CM2S書評2007
その1

張明澄『間違いだらけの漢文』(久保書店(1994))

別の所でも書いている通り、筆者は最近まで中国に滞在していたので、中国人とはどういう人種で、どういう習性を持っているのか、多少は分かる。そして、中国人には世話にもなったが、色々と不愉快な目にも遭わされたので、簡単には語れない非常に複雑な感情を抱いている。そしてその感情、それもどちらかと言えば悪い方の記憶を見事に蘇らせてくださったのがこの書である……
そういう人種が全てではないが、中国人というのはとにかくすぐに激昂し、ギャーギャー喚き立てる。そしてそうなると一切話し合いなど通じなくなる。こちらも相手以上にギャーギャー言わないとどうにもならなくなる。そして困ってしまうのは、何かギャーギャー喚いて力説しているのは分かるが、何を言っているのか詰まる所よく分からないという輩も少なくないことで、実はこの書物もまさしくそういう姿勢で最初から最後まで書かれたものである。
とにかく漢文に憤り文句をつけたいのはよく分かるのだが、どうもただ単に感情に任せて罵詈雑言を垂れ流しているようにしか思えない。しかも、これも中国人にはよくいるタイプだが、内容よりも非難の文言の方に凝ってしまって、何を言いたいのか結局分からなかったり、もっと言えば、日本語として何のことかさっぱり分からない箇所も普通にあったりして、何だかその筋の人々にでも言いがかりをつけられているような気分がずっと続く。いくらか建設的な提言等もあるように思うが、副島隆彦とかあの手の連中と同じく、雑音が多すぎてまるで暗号のようになっている。何なのだろうか……

こういう、著者の怒りを増幅して垂れ流すだけの出版物は時折見受けられるが、その一つに過ぎない。何のためにもならなかったどころか、中国でのつらい出来事を思い出して嫌な気分にさせられた。間違いだらけはおまえだよ(下の下)


西成活裕『渋滞学』(新潮選書(2006))

タイトル通りこの新しい学問について広範に解説してくれたもの。「怪獣学」とかそういうサブカル薀蓄がめんどくさい体裁をとっただけのものではなく、きちんと学術の名に足るものとなっている。以前ここでも絶賛した『エントロピー入門』(言うまでもなく『ゼロから学ぶエントロピー』ではなく)に似た読後感を味あわせてもらえた。
仕事上車をよく使うどころか直接運転行に関わるようにすらなってしまった評者でもあるから、日頃渋滞には色々と思う所があるが、そのほとんどの疑問に明快に答えてくださり実に気持がいい。特に「無闇に飛ばすことによって不必要に信号に止められ、それが渋滞になることがある」「ほどほどの速度で走ると信号をうまく抜けられかえって速いこともある」という見解を共有している人々がいることにはひそかに感動した(ただ、「スピードを出させないために意図的に噛み合わせの悪いタイミングで信号が赤になるように制御している節があるんじゃないのか(低速だと通れるというのではなく専ら止めさせるのが目的)。そしてそれが渋滞を引き起こすこともあるんじゃないのか」というところまでは踏み込んでくれず、その辺はじれったい。
これも『エントロピー入門』と同様、社会学や情報学への応用展開についても示唆があるが、これはやっぱり今後の展開を匂わすだけに留まっている感がある。それともう一つ、各章の末尾に箇条書きのまとめのようなものがついているが、何なんだろうか? この学会(業界?)ではこういうスタイルなのか? それともこういうものがないと理解できないほど日本人の知的レベルは落ちてしまったのか?
このような研究に必要なのは横断的な知識(「知」なんて軽薄な言葉は死んでも使いたくない!)なのだが、それを具え持った学者が中々出ないという嘆きは何となく分かる気がする……

名著だ! 実生活に関係のある内容だけにさらに楽しめる(上の上)


岡田尊司『脳内汚染からの脱出』(文春新書(2007))

「脳内汚染」といっても本当の毒物汚染ではなく、ネットやゲームにのめりこむこと、つまり電脳依存症によって人格が破綻するということで、その危険性を切々と訴えた小著である。同内容の書物として以前取り上げた『ゲーム脳の恐怖』があるが、あのインチキ本と比べるのも失礼になるほど内容はしっかりとしておりその分切実でもある。
教育業界の末席を汚させて頂いている評者も、電脳依存による「脳内汚染」でとんでもないバカになったガキの後始末を押し付けられて辟易したことが何度もあるから、この書の内容には身につまされるものがあったが、正直もう手遅れではないかと思う…… 海外はともかく、このままでは日本はボロボロになるんではなかろうか…… そしてその元凶となったゲーム業界は恐らく一切何の落とし前もつけないのであろう。日本人が総バカ化してゲームのクリエーターすらいなくなり業界全体が沈没するまで彼等は気付かないのかもしれない…… 嗚呼……

