つまり、肉体の健康が肉体における温かいもの冷たいもの、乾いたもの湿ったもののよい混合であるように、魂の健康も魂の内の思想のよい混合である。また同様に、肉体の強さは神経における十分な張力であるように、魂の強さはなすかなさないかを判断することにおける十分な張力である。肉体の美しさが肉体にそなわっている部分の相互及び全体に対する均衡であるように、魂の美しさも魂の理と部分のその全体と相互に対する均衡である。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.63.6-64.12 = SVF. 3.280 = LS. 61D, 63G = Straaten. 109  (5b5)既に述べたように、知識であり技術である限りの全ての徳は共通の同じ理論と目的を持っている。だから不可分でもあるのだ。なぜなら、何か一つを持つ者は全部を持つのだし、何か一つに即して行為する者は全部に即して行為するのだから。それらが互いに異なるのはそれが関わる領域によってである。すなわち、思慮が関わる領域はまず第1になすべきことを見て取りそれをなすことであり、2番目には分け与えるべきこと選択すべきこと耐えるべきことを見て取ることだが、これはなすべきことを過たずになすためである。節制の固有の領域はまず第1には衝動を健全なものとし、それを見極めることだが、2番目には他の諸徳の下での事柄を見極めることである、衝動の中でうまく振る舞うために。勇気の場合も同様であり、まず第1に耐えるべき全てのことを耐えることがそれであり、2番目には他の諸徳の下での事柄をそうすることである。また正義についても、各人にふさわしい物事を見極めることがそれであり、2番目には残りの徳の事柄をそうすることがそれである。要するに、全ての徳に属することは全ての徳の関わる事項と互いに分け与えられている事柄を見極めることである。すなわち、パナイティオスが言うには、諸徳に起こることはあたかも多くの弓手に対して一つの的が置かれ、その的がその射程内に色の異なる線を持っているような場合と同じである。各弓手が的を射ることを狙うときには、それが当たるとすれば、ある弓手は白い線に沿って狙うことによってそうするが、別の弓手は黒い線に沿ってやり、また別の弓手は何か別の色に沿ってそうする。つまり、この人々が的を射ることを至上の目的とするものの各々が別の仕方で実現を目論むのと同様に、全ての徳も幸福、すなわち自然と調和して生きることに設定されているもの、を目的とするのだが、各々の徳は別々のことに従ってそれを射当てるのである。 ↓ Stobaeus,Ecl2.64.13=SVF.3 Diogenes 48(自体的価値)  (5b6)ディオゲネスの言うところでは、それ自体として選択に値するもの、つまり絶対的に選択されるべきものには2通りある。[一つは]上述の選択に従って指令された事柄であり、また選択されるべきものであるにふさわしい価値を、それは善である限りの全てのものに備わっているのだが、自らのうちに具えている限りのものどもである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.64.18=SVF.3.305(徳は不可分 物体)  (5b7)徳は多数あるが互いに不可分であると彼等は言っている。そして、同じそれらは魂の指導的部分に基盤をおいており、それ故全ての徳は物体でありまたそう言われているというのだ。というのは、思考や魂は物体であるから。つまり、我々の熱を持った共に成長する気息が魂であると彼等は考えている。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.65.1 = SVF. 3.306  彼等の主張では、我々にある魂は動物である。というのは、生きて感覚をするからである。その指導的部分は何よりもそうであり、それは思考と呼ばれる。だから、全ての徳は動物である、徳は同一のものとして本質において思考に関わる以上。つまり、このことに基づいて彼等は「思慮が思慮する」とも言うのである。すなわち、このように言うことは彼等に調和するのである。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.65.7 = SVF. 1.566 = LS. 61L  (5b8)徳と悪徳の中間など何もない。というのは、クレアンテスによると、全ての人々は元々徳への出発点をもっているのだから、誰もが一音節の言葉を発せられるのと同じように。そこからして、完成されてない人は劣った人であり、完成された人は優れた人だということになる。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.65.12 = SVF. 3.557  彼等は言う、賢者は全てのことを全ての徳に則してなす。なぜなら、完全な行為は全て彼のすることであるし、それ故彼は何一つとして徳を欠いてはいないのだから。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.5b9(65.15) = SVF. 3.717  (5b9)というのは、こうしたことに調和させて彼らが説くところによると、賢者は智恵を持って、弁証学にかなって、饗宴にふさわしく、愛情をもって行為するのである。「愛情のある」というのは2様の意味で語られる。つまり、徳に即した優れた性質のものとしてと、悪徳に即して非難のうちに語られるもの、たとえば誰かが色気違いと言われる場合のような、とである。優れた愛情は友愛に関わる。同様に、愛情に値すると言われるのも、友愛に値する者についてであって、享楽に値する者にではない。なぜなら、優れた愛情に値する者が、愛情に値する者なのだから。愛情のあるものと同じく、饗宴にふさわしいもの(性状?)も彼らは徳に結びつけて理解している。つまり、一方でそれは、饗宴における適宜行為に携わる知識であり、どのように饗宴を首尾よく行うか、またどのように共に飲むかに関わるものである。他方では、性格の善い若者を狩猟することに関わる、また徳に向けて勧徳することに関わる、総じて立派に愛情を抱くことに関する知識である。だから彼らはこうも言うのだが、智恵をもつ者は愛されるだろうというのである。しかし、愛することそれ自体は単に善悪無記である、劣者達の下にも生ずることがあるから。だが、愛情は欲望でもなければ、何か劣悪なものの一つでもなく、むしろ美しさを通じて友人を作ろうとする試みであると彼らは表明している。 ↓ Stobaeus,Ecl. 2.66.14-67.4=SVF.3.560=LS.61G(賢者)  (5b10)彼等は言う、また賢者は全てのことを善くなすのである、と。これは、彼がなすことは皆うまくなすという意味である*。というのは、笛吹きや琴弾きが全てのことを善くなすと我々が言うのは笛術や琴術に関わりのある事柄を善くなすという意味を含意した上でのことなのだが、それと同じようにして、思慮のある人が全てのことを善くなすというのは彼がなすことに限って*という意味であって、彼がなさないことについては神に誓ってそうではないのである。実際、正しい理に従って、つまりは全生涯に関わる技術である徳に従って全てのことを為し遂げるということに随伴する帰結が、賢者は全てのことを善くなすという教説なのだと彼らは思っている。類比的に言えば、劣った人も彼がなすことを全ての悪徳に従って全て悪くなすのである。 *ロングとセドリーに従う。 ↓ Stobaeus,2.67.5=SVF.3.294=LS.26H (活動)  (5b11)音楽の愛好、文学の愛好、乗馬のそれ、狩猟のそれ、また一般的とされる技術全般を*彼等は営為と呼ぶのであり、知識とは呼ばないのである。しかし、彼等はこれらをすぐれた性向に認めるのであり、従ってただ賢者だけが音楽の愛好家であり文芸の愛好家である、他の分野においても同様であるというのである。彼等はこのような仕方で営為を素描する。つまり、徳に即した事柄において方途は技術あるいはその部分によって導くのである。 *フォン=アルニムに従っておいた ↓ Stobaeus,Ecl.2.67.13=SVF.3.654(賢者 卜占)  (5b12)彼等が言うには、賢者だけが善い卜占官であり、詩人であり、弁論家であり、弁証家であり、批評家であるというのだが、完全にそうだというわけではない、こうしたもののうちの何かをまだ合わせ要するし、実行に関わる規則を何かまだ必要とするからである。さて、卜占とは、神々あるいは心霊から人生に向けられた印に関する理論知識であると彼等は言っている。また、卜占の様々な種類についても同様である。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.67.20=SVF.3.604(宗教)  彼等の言うところでは、神官も賢者だけがそうであり、劣者はけっしてそうでない。なぜなら、神官は生け贄や祈願、清め、記念碑の献呈、全てのこの種のことに関する法に経験がなければならず、こうしたことに加えてさらに、儀式や敬虔、つまり神々の世話に関する経験が要され、神々の本性の内になければならないからである。こうした事柄のどれ一つとして劣者にはない。故に、こうした無思慮な者どもは全員不敬虔でもあるのだ。なぜなら、不敬虔は悪徳であり、神々の世話に関する無知であるが、他方敬虔は、我々が言うように、神々の世話に関する知識なのであるから。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.68.8=SVF.3.660 (宗教)  同様に、劣った者どもは敬虔ではないと彼等は言う。というのも、敬虔とは神々に対する正義であると彼等は概略しているからである。で、劣った者どもは神々に対して正しい事柄から大いに反れており、それと並んで、不敬虔であり不浄であり汚れており堕落しており祭儀に与らないものたちだというのだ。  というのは、祭儀を行うことは洗練された人のすることだと彼等は言っている、祭儀とは栄光と下された御印への感謝が神々において表されるべき時だから。それだから、祭儀を行うものはかような決まりに対する敬虔さとともに身を持さねばならないということにもなる。 ↓ Stob.,Ecl.2.68.18=SVF.3.663(狂気)  (5b13)さらに彼等が言うところでは、劣者は全員狂っており、自分自身と自分の下にあるものに関する無知をもっていて、それが狂気なのである。さて、無知は思慮と反対の悪徳である。これは、対他容態であるが、落ち着きのないびくびくした人々に狂った衝動を与えるものだというのだ。だから、彼らは狂気をこうも名付けている。つまり、びくびくした無知と。 ↓ Stob,Ecl.2.68.24=SVF.3.103(善悪の分類)  (5c)さらに、善いものには全ての思慮ある人々に常にそなわるものもあれば、そうでないものもある。徳、思慮にかなう感覚、思慮にかなう衝動、類似のものは全ての思慮ある人々に全ての瞬間にそなわる。歓喜、上機嫌、思慮にかなう散歩は全ての思慮ある人々に備わるわけでもないし常にそなわるわけでもない。類比的に、悪徳にも全ての無思慮な人々に常に備わるものもあれば、そうでないものもある。実際、全ての悪徳、思慮を欠いた感覚、無思慮な衝動、類似のものは全ての無思慮な人々に常に備わる。苦痛、恐怖、無思慮な受け答えは全ての無思慮な人々にそなわるわけではないし、全ての瞬間にそなわるわけでもない。 ↓ Stob,Ecl.2.69.11=SVF.3.86(善いもの悪いものの性質)  (5d)また、全ての善いものは有益であり、有用であり、役に立ち、得になり、優れたものであり、適したものであり、立派であり、親近であるという。しかし、悪いものは反対に全て有害であり、無用であり、何の役にも立たず、損になり、劣悪で、不適切で、醜悪で、疎遠なものである。 ↓ Stob,Ecl.2.69.17=SVF.3.74(善悪の規定)  さて、善は多くの意味で語られると彼等は言っている。第一に、泉のような地位をもつものがそうであり、それは次のように言い表されている。つまり、利益をもたらすことがそこから生ずるもの(第一にあるものは原因である)あるいはそれによってそうなるもの。第2に、利益をもたらすことがそれに即して生じるもの。利益をもたらせるということはより普遍的であり、上で言ったことにまで及んでいる。また、同様に悪も善との類比に従って素描される。するとまず、害を与えることがそこから生ずるもの、あるいはそれによってそうなるもの。また、害を与えることがそれに即して生ずるもの。害を与えることができるということはこうしたことよりもより普遍的である。 ↓ Stob,Ecl.2.70.8=SVF.3.97(善の分類)  (5e)善いものには魂に関わるもの、外的なもの、魂に関わるのでも外的でもないものがある。魂に関わるものとは諸徳目と優れた性向、総じて賞賛に値する活動である。外的なものとは友人達、知人たち、及び類似のものである。魂に関わるのでも外的でもないものとは、優れた人々、つまり総じて徳をそなえた人々である。同様に、悪いものにも魂に関わるもの、外的なもの、魂に関わるのでも外的でもないものがある。魂に関わるものとは邪悪な性向を伴った悪徳、つまり総じて非難に値する活動である。外的なものとは特定の種類の敵である。魂に関わるのでも外的でもないものは劣った人々、悪徳をそなえもつ人々である。 ↓ Stob,Ecl.2.70.21=SVF.3.104(性向)  (5f)魂に関わる善いもののうちには性状もあれば、性向ではあるが性状ではないもの、性向でも性状でもないものもある。性状とは全ての徳であり、単に性向であり性状ではないものは卜占や類似のもののような営為である。性向でも性状でもないものは徳に即した活動、例えば思慮を働かせること、節制の所有、類似のものである。同様に、魂に関わる悪いもののうちにも性状も、性向ではあるが性状ではないもの、性向でも性状でもないものがある。性状は全ての悪徳、単に性向であるものは嫉妬深さのような偏向、悲嘆と類似のもの、さらに病や変調例えば金銭欲や酒浸りやこれに似たものである。