CM2S書評2006
その一

ウィルソン=ブライアン=キイ(植島啓司訳)『メディア・セックス』(リブロポート(1989))

一時期日本でも大変な話題になった(便乗したトンデモさんまで出る始末だったらしい……)サブリミナル広告手法研究の第一人者による、この書によれば第二段(らしい)。
今では効果があるとしてもそれほど大袈裟なものではないと、ほとんど「トンデモ」認定をうけている「サブリミナル」であるが、この書物自体は中々面白い。それこそ「と学会」の連中が定義する意味で「トンデモ」であるが(一応断っておくと、「トンデモ」は何も奇天烈な内容だということと必ずしも等しくはなく「著者の意図したものとは別の角度で楽しめる」というのが定義らしいですよ)、例えば心霊写真やUFO・UMAの写真などを真偽や信じる信じないとは別に「これは一体何だろう」「あぁ○○に見えるねぇ確かに」などと面白がるのと同じ意味で楽しめる。人間結局自分の見たいものを見ているということで、あらゆるところに「SEX」が書いてあると信じ、それを日夜探し回っている人々にはそういうものが見えてしまう、ということなのだろう。シンボリズムの効果などに関係して宗教学の分野でも注目されているらしいキイだが(事実訳者はその筋の方である)、確かに宗教がかった雰囲気がある。まぁお気の毒にと言うしかない。
ビジュアル広告の分析はそんなこんなで案外楽しめるのだが、ロックを取り扱った章は、ロックファンとして中々嫌な気分にさせてもらえる。要するにこれでもかというほどのこじつけの嵐で、つまりはロックがそれほど影響力の強いものであり、これだけの想像力を駆り立てるものである、ということなのだろう(同じものがクラシックやジャズには見つからないというのだろうか? 多分民族音楽を探れば間違いなく同じようなものが見つかるだろう)。吊るし上げられたミュージシャンには全くお気の毒である。
ところで、こういう「正当な」サブリミナルではない、何と言うかもっと「カジュアルな」サブリミナル手法は日本でも蔓延している気がするがどうか? 例えば筆者に思い浮かぶのは、薬のCMでセリフをしゃべっている女優の後ろにチアガールがいて、なぜかパンチラさせながら踊っているというもので、この手のCMは案外当たり前にないだろうか(うまく見えないようにはなっているが全裸の女性の入浴シーンが出てくるカビ取り洗剤の広告とか、意味もなく女優がおなかや足を見せるCMとか……宮里藍ちゃんのおヘソもサブリミナルかもしれない(笑))。もっとも、「サブリミナル」とか何とか大層なことを言う以前の問題かもしれないが……(別の所で書いたが「Zガンダム」後半の主題歌冒頭の映像にはやたらと「Z」型の線が画面上に出てくる。これは明らかに意図的なものだろう。もっともどういう効果があるのかはよく分からないが……)

上質のトンデモ本として中々楽しめる。ブームが去って以来キイが何をしているのかちょっと気になるが、まだ頑張っているのだろうか?(上の下)


大泉実成『説得―エホバの証人と輸血拒否事件』(講談社文庫(1988))

有名な事件に取材したノンフィクションだが、はっきり言って噴飯もの。著者は問題の核心に踏み込んだつもりになっているのかもしれないが、そう思っているのは著者だけだろう。もっと取材するべきことがあり、書くべきことも沢山あるはずなのに、そういうことはイイカゲンに流しておいて、著者の私生活だのエホバの連中の生態だのそういうヨタ話で水増ししている、ようにしか見えない。少なくとも、これ一冊を読んで、この事件に関する疑念が晴れたかというと全くそういうことはないどころか、ますます絶望感に駆られるばかりだ。取材対象に入り込むという手法はルポの方法としては真っ当なものだが、やり方・まとめ方とも何か中途半端でイライラする(まぁエホバ自体聖書を表面的に読んで陶酔しているだけの連中だから、そんなものかもしれないが……)。「シュウキョウガク」一派の出身か? と思うと大学での専攻をプロフィールで読んで愕然とした。こんなのでアレが読めたのか?(まぁ立花隆も大学で研究したと豪語していたが……)
と、書物そのものの出来としてもどうかと思うが(こんなので賞を取れるのか……)、内容的にも嫌な気分になる。評者はエホバの人間などどんどん死ねばいいと正直思っているが、様々な一般人を自分達の薄っぺらかつ独善的な信念とやらの犠牲にして迷惑をかけまくったことに対しては怒りを覚える。特に「業務上過失傷害」を「過失致死」にされてしまったドライバーに対しては同情する(もうちょっと彼に取材はできなかったものか?)。この教団はこういう「迷惑」に対する覚悟が全く足りず、あるのは「現在の事物の体制」に甘えきった傍若無人な自己陶酔だけのような気がやはりするのだが……やはり「全ての宗教にNO!」である。

