外山軍治「則天武后」(中公新書(1966))
いつかきちんと論じようと思うが、かつて新書と言えばこういう「ワンテーマ」の表題が多かったような気がする。翻って昨今の新書のタイトルを見ると何やらゴチャゴチャしていて何とも歯切れが悪い気がしてならない。「「経費削減」のために単行本で出していたものを新書に回している」という意見を聞いたこともある気がするが、さもありなんと思う。それにやたら「なぜ〜か?」というのが多い気がするのも、今風に言えば「なんだかなぁ」である。
愚痴は措いておいて、これは由緒正しい「ワンテーマ」新書であって、きちんと「則天武后入門」になっているのが何とも頼もしい。
則天武后と言えば御存知「中国史上唯一の女帝」であるが、予想通りの「女らしい」どうしようもなさが全く持って想像通りで、いやそれ以上の無茶苦茶さで、何ともクラクラしてくる。今時「だから女は!」などと声高に言おうとは思わないが、そう言われても仕方ない面があるのは否めないと思う(だから、「女性のより一層の社会進出を!」とか掲げて政治とかに取り組むのも大変結構だが、「やっぱりこれだから女は…」と言われない工夫はもっと必要で、そのためにも過去の反省は不可欠だと思う)。
実は結構古い本なので、再検討と再評価もこの書以降多くなされているとは思うが(「欠点をあげつらわれたのは「男社会」のなせるわざで…」とか「いつもの調子」で賛美されるとすれば、いい加減にしろ!と思うが…(時代錯誤の「婦人公論」とかじゃあるまいし)、一般に碌な事をしなかったとされる則天武后の「功」の方も案外取り上げられていて、その辺の公平さもなかなか好感が持てる。
則天武后と言えば「則天文字」だが、これはそんなに取り上げておられず、そこはガッカリする。というか、全体で多く見積もっても20字くらいしかないらしい… そんなことも教えないとか歴史教育はどうなってんだ?とも思うが(他に何もなく「則天武后は「則天文字」をつくりました」とだけ言われれば、もっとウジャウジャ作ったのかと思うでしょうが…)。
一冊費やしてこの「中国史の徒花」的存在のことを掘り下げられるのは楽しい。やっぱり新書はこうじゃないと…とか麻生元総理みたいなことも言いたくなるもんだ(上の中)
「援助交際」という言葉自体が何となく懐かしい響きを持っていることが今更不思議だが、この忌まわしい「現象」を「売る側」から覗いてみようとしたルポ。
筆者は伝言ダイヤル(これまた懐かしい言葉だ…)を活用して「売る」少女たちに取材して、このルポをまとめたのだが、取材方法や姿勢はいたって真面目かつまともで、「そういう」期待をして読むと肩透かしを食らう。ノンフィクションとしては案外よくできていると思う。
ただ、紹介される少女たちの語る内容は「世も末」の一言に尽きる… 要するに大人社会は金以外の価値基準を彼女たちに示すことができなかった、というより実質的にはそれ以外教えてこなかった、ということなのだろう。そのクセして、彼女らに健全に育成されてほしいなどと願っても、無駄以外の何物でもない(大人が散々イジメに精を出しているのに子供たちだけにイジメをやめさせようとしてもうまくいかないのと同じようなものだろう)。むしろ、にもかかわらず健全に育ってくれた青少年を讃えなければいけないんじゃないのかとすら思えてくる。
もちろん「売る側」の少女たちの言い分はまるで無茶苦茶の暴論奇論である。もちろん、これは「買う」側のもっと最低な大人が存在するせいでもあるんだが、少女らはそれを恰好の逃げ道にしている(これも世の「悪い大人」、もっと言えば「大人の女」、なかんずく母親などから「学ん」でしまったのではないだろうか?)。
それは「バカ」の一言で片づけて関わり合わないように生活していけばいいだけなのかもしれないが、一つ心配になるのは、大人の汚い「論理」を逆手に取って「うまいこと」やってるつもりで、その実もっと強力な「金の世界」に否応なしに巻き込まれる少女が出かねないということで、この書でも少々そんな事例が紹介されている。そしてこういう場合、巻き込まれて一番悲惨な目に遭うのは大抵は一番弱い者なのである(弱みを握られて嫌々「売る側」に立たされた子等々)。自発的に関わって「てゆっかこれも経済行為でしょ?」とかケロッと言ってのける女なんて(古い言葉だが)苦界に沈めばいいと思うが、そうじゃない子供等に関してはやっぱり救いの手を少なくとも常に用意しておかなければいけないんじゃないかと思う。その意味では、「買う側」からのこういう書物があってもいいのかなと思った(もっとも売れないだろうし、読んだらいわゆる「胸糞」になりそうな予感もするが…)。