性向でも性状でもないものは悪徳に即した活動、例えば思慮を働かせないこと、不正行為、これらに似たものである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.71.15=SVF.3.106=LS.60M (善の分類)  (5g)また、善いもののうちには終極的なものもあれば、寄与的なものもあり、また両方のものもある。さて、思慮ある人や友人はただ寄与的な善いものである。歓喜や愉悦、大胆、思慮ある散歩はただ終極的な善いものである。全ての徳は寄与的かつ終極的な善いものである。それというのも、それらは幸福の部分として生じつつ、幸福を生み出し完成するのだから。類比的に、悪いもののうちにも悲惨に寄与するものもあれば、終極的なものもあるし、両方のありかたをするものもある。さて、無思慮な人や敵は単に寄与的な悪いものである。苦痛、恐怖、窃盗、無思慮な質問およびこれらに似たものは単に終極的な悪いものである。悪徳は寄与的かつ終極的な悪いものである。というのも、それらは悲惨の部分として生じ、悲惨を生み出し完成するからである。 ↓ Stob,Ecl.2.72.14=SVF.3.109(善の分類)  (5h)さらに、善いもののうちにはそれ自体で選択に値するものもあれば、貢献的なものもある。さて、何ら他のもののためにあらず理にかなった選択に至る限りのものはそれ自体で選択に値する。他方、何か他のものにそなえるものとして生ずる限りのものは制作的という名の下に呼ばれる。 ↓ Stob,Ecl.2.72.19=SVF.3.88(善が選択に値することの論証)  (5l)そして、全ての善は選択に値するものであるという。なぜなら、好ましいものであり、認められたものであり、賞賛に値するものであるから。反面、全ての悪は拒絶に値する。というのも、善はそれに則して選択がよい算段を引き起こすものであり選択に値するから。それに即して人が疑念の余地なく選択に進むものは好ましいものである。それに即して…ものは認められたものである。さらにまた、それに即して人がよい算段にかなう仕方で身の回りに徳から由来することを把握するに至るものは賞賛に値するものである。 ↓ Stob,Ecl.2.73.1=SVF.3.111(善いものの分類−運動と状態)  (5k)さらに、善いもののうちには運動のうちにあるものもあれば、状態のうちにあるものもある。運動のうちにあるものは次のようなものである。歓喜、上機嫌、思慮ある交際。他方、状態のうちにあるものは次のようなものである。秩序ある平静、乱されないままにあること、男らしい集中。また、状態のうちにあるものには性向にあるものもある、例えば諸徳目。他方、ただ単に状態のうちにあるものもある、上述のもののように。性向にあるものは諸徳目だけではなく、諸技術、つまり優れた人において徳によって変容し動揺しないものとなったもの、もある。それは例えば諸徳目が生じる場合のようなものである。彼等の言うところでは、性向にある善いものには営為と呼ばれるものもあり、例えば音楽の愛好、文法の愛好、幾何学の愛好、類似のものがそれである。というのは、何であれ方途はこのような技術のうちにあって徳に親近なものを選別することができ、生の目的に向けてこれを関わらせるのだから。 Stobaeus, Ecl. 2.7.5I (73.19-74.3) = SVF. 1.68 = LS. 41H  知識とは理によって堅固不動の把捉であるという。他方、個別の事柄に関わり優れた人に備わる理にかなった把捉としての知識からなる体系でもある。また他方、諸徳目がもつような明証を自ずから備えた技術知からなる体系でもあるという。さらにまた、表象に関わる性向のうち理によって不動であることを示しうるものでもあり、それは何らか張力や能力のうちにおかれているのだと言われている。 Stobaeus,Ecl.2.74.15=SVF.3.101(外的善)  (5m)さらに、善いもののうちにはたとえば知識のように混じり気のないものもあるが、混合されたものもある。たとえば、善い子宝、善い老境、善い暮らしなどである。善い子宝とは自然に授かった子供たちを優れてもつことである。善い老境とは自然に重ねた齢を優れてもつことである。善い暮らしも同様。 Stobaeus, Ecl. 2.5I (74.16) = SVF. 3.112  (5l)さらに、善いもののうちにはそれ自体として善いものもあれば、対他様態であるものもある。それ自体で善いものは、知識、正しい行い、及び類似のものである。対他的に善いものは、名誉、好意、友愛、協調である。さて、知識とは理によって確固不変の把捉である。そのような知識の体系としての別の知識もある。例えば言論部の諸問題に関わり優れた人に備わるものである*。また別の知識は技術的な知識からなり諸徳が持つような確実性を自ずからもつ体系である。また別の知識は表象に関わり理によって不変であることを示せる性向であって、何らかの形で緊張と能力のうちにおかれていると言われる。友愛は生の共有である。協調は生の諸問題についての考えの一致である。友愛には交際というのもあって、これは互いに知り合っている人々の友愛である。交流は互いに慣れ親しんでいる人々の友愛である。交友は選択に基づく友愛である。例えば同年の人々のそれ。国際交流は異国人同士の友愛である。似たもの同士には何か似たもの同士の友愛が生ずる。つまり、愛情からは愛情の友愛が生ずる。さて、無痛と好調は節制と、智恵と心は思慮と、気前の善さと親切は人の善さと同じである。無論、これらは対他様態と呼ばれるのが本来である。他の諸徳に親しく臨んでいるのだから。 *原文に問題あり。cf. Brunschwig(1978), pp.69- Stobaeus,Ecl.2.75.1=SVF.3.131(優先物)  (5o)彼等が言うには選択されるべきものと受け入れられるべきものは異なる。つまり、選択されるべきものは完全な*衝動を動かすものであるが、受け入れられるべきものは我々が理にかなった仕方で選び取るものである。そして、選択されるべきものが受け入れられるべきものと異なるその意味あいにおいて、それ自体として選択されるべきものとそれ自体として受け入れられるべきものも異なるし、一般に善と価値を有するものとは異なる。 *Long(1976)を見よ。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.7.6a.75.11 = SVF. 1.179; 1.552; 3.12; Diogenes 44; Antipater 57; Archedemus 20 = LS. 63B  (6a)ゼノンは目的を「調和して生きること」だとした。これは一つの調和した理に従って生きるということである。互いに争って生きている人々は不幸なのだから。この人より後の人々はさらに補完して「自然に調和して生きること」と表現した。ゼノンによる説は投げかけられた批判に負けていると*考えたからである。すなわち、彼から最初に学派を受け継いだクレアンテスが「自然に」という語を加え、次のようにしたのである。つまり「目的とは自然に調和して生きることである」と。クリュシッポスが明らかにしようと思ったことを彼は次の言い方で表したのである。つまり「自然に従って起こる事柄の経験に従って生きる」と。 *ロングとセドリーの提案に従う。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.76.9 = SVF. 3 Diogenes 44 = LS. 58K  そして、ディオゲネスは「自然に従う物事を選び出したり避けたりすることに善く算段すること」と言った。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.76.10=SVF.3.Arcedemus 20  またアルケデモスは「全ての適宜行為を完遂しながら生きること」と言った。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.76.11=SVF.3.Antipater 57=LS.58K  またアンティパトロスは「自然に従うものを選別し、自然に背くものを選別除外し妨げられずに*生きること」と言った。またしばしば次のようにも表現した。「自然にかなう優先物を得るために、それ自体として[選択されるべきこと]**全てを妨げられず限度を越えずになすこと」 *アルニムはここのdienekosを削っているがそのことに触れていない。 **ロングとセドリーは「己の権内にあること」と解しているが…。 ↓ Stob,Ecl.2.76.16=SVF.3.3  (6b)さて、目的は3通りにこの学派の人々によって語られている。つまり、学者の通念では終局的な善が目的であると言われているが、調和が目的であると彼等が言うのと同様の意味である。他方、彼等は目標も目的であると言っているが、述定された目前のものに(?)言及させる形で調和した生として語っているのである。そして第3の意味で、彼等は目的を欲求されるものの終局であり、それに他の全てのものが関連付けられると言っている。 Stob., Ecl. 2.77.6 = SVF. 3.113  善いものには幸福のために必然的なものもあれば、そうでないものもある。そして、必然的なものとは全ての諸徳目とそれらを用いうる活動である。必然的でないものは、歓喜と上機嫌、もろもろの営為である。似たように、悪いものにも悲惨に関わる悪いものという意味で必然的なものもあれば必然的でないものもある。必然的なものとは全ての悪徳とそれらに起因する活動である。必然的でないものは全ての感情、変容、これらに似たものである。 Stobaeus, Ecl. 2.7.6e (77.16) = SVF. 1.184; 554; 3.16 = LS. 63A  彼等が言うには、幸福であることが目的であり、そのために全てはなされるが、それが何かのためになされるということは全くない。このことは徳に則して生きている人、調和して生きている人、さらには、同じことだが、自然に則して生きている人に備わる。ゼノンは幸福を次のような仕方で規定した。幸福とは流暢な生である、と。クレアンテスもこの規定を自分の著作の中で用いたし、クリュシッポスと彼等に続く全員もそうしたのだが、つまり幸福とは幸福な生に他ならないと言うのだ。しかしながら実際は、彼等の言うところは、幸福を「目標」とするが、「目的」は幸福を手に入れることであってこちらが幸福であることと同じなのである。  だから、これらから明らかなことは、「自然に則して生きる」「立派に生きる」「善く生きる」さらにはまた「善美なこと」「徳と徳に与るもの」は皆同じ効力をもつということである。また、全ての善は立派であり、同様に全ての醜いものは悪いということである。それ故、ストア派の言う目的も徳に則した生というのと同じ効力をもつ。 Stob,Ecl.2.78.7=SVF.3.89(選択されるものと選択すべきものの違い)  彼等が言うには選択に値するものと選択すべきものとは違う。全ての善は選択に値するものだが、全ての有益なものは選択すべきものであり、後者は善をそなえ持つこととは別のこととして考慮される。選択すべきものを我々がそれを通じて選択するもの、例えば思慮すること、は思慮をもつこととは別のものとして考慮される。選択に値するものを我々は選択するのではなく、もしそういうことがあるとすれば、それをそなえもつことを選択するのである。同様に、善いものは全て保持に値するもの、それに留まるに値するものであり、他の徳目においても類比的である、例えそう呼ばれていないにしても。しかし他方、有益なものは全て保持すべきものであり、それに留まるべきものである。そして同じ理論が悪徳に即したその他の事柄にも当てはまる。 Stobaeus,Ecl.2.79.1=SVF.3.118 (善悪無記)  彼等の言によると、善悪無記のものとは善いものと悪いものの中間にあるものであり、「善悪無記」には2通りの意味がある。第1の意味では、善でも悪でもなく、選択されるべきでも忌避されるべきものでもないということである。もう一つの意味では、衝動も反発も引き起こさないということである。この意味では、例えば髪の毛の本数が偶数か奇数かということ、指をこう伸ばすかああ伸ばすかということ、つま先にある実と葉のうちどちらをのけるかということ、こうしたことも全部まとめて善悪無記だと言われる。すると前の方の意味では、徳と悪徳の中間にあるものが善悪無記なものだと言われると言うべきである…実にそれは選択にも除外にも無関係である。だから、善悪無記なもののうち選ばれるべき価値をもつものと選ばれざるべき反価値をもつものがあるとはいえ、結局幸福な生には比類されないのだ。 Stobaeus,Ecl.2.79.18=SVF.3.140=LS.58C(優先物)  あるものは自然に即し、あるものは自然に反し、またあるものは自然に則しも反しもしない。さて、自然に則すのは次のようなものである。健康、体力、感官が完全であること、及びこれらに類すること。さて、自然に反するのは次のようなものである。病気、虚弱、不具、及び類似のこと。自然に反しも則しもしないのは:心身機構のうち、そこで虚偽の表象や、傷や損傷が受け入れられるもの、及びこれらに似たもの。彼等が言うには、こうしたことに関わる理論は自然に則すあるいは反す最初のものから作り上げられている。というのは、善悪の区別と善悪無記はいわゆる対比関係に関わるからである。そのわけは、彼等が言うには、我々が肉体的なものや外的なものを善悪無記だと言うにしてもそれは善く形作られた生(そこに幸福な生があるのだが)に比べると善悪無記だと言うのであって、自然に則してあることや衝動や反衝動に対してそうだというのでは神かけてないからである。 Stobaeus,Ecl.2.80.14=SVF.3.133(優先物)  (7b)さらに、善悪無記なもののうちにはより大きい価値を持つものもあれば、より少ない価値しかもたないものもある。また、それ自体として価値を持つものもあれば、制作的な価値を持つものもある。つまり、優先されるものと、優先されないものと、どちらの状態にもないものとがあるのである。優先されるものは善悪無記なもののうちにあって善悪無記でありながらも多くの価値を持つ限りのものである。同様に、優先されないものは多くの反価値をもつものである。