三森ゆりか『外国語を身につけるための日本語レッスン』(白水社(2003))
えっ?と思うタイトルだが、要するに、日本語は文法的な懸隔とその独特な(非?)論理性ゆえに外国語に直訳しても自然な表現にならないので一旦敷居の低い「中間日本語」とでもいうものを用いまた教えましょう、というもので、語学マニアには中々楽しめる内容となっている。
まぁしかし、本格的に外国語を習得しようとした人間なら薄々感じていたことをうまくまとめてくれただけ、と意地悪く言えば言える内容でもある。「死ぬ思いをして苦労の挙句に学んだことを、たった一冊でまとめてくださってしまったのか!」と思わないでもない……願わくば、外国人特に欧米人には逆のことを学んでほしいものでもある……
しかし日本語というのはつくづく「考えなくても使える言語」なのだな……と実感する(なぜ「考えなくてもしゃべれる」のかは、これはこれで別の研究対象になるかもしれない)。そして、その情況の上にあぐらをかいて、結局何もしてこなかったのがこれまでの国語教育だったのだな……とえもいわれない……(ペラペラペラペラ実によくしゃべるくせに何が言いたいのかさっぱり分からない日本人のいいオトナが何と多いことか。特に年寄りと女……嗚呼嫌だ嫌だ)。外国語ができるにはまず日本語ができなければならないというのは本当で、母国語がこんな情況なのに「日本人はなぜ英語ができないのか」などと言われても「肺魚はなぜ木に登れないのか」などと言われているのと同じである。翻って、ガキのうちから英語をやらせればペラペラになると単純に思い込んでいるオトナも多いみたいだが、こんどは同じことが英語で繰り返されないか心配になってくる(「考えなくてもしゃべれる英語」「ペラペラだが何を言っているのか分からない英語」……嗚呼嫌だ嫌だ……)。
語学マニアはとっくの昔に分かっていたことだが、改めて言われると納得する面もある。地味だが中々の好著である(上の中)
ちなみに、著者は男性である。カバーにその「腕のない絵」がカラーで載せられているが(念のため言うと、もちろんこれは障害者を描いた絵でも宇宙人の絵でもなく「自画像」らしい。この子供は跳び箱を飛ぶ場面の絵も同じように描くという。その絵は載せられてはいないが、かなり異様なものらしい)、そんな風に「プール状の四角い『川』」「水玉状の『川』」を描いたり、三角形が描けなかったり、目を閉じていられない、挙句の果てには「二」が理解できない(くどいようだが数字の「2」である。しかも文字が書けないというのではなく、「2」という概念がそもそもないらしい!)という信じられないほどバカなガキが信じられないほど増えているという絶望的な情況とその原因を探ってみたという小著。
まぁ嫌な気分になる……日本人はここまで腐ってしまったのだともはや絶望を通り越して、さっさとあの世に(もしあるなら)早々に逃げてしまいたい気分だ。今後この情況がよくなるのだろうか。残念ながらそれはあまり期待できないと思う。というのも、かなりは評者も同感なのだが、この書の結論は「親がサボっているだけ」。親は色々と表面だけ繕っているが、要するにしわ寄せを全部子供に押しやり、結局壊れるのは子供。バカな親はそのことにも気付かず、ただオロオロするだけ。尻拭いをさせられる側としてはたまったものではない。もう絶望感をごまかしてやり過すしかないのだろうか……
「早期教育は親のごまかしと自己満足に過ぎず、何の効果もないどころか害にすらなる」「スキンシップは無関心の裏返し」「テレビは実はそんなに悪くない。悪いのは付けっ放し見せっ放しの情況を作る親の方」こういった主張に関しては「よくぞ言ってくれた!」と言いたい。
確かに教育の現場に限らず「どうなっているんだこの親は?」「親が親ならやっぱりね……」と思わされることが妙に多いとは思う。夜中のビデオ屋に幼稚園児かそれ以下の子供がウロウロしていたり(もちろん親が連れて来ているのだが)、夜のファミリーレストランにガキがガキだけで一テーブル占領して全員携帯でメール打ってたり、「何なの?」と言わざるをえない。頼むから関係ないところで無駄な一生送ってくれと言うしかない。あるいはさっさと家庭崩壊か何かして一家心中でもしてほしい。こんな連中に人権を認めるのは人権侵害だと思う。