解説を書いているのが何と河合隼雄だが、予想通り下らない。
内容的には気が滅入るし「売る側」の主張ははっきり言ってアホらしい限りだが、この書自体はこれはこれでよくできていて面白い(上の下)
タイトルそのまんまの内容。著者は毛沢東「お付き」の医師をしていた方で、著者の視点から見た毛沢東やその周囲の人々のあれやこれやが、時にヒくくらい赤裸々に描かれている。
上下巻ともちょっとした辞典並の分量を誇る巨編だが、内容もまぁ気が滅入る…
何と言ってもすさまじいのは下巻に入ってからで、大躍進・文革そして毛死後の四人組時代と迷走に迷走を重ねる中国トップの有様が、これでもかと綴られる。下手な歴史小説は到底この内容には勝てまい。決して読んでいて愉快なものではないが、内容はまさに鬼気迫る。評者はこんな環境で正常な精神状態を保つ自信などない。
毛沢東の愚劣さは日本では比較的よく知られていると思うが、それにしても酷すぎる。同じく、江青の愚劣さ支離滅裂ぶりも、分かっているつもりでも酷すぎる。もちろん、著者がことさらに悪い面ばかり取り上げたり、あるいは「盛って」いる可能性は否定できないが(事実、この書が出版された直後に中国では逆に毛沢東を礼賛する書物が緊急出版されたとあとがきに書いてある)、大躍進・文革という歴史に残る愚策の背景がこれだったと思うと、説得力はある。
しかし…あの大国の頂点に立っていた人間が「こんな」で、「こんな」人間のおかげで何千万という人々が死んだとすると、何とも言えない複雑な気分になる… おまけに「あの国」の有様は、さすがにここまで酷くはないものの、そんなに変わってないんじゃないのか?という気がして、さらにえも言われない…
ふしだらな個人崇拝というのは大体愚劣なものだが、毛の権威に群がる連中のみっともなさ、特に進んで毛に抱かれたという少女らのことを考えると、人間の尊厳とやらは一体どういうことなのかと訳が分からなくなる…(「フェミニズム」の方々はこういう少女らも「男性中心社会の犠牲者」だと言って譲らないのだろうか…)
全く愉快ではない書物だが、読む価値はある。この書の内容が全く真実だという保証はないが、しかし未だにこんな人間を崇拝している中国ってのは、何なんだろう…(まるでどっかの宗教団体みたいだ…)(上の下)
毎度突飛なことから入って恐縮だがちと長い前置きを… 最近ある「文芸批評家」が例によって自分の気に入らないものを貶しているだけ(言うまでもなくこういうのは批評の名に値しない)のミステリー批評本を出していて、その中で、要するにSFは全部まとめて存在意義がないというえらく大雑把な「ヒヒョウ」をしてくださっているのだが、評者はちょうどそれと逆の嗜好を持っている。つまり、SFを読むのは今でも好きだが、ミステリーを読むのはあまり好きではないし、そんなに楽しいと思わせてもらえた記憶がないし、幸か不幸か「こいつは最高だぜ!」という傑作にお目にかかった覚えも「何かあったっけ?」っていうくらいしかない。
いきなり無暗に長い前置きをお許し願いたいが、評者がこのような姿勢に陥る理由の一つは、要するに「ミステリーはノンフィクションに負けている」と思えてならない、ということなのだ。
恥ずかしながら、評者も作家を目指したことがあって、その時に何かの参考にしようと思って、いわゆる「犯罪実録」もののノンフィクションや法医学・毒物などの解説書、果ては実質的に犯罪指南書と言われても仕方のない書物まで結構集めて読んだ。そして、それに比べると、どうしても巷にあふれるミステリーが底の浅い独り善がりのものが多いように思えてしょうがなかったのだ(このサイトの別の所でやっている小説批評コーナーの中にもミステリーは時々取り上げているが総じてそんなに高く評価していないはずだ。むしろ腹を立てていることの方が多いと思う)。
さて、この書物もいわゆる「犯罪実録」気取った言い方をすれば「トゥルークライム」本であるが、別にテッド=バンディだのジェフリー=ダーマーだのヘンリー=ルーカスだのの有名事件を取り上げているわけでもなく、誰も知らない地味な事件ばっかりで内容も痴情のもつれとか金の切れ目とか下らないものばっかり取り上げている。