優先物でも非優先物でもないものは多くの価値も反価値ももたないものである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.80.22=SVF.3.136(優先物)  優先物のうちには魂に関わるものもあれば、肉体に関わるものもあれば、外的なものもある。魂に関わるものとは次に挙げる類のものである。善い精神状態、心的成長、記憶力、鋭い思考力、人がそれに則せば適宜行為に留まることになる性向や自然に従った生に向けて多大な貢献をなせる技術。他方、肉体に関わる優先物は、健康、健全な感覚、これらに類似のものである。外的なものは、両親、子供、財貨の程々の所有、人々に受け入れられることである。  魂に関わる非優先物は上で述べたものと反対のものである。肉体に関わるものと外的なものも、肉体に関わる優先物や外的優先物として上で述べられたものに同様に対立するもののことである。  優先物でも非優先物でもないもののうち魂に関わるものは表象や同意やそういった限りのものである。肉体に関わるものは、白さや黒さ、目の青さ、全ての快楽と苦悩、そして何か他にこういったものがあればそういうものである。外的なもののうち優先物でも非優先物でもないものは次のような性質のものである。すなわち、ささいなものであって何ら有益なものをもたらさないのに、それそのものによる本当にわずかな有用さをもっている限りのものである。  彼等がいうには、自然に従って生きることに対して魂は肉体よりもより本来的に関わるのだから、肉体に関わるものや外的なものよりも魂に関わるものの方がより一層自然にかなうのであり、優先物としてもより多い価値を持つのである。たとえば、徳に対しては善い精神状態の方が善い体調よりも望ましいのであり、他のものにおいても同様なのである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.82.5=SVF.3.121 (善悪無記 衝動)  (7c)さらに彼等の言によれば、善悪無記なものには衝動を引き起こすものも、反発を引き起こすものも、衝動にも反発にも関わらないものもある。さて、衝動を引き起こすものとは、自然に従うと我々が言うものである。反発をそうするものは反自然のものである。衝動にも反発にも関係ないものはどちらでもないものであり、例えば髪の毛が偶数あるか奇数あるかというようなことである。 Stob,Ecl.2.82.11=SVF.3.141(善悪無機物の分類)  自然に即して善悪無記であるものには、自然に則す第一のものもあれば、これに与ることに基づくものもある。自然に則す最初のものとは種子的理に即して生ずる運動あるいは状態であり、例えば[身体の]完成、健康、感覚(把捉のことだが)、強壮さである。これらに与ることに基づくものとは、種子的理に即した運動や状態に与る限りのものであって、例えば完全な手、健康な肉体、損なわれていない感覚である。同様に、自然に反するものも類比的である。 Stobaeus,Ecl.2.82.20.SVF.3.142=LS.58C(優先物)  (7e)全て自然に則したものは受け入れられるべきものであり、自然に反したものは受け入れられるべきではない。自然に則すものにはそれ自体として受け入れられるべきものもあれば他のもののためにそうであるものもある。それ自体でそのようなものは、衝動を自身のことに向けて、あるいはそういうものに執着するようにkatatreptikos動かす限りのものであり、例えば健康・五感の健全・苦労がないこと・身体の美しさである。他方、貢献的なものとは、衝動を自身以外のことに執着しない仕方で、katatreptikosでなく動かす限りのものであり、例えば富・名声・これらに似たものである。同様に、自然に反するものにもそれ自体で受け入れられるべきでないものもあれば、貢献的であるためにそれ自体で受け入れられるべきでないものもある。 ↓ Stobaeus, Ecl.2.83.10 = SVF.3.124; 3 Antip. 52 = LS.58D  (7f)自然にかなう全てのものは価値をもっており、自然に反するものは反価値をもっている。さて、価値は3通りの意味で語られる。つまり、許容や好評価そのもの*、そして識者による対価である。そして3つ目には、アンティパトロスが選択的価値と呼ぶものがある。これによると、事情が許すならば、我々はあのものよりもこのものを選択するのである、例えば、疾病よりも健康を、死よりも生存を、貧困よりも富裕を。類比的に反価値も3通りに語られる、先に3通りの価値について語られたことに対立する意味で。 *原文についてはVoelke(1973), p.69 n.1 **この断片全体についてはForschner(1981), p.165を見よ ↓ Stobaeus,Ecl.2.84.4=SVF.3.125;Diogenes 47(価値)  ディオゲネスが言うには、贈与とは自然にかなうかあるいは自然からの需要を備えもつ限りの判断である。識者の対価がそうだというのは、それが正しいとされて流通していると言われるからではなくて、識者が財貨の真価を認めるのだと我々は言うからである。このような識者が対価に関わるのだと言われている。さてつまり、こうした2つの価値があり、何であれそれに即して価値に接近すると言われている。3つ目の価値もあるといわれ、その場合何らかの利益と価値をもつことになるというのだが、この価値は善悪無記なものには生じず、ただ優れた物事にのみ生ずる。彼等の言によると、我々は割り当てられるものと言う代わりに価値という語を使うことがある。これは正義の定義について上述したようなものである、その際価値にふさわしく各人に配分することに関わる性向だと言われた。と言うのも性質上それは各人への割り当てに関わるからである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.84.18=SVF.3.128;192=LS.58E (善悪無記 価値)  (7g)価値を有するもののうちには多くの価値をもつものもわずかな価値しかもたないものもある。同様に、反価値を有するもののうちにも多くの反価値をもつものとわずかな反価値だけをもつものとがある。さて、多くの価値を有するものは優先物と、多くの反価値をもつものは非優先物と呼ばれる。こうした事態に初めてゼノンがこれらの名称を定めたのである。彼等が優先物と言うのは、善悪無記ではあるが優先されるべき理由に従って選び取られるものである。同様の理屈が非優先物にもあてはまるし、典型例もこの類比に基づく。善いもののうちの何物も優先物ではない、桁外れに大きい価値をそれらはもっているから。しかし優先物は、2次的な地位と価値をもっているから、善いものの本性にはある程度近づいている。つまり、宮殿において優先物に属するのは王であることではなく王と並びおかれることである。優先物がそう呼ばれるのは幸福に関わりそれに貢献するからではなくて、非優先物の代わりにこのものを選ぶ必然性があるからである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.85.13=SVF.1.230;3.494=LS.59B(適宜行為)  (8)適宜行為に関する論題は、望ましいものに関する理論に含まれるべきである。適宜行為は次のように定義される、「生において適従するもの、それがなされたとき、もっともな弁明を持つもの」と。適宜行為に反するとは、その反対である。この規定は理性を持たない動物にも広くあてはまるものである。というのは、それらの動物も彼等自身の自然に適従して何かの活動をしているからである。だが、理性を持つ動物の場合は次のように規定される、「生活において適従するもの」と。適宜行為のうちあるものは完全であり、それ故、それらは正当行為といわれる、と彼等は主張している。正当行為とは、徳に従う活動であり、例えば、思慮するとか、正しく行うとか、のようなものである。このようではないものは、正当行為ではなく、それ故、彼等は、それを完全な適宜行為とは呼ばず、中間的な適宜行為と呼んでいる。例えば、結婚するとか、年をとるとかは、この類である。(岩崎允胤訳) ↓ Stob,Ecl.2.86.5=SVF.3.503(?)(正当行為)  (8a)正当行為には不可欠なものもあればそうでないものもある。不可欠なものとは有益なものと述定されるものであり、例えば思慮すること、節制することなどである。不可欠ではないものはそのようなあり方をしないものである。適宜行為に反する行為にも同じテクニカルな論述が当てはまるというのだ。 ↓ Stob,Ecl.2.86.10=SVF.3.499(?)  全て適宜行為に反する行為は理性的な動物*に生じた場合、過誤であるという。完成された適宜行為は正当行為となる。一方、中間の適宜行為は善悪無記なものに比類される。しかしその善悪無記なものは、**自然に従うものとも反するものとも呼ばれるが、それだけの善い本性をもたらすのではあって、それ故それを取らないか、拒絶して全く逸れてしまうかするならば幸福にはなれないであろうものなのではある。 *ヴァクスムートに従いzoioiと読むが意味はそう変わらない。 **以下テキストの異同が諸家によって激しいがアルニムに従ってある。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.86.17-87.6=SVF.3.169=LS.53Q (衝動)  (9)彼等が言うには、衝動を動かすものはまさにその場にふさわしい適宜行為に関わる衝動的表象に他ならない。また、類として見れば衝動とは何かに向けての魂の突進であるということになる。しかし、その種においては理に与る動物に生ずるものと、理不尽なそれにそうなるものとがあると分かるという。対応する名を与えられてはいないが。すなわち、欲求は理にかなった衝動ではなく、理にかなった衝動の一種なのである。なすことのうちにあるものの何かに向けての知性の突進であると言えば、その人は理にかなった衝動をしかるべき仕方で規定したことになるだろう。さて、このものに対立するのは反衝動であり、なすことのうちにあるものの何かからの知性の退却である。個別に、彼等は勇みもまた衝動であると言っている。行為に関わる衝動の一種だというのだ。曰く、勇みは将来の何事かに向けての知性の突進であると。かくして、ここまでのところ、衝動は4通りの、反衝動は2通りの意味で語られることになる。また、衝動的性向をも含めると沢山の意味合いで語られることになる。このものをも個別に彼等は衝動として語っているのであるが、そこから衝動することが生じるというのだ。 Stobaeus,Ecl.2.87.14=SVF.3.173(衝動)  さて、行為に関わる衝動の種類はもっと多いのだが、その中には次のようなものも含まれている。目論見 、?(epibole) 、計画 、企図、選択、決断、意欲、意図。さてさて、彼等が言うには、目論見とは完遂の目標を定めることである。?とは衝動に先立つ衝動である。計画とは行為に先立つ行為である。企図とは既に手の内にある何かに関わる衝動である。選択とは類推による意欲である。決断とは選択に先立つ選択である。意欲とは理にかなった欲求である。意図とは本意の意欲である。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.88.1=SVF.3.171=LS.33I(衝動)  (9b)全ての衝動は同意であり、行為に関わる衝動は運動させるものを含んでいる。さてところが、同意がなされるものと、衝動が向かうものとは異なっている*。つまり、同意は何らかの言明に対し、衝動は述定に向かうのだ。もっとも、後者はある意味では言明に含まれるのだが*。 *ロングとセドリーに従う ↓ Stobaeus, 2.7.10(88.6) = SVF.1.205, 206; 3.378, 389 = LS.65A(感情)  (10)さて、感情は衝動の一種に含まれるので、続いて感情について述べよう。感情は選択をなす理性に従わない過剰な衝動か、あるいは魂の、自然に反した理不尽な運動であると彼らは言っている。(また全ての感情は魂の指導的部分に属すとも言っている。)それ故全ての興奮は感情であり、反対にまた全ての感情は興奮である。感情はこのようなものであるから、一方に第一の主要な諸感情を、他方にそれら第一の諸感情を指示する諸感情を措定すべきである。第一の諸感情は類において次の四つ、すなわち、欲望、恐怖、苦痛、快楽である。ところで、欲望と恐怖が向かうものは、前者の場合は善と見えるものであり、後者の場合は悪と見えるものである。これらの諸感情に伴うのが快楽と苦痛である。快楽は、欲望していたものを我々が得たり、恐れていたものから逃げる場合に[伴って生じる]。他方、苦痛は、欲望していたものを逃したり、恐れていたものに陥る場合にそうなる。さて、魂の全ての諸感情において、彼らがそれらを思惑であると言う場合、彼らは弱い把捉と言う代わりに思惑と言い、非理性的な収縮や膨脹の刺激と言う代わりに新鮮なものと言っているのだという。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.89.4=SVF.3.389=LS.65C  (10a)彼らは「非理性的な」「自然に反する」ということを通常の意味で言っているのではない。「非理性的な」は「理性に従わない」に等しいのである。と言うのは、全ての感情は強制力を持つからである。それはちょうど、感情のうちにある人々がしばしば、それをしない方がいいと分かっているのに、まるで言うことを聞かない馬に引きずられるように、激しさに引きずられ、かのことをするように導かれてしまうようなものである。またならびに、しばしば人々は次の流布した詩句を語ることに同意する。   私は分別を持ってはいるが、自然が強いるのだ。 すなわちここで分別と言われているのは正しい事柄の知や智のことである。そして「自然に反する」とは、感情の概論においては、自然に従った正しい理性に反して生じたという意味である。感情のうちにある人々はすべて理性に背いているが、それは何事かにおいて欺かれている人々に類似した仕方ではなく、独特の仕方でである。なぜなら、欺かれている人々は、例えば「原子が原である」という説について、実はそうではないと教示されたならその判断を取り下げるからである。