CM2S書評2006
その三

小笠原喜康『議論のウソ』(講談社現代新書(2005))

少年非行・ゲーム脳・携帯電話とペースメーカー・学力低下問題について巷間に流布している「議論」のデタラメさ、それがいかに雰囲気に流れたものに過ぎないかを暴き、社会の「議論」のイイカゲンさを突いた小著、とでも言いたいところなのだろうが、一読してこの物足りなさは何なのだろうと思わされる。いや、言いたいことは分かるし間違っているとも思わないんだが、それでも何か……そういう感じから抜けられない。
多分これは、この手の社会批判的な書物にはありがちなことだが、「○○はウソだ」と指摘するのはもちろん結構だしそれはそれでいいのだが、実はこの指摘自体もウソではないかという観点が抜け落ちているせいではないかと思う。著者は「複数の回答を」というのを心情としているようだが、結局それは「それは正しくないし、それに矛盾するこれも正しい」という、要するに「中途半端な懐疑論」の論議に堕するだけにはならないだろうか。そして、評者は懐疑論自体を懐疑論の対象としない「中途半端な懐疑論」を唾棄している。多分、終始感じた違和感はそれに由来するのだろう。
結局、「議論のウソ」が蔓延しているのは自らで知り抜き考え抜くということが足りないためで、それこそが必要なのだが、しかしただの懐疑じゃ、たとえ向いている方向は同じでも、やっぱり足りないのである。

それにしても「こうに決まってる!」の独断論(あるいはそこにすら至らないただの雰囲気世論)対「いやこれも正しい」の似非懐疑という図式しかないのだろうか? まぁそれは哲学がサボってきた結果でもあるんだが……(上の下)


松田卓也・木下篤哉『相対論の正しい間違え方』(丸善(2001))

相対論全般について「間違えながら学ぶ」という趣旨の入門書、ということになるのだろうが、入門書と言うにはかなりレベルが高く(少なくとも「いわゆるブンケイ」にとっては)、はっきり言ってものすごく面倒臭い書物でもある。正直、この書物を読んで評者が得たものは「自分はまだ『間違う』レベルにすら達していない」「今まで自分はただ単に分かったと思っていただけであった」というのが一番大きいと思う。要するにバカを再自覚したという次第であるが、翻って「相対性理論は間違っていた!」と豪語する要するにトンデモさんたちは評者以下のものすごいバカなのだ、と安心するやらできないやら呆れるやら絶望するやら(そんなトンデモさんが理学博士で大学教授を務めているらしいのだから……)複雑な気分にもさせていただけた。
「光速を超える運動はない」「光速は不変である」といった評者も漠然と当然のことだと思い込んでいた誤解が誤解と指摘され認識を改めさせられるのはやはり快感である(知的自虐とでも言われかねないが……)が、肝心の部分ではやはり狐に抓まれた感がやはり付きまとい、どうにもスッキリさせてもらえず(そのイライラもまた別種の快感なのだが……)、まだまだ噛み砕き方が足りないと言わざるを得ない(それが誤解やトンデモが蔓延する原因じゃないかとも思う)。努力の跡は十二分に窺えるので最早「これだからリケイは……」などと今更言おうとも思わないが、もうちょっと何とかならないのかなとはそれでも感じざるを得ない。とはいえ、安易にビジュアルに逃げていないのはいいことだと思う(例えば某科学雑誌Nのようなイラスト至上主義や必ず左側のページがイラスト図解になっているビジュアルバカ向け擬似入門書(評者は「PHP症候群」と呼んでいる)が誤解や思い込みを蔓延させていることへの苛立ちは筆者たちも評者も共有しているようである)。
名指しは避けているがいわゆるトンデモさんたちには筆者たちもかなり頭に来ているようで、筆致は穏やかだが苛立ちが嫌というほど分かる。何度も言及される理学博士大学教授トンデモさんの見苦しさバカさ加減には呆れるのを通り越して殺意を覚えるほどだ。
一つだけケチを付ければ、数は少ないが誤植や編集上の不備がある。特に注が途中で完全に切れてしまっているのは非常によくない。

良書ではあるが入門書として機能するには要求度が高すぎるかもしれない(上の下)


丸山健二『まだ見ぬ書き手へ』(朝日文芸文庫(1994))

