ストア派関連人名録
(五十音順)
アテノドロス (Athenodoros)
中後期ストア派の一員。タルソス出身。ポセイドニオスの弟子。ペルガモンの図書館長をしていたが、67年にカトーと共にローマに赴くよう命ぜられ、カトーが死ぬまでそこにとどまった。その後は祖国に戻り政治家として活動したらしい。82才で郷里に没した。「禿頭の」アテノドロスと区別するために「瘤の」と呼ばれたらしいので、頭かどこかに瘤があったのであろう。キケロ『義務論』の種本的なものを書いたとされる他、師ポセイドニオスの後を引き継いで潮の満ち干の研究を進めたとされる。
アポロドロス (Apollodoros)
文法家。アテネ出身。文法家のアリスタルコスとバビロニアのディオゲネスの弟子。論理学的な著作と並んで、ギリシャ宗教史に関する大著をものしたことでも知られる(しかしこの著作は宗教学や神学の本ではなくむしろ語源学的なものであるらしい)。
アポロニオス (Apollonios)
学派の伝記を著作し、学派図書館の目録を作成した。
アポロパネス (Apollophanes)
初期ストア派の一人らしい。アリストンの弟子らしいということ以外は未詳。アルニム編の断片集にはわずか5断片しか収録されていない。
そのわずかな断片から察するに、凡庸に先輩の学説に従っていつつも時折奇説を説いてしまい、それで名が残ってしまったのかもしれない。
アラトス(Aratos)
親ストア的な詩人。ゼノンがアンティゴノス王の下に送った弟子に加わってマケドニアに赴いた。
(キオスの)アリストン (Ariston)
キオス出身。初期ストア派の一員でゼノンの弟子。「無記」の説を純化して、徳と悪徳以外の一切は正にしろ負にしろ全く価値を持たず価値的に無差別平等であるという立場を取った、言うならばストア派内の急進過激派である。弁舌に長じており、そのせいで弟子が多く、ゼノンはそれを面白く思ってなかったらしい。
(ケオスの)アリストン (Ariston)
名前の通りケオス出身。逍遥派の一員だが、今の所はストア派の「キオスの」アリストンと紛らわしいということでしか知られていない何とも傍迷惑なお方。
アリストス(Aristos)
アンティオコスの兄弟。ブルトゥス(ブルータス)はアテナイで彼の講議を聴いたとされる。
アリストパネス (Aristophanes)
262-185. 同名の喜劇作家(『雲』『女の議会』など)とは全くの別人。ビザンチン出身、アレキサンドリアの有名な文法家。ストア派の論理学関係の断片に時々出てくる。
アルケシラオス(Arkesilaos)
初期アカデメイア派の中心人物。ストア派の好敵手的な人物で、初期ストア派を語る際に避けて通れない人物。ストア派に親近感を持っている人間には中々目障りな人物ではあるが、クレアンテスをコケにした弟子を破門し、彼が謝罪すると復帰させたというエピソードなどは人間味を感じさせてくれる。
アルケデモス (Archedemos)
前後期ストア派の一員。先達の(バビロニアの)ディオゲネスが弁論術の評価に対しては曖昧だった(少なくとも我々はそう判断せざるを得ない)のに対して、弁論術の有効性を大いに説き、この方面の探究に功績を残した。
アレイオス=ディデュモス (Areios Didymos)
アウグストゥス帝の宮廷哲学者。
アンティオコス(アスカロンの)(Antiochos)
後期(新)アカデメイア派の中心的人物。師(ラリサの)ピロンの穏健な懐疑論に不満を抱いて、アカデメイア派が懐疑論から転換する切っ掛けを作った。思想的には折衷論としてあまり評価されることはなかったが、今後見直されると思われる。同郷の、パナイティオスの弟子ソソスから初期ストア派の教説を知ったとか、ムネサルコスの講議を聴講したとか、ストア派との直接交渉も持っている。
アンティゴノス(マケドニアの)(Antigonos)
マケドニアの皇太子/国王。皇太子時代に(キティオンの)ゼノンに心酔し、アテナイ滞在の度に聴講しに行ったらしい。国王になってから宮殿にゼノンを呼ぼうとしたが、ゼノンは高齢を理由に弟子二人ほど(「ほど」については「アラトス」参照)を派遣しただけだった。代理の学徒は276年にマケドニアに到着した。
ストア派との思想的な関連はあったかもしれないが、資料が乏しく、研究も進んでおらず、よく分かっていない。
アンティパトロス (Antipatros)
紀元前2世紀初頭、ストア派の第六代学頭。タルソス出身。バビロニアのディオゲネスの弟子。決して断片の数は多くないが、商業倫理に関するディオゲネスとの論争(キケロ『相応行為論』に保存されている。もっとも、本当にこれが論争だったのかという疑問も呈されている(アンナスなど))は重要である。旺盛な著作活動によってアカデメイア派を激しく批判したらしく、そのために「筆のやかまし屋」という綽名を持っていたらしい。