しかし、感情のうちにある人々は苦しむべきではないとか恐れるべきではないとかあるいは一般的に魂の諸感情のうちにあってはいけないとか学習したり教示されたとしてもそのような判断を取り下げず、諸感情によって、それらの僭主制によって打ち負かされた状態に導かれるのである。 ↓ Stobaeus,2.90.7=SVF.3.394=LS.65E(感情)  (10b)さて、欲望とは理に従わない欲求であると[ストア派の人々は]言っている。その原因は善きものがもたらされると思うことであり、それがあるときに我々はえらく舞い上がるのである。本当に求むべきものがあるということに関わるでたらめに動く新鮮なものをこの思惑はもっているのだ。恐怖とは理に従わない退却であり、その原因は悪しきものがもたらされると思うことである。その思惑は本当に避くべきものがあるということに関わる新鮮な*動くものをもっているのだ。苦痛とは魂の理に従わない収縮であり、その原因は悪しきものがあると新鮮に思うことである。その思いによって人は収縮するに至るのである。快楽とは魂の理に従わない膨脹であり、その原因は善きものがあると新鮮に思うことである。その思いによって人は昂揚するに至るのである。  さて、欲望の下には次のものが下属している。つまり、怒りとその種族(立腹、癇癪、悪意、怨恨、不機嫌等々)、激しい愛情、渇望、恋慕、色欲、金銭欲、名誉欲、および類似のもの。快楽の下には、意地悪、満足、妖力、および類似のもの。恐怖の下には、憶病、煩悶、驚乱、恥辱、不平、迷信、怖さ、脅威。苦痛の下には、妬み、嫉妬 、敵意、憐憫、悲嘆、落胆、心配、陰鬱、心労、嫌悪感。 *アルニムに従い削除。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.10c (91.10) = SVF.3.395  (10c)さて、怒りとはふさわしいことに反して不正をなしたと思われるものに報復しようとする欲望である。立腹とは起こりたての怒りである。苦渋とは?な怒りである。?(menis)とは老齢に関わる、内に籠り潜伏する怒りである。憎しみとは報復の機会を狙っている怒りである。激昂とは即座に爆発する怒りである。愛情とは内に現れる美しさを通じて友人関係を作ろうという熱望である。希求とは求める者に欠けているものへの欲望である。離愛とはその場にいない恋人と交際したいという欲望である。快欲とは快楽への欲望である。利欲とは富への欲望である。名誉欲とは名誉への欲望である。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.91.20=SVF.3.402(快楽の下属種)  性悪は他人の被った災悪に対する快楽である。歓待は予期してなかった人に対する快楽である。妖術は錯覚に基づく視覚を通じた快楽である。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.92.1=SVF.3.408(恐怖の下属種)  躊躇は未来の行動に対する恐怖である。葛藤は破滅に対する恐怖、別の言い方をすれば敗北に対する恐怖である。驚嘆は見慣れない表象によって引き起こされた恐怖である。恥辱は不評に対する恐怖である。当惑は物音の後の切迫した恐怖である。畏怖は神々や神霊に対する恐怖である。戦慄は恐るべきものに対する恐怖である。不気味は言葉に起因する恐怖である。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.92.7=SVF.3.413(苦痛の下属種)(?)  嫉妬は他人の善いことに対する苦痛である。羨望は自分が欲望しているものが他人にはたまたまそなわっているのに自分にはないことに対する苦痛である。また別様に言われるところでは、何かを欠いている人が抱く幸せであり、さらに別の言い方をすればより裕福な人をまねることである。妬みは自分が欲望しているものが他人にもたまたまそなわっていることに対する苦痛である。同情は被らなくてもよい災悪を被ったと思われる人に感じる苦痛である。哀惜は早すぎる死に対する苦痛である。重苦は重くのしかかる苦痛である。苦悩はあれこれ考えることに伴う苦痛である。疼痛は突然やってくる刺すような苦痛である。不愉快は不意の出来事の後の苦痛である。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.92.18=SVF.3.394(感情)  (10d)これらの感情のうちのあるものはそれに対して[感情が]生じるものを表すというのだ。例えば、憐憫、妬み、嫉妬、意地悪、恥辱がそれである。またあるものは運動に関する固有性を[もっている]。例えば心労や嫌悪感。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.93.1=SVF.3.421=LS.65S(感情)  (10e)陥りやすさとは感情へ傾いているということである。つまり、何か自然に反する働き、例えば悲嘆、怒りっぽさ、嫉妬深さ、ひどい癇癪、類似のものへのそれである。その他の自然に反した働きに対しても陥りやすさが生ずる。例えば、泥棒、姦通、暴虐など、そのために人が泥棒とか暴虐漢とか姦夫とか言われるものに対して。病とは、選択するべきでないものがそのせいで選択すべきものと思われてしまうような性向に流れ込んで硬直した、欲望に関わる思惑である。そういう性向とは例えば、色欲、酒欲、金銭欲などである。対抗するように、こうした病に反対のものも生ずる。例えば、女嫌い、酒嫌い、人間嫌いなど。他方、弱さとともに生ずる病は変容と呼ばれる。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.93.14=SVF.3.500=LS.59K (正当行為)  (11a)正当行為は数において全てのことを完遂する*適宜行為のことであり、あるいは前述のように、終極的な適宜行為である、と彼等は言っている。過誤は正しい理に反してなされたことであり、あるいは理に与る動物によって何らかの適宜行為がなされないままになっているそれのことである。 *ロングとセドリーに従う ↓ Stobaeus, Ecl. 2.11b(93.19) = SVF.3.625  (11b)また、彼等が言うには、全ての善きものは優れた人々の共有のものであるが、益をもたらす者は隣人の誰かと自分自身とを益するという意味合いにおいてである。また、共和(homonoia)とは共有の善きものに関する知識であり、そこからして、優れた人々は皆そのような生き方をしている人の間で調和することによって互いに共和するということにもなる。しかし、劣った人々は不和なので互いに敵対し互いに悪しくなし合い攻撃的なのである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.94.7=SVF.3.611 (正義 賢者)  正義は自然に基づくのであり断じて取り決めに基づくものではない、と彼等は言っている。彼らに従うと、賢者は治世もするのだがそれはとりわけ完成された国制への何らかの向上を見せるような国家においてなのであるというのだ。また賢者は法律を起草もするし、人々を教育もするし、さらには書物によって優れた人々に親しむ任意の人々を益せる事柄を書きまとめるし、自分のためあるいは祖国のために結婚や子作りにさえ至るであろうし、適度であればその祖国のために苦労や死にさえも甘んじるのである。しかし、この賢者たちの下には劣った事柄もあるというのだ。つまり、へつらうこと、ソフィスト活動をすること、優れた人々に従わない中傷を何であれ不特定の人々に対して書きまとめることである。 ↓ Stob, Ecl. 2.11c(94.21) = SVF. 3.98 R  (11c)友愛は三通りに語られるのだが、一つの意味に則すと共通の利益のためにあるもので、その利益に基づいて友人があるのだと言われている。彼等が言うには、この利益自体は善いものには属さない、分離されたものからなるものはそれ自体に即して何ら善いものではないから*。友愛が語られる第2の意味、つまり周囲の人々に対する友愛にかなう心構えは外的な善に属すると彼等は言っている。さて、自分自身に関わる友愛、これに基づくと「友人」は周囲の人々の一人になるのだが、魂に関わる善いものの一つであると彼等は表明している。 *セネカ第9書簡19を見よ。 ↓ Stob,Ecl.2.95.3=SVF.3.94  (11d)別な言い方をしても善いものは共通のものである。つまり、全てとにかく何かに利益をもたらすものはまさにそのものから等しい有益さを受け取るのだと彼等は認めており、反面劣ったものは利益を受けることも与えることもないという。というのは、利益を与えることは徳に即して保持することであり、利益を受けることは徳に即して動かされることだから。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.95.9=SVF.3.623 (家政 日常生活 賢者)  優れた人だけが家制に適しておりよい家政夫だと、またさらに有能なのだと[ストア派の人々は]言っている。というのは、家制とは家のためになる事柄に関わる観想的かつ実践的な性向なのだからというのだ。家政とは消費と労働と蓄えと野良仕事の配慮に関わる性向である。有能さとはもつべき財貨の保全に関わる経験であり、財貨に関わる集会や繁栄に向けての蓄えと保全において調和した働きをさせる性向なのである。ある人々を用立てることは節度あることだし、またある人々をそうすることは洗練されたことだと言いたいのだ。しかし、劣った人は誰一人としてよい家長にはならないし、家をよく治められたものにすることもできない。優れた人だけが有能な人であり、彼は何のためにいつどうやってどの程度用立てるべきかということを知っているのだ。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.95.24=SVF.3.640(賢者 無情 刑罰)  智恵を持つ人は誰にも決して同情を抱かないと彼等は言う。というのも、人に同情を抱くことは過誤を犯したまさにその人が自分から過誤を犯したのではないと認めることであるが、過誤を犯す全ての人は自分自身の持つ悪徳からそうするのだ。だから、過誤を犯した者どもには同情を抱かないと言っても適切なのだ。また、彼等の言うところでは、善き人は融通のきく人ではないが、それは融通のきく人とは嘆願によってふさわしい刑罰を情状酌量する人であり、融通のきく人であることと不正をなした人々に法律に従って下された刑罰を厳しすぎると考えることと立法者がふさわしくない刑罰を定めたと考えることは同じ人のすることだからである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.96.10=SVF.3.613 (法 司法)  彼等は言う、また法は優れたものであり、なすべきことを命令しなすべからざることを禁止する正しい理である。法は洗練されているのだから、法に適う人も洗練されているだろう。すなわち、法に従い法によって命じられた事柄をなす人は法に適う人なのだが、法を導く人は法を司る人なのである。劣った人は誰一人法に適いもしないし法を司りもしない。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.96.18=SVF.3.501=LS.59M(正当行為)  (11e)さらに、諸活動のうちあるものは正当行為であり、あるものは過誤であり、あるものはどちらでもない、と彼等は言う。正当行為とは次に言うような性質のものである。思慮すること、節制すること、正義を実践すること、歓喜すること、善いことをすること、喜ばせること、思慮にかなう仕方で散歩すること、およそ正しい理に即してなされる全てのことである。一方、過誤は愚かであること、放埒すること、不正すること、苦痛すること、恐怖すること、盗むこと、総じて正しい理に反してなされることである。さて、正当行為でも過誤でもないこととは次のような性質のことである。ものを言うこと、語ること、答えること、散歩すること、外出すること、そしてこれらに類似のことである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.97.5=SVF.3.502(正当行為)  そして、正当行為は全て正義に従ってなされたことであり、法にかなった行為であり、秩序ある行為であり、目的にかなう行為であり、運命にかなう行為であり、幸福に寄与する行為であり、時宜にかなった行為であり、端正な行為である。しかしながら、思慮の対象である行為はまだそうではなく、思慮からなされた行為だけがそうなのである。また、他の徳の場合も同様であり、その名を帰されるのでなければ[正当行為ではない]。例えば、節制にかなう行為は節制からなされた行為であり、正義の行為は正義からなされた行為であるように。さて、過誤は反対のものからなされるものであり、不正な行為であり、不法な行為であり、秩序に背く行為である。 ↓ Stob,Ecl.2.97.15=SVF.3.91=LS.33J(…に値するものと…すべきものの違い 欲求との相関)  (11f)彼等が言うところでは、選択に値することと選択すべきことが異なるように、欲求に値するものと欲求すべきもの、意欲に値するものと意欲すべきもの、受け入れるに値するものと受け入れるべきものも異なる。善いものは選択に値するもの、意欲に値するもの、欲求に値するもの、受け入れるに値するものである。反面、有益なものは選択すべきもの、意欲すべきもの、欲求すべきもの、受け入れるべきものであり、これら述語となっているものは善いものに相関的である。つまり、我々が選択するのは選択すべきものであり、意欲するのは意欲すべきものであり、欲求するのは欲求すべきものである。というのは、述語に選択も欲求も意欲も属しているのだから、衝動がそうであるように。無論、我々が選択し意欲しまた同様に欲求するのは善いものを所有することであって、だから善いものは選択に値するもの、意欲に値するもの、欲求に値するものなのである。というのも、我々が選択するのは思慮や節制をそなえもつことであって、神かけて思慮することや節制することではないから、後者は述語つまり非物体である以上。 ↓ Stob,Ecl.2.98.7=SVF.3.90(…に値するものと…すべきものの違い)  彼等が言うところでは、同様に善いものは全て保持に値するもの、留まるに値するものであり、他の徳目においても類比的である、例えそう呼ばれていないとしても。しかし、有益なものは保持すべきもの、留まるべきものであり、類似のものもそうである。同じように、彼等の理解では、留意に値するものと留意すべきものは異なるし、保持放棄に値するものと保持放棄すべきものも異なる。悪徳に即した他の事柄においても同じ理論が当てはまる。 Stobaeus,Ecl.2.98.17=SVF.3.54 (幸福)  この故に、人間のうちでも善い人々は常に完璧に幸福なのであるが、劣った人々は悲惨なのだという。そして、あの人々の幸福は神的な幸福と異ならず、たとえ刹那的なものであってもゼウスの幸福に劣らず、つまりはゼウスの幸福は賢者たちのそれよりも何らより選ばれるべきものでもより立派なものでもより厳粛なものでもないのだ、とクリュシッポスは言っている。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.99.3=SVF.1.216;3.567=LS.59N(賢者と愚者)  というのは、ゼノンと彼に続くストア派の哲学者たちの説は、人には2つの種族があって、一つは優れた人々のそれ、もう一つは劣った人々のそれだというのだから。そして、全生涯に亘って徳を用いることは優れた人々のすることであり、悪徳をそうすることは劣った人々のすることであると言うのだ。そこからして、前者は自分がしようと思ったことを常に正しくなすのであり、後者は誤ることになる。そして、優れた人は、自分でなした事柄において生に関する経験を用いながら、万事をよく、思慮にかない自制しまた他の徳に即して、なすのである。しかし、劣った人は反対に悪しくなすのである。また、優れた人は偉大であり成熟しており崇高で強靱である。偉大というのは選択に関わる目下の事柄を自分で射当てることができるからである。他方、崇高というのは貴人や賢者に与えられた高みに達しているからである。そして、強靱というのは与えられた強さに留まり、不屈で不惑だからである。彼の下では、誰かに強いられることも誰かに強いることもないし、妨害したりされたりすることもないし、誰かに強制したりされたりすることもないし、支配したりされたりすることもないし、誰かに悪くすることもなければ自分がそうされることもないし、悪人に互することもなければ他人をそうさせることもないし、騙されることも他人を騙すこともないし、欺かれることも愚かなことをすることもうっかりすることもなく、要するに過ちに関わることはないのである。何よりも、彼は幸福であり幸運であり恵まれており豊かであり敬虔であり神々に愛され貴重であり王や将軍のようであり市民や家政にふさわしく金儲けにも適合しているのだ。しかし、劣った人々は全てこれらと反対の状態にある。 Stob.,Ecl.2.100.7=SVF.3.589(「全て善いものは賢者のもの」の意味)  総じて、優れた人々には全ての善いものがそなわっているが、劣者どもには全ての悪いものがそうである。しかし、この人々が言っていることをこうとってはいけない。つまり、何かが善いものがあるとそれは優れた人々に属すものであって、悪いものについても同様、などという風には。むしろ、前者は相当の善いものをもっていて、彼らの生が完成された幸福なものであるのになにも不足していないのに、後者は相当の悪いものをそうしていて、その結果生が不完全で悲惨なものになっている、という意味なのである。 Stob,Ecl.2.100.15=SVF.3.208(徳の様々の規定)  (11h)彼等は徳を沢山の名前で名付けている。つまり、これを善と呼ぶのは我々を正しい生に導くからである。最高のものと言われるのは基準であるのが疑う余地ないからである。多くの価値を持つと言われるのはそれを越えるものがない価値を有するからである。賞賛に値するものであるのは人がそれを賞賛するのが理にかなっているからである。りっぱなものと言われるのはこれを欲求する人々はこのものに関係して本来そう呼ばれているからである。有益なものとと言われるのは、善く生きることに貢献するそうしたものをもたらすからである。有用と言われるのは使用において有益なものがあるからである。選択に値するものと言われるのは理にかなって選択されうるものがそこから生ずるからである。必然的なものと言われるのはそれがその場にあれば利益をもたらすが、なければそれは不可能だからである。得なものと言われるのはそれから生じる利益への熱心さが発揮されるなら、その利益はより協力だからである。十分なものと言われるのはそれを持つ人に十分だからである。無欠だと言われるのは全ての欠乏から解放されているからである。満ち足りたものと言われるのは使用において十分であり人生における全ての使用に及んでいるからである。 Stob.,Ecl.2.101.5=SVF.3.587(益・害と賢者)  (11i)善いものには全く劣者は与らない、善いものは徳かあるいは徳に与るものであるから。善い人々の下におかれるものは、なすべきことであるが、有益なものであって、優れた人々にだけ生じる。丁度、悪い人々の下におかれるものも、なすべきではないことであるが、悪い人々にだけあるようなものである。それは害であるから。そしてこの故に、善い人々は両方の意味合いで全く無害である、つまり害をなすことも受けることもできないのであるが、劣者どもは反対である。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.101.14=SVF.3.593(富 賢者と愚者)  本当の意味での富は善く本当の意味での貧乏は悪いと彼等は言っている。また、本当の意味での自由は善いが、本当の意味での隷属は悪いとも言っている。だからそれ故、優れた人だけが裕福であり自由なのだが、反対に劣った人は、富への出発点を欠いているので、貧乏であり、また己の内にある卑屈な状態ゆえに隷属的なのである、と言うのだ。 ↓ Stobaeus 2.11I (101.21) = SVF. 3.626 = LS. 60P  全ての善きものは優れた人々に共通であり、劣った人々には悪しきものがそうである。だから、誰かを益する者は自分自身をも益するのであり、害する者は自分自身を害するのである。優れた人々は全て互いに益し合うのであるが、互いに知己になったり同じ場所で生活してもいないので互いに親しい友人では全くなく、好意をもち合ってもおらず、尊重し合ったり、受容れ合ったりしていなくてもそうなのである。無論、彼等は性向としては互いに好意をもち、友愛し、尊重し、受け容れているのである。しかし、無思慮な人々は彼等と反対の状態にある。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.11I(102.4) = SVF. 3.614  我々が言うように法は優れたものであるのだが、それはなすべきことを命令しなすべからざることを禁止する正しい理なのだから、賢者だけが法に適うのであり、法によって命じられた事柄をなし、法を導くのである、と彼等は言っている。賢者はこの最後のことによって法を司る者でもあるのだ。しかし、愚かな人々はこれと反対である。 ↓ Stobaeus,2.102.11=SVF.3.615  さらに、洗練された人々に彼らは統治に即した配慮やその諸形態、つまり王室典範や軍律や海軍法やこれらに似たことを行き渡らせるのである。だからこの理由で、優れた人だけが支配するのであり、たとえ現実には全てがそうではないとしても性向としては全面的にそうなのである。また、優れた人だけが、支配者に従う者として、権威を受容れるのである。しかし、無思慮な者たちのうちの何者もこのようなことはない。というのは、無思慮な者は統治することもされることもないからである。誰であれそのような者は自分勝手で無教養なのだから。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.102.20=SVF.3.563  知恵を備えた者は万事をよくなす。すなわち、思慮をもって忍耐強く端正で調和のとれた仕方で、人生に関する経験を一貫して用いながらそうするのである。しかし、劣者は、正しい使用に無経験なので、性向を働かせながらもっている限り万事を悪くなす、変わりやすくあらゆることで後悔にさいなまれるのだから。さて、後悔とは自分の下で犯された過誤としてのなされてしまった行為に対する苦痛であり、魂のある悲惨な、内乱を招く感情である。すなわち、後悔のうちにある人が起きてしまったことにさいなまれるそれだけ、この人はこうしたことの原因になってしまったと自分自身に対して腹を立てるのである。だから、劣者は全員称賛に値せず、賞賛される価値もなく、それだけの価値あることを備えてもいない。なぜなら、賞賛とは讃歎を込めて評価することであり、讃歎とはよく実現する徳への褒美だからである。すると、徳に与らない者は称賛に値しないと言われるのは正しいのだ。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.7.103.9 = SVF. 3.328 ;1.587 (Cleanthes) = LS. 67I = FDS. 636A2  自然に即して与えられた国家と法を失っている限りで全ての劣者は亡命者であると彼等は言っている。「というのは、法は優れたものだと我々が言うのと同様に国家も優れたものだからである」そこで、クレアンテスは国家が優れたものであることについて次のような言葉を問いかけたが、それで十分である。 「もし国家が居住に適して構築されたものであり、拒絶する者がそれに対して裁きを受けたり与えたりできるのならば、国家は洗練されたものなのではないか。 さて、国家はそのような居住の場である。 しかるに、国家は洗練されたものである」 さて、国家は3つの意味で語られているのだが、つまり居住に基づくもの、人々の統合体に基づくもの、3つ目はこの両方に基づくものであるが、このうちの2つの意味に従って国家は洗練されたものだと言われるのだ[と彼らは言っている]、つまり人々の統合体によるものと、国内居住者への言及によって両方共に基づくものとである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.103.24=SVF.3.677  (11k)彼等は言う、劣った人は全員粗野だ、と。なぜなら、粗野な人は国家に適った習慣や法に無経験だから。愚かな人に含まれる人は皆国家の持ち物なのだ。また、粗野な人は法に従って生きることと反対で、野蛮で、人を傷つけるものでもある。この同じ人は粗暴で僭主的であり、そのような状態にあるので大将気取りであり、さらに残酷なことや無理やりなことや尺度に反した無法なことをねらっているのである。また、不親切であり、返礼や分配に対する感謝に無縁であるが、それは何一つ公共的に友好的にまた下心なくできないからなのである。 Stobaeus,Ecl.2.104.10=SVF.3.682(劣者と愛知)  劣者は言論を愛する者でもないし物分かりの良い者でもない。向け換えから逃げる無思慮のせいで、正しい理を受け入れることに向けて始原を作り上げないことに加えて。また、劣者の誰一人として徳に向けて勧徳されないしすることもないということに加えて。なぜなら、勧徳される人や他の人々をそうする人は哲学することに用意ができている人でなければならないが、無思慮な者は誰一人そのような者ではないのだから。つまり、哲学者たちが語ることを熱心に聞き覚えている人が哲学に用意のある人なのではなく、むしろ、哲学を通じて忠告されることに対してそれを実行に向け、それに即して生きる用意のある人がそうなのである。しかし劣者の誰一人こういう者ではなく、悪徳という悪い教条にとらわれてしまっている。なぜなら、劣者のうちに勧徳された者がいれば、悪徳から脱したはずであろうから。しかし、悪徳をもつ者は誰も徳へと勧徳されない、病人が誰も[病人のままで]健康にならないように。そして、勧徳されうるのもしうるのも賢者だけであり、無思慮な者は誰もそうではない。なぜなら、忠告にしたがって生きることを無思慮なものの誰一人しないのだから。言論を愛する者ではないし、ましてや言論に愛される者ではない、語られることの上っ面までは進むけれども、徳の言論を実行によって明らかにすることがないから。 Stobaeus,Ecl.2.105.7=SVF.3.683(労苦)  つまり、劣者は誰一人労苦を好む者ではない。というのも、労苦を好むこととは、労苦によっても動じることなく物事に取り組む人にそなわる実行に関わる性状であるから。しかし、劣者は誰一人として労苦に対して動じない状態にはないというのだ。 Stobaeus,Ecl.2.105.11=SVF.3.684(?)  つまり、価値に応じた徳の贈与をすることも劣者は誰一人しない。なぜなら、贈与は優れたことであり知識であって、それに即して何か価値の高いことがなされると我々は考えるのだから。しかし、優れた人は誰も劣者に落ち込むことがないので、価値に応じた*徳の贈与を劣者の誰一人することはない。なぜなら、もし仮に無思慮な者が誰か徳の価値に応じた徳の贈与を、それが賞賛される限りで、なしたとすれば、悪徳を治めることもできたであろうから。しかし、無思慮な者は誰も皆自分の悪徳になじんでおりそれを快く思っている。つまり、考慮せねばならないのはこうした人々の表明された言葉(それは劣悪なものだが)ではなく、彼らの行為のそれなのである。なぜなら、こうしたことから吟味にさらされるのは立派で優れたことにつき動かされた人々ではなく下賎で限度を越えた享楽にそうする人々なのであるから。 *ten axianではないだろうか。 Stobaeus, Ecl.2.7.105.24 = SVF.3.661(過誤 悪徳 愚者 不敬)  全ての罪過は不敬事であるというのも彼らの説である。というのも、神の意向に背いて何事かをなすというのは不敬虔の証拠だというのだから。すなわち、神々は徳と徳の働きには親しいが、悪徳と悪徳から実行された事柄には疎遠であり、罪過とは悪徳に則した活動なのだから、明らかに全ての罪過は神々に好まれないものなのである(そしてそれが不敬事なのだ)。実際、劣った人はそれぞれの罪過に際して何か神々に好まれないことをするのである。  