並木伸一郎『第6の密約』(学研)
「実は地球外生命体は既に地球に来ているのだが彼等は地球人為政者と密かに契約を結んでおり地球人権力者はそれを隠蔽している」という、まぁよくあるUFO陰謀論を扱った「トンデモ本」
「積ん読」になったのを開いてみたのだが、はっきり言ってつまらん。笑い話にできるくらい「イ」ってれば、それはそれで面白いのだろうが、様々な所がテキトーすぎて、笑うことすらできない。こんなものを書いて本にできるとか、何なんだろうと正直思う(評者は学術の世界で活動してきた経験があるが研究書を出版するのは恐ろしい難行なのである。しかも気違いじみた値段のついたハードカバーがせいぜい大学図書館に入る程度の部数売れるだけという有様… それに比べて、どういうことなのか…と現世に絶望したくもなる)。
著者は要するに「そういう」方らしいのだが、とにかくあらゆることが雑としか言いようがない。結構昔に書かれたものなので、外れまくる予言、今となっては失笑物の「超科学」等々、笑うに笑えない内容がありすぎる。著者はこうしたことに一切責任など取らないだろうし、第一書いた内容を覚えているかどうかも多分怪しい。
開始早々出てくる「元素115」絡みの話は、これはこれで違う角度から爆笑である。第116番元素リバモニウムまで認定されている現在では、こんなコケオドシに騙されるのは教養のないバカだけだと思うが(そうあってほしい)、高尚さを悪用したペテンの見本として記憶しておく価値はあるかもしれない。なお、今ザッとウィキペディアで調べてみると、ロバート・ラザー(この方の名前も著者や書物によって一定せず、そこもまた雑だ…)がUFOの燃料と称していたものは「元素116」(つまりリバモニウム)だとされており、こういう所も呆れるくらい雑だ。「どうせわからないんだからテキトーでいいんだよ」って著者の姿勢が垣間見えるような気がしてえも言われない…
「トンデモ本」としてもレベルは低い。「トンデモ」感を味わいたいにしてももっと他のもの、とりわけこの著者以外のもの、をお勧めする(下の下)
「自由からの逃走」などで知られる(と言っても最近はどうだか… 昨今の日本人の知的退化ぶりはそれこそ「シャレにならない」レベルだから…)フロムが「本当の愛」について説いた小著
「神への愛」という章がわざわざ設けてあることからも分かるように無論キリスト教が背景にあるのだが、それを差っ引いても、あまりにも厳しい捉え方に正直引く… もちろん評者とて、昨今は恋愛至上主義に代表されるような「偽りの愛」が氾濫していて世の大部分はそれに毒され「本当の愛」が分からなくなっている、という理解には大いに賛成なのだが、かといってフロムの説く「本当の愛」はあまりにも崇高で厳格で、おそらく彼の説く愛を実践できる人間は今時ほとんどいないだろう(特に現代日本では)と思わざるを得ない。別に世間の「愛」に摺り寄るべきだとは思わないが、これでは「単なる過激思想」「偽装された暴力に等しい」と揶揄されてもしょうがないのではないかと思わざるを得ない。
要するにもっと「柔軟な形」が有り得るのではないか?と常時思わないではいられなかった(例えばフェミニズムという、少なくともある形においては「女性として」という文句の下に自己欲望の果てしない(あるいは「だらしない」)正当化をひたすら目論む思想はこのような厳格すぎる思想を巧みに(本当は「狡賢く」と言いたい)利用するのである。そういった人類の未来にあまりプラスになるとは思えない極端な思想に付け入る隙を与えかねない)。現代的な「愛」が偽装された恋愛資本主義だというのは、それはそれで賛成できるにしても、フロムのような立場は逆に「原理主義」そしてある種のテロリズムに陥りかねないのではないかと思わないではいられないのだ。少なくとも、二十一世紀初頭の平均的日本人にこの書物を強制的に読ませたら、かなり多くは失笑あるいは嘲笑とともに愚弄し無視するであろう(逆に手放しでこの書物を褒め称える人間の方がよほど不気味だ)。
フロムがこの書物の中でフロイトやルターと対決しているのと同様、例えば評者のような人間も何らかの形でこの書、またフロムと対決しつつ、各自なりの「真実の愛」を求めていかねばならないのだろう。そういう方向に押し出してくれるという意味では100%有意義な書物と言える。
評者に賛成と反発を同時に突き付けてくれた、その意味では「正しい」哲学書と言っていい。哲学書というのはこういうものでなければならない、そういう側面は確実にあるので、この書物は少なくともフロムと評者の間においては大成功作である。一言蛇足に嫌味を述べると、かつて評者が大学で出会ったフロムの専門家が実に愚劣な人物だったので、彼は例えばこの書物をどんな風に読むのだろうな?と意地悪い想像も読書中常に脳裏を離れなかった。(上の中)
