宮川俊彦『心が壊れる子どもたち』(角川文庫)
評者は今でも細々とながら教育業界の末席を汚させてもらっているので、教育や児童心理関係の書物もこうして時々読むのであるが、よく感じるというか、もっと言えば辟易するのは「きれいごと」と「お説教」の多さである。「お説教」については一つ下で既にウンザリしていたりするが、「きれいごと」の方は教育関連の書物の方に嫌になるくらい多い。
さて、この書物も要するに「正論」(言い方を意地悪くすればこれも「きれいごと」の一種かもしれない)をひたすら「お説教」している内容なのであるが、これが不思議と腹も立たず、不愉快にもならず、むしろ快適に読めて、逆になかなか感動的ですらある(内容は昨今の子供たちの病的な状態をこれでもかと描き出すという全く気が滅入るものであるにもかかわらず)。
評者もあまりにも不思議な感覚だったので、読みながら何故なのかずっと考えていたが、その理由は一つには表現というか文体の美しさなのだろう。意地悪い言い方をすれば、書き方が実証的ではなく、起こっていることを淡々と叙述するとはいえその切り取り方が情緒的で、要するに「感想文」的なのだが、これはこれでまるで散文詩か、こう言ってよければ予言書か何かのような妙に迫力のある文体になっている。
もう一つは、はっきりと語られはしないが、子供等に対する著者の「愛」がしっかりしているからなのだろう。「教育評論家」や「精神科医」と名乗り「子供の味方です」みたいな姿勢を見せてはいるが、その実自分を売ることしか(要するに金のことしか)考えていない(としか思えない・見えない)輩とは何かはっきりした違いを感じることができる。要するに「憂え」方が「本気」なのだ。
もちろん、所々疑問に思う考えや内容も書かれているし、現状を描き出してそれに対する著者の考えをひたすらぶつけてくるだけで批判や異論の可能性に全く触れてないという点では大いに物足りなさを感じるが、これはこれで「できた」書物ではないかと思う。
それにしても「ヘビを噛む子」「さらに過激になる子供たち」の節に紹介されている子供たちの有様には呆然とさせられる。我々は子供らをこんなになるまで無責任にも放置してしまったのだ。一体誰が責任を取り「治し」ていくというのか。無能無策の弄り魔でしかない文科省にはもう無理ではないのか?
気が滅入る内容ではあるが、それと裏腹のしっかりした読み応えに、何だか妙な感覚を抱いてしまった… 何なんだろうこの不思議な読後感は… (上の中)
最初は要するに著者が推奨する「ネオ・モリタセラピー」の紹介というか宣伝というか、そんな内容で、何か「妙に何かと戦っている(それが何か、またなぜそんなに一生懸命なのかは今一つ読者には判然としないが)」感が漂うのが気にはなるが、これはこれで読める。ただ、既に森田療法の書物をいくつか読んだことのある評者にはあまり新鮮味のある内容ではなかった。
いただけないのは、中盤に入ると症例を色々挙げ、それらに対して完全に「お説教」を垂れ始めることで、評者は何とか我慢して読み進めたが、正直不愉快極まりなかった。しかも、文体が「〜だよ」「〜だね」等々口語に傾いた語調満載で、斎藤美奈子とかの亜種か何かみたいで吐き気がする。「精神屋」には嬉々としてお説教を垂れるのが大好きな種族があるようだが、評者が今一つ森田療法を好きになれないのは、森田療法の推奨者にこの手の人種が多いように思えてならないからだ。
というわけで読後感はすこぶる悪い。森田療法について知りたければもっと他のものの方が多分いい。精神を病んだ人がこの本を読んだら(評者もまぁ「病んで」いる方だとは思うが、もっと深刻な方々のことを念頭に置いて言っている)、そのうちかなりはより病んだ状況に陥るんではなかろうか。
あまり意味のある書物とは思えない(下の中)
おなじみコリン=ウィルソンによる連続殺人史というか連続殺人概論というか、要するにこういう犯罪がどういう社会背景の下で、どういう心理傾向から生まれたかと極めて手堅く説いて見せた書物で、この手の事柄に興味がある人間には必読の書であろう。
