CM2S書評2013
その2
一年間で「2」かよ…

岩田規久男+サトウサンペイ『嘘ばっかりの「経済常識」』(講談社α文庫)

「一等地の高級店が高いのは地代のせい」「コスト高を価格に反映させるのはよくない」といった「嘘」を嘘だと指摘し、では正しい「常識」とはどういうことであるのかを素人にも優しく解説した「つもり」の本。

と言うと貶しているように聞こえるかもしれないが、必ずしもそうではなく、確かに素人感覚からすると逆接的な主張が並んでいて「えっ?」とは思うが、それは素人ゆえの浅はかさや甘えで(要するに「タダでよこせ!」「楽させろ!」という感覚)、では経済学的には正しくはどうなるかということをまぁまぁ納得させてくださるので、勉強には大いになる。

「つもり」とか「まぁまぁ」とか、チョコチョコ嫌味を言ってしまったが、それには少々原因があって、一つは、特にこの所の後半になると経済学にやや踏み込んだ話になってきて、どうにもちょっと難しい、そしてそれゆえ「何か騙された気がする…」感が拭えなくなってくるのと、もう一つは、その「騙された」感が向かう先が「やっぱり企業側の言い分に依りかかってんじゃないの?」ということにならざるをえないので、どうにもモヤモヤしてしまう、ということである。要するに、結局企業の論理をうまいこと正当化するのがやっぱり経済学なんじゃないの?という感覚が拭えない。それはそれで、また勉強するしかないんだろうけど…

半ばどうでもいいことだが、共著者の「サトウサンペイ」というのは、これは何なんだろう? この程度の、しかもどういう効果があるのか全く疑問の挿絵で共著者になるくらい偉いんですかこの方は? はっきり言って無駄。真っ先にコスト削減の対象にするべきだ。


どうにも「騙された」感が拭えないが、勉強にはなる(中の上)


茂木弘道『文科省が英語を壊す』(中公新書ラクレ)

全くもういつからこういう「あたりまえ」のことをこうして何度も何度も大声で言わなきゃいけなくなったんだろう…と、またまたまたまた…「ハァ…」という暗澹たる気持にさせてくださる書物である…

いや、評者が怒りや落胆を覚えるのは無論この書物の内容ではなく、タイトルにもある文科省で、いつまでこんな下らない「英語教育改革」とやらをやり続けるんだろう…と絶望感に駆られる。多分もうダメなんだろう。文部官僚の子供は私立学校で「ちゃんとした」英語教育を施されているからそもそも関係なく、公立校に行く愚民どものガキはしょーもない英語もどきを「たのしく」身に付けたつもりになればいい、そうとでも思ってるんじゃないだろうか。

恨み言が過ぎた。この書で強調されているのは「コミュニケーション重視」は結構だが、そのために小手先だけの英会話教育などやっても効果薄どころか有害でさえある、ということであり、コミュニケーション重視のためにも従来型のいわゆる「受験英語」は実は役に立つもので見直されるべきだ(もちろんそのままではなく、だが)、という、至極真っ当な主張である。

言うまでもなく、これは「当たり前」のことであり「事実」である。正直、何でこんな当たり前のことを何度も何度も何度も何度も言わなきゃいけないんだろうな…? としか思わん。中学校や、どうかすると小学校で(いや、幼稚園ですら?!)「英語嫌い」とやらになって、後から「ブンポウ中心のキョウイクがー」「もっとカイワをー」とかブーブー言うアホのことなんかもう放っておいて、良心的な教育者は文科省無視で意欲的な子供・青少年を引っ張っていく、そうした方がいいんじゃないのか、とすら思えてくる。


余計なことばかり愚痴ってしまったが、この書自体が好著であるのは間違いない。ただ、文科省の無能愚劣ぶりにはホトホト呆れるが(上の下)


高砂浦五郎『親方はつらいよ』(文春新書)
古内義明『イチローVS松井秀喜』(小学館新書)

『親方』は、一時期色んな意味で注目されていた書物を遅ればせながら読んでみた。著者は言うまでもなくもちろん元大関朝潮の高砂親方で、これも言うまでもなく朝青龍の師匠(当時)であり、時機は一連の騒動の後、最終的に朝青龍が引退せざるをえなくなるちょっと前という所だったと思う。