対策の提言にはやや物足りなさを感じるが(それでなおさら手遅れではないかと思ったのだ……)危機を認識する上ではいい書物だろう。それよりも、巻末のチェックテストをしてみたら、アスペルガーや回避性パーソナリティーに自分自身が丸々当てはまってしまったことの方がショックだ……(上の中)


工藤隆一『力士はなぜ四股を踏むのか?』(日東書院(2007))

タイトル通りの内容を初めとして大相撲に関するあれやこれやを丁寧に解説してくれる好著である。評者はそれほど自慢できるほどの相撲通ではないものの、自他共に認める相撲好きなので、そこらの一般人よりは知識があるつもりではいたが、いや全然知らないものだなと改めて実感した。相撲協会の旧弊を指摘されて本当に切腹した理事長がいる、昭和天皇は突っ張り相撲が好きだった(らしい)ので天覧相撲では意図的に麒麟児−富士桜が組まれた(らしい)、「小結」の語源は不明、などの「ええっ?!」な内容も多く、中々お得である。かつて双子山親方が離婚された際に元配偶者が「部屋の経営は割に合わない」と発現していたのでそうかと思っていたが、実は計画的にやれば十分割に合う、しかし横綱の給料は意外に低い、など思い込みをひっくり返されるのはやはり快感である。
一つだけ欲を言えば、「おっつけ」「かいなを返す」「無双を切る」等は、中継をボーっと聞いていただけじゃ何となくしか分からないので常々きちんと理解したいと思っているのだが、その辺の説明が簡潔すぎ、またよく分からない書き方しかされていないので、もうちょっと何とかしてほしいと思った(それこそ麒麟児さんや舞の海さんあたりが出てきて解説するDVDでもあればいいのになぁ……と常々思っているのだが……)

良書だ。ごく最近出版されたものなので、豊真将などごく最近話題になり始めた力士の話題もあり親近感もある(上の上)


谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』(洋泉社(2001))

「知の巨人」立花隆にバカよばわりされた東大生(その東大にも入れなかった評者なんてバカの何乗になるのだろうか……)による批判本であるが、ロッキード関連等は棚上げして、主に自然科学分野における立花の支離滅裂かつ無責任な物言いをかなりしつこく吊るし上げている。意地悪な検証本によくあるパターンで、ふんだんに引用が盛り込まれた間に批判・非難・罵倒が嵌め込まれているという体裁になっている。こういう目に遭わされたら物書きとして穏やかでいられるわけはなく(立花はそうでもないようだが)、その点は多少立花に同情しないでもないが、その立花の物言いが度を越して、呆れる気も起こらないほどムチャクチャなので、同情する気などあっという間になくなる。逆に、この程度の物書きの駄弁をここまで丁寧に検証する意味があるのかと思ってしまうほどである。以前も立花批判本を取り上げたことがあるが、どうしてこんなイイカゲンな人間が「巨人」などといまだに言われているものだと、厭世感に駆られそうだ。
立花の支離滅裂な物言いの根底にはニューエイジ・ニューサイエンスがあるという分析は中々面白いが、この点はやや踏み込みが足りないように感じて、物足りなさを味わった。立花のニューエイジ好きもどれだけ真剣なものか怪しいもので、そのせいで踏み込もうにもできなかったと取るべきだろうか(ムー一派を批判しようとしても、あるいは田中康夫のイイカゲンさを分析しようとしても、もっと言えば2ちゃんねる連中を論じようとしてもうまくいかないのと同類だろうか…… 評者は以前大川隆法の本を検証しようとしてうまくいかなかった経験もある。イイカゲンなものを真面目に論じようとしてもうまくいかないものらしい)。

それにしても立花隆という人間は何なんだろうか…… 本田勝一といい渡辺昇一といい佐高信といい……何なんだろう日本の言論界……(残念ながら猪瀬直樹の本は読んだことがない)(中の中)


小栗左多里『英語ができない私をせめないで!』(大和書房(2004))