期待はずれ。踏み込みが全然足りない。余談だが、ビートたけし主演の同名映画はこの作品に則ったものらしいが、全く別物と思った方がいい(もちろんこの映画の方がずっと面白い)(下の上)


下薫『子供を英語の達人に!!』(徳間文庫(1999))

「達人」とは言いすぎだとは思うが、これまたタイトル通りの内容で、要するに早期英語教育のための色々な工夫が、絵本の選び方から歌の数々まで、もちろん色々な注意点を交えつつ懇切丁寧に挙げられている。これ自体を読んでもそう面白いものではないが、これはこれで役に立つ(とはいえ、評者には活用する機会などないのではあるが…)。発音を近似値のカタカナで表すなど参考になる事柄もある(「Peter」を「ピーラァ」等々。とはいえ、限界はあるはずで、そこをどうするのかはよく分からない)。
こんな内容で教えられていればさぞかし英語ができるようになっていたろうな、とは思うが(しかし、こうやって「楽に」英語をできる「つもりに」された子供等が最初に挫折を味わう際、どんなことが起こるのか、心配ではあるが……)、問題はこの濃密な世界と、中高での「中身ないつまらない使えない」の三ない英語教育との間に横たわる大峡谷であろう(はっきり言って、現在の中学生の英語などこの幼児英語以下である……)。一体英語業界というのは何をしているのだ? 幼児期からしている人間、学校英語を自分の力で超えられた人間以外は見捨てることしかしないのか? この業界はその二つの層のことしか考えていない気がするが……

これはこれでいい書物ではあるが……(上の下)


由水常雄『正倉院の謎』(中公文庫(1987))

これまたタイトル通りの書物であるが、内容は中々刺激的というより衝撃的である。まず、一般人が正倉院に抱いているであろう常識がいきなり叩き壊され(「「正倉院」はいわゆる正倉院だけではない」「一般に正倉院の宝物と思われているものはかなりが後に奉納されたもの」等々)、政治クーデターに利用された経緯、時代時代の権力者との関係、と論じ進められる。正直、自分はこんなに正倉院に関して無知だったのかと愕然とさせられる。かなり内容は時に専門的でしばしばついていくのが大変だし、素人目にもそれは強引すぎるんじゃないのという箇所もあったりして、中々ハードなものではあるが、表現の格調が全体的に高く、割と楽しく読ませてもらえる。
現在の中公文庫がどういう状況なのか評者は詳しくないが、こういう渋い著作が色々と収められていた(巻末のカタログを見るだけでも面白い)というのは、一般人の知的レベルもかつてはそれなりに高かったのだな、と感慨と絶望両方を感じさせられる。

ハードルは高いが良質(上の中)


清水一夫『UFOの嘘』(データハウス(1990))

