竹内淳『高校数学で分る線形代数』(講談社ブルーバックス(2010))
おなじみ竹内先生のおなじみ「高校数学で分る○○○○」シリーズ、線形代数版
以前このシリーズの「シュレーディンガー方程式」篇を取り上げたはずで、でまた、その時に割りと貶してしまった覚えがあるのだが(今読み返すと我ながら結構酷いことを書いていると思う…すんません…)、そして、「結局頭のいい大センセイはこんなものか…」と結構偏見を抱いてしまったのだが、せめてもう一度読んでみようかと思って読んでみた、というわけ。
今度は案外よく分かれたので、やっぱり分りやすく書いてくれているのだな、少なくとも分りやすくしようとはしてくれているのだな、と、ちょっと印象はよくなった。「固有値」あたりまでは結構分りやすいと思う。
ただそれは、言い方は悪いが、高校程度のおさらいの範囲であって、それを超えると、まだまだ分りにくい… 特に複素数を含む行列から波動方程式へと進む段階になるとガクンとレベルが上がって「置いてけぼり感」がつのってくるので、またしてもモヤモヤした感じで放り出されてしまった、という読後感は残る…(特に「φは波動関数で…」と、その一言だけで放り出され「だからその『波動関数』ってのは結局何なの?」って感覚が結局放置されたまま終るってのは、言い方は悪いが数学版放置プレイだわ…) そこがもうちょっとどうにかなったら、かなりの名著になったと思われるだけに結構惜しい…
あと、竹内先生はこんな調子で「高校数学で分る」シリーズをもう沢山出しているし、多分これからも出していかれるんだと思うが、読むべき順番というか難易度というかがどこかで示されると、特にド素人にはありがたいと思うんだが、どうだろうか?(少なくとも「線形」>「波動方」(誤植だが面白いのでそのままにしてみる(笑))の方が、逆の順番よりも分かりがいいと思う)
「今一つ残念な労作」という感じだな… 取っ掛かりとしてはいいものだと思う(上の下)
タイトルからすると、何と言うか「ああ言えばこう言う」方法が書いてありそうな気がするものの、むしろそういう内容は少なく、というかむしろ全くないと言っていいほどで、勝つための議論をするに当たっての心構えとでも言うべき内容が主になっている。
と言うと、騙された感が漂ってくるが、必ずしもそうではなく、幾分抽象的ながらも著者の示唆は、これはこれで役に立つし、もっともだと思わせてもらえる。ただ、要するに「弱点なども含め、ありのままの自分をさらけ出せ」「相手の懐に飛び込め」「そのために入念に準備せよ」「抽象的に語るのではなく『物語』を話せ」といった内容なので、肩透かしを食らわされたとしか思えない向きも多かろう。著者の経験から具体的な話が多く引かれているのは面白く、ためになる。もっとも、そんな場面に個人的には関りたくないものだし、こんな「日常」は真っ平御免だと思うが…
惜しむらくは、時々何か宗教というか「自己啓発系」の臭いがプンプンしてしまうので、そこは正直ヒく… 特に最後の章はその傾向が強く、ちょっと着いていけなかった。
どれだけ得るものがあるかと言うとちょっと心もとないが、面白くためになったとは思う(中の上)
今更言うまでもない大作家の、今更言うまでもない名ルポを今更というかようやく読んだ。
確か石原慎太郎だったと思うが、同世代の作家で開高健を褒めちぎっていて、それは大いに同感なのだが、このルポもよく書けていて読みごたえがある。例えば朝日系列の別の有名ルポ作家のように初めから確固とした立場があってのことではなく、悪く言えばむしろ行き当たりばったり的に取材されたものらしい節も窺えるので、そこが欠点と言えば言えるが、逆に生々しさを増しているとも言える。死と隣り合わせの日常や、自分たちではどうにもならないものの意向に翻弄されるやりきれなさ、といった感情は十二分に伝わってくる。
もちろん、今となっては昔の話で、「あんな時代もあった…」と苦々しく振り返りつつ、平和な現状を有り難がるよすがとなる作品であるが、長く読まれねばならないものの一つかもしれない。
欲を言えば写真が多すぎるのがスカスカ感をかもしているが、二十一世紀の平和な今でも読める好著である(上の中)
子供相手の仕事をしていると、つくづく「どうしようもない動物」だなという気がしてくる中で、それでも何とかやっていくしかないのだが(そして時にはその「どうしようもない動物」が人間らしい存在に変貌するのに立ち会え、その時の嬉しさが一つの支えとなって、徹底的に嫌にならずに済ませてもらえるわけでもあるが…)、そんな評者を絶望へと叩き込んでくれそうな書物である。