著者は教育の専門家ではなくノンフィクション中心の作家で、対話形式にされているのが多少煩いが、まとめ方はうまい。参考文献や出展が丁寧に明記されているのは中々使える。
ところで、タイトルの「腕のない絵」、結局その子がなぜ腕を描かなかったのか、その理由は結局はっきりとは述べられないまま終る。まぁ知ったところで多分大した得にもならないのだろうが、何かモヤモヤして嫌だ……
よくできた本ではあるが、内容はもう絶望感以外の何も与えてはくれない……いい本なんだか悪い本なんだかよく分からない……(上の上)
何度も言わせていただくが「文系/理系」などという区別は無意味である(大体こんなことを気にするのは日本人だけだろう(中韓はどうか知らないが))、評者はこの問題に関して山ほど文句が言えるが、そういうことを再認させてくれる名著である。多少ゴチャゴチャと面倒臭い部分はあるが(巷で「文系」と言われている人間もこの程度の内容には着いていけるほどの知識は持ち合わせているべきだと思う。要するに義務教育と高校がサボっているのだ)、細かいことは気にしないで読み進めるようにできている。もちろんタイトル通りのエントロピー小入門としても機能するが、この誤解されまくりの概念のポイントが実はどこであり何がどうして重要で何の役に立つのかということも示唆してくれる。エントロピーにまつわる誤解の蔓延(例えばある有名文芸評論家は「テンションが低い」という意味のことを言おうとしてわざわざ「エントロピーの低い」と書き、墓穴を掘っている。こういう連中がでかい顔しているから「理系」の連中が「文系」をバカにするんだよ!)に著者が苛立ち怒っているのもよく伝わってくる。評者も一度は学会に身を置いた人間であるから同情するが、ケチ付け屋・誤解や勘違いを押し通す輩・間違いを改めないバカ、こういった連中が余程多いんだろうなということもよく分かってえも言われない。
最後にエントロピー理論を社会科学に「きちんと」応用するという試みがなされており、試みとしては中々面白く、それなりに機能しているとは思うが、今一つ追及が浅く、感心すると共に物足りなさも同時に味合わされた。社会科学の専門家が後を引き継ぐべきなのだろうが、初版以来二十年で……やっぱりガッカリだ……
というわけで八十年代前半に書かれたこの名著であるが、あとがきを見ると何とNECの98(何と懐かしい言葉だ!)上で動く「手製の」(! クラフトワークかよ!)ワープロプログラムを使用して執筆されたものらしい。しかも、全て仮名書きのテキストを後から一括漢字変換するというものらしいが、これ一冊全部を六時間(二十一世紀の基準では遅いように思えるものの、くどいようだが、八十年代前半の話である。ウィンドウズどころかOSという概念すら存在していない時代のお話である)で正変換率は八割を超えるらしい。いやはや何とも脱帽である。すごい人は本当にすごいということが分かるというものだ……
不朽の名著である! 高校生にこれを(文系理系関係なく)強制的に読ませるべきだ(上の上)
漢字誕生から戦後の漢字廃止失敗・簡体字登場後まで、中国人が漢字をどう作り出し、使いこなそうとして振り回されたり翻弄されたりし、とりあえずどう落ち着いたか、ということを丹念に辿った良質な小著。漢字・中国語に関心がある向きだけでなく、辞典・辞書に興味がある人間、語学マニアが読んでも楽しめる内容になっている。評者も手製の辞典をコツコツ作っていたりするのだが(外国語−日本語辞典はともかく、日本語−外国語辞典には和英ですらロクなものがないと感じているので)、その点でも大いに参考になった。「新書が危ない」と言われるようになった昨今であるが、岩波新書らしい中身の濃いよくまとまった書物と言えよう。絶望しきるにはまだ早そうだ。
じゃぁ日本語の漢字をどうしましょうかということに関して著者は沈黙を守っているが、中国がこれだけやっているんだから……、という焦りというか苛立ちというかが行間から伝わってくる気がする。評者は、まず旧字や異体字にこだわる連中を黙らせることから始めるべきだと思うのだが、それにはこの書で紹介されているような国家規模の強引な大鉈を誰かが振り下ろすしかないのだろうか……