しかし、いわゆる「鑑識」の面々がどうやってそれを解決していったか、そしてなぜそんなことが可能だったかというプロセスや背景は、無茶苦茶面白い! 「下らない」無駄知識も豊富に盛り込まれていて、中には「これ、悪用する奴出てもおかしくないんでは…」と心配になることもある。
評者は御存知上野正彦先生の死体本、もとい「検死本」と言った方が上品だろうか…、を読むのも結構好きだが、鑑識の方々の苦労と「いい仕事」は海の向こうでも同じようなものらしく、なかなか感心するとともに頭が下がる…(そしてこういう物騒なことに今のところ巻き込まれない自分の境遇に感謝である)
要するに、これ以下のミステリーなど読むに値しない。こういうものを読んでいた方がよほど面白いのだから… これは、科学関連の書物とSFとの関係にも同様なことが言えるのかもしれないが、こちらの場合だと評者は両方とも読むのが好きだ。SFは現実に存在している科学の上を行こうとするものでもあるからだ(もちろんそれが常に上手くいくとは限らないし、初めからそういう方向を目指さない「ファンタジー」などは評者も好きではない。むしろ大嫌いだ)。翻って、ミステリーの作家は実際に起こった犯罪の「上」を行こうとしているのだろうか、たまたま評者がそういう傑作に出会えていないだけなのかもしれないが、どうもその努力が足りない気がしてならない。
余計なことばっかり語ってしまったが、この書物は犯罪実録ものとしては地味だが、それとは裏腹に面白い!(上の上)
たまたまだが、源氏物語を現代語訳した経験のある女流作家による同じようなタイトルの本を続けて読んでみた。円地によると原稿用紙で三千枚ほどになるそうだが、その分量であの読みにくい文章を読みやすく訳してくださった有難い方々であるから、いわば「スピンオフ」であるこの書物もどちらも面白い。知的なダメ人間の特徴として「一次文献そっちのけて二次文献や論文資料ばっかり読む」ってのがあると思うが、そういう輩を量産しそうなくらい内容は濃く面白い。などと嫌味めいたことを言ってしまったが(いや、評者がかつて専門家をしていた哲学なんて分野にもプロアマ問わずウンザリするくらいウジャウジャいるのだ…)、もちろん現代語訳や原文(評者もさすがにかろうじて「桐壷源氏」にならない程度にしか読んではいないが…)を読んだ上でこれらを読めばさらに楽しめよう。
両者とも個性的な作家であるから、特色が出ていて、それがまた面白い。円地本の方は、本当に翻訳の過程で派生した文章をまとめたという感じで、瀬戸内本に比べて分量が少ない上に、内容も強くまとまっているというわけではないが、翻訳者の苦悩を隠さずに披瀝しているので、ささやかながら翻訳や通訳に関わるものとして頭が下がる、とともに、どことなく「上から目線」気味の瀬戸内本に比べて好感が持てる。
と軽く貶してしまった瀬戸内本だが、こちらは初めからこういう書物にまとめようとして書かれたものらしく内容にもまとまりがあるし、分量も多く細かい点まで深く論じてある。解説書的なものを求めるのであれば、こちらの方がお勧めできるかもしれない。ただ宇治十帖についてはあまり興味がないのかあまり触れられていない(逆に円地本は宇治十帖について割と分量を割いて論じている)。
というわけでなかなかよくできた解説書・入門書ではあるが、どうにも今一つ気に入らないのは、寂聴の私的な感情が時に露わになることで、そこがどうにも下品だ。特に、女流作家には多かれ少なかれそんな傾向があるが、男性憎悪・嫌悪的な論調や表現は正直どうかと思う、というか読んでいて不愉快だ(円地にそんな傾向がないとは思わないが、もっと控えめで「上品」だ)。
「なかったこと」にさせないために機会がある毎に書くが、寂聴はかつて、源氏物語はその全部を紫式部が書いたわけではない可能性がある、という見解に対して「女にこんなものが書けるはずがないという男尊女卑的な偏見に基づく誤り」という趣旨の発言をしたことがあるが、無論そのことについては一言も触れられていない。というか作者同定の問題自体を避けている節がある。一方円地は彼女自身の見解を述べている。
と色々言ったが、どちらも良書であることは間違いない。というより、現代日本人のうちどのくらいが源氏物語を通読したことがあるんだろうか?と別の方向に何かしみじみしてしまった…(どちらも上の中)