著者は網羅したわけではないと断っているが、一般人でも名前を知っているような連続殺人鬼は大体出てくる(例外はペーパーバック版付記でやっと出てくるジェフリー=ダーマーくらいだが、これはこの事件が意外と最近の出来事であることによる)し、評者も初めて知る殺人鬼が何人も出てきて驚くやら気が滅入るやら…である。
日本の連続殺人鬼についてはほとんど触れられていないが、例外が何と連合赤軍で、当時世界的にインパクトのあった出来事だったのだな、とえも言われない感覚を抱かされる…
さて、こうした身の毛もよだつ殺人鬼たちの背景と心理であるが、要するに、豊かな社会が成立して初めて成り立ったと言える犯罪であり、安定した社会と権利の保護が一通り成立した結果、必然的に(という言葉を著者は使ってはいないが、そういうことだろう)誕生したのがこうした犯罪であるということらしい。
そして、こうした犯罪者の心理分析もなかなか鮮やかなものだが、それも要するに、こうした安定した豊かな社会の中で肥大した「わがまま」によるもの、ということらしい。
もちろん、我々はこうした犯罪者は何か決定的に我々とは異質な人間だと思いたいのが人情であろう。無論、著者もこうした犯罪者たちやその心理・環境の異常さを否定しはしないが、方や、基本的に我々と「地続き」なのであり、我々の中にも彼らに通じるものはあるのだと、きわめて説得力を持って指摘されていて、なかなかに気が滅入る。
こうした事件の捜査というものがどういう形でなされ、どういう風に発展して成果を上げてきたかということもわりに細かく紹介されていて、その点も面白い。
ちょっと人前で読むには気が引ける書物ではあるし、もちろん内容は気が滅入るものでもあるが、この手の内容に興味がある向きには必読、というか、これを読まずに通を気取るのはモグリだと言っても構わないほどのものであろう(上の上)
なんてものを読んでるんだ?!と言われるかもしれないが、実はこれ、ずっと読みたかったものなのだ(ただし、100円以上払う気はなかったので古本屋で100均コーナーに並ぶのを待っていた)。と、いきなり嫌味を言わせてもらったが、そう、この書も実に「嫌味ったらしい」。その点では実に不愉快な書物である。
一読して目に付く表現が「戦略的」「明らかにした/しておきたい」「快楽」だが、要するに「本質はどうあれ叩ければいい」という態度で「自分たちのしてきたことは全て、あるいはほとんどが正しい」と声高に叫んで「嬉々とする」のがフェミニズムである、どうやらそういうことらしい。そして、評者のような感想には「男性中心主義による根本的な誤解」「何の根拠もない妄想」と言っていればそれで済む。そんなレベルの思想ですよ、ととられてもこれではしょうがなかろう。
いや、フェミニズム小史としては結構よくできてはいて、これはこれで面白く読めるし、評者も意外と楽しめたので驚いたくらいなのだが、その反面「これではフェミニズムは発展しまい…」という感想を抱かざるを得ない、というのもまた正直な感想なのだ。
この著者もそういう仕事をしているらしいのだが、ある種の大風呂敷思想家のように哲学史全体を「男性中心主義」とブッタ斬って糾弾することに嬉々となるフェミニストもあるらしい。それはそれで意味のあることかもしれないが、往々にしてこういう大風呂敷な仕事をする連中は、では、そういう壮大な仕事をするに値するまで自らの思想を煮詰めているのか?と問われれば全く情けない限りということがよくある。そして、この書を見る限りフェミニズムもそのドツボにはまっている、いやむしろ、はまって何が悪いと開き直っている節すら見える。
まさか、今までの男尊女卑的な世界が悪かったにしても、女の言うことすることは全て正しく、男のいうことすることは全て犯罪同然だ、などと言いたいわけではないことを願いたいものだが(この書の中でそういう思想傾向を非難するフェミニストが紹介されてもいる)、どうもそうなんじゃないのかと思わざるを得ないことが多すぎる。それはこの書に限っても拭い去りがたい。