著者はもちろん「夏の流れ」や「ときめきに死す」の作者のあのマルケンである。色々と評価は分かれるだろうが、二十世紀後半の日本文学を代表する一人であることは間違いない大作家による、小説家志望者に宛てられた指南書という体裁をとっている。
まずあのマルケンがこんなものを書いてくれているということが驚きであるとともに、さぞかし罵倒糾弾非難に満ちていることだろうと思うと意外に本気で「まだ見ぬ書き手」を待望しているのだなということが分かってなおさら驚く。刺激的なアドバイスの数々にはもちろん同意しかねるものも少なくないが(その辺はやはりマルケンなのであろう……)、本当に文学のことを憂えればこうなるはずだということが実感できて、嗚呼世の中にはこんな人も残っているのだなとホッとするやら、それが恐らく絶滅危惧種同然であろうことに呆然とするやら、ともかく文学に対する希望と絶望を同時に突きつけてくださる。何と言うか(こう言っては多分失礼だろうが)小説よりも小説らしい刺激に満ちている。多分、文学に絶望する度に読むことだろう。
それにしても最早商品に成り下がってしまった日本文学に未来はあるんだろうか…… 日本文学のレベルは低いというのは全くその通りで、例えば源氏物語にしたところで、あの程度なのである。そしてこのままホメロス・ダンテやシェイクスピアに匹敵する、いやそれ以上のものを生み出せないまま(評者の見解では源氏はこれらに匹敵しない)滅びてしまうのだろうか…… というより人類は文学というものを永久に失ってしまうかもしれない…… そんな気分にもなってしまう(この書の後、マルケン自身がその役割を放棄してしまっている危惧もないではない……残念ながら……)。
解説を某有名編集者が書いているが、愚痴をちりばめつつ内容をなぞっているだけでつまらない、どころか、確かどこかに書いた原稿をそのまま使っただけ(どっちが先かは知らないが)で、意外な底の浅さを露呈させてしまっている。やはりその程度のお方だったか……がっかりだ……

失礼だが最近のマルケンの小説よりもずっと面白い。マルケンもそのご絶望してしまったのか、それともいよいよ老けて朽ちたか、それとも他の理由か、それは分からないが……(上の上)


志賀浩二『微分・積分30講』(朝倉書店(1988))

タイトル通り微積に関して三十のテーマに分けてざっと説明してくれているもの。多分、一日一講で一ヶ月という感じでマスターしてほしいのだろうが、『○○語四週間』と同じく、ズブの素人が一月で全部理解するのはかなりキツいと思う(評者の頭の悪さを差っ引いたとしても)。要するに時折説明が鮮やかすぎて何をしているのか一体何が起こっているのかがさっぱり分からなくなったりする。評者など哲学なんていう「分からなくて当然」な学問をしてきただけあって分からないという状況には慣れがあるのだが、途中で放り出した人間はさぞかし多かろう……(実際今手元にあるこの一冊も確か古本屋の百均コーナーで手に入れたはずだ)。どうしてこう何というか「擬似日本語による擬似コミュニケーション」のような状況を平気で作り出せるのだろうか? (くどいようだが筆者は文系理系という区別は無意味だと思っているが)いわゆるリケイの人間ほどこういう状況に鈍感な気がするがどうか? そして、この状況を当然と思って(いや意識すらせず?)いることがリケイの人間に特徴的な「見下す」「バカにする」という態度の原因になっている気がするのだが、どうだろうか?
それはともかく、受験に必要な範囲だけを単なる技法として並べているだけのチャート式その他の教科書・参考書とは違い、微積とはそもそもどのような発想なのか、何のためのもので何に使えるのかという、いわば微積の精神に触れるための良書の一つであることは間違いない。最後に円周率が分数で(近似値という意味ではなく)置き換えられるに至っては単純に感動を覚えた。

多分(としか言えないのが悲しい……)良著であろうが、もうちょっと分かりやすくしてくれていたらもっとすばらしいものになったであろうに(その分分量は増え、説明も面倒臭いものになったかもしれないが)、というのが正直な所だ……(上の上)


GGジョーゼフ『非ヨーロッパ起原の数学』(講談社ブルーバックス)