弟子の数はそう多くなかったらしい。その中で重要なのは無論パナイティオスである。
ヴァロ(Varro)
古代ローマの文筆家。アレクサンドリアの文法学やストア派の論理学の影響の強い文法論の著作をものしたことで有名。古代論の著作においてはスカエヴォラ経由でパナイティオスの神学に依拠しているようである。歴史論においては古きよき時代の質素なローマを称揚した他(ローマのごく初期に属しながら既にこういう議論をしているというのはちょっと面白い)、ポセイドニオスの歴史観の影響も受けていたようである。
エウドロモス (Eudromos)
ストア派倫理学の梗概『倫理学原論』の著者。
エピクロス(Epikouros)
エピクロス派の開祖。307/6年に自分の学園をアテナイに移し、そこで自らの哲学教程を教え始めた。
クセノクラテス (Xenokrates)
アカデメイア派。ゼノンはクラテスの弟子だった後、彼に師事したと言われる。
クラテス (Krates)
前後期ストア派の一員。ペルガモンで文献学を学びそれをストア派哲学によって裏付けようとした。アレキサンドリアの文法学的な手法に対抗し、「批判家」と呼ばれた(言うまでもなくこの「批判」は「けなす」という意味ではない)。
クラテス(Krates)
犬儒派の哲学者。シノペの(「犬の」「樽の」)ディオゲネスの弟子。キティオンのゼノンは最初クラテスに師事した。
ゼノンは、クセノポンの『思い出』に倣って、『クラテスの思い出』という書をものしたとされる。
クラテス (Krates)
スティルポンの弟子。
クリニス (Krinis)
ストア派弁論述のハンドブック『弁論手帳』の著者。
クリュシッポス (Chrysippos)
280-207 BC.(アポロドロスによると281/277-208/204) 享年七十三歳は比較的早死に(!)。ストア派の第三代学頭。キリキアのソロイ出身で、父親はアポロニオス(又はアポロニデス――この程度のいいかげんさはこの時代では普通――)、その父親と一緒に一旦タルソスに移住した。その後アテナイに移り住み、最初アカデメイア派に近付いて、弁証法を学ぶ。
事実上ストア派哲学を完成させた人物で、彼なくしてストア派はなかったと言われるほどである。実際、現在標準版となっているアルニム編のストア派断片集の大部分は彼に帰されている(もちろん、彼がストア派代表とされていることによって、漠然と「ストア派の学説」として残された断片が全部彼に帰されてしまったという事情はあるのだが)。
膨大な著作量によって当時有名だったらしいが(家政婦の自慢話によると――サスペンス劇場じゃあるまいしなんのこっちゃ!――一日五百行書いたらしい)、エピクロスと張り合った結果そうなったに過ぎないとか、大量の引用によって著作の水増しをしていたとか、単なる要約に過ぎない著作も多いとか、この点については悪評も多い。事実、その膨大な著作はほとんど散逸してしまった。それどころか、ディオゲネス=ラエルティオスが保存している著作目録さえも途中でなくなっている。キケロが彼の著作そのものを読めたのではないかという説もあるが、筆者個人の考えとしては残念ながらその可能性は低いと思う。
ストア派としては例外的に、彼については彼の著作とされるものそのものの断片が残されている(『論理学探究』)。哲学的な問題としては結構面白いものだが、残念ながらあまり読みやすい文章を書く人ではなかったようである。
「ストア派代表」だけあって伝記記事は比較的多いが、もちろん「馬が無花果を食べるのを見て笑い死にした」(いつも思うのだがこれの何がそんなに面白かったのだろうか。ニーチェの「発狂」が実は性病だったということがほぼ定説となりつつある今なら「性病か?」と言い出す学者も出かねないな……)等の信憑性が疑われるものも多い。重要なのはクレアンテスとの仲がかなり悪かったらしいというものである。クレアンテスが地道な苦労人であり、クリュシッポスがいわゆる体育会系の人間だったということを考慮すると、なるほどという気もしてえもいわれない(もっとも、一定の敬意を払い、それなりの義理は果たしていた形跡もある)。それまではストア学派内は割と和気あいあいとしていたが、才能にものを言わせて彼が学頭になった結果、非主流派が「異端」扱いされてしまったという何とも笑えない事態もあった形跡がある。
クレアンテス (Kleanthes)
ストア派の第二代学頭(262- ca. 232)。トゥリアのアッソス出身。281/280年にストア派に入門。超貧乏な生い立ちを送り、アテナイにやってきた時には4ドラクマしか持っていなかったらしい。肉体労働をして生活費を稼ぎ、講議メモは骨や瀬戸物のかけらにとっていたというギャグマンガ同然の苦労人。
クレオメネス (Kleomenes)