まず、哲学としての掘り下げ方がまったく浅い。その辺、旧来の哲学思想を「男性中心主義」と切り捨て、フェミニズムを「全く新しい」「唯一無比の」思想と持ち上げることに安穏として「甘えて」いる。 存在論・認識論・論理学などでフェミニズム独自の発想や視点というものが評者は可能だと思っているが、多分、著者含め今のフェミニストたちには無理だろう。とりわけ、日本のフェミニストたちにはあまり期待しない方がよさそうだ。彼女らは、「ジェンダー」「リプロダクション」などの問題にあくまで固執することこそフェミニズムの本道だと信じて疑わず、それを等閑に付してきた哲学史を糾弾する癖に、マルクス・フロイト・フーコーなどを思想的枠組みとしては相変わらず利用し続けて何とも思わない(らしい)のだから。要するに、フェミニズムは全然独立した思想ではなく、しばしば揶揄されるように社会の恩恵は享受しつつ「もっと楽させろ!そうさせない社会は男権主義だ!」と糾弾する寄生虫的ないわゆる「女性様」的態度と同類のものが見える。
同様に、この小著でうんざりするくらい繰り返される「明らかにしてきた」「明らかになった」という表現が象徴するように、フェミニストはフェミニズムの主張が通ることにどうしようもないほどの甘えと浅薄さを持っているとしか言いようがない。通らないのは「男性中心主義」のせいであるというわけだ。もちろん、こんな手段を使えば何でも言える。だからこそ、より慎重かつ自己批判的な視線・態度が必要なのに、彼女らはそれよりも「快楽」とやらに溺れたいらしい。
また、「本質主義」「再生産の論理」などの用語は重要であるはずなのに完全に説明不足で、何を主張したいのか今一つ分からない。「シスターフード」「ニンフォルマニア」など、哲学徒なら切腹物の間違いを著者自身が犯していることが象徴するように、フェミニズム側からの哲学史解釈には強引かつ浅薄な、言いがかり同然のものも残念ながら少なくなさそうだ(例えば、この書で紹介されているプラトンの解釈はかつてプラトンを専門に勉強していた評者には全く意味不明である。「ソクラテスのフェミニズム的要素をプラトンが抑圧した」なんて読みをどこをどう解釈すればできるのだろうか?竹田青嗣じゃあるまいし)。
とどめに、一部フェミニズムの派閥やフェミニストたちの思想立場は到底正気のものとは思えない。特にメアリ・デイリや、さらにはポストモダンフェミニズムの諸氏の言うことは、これが支離滅裂・意味不明でないとすれば何なんだろうと思わざるをえない(かつて確か井上忠先生が「論理は男性中心主義だからフェミニストは進んで非論理的なことを言うべきだ」という頭の痛いフェミニストがいると紹介されていたが、こいつらか!、と思った)ほどで、評者は思わず失笑させられた。そして著者はそんな連中を批判するどころか褒め称える(ようにしか見えない)から頭が痛い。フェミニズムは男性をも開放する、ということらしいが、こんな連中に解放されてもあまりありがたくはない。
加えて、単なる自分たちの性的志向を絶対化しているだけのようにしか見えない「レズビアンフェミニズム」なんてものがあるそうで、評者はこんな思想は浅薄なだけではなく人類に対する害悪でしかないと思うが、そういう思想ももちろん肯定的に紹介している(その反面、某有名邦人フェミニストにだけは妙に手厳しいように見えるが… 無論評者はその有名フェミニストを擁護したいとはこれっぽっちも思わないので「好きなだけやってれば…」としか思わないが…)。
要するに、ほんのちょっとの可能性と、うんざりするほどの問題点とをフェミニズムというものに対して窺わせてくれた書物であった。いや、そもそも、こんな研究で女性は解放されるのだろうか? 著者はじめ大勢のフェミニストの巨人たちは一体どこを向いて何のために活動をしているのか? 男性ながら心配になってきた… こんな評者の態度を「男性中心主義」と切り捨てて、大学に設置された「女性学講座」(「講座制」!「講座制」なのか!講座制は男性中心主義的社会の産物ではないのか?)に安穏として、持ち上げてくれる学生や身内相手に「活動」して「快楽する」(あまりこんなことは言いたくないが、大学教授がこんな表現使って恥ずかしくはないのだろうか?)だけなら、フェミニズムの未来はあまり明るくなさそうだ。