古代エジプト・バビロニア・中国・インド・アラビアで発展した数学をざっと紹介した大変な労作。よくこんなものが作れたものだ。残念ながら日本についてはそれほど触れられていないが、関孝和の業績についてはきちんと評価されている(よく中学の数学や歴史の教師が「和算は国際的に見てもレベルが高い」(富山県民かっての(笑))「関孝和が世界に認められなかったのは鎖国のせいで鎖国さえなければ……」とか得意げに持ち上げる(らしい)が、実はそうでもないらしい)。
通読してクラクラしてくるのは、こうした非西欧数学の発想の豊かさ・時代的に考えて驚異の完成度と、恐ろしい使い勝手の悪さとが平気で同居していることだ。「こんな時代にこんなことができたのか!」と驚くのはもちろんのことだが、それ以上に、とにかく「何でこんな効率の悪いことをわざわざやっていたんだ!」と何度思わされたか分からない。数学が一部エリートの学問だったのも納得である。もっとも、我々が普通に使っている表記法がない中で(それこそ365を「☆☆☆○○○○○○・・・・・」と書くような世界で)円周率を求めたり三角関数を使ったり、挙句の果ては行列だの微分だの……「何なの?」というすばらしさには呆れるばかりではあるが……(幼稚園児が偶然積分法と同じことをしているのを見て驚くようなものだ)。呆れるほど驚嘆すると共に、数学がこのままでなくてよかったと文明に感謝である。
巷では「小学校では円周率は3」云々と話題であるが、こういう連中は数学を紀元前数十世紀のエジプトにも劣るレベルに引き戻しているのである。これが人類に対する冒涜でなくてなんであろう!

ブルーバックス全体の中でも多分一二を争う労作・名著であろう。こんなの翻訳してたら楽しかったろうなぁ……(上の上)


岡部・戸瀬・西村(編)『分数ができない大学生』(東洋経済新聞社(1999))

評者は哲学科出身だと言えば「文系中の文系」だとリケイの人間なんて即見下そうとするかもしれないが、意外にも数学や物理学の魅力に気が付いたのは大学院時代であるし(ちなみに「科学哲学」なる分野があり、評者が在籍していた大学では幸か不幸かこの分野が割と盛んだった)、本格的に勉強したのはそれ以降であった。高校・学部時代はむしろ数学が苦手だったし、物理・化学は履修すらほとんどしていなかったのだが(現に化学はいまだに一般常識以上の知識はない)、それでも後から勉強するに当たってその頃嫌々ながら無理矢理何とかこなしていた内容がどれだけ役に立ったか分からない。でまた、意外と覚えていたことに自分で驚いたりもしたものだった。もちろん「あの頃に今この知識があれば……」と何度となく思ったのだが……
翻って、この書によると、経済学部では学生に数学の知識がないことで大いに困っているらしい。そしてその原因は、学生確保のために数学を入試から外す大学と、必要なものだけをさせる高校等(何でも、「私立文系コース」なんてところに入ると一切理系科目を勉強しない可能性すらあるらしい…… こんなことしてるから文系がバカにされて、トンデモさんと化した基地外プラズマ物理学教授に「文系が日本を滅ぼす」とか言われてしまうんだよ……)両方にあるらしい…… もう大学入試なんてやめて全員入れりゃいいんじゃないの?こうなったら…… それで勉強しないバカには籍だけ置いてやって「可」だらけの成績つけてやればいいんじゃないの?
そりゃ、日常生活で三角関数の微分だのニュートンリングの縞の数の計算だのをしょっちゅうやる人もあまりいないだろうが、それだったらバルカン半島の歴史だの未来完了進行形だのも不要だということになって、結局学校なんて全部予備校か専門学校になってしまえばよくなるが(評者はむしろそれでもいいんじゃないのかと思わないでもない。少なくとも総合的な学習がどうのこうのだの地域文化がどうのこうのだのアホみたいな水増し授業や、時間と労力の無駄にしか思えない学校行事に時間を取られながら、いじめだの何だのの中で何年間も修行のような日々を送るよりはマシだろう)、それで文化はどうなるのか、あるいはもう文化なんかどうでもよくて日本全体が「日本人養成所」みたいになったらいいのか(それはある意味で日本人全部が奴隷か部品みたいになるってことじゃないんだろうか? つまらないことには軍国主義だー!戦前に逆戻りだー!とすぐ騒ぐ連中が黙ってるのが不思議だ)、ということになるんじゃないのか。あるいはもうそんなことすらも考えられなくなったのか?