内容とは関係のないことだが、フォント(だと思う。活字ではないだろう)にちょっとクセのあるというか特徴のあるものが選択されていて(特に見出しの字体はパッと見て分かるほどだ)、読み通す間中それが気になってしょうがなかった。まぁ慣れの問題だとは思うが……
名著である!(上の上)
自他共に認める語学マニアたる評者であるからもちろん中国語にも手を出しているが、今まで西洋語中心に勉強してきたせいもあってか、結構往生している。そこでたまたま見つけたこんな書物を開いてみた。
「トクマブックス」中の一つで、要するに「宇宙人が」どうしたこうしたとか、「○○でガンが治った!」とかいう類のものと並んで売られているものだが、中身はそうやって比べるのが失礼になるほど濃い。多少の無駄はまぁしょうがないとしても(どうも「語学屋」は機会を与えられると説教やグチを言いたくなるクセがあるらしい)、普通の入門書や文法書にはどこにも書いてないコツやポイントがいくつも盛り込まれていて、非常に役に立つ。
中国語勉強法全体に関してはそんなに驚くような情報はないが、それでも十分役に立つ。少なくともここで何度となくこき下ろしてきた英語クズ本以上のものは間違いなくある。意外な名著と言うべきだ。
これが書かれた時と比べたら多分かなり改善されているとは思うが、英仏などと比べてマイナー言語に関する学習状況、なかんずく出版状況があまりにもお粗末だという指摘には同感である。とはいえ、中国語など今じゃメジャーもメジャーで、アルメニア語やアゼルバイジャン語やイドに比べたら、はるかにうらやましい状況にはあるのだが……(でも、下には下があって、アムハラ語やグルジア語を勉強している方々はもっと苦しんでいるのだろうが……)。
ところで、今手元にある本には前の持ち主が引いたと思しい赤線がいくつかあるのだが、それが「文法(の意味が英語等と中国語とでは全然違う)」「(中国語と日本語は同じく漢字を用いていても)全く違う」など、「どこに引いてんだ?」というものばかり。恐らく中途半端に手を出して挫折したオヤジかババアか何かがこれを読んで「ほらやっぱり文法ばかりだからダメだったんだ!」と溜飲を下げたつもりで八つ当たりして自分で不機嫌になっていたんだろう。経済発展で「次は中国語だ!」と不用意に手を出したジジイとか韓流ブームで安易にハングルに手を出したババアとかにも同じことをしている連中がいっぱいいるんだろう。で、自分はロクに努力もせずに責任転嫁ばかりしてんだろう。嗚呼……
意外な名著である!(上の中)
荷宮和子のカス本を読んでしまって以来、敬して遠ざけていたこの新書のシリーズだが、まぁ時間も経ったことだし、タイトルに釣られて読んでみた。
最初に出てくる驚異的な日本語ゴミからしてもうクラクラする(「すいばめて」「じゅうじつに日々をおくれた」って何だよ一体? それぞれ「吸い始めて」「充実した日々を……」の意らしい。しかも漢字でないのは原文のまま!)。しかもそれを書いたのは小学生ではなく、高校生なのだ…… ガキはどこまでバカになったのかと、もはや何も言えない。義務教育死す、である。
個人的には、勉強から逃げてこういう障害者同然の、いや人間の尊厳を脅かすほどのバカに自らなったガキに救いの手を伸べてやる必要など全くないと思う。何語もまともにできない状態のまま何とか生存すればいい。というわけで、「ではどうするか」という著者の提言には二三賛同しかねる部分がある。ローマ字化・かな文字化などをせず日本語がこのままの形態を続けるのであれば、習得すべき漢字の量はもう減らすべきではない。これ以上譲歩すれば、それはバカの勝利にしかつながらない。文学や芸術、総じて鑑賞から国語を開放してやるべきだという主張はもっともだと思うが、それが現状追認、要するにジャーナリズムの日本語の全肯定につながるのであれば、それも日本語の貧困化につながる。そしてやはり、不用意な外来語の乱用にはどこまでも異を唱えるべきである。要するに言語は頑固くらいでちょうどいい。現状におもねった「甘い」「やさしい」日本語は一部作家や物書きに任せておけばいい。