以前ここで取り上げた「女の本はもうたくさん」じゃなかった「女の本がたくさん」よりはよほど楽しめたが、「これじゃだめでしょ…」感は、評者が男性であることを差っ引いても、否めない。この程度で、現象学やマルクス主義と肩を並べる思想だとか名乗るとすれば、世も末だと言う他はない。果たしてフェミニズムに未来はあるのだろうか… (中の中)
面白い! 長らく昭和天皇のまともな伝記がなかったということ自体驚きだが、一般人にはこれ一冊で十分だろうというくらい内容も濃く、読みごたえがある。もっとも、文庫版あとがきの時点で「昭和61年」であるから、つまり昭和天皇はまだ御存命で、崩御まで書き切られてはいないのだが。
「♪何〜が日本の象徴だ♪」というパンクバンドの人気曲があるが、よく言われるように、「天皇正反対!」とか騒ぐのが大好きなそんな連中も含め、天皇を唾棄する連中よりも昭和天皇の方がよほど人間的で面白く立派である、という感想を見事に強化してくれる好著である(もっとも、それはそれでバイアスというか別種の偏見を持って昭和天皇に接しているということもまた否定できないが、この手の著作で完全公平中立不偏不党というのは無理ではないにしても極度に難しいだろう)。天皇及び皇室絡みのエピソードは大体網羅されていて(ないのは三島事件くらいか?)、昭和史としても面白く読める(評者が個人的に興味を持っているいわゆる熊沢天皇事件や満州国皇帝溥儀との関りについてももちろん触れられている)。天皇の人となりについても比較的深く描かれていて、その点でもなかなか面白い。皇室がなぜここまで日本人に愛されるのか、その理由が分るような気がする。
別の角度から面白く読んだ内容は、皇室・皇族といえど中身は人間なわけで、中にはどうしようもない俗物や愚劣漢もやはりいるのだということと、もう一つはこれは筆者と共に危惧を感じたが、ある時期から皇室が再び「閉じられた」ものとなりつつあるのではないかという不安である。前者はまぁ人間だから仕方ないのかな、で済むが、後者は筆者の不安が的中しているのではないかという嫌な感覚が拭えない。評者は個人的に、天皇一族は立派な方々だと思っているが、再び雲の上の存在にしてしまうのではなく、より国民に親しい存在になってくれればよいと希望したい所だ。
好著である 昭和天皇伝はこの後いくつか出ているらしいが、とりあえずこれがあればいい(上の上)
これもまた期待させられただけになおさらガッカリさせられた残念な書物だ…
タイトル及び全体的な主張にはむしろ賛成する所が多いのだ。評者はたまたまいわゆる帰国子女の比較的多い大学を出ているのだが、そこで「英語ができるだけのバカ」というものの存在を目の当たりにしたので、さらにはカナダ滞在中に「英語ができれば何とかなるはず」「とにかく海外に行けば英語は何とかなるはず」「で、とりあえず来ちゃった」という愚劣な海外志向連中にウンザリした経験もあるので、さぞかし溜飲を下げてくださるのだろうなと期待して読んだ。そして実際にこうしたいわば「英語幻想」を晴らす内容に一応は快哉を叫びたい、それはそれでまた正直な感想である。
しかし、ガッカリさせられたのは、まず新書にしては比較的厚いこの書のほとんどが英語と直接関係のない内容で埋め尽くされている点だ。アメリカ中心主義は愚劣であり唾棄すべきものだ、それはそれで賛成できるし、正しいとも思う。ただ、これは英語に関する本のはずで、それ自体は納得できるとしても、アメリカ非難が延々と続いて、最後に申し訳程度に「英語中心主義も同様で」と付け加えられるだけでは、「騙された感」を抱かれても文句は言えないと思う。それに、アメリカ憎しは大いに結構だが、その勢いがあまりにも強すぎるのか、時々明らかに行き過ぎの主張やトンチンカンな言説も時々見られ(この辺あそこまで愚劣ではないが副島隆彦にちょっと似ている)、それがこの書の価値をさらに下げている。もっと言えば、大抵段落の最後の一文に口語的な言い回しがなされているのは斉藤美奈子みたいで下らない。こんなことをする意味が何かあるのだろうか。
