テルトゥリアヌス 『霊魂論』 Tertullian, Ad Nat.2.2 = SVF. 1.171  ゼノンは自然はこのものの似像であると主張する。 Tertullian, Ad Nat. 2.4 = SVF. 1.155  実に、ゼノンもまた、世界の質量を神から分離し、あたかも蜜が蜂の巣の中に行き渡るように、神が世界の質量に行き渡っている、と言っている。(岩崎允胤訳) 『霊魂論』 Tertullianus, De Anima 5.1 = FDS. 426  (1)エウブルス某とクリトラオス、クセノクラテス、そしてまさにこの場にプラトンの友アリストテレスも呼び寄せたとしよう。恐らく彼等は、大いに自分達の信条を築き上げて魂の物性を取り去ろうとするのではないだろうか。ただし、他の人々が正反対に、実に多くの人々が魂は物体であると主張しているしているのことを目の当たりにしないとしてのことであるが。(2)その人々というのは、魂をあからさまな物体から作り上げる人々のことだけではない。例えば、ヒッパルコスとヘラクレイトスは火、ヒッポンとタレスは水、エンペドクレスとクリティアスは血、エピクロスは原子(原子も自ら合体して嵩のある物体となるのであるとすれば)、クレイトラオスと彼の逍遥学派は、何ものだかよく分らない「第五の実体」とやら(これも物性を含む以上物体であるとすれば)でそうするのであるが。 ↓ Tertullian, De An. 5 = FDS. 426 = SVF. 2.773  彼等だけでなく、ストア派の人々のことも言っているのだ。彼等は魂を「気」と呼び、気と霊とは互いにとても近いので、その点ではほぼ我々に与するのだが、しかしながら、魂は物体であるとこともなげに言ってのける。 ↓ Tertullian, De Anima 5 = FDS. 426 = SVF. 1.137  (3)さらに、ゼノンは魂を「種のように蒔かれた気息」と定義して次のように説いた。彼はこう言う。「あるものが退却することで生物が死ぬならば、そのものは物体である。さて、散在する気息が消え失せると生物は死んでしまう。故に、生物に散在する気息は物体である。<さてまた、散在している気息とは魂のことである>*故に、魂は物体である」 *<……>諸家による付加。 ↓ Tertullianus, De An. 4 = FDS. 426 = SVF. 1.518  (4)クレアンテスの主張でも、肉体の特徴だけでなく、魂の特徴についても、親に似た所が子に鏡写しに反映されるのである。つまり、性格、才能、感情についてもそうだというのである。しかし、肉体上は似た所も似ていない所も見受けられるように、肉体と同様に魂も類似や相違の元となるのである。(5)また同じように、物体が受ける状態と物体でないものが受ける状態とは相互に[直接の]交流がない。さらにこういうことがある。肉体が打撃や傷や腫物で傷つけられて痛み出すと魂はこれに同調して苦しむ。また、肉体も魂が不安や悲痛・愛欲に苛まれると、共に持っている力が失われることで一緒になって不調に陥る。これが羞恥だとか恐怖だとかであることは顔色が赤くなったり血の気が退いたりすることで確かめられる。故に、魂が物体であることは、物体的な状態が共有されていることから明らかである。 ↓ Tertullianus, De An. 5 = FDS. 426 = SVF. 2.791  さて、クリュシッポスまでも彼に手を貸して、こう論じたのだ。物体が非物体から離れるということは全くありえない。なぜなら、前者が後者から影響を受けるということはないからだ、と。(それ故にルクレチウスもこう言っている。物体でなければ、何ものも接触することもされることも全くかなわないのだ、と)しかし、肉体から離れる時に、魂は死に見舞われるのである。故に、魂は物体である。物体的なものでなければ、それが肉体から離れるということはないからだ。 Tertullian, De Anima 6 = SVF.3.84  しかし、ストア派の人々が技術も物体であると断言しているのは立派なことである。 Tertullian, De An. 8 = SVF. 2.795  ソラヌスは言った。海の外では船は重くて動かなくなるということを理由にして、海は物体ではないなどと言う人々がいたらどうであろうか。そうすると、肉体は魂よりもどれほど堅固だというのか。つまり要するに、高々それだけの重さの物体が非常に軽く動きやすいものによって囲まれているだけなのである。 Tertullian, De Anima 10 = SVF. 2.784  どうであろうか。呼吸とは何であるか。思うに、自分の中から呼気を出すことである。生きるとは何であるか。自分の中から呼気を出さないことと考えてよいのだろうか。つまり、生きることと呼吸することが同じことでないのであれば、そう答えるべきであろう。しかし、死者は呼気を出すということをしない。故に、呼気を出すということは生者のすることである。またさて、呼気を出すということは呼吸する者のすることである。故に、呼吸は生者のすることである。あるいは、魂がなくても息をすることができるとしたならば、呼吸は魂のすることではなく、魂は[呼吸なしに]ただ生きているという[おかしな]ことになる。しかし、生きることは呼吸することであり、呼吸をすることは生きることでもある。それ故に、この私はこう言いたい。呼吸することも生きることも、生きているその何かに属している。それは魂である、と。… Tertullian, De Anima 14 = FDS. 434 = SVF. 1.144; 405 (Apollophanes)  さて、[魂は]部分に分けられているが、プラトンは二つに、ゼノンは三つに、アリストテレスによれば五つ、また、パナイティオスでは六つ、ソラヌスでは七つ、さらに、クリュシッポスの場合は八つに、またアポロパネスの場合は九つ、しかしまた、ストア派の何人かよると十二、ポセイドニオスによるともう二つ増える。