一つ下の書物の著者の日本人妻の方による、英語学習玉砕記とでもいうもの。タイトルからして言い訳で、この書物の最後にも御丁寧に言い訳ばかりでごめんなさいという旨が書かれているものの、個人的に評者は彼女ほど色々と努力していれば偉いと思う。少なくとも努力をしているということに限って言えば、であるが……。要するに努力もせず文句ばっかり言って、そんなこと言う暇があったら勉強の一つでもしろ!と言いたくなるような怠け者の方々がゴロゴロいるわけである。それに比べたらこの著者なんて立派である。努力賞コレクターとでもいうべき面がなきにしもあらずではあるが。
しかし、一つ下の書評でもちょっと触れたが、この期に及んで自分の英語ができないことを学校教育のせいにしようとしているのは、これは責めないわけにはいかない。言っちゃ何だが、このような言い草で「逃げる」方々は、学校の英語教育が無能であることを見抜けず、それでいて全面的に依存しつつ、せいぜい利用すればいいものをそれもできないで、それで後から文句を言っているだけにしか見えない。中高で六年間じっくり英語を学べるということがどれだけ有難くまた有益なものかということが分かれない、分かろうともしない贅沢貧乏だと断定させてもらおう。それに、学校英語が役に立たないのはその通りだとしても、当時の内容をきれいに忘れているのも仕方ないにしても、全く思い出せないというのは、それはやっぱり本人の怠慢なんじゃなかろうか。
それはまぁ措いておくとして、英会話学校の状況を窺える書物としてもこの書はなかなか貴重である。まぁしかし相変わらずイイカゲンな商売が成立しているものだと呆れざるを得ない。中でも最悪なのは、筆者も激怒しているとある英会話学校の校長で、さもありなんという感じではあるが、まだまだこの業界、こういう白人至上主義者が巣食っているんだろうなと思うと攘夷の気持が湧き上がって身体が右側に傾きそうである(まぁ評者は中国人なんていう人種と渡り合ってきて、上には上がいるもんだとさらに呆れた経験もあるんだが……)。

風変わりな英語本として案外楽しめる(中の上)


小栗左多里+トニー=ラズロ『ダーリンの頭ン中』(メディアファクトリー(2005))

多分この書評に登場するのは初めてのマンガで、語学マニアのハンガリー人と国際結婚した日本人女性漫画家による語学や何やかやの薀蓄本。自他共に認める語学キ○○イの評者にしてみれば全体的にはかなり「ぬるい」程度の薀蓄であるが、それでも中々面白い。知的興奮というにはには程遠いものの「あぁこんなことが問題になるんだ」という感じで肩の力を抜いて楽しめるという点ではいい書物かもしれない。
しかし所々でイライラさせられるのは時折出てくる「〜と習った」という言い草で、「だから日本人はいつまで経っても英語ごときできないんだよ!」とムカムカする。中高の英語教育がどれだけしょうもないものかそんなの英語に関われば即刻分かりそうなものだが、国際結婚しておきながら、おまけに英会話学校巡りなんてことをやらかしておきながら、まだ分からんのか! と外野ながら腹が立つ(ま、その続きは一つ上の書評にて……)。
もう一つ、元西洋古典学者から意地悪を言わせてもらえれば、最後に旦那と対談した言語学者はまるで女子高生がナントカ王子でも誉めそやすようにラテン語が好きだとのたまったそうであるが、この大先生がどの程度ラテン語がおできになるのかは分からないが、評者は失笑してしまった。もちろん評者とてラテン語は好きだが、この大先生のラテン語好きの程度がシェークスピア学者によくある程度の勘違いの横好きでないことを願うものである。ラテン語は一見入りやすく出やすいようで、その実底無し沼のような果てしなく奥が深い言語だということを御存知なのだろうか(まぁそう言うとこういう方々は「いや、そんな深遠なレベルのことを言っているのではなくて……」とか天才気取りの中高生の言い訳のようなことを言い出すのだろうけど……)。

まぁしかし外国語に関してこのような気楽に読めて面白い書物があるのはいいことである(中の中)


佐々淳行『謎の独裁者・金正日』(文春文庫(1999/92))

タイトルははっきり言ってウソ。金正日どころか、北朝鮮関連の話題は前半だけで終わり、後は旧ソ連KGBや韓国KCIAとのあれやこれやになってしまう。それなのにこのタイトルはどうかと思う。正直言ってやめてほしい。
とはいえ、旧ソKGB工作員(若干インチキも混ざっているが……)との戦いにまつわる体験談は案外面白い。二十一世紀の今となっては昔話ではあるが、苦労話に同情させられたり、トホホなエピソードに笑わされたり、そもそもスパイ対策がなっていない日本の現状に呆れさせられたり、中々読み物としては読める。とはいえ、フォーサイスとの親交があるのを自慢する割には体験談の書き方がどうもあまりうまくなく、「もっと面白く書けるんじゃないかなぁ……」と何度も残念がらせられた。それにやはり、期待した北朝鮮絡みの話題があまり分量も無く、内容的にもそう大したことはないのはガッカリさせられる。