とにかくもっと英語の話をしてくれよと言いたい(中の下)
ちょっとガッカリする書物である。タイトルからして現代文化論なのかと思うと、目次にキケロやモンテーニュの名が見えるので、こうした古来の哲学思想を元に友情を論じたものかと、どうしても期待してしまった、だけに、所詮「ダシにしてこねくりまわしただけ」の全然掘り下げの足りないものだと分った時には、大いに落胆させられてしまった。偏見なのは自分で認めるが、著者の経歴を見てニーチェ読みと分ると「あぁなるほどね…」とちょっと納得した気もする。評者は割と本を書き込みや線や記号で「汚す」方なのだが、ほとんど何も書き込まれず「きれいな」状態の本を見て我ながら「つまらなかったんだろうな…」と思う…
ここまで貶しておいて今更という気もするが、「友情」は哲学的な考察の対象になかなかされないので、「第一歩」としては、そこまで悪いものでもないかもしれない。この「友情」、実は評者が院生・研究者(ごく短命だったが…)時代にテーマにしていたものの一つだけあって、例えば西洋古典期に盛んに論じられていたのと、現代における冷遇具合とのギャップに常々不満を抱いており(「そういうことは個々人の問題であり哲学的考察の対象ではない」「人生論やカウンセリングに任せておけばいい」という空気というか、哲学自体どちらかというと孤独な営みなのでどうしても無視されやすいというか、何かそんな雰囲気があるような気がする)、何とかならないのかな…と思ってはいるんだが、「でも自分じゃ何もしてないじゃないか!」という当然の御叱りには平謝りする他ないとして、こういう考察をする哲学者がもっと出てほしいと思う。「第一歩」には拍手をしたいと共に、「もっとしっかりしろよ!」と無責任ながら叱咤したいと思う。
ささやかな希望と共に、つまらなさに対する憤りを抱かされる。「だったらお前が書けよ!」という当然の御声には「だったら書かせてくれよ!」と一言だけ言わせてくれい…(中の下)
評者は別に英語専門家を名乗ろうとは思わないが、いまだに仕事の重要な部分に英語が関ってくるだけにどうしてもこの手の書物を読むことは多い(返す刀で言えば学校や塾等の英語教師にはこの程度の勉強すらサボっている怠け者が実に多い。でまたしかも、そういう輩に限って「英語教育は〜」だの「そもそも英語というものは〜」だの妙に「雄弁」だったりする(「日本語で」…))。でまた、こんなものを読んでしまったのだが、何というか、英語教育の希望と絶望を両方味合わされてしまった気分で少々複雑だ…。
「希望」の方は、この書から日本の英語教育にはまだ「良心」が残っていると感じさせてもらえることによる。評者の持論もこの路線上にあるので、どうしても系統的な物言いになりがちなのではあるが、この著者も昨今の「会話中心の」「実践的な」(「実践的(笑)」とでも書くか?)英語教育の方針には大反対で、やればやるほどダメになるだけだと説く。しかもこの著者の場合それに理論的歴史的な裏打ちまであるので、さらに説得力がある。「これでも『会話重視』ですかぁ〜?」と言いたくなる気分だ。というわけで実に清清しい。「ざまあみろ!」という感じだ。
さて、「絶望」の方は、いまだにこんな愚にもつかない「会話中心の」「実践的な」英語教育が推進されている、そしてそのために何度も何度もこういう当然の主張をしなければならないということは、まぁ措いておいて、著者の主たる主張の向かう先が、ライティング重視であり、しかもそれは独習が非常に難しい、本気で身につけようと思えば海外に行くしかない、という「じゃぁどうしろと?!」という方向にあるからである…。確かに評者もそれは同感であるが、それにしてももうちょっとこんな身も蓋もない言い方しなくても…と思わなくもない。結局英語を身に付けられるのは「恵まれた人」だけのものなのか…?と…。もちろん、ある程度は独習できる内容も示してくれるので、その辺でも良心を感じられはするのであるが…