まぁタイトル通りの本で、確か「と学会」の中心人物の一人だったと思うが、そんな著者がそんな調子で、テレビのUFO特番、新聞雑誌のUFO記事、矢追純一・中岡俊哉などのUFO文化人等々の、もう呆れるくらいのいい加減さを暴き出した著書で、「と」好きの人間がまぁこんなもんかと思って読む分には面白いが、冷静に考えると、UFO研究に愛を持っている人間には悲劇以外の何ものでもない。こういう、一般的には「UFO研究家」とされている人間の方こそUFO研究を邪魔する連中じゃないのかと言いたくなる(ついでに文句を言うのは我ながらどうかと思うが、最近の「と学会」もそんな方向に走っているんじゃないかと若干の危惧を評者は感じている。彼等もシニカルに茶化すだけで、研究の邪魔という点ではむしろ同類じゃなかろうか)。マスコミというのはそんなもんだろうなと呆れるしかないが、それを措いても、中岡俊哉(評者などには「心霊写真」のアレでおなじみの方だ。あれも写真は面白いが彼の解説や御託は確かに今読むとえらくおかしい)のいい加減さには怒りを通り越して絶望させられる。こんな人間が年間何冊も本を出し、それがまたそこそこ売れていたというのだから頭が痛い。出版バブルかよ。
「と学会」もどうかと思うと書いたが、この書物、とにかく「……は間違い」というのがやたらに出てきてさすがにうるさい。いくらなんでもやりすぎで、逆効果になるんじゃないかと、それが心配になる(「と学会」にも同じ不安を感じるのだが……)。そして、データハウスの本には本当によくあるが、その割には編集が結構雑で、地の文と引用の区別が時々不鮮明だったり、変換ミスか何かなのかおかしな箇所が散見されたり(「」の最後に妙な一字空けが入っている箇所が結構ある)、この点も突っ込まれてもしょうがあるまい。

まぁこんなもんか……今はUFOなんて誰も関心ないもんなぁ……(中の下)


別冊宝島Real 027『立花隆「嘘八百」の研究』(宝島社(2002))

タイトル通りの書物だが、「研究」とは大層なもので、要するにバッシング本(タイトルは立花著作に引っ掛けたシャレでもあるんだろうが…)。今まで幸福の科学とかオウムとか色々あったのの繰り返し以上のものではない。何と言うのだろう、この手の書物に共通する「吊るし上げ感」が何とも言えず不愉快だ。攻撃している側には一種の高揚感が漂っていて、酔って書いているのが見え見えの著者も少なからずおり、思わず「立花もどうか分からないが、そんなに人のことを言えるのか」とも言いたくなってくる。特に確か「声に出して読みたい」何とかで一山当てた大先生(注:これは評者の勘違いです。すいません……でも当の著者の文章が読むに耐えないことには変わりがない)がとても声に出して読めないひどい文章で立花をこき下ろしている章が最低最悪である。その他にも斉藤美奈子エピゴーネン文体があったり(実際斉藤の名が言及されている箇所もある)、今更ポストモダーンな文体を不用意にこねくり回して立花を科学音痴呼ばわりしていたり、「目……何とか」じゃない失敬「五十歩百歩じゃないの」という状況にもはやクラクラしてくる。宮崎哲弥が立花ファンであることを明かしつつ批判を加えていたりして驚くが、彼のインタビューが意外とバランスのとれたものであることに結構驚かされる。要するにそのくらい他がひどい。
もちろん、だからと言って、この書で糾弾される立花のいい加減さには情状酌量の余地はない。よくもこんなテキトーな人間が「知の巨人」などと言われていたものだ、と呆れる以外にはない。とはいえ、それには野放しにしてきた学術界の責任も大いに問われてしかるべきだろう。要するに、山本七平といい渡辺昇一といい、副島隆彦とかも入れていいが、こういうのは一定数は常にのさばるのだろう。日本人の教養の程度はそういうものだ、ということになるのだろう。
いくつかの箇所で、理系の人間がいまだに文系の人間を小馬鹿にして見下しているということがよーく分かって、その点でもえも言われない(評者は「文系」「理系」などという日本固有の二分法はおよそ無意味だと思っているが)。その「バカ」の文系代表がこの「巨人」だったのかと思うと、日本じゃもう文系は滅亡するしかないんじゃないかと、いやもうしていいよ、という絶望的な気持ちにもなってくる。

問題はあるが、立花のいい加減さを手っ取り早く確認するには、やっぱりあんまりよくないな……(中の下)


古畑種基『法医学ノート』(中公文庫(1975))

「ノート」というには質・量・表現ともに充実しているが、毒薬・鑑定・法医学という三つの視点からのノートをまとめたもので、分量的には毒薬の項が三分の二くらいを占めている。面白いのはやはりこの内容を取り扱ったもので、意外な無駄マメ知識から歴史的な内容までよく調べられた内容がふんだんに盛り込まれていて、これ一冊でもかなり勉強になる。特に文献的な検証は、文系の人間でも感心させられるくらいで、内容的にも非常に面白い。ただ、書かれた時代からか表現が時折難しく、また専門的な議論や用語も多く(突然用語を使っておいて後で説明するという、学者の悪い癖はこの筆者にもついているらしい)、読みにくいところもあるが、大きくこの書の価値を下げるものではもちろんない。評者個人としては、富山県の事件が案外沢山紹介されているのが面白かった。

地味だが名著である。今はこういう渋い本は出せないし、出せても売れないだろう。本当に出版不況は罪作りだ(上の中)


広中克彦『お役人さま!』(講談社(1995))

タイトルから容易に予想が付くように、役所出入り業者から見たちょっとした告発記で、内容的にはそう大きく予想を裏切るものではないものの、さすがに現実感があって嫌というほど嫌にさせてもらえる。大学に長い間いた評者であるから、役人の愚劣さくらい身を持って体験しているが、まぁ簡単にそれ以上で、役人を選択的に襲う暴動でも計画したくなるほどである。しかし、談合の裏舞台などが垣間見えるのは面白いものの、特に新味のある情報はそれほど多くない。全くこういうことを知らない向きか何かでないとちょっと楽しめないだろう。不快になりながらも読みたくなる内容ではない。表現的には中々人間味溢れていて好感がもてはするが。

まぁ良くも悪くもこんなもんか(中の中)


上野正彦『死体は語る』(時事通信社(1989))

何とも気が滅入るタイトルだが、内容もその通りで、長年監察医として死体の鑑定をしてきた著者が、体験の中から色々とエピソードを語ってくれる、大雑把に言えばそれだけの小著だが、内容は非常に濃く、意外に面白い。おかしな意味ではなく、死者に対する著者の敬意や愛情が伝わってきて、内容の割にはなかなか読めるどころか、ところどころは泣ける話すらある。全般に文章の格調も高く(もちろん読みやすい)、時々下手な小説やノンフィクションよりもいいことが書いてある。素人にとってはバランスのとれた名著だ。
「ミカン」と「アルコール依存症」の章は特にいい。随筆として読んでも十分質が高い。他に、いくつか「トンデモ」な内容に触れた章があって、筆者のような人間にはそういうところも楽しませてもらえた。一つだけケチをつければ、「医学と法律」という章だけは書き足りないと思う。

名著だ。これをネタに思わずミステリーか何か書きたくなってしまうほどだ(上の上)


桜井弘(編)『元素111の新知識』(講談社ブルーバックス(1997))

タイトルの通り、水素から、当時名前がまだ決まっていなかった111番目の元素まで、ご丁寧に一々色々と書いてある、いわば元素のカタログというか、プロフィール本で、なじみのある元素についてはさすがに面白いことが書いてある。「窒素は窒息するから『窒素』」「超低温下では液体ヘリウムが勝手に容器をよじ登り外に流れ出る」「尿から得られた元素がある」など、久々に心地よい知的な驚きを色々と経験させていただいた。元素の発見と単離に関する歴史も面白く、何十もの元素を発見したデービー、両手に余るほどの新元素を「作った」シーボーグなど、こんなすごい人々に学校教育で何一つ触れられていないことにも驚きあきれるやら、そのほかのトホホなエピソードとも併せ、なかなかえもいわれない雰囲気にもさせてもらえた。所々専門的なことが書いてあって、純文系の人間には時々厳しいが、気にしないで読み進められるだけの親切な作りにはなっている。
超マイナー元素についてはさすがに書くことがないのか、お寒い扱いになっていて(ハッシウムに関しては一ページないどころか、五行しか書かれていない。もっとも、一番長い元素でも七ページくらいではあるが)、どの世界にもこういう存在はあるものだなと、これもなかなかえもいわれない…
一つだけ余計なことを言っておくと、なかなか努力はなされているとは思うが、もっと生活に密着した内容が盛り込まれていれば、さらに一般人にとっつきやすいものになったのでは、とも思う。しかしそれは別の一冊にしたほうがむしろいいのかもしれない。

間違いなく名著である。理系を名乗る人間でこれを読んでいない人間はモグリだと、文系の人間ながら言わせて頂く(上の上)


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