朝潮と言えば評者の世代には懐かしい人気力士で、実は評者は当時あまり好きな力士ではなかったが、明るい素直な人柄が幅広く好かれていた。この書も、あとがきから察する所インタビューをまとめて作ったものらしいが、彼の素直さがよく出ていると思う。まさにタイトル通りの内容で、力士であること、親方であることの辛さと、それと裏腹の喜びや楽しさが飾りなくよく出ていると思う。相撲好きならば面白くないはずはないと思う。

世間的には「ダメ親方」の烙印を押されてしまって気の毒だが、意外と(というのも失礼だが)しっかり考えているのも窺える。朝青龍があんなことになってしまったのは個人的にも残念だが、この高砂親方が師匠だったからこそ彼のあの奔放な強さが発揮されたのかもしれない、とも思いたくなる(例えば朝青龍が九重部屋に入門していたら、どうなっていただろうか…)。朝青龍についても一般的なイメージは気の毒だが、彼についても「本当は真面目で気弱なんだ」ということが書かれていて、それはそうなのかな…と思わせてもらえる。巻末に朝青龍から一言あるんだが、これがまた面白く、最後にダメ押しでクスっとさせてもらえる。

実は古本屋で『親方』の近くにあって面白そうだったから買ったのだが『イチロー松井』の方は、こっちはつまらない… 何か「そうだったのか!」ということが沢山書いてあるのかと思うと、これがそんなになくて、どうにも肩透かし感が漂う。要するにこの二人の業績をなぞっているだけで、まとめ方は上手いのかもしれないが、今更この二人の足跡をなぞってもなぁ…という感覚しか残らない。要するに「まぁこんなものか…」という範囲を大きく超えるものではない。期待しすぎは失望の元という格言を確認させられた。


明暗分かれたな… 『親方』(上の上);『イチロー松井』(中の中)


小方厚『音律と音階の科学』(講談社ブルーバックス(2007))

おなじみドレミファソラシドはどんな経緯で誕生し、どういう利点や問題点があるのか、またそれへの対処法や新たな試みはどんなものがあり、その結果どんな音楽が生まれたか、を、ピタゴラスに遡る「音学」(<これは評者がある所で使っている「ムジカ」の訳語)からクラシック音楽への流れは無論、ジャズや民族音楽に至るまで広く総覧したなかなかの労作

我ながら悪い癖だと思うが、物事そのものよりもそれに付随するものに好みが左右される所が実は評者は大いにあって、かつて身近に数学と音楽に一家言持った実に嫌な人間がいたせいで、この内容には長いことアレルギーを持ってきたんだが、時間も経ったし、この好著でアレルギー快癒と行けそうだ。数学と音楽の往還が実に滑らかで、しかもそんなに難しくなく(義務教育程度の音楽と高校程度の数学を真面目にやっていればチンプンカンプンではなかろう)、スムーズに納得させてもらえる。この書を経由して色々な音楽を聴いていけば楽しみ方もまた一段豊かになるだろう。特に、ジャスやポピュラーに大きく踏み込んでいるのは、(ひょっとしたら評者の不勉強ゆえにそう思うだけかもしれないが)画期的じゃないかと思う(日本のクラッシック評論もまぁ大概だが、ジャズ評論もまぁヒドい。いい流れを作るきっかけになってほしいものだ)。

読んでいて何度か思ったが、文章や図に書かれている音や曲などが聞けると嬉しいと思った(評者は一応楽譜が読め、無調とかハードなものでなければ楽譜から「ああこういう曲ね」と音をなぞることはできる。しかし周波数で出されると、さすがにそれは無理だ)。以前、本の中に簡易音源が埋め込まれていてそこをなぞるとかすると音が出るみたいな本があったはずだが、今は電子書籍でもっと簡単にもっといいものができるんではないだろうか(逆に言えばそういう方向への発展が遅れているとも言える)。

ちっちゃい欠点だが参考文献を「[22]」とかで表すのがいきなり出てきて、途中まで「何だろう?」と気になった。論文のスタイルとしてはあるかもしれないが一般的ではないと思うので、一言断った方がよかっただろう。


なかなかの労作で好著である これに比べれば…いや、やめておこう…評者をアレルギーにした大先生は未だにあんなこと言ってんのかなぁ…と少し遠い目にはなる…(上の上)


増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社(2011))