奇しくも同じような外見の書物が続いてしまったが特に意味はない。しかも、どちらの著者も多言語習得者とは言え、習得した言葉も立場も違うので、タイトルが似ていることとは裏腹にスタンスも内容も全然違うものとなっている。
それをまたひっくり返して恐縮だが、「何かいいコツを教えてくれるのかな」と邪な期待をもって読むと肩透かしを食らうという点では何故か似ている。それどころか、「とにかく習得した外国語の数だけを自慢する」「同族言語は習得しやすいからンヶ国語など容易い」という「自称マルチリンガル」の輩を戒める調子は千野本よりもはるかに強烈なので、そこは「アクが強い」。とはいえ、かつて評者の職場にも「13ヶ国語」を豪語する「痛い人」(しかもこのお方現役大学教授なのだ…やれやれ…)がいて辟易したし、某新書には「40ヶ国語」を標榜するがその実何の役にも立たないクズ本が収められていたりして苦々しく思ったりもするので、ちょっと痛快ではある(が、時にあまりにも苛烈な調子なので少しヒいている自分もいる)。
全体的には「多言語習得のコツ」というよりは多言語習得者から見た外国語学習の諸側面といった色合いが強く、そう思って見ると、なかなか面白いことが色々と書いてある。「文法は重要。軽視するのは浅薄」「発音を学習するのは難しい」といった主張は割と普通だが(でも世にはインチキ連中が蔓延っているので皆こうして繰り返し強調しなければならなくなるわけだ嗚呼)、「同族言語は『横滑り』式に習得できるというのは本当か」「日本人にとって習得しやすい外国語というのはあるのか?」といった考察は多分あまり正面切ってなされることはないと思うのでちょっと新鮮だ。多言語習得者なら誰しも沢山持っているはずの「ネタ」も色々と披露されていて楽しい。
時々非難の調子が妙に苛烈になるのにちょっとヒくが(よっぽど頭にきたのだろうか?しかし評者は著者が非難するようなブログ等にお目にかかったことはないのだが…)、それを無視できれば(気にしなければ気にならないだろう。その辺副島隆彦とかとは違う)楽しい本(上の中)
遅ればせもいいところだが、読んでみた。とはいえ、必要があるものを勉強していけばどうかすると十ヶ国語くらい相手にすることになる分野を研究していたこともある評者であるから、これから何かコツを習得して頑張ろうというよりは、今までやってきたことは果たしてどうだったんだろう?という観点から、どうしてもこの書を読むことになる。
で、その観点からの結論としては、ほぼ「やはり私は間違っていなかった」ということに何とかさせてもらえるらしい。いや、別に地道にやってきただけなんだが(その分時間はかかっている)、やっぱりそうするのが結局は近道になるということらしい。というわけで、タイトルから何か手っ取り早く何ヶ国語もモノにする方法を教えてもらえることを期待しても、あんまり得る所はないであろうことを忠告しておく。むしろ、そのようなお手軽な「近道」を安易に求めることを戒める内容も多く、その点は、ほんの少しガッカリしながらも(いや「やっぱりないのか…」という意味で)、同感である。
とはいえ、「目標と目的が重要で、それを決めずに何となくやっても続かない」「では続けるにはどうしたらいいか」「覚えるべき語彙や持つべきものは何であるか」という、とりあえず目先の役に立つ示唆も豊富なので、それを知ることができる点でも有益な書物であろう。もっとも、「さぁてこれからンヶ国語勉強するぞ!ではそれにあたって気を付けるべきことは…?」なんて姿勢でこの書物を読む変わり者はあまりいないだろうし、既にいくつも外国語を勉強した経験がある方々でこの書物に激しい違和感を覚えるという人間もまた珍しいだろう(某巨大掲示板でせっせと千野叩きに精を出している物好きくらいのもんじゃないか?)。というわけで、評者のような読み方がおそらくこの書物を手に取って最後まで読む人間のおそらく平均的な感想になるであろう。
特に何か爆発的に得る所があるという書物ではないがためにはなるし外国語好きには間違いなく面白い(上の中)
人間とは、常時「投企」することによって自らを超越するものとして自由であると同時に永遠に終わらない存在である、という言うまでもなく実存主義的な立場から、人間の自我、他者との関係、社会とは何であるか、等々を論じた小著。内容的には比較的「ハード」な哲学書であるはずなのだが、割と読みやすく書かれているので、この手の書物に慣れていない向きにも投げ出さずに読めるだろう。