親ストア派的なスパルタ王。235年に王位につくと、国政の改革を始め、その際にストア派のスパイロスを登用した。221年にセラシアの戦いに敗北しエジプトに敗走する。
スティルポン (Stilpon)
メガラ派。ゼノンはクラテスの弟子をした後、彼の弟子にもなった。
ストラトクレス (Stratokles)
パナイティオスの弟子。初めてストア派の学派史を書いたとされる。
スパイロス (Sphairos)
初期ストア派の一員。クレオメネス治世下のスパルタで教育や復古政策を任された。
(キティオンの)ゼノン
333/332-262 ストア派初代学頭。フェニキアはキプロスのキティオン出身。フェニキア人の家系に育ち、父親は商人だったと言われている。312/311年22才でアテナイにやって来た。
最初は犬儒派のクラテスに師事したが、アカデメイア派のポレモンに師事したり、ディオドロスやピロンの下で弁証法を学んだりもしている。(いかにも節操がないが、この時代、学派を転々とするのは特に珍しいことではない)
エピクロスの学園に対抗して自分の学園を作ろうと思い立ったが、移民である彼は自分の地所をもっていなかったので、自由に使うことを許された彩色柱廊で301/300年に講議を始めた。「ストア」の名は、市場横にあったこの彩色柱廊(ストア=ポイキレー)に由来する(食品スーパーなどの名前によくある「ストア」は多分英語のstoreから来ているんであろうから、残念ながら直接の関係はないと思われる)。もっとも、彼の学徒達は最初「ゼノンの徒」と呼ばれていたらしい。
七十二才のある日、転んで足を怪我しそこで(その場で?)「何故私を呼ぶのか!」という主旨の詩句を口走ってから死んだ(自殺した?)らしい。具体的にどうやって死んだ(自殺した?)のかはよく分からない(舌でも噛んだか?いやそれでは死ねないらしいし…)。
(タルソスの)ゼノン
ストア派第四代学頭。名前の通りタルソス人。初代学頭の「キティオンの」ゼノンと区別するためにこう呼ばれる。クリュシッポスの弟子で、後継者。
アルニムの断片集では1ページ5断片が収録されているだけだが、「大燃焼」の教説に最初に疑問を抱いたのが彼らしいという証言もある。
ゼノン(エピクロス派の)
エピクロス派。ピロデモスの師。
ソソス(Sosos)
パナイティオスの弟子。アンティオコスに初期ストア派の教説を紹介したのは彼だとされている。
ダルダノス (Dardanos)
アンティパトロスの弟子
(マグネシアの)ディオクレス (Diokles)
自作の哲学史の中でストア派論理学の概要をまとめたとされる。
(バビロニアの)ディオゲネス (Diogenes)
ストア派第五代学頭。名前が示す通り、バビロニアのセレウキア出身。クリュシッポスとパナイティオスに挟まれてやや地味な存在だが、学派に対する貢献度は高い。弁論述や音楽に関する著作に力量を発揮したようで、アルニム編の断片集でもこの主題に関する分量が多い(が、下で書く通り、とても読みにくい)。
学派の理論の概要の著者としても知られ、よく読まれたらしい。ディオニュシオス=トラクス、アポロドロス等の文法家への影響は絶大であるらしい。
キケロの作品に登場するラエリウスは若い頃にアテナイで彼に聴講したようである。
クリュシッポス以降の古ストア学徒の中では格段に断片が多いが、その大半はピロデモスによって保存されたもので、はっきり言ってものすごく読みにくい。そのことが研究の進展の妨げになっているという事情が残念ながら否めない。
ディオニュシオス (Dionysios)
初期ストア派の一員。ヘラクレイア出身。ゼノンの弟子。ストア派から快楽主義に転向したので「転向者」と呼ばれており、専らこのことによって有名である。ひどい苦痛にさいなまれていたので(眼病のためだと言われている)、苦痛を「善悪に関係ないもの」に含める気になれなかったということらしい。色々な学派を転々とした挙げ句(これ自体はそう珍しいことではない)一旦ストア派に落ち着いたということらしいが、そのような事情がありながらなぜストア派の一員になったのかはよく分らない(自分の苦痛を「何でもないもの」にする智恵でも得られると思ったのだろうか)。ストア派から離れた後はキュレネ派になったとも、エピクロス派になったとも言われている。「ストア派のダメ人間」的な存在として学派史に花を添えているが、どういう思想を持っていたのか詳しくはよく分らない。ポーレンツによると才能自体はあったらしく、彼の転向はストア派にとって大損害だったらしいが、彼自身は別に後悔も反省もせず、それどころか進んで「転向者」と名乗っていたらしい(アルニム収録の断片による限りそんな形跡はないと思うのだが……)。ますます謎である。
ディオニュシオス(キュレネの)