伝説の柔道家にして悲劇の格闘家でもある木村政彦の生涯を辞典並のページ数で描き切った巨編。

大変な話題となった書で、だから評者も、あまりの分量にヒきつつも読む気になったのだが、確かに話題になるだけのことはある。色々と問題点が指摘されているのも知ってはいるが、それを考慮しても今の所この柔道家・格闘家の一代史としては決定版であろうし、また日本格闘技史を語る上で欠かせない書物であることは間違いない。もちろんタイトルにある、力道山との確執についても今までにないくらい丹念に検証されまとめられている。

ただ、仕方なかったとはいえ、そこに至るまでが、長い! 長すぎる! 読んでみるとプロ柔道とその失敗>ブラジル>アメリカ>日本プロレス>放浪…という流れを語るのに必要不可欠だったということは分るものの、最初から読んでいくと「何でこんな前時代的な格闘家の伝説を延々読まされるんだ」という感がどうにも拭えない… 柔道家に対するジャイアント馬場の態度が冒頭で先取りされていたりするが、そういった構成上の工夫があればもっと読みやすくなったんでは、と思う。

もちろん、木村政彦の後半生の悲劇は、なかなかに泣ける… 特に力道山対木村戦の映像を格闘家などに見せ感想を聴く段など、痛みが伝わってくる気がする。あまりにも立場が偏っているという批判は当然あろうが、今までは力道山の方に傾きまくっていたのだから、このくらいは仕方ないのかもしれない、というのは評者も情緒に流れすぎであろうか…

突飛なことを言うかもしれないが、大学生でフィールドワークや取材で研究をしようという人間は大いに参考になるんじゃないだろうか、と読んでいる最中何度も思った。特に、スポーツ文化論とかそんな内容で卒論なり何なりをまとめようという人間には、必読書だろう

ネットで検索を架けると「木村政彦はなぜ〜 ラスト」という検索をかける人間が多いらしいので、こんなショボい書評ページを見る人がいるかどうかは分らないが、評者なりの読み取った所を書いておく。なぜ木村政彦は力道山を殺さなかったのか? それは、「負けた」からだ。 色々な意味で… 実は勝っていたが負けたことにされた、というのであれば殺したかもしれない(それでもやらなかったかもしれない)が、経緯や意味はどうあれ「負けた」のは「負けた」のであるから、できなかったのだ… それ以上は各自読んで確かめるべきだと思う


まぎれもない名著だ! この分量に付き合う価値は十二分にある。今後この書を踏まえない格闘技論・プロレス論は紛い物となるだろう それにしても、著者に内在する立場の偏りを加味しても力道山の卑劣さにはえもいわれない… プロレス衰退はこの時点で運命付けられていたのかもしれないとすら思えてくる(上の上の上)


近江誠『間違いだらけの英語学習 常識38のウソとマコト』(小学館(2005))

よくある「子供は文法なんか習わないのにペラペラだから、故に我々も文法なんかやらずに浴びるように英語を聞いていればよい」「日本人独特のカタカナ英語でいいじゃないか」といった類の、英語学習に関する「迷信」を一つ一つ引っくり返してくれる書物。

この手の「迷信」には評者も常々苦々しく思っているので、何とも痛快で気持がいい。その上に、単に英語学習の現状に毒付くだけではなく、著者自身のスタンスもよく固められており、その上に立って論が進められるので、建設的な提案も窺えて、何やら希望が沸いてくる気もする。結果的には従来の学習法に近めのアプローチを勧めることになるので「キーッ!」になる連中も多分多かろうと思うが、そういう連中は彼らの思う通りのことをやってればいいんじゃないかと思う(どれだけ成果が上がるかは個人的には疑問だが)。

ただ、惜しむらくは、その筆者が推し進めるアプローチの背景にある思想が結構難しいものなので、そこで「何かやっぱり『エラい』センセイがオレ達にできないことをやれと言っている」という感覚は、悲しいかなどうにも払拭できない…(そういう意見をあらかじめ想定して、否定してはいるのだが…)。そこがもうちょっと分りやすい形で提示できれば、もっと一般に浸透しやすいものになったんではないかと思う。

内容に関係ないことだが、所々に妙に斜に構えたイラストがちりばめられている。別によくあることだが、何の意味があるんだろうか。何の足しにも全然ならないどころか、評者など不快に感じさえするんだが、経費削るんだったらこういうものをなくせばいいんじゃないのか?と思う。