もっと面白くなったであろうに残念だ(中の中)


Sウェッブ(松浦俊輔訳)『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』(青土社)

フェルミのパラドクス(要するに、宇宙は無限(では厳密に言うとないが事実上そう言ってよかろう)にもかかわらず、知的生命体が我々人類しか見当たらないのはなぜか、という問題)に対する五十の回答を、「実はもう地球に来ていてハンガリー人だと名乗っている」という「その筋」には嬉しくなるものから、「実は本当に我々地球人しかいない」という「おいおい結局それかい」というものまで(著者の結論は結局これに落ち着く……)、一通り論じた労作。著者は博学の度合いが半端じゃなく、正統派の物理学からSFやいわゆるトンデモ本まで、とにかくものすごい量の知識がジャンジャン出てきて、実はあんたこそ宇宙人なんじゃないのかと疑りたくなるほどである(ん? すると、結局「我々しかいない」という結論を導いたのは、実は自分が宇宙人であることを隠すためだったのか?! なるほど! んなこたぁないない(笑))。読みやすく易しく書かれているとはいえ、かなり大部なので、読み通すのは案外骨が折れるかもしれないが、これ一冊読めばかなり知識が増えることは間違いない。この問題に止まらず、天文や宇宙科学についても良書と言える。
ただ、個々の回答が結局どういう理屈であり、どういう理由で退けられるのかという肝心な点はやや分かりにくくなっており、その分、著者の結論はやや唐突に出されているように感じる上に、この結論だけは妙に急いた感じで明らかに書き足りない風に論じられあっけなく終るので(やっぱり著者は宇宙人で、それを隠したいのだ、そうに違いない、わけがないだろ(笑))、読後感は案外悪い。おまけに翻訳も、こなれていない箇所や、明らかに理解できていない箇所も散見されて、その点もちょっと障る。それにこの書名は何とかならなかったのか。まぁでも全体的に見れば小さな傷であろう。無視して読む価値は十二分にある。
蛇足だが、評者は個人的な思い付きを言わせてもらえたら「多分人間並みの知的生命体は割と普通にいるだろうが、良くも悪くも人間並みなので、皆我々が思っているようなことを思い合って『どうして来ないんだろうな』とか手をこまねいている」というもの、つまりこの書の回答で言えば解9もしくは10に賛成である。どこかの異星人が送ってきたパイオニア10号的なものが紀元前二十世紀に大気圏で燃え尽きていたかもしれないし、別の異星人が送信した信号が12世紀に実は届いていたがもちろん返答が無かったので彼等はガッカリして送信をやめてしまったのかもしれない。こういう方が何か楽しい気はする。返す刀で言えば、著者が「我々だけ」という結論から何やらお説教めいたことを言い出すのはあまり感心しない。

面白い! 迷惑なトンデモさんたちに強制的に読ませたいものだ(上の上)


西野友年『ゼロから学ぶエントロピー』(講談社)

訳あって2007年も半ばを過ぎてから突如いまさら始まった2007年版書評であるが、第一号がこんな本で我ながら残念だ、というくらいとてつもなくガッカリしたバカ本。専門バカだかバカ専門だが分かったものじゃない学者バカが無理して面白い本を作ろうとし無様に失敗した残骸の新着に過ぎない。ハーイまた出ましたよ〜、そんな感じしかしないくらい評者はウンザリし呆れている。
しかし、どうしてこういう学者バカの大先生は学習能力というか歴史感覚というかがないのだろうか。今までどのくらいこの手の笑うに笑えない、くだけたつもりで実は崩れただけの無残な入門書が出されたと思っているのだろう。それに自分のお笑い感覚が世間と大幅にずれているということにいつまで気付かないのだろう。嫌な予感がするが、こういう大先生は専門外のものは一切読まず、接触もしようとせず、ごく狭い、開かれた密室とでもいうような奇妙な世界で自己完結しているんじゃないのか。
文句ばかりでこれじゃ書評にならないが(そのくらい呆れさせられるダメ本なのだ。もちろん最後まで読んでないし、読む価値もない。前書きだけで評者は読む気を失った)、要するに大して分かりやすくもなっていない入門書の端々に失笑するのもおこがましいほどの下らないおふざけが散りばめられているだけの最低最悪愚劣な代物、ただそれだけに過ぎない。以前ここで紹介した『エントロピー入門』の方が一万倍ましである。

下らん、の一言(書評以前の問題)


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