つまり彼はまず初めに二つの名を挙げ――ギリシャ語で「指導的部分」と呼ばれる主要的な部分と、同じく「理知的部分」と呼ばれる理性的な部分――それから引き続き十七(ママ)まで辿ったのである。このように、様々な人々が様々な形に魂を分割している。 Tertullian, De An. 15 = SVF. 2.880 (Cleanthes)  プロタゴラスも、アポロドロスもクリュシッポスもこのことを知っていた。 Tertullian, De Anima 25 = SVF. 1.518 (Cleanthes)  どうだろうか、クレアンテスの証言によると、我々は魂が似ているということによって才能の点でも両親に呼応するものとなるのだが、もし我々が魂の種子から育ってくるのでなければ、一体どういうわけでそうなるのか。 Tertullian, De An. 25 = SVF. 2.805  …他ならぬこの人々が想定しているのはこういうことである。魂は両者どちらでもない。つまり、肉をこね上げて色をつけたものでもなければ、何かそうやって作ったものでもないのだ。むしろ、胎児の体の部分が集められたがまだ生きてはいない、そこに外から刻み込まれたものなのだ。性交によってある程度の精子が女性器の中に放たれると、自然な動きによって駆り立てられて、肉という単なる素材の中に入り込むのである。これが送り出されて、子宮の炉で湯気を立てて熱を放出すると、あたかも赤熱した鉄が同時に冷気にさらされたようにして、気の力に打たれ、生きる力をもぎ取って、声音を上げる。このようにストア派の人々は主張し、それはアエネシデモスと同じなのだが… Tertullian, De An. 43 = SVF. 2.768  ストア派の人々は、睡眠とは感覚力の分散だと言う。…もし、ストア派の人々にならって、感覚力の分散が睡眠だとするのであれば。 Tertullian, De Anima 54 = SVF. 1.147  実際、思慮のある魂を大地のあたりにまき散らす人々には呆れる。というのも、彼等はそうした魂が非常に優れた賢者に教育されているということを強調しているのだから。これほどまで異なる説を拝する学者先生方はどちらに赴かれるのであろうか。一体どうやって弟子達は教師達と意見を一致させてきたのだろうか。個々の意見がこれほど異なっているというのに。彼等の最終的な教義を受けた人々は、あるいはもっと、世界燃焼を経験した人々ならどうであろうか。残りの魂は奈落に落ちるというのだが。 Tertullian, De Anima 54 = SVF. 2.814  ほとんど全ての哲学者達は、皆一様に、魂は不死であると主張している。ピタゴラス、エンペドクレス、プラトンなどがこれにあたる。しかし他方、死去から宇宙燃焼までの間、長期間存続する[が永遠ではない]という人々もいた。ストア派の人々がこれにあたる。彼等の主張では、一部の魂だけが、つまり賢者の魂だけが、天上にある住居に移り住むのだというのである。…  かくして、賢者の魂は、かのプラトンによると上天に、アリウスでは空中に、ストア派によると月に持ち上げられるのである。…残りの魂は奈落に落とされる。  (55)さて、我々の永眠は上天にあるか…あるいはストア派のエンデュミオンとともに月のあたりにいるか、どちらかである。 Tertullian, De Carne Christi 12 = SVF. 2.845  思うに、魂の本性は感覚能力を持っている。なるほど、感覚を欠いた動物はいないし、魂なしに感覚をする生物もいない。…したがって、全ての物事について魂は感覚の作用を示し、しかも魂事態は全ての物事を感覚で感覚しはするが、性質を感覚しはしない以上、そもそも魂自らについて魂自身に割り当てられているのは感覚である、ということにはならないであろうか。では、性質について、自然の必然によって折々己に必然的に備わるものを知るのは一体どこからなのか。必然的に備わる性質を知ることがないとしたら。事実、このことの認識は全ての魂の内にある。つまり、自己認識のことであるが。この自己認識というものがなければ、いかなる魂も己を治めることなどできはしない。しかし何より思うに、唯一の理知的動物である人間は、算段し生きるということに定められており、これらが人間を理知的な動物にしているのである。これらのことが理知的なものとして、第一に備わっているのだ。さらに、人間を理知的動物にしている理知的なることがどのようなことであるのか、つまり、魂自らが己を理知的であると知らなければ、魂は自分自身を知らないということになる。 Tertullian, Adv. Hermog. 44 = SVF. 1.155; 2.1036  すなわち、ストア派の人々は、蜜が巣の中にそうするように、神が質量の中を貫いていると主張している。 Tertullian, Adv. Marcion. 1.13 = SVF. 1.154  彼等は神々を…ゼノンのように、大気であり天空であると呼んだ。 『護教論』 Tertullian, Apolog. 21.10 = SVF. 1.160  あなた方の哲学者の間でもロゴス、つまり言葉と理は宇宙の創造者になっている。このロゴスをゼノンは万物を秩序づけ、形成した創造者と規定している。また、ゼノンによれば、ロゴスは運命、神、ユピテルの意志、万有の必然性となっている。(鈴木一郎訳) ↓ Tertullian, Apolog. 21.10 = SVF. 1.533(クレアンテス)  クレアンテスも、これらすべてを霊という言葉にまとめ、それが全宇宙にみなぎっていると言っている。(鈴木一郎訳) Tertullian, Apolog. 47 = SVF. 2.1034  神は物体ではないと説く人々もいるし、プラトンの学徒やストア派のように物体だと言う人々もいる。…事実、ストア派の神は彼等の説く世界の外部に置かれていて、あたかも陶器をそうするように、外部からこの世界という膨大な素材をこねまわしているのである。 Tertullian, De Praes. Cup. 7 = SVF. 1.156  また、ゼノンの教説の中では質量と神が同一視されている。