ちょっと敷居は高いし着いて行くのに体力も要るが好著である。ただ、当たり前のことだが、これを読んだ上で、自分で勉強しないともちろん英語はできるようにはならない(ちょっと嫌味を言わせてもらえれば、学校の英語教師なんてこんな書物すらも読んでない、本当にあのペラペラでスカスカの教材しか読んでない、ってのがゴロゴロいるんであるが…)(上の下)


ヒヤ小林『一ノ矢 土俵に賭けた人生』(ダイヤモンド社(2008))

一ノ矢という力士を知らないという人間は「好角家」を名乗る資格がないと思うが、先日46歳で惜しまれつつ引退するまで現役で相撲を取っていた高砂部屋の名物力士について、ごく親しい人物がまとめた書物

御存知の通り力士としては残念ながら成功しなかった類に入ってしまうだけに(最高位は三段目 ただし序二段優勝二度というのは、これはこれで立派と言える)、横綱などの大力士の半生に比べるとどうしても派手さはないが、その分何と言うか地味ながらもジワジワ来る「相撲愛」が伝わってくる。とにかく隅から隅まで「頭が下がる」この一言に尽きる。

「弱い力士がダラダラやってただけじゃねぇか」という意見もやっぱりあったようなのだが(そしてそれは必ずしも間違いではないし否定する必要もないが)、これだけ相撲一筋に打ち込んだ人生は、立派じゃないかと思う。少なくとも評者はこんな人生はとても送れない。有名な話だが、あの朝青龍がずっと(そして多分今もなお)一ノ矢「さん」と呼び敬意を払うのを忘れないという事実(らしい)は、非常に重い。また、忘れてならないと思うが、こんな人生を可能にした角界というシステムのすばらしさ(こういう側面はなくさないでほしい。他のプロスポーツではまずこうは行かない)と、あまり語られないが若松(元房錦)・高砂(元朝潮(長岡末広))両親方の偉大さも評価されるべきだと思う。

ちょっとだけケチを付けさせてもらえば、ある程度は仕方ないことだが、平均的な相撲好きなら当然知っていることが省略されずにわざわざ書いてあったりして、そこがどうしても間延びしているように感じられるのと、数は少ないが執筆・編集上の不備がチョコチョコあるのとが(四股名が間違っていたり・「粂川」が「条川」になっていたり…)あんまり問題はないが、惜しい。


相撲好きなら必読である! (上の中)


山根英司『高校生のための逆引き微分積分』(講談社ブルーバックス(2005))

評者は仕事としては主に英語中心に教えているのであるが、やはり高校英語でも「こんな言い方があるんです」「この語法はこういう意味です」というのが中心で、「このような場合にどう言うのか」(例えば「空港で乗り継ぎの飛行機に遅れてしまった場合にどう言うか」とか、あるいは「○○について××の尺でまとまったスピーチをする方法」とか、そういうの)ということは残念ながらあまり教えないものであって、それはもちろん残念なのであるが、この状況をそのまんま数学に持ち込んで、しかもしれを解消しようとした、と言えば、この書の存在意義が分るんではないだろうかと思う。現役時代にこういう書物があれば…と思わされる(それ以前にお前は数Tで挫折したんだろうが!という実も蓋もない事実はおいといて…)

とにかく問題解決を中心に説いてくれているので、説明も分りやすいと思うが(「A型」「B型」とかいうのは残念ながらこの書物の中でしか通用しないもので、そう断られているが、是非何かいい名前を付けて、一般的に通用するようにしてもらえたら… と思う)、もっと分りやすくなったんでは?とも思うし(要するに時々着いていけなかった…)、巻末にはパターン一覧みたいなのも付いているが(これはこれで画期的である)、これがもっと網羅的かつ使いやすいものになっていればさらに良かったとも思う。

竹内淳先生と比べるのは不公平なのかもしれないが、竹内先生は何というかひたすら真面目で、多分そういう性格の方なんだと思うが、この山根先生は「〜となるのが今一つ美しくない」「なんてやるのは時間の無駄」「とやってしまうとドツボにはまる」といった言い回しが案外面白く、笑わせてもらえた(笑)


竹内先生のシリーズはアレはアレで進めておいて、個人的には山根先生にも「高校生のための〜」シリーズを出してもらいたいと思った。なかなかの名著だと思う(上の中)


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