CM2S書評
その10

桑原武夫『文学入門』(岩波新書(1950))

下の書物とは別の意味で暗い気分になる。高名な文学者によるまさに文学入門で、そもそも文学というものがなぜ存在し、なぜ読まれ、また読まれねばならないのか、そういうことを真剣に考えている。もう「古典」と呼んでもよいくらい古い著作で、内容的にも古臭かったり時代錯誤だったり前時代のものだったりはするが、「古典」として読み継がれるべきしっかりとした内容を持っていて、読み応えはある(事実、評者所有の一冊はいたる所に線や書き込みがされている)。それは、時代が、誰もが文学というものに対して真剣にぶつかっており、またそれに文学が答えてくれていた、ということでもあり、翻って昨今の状況を見てみると、情けなさに腹が立つやら絶望するやら、この書が書かれた時代がうらやましくなるやら、そういう意味で何とも嫌な気分になってくる。大衆文学を一段見下しつつも一定の評価はしているというのも、つくづく「いい時代だったんだな」と思わされる。意地悪く言えば、文学が「誰も読まない超高級文芸」と「単なる商品のファストフードブンガク」に二分化していく兆候は既にこのような書物にも現れていると言えるが、それは文学が踏み止まれなかったということだろう。文学はもうこのような知的興奮を与えてはくれないのだろうか……というより篆刻か何かのような地味でマニアックな一部の趣味に成り下がってしまうのだろうか……この面白すぎる文学論の先にはそういう絶望的な疑問だけが残っていた。

名著ではあるが、それを読んでこんな感想を抱かねばならないとは、評者も年をとったのであろうか……(上の上)


司馬理英子『のび太・ジャイアン症候群』 (主婦の友社(1997))

愉快なタイトルの書物だが(カバーにはマンガのキャラクターのようなものまで描かれている(さすがに本物ののび太やジャイアンではないが))、それと裏腹に内容は深刻で重い。子供は、学校は、家庭はどうなっていて、これから一体どうなるのだと、暗い気分にさせてくれる。
その暗い気分の一端は、この書物自体からも来ている。心理学や精神分析など所詮科学の名に値しないものだとは評者も常に思う所であるが(個人的には人文科学以下だと思っている)、こういう「心理屋」「精神屋」は本当にしょうがないな…という気分にまたもやさせられた。まず要するに、このような小著を一般向けにまとめる以上ある程度の単純化は避けられないのかもしれないが、結局「何でものび太・ジャイアン症候群」にしてしまう割には、どうなったら「のジ」なのかその判断基準がえらく曖昧で、これはかえって害になりうる(現実に「俺学習障害だから」「俺自閉症だから好きなことするぜ」と怠けるガキはいくらでもいる)。「物理的なものだからしょうがない。悪くない」は結局「怠け者万歳!」にはならないのだろうか。そういう危惧はどうも著者にはないようだ。それどころか、この手の書物の常でもあるが「私たちも○○でしたががんばりました!」というのもしょっちゅう顔を出してきて嫌な気分になる。そして、やっぱり出てくる「○○(大抵誰でも知っている偉人の名前)も「のジ」でした」という「情報操作」(それはあくまで例外であって、大部分の「のジ」は単なる迷惑な存在として一生を終えるであろう)。一体何なのだろう……やはりこういう人々はこうした問題があることを歓迎し、それで食おうとする人々なのか……少なくともこれ一冊では明るい未来は垣間見させてもらえなかった。

今更こういう書物くらいで感傷に浸れるほど評者は単純ではない。せいぜい思考停止の主婦を騙してなさい(下の中)


風間喜代三『言語学の誕生』(岩波新書(1978))

一言で言うと、印欧語比較文法から言語学が誕生する過程を辿った言わば言語学小史であるが、言語学が「蛸壺」になっていく過程をこの書物自体が体現しているという妙な事態にもなっている。というのは、最初三章は結構面白く、続きを期待しながら読み急がされてしまうのだが、第四章に入ると突然内容が退屈になり(要するに「ガクモン」になってしまい)、終わるまでその調子で続く。しかも、第四第五章は、学者がいかに偏見や思い込みから抜け出しがたいものかということも、内容ともども記述自体で教えてくれるので(アグネス=チャンが「中国人はバカですから」と言っているのを聞いている気分だ……)、とてもやりきれない気分にさせてくれる。

『学者バカの誕生』でもある……(中の下)


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