さらに、劣った人は悪徳に則してなされる限りのことを全てなすのであるが、優れた人は徳に則すことをなすのであり、一つの悪徳をもつ者はもはや全ての悪徳をもつのだから、しかるにそのような悪徳のうちには不敬虔も見出され、それは活動に即して整えられたものではなく、敬虔の反対の性向であるというのだ。そして、不敬虔に則してなされたことが不敬事なのであり、だから全ての罪過は不敬事なのである。  さらに、無思慮な者は全員神々の敵であるというのも彼らの説である。というのも、友愛が調和と共和であるのと同様に、敵対とは生き方に関する不調和と不共和だからというのだ。劣った人々は生き方に関わる事柄について神々に対して不調和であり、従って無思慮な人は全員神々の敵なのである。さらに、神々に反対の人々を全員敵とするならば、劣った人は優れた人に反対であり、優れた人は神であり、劣った人は神々の敵だということになるというのだ。 Stobaeus,Ecl.2.106.21=SVF.3.528(正当行為と過誤の程度の有無)(?)  彼等の言うところでは、過誤は全て等しい、決して類似しているわけではないが。というのは、過誤は悪徳という何か一つの源泉から由来するのが本来であり、これは全ての過誤において同一のものとしてある判断なのだから。しかし、外部からの原因に基づいて、判断が完遂される場である中間のものが差別化される時に、過誤は性質にしたがって差別化されるのである。明白な事実のはっきりした図式が得られるだろう、次のように理解するならば。つまり、虚偽は等しく偽りである、あるものが他のものよりもより多く虚偽であるなどということはないのだから。つまり、「常に夜である」は「半馬半人が生きている」と同じく偽りである。そして、どちらが他方よりもより多く偽りであると言うことはできない。しかし、[個別の]*虚偽が等しく偽りであるわけではなく、偽りを言う人々も平等に偽りを言うわけではないのである。過誤することも「より大より小」ということがない、全て過誤は虚偽に基づいてなされるのだから。さらに、正当行為は「より大より小」にならないことがないが、過誤は「より大より小」になることがない。というのも、全てこれらは完全なもので、あたかも互いに不足したり過剰になったりできないかのようだからである。 *訳者の解釈。こうでもしないと意味が通らない。 Stobaeus,Ecl.2.107.14=SVF.3.366(天性 性向 進歩)  天性の善い人や生まれの善い人について、この学派の人々のうちには、賢者は全てこのような人であると言おうとする人々もいれば、そうでない人々もいる。すなわち、生まれつきの善い人々だけが天性によって徳に至るのではなく、訓練によってそうなる人々もいるのだ、と言う人々もいるのである。あの序詞に述べられていることもこのことを示していたのだ。   長く修められた習練は天性になる。 生まれの善さについても同様だと私は受け取っている。つまり、天性の善さとは天性によっても訓練によっても等しく徳に近づける性行であるか、あるいは別の言い方をすれば誰もがそれに則したならば徳に与れる性行なのである。一方、生まれの善さは生まれによっても訓練によっても徳に近づける性行なのである。 Stobaeus, Ecl. 2.108.5 = SVF. 3.630  彼等によると、優れた人は社交的で器用であり交際を通じて好意と友愛へと勧誘し追求するものである、沢山の人々に調和することができるのであるから。これと並んで、優れた人は魅力的で感じがよく説得的であり、さらに、要領がよく狙いが鋭く好機を逃さず頭の回転が速く素直でおせっかいでなく真面目で誠実なのである。しかし、劣った人はこれらと反対のことに傾いている。  とぼけることは劣った人々のすることだと彼等は言っている、自由な優れた人は誰一人とぼけないからである。泥棒も同じことである、それは何かしっぽを出しながらシラを切ることだから。また、賢者たちの間だけに彼等は友愛を残すのである、このような人々の間にだけ生涯に亘る事柄に関わる共和が生じるのだからというのだ。共和とは共通の善きものに関する知識である。実際、誤ってそう呼ばれたのではない本当の友愛は信用と堅固さを欠いてあることは不可能である。しかし、劣った人々の間には、彼等は不信で脆く、敵対的な思い込みをもっているから、友愛はないのであり、代わりのある種の混合と外部から強要され思惑にとらわれた結びつきが生じるのだ。愛することや歓迎することや友愛することはただ賢者たちがすることだ、と彼等は言う。 Stobaeus,Ecl.2.7.108.26=SVF.3.617(王政)  また、賢者だけが王であり王にふさわしい者なのだが、劣った人々は誰一人としてそうではない、というのだ。というのも、王制とは万事に及ぶ絶対にして最高の統治なのだから。 Stobaeus,Ecl.2.109.1=SVF.3.656(賢者)  彼等が言うには、優れた人は自分自身の最高の医者でさえある。というのも、自分自信の体の調子を配慮し、健康に役立つものを知っている者として緊密に己を観ることができるからである。 Stobaeus,Ecl.2.7.109.5=SVF.3.643(日常生活 賢者)  また、智恵を持つ者は酩酊することがないであろう人である。というのも、酩酊は過誤に関わることを含んでおり、酒には痴愚がつきそっており、さていかなる場合にも優れた人は過誤を犯さないのであり、その故に彼は全てのことを徳と徳からの正しい理に即してなすというのだから。 Stobaeus 2.109.10 = SVF.3.686 = LS.67W  彼等によると、優先される3つの生き方がある。すなわち王の生と市民の生と知識の生である。同様に、金儲けにも優先さるべき3つの形態がある。1つは王政から生ずるもので、その生き方では自らが王となるかあるいは王の財産を多量に享受することになろう。2番目は、市民制から生ずるものである。[この場合人は]優先さるべき理にしたがって治められるのであるから。また、結婚し子をもうけるであろうから。これもそれらが理にかない共同し互いを愛する動物の本性に従っているからそうするのである。従って、市民制からもまた優れた状態にある友人たちからも金銭は得られるのである。ソフィスト活動をすること*やソフィスト流儀で金儲けをすることについても彼らは言葉の意味の選択に起因して不一致を来したのである。というのは、[ソフィストたちは]教育活動から金儲けをするだろうこと、時に向学心のある者たちから金銭を受け取るだろうことには意見の一致をみたのである。しかし、[ソフィストということの]意味については彼らの間にある異論が起こったのである。金銭をとって哲学の教説を教授することをまさにソフィスト活動だと言った者たちもいれば、他の者たちは、ソフィスト活動中に何かけしからぬこと、例えば言論をたたき売りするといったこと、をして回っているのではないかといぶかしがったのである。彼等は、誰からでも教養をえさに金儲けをするなどということはするなと言っているのであり、こんなことをする奴は哲学の尊厳にふさわしいああした金儲けの仕方をしていないのだから、と言うのである。 *ロングとセドリーに従う Stob.,Ecl.2.110=SVF.3.578(?)(賢者は傲慢でない)  彼等の言うところでは、賢者は傲慢でない者である。というのは、奢られることも奢ることもないのだから、奢りが恥を与える不正であり加害である以上。しかし、不正されることも害されることも優れた人にはない。無論、不正な仕方で人々が彼に関わってくることもあれば、傲慢な仕方で彼に対して不正を働くこともある。傲慢がこの人に当てはまる不正であるかわりに、むしろ恥を与える奢った不正であるのである。賢者は傲慢でない)そして、決して恥を被らないように注意している人は過ちに陥らない人である。というのも、自分のうちに善、つまり神的徳があり、それによって全ての悪徳と加害から解放されているのだから。 Stobaeus,Ecl.2.110.9=SVF.3.758(自殺)  彼等の言うところでは、生からの撤退が優れた人々にふさわしいものとして沢山の仕方で生ずることがあるし、生に留まることが劣者に、彼らが賢者になる見込みがないのもかかわらず、そうであることもある。というのは、徳が人を生に留め、悪徳が追い出すわけではないのだから。適宜行為や適宜でない行為によって生死は量られるのである。 Stbaeus,Ecl.2.111.3=SVF.3.690(統治)  そして、智をそなえた者は王として支配することもあろうし、善い性格を生まれもち物分かりの良い王とともに生きることもあるだろう。我々が言ったように、優先される理論に基づいて治国することもできるし、しないこともできるが、後者は、何らかの点で治国することを妨げられる場合、そして何より祖国を益する見込みのない場合、それどころか多大な危険と困難が国制から伴うことが分っている場合である。 Stobaeus,Ecl.2.7.11m(111.10)=SVF.3.554=FDS.89(嘘 賢者)  賢者は嘘をつかず、むしろ全てのことにおいて真実を語ると言われている。というのも、嘘をつくということは何か虚偽のことを語るということのうちにあるのではなく、むしろ騙そうと思って虚偽を語ること、つまり隣人を騙すためにそうすることのうちにあるのだから。無論、この人が多くの場合に同意はしないまでも嘘を使うことも時にはあると、彼等は認めている。つまり、戦闘における戦略のためにであるとか、利益をもたらすためにであるとか、生活のための様々なやりくりのためにそうするのである。 ↓ Stobaeus, Ecl. 2.7.11m (111.18) = SVF. 3.548; 1.68; 1.54 = LS. 41G  彼等が言うには、賢者は虚偽を受け入れることはなく、何であれ把捉的でないものには全く同意しない、彼は思惑せず何事にも無知ではないから。というのも、無知とは変わりやすく弱い同意だからである。つまり、賢者は何事も弱く受け入れず、むしろ明白確実に受け入れるのであり、従って思惑することもないのだ。というのは、思惑には2種類あって、一つは非把捉的なものへの同意であり、もう一つは弱い把握である。しかし、それらは賢者の性向には疎遠なものである。だから、把捉の前に早合点して同意することも性急な劣った人のすることであって、善き天性の完璧な優れた人にはあてはまらないのだ。また、賢者は何も忘却しない、というのも忘却とはありもしない事柄に対する明白な把握だから。これらに従うと、賢者は不信することもない、不信とは誤った把握だから。しかし、信用は洗練された人のすることである、それは強い把捉であり、把握されたものを確固として把捉することだから。同様にして、知識もまた理知によって不動である。このゆえに、彼等は劣った人が知識もせず信用もしないというのだ。このような次第だから、賢者は騙されず、勘違いせず、言いなりにならず、勘定をごまかしもしないし、他人にごまかされもしないのだ。というのはこうしたことは全て欺瞞によるものだし、場合によっては虚偽を加えることに依存しているのだから。しかし、洗練された人は誰一人として正道や本分や目標を踏み外すことはない。彼等は賢者が見落としたり聞きもらしたりするとは認めない、また総じていずれかの感官において取り違えをすることはないとする。なぜならば、あらゆるこうしたこともまた誤った同意に関わるのだと彼等はするのだから。また、賢者は推測することもないと彼等は言う。というのも、推測とは非把捉的な類いのことへの同意だからである。また、智恵ある人は後で気付くということもないと彼等は理解している。後で気付くということは、早とちりしてしまったという意味での虚偽のことに関する同意に関わるのだから。また、賢者は考えを変えたり立場を変えたり迷ったりもしない。こうしたことは全て、考えを変える人々のすることであって、智恵をもつ人には疎遠なものだから。この賢者にとっては何事もいかなる点においても以上で言われたことには似ていないと思われる。 Stobaeus ecl.2.113, 18 W.=SVF.3.529=LS.59O(過誤と正当行為は平等だが…)  全ての過誤及び正当行為は平等である以上、無思慮な者たちもまた全員が平等に無思慮である、同一の等しい性向を備えた者として。しかし、過誤は平等であるが、それらの間には何らかの差異がある、頑固で治癒しえない性向から生じたものもあればそうでないものもあるという限りにおいて。また、優れた人々は互いに対してより勧徳的でありより説得的である、それ以上により鋭くもある、耐えるべき事態が起こった場合に中間をとるという意味あいで。 Stobaeus,Ecl.2.113.=SVF.3.540(賢者とその判断)  しかし、賢者が最初のうちはそれと気付かれずにそうなることもあるということを彼等は認めている。それは、その賢者が何も欲求せず、意欲において種を構成するもののいかなるもののうちにもない場合であるが、そういうことは彼が自分で判断しなくてもなすべきことが臨在するからそうなるのである。そして、思慮においてだけではなく、他の技術においてもこうした完全な把握があるだろうというのだ。 Stob.,Ecl.2.114.4=SVF.3.601(賢者の一生)  しかし、子宝に恵まれるのも洗練された人だけである。なぜなら、もちろん全ての子供がそうではないが、子宝に恵まれ、洗練された子供たちを得た人は彼らをそのような者として扱わねばならないからである。善く老いるのも善く死ぬのも優れた人だけである。というのも、善く老いるとは、どんな老境にあろうと徳に即して過ごし切ることであり、善く死ぬとは、どのような死であろうと徳に即して全うすることなのだから。 Stob.,Ecl.2.114.10=SVF.3.602(健康と病的)  また、人間に対して「健康的なもの」「病的なもの」というのも滋養物として語られているのであり、「緩めるもの」「固めるもの」またこれらに類似のものもそうだというのだ。つまり、健康的なものとは、健康を得たり維持したりするために自然によくかなう状態にあるもののことである。他方、病的なものとはこれらと反対の状態にあるもののことである。残りの事柄に当てはまる理屈も同様である。 Stob.,Ecl.2.114.16=SVF.3.605(卜占)  (11s)卜占官であるのも優れた人だけであるが、それは神々あるいは神霊から人間の生に及ぶ印を予知できる知識を持っているからなのである。