「子供は全く悪くない」という主張はよくあるが、ここに収録された事例や、子供等からの意見を見ると、とてもそんな気にはなれなくなる。そして、それはひとりでにそうなった、というかもっと正確に言えば、元々ある欲望・欲求が野放しにされた結果とも、悪い大人がしていることを真似た結果とも言えると思うが、いずれにしても子供はここまで腐りうるというのが、何とも嫌な気分にさせてくれる。
中でも最悪なのは「いじめられる側にも問題がある」という、いまだに繰り返される詭弁で、大人が徹底的にこういう詭弁を粉砕しないから、いやどうかすると助長するから、いじめはなくならないんじゃないのか、と言いたくなる。いや、最近分ったのだが、大人も含め、人間というのは意外と「いじめをやりたい」ものなのだ。だから根絶できないし、人をいじめないなんてくらいでは誉められも何もしないのだ(例えば、偉い「女性学」の大先生は、死ぬまで男性いじめをしたい自分等がみっともなくなってしまうので、いじめが根絶されては困るのである)。何ともやりきれないが、それでも諦めず忍耐強く立ち向かっていくしかない…
それにしても鹿川君事件については、何度見聞きしても、気の毒になる… 風化させてはいけない事件だと思う(中の中)
副題が「赤ちゃん取り違え事件の十七年」とある通りの事件を巡る二つの家族の長く辛い道のりを取材したノンフィクション、なのだが…読んで暗澹たる気分にさせられる…
不幸な事件に翻弄されたせいか、どう見ても人格が歪んでしまった二人の子供には正直ムカつきながらも同情を覚えるが、親の下劣さ、特に仮名で「夏子」とされる母親のバカさ加減には怒りを通り越して殺意を覚えてくる。問題のいくらかは、これら二つの家庭独自の問題というよりは、沖縄という風土が抱える問題に由来するとどうも言えそうなのだが、そしてもちろん沖縄の家庭が全部こうだと言うつもりもないし、是非そうであってほしくないものだが、正直沖縄に対する偏見はちょっと強化されてしまった。所詮こんな連中が住んでいる所なのか、そりゃ色んな問題が片付かないはずだわ、と。偏見なのは進んで認めるし、是非それを覆す機会があってほしいものだが、ともかくそんな気分にさせられたのは事実だ。
親の日記の日本語があまりにもヒドいのが、何とも言えない。子供の一人が、親に教養がないのが辛い、という趣旨のことを語っていて、何となく分るし、同情する…
内容的には何とも気が重い本だが、取材自体はよくできていると思う… しかしバカな女というのは全くどうしようもないものだな… これでも「いやそれは男性社会のせいで…」と言えるか?「女性学」(笑)の偉い先生方よ!(中の上)
確か福田和也だったかと思うが、例えば岩波新書なら高級でゴマブックスになるとゲテモノというのは実は必ずしも当たらなくて逆の事態も多々ある、という趣旨のことを言っていたはずだ。PHP文庫と言えば、出張サラリーマンの暇つぶし用くらいにしか思っていなかった評者も、こんな本が出ているのかとちょっと驚いた。しかも、竹田青嗣みたいにいいかげんな思い付きや思い込みを垂れ流すのでも、「霊言」でもなく、評価の定まった研究者が真面目に書いたものである。御丁寧に索引までつけてある。
しかし、欠点というか面白みのなさ(そう、面白くないのだ…)も、そこに由来しているといわざるを得ない。著者は、「正法眼蔵」一日一訓的な使い方をしてほしいつもりで書いたようだが、そうできる人がいるんだろうか? これじゃ「正法眼蔵」ダイジェストにしか、いやそれ以下にしかならないと思う。評者も実は、「正法眼蔵」はこんなに面白みのない本なのかと思ってしまった。多分それは評者が浅いのだろうが、ともかく、「これなら是非原書を読んでみたい!」という気にはならなかった。
もう一つ不満なのは、「主客未分」とか言いさえすれば、それが実現する、それが事実だ、などと言うみたいな東洋思想の研究家にありがちな姿勢が貫かれていて、しかも返す刀で「西洋哲学は…」とやってくださるものだから、西洋哲学に携わってきた人間としては、反発もしたくなるという点だ。評者が出た大学にも、こういう禅的というか「禅風」な物言いを振り回して「ハイデガーなんて浅いねぇ!」とか豪語していた三流研究者がいたので、それを思い出して嫌な気分に時々なった。
PHP文庫にこんなものが!と驚くだけの本 労作ではあろうが、残念(中の上)
評者は英語を教えることも仕事の一つとしているから、「英語本」もここによく登場するが、「やれやれ…」というものがまた一冊増えてしまった…