何かもう「勝手にやっててよ」って気分になってくるなぁ……そして頼むからバカは黙っててくれないか? そしてどこか我々に関係ない別の場所で何かテキトーなことやっててくれないか?(中の上)


西村和雄『学力低下が国を滅ぼす』(日本経済新聞社(2001))

下で挙げた「ゆとり教育」に関する書物とおなじシリーズの第一冊目(あちらは第二弾)であるが、こちらの方が頭が痛い。今日日のガキやいい大人(大学生・院生ともなればこう呼んでよかろう)のバカさ加減が紹介されていることにも頭が痛くなるものの、もはや驚かない。むしろもっと驚かされるのは、関係者のジジイババアたちや評論家たちの無責任・無能ぶりで、こういう連中はむしろ学力低下してくれた方が何か得をするんじゃないのか、だから放置するどころかかえって煽りさえするんじゃないのか、そんな下種の勘繰りすらしたくなる。特に、有馬元文部大臣のバカさ加減には腹が立つのを通り越して呆れる。一番学力低下というより脳力低下していたのはこのジジイなんじゃないのかと言わせて頂く(もっとも、じゃあマシな文部大臣なんていたかと考えると、そっちの方が暗澹たる気分になるのだが……赤松・森山といったババア大臣は特にひどかった)。他にも、「家内は二次方程式など解けなくても何の問題もなかった」と言ってのけた三浦朱門(こっちは元文化庁長官……そりゃ古墳の壁画にカビも生えるわ……ということは「家内」とは曽野綾子。もうこいつらの小説なんか読むもんか!)など、対策どころか容認、それどことかどうかすると学力低下を推進すらするバカ文化人たちの群れに絶望感を煽られる……(他にも自分が受験を技能試験にした元凶のクセして都合よく学力低下を憂えてみせる和田秀樹とか(金さえもらえば悪徳業者ト○イの広告塔にすらなる無節操ぶりには呆れる)、結局火事場見物的にニヤニヤしてるだけの宮台とか……ああ嫌だ嫌だ)
制度をいじってきた連中もさることながら、とにかく生き残りのために学生を取りたい大学側、結局言うことを聞く人間だけがほしい企業側、自分の無能無策は棚に上げて楽に何とかしたい親のエゴ、といった状況も嫌というほど分かって、これで学力低下を何とかしようとしても、どうにもならないんじゃないの?と絶望したくなるほどである……
それにしても、「えー……」「分かりません」「うぜー」とかブツブツ言うだけで高校に上がり、推薦のテクニックだけで大学に入ったり、受験に数学を全く用いずに工学部に入って、そのまま大学院まで行ったりして、世渡りだけで企業に入り、同じくアホの配偶者とアホな結婚してアホのガキを生んで放り出し…… もう俺自殺したくなるわ…… 誰が悪いとか誰が責任取るかとか、そんなことどうでもいいから、「心のケア」だの「いきるちから」だのましてや愛国心なんてどうでもいいから、九九やアルファベットすら覚えられないバカをとりあえず撲滅しろよ!

もうこの状況は直らないんじゃないの……という気分になった…… それとどこかで「数学をやらせておきながら『算数のできない〜』とか書く著者の学力低下が問題だ」とかスカしたことを書いてた教育評論家もどきがいたが、自分の本より売れて悔しい気持ちは分かるけど、そういう揚げ足取りは無意味じゃないの?(上の下)


竹内淳『高校数学でわかるシュレディンガー方程式』(講談社ブルーバックス)