とはいえ、若い頃に実存主義にかぶれていた評者などには懐かしさと共に古臭さも覚えないではいられない内容で、時代も二十一世紀になり、評者もそれなりに年を取った今となってな「フッ…」と思わざるを得ないこともしばしばであった。要するに「あの辺」の人間がいかにも言いそうな内容からほとんど外れていない予想通りのことを良くも悪くも期待通りに説いてくれる。
実存主義哲学は今や完全に過去の哲学として哲学史の文脈で時に嘲笑を交えながら語られるだけのものとなっているのが現状だが、若い頃に「どっぷり」だったことによる「思い出補正」を慎重に差っ引いてもなお、評者はいまだにそう簡単に切って捨てるべきものでもないのではないかと思っている。その点、十分に「実存主義哲学入門」として機能しうるこの書物はなかなかのものではないかと思う。むしろ中高生に読ませるべきものだとも思う(いや…今の若者はこの程度の哲学書に着いていけるだけの知能を持っているのだろうか? それに感想文を書かせたら見事にいわゆる「中二病」全開のものが量産される光景が見えるような気もする…)。何はともあれ、いまだにこんな書物が新潮文庫のカタログに残っているということが驚きでもある(かつてはキルケゴールやヤスパースなんてのも出てたはずだが…)。
惜しむらくは、当時の哲学者の水準と言うべきかボーヴォワール女史の性格(もっと言えば限界)と言うべきか分からないが、過去の哲学を明らかに誤解した上でその「幻の仮想敵」を叩いて満足していることが割に多く、しょっちゅう「ヘーゲルはそんなこと言ってるか?」「ハイデガーはそんなこと言わないと思うけどな…」と首をひれらされた。そして、これは一言言わざるを得ないが、ストア哲学に対する理解は、何か「種本」的なものに頼っているせいなのだと思うが、絶望的に浅く全く同意することができない。
もう一つ、ボーヴォワールと言えばフェミニズム思想の元祖的存在の一人だが、そっち方面の内容を期待するとこっちは全くの肩透かしを食らう。その意味で、訳者が代名詞の女性形をわざわざ「彼女」とか強調して訳しているのは全く余計なことであると思う(どう読んでも単に女性名詞を単に女性代名詞で受けているだけ)。こんなことまでして論調を誘導しようとするなんて「やっぱり女は…」と言われても仕方ないのではないのかこれでは?
とはいえ、実存主義哲学、ひいては哲学一般への入門書としては全く悪くない好著である(上の中)
御存知ドリフのいかりやさんの半生記で、我々世代にとってはまさに神様みたいな人だったから、面白くないわけがないのだが、期待以上に面白い。音楽、お笑い、演技どれにも真剣に取り組んできた人だというのが嫌というほど分って自然と頭が下がる思いがする。バンドマンがこれを読んでもそんなに役に立ちそうな気はしないが(しかし当時のバンドマンの生活をうかがえるとても面白い貴重な資料だと思う)、お笑いを志す人間はこれを読んでなければモグリと言ってもいいんじゃないだろうか、というくらい「濃い」。テレビの怖さを説く一節など、思わず、芸人を目指してなくてよかったと思ってしまった。
ドリフや「全員集合」「大爆笑」の裏話という点は、どうしても期待してしまうのだが、その期待は裏切られないどころか、サービスしすぎじゃないかとすら思える。とにかく「!」という内容の連続で、もう遅いが、いかりやさんが語り部になってこの内容をドキュメントする番組でも作ってほしいくらいだ。
惜しむらくは、「独眼竜政宗」出演時のことなど「もっと書いてほしい」という内容がいくつもあって、どうしてもそこは物足りなく感じてしまった。もちろんこれは贅沢なないものねだりなのだが…
御本人は謙遜されていたがいかりやさんはベーシストとしてもなかなかの腕前で(「ベースマガジン」に紹介記事が載ったこともあるはずだ)、ベースの奏法についても少し触れられている。で、またこれが面白い! ちなみに、ベーシストの間で「イカリヤ」(体操の技みたいだな)と言えば普通は「手の腹で軽くミュートした状態で親指を使って弾く奏法」のことのはずだが、オリジナル「イカリヤ」はちょっと趣が違うらしい。(も一つちなみに、コミックバンド時代のドリフの映像を見ると確かにいかりやさんは親指を使ってベースを弾いているが、これは別にそんなに珍しいことではなく細野晴臣さんなど、このスタイルでベースを弾く人は結構いる。こういう話題になると饒舌になるのはベーシストの特徴だな…)
面白い!これを読まずにお笑いやテレビを語るのはモグリだ、というレベルの書物だ(上の上)