それ故、様々な種の卜占もこのことに関わっているのだ、夢占いであろうと、鳥占いであろうと、臓物占いであろうと、またもしこれらに類似の何か別なものがあったとしても。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.114.22=SVF.3.638(賢者 犬儒哲学)  優れた人は厳正だとも言われているが、それは誰にも譲歩せず、御機嫌取りの言葉を信用しないというそれだけのことである。彼等は賢者は犬儒するとも言うが、それは犬儒哲学に従い続けても同じことだということであって、賢者が賢者でありながらいつか犬儒哲学に手を付けることになるだろうなどということでは決してない。 ↓ Stobaeus, Ecl.2.115.1 = SVF.3.650  彼等が言うには、愛情とは友人を作ろうとする企てであり、年頃の若者の内に現れる美しさによって引き起こされる。それ故、賢者は愛情に満ち愛情を抱き合うというのだが、それは愛するに値し生まれ育ちがよく性格のよい人々に対してだというのだ。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.115.5=SVF.3.564=LS.65W (留保行為)  彼等は言う、欲求や衝動や意欲に反したことは何も賢者の下では生じない、こうしたこと全てを彼は留保を伴ってなすのであり、彼に反対するもののうちで予期できないものは何も生じないからである。 ↓ Stobaeus,Ecl.2.115.10=SVF.3.632=LS.65W  彼は穏やかでもあり、穏やかさが彼の性向であり、それに基づいてあらゆる場合に意欲することを行う際穏やかな状態にあり、誰に対しても怒りには駆られない。また彼は物静かであり端整である。端整さとはなすべき運動に関する知識であり、物静かさとは魂と肉体の、自然に則した運動と静止に関わる善き調和である。これらと反対のことは全ての劣った人々に生ずる。 Stobaeus,Ecl.2.115.18=SVF.3. 581(非難)  善美なものは全て非難されることがない、非難を受け付けえないから。ここからして、このような意味あいとともに、他人を非難しないことによってもまた非難されないことになる。つまり、非難とは見せかけの友人たちに虚言によって備わる不一致である。しかし、こんなことは善い人々には生じず、劣者だけが非難し非難されるのである。それ故、真実の友人は非難したりされたりすることはないが、そう思われるだけの見せかけの友人はそういうことをする。 Stobaeus,Ecl.2.116.1=SVF.3.648(賢者の決断)  また、優れた人は何事も決して延期することはない、というのも延期とはためらいによってなされることに加担することであるから。彼は何か法律を起草するという、その起草が非難に値しないならば。というのも、延期について、ヘシオドスはこんなことを言ったと言っている。   明日や来年に引き延ばしてはいかん! また   いつも怠け者は破滅の神様と一緒に働いてるのさ 延期とはふさわしい行為を何か欠落させることを引き起こすものだから。 Stobaeus, Ecl. 2.120.20 = SVF. 3.563  すなわち、叡知を備えた者はあらゆることをよく、思慮にかなう仕方で、節度をもって、ふさわしく、調和した仕方で、持続して、人生に関する経験を用いながらなすのである。しかし、劣った人は、正しい使用に無経験なので、彼が従っている性向を働かせつつあらゆることを悪しくなすのである、あらゆる場面に動揺し、後悔にとらわれながら。後悔とは自分自身のせいで犯された場合の諸問題に対する苦痛であって、魂を妨害する何か大変に不幸な感情である。後悔の内にある人は起こった事柄に悩まされるだけ、それだけ自分自身に、それらのことの原因だというので、腹を立てるのである。それ故、全て邪悪なものは不名誉でもあり、称賛に値せず、誉められたものではない。というのは、称賛とは名誉に値するという評価であり、名誉とは活動している徳の報奨だから。だから、徳に与っていない人は当然のことながら称賛に値しない人と言われる。 Stobaeus, Ecl. 2.15.31(190.15) = FHSG 521  テオプラストスの言。我々は人生を弁説の巧みさによって信じるのではなく、言説をよく整えられた生活からそうせねばならない。 Stobaeus, Ecl. 2.31.81 (215.13) = SVF. 1.319  ゼノンは、どうしたら若者は一番過ちを犯さないようになるだろうかと問われ、こう言った。「最も尊敬するもの、恥ずかしいと思うものを目の前にもつといい」 Stob., Ecl. 2.31.83 (215.20 W) = SVF. 1.387 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。彼はこう言った。「クミンを蒔く時はののしりながらせねばならないが、そうやって立派に成長するのである。若者達もののしりながら教育せねばならない。そうすれば立派な大人になるであろうから」 Stob., Ecl. 2.31.95 (218.7 W) = SVF. 1.396 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。船頭は大船だろうが小舟だろうが船酔いすることはないが、素人はどちらでも酔ってしまう。同様に、教養人は羽振りがよくても貧乏でも乱れることがないが、無教養な人はどちらでも乱される。 Porphyrius, De Anima apud Stobaeus, Ecl. 2.349,23  ストア派の人々は感覚を表象だけのうちにおいたのではなく、その本質を同意に結びつけたのである。というのも、感覚的表象に対する同意が感覚なのであるから、衝動における同意というものもあるので。 Stob., Floril. 7.21 = SVF. 3.574  クリュシッポスの説。クリュシッポスが言うには、賢者は苦痛は感じるが、それが拷問にはならない。なぜなら、魂に受け渡さないから。また、何かを必要とすることはあっても、それを喜んで受け取るということはない。 Stob., Floril. 3.4.89 (1.240 H) = SVF. 1.517 (Cleanthes)  クレアンテスの言説。クレアンテスの言う所では、無教養な人々は獣と形が違うだけである。 Stob., Floril. 4.106 (1.245.9) = SVF. 1.238  ゼノンが言うには笑止なことである、どう生きるべきかということに関する個々の人の教説にはそれはものの分かった人の言うことではないと気を払わず、全ての人の抱く評判にはいい判断があると驚嘆するなどということは。 Stob., Floril. 3.4.109 = SVF. 1.350 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。キオスのアリストンは、一般教養にあくせくして哲学を疎かにしている人々を、ペネロペの求婚者のような連中だと言った。つまり、従女のあたりをうろうろしていて、ペネロペにありつけない連中だと言ったのだ。 Stob., Floril. 3.4.110 = SVF. 1.350 (Aristo)  同じ人は多くの人々をラエルテスに喩えた。この人は、万事につけ金のことばかりを考えていて、自分自身についてはさっぱり考えなかったからである。つまり、財産に考慮を払ってばかりいる連中は、自分達の魂を金に対する感情で満たしているのだ、と冷ややかに見たのである。 (3.6)放埒について Stob., Floril. 3.6.3 (1.281 H.; 6.19 M.)  クレアンテスの詩句。   たとえ耐え忍んでも、醜い物事を欲望する者は   それをしてしまう、機会さえあれば。 ↓ Stolb., Floril. 3.6.4 (1.281 H; 6.20 M)   では一体どこから、姦夫という連中は現れるのか。   愛欲で満腹の男から。 Stob., Floril. 3.6.20 (1.285) = SVF.1.240  ゼノンは大衆を批判して、労苦から快楽を得るには、食堂から持ってくればよいのだ、と言った。 Stob., Floril. 3.6.24 (1.289 H) (Musonius) = SVF. 1.243  つまり、ゼノンの言説はいいことを言っている。何のために忍耐をし、髭をたくわえるかと言うと、それは自然に従うためであって、髭で重たい思いをするためでもないし、決して手入れが面倒で何もしないでいたので伊達に延びたのでもないのだ。 Stob., Floril. 3.6.66 (1.304) = SVF.1.556  クレアンテスは言った。もし人生の目的が快楽なら、人間にとって思慮は悪徳に向けて与えられているのだ。 Stob., Floril. 3.7.44 (1.321 H) = SVF. 1.288  ゼノンの逸話。ゼノンは既に高齢になっていたが、躓いて倒れてこう言った「行くというのに、なぜ私を呼ぶのか」そして、覚悟を決めて自殺したのである。 Stob., Floril. 3.7.54 = SVF. 1.604 (Cleanthes)  クレアンテスの逸話。クレアンテスは舌にできた腫瘍のために食べたものを飲み込めなくなった。そこで、楽になるようにと、医者も食べ物を彼に飲み込ませようとしたが、そこで彼は言った。「もう充分に道行きを終えてしまった私を、君は引き戻そうとするのか。それとも最初から同じ道を行かせるのか」と。そして彼は他界したのである。 Stob., Floril. 3.13.40.1 (1.462 H, 13.22 Mein) = SVF. 1.383 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。苦蓬の渋をとるのも、言論の自由を奪うのも、似たようなものだ。 Stob., Floril. 3.13.57 (1.465 H, 13.39 Mein) = SVF. 1.384 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。ある人に「よくも俺を笑い者にしたな」と言われて彼はこう言った。「脾臓を悪くした人々には渋く苦いものがよくて、甘いものはよくないからな」 Stob., Floril. 3.14.4 (1.469.8 H) = SVF. 1.237   自分自身を論議せよ、君がどのような者かを、快いことに   耳を傾けるな、そして追従者から言論の自由を奪え。 Stobaeus, Floril. 3.15.12 (1.479 H) = SVF. 1.294  ゼノンは、自分達の放蕩を弁明し、時間をかけて治していくと言う人々にこう言った。「どっかの肉屋にでも許してもらうんだな。もう肉に塩を入れたというのに、さらに大量の塩を入れたのだから」 Stobaeus, Froril. 3.17.28 = SVF. 1.469 (Cleanthes)  アイリアノスの『歴史拾遺』から。ソロイのクリュシッポスはわずかな生活費でまかなっていたが、クレアンテスは最低の生活費で過ごしていた。 Stobaeus, Floril. 3.18.24 = SVF. 3.713  クリュシッポスの説。彼は言う、酩酊は小さな狂気である。 Stob., Floril. 3.20.69 (1.554 H) = SVF. 1.395  アリストンの言説。怒りが悪口を生み出すのは当然だが、野暮な母親も同様である。 Stob., Floril. 3.28.17 (1.621 H; 28.14 M) = SVF. 1.581 (Cleanthes)  クレアンテスの言説。クレアンテスは言った。誓いを立てる者は、その誓いを立てる時点において、真実を誓っているか、虚偽を誓っているかのどちらかである。つまり、誓いの通りのことを成し遂げるつもりで誓っているのであれば、真実を誓っているのであるが、その通りにやらないという前提で誓っているのであれば虚偽を誓っているのである。 ↓ Stobaeus, Floril. 3.28.18 H; 18.15 M = SVF.2.197  クリュシッポスの言説。真実を証言することとよく証言することとは違うと彼は言った。また、悪く証言することと、虚偽を証言することも違う、と。理由はこうである。誓いをたてる者は、その時点では、真実を証言しているのか、虚偽を証言しているのか、全くどちらかである。つまり、彼が証言することは真であるか、さもなくば偽である。何か命題が成り立っているのだから。しかし、誓いをたてる者が、その誓いをたてている時点では、よく証言しているのかしていないのかまだ確実ではない。誓われている事柄が言及する時がまだ来ていないのであれば。なぜなら、人が誠実であったかなかったかが語られるのは、同意をしたその時ではなくて、誓いの中で同意された事柄に時が至った時なのであるから。それと同じく、人がよく証言したのかいい加減な証言しかしなかったのかが語られうるのも、誓いの中で語られたことが成し遂げられるという同意のあるその時が至った時なのである。 Stob., Floril. 3.36.19 (1.694 H) = SVF. 1.310  ゼノンの言説。ゼノンは、聞くよりも話したいという人にこう言った。「君、自然画我々に耳は二つ与えたのに舌は一つしか与えなかったのはなぜだと思う。自分の言うことを二倍よく聞くためなのだよ」 Stob., Floril. 3.36.23 (1.696 H) = SVF. 1.304  アカデメイア派の若者の中には問題事項をぞんざいに論じる者もいた。しかしゼノンはこう言った。「舌を理性に浸して論じないと、もっとさらに言論音痴になってしまうよ」 Stob., Floril. 3.36.26 (1.696 H) = SVF. 1.300  ゼノンの言説。ゼノンは、弟子達のある者たちは言論好きだが、ある者たちは言論の方から好かれていると言った。 (3.42)中傷について Stob., Floril. 3.42.2 (1.760 H) = SVF. 1.586 (Cleanthes)  クレアンテスの詩。   中傷以上に有害なものは何もない。   