あと、著者はいわゆる「チョムスキー一派」の流れを汲む方らしく、その方面から聞こえてくる「雑音」がちょっとある(関係ないことだが、チョムスキー一派の連中は「リベラル」を自認しているはずなのに、対立する学派を徹底的に「潰す」とか都合の悪い研究者を妨害するとか、御大含め実際自分等がやってることはよっぽど「帝国主義的」じゃないのか?)。
いい書物だが、何だか複雑な気分にさせられてモヤモヤする書物でもある…(上の中)
評者は基本的に、世に「名著」と呼ばれているものは読んでおくもんだという感覚を持っている。そんなこんなで、女性論の名著と言われているはずの「シンデレラ」も「一回読んでおいて損はないだろう」というくらいの感覚でフと手に取ってみた。
結論から言ってしまうと、これは名著である。内容的には「フェミニズム」の範疇に入るもので、ということは、時折男性一般への批判非難や恨みつらみも出てこないわけにはいかないから、全編愉快に楽しく読めるわけではなかったのだが、それでも女性論の書物としては「珍しく」よくできている。というのは、この手の書物、女性たち自身にとってすら謎の「女性性」に閉じこもって(色々言訳をして「感覚」のレベルで「自分語り」をしてそのレベルでよしとしてしまうからそうなるのである)、その密室の中から闇雲に男性性を非難するという簡単に言えば「ギャーギャー本」に堕することや、あるいは女性礼賛や慰め合い(というか自己肯定や愚痴の垂れ流し)という毒にも薬にもならないものに留まることがどうにも多いのだが、この書物は掘り下げ方が丹念で(なるほど「いかにも学術書」という感じの注がきちんとついている)時折は苦々しく思わされながらも納得はさせてもらえる。評者を含む多くの男性にとって愉快な読み物ではないだろうが、有益な書物であることに疑いはない。
評者らしい着眼点と言われてしまうかもしれないが、女性という人種の「存在論」(女性というのはどういう在り方をしており、現状の問題点や「理想」は何であるのかという問題)を語った書物として読むと、なかなか面白いかもしれない。つまり、ひょっとしたら「フェミニズム存在論」という研究が成り立つのかもしれない、と思わせてもらえた(しかし、個人的な感想というかを嫌味めいて言わせてもらえれば、これはかなりの確率で「可能性」に留まるだろう。評者の見た所、フェミニズムというのはそこまで理論的深化が進んでいない(別の言い方をすれば「理論にならなくてもいい」という「甘え」を廃せていない)。少なくとも、絶望的に浅薄な日本のフェミニストたちにはおよそ不可能な仕事であろう)。
色々情状酌量をして見ても、どう見ても「シンデレラ」の便乗本でしかない「グッドガール」の方は、見事に悪い見本である。「良くも悪くも自己を甘やかした」というのは確か福田和也がとある女流作家を評した表現だったと思うが、ずっとそんな存在でいたい女性を後押しして何かいいことでもしたつもりになっているだけの、まるで読売新聞や婦人公論みたいなクズ本に過ぎない(体裁はPHPが出してる、暇つぶしにもならないビジネスマン向き啓発書に似ている)。訳者が自己啓発本粗製乱造の大家であり、あとがきにこともあろうか樋口恵子なんぞ(こんな人物が「大家」とされ大学の名誉教授になっているというのが日本のフェミニズムの愚劣さの表れである)が登場するのがこの駄本のレベルを象徴している。そりゃこんな露骨な便乗でもしないと売れないだろう(と言うと「買ったお前はどうなんだ?」と言われるかもしれないが、そう、この二冊は古本屋で並べて売られていたのを評者がまとめて買ったのである)。
格差は唾棄すべきものだが、人間の活動とその成果には「格」というものも厳然と存在するということを実感させてもらえる。 (『シンデレラ』上の中;『グッドガール』中の下)