正直「やっぱりね……」というのが感想である……
「量子力学史」「波動関数史」のような部分は分かるけれどもはっきり言ってどうでもいいし(そんなに面白くもない)、実際に波動関数を解いてみせる部分は分かりにくい。評者は仕事上毎年センター試験の数学くらいは全部解いてみていて毎年ほぼ満点取れる(ただ「時間の問題」はあるが……)程度の能力はあるし、数IIICもある程度は分かるが、それでも十分に理解できた気がするかと言われれば「否」と言わざるを得ない。詰まる所説明が分かりにくく(色々と工夫はしてくれているのだろうが)「置いてけぼり」「勝手に独走」感はやはり終始付きまとい、結局コンピューターのマニュアルを読まされている感覚のようなものを味合わされる。聞くところでは「理系」の人間は「文系」の人間を小馬鹿にしているらしいが、逆のことを言わせていただく。「これだから「理系」の人間はバカなのだ」と。分かりやすい、分かる、とはどういうことか考えもせずにアグラをかいてばかりいるから所詮この程度なのだと。理科離れを招いたのは何のことはない理系の人間だよ。これで分かりやすいと思っているのだから。
と、けなしてばかりいるようだが、今まであった類書に比べれば確かにより分かりやすいし(波動方程式をどう解くか、その概要くらいはよく分かる。どういった難しさがあり、にもかかわらずなぜ重要で、世間のどういう役に立っているか、ということもよく教えてくれる)、ためになる。量子力学にしても波動方程式にしても、その奇矯な側面が強調されすぎだというのは評者も同感で、そういった内容がほとんど全くない(「猫」は言及すらされていない。インド哲学がどうのこうのという箇所はそういうわけで全く余計。何でこんなことを加えたのか理解できない)のは実に気持ちがいい。
それにしてもあのエクセルでまさか波動方程式が解けるとは……思いもよらなかった……

結局はこれを足掛かりに、後はやはり自分でウンウン言いながら悪戦苦闘しないと本当には理解できないのであろう……そういう取っ掛かりとしてはよくできた書物かもしれないが、正直もっと欲張ってほしかった(中の上)


バクシーシ山下『セックス障害者たち』(幻冬舎アウトロー文庫(1999<1995))

一冊下と比べると「何という落差だ!」と思われるかもしれないが、ここはそういう書評コーナーであり、評者はそういう人間である、ということでご了承ください、なんて言うのはお役所や企業の人間みたいで嫌だから、逆手に取ってできるだけ面白がってください、とでも言っておこう。
馴染みのない方々のために念のため説明しておくと、AVには大きく分けて「単体もの」と「企画もの」があり、前者は専ら女優の質で売るもの(普通の雑誌のグラビアに出てくる方々は大体この類)、後者は「何か色々やってる」のを楽しむものである。もちろんその中間形態のような「企画単体」(通称「キカタン」)なるものも存在し(桃井望さんが不幸な亡くなり方をした際に彼女がキカタン出身ということもあり、ちょっと話題になった)、逆に単体女優に企画ものでもやらないようなキツいことをやらせる作品もあり(代表例が「例のバッキーのアレ」とかそういうもの。残りカスのような作品もかなりある。ちなみにいわゆるSMとは似て非なるもの)、そうきれいに分けられるものではないのだが、企画ものの中でもドの付く「何か色々」がもう無茶苦茶になっている作品を専ら作って有名になったのが著者のバクシーシ山下氏である……
内容的にはそうした数々のエグい企画ものの作品を三十強挙げ(AVを見ない方々には「!」かもしれないが、これはそう驚くべき数字ではない。特に売れっ子でなくても出演本数が三桁に及ぶ女優は普通にゴロゴロいる)、監督自身が色々と語るという形式を取っている。企画の内容としては「バッキーの例のアレ」を経た今ではそう驚くほどのこともないが、八十年代後半から九十年代にかけてくらいの作品であろうから、何と言うべきか……大学時代に何本かは見た覚えもある。正直、当時はあまり面白いと思えなかった。『ザ・ショック』とか『デスファイル』とかそういうものにカラミが付いているという風にしか思えなかった。
しかし、著者である監督の話は案外面白い。今はAV業界も大分変わったと思うが、当時この業界に関わった人間のバカさ加減、壊れっぷりには笑えるくらいに呆れさせてもらえる。人間というのは相当エネルギーをつぎ込まないと簡単にこう壊れるものなのだなと実感させてもらえた。逆に言えば、人間何をしても生きてはいける、ということでもあるのか……
『女犯』に端を発するフェミニスト連中との相克(というかそういうババア連中が勝手にギャーギャー騒いだだけ)やビデ倫とのあれやこれやも結構丁寧に語られていて、これには呆れる以前に怒りを覚えた。フェミニズム・フェミニストなんかもう死んだも同然のものだが(世間的には田嶋・くらたま・樋口恵子程度が代表だと思われているのだから……)、所詮立場や主義・組織に染まってしまうと人間は即硬直してしまうという、その典型のような連中に過ぎない。とばっちりを食らう人間にはいい迷惑である(もっとも、山下監督作品は「それでも見たい」というほどのものでもないのだが……)。どこかの離島か何かに女だけ集めてさっさと独立国でも作ってほしいものだ。というか全員死んでほしい。
AV業界に巣食う暴力傾向に関してはいずれ別の所できちんとまとめたいと思っている。