一言で言えば「昭和」の遺物である。離れた所からひたすら英文を話させ、聞こえるまでひたすら「ダメ」と言い続けるという、今から見ると異常というしかない特訓を通じて英語を習得した著者は、どうやらそのまんま異常な英語観が身についてしまったらしい。英語を巡る状況にひたすら異を唱え続け、「日本語と英語の関係が分ってない!」と何やら苛立ちをぶちまけまくるのだが、それが詰まる所何であるのかは、最後まで明らかにしてくれない、少なくとも分るようには書いてくれていない。何やら怒っているのだが、何を一体どうしてほしいのかは一向に言わないで、怒りたいから怒っているんじゃないのかとしか思えない女の愚痴を延々聞かされている気分で、嫌な気分になる。英語及び英語教育については賛同できることもちょこちょこ言っては下さるが、結局「だから結局何が問題で何を訴えたいのか」が分らないので、結局憤懣だけが残る。よくある「毒づき英語本」と結局は大差ない。この手の英語人は、なくならないものだな…と実に気分が悪い。
まぁ書かれた時代が時代だからしょうがないと言えば言えるが、いつまで昭和のつもりなんだろうと思う。昭和の教育に昭和的に文句言ってる、という風にしか見えん(下の上)
タイトルとは裏腹に日本人の自死についての書物ではなく、政治的な自滅傾向のことを「自殺」と称して憂えた内容で、明らかに保守派の立場から書かれている。
以前、いいかげんなサブカル研究本が恐らくは責任逃れのために「○○研究会」なる著者名の下に垂れ流されていたこともあって、こういう正体不明の著者はあまり印象よくないのだが、この書物は内容的にそういうものよりもはるかにしっかりしており、読みごたえがある。
何やかやで評者も年をとってしまい、社会や政治の状況を声高に憂えるようなことは、しなくなったというか、できなくなったというか、とにかくそういう憤りを覚えてもそれが何か表立った言動に結びつくこともなくなったのだが、この書から何か訴えるものは感じ取れてしまい、若い頃のような憤りを覚えるというか、二十年以上前と状況があまり変わっていない、どころか余計に悪くなってさえいることに絶望するというか、とにかく色々思う所はあった。
一つ言えるのは、日本人はこうして自分たちや日本全体の行く末を心配し続けているわけで、このような姿勢がある限り、我々はそう壊滅的な事態には陥らない、ということだろう。こんなに「オレ達このままじゃ危ないぞ」と自らに言い聞かせるのが好きな民族ってのも、そうはいないんじゃないだろうか?
とはいえ、やたらに出てくるカタカナ有名人による権威付け、一見博覧強記に見えるが何やら種本の影がチラつくような雰囲気、当時既に価値が否定されていたはずの山本七平=ベンダサンを持ち上げている所、など、「瑕」はチョコチョコとあって、学術的には多分そう価値はないであろうが、竹田青嗣とかの不誠実さに比べると、よほど真面目だ。
一つだけずーっと引っかかったのは「紀元前四世紀ギリシャのディエアルコス」なる哲学者で、全く聞いたことがないし、勘違いとしても誰のことだろう?
読みごたえはある。ここで嘆かれているよりも、昨今はさらに悪い状態だ、というのが何とも言えない… (中の中)
かつて漆器に張られていた紙が戸籍などの再利用で、漆のおかげで風化から守られたその紙から意外にも重要な歴史的事実が分るという、歴史に関心のある筋には面白くないはずがない内容について触れた好著。評者もわずかながら、また西洋ではあるが、古代史に関り、パピルス学などちょっとかじった経験があるから、非常に面白く読んだ。
内容の面白さもさることながら、内容のまとめ方、書き方が上手く、かなり快適に楽しませてもらえる。これが当たり前のことではないのは、この小さい書評ですら「内容的にはもっと面白いはずなのに読むのが苦痛だった」と何度も書かざるを得なかったことからも分って頂けると思う。一般人向けだからこそ、手を抜かず、しかも本質をきちんと伝えた上で楽しませねばならない、という難しいことを実現させねばならないのだ。優れた学者というのは、やはり稀有な存在なのである。
その点これは名著だ(上の上)
おなじみ偉大な日本語学者が、タイトル通り日本語について熱く論じた一冊。
評者は日本語教師の経験もあるし、日本語については人並み以上に考えてきたつもりなので、大野先生はもちろん尊敬している。この小著でも、「日本語は「保存」せねばならない(野放しではいけない)」「ガキを甘やかすな」「文学趣味は「逃げ」である」等々、よくぞ言ってくれた!と何度も思った。怠け者の耳に優しいことだけペラペラ言って人気者になったつもりの大先生方はちょっとは見習ってほしいものだ。他にも辞典に関する薀蓄や、辞典製作の苦労など、面白く読ませて頂いた。
大野先生は偉大な学者ではあるが、件の「タミル語」云々に関しては評者も困ってしまう… それはこの著作にはほぼ全く出てこないが、「は」と「が」の区別について、あまりうまくいっているとは思えない御高説を力説なさる所など「らしいな…」という所はちょっとだけ、あるといえばある…
良著である(上の中)