密かに、信じるものを欺いて   無闇に憎しみを作り出すから。 Stbaeus, Floril. 43.88 (2.27.12H) = SVF. 1.266(ゼノン『国家』?)  お供え物によってではなくそこに住む人々の徳によって国家を整えるべきだとゼノンは言った。 Stobaeus, Floril. 45.29 = SVF. 3.694  クリュシッポスの説。クリュシッポスは「なぜ国制に携わらないのか」と訊ねられて言った。そのわけはこうだ。もし何か劣悪な国制を国制するとしたら神々のお気に召さないだろう。利得にかなう国制をそうするなら市民たちの気に入らないだろう。 Stobaeus, Floril. 63.31=SVF.3.720  クリュシッポスの説。ある人にこう言われた、賢者は愛されることがないだろう、と。なぜなら実際、メネデモス、エピクロス、アレクシノスがそう証言しているのだから、というのだ。クリュシッポスは言った、私もこうした見解を用いて論証することだろう、無教養なアレクシノスや無感覚なエピクロス…なメネデモスが、そう言うように、愛されることがないであろうなら。 Stob., Floril. 3.17.42 (1.506 H) = SVF. 1.287  キティオンのゼノンは、病気にはいかなる栄養も与えてはならず、甘やかすべきではないと思っていたので、治療にあたった医者が鳩の雛を食べるように命じた時には、「マネスにしたように治療をしてくれ」と言ったのだ。つまり、思うに、自分は病気になった奴隷とは違うのだから、治療においても柔弱にならないのがふさわしいのだ、と彼は考えたのだ。 Stob., Floril. 3.33.10 (1.680 Hense) = SVF. 1.284  ゼノンの逸話。ゼノンは、アンティゴノス王の使節を送り出した時、他の哲学者と共に食事に呼ばれた。他の人々は酒の席で自分達の性格を示そうとあくせくしていたのに、ゼノンその人は黙っていた。使節達に、あなたについて王に何と報告すればよいかと問われて、彼はこう言った。「この者は、じっと見ておりました、と言ってくれ」と。これ以上対処に困る発言はなかった。 Stob., Floril. 3.37.20 (3.702.11-14 H) = FHSG. 628. = Wi. 106  テオプラストスの言。善い人々は少ししか法律を要しない。なぜなら、事態が法律にではなく、法律が事態に対応するのだから。 Stob., Floril. 4.1.72 = FHSG.517  テオプラストスの言。テオプラストスがある人に訊ねられた。何が人々の生活を結び付けるのか、と。その時、彼は言った。施善と賞賛と懲罰だ、と。 Stob., Floril. 4.11.16 (4.340.13H) = FHSG.539  テオプラストスの言。若者達についてはっきりとした予測を立てるのは難しい。というのも、この年頃はうまく言い当てられず、沢山の変化を備え、その時々で違った風に運ばれるからである。 Stob., Floril. 4.15b.31 (57.12) = SVF. 1.312  『アリストテレス交友録』(?)から。  ストア派の哲学者ゼノンは、知人の一人が田舎者に引きずり回されるのを見てこう言った。「君がそいつをダメにすることはなくても、こいつは君をダメにするよ」 Stob., Floril. 4.20b.64. (4.468.4 H) = FHSG. 557 = 115 Wimm.  テオプラストスの言。愛情とは何らかの理不尽な欲望の過剰であり、起動は素早く、弛緩は鈍い。 Stob., Floril. 4.22a.16 = SVF. 1.400 (Aristo)  アリストンの言説から。スパルタ人達の法律は様々な罰を定めている。第一に不婚、第二に晩婚、第三の最大のものが悪婚。 Stob., Floril. 4.22a.25 = SVF. 3 Antip. 63  アンティパトロスの『結婚論』から。  生まれも心立てもよく、さらに端正で政治にも通じた若者は、完全な家庭や生活が子女をもつこと以外の仕方では成り立たない理由を分っている。つまり、国家と同様に家庭も、不完全なのは女だけのそれではなく男だけのそれなのである。羊飼いにしても群れを増やすこともせずそれで豊かになることもないのはよくないが、それと同じように、国家や家庭もなおさらである。すると、こうしたことを考慮するならば、生まれよくまた本性上政治的な者は祖国を増やさねばならない…また実際、国家が保たれる唯一の方法は、あたかも善い木の前の葉が落ちて腐るように、市民あるいはまともな生まれの者の本性上より優れた子孫が、あたかも幾らかの生まれのよい芽が残って親を継ぐように、時宜にしたがって結婚することなのである。こうして、常にこのことをなそうとし、盛期を永遠に保とうとするのであり、その限りでは彼等自身は敵に対して難攻不落であるが、それは彼等が生きている間も今生を去った後も祖国を助け守ろうと意図しているからなのである。こうして*もっとも必然的な第一の適宜行為のうちに彼等は結婚の関係を持つことをも認めている。これは、自然に適合することを全て完遂しようと強く望んでのことで、祖国の平安と増大に関わるならなおさらであるし、また何よりも神々の誉れにも関わることである。というのも、氏族を差し置いて何を神々に捧げるというのか?「狼達か、しからずんば牛殺しの獅子の種族」である(ソポクレス『ピロクテテス』400)。  さて、妻や子供を持った経験のない男が本当に真の、由緒正しい好意を味わったことがないということはあり得る。というのも、その他の友愛や親愛は豆やその他似たものがただ並びあって混ざっているのに似ているが、男女のそれは徹底的な混合に似ていて、それは例えば水と葡萄酒の混合のようなもので、これは双方がそれはそれと保たれながらも徹底的に混合するのである。というのも、財産や子供(全ての人々にとって最も愛すべきものである)、魂だけでなく肉体も共有するのはただ彼等だけなのであるから。また、他の意味でも確かにこの結びつきは最大である。というのは、他の共有関係は何か他に目を向けるところを持っているが、  「これらは一つの魂に目を向ける定め」(エウリピデス『メデア』247) そしてそれは「人」のそれであるからである。(つまり加えるに、その魂というのはおかしくはない父親と母親のそれということである)また、人生に関する一つの目標と目的を作り、それを享受し、夫婦各々自身が相互に尊重し合って一番の好意を妻は夫に、夫は妻に与えねばならないからである。また、妻と共に生活した経験がないわけではないのに、エウリピデスもその問題を見やるに際して、自分がものを書いていた時の女嫌いを横において、こんなことを言っている。 「つまり、女というものは病やひどい苦労にあっては  極めて快いものだ、家のことをよく治め、  怒りをなだめ、落胆から  心をそらすのであってみれば。また友人達の追従も快い」  こうした行いは英雄的なことでもある。現実に、いくつかの都市においては、現在ある別の体制が崩壊すると共に無秩序、堕落や安易な状態への傾倒があるので、そういう状況下にあって結婚をすることは最も困難な事柄に入ると考えられている。しかし、未婚の生活は、これを放埒や、色とりどりのあやしげなはかない快楽の享楽に導けるものとして、神のごときものだと人々は考えて、方や、女性との生活に入ることはある種の都市守護義務に入ると同じようにみなしている。事実、女との生活は面白くないものと思われている、自由がきかないどころか快楽の奴隷であるからと言うので。さらにまた、ある人々は美しさに狩られて、ある人々は嫁資に狩られて、彼女に関することを進んで彼女に委ね、家政についても家を興すことについても何も教えず、何のためにせよ共に何かをするということもなく、神々を敬うことやその誉れ、畏怖について彼女を導くこともせず、柔弱さが破滅につながることも示さず、目の前の生活を見据えたりこれからのことを正しく考えて慮るよう馴すこともせず、よそ見をせず余計なことを考えずよい希望を持つようにさせることも、主人が何を望もうとも、欲するところを完全にできるように馴していて**、今現在だけではなく万事についてその場所やあり方、まともかどうか、役に立つかどうかを彼女が合わせてしっかり考慮するように馴しもしない。もし誰かこうしたことやその他、哲学者達が御立派にも説き命じている事柄を成し遂げられる者がいたら、既婚女性というものは最も貴重なものの一つでしかも重さはとても軽いと思われたことだろう。というのは、こうした事態は、片手しか持っていない人がどこかからもう一つの手を得たり、片足だけ持っている人がもう一本の足をどこか別のところから得たのにとてもよく似ているからである。つまり、こういう人が自分の望むところにはるかに容易に歩いて行ったり、往来できるのと同様、妻を娶った人も、生活上の保全や利益を容易に享受できるのである。確かに、二つの目の代わりに四つの目を使い、二つの手に加えて別の一組を用いるなら、それらをまとめて使えば手仕事をさらに容易にできるはずである。したがって、万が一どちらか一対の調子が悪くても、別の一組が役に立つし、総じて一つだけの代わりに二つを持っている人よりも生活においてより守備よく物事をなせるはずである。それだから、妻を迎えることは生活の負担となり、それを身軽でなくすると考える人は、沢山の足を率いていると歩くのにおっくうだと思って多くの足を持ちたがらない人や、多くの手を持っていることを悪く言う人と、思うに、同じ心境なのであろう。つまり、彼等が懸念しているのは、手足がそんなに多いと何か動作をさまたげることがあるに違いない、ということなのである。つまりこうしてみると、自分自身に他のものを加えるように何かを加え得るならば(その際、男女の差は何らない)、万事をより軽々とたやすくなせるのである。さて、善を愛する人、言論活動や政治活動、あるいはその両方に暇を費やそうとしている人にとって、つまるところ、このことはなおざりにできないことである。つまり、こういう人は家政から離れれば離れるほどそれだけ一層、引き継いだ家督を残すべきであるし、生活上欠くべからざる物事についてもフラフラしないようにならねばならない。喜劇作者がこう切り詰めて言っているのも悪くない。   学のある人だ。結婚せねばならないと思う。   そして、家の人々を治めることを気遣いそれに有能な者にならねばならない   それももっと多くの人々を そしてある人のことに触れて   むしろ結婚すべきなのは、無頓着で、欲するのも   学暇という人、面倒をみてくれる人を得て、好きなだけ「逍遥」していられるようにというので。 *ounを読む。 **アルニムに従いmed'を読まない。 Stob., Floril. 4.23.42.1 = FHSG.565 = Wi.157  テオプラストスの言。女は、美しく見えるようにこうした点で飾られているならなおさらのこと、[男を]見てはならないし見られてもいけない。というのは、どちらとも、してはいけないことに陥るからである。 Stob., 4.25.44 (79.44 Mein) = SVF. 1.386 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。全ての哲学に論駁されたばかりの人々と親から生まれたばかりの赤子達は、生まれ立ての子犬と同じ状態にある。他のものを求めてわめくだけでなく、自分のうちでもそうしているからである。 Stob., Floril. 4.31d.110 (94.15 M) = SVF. 1.397 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。生の酒を飲んだら、無礼になる人もいれば、おとなしくなる人もいるように、富も… Stobaeus, Floril. 4.32a.21 (95.21 Mein) = SVF. 1.273  ゼノンが言うところによると、クラテスは靴屋に座っている時にアリストテレスの『勧徳論』を読んだのである。この書は、キュプリアのテニソン王に宛てられたもので、哲学を営むこと以上の善はないと述べられているのである。つまり、たとえこの上ない富を備え色々とよいことにつぎ込めるのだとしても、こういう人が思惑に満ちているということはありうるからである。さて、その本を読んでから、彼はなおも裁縫をしている靴屋に気を留めたということである。つまり、クラテスはこう言ったということだ。「私が思うには、おぉ親愛なる者よ、君に向けて勧徳の論を書いてあるようだよ。つまり見たところ、アリストテレスがこの書を捧げた人よりも、むしろよほど君の方に、哲学の営みに関する事柄は備わっているようだ」 Stobaeus, Floril. 4.34.68 (98.68 M) = SVF. 1.323  ゼノンの言説。ゼノンは、時間ほど我々に足りないものはないと言った。というのも、人生は短いが術は長いからであり、それ以上に、術は魂の病を治すことができるからである。 Stob., Floril. 4.44.59 (108.59 M) = SVF. 1.575  方や、クレアンテスは苦痛を魂の弛緩だと言った。 Stob., Floril. 4.52a.18 = SVF. 1.399 (Aristo)  アリストンの『比喩集』から。老賢人には生を愛する人々が多い。つまり、晩婚した人々は子供達を養育するためにも生を愛するのだが、老いてから徳を達成した人々も、それを育てようとするのだ。 Stob., Floril. 119.19 = SVF. 3 Antip. 7  カルネアデスは、アンティパトロスが彼をそそのかしたので、老齢であったのだが、二つの杯を混ぜ合わせた(どちらかわからなくした?)。一つはドクニンジン、もう一つは蜜酒だった。そして、ドクニンジンの方を残りのストア派の人々に先に飲むように言い、蜜酒の方を飲み干した。こうして、(ストア派が言う所の)「進んで人生から退出する熱意」を嘲笑ったのである。 Stobaeus, Flori. 2.906.18 = SVF. 3.510 = LS. 59I  クリュシッポスの言。彼は言う「究極まで進歩した者は全ての適宜行為を実行しかつ何もやり残さない」と。また言う「しかし、この者の生はまだ幸福ではない。彼に幸福が加わるのは、こうした中間的な行為がさらに確実性と方途を得、ある固有の堅固さを得た時なのである」と。