「いい!」と思わされる物言いも案外あって、風変わりなゲテモノ本としてはなかなか楽しめる。しかし「アウトロー」なんて言葉がまだ生き残っているんだな……(上の下)


西村和雄(編)『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』(日本経済新聞社(2001))

結局「ゆとり教育」ってのは誰が支持していたのだろう? 怠け者の教師が休みをほしがっただけじゃないのか、あるいは、頭の悪い無能な教師が表面だけ繕おうとしただけじゃないのか、そんな意地悪なことすら考えたくなる。実に嫌〜な気分になる書物である……
一冊通して浮かび上がってくるのは文科省の無能無策ぶりと、誰が言っているのか無責任でおよそ的外れな「いじくり屋」さんたちの意見の数々(「暗記中心ではなく」と言ってペラペラの教科書を作らせてガキの記憶力を破壊し、「文法ではなく実践的な英語を」とか喚いてはゲームや歌ばっかりで人称代名詞も覚えられないガキを量産する、そして責任は全く取らない、そんな方々)、届かない悲鳴を上げる良心的な現場人と知的廃人と化すガキの群れである。教育業界の末席を汚すものとして怒りを禁じえない。文科省の前で集団焼身自殺でもしようか、などとどっかの半島の人間みたいなことも考えたくなるほどだ。
というわけでとんでもない絶望感を植えつけてくださる一書であるが、参考として紹介されている諸外国の状況が意外と面白い。お隣韓国の教科書の内容が濃いことにも感心したが(平方根の連分数展開は絶対中高のどこかで教えるべきだ)、オーストラリアの受験が徹底的なランク付けに基づくことには驚いた(「偏差値輪切り」とか貶される事態が必ずしも問題ではないということが分かる。まぁ日本人はレッテル貼って総バッシングとか、そういうことが好きだということだろう)。アメリカの受験には印象批評に基づく誤解が数多くあるという指摘には、恥ずかしながら目が覚める思いがする(したり顔で欧米事情を紹介する連中なんて所詮そんなものなんだが……鵜呑みにする我々も悪いんだが……)。お懐かしやクリントン政権下の教育改革案に「銃や薬物のない学校」というのがあるのはお国柄かと可笑しくなるが、酷い学校に対しては廃校処分も辞さないという強硬な姿勢には、やはりこのくらいの真剣さで望まないと教育改革などできないのだろうと思わされる(日本でこんなことをすれば即「管理教育だ!」「戦前への逆行だ!」とギャーギャー言い出す連中が嬉々としてゾロゾロ出てくるのだろう。そしてこういう活動屋を押し切って大鉈を振るう覚悟のある官僚や大臣なんていないのだろう。嗚呼)。中国の事情については文革時とそれ以降が紹介されているが、まるで違う事態に、そして鮮やか過ぎる変わり身に「やはり中国だな……」と思わされる。ただ、中国絡みの章は耳慣れない用語が散発されることもあってか、かなり分かりにくく、ちょっといただけない。

意外と面白い内容だが、こんなアホそのもののキョウイクをしていてこの先日本はどうなるのかと暗澹たる思いにさせられる。というか「暗澹」が読める人間がどのくらいいるんだろうか(苦笑)(ちなみに、どこか他のページで書く機会があるかもしれないが、ガキに「暗澹」を読ませようとすると、とにかく無言無反応、即「分かりません」「忘れました」「知らん」、何かブツブツ言うだけ(「アン……アン……アン……」「えっとえっとえっとえっと……」等々)、デタラメのどれかになり、では「アンタン」とはどういう意味かと訊いても、とにかく無言無反応、即「分かりません」「忘れました」「知らん」、「アンタン?」と言うだけ、何かブツブツ言うだけ、のどれかになるだろう。そんな障害者どころか未熟児同然のガキがゴロゴロいるのである……)(上の下)


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