エピクロス派。デメトリオスとの間に学派を二分する対立を引き起こした。
ディオニュシオス(=トラクス) (Dionysios Thrax)
エジプト、アレキサンドリアの文法家。最初の体系的な文法書の著者とされる。この著作にはストア派の論理学、とりわけバビロニアのディオゲネスによる梗概、の影響が強いと言われる。なるほど、この書に対する古註はストア派断片の重要な源泉である。
テオン (Theon)
帝政期ローマの弁論家。初等教育の教科書を書き、その中でストア派特有の命題や論法を取り上げているらしい。
デメトリオス(スパルタの) (Demetorios)
エピクロス派。ディオニュシオスとの間にエピクロス派を二分する対立を引き起こした。ポセイドニオスの数学論を批判する書を書いたらしく、ポセイドニオスはまたそれに再反論する著作を書いたようである。ピロデモスの師の一人であり、彼の学説の少なくとも一部はピロデモスの著作から伺える。
バトン (Baton)
アカデメイア派の一員。クレアンテスをコケにする喜劇をものして当時の学頭アルケシラオスに破門され、クレアンテスに侘びを入れて復学を許されるという、トンパチというかアホ丸出しの憎めない奴。
パナイティオス (Panaitios)
ca.185-ca.110 ストア派第七代学頭。ロドス島出身。ストア派の中心人物の中で唯一生没年がはっきりしないことからも分るように、伝記的な情報には謎が多い。また、唯一生年中にストア派学頭を辞退し、ポセイドニオスに譲った(理由は諸説あるが要するにどうもはっきりしない)など、どことなくミステリアスな雰囲気のある人物である。
ストア派の中興の祖とされる一人だが、プラトン・アリストテレスの学説を取り入れ、厳格なストア派哲学をより柔軟なものにしたと言われている(筆者は個人的にはそのような見方は一面的だと思っているが)。論理学無用論、卜占や宇宙燃焼の否定、徳以外の価値の重視などが彼がもたらした革新だとされている。
ヴァン=ストラテンの断片集が流布していたが、アレッセによる新しい断片集が編纂され今後はこちらが主流になると思われる。いずれにせよ、断片の数はそう多くはない。キケロが賛同した哲学者の一人であることもあって、ラテン語断片の比重が大きい。
ピロニデス(Philonides)
テバイ人。(キティオンの)ゼノンがアンティゴノス王からの招聘を断った際に、代わりに赴いた弟子の一人。
ブロシウス (Blossius)
イタリアのクマエ出身。アンティパトロスの弟子。グラックス兄弟の改革に影響を与えたとされる。
ヘラクレイデス (Herakleides)
タルソス出身。アンティパトロスの弟子
ヘリロス (Herillos)
初期ストア派の一員。カルタゴ出身。伝記的な情報はほとんどない(取り巻きができるほどの美男子だったらしい)。初期ストア派の「異端」のうちに入れられるが、彼を「異端」というのはあたっていないという見解もある(イオッポロなど)。人生の目的を「知識」とし(これ自体はそう問題になることではない)、徹底した「無記」思想(善と悪の中間にあるものは価値的にはまったく「どうでもいい」という思想。こちらはストア派の「正統」理論とは反目する)を説いたというのがその理由らしい。
ペルサイオス(Persaios)
初期ストア派の一員。ごく若い頃にキティオンからゼノンの下にやって来て(つまりゼノンとは同郷である)、ゼノンの家に住んでいたらしい。ゼノンがアンティゴノス王に宮廷へと招聘された際に、ピロニデスと共に代理として赴いた。276年、丁度王の婚礼のさなかにマケドニアに到着した彼は、すぐに気に入られて、子息ハルキュオネウスの教育を任せられた。さらに能力を買われて政治的な顧問に任じられ、最終的には征服したコリントの指揮官にまでなるが、244年そこで敵の急襲を受けて死んだ。
ポセイドニオス (Poseidonios)
ストア派第八代学頭。パナイティオスの弟子。ヨーロッパ歴訪の後、ロドス島で自らの学園を開いた。この学園にはローマ人も多く訪れ、キケロも紀元前78年にここを訪れている。
現在流布の断片集にはエーデルシュタイン+キッドのものとタイラーのものとがあるが、前者が使われることが多い。しかし後者の方が断片の量も注釈の量も多い。特に地誌学的なそれは嫌になるくらい沢山ある。
ポタモン (Potamon)
アレキサンドリア出身。折衷的な学派の創始者。
ポリュアイノス (Polyainos)
エピクロス派。アカデメイア派が数学的な議論でエピクロス派の原子論を攻撃した際、半ばその批判に屈してしまったために、学派が二分されるという元となった人物。
ムネサルコス (Mnesarchos)
アンティパトロスの弟子。
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