著者の提言に「文字からの解放」というものがあり、それはもっと話し言葉に目を、ということでもあるようなのだが、評者の見たところ、話し言葉すらおかしくなっているガキは珍しくない。系統的に発音がおかしかったり、単純に何を言っているのか分からない発音しかできないガキの相手を何度もさせられて往生した覚えがある。だから、今度は同じことが話し言葉でも起こり、最終的には無言語状態のような動物同然のガキが量産される危険性もあると思うのだ。それゆえ、なおさらもう妥協はするべきではないのだ。
最後に著者及び編集者に対する文句を一つ。この書を読んでいる最中、評者は何度も「何度同じことを繰り返せば済むのか! くどい!」と思わされた。そのくらい繰り返さないと分からないくらい昨今の日本人はバカになっているということなのか? それとも物書きや作り手の質も徐々に落ちているということなのか? 著者の単なるスタイルなのか? 最後のであることを願うものだが(だったら「感心しないな……」で済む)……
提言がくどいくらい繰り返される割には今一つ伝わってこないという欠点はあるものの、問題提起としては悪くないと思う。しかし、日本人にはどこまで絶望させられるのだろう(中の上)
はっきり言っておこう。「ゲームのやりすぎはヤバイ」というだけの内容のスカスカ本。とにかく中身がない。評者はそれほど速く本が読める方ではないが、それでもあっという間に読み終わってしまった。著者自身がゲーム脳じゃないかと思ってしまうくらいだ。
それに理屈が色々と付けられてはいるものの、はっきり言ってこけおどし。「何でも脳波」「何でも前頭葉」の域を全く出られていない。正直「こんなので大学教授やってられるの?」と思ってしまった。表現もそのくらい幼稚だ。
そんなこんなで「トンデモ」認定を受けてしまったのも当然だが、これに関しては評者は多少同情する所がある。もちろん「トンデモ」と騒いだのは「と学会」の連中、なかんずく山本弘であるが、これは彼等がゲーマーであるが故に八つ当たりをしたという側面が大いにあると思う(最近の「と学会」、特に山本弘はこの団体をこのような暴力装置として悪用して、自分の気に入らないものを嘲笑する場としている気がして全く感心しない)。こんなことを言うと「いや僕はゲームのやりすぎはよくないに決まっているとはきちんと認めているわけで……」とか言うのだろうが、気に入らないのはそれを健全な方向に利用するのではなく、まるで情報系バラエティー番組の真面目なリポートで笑いを取ろうとする芸人のように冗談でうやむやにしてしまうことだ。山本はゲームが好きか何か知らないが、昨今のガキがゲームのせいで最早ボケ老人同然の状態に堕しているのは明らかに由々しき問題であり、それをギャグのネタにするとはどういう了見だと言いたい。著者の医学能力は疑問で、データもメチャクチャ、それは正しいのだろうが、だからといってガキがそのままボケ老人になってもいいわけがないだろう(そんなガキは山本のSFなど読めない人間になるのである)。新聞やマスコミも齧っただけで大騒ぎしたが、無責任なものである(ひねくれ者の「と学会」連中はこういうことに敏感に反応するものなので彼等の責任も重い)。当時煽り記事を書いた連中はこのスカスカ本を読んだのだろうか。読んでないとすれば詐欺師だし、読んだとすればバカである。
とはいえ、間違った警鐘を鳴らした挙句に事態を紛糾させてしまった罪は重い一冊である(下の中)
有名な犯罪捜査官によるタイトル通りの分析本で、快楽殺人を犯す人間はそもそもどういう人間かということを解き明かしていく前半は目茶目茶面白い。なるほどねと思わされることも多いが、アメリカという国はこういう分析が必要になるくらいこの手の犯罪が起こるということなのか、またそれだけ起こるからこそこういうデータが集められるのか、と全くスケールの違う国である。評者はAVの愛好家であり、性的志向に多大な歪みがあることを自認する人間であるから、快楽犯罪と性的逸脱との関係に関しても身につまされながら興味深く読んだが、つくづく若年教育というのは重要なのだなと思わされる(翻って考えるに、こういうことを明らかにサボってきた日本で、今後この手の快楽犯罪が多発することが予想される。いや、もうそうなっているかもしれない)。
個々の実在殺人鬼に言及した部分もないわけではないが、大半は伏せられており、その辺はややがっかりさせられるのだが、その感覚が徐々に強まってくる後半に入ると、途端にトーンが落ちて退屈になる。一体何が起こったのだろうかとよく見てみると、これは共著であった。多分どこかで担当が変わったのだろう。前半がレスラー氏で、退屈な後半が残り二人でないことを願うものだが……締めくくりに、日本の有名な犯罪心理学者の解説が付いているが、これは全くの無駄。何かあるとこの大先生がしゃしゃり出てくるが、はっきり言ってこの大先生は自分で自分の本を書いていた方が、いやサブカル系の人間と対談していた方がはるかに面白い。
前半は面白いが、それに比べて後半の退屈さは残念(中の中)
タイトル通り、都合約四十人のAV女優さんに著者がインタビューしたものをまとめたもの。卑弥呼が入っているのが、また出版者の名前が今とは違っていたり、今はないビデオメーカーがあったりするのが時代を感じさせる。恐らく現役の女優さんはもうおらず、多分風吹あんな(今はもっと難しい字)と刹那紫之さんが監督として業界に残っているだけだと思う。
AVを愛する者として、AV女優の生態というものには単純な興味があるのだが、さすがに色々とあるのだなと、中々面白く読ませてもらえる。一人くらいは、ごく普通の何の変哲もない家庭で育ち何となくやって何となく引退した、なんてのもいるのかと思えば、一人もいない(もっともそういう女優さんは、載せても面白くないので落としているのかもしれないが……)。全くすさまじい人生を送る人々がこうもいるものだと、しかしそれでも結局AV女優になれば何とかなるのだからやっぱり女って得だなと、えもいわれない。
意外と生々しい話題というのはなく、女優さんたちの人間としての側面が深く描かれていて、タイトルと取材の割には非常に上品な印象がある。著者の才能でもあるのだろう(あとがきで編集者のおかげで読ませる本になったという趣旨のことを書いてはいるが、謙遜であろう)。当たり前のことではあるが、AV女優さんも人間なのだと改めて実感する(翻って、昨今のAV業界はますます女優さんをモノ扱いする、よく言っても「人間扱い」の意味を大幅に歪曲している気がしてならない。AVそのものが地盤沈下しないかと心配してしまうが……)。
「作家」コーナーではないが……;大きい○:小沢なつみ・細川しのぶ・南条レイ・刹那紫之、小さい丸:川村弥代生・姫ノ木杏奈・倉沢まりや・美里真理、「う〜ん……」:宏岡みらい・白石奈津子・中井淳子・片山唯、×:観月沙織里。山口京子はアホすぎる。刹那さんの章は聞き手が悪い。狂乱のス○○ロ美女である彼女の魅力が出ていない。しかし山岡荘八の『徳川家康』を読破した人間がいるとは……
面白い! ずっとこの調子で続けてほしいものだ……(上の上)
この手の英語本もずいぶん読んできたが、まぁひどいものだ……毎度毎度何かしらの期待をこめて読み始めるのだが、満足させてもらえることなど、十冊に一冊あるかないかである。この書物も残念ながらがっかりさせられるものの一つとなった。
要するに「英語ができないとお前ら終わりだ」と騒いでいるだけ。何と言えばいいのか、「ギャーギャー本」とでも呼んでおこう。体験談が色々と書いてあるのはいいのだが、それが向かう先が結局「お前らダメだ!」だから、そして早々にそれが分かってしまうものだから、読み進む気力などあっという間に削がれる。大変な長い間英語で食べてきた人らしいのだが、それに裏打ちされた効果的な勉強方とかが教えてもらえるのかと思えば、全く大したことがない。はっきり言ってサギである。あんたは英語ができるかもしれないが、別の意味で「英語オンチはお前だよ」と言ってやらなければならない。
今後こういう中身のない「英語本」が何千冊